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目ざめよ! 1990
目90 7/8 16–19ページ

闘牛 ― 芸術か,残虐行為か

スペインの「目ざめよ!」通信員

ルシオはその時19歳でした。セビリアは春で,有名なマエストランサ闘牛場は満員でした。しかしルシオは,牛が猛然と向かってきた時にほんの少し近寄りすぎました。恐ろしい角が彼の右目をえぐったのです。

退院してから3か月間,ルシオはたゆまずケープさばきの練習を続けました。片目を失っても,一生の夢をあきらめるつもりはありません。夏の終わりには,セビリアの闘牛場で闘いを再開し,勝利を収めて闘技場を後にしました。「あれはかけだった。しかし,闘牛とはそういうものなんだ」と,ルシオは言いました。

作曲家や作家,映画製作者などは,闘牛士の華やかな姿から創作のヒントを得てきました。スペインやメキシコを訪れる幾百万人という観光客が,闘牛を見なければ物足りなく感じるのは恐らくそのためでしょう。

しかし,闘牛場を埋め尽くすのは観光客だけではありません。有名なマタドールが出場するときには,闘牛に詳しい幾千幾万という地元のファンが,マドリード,セビリア,メキシコ・シティーなどの名高い闘牛場にやって来ます。闘牛ファンにとって,偉大なマタドールはゴヤやピカソにも匹敵する芸術家,つまり動きの美を創作するためには死をも辞さない芸術家なのです。

しかしスペイン人は皆が皆,根っからの闘牛好きというわけではありません。最近の世論調査では,闘牛にはほとんど,あるいは全く関心がないという人が60%に上りました。スペインの幾つかの団体は,「拷問は芸術でも文化でもない」と主張し,この「国家的祭典」に反対するキャンペーンを始めています。

古来の伝統

夢中になる人もいれば,ぞっとするという人もいますが,人を牛と闘わせるこの競技には長い伝統があります。地中海地方の人々は,古くから野牛の不屈の精神を高く評価していました。エジプトのファラオは,徒歩で牛狩りをしましたし,クレタ島の王子や王女は突進してくる牛に挑み,宙返りをしてその角をかわしました。

西暦に入って最初の千年間に,ローマ人とイスラム教徒の支配は,後にスペインの伝統的ショーとなるものに多大の影響を与えました。ローマのさびれた円形競技場は闘牛場に姿を変えました。今でも闘牛場はローマ時代の名残をとどめています。馬上からやりで牛を突き殺す競技は,ムーア人が紹介したもので,今は演技儀式の中に含められています。

しかし,闘牛が現在のショーの形をとり始めたのは18世紀になってからです。そのころ,実際の闘牛も,貴族から一般の職業的闘牛士へ移ってゆきました。ゴヤが闘牛士の独特の衣装をデザインしたのもそのころのことです。豪華な金銀のししゅうが施されているため,今日ではトラヘ・デ・ルセス,つまり“光のスーツ”と呼ばれています。また,闘牛に適した牛を確保することにも集中的な努力が払われました。

別の種類の牛

最後のとりでだった中央ヨーロッパの森林から,純然たる野生の牛が姿を消したのは17世紀のことでした。しかしここ300年にわたって,スペインの野生の牛は生き延びてきました。闘牛用の牛をつくるために選択法による育種が行なわれてきたからです。野生の牛と家畜の牛のおもな違いは,危険に面したときの反応の仕方です。どう猛なイベリアの牛は,人であれ物であれ目の前を動くものをしきりに攻撃します。

闘牛はこの性質を利用したものです。スペインの飼育家は,この性質をさらに荒くすることに絶えず力を注いでいます。牛は4年間大事に育てられた後,闘技場の中に荒々しく追い立てられ運命の時を迎えます。闘技場に入るまで,牛はマタドールやケープを見たことがありません。もし見ていたなら,闘牛士のテクニックを覚えて非常に危険になるのです。しかし牛は,赤であれその他の色であれ,動いている布を目がけて本能的に突進します。(牛は色盲です。)20分ほどですべてが終わり,命のない,450㌔の肉の塊が場外に引きずり出されます。

闘牛ショーの場面

華やかな入場式の際には,3人のマタドールと助手とピカドールを含め,出演者全員が場内を行進します。各マタドールは牛を2頭ずつあてがわれ,一人ずつ2回の闘いを行ないます。闘いの間ずっと,楽団が動きに合わせて伝統音楽を演奏し,雰囲気を盛り上げます。ドラマの三つのテルシオ,つまり場面はそれぞれ角笛の合図で始まります。

まずマタドールが大きなケープを数回振って牛を挑発すると,最初の場面が始まります。馬に乗ったピカドールが場内に入ります。手には鋼鉄の穂のやりを持っています。牛は挑発に乗って馬を攻撃しますが,馬のわき腹は詰め物をしたよろいで保護されています。ピカドールは,やりでその攻撃をかわし,牛の首と肩の筋肉にやりを突き刺します。こうして首の筋肉が弱まると,牛は攻撃するときに頭を下げざるを得なくなります。これは最後に牛を殺す場面で特に重要になってきます。(上の写真をご覧ください。)さらに2回攻撃を加えた後,馬上のピカドールは場外に去り,闘いの第2テルシオが始まります。

