聖書理解の助け ― 雄牛
「知恵は主要なものである。知恵を得よ。自分の得るすべてのものをもって,悟りを得よ」― 箴 4:7,新。
雄牛。ヘブライ語の「パル」をはじめ,原語の幾つかの言葉が,英語の「ブル」(雄牛),「ブロック」(去勢牛),「カーフ」(子牛),「オックス」(牛)などさまざまに訳されてきました。現代の英語の用法で「オックス」という語は特に去勢された雄牛を指すようになりましたが,多くの英語訳の中でしばしば「オックス」ないし「オクスン」(複数形)と訳されている原語の言葉はこの限定された意味に解すべきものではありません。その勢力をそいで荷役獣とするために雄牛を去勢することは一般に行なわれていたことでしたが,明らかにイスラエル人の間でこの手法は採用されていませんでした。肢体を切り取って不具にした動物は犠牲としてささげることができなかったからです。(レビ 22:23,24。申命 17:1。列王上 19:21,新,参照)そのため,イスラエル人が利用したのは性質のおとなしい品種だったのではないかとも考えられています。
牛類の雄は多くの異教民族の宗教において際だった地位を占めていました。その大きな力のゆえに,あるいは多くの子を生み出す種牛としての能力のゆえに雄牛は尊重され,崇拝されさえしました。バビロニア人は雄牛をその主神マルドゥクのシンボルとしました。エジプトではメンフィスのアピス,ヘリオポリスのムネビスなど,生きた雄牛が神の化身として尊崇されました。ギリシャではディオニュソス崇拝と雄牛とが密接なつながりを持っていました。雄牛のタウルスが十二宮の主な記号の一つとなっていることも,異教において雄牛に重要な地位が与えられていたことの証拠です。
出エジプトのすぐ後に,イスラエル人さえ,恐らくはエジプトにいた間に接した宗教概念による影響のために,エホバの栄光を「雄牛の表象」と置き替えました。(詩 106:19,20,新)後に十部族王国の初代の王ヤラベアムはダンとベテルに子牛の崇拝を創始しました。―列王上 12:28,29。
イスラエルに対する神の律法によると,雄牛その他どんな動物に対しても,単なる表象として行なう場合であれ,いっさい崇敬の行為をしてはなりませんでした。(出エジプト 20:4,5。出エジプト 32:8,参照)もとより雄牛は犠牲としてささげられ(出エジプト 29章。レビ 22:27。民数 7章。歴代上 29:21),特に雄牛をささげるべきことを律法が明記していた場合も幾つかありました。大祭司が罪を犯して民を罪のもとに置いた場合,大祭司は雄牛をささげることを求められていました。この最大で最も高価な犠牲動物は,イスラエルにおける真の崇拝の指導者としての大祭司の責任ある地位にふさわしいものであったのでしょう。イスラエルの全会衆が間違いを犯した場合にも雄牛をささげなければなりませんでした。(レビ 4:3,13,14,新)贖罪の日にはアロンの祭司の家のために雄牛がささげられることになっていました。(レビ 16章)毎年,その宗教暦の7月にイスラエル人は70頭を超える雄牛を焼燔のささげ物としてささげるように定められていました。―民数 29章。
イスラエル人は,耕作や脱穀など,農作業のためにも牛を用いました。(申命 22:10; 25:4)こうして使役する生き物は優しく扱うべきでした。使徒パウロは,脱穀している牛にくつこを掛けてはいけないという律法の原則を神のクリスチャンの僕たちに当てはめて,働いている牛にその脱穀している穀物を食べることが許されたのと同じく,他の人に霊的なものを分かち与える人がそれによって物質面の備えを受けるに値するという点を示しました。(出エジプト 23:4,12。申命 25:4。コリント第一 9:7-10)牛を盗んだ場合,また放たれていた牛が人の身体や財産に損傷を加えた場合についても規定が設けられていました。―出エジプト 21:28-22:15。
イスラエル人が犠牲としてささげた雄牛は,人類の罪を覆うことのできる唯一の犠牲である,キリストのきずのないただ一度のささげ物を表わしていました。(ヘブライ 9:12-14)犠牲の雄牛はまた,さらに勝った犠牲,いつどんな状況のもとでもエホバが喜ばれるもの,すなわちくちびるからほとばしり出る実が生気あふれる若い雄牛のように神の名の賛美に用いられることをも表わしていました。―詩 69:30,31。ホセア 14:2。ヘブライ 13:15。
聖書の象徴表現の中で,雄牛は力と強さを表わすものとして用いられています。ソロモンの神殿の前にあった鋳造の海は3頭ずつ四つの基本方位に顔を向けた12頭の雄牛の彫像の上に置かれていました。(歴代下 4:2,4)預言者エゼキエルが幻で見た四つの生き物は兵車にも似たエホバのみ座に伴っており,その各々に四つの顔があって,その一つは雄牛でした。(エゼキエル 1:10)使徒ヨハネの見た幻の中でも,み座の周りにいる四つの生き物のうちの一つは若い雄牛のようでした。(啓示 4:6,7)こうして雄牛はエホバの基本的な属性の一つ,すなわちその限りない力をよく表わしていると言えるでしょう。「力は神のもの」と詩篇作者は言明しています。―詩 62:11,新。
聖書の中で雄牛はエホバとその崇拝者たちに敵対して攻撃をしかける人々,すなわち神の僕たちを隷属させあるいは滅ぼすことを求めながらエホバの報復の日に自ら滅ぼし絶やされる人々を表わす比ゆともなっています。―詩 22:12; 68:30。イザヤ 34:7,8。エゼキエル 39:18。
野牛
ヘブライ語「レエーム」は「野牛」と訳すのが良いようです。非常によく似たアッカド語の言葉「リーム」がこの動物を指しているからです。アッシリア芸術に見られる「リーム」の姿は,この生き物が,肩の高さで1.8㍍もある牛科の巨大でどう猛な動物,ヨーロッパ野牛と同じものであることを示しています。この強大な生き物の遺がいはヨーロッパ各地で発見されていますが,それがかつてパレスチナにも生存していたことはレバノンの洞くつからその歯が発見されたことに示されています。古代人はこの野牛を非常にどう猛な生き物とみなしたようです。英国の考古学者オーステン・レイヤード卿は「ニネベとその遺跡」326ページでこう述べています。「野牛は,浅浮彫りにしばしば描かれている姿から言えば,ライオンにほとんど劣らぬほど手ごわく高貴な獲物とみなされていたようだ。王はしばしばそれと闘う姿で描かれ,戦士たちは馬に乗る者と徒歩の者が共にこれを追跡している」。
野牛が飼いならされた雄牛の最大のものよりさらにずっと大きく危険な動物であったことは,ユリウス・カエサルの「ガリア戦記」(デ・ベロ・ガリコ)にある次のことばにも裏書きされています。「それは大きさの点では象にやや劣る。その性質や色や形は牛である。その力は強大,すばやさの点でも驚くべきものがあり,自分の見かけた人間や獣を逃がすこともない。……ごく子どものうちに捕らえても,人にならしたり従わせたりすることができない。角の形と質,取りわけその大きな広がりは我々の牛類の角とは大いに異なっている」。
聖書の中には野牛の種々の特性に言及する部分が多くあります。その御しにくい性質(ヨブ 39:9-12),敏しょうさと無敵さ(民数 23:22; 24:8),大きな角の持つ力(申命 33:17。詩 22:21; 92:10),その幼獣の軽快さ(詩 29:6)。野牛はまた,エホバに敵対して容易に制御に服さぬ者たち,そのゆえにエホバの裁きを受ける者たちをも表わしています。―イザヤ 34:7。
律法の規定にしたがって食べてもよい動物に関連して申命記 14章5節に「テオー」というヘブライ語が出て来ますが,これは「野牛」,「れいよう」,あるいは「野羊」など様々に解釈されています。