この場面には,マタドールの助手であるバンデリリェロが出てきます。その役目は,バンデリラと呼ばれる,先端部が鋼鉄でできた短いもりを2対ないし3対,牛の肩に突き刺すことです。バンデリリェロは,20ないし30㍍ほど離れた所から掛け声や身振りで牛の注意を引きます。牛が突進してくると,バンデリリェロも牛に向かって走り,最後の瞬間に身をかわして,牛の肩に2本のもりを突き刺します。

闘いの最終場面では,マタドールが一人で牛に立ち向かいます。闘いのこの決定的な段階は,真実の瞬間と呼ばれています。その時マタドールは,ムレタという,サージかフランネルの深紅の布を使って牛を惑わします。いつも牛の近くにいて挑発するので,牛はがむしゃらに突進してきますが,ひどく接近するとマタドールはムレタを使って牛をあしらいます。闘いのこの段階では,「実際のところ,人間は牛と闘っているのではなく,自分自身と闘っているのである。つまり,牛の角をどこまで近づけることができるか,観客を喜ばせるためにどこまでやれるかの闘いである」と言われています。

マタドールは,いら立つ牛を見事にあしらって見せると,殺す準備に入ります。いよいよ闘いのクライマックスです。マタドールは,牛が前足をそろえ,殺すのに最適な姿勢を取るように仕向けます。それから牛のほうに向かい,牛が突然角を突き出すことがないようにしながら,角越しに,両肩の間に剣を刺します。剣で大動脈を切り,牛がほぼ即死するなら理想的ですが,大抵そのようにはゆきません。ほとんどの牛は,何回か突き刺す必要があります。

牛は死の間際でも人の命を奪うことがあります。5年前のことですが,イヨという人気のあった21歳のマタドールは,とどめの一撃を加えてからその場を立ち去ろうとしました。しかし牛は反撃に出て,片方の角で不幸な闘牛士の心臓を突き刺しました。

角を削ることと死ぬこと

多くの人にとって,闘牛は華やかで興奮を誘うショーです。しかし不快な面も幾つかあります。ある熱心な反対者は言いました。「この情けない商売の中で立派なのは牛だけだ。牛は角の先を削り落とされ,肝心なところを取られてしまう。そのため,ねらいを定めるのが難しくなるのだ」。a

闘牛の経営面における腐敗は周知のことです。あるマタドールは,牛の怖さなど「闘牛場の経営者[の怖さ]に比べれば……半分だ」と,皮肉たっぷりにコメントしたほどです。一流のマタドールは,何億円も稼ぐことができますが,競技は激しく,けがや死が付き物です。過去250年間に活躍したおよそ125人の著名なマタドールのうち,40人余りが闘技場で命を落としています。大半のマタドールは,程度の差こそあれ1シーズンに少なくとも1度は角に刺されます。

クリスチャンの見方

以上のような事柄を考慮した今,クリスチャンは闘牛をどうみなすべきでしょうか。動物に優しくするという基本的な原則は,クリスチャンにとって今も有効である,と使徒パウロは論じました。パウロはモーセの律法を引用しました。それはイスラエルの農民に牛を優しく扱うことを特に要求する律法でした。(コリント第一 9:9,10)闘牛は牛を扱う人道的な方法であるなどとは,とても言えません。闘牛を芸術とみなす人がいるのは事実ですが,だからといって,見事な動物の殺害の儀式を正当化できるものでしょうか。

考慮すべきもう一つの原則は,命の神聖さです。クリスチャンは,男らしさを示したり,観客を熱狂させたりするためだけに,あえて自分の命を危険にさらすべきでしょうか。イエスは,ご自分の命を危険にさらして神を試みるようなことは決してされませんでした。―マタイ 4:5-7。

アーネスト・ヘミングウェーは,「午後の死」の中でこのように書いています。「現代の道徳観すなわちキリスト教の観点からすれば,闘牛というものはどこから見ても弁解の余地がない,とわたしは思う。確かにかなりの残虐性があり,あえて求めるものであれ不意に襲うものであれ,常に危険があり,常に死がある」。

闘牛を見に行く人は大勢いますが,喜ぶ人も,がっかりする人も,嫌気がさす人もいます。人間がそれをどのように見るとしても,牛の創造者はこのショーを見て楽しむことなどできないはずです。これを芸術とみなす人は少なくありませんが,実際には神の原則に反する残虐行為なのです。―申命記 25:4。箴言 12:10。

[脚注]

a 牛の角を削ることは禁止されていますが,スペインでは今でも広く行なわれています。

[18ページの図版]

馬上のピカドールは,牛の首と肩の筋肉にやりを突き刺し,その筋肉を弱める

剣を牛に突き刺そうとしているマタドール

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