制御不能になった世界
人間は欲求をすぐに満たすことを短気に追求してきたために,抑制力を失う結果になってしまいました。
環境面: 人間は環境を破壊しています。長期的に見れば,必ず災いを招きます。しかし短期的には,地球から資源を奪って汚染防止策をほとんど講じなければ,企業にも政府にもお金が入ることになります。それで,抗議の声を上げる環境保護論者を尻目に略奪は続いています。
経済面: 世界中の国々は,当面の財政困難のために次々に資金を借り入れて巨額の負債を抱え込んでおり,しかも経済学者たちの発する厳しい警告を軽く受け流しています。経済学者の警告によれば,それらすべての債務の利子はかさんでゆき,いずれは耐え切れないほどの重荷になるかもしれないし,世界的な負債という基盤の上に築かれている世界経済は不気味なほどに不安定なので,もし貧しい国々が債務不履行に陥ったら,崩壊するかもしれません。
道徳面: 麻薬やアルコール飲料を乱用する人,ギャンブルにふける人,あらゆる種類の犯罪者,姦淫を行なう人,淫行を行なう人。今日世界中でそういう人の数が増大していることをだれが否定するでしょうか。彼らは全く異なるグループでありながら一つの共通した特徴を持っています。すなわち,彼らはそれを今すぐに欲しいのです。“それ”がセックスであれ,お金であれ,権力であれ,あるいは単なるいい気分であれ,多くの人はそうしたつかの間の快楽のために,結婚生活,家族,良心,財政的安全,健康,評判,さらには命さえ捨てるのです。
今の世界は制御不能になっており,子供っぽい貪欲に支配されていると言っても過言ではありません。中には世に広まっている近視眼的な見方と誠実な気持ちで闘う人たちもいます。しかし,わたしたちすべての内にある先見の明や自制心を弱める影響力のほうがはるかに強く,はるかに幅を利かせているのです。
力を弱める影響力
現代人でとりわけ先進国に住んでいる人々は,年がら年中,マスコミを通して繰り広げられる宣伝攻勢にさらされています。テレビであれ,ラジオ,映画,雑誌,あるいは新聞であれ,欲求をすぐに満たすことを巧妙に促しています。
様々な媒体による宣伝は,買いなさい,買いなさい,としきりに呼びかけます。それも今すぐに買えるようクレジットカードの利用を勧めます。電話一本ですぐに手に入る品物が無数にあります。広告は『お支払いはあとで結構です』と,気持ちが楽になるような勧め方をするようです。そうした宣伝は,人の感覚を迷わすよう,気味悪いほど巧妙に考案されています。雑誌のページをめくると,いい香りが漂います。ラジオのスイッチを入れると,調子のいいコマーシャルのうたい文句が耳に響き,何日間も脳裏から離れません。テレビを付けると,次々に変わるその派手な映像に釘付けにされます。ミュージック・ビデオ方式では,映像は人が注意を払える最短時間で変わってゆきます。
テレビは欲求をすぐに満たさせることを宣伝するだけではありません。それを与えます。ボタン一つで,娯楽に対する欲求を満足させます。自分の欲求を満足させている人々を見せることによって視聴者を楽しませる場合も少なくありません。活動家は自分の敵が『暴力を受けるに値する』ときには暴力に訴えます。ませた子供は生意気なことを言って親に恥ずかしい思いをさせます。感じやすいロマンチックな人はたやすく姦淫を犯したり,婚前交渉を行なったりします。テレビは,それらの登場人物を,自制心が欠けていると非難することはめったにありません。むしろ彼らを劇的な栄光に浴させたり,どっと揚がる作り笑いの声援を送ったりして,彼らを魅力的な人物であるかのように描きます。
同様に,アトランティック・マンスリー誌の最近の記事も,今日のハリウッド映画は「観客を1分も退屈させないように細心の工夫を凝らして製作されたショー」で,「どの映画も必ず『心ゆくまで満喫できる』と叫んでいる」と述べています。暴力以上に今日の観衆を満足させるものはないようです。同記事は,昔の映画が「観客の,一緒に蹴飛ばしてやりたいという欲求を抑えていた」のに対し,「今の暴力映画は主に,殺したり,殴ったり,手足を切断したりするときの気持ちを観客に味わわせる目的で用いられている」と非難しています。事実,今日の映画は,立ち回りや暴力場面が非常に多くなったために話の筋やせりふが締め出され,上映時間は1940年代の映画と同じほど長くても,脚本は25%ほど短くなっています。
世界の諸宗教は,この間違った“狂気じみた刹那主義”から人間性を引き上げるのに有利な立場にあります。しかし,宗教指導者自ら刹那的満足追求の泥沼に陥っている場合があまりにも多いように思えます。政界における権力や影響力を得ようとしたり,道徳規準を下げて教えてわがままな信徒のご機嫌を取ったり,あるいは聖書を隠れみのにして好き勝手に偽善的なことを行なったりする宗教指導者のことを何度読まされていることでしょう。彼らは,欲求をすぐに満たすということが多くの場合何であるか,つまりそれが罪の誘惑の一部であることを暴露する代わりに,他の“道徳の指導者たち”と一緒になって罪の概念を和らげ,罪を『遺伝の問題』とか『もう一つのライフ・スタイル』とかいった当たりのよい婉曲的な言葉で定義し直します。―8ページの囲み記事をご覧ください。
時流と闘う手段
そのような世の風潮に,どうすれば抵抗できるでしょうか。どうすれば欲求をすぐに満足させようとする誘惑にひどく振り回されることなく決定を下すことができるでしょうか。その答えに,あなたは驚くかもしれません。実は,聖書が助けになるのです。多くの人が持っている先入観念とは逆に,聖書は楽しむことに反対してはいません。禁欲や厳格な自己否定を奨励してもいません。むしろ,適度に楽しい時を過ごす幸福な生活の仕方を教えているのです。
聖書は創造者のことを,『ご自分のみ業を歓ばれる』「幸福な神」と描写しています。(詩編 104:31。テモテ第一 1:11)そして人間に関しては,伝道の書 3章1節で,「何事にも定められた時がある。天の下のすべての事には時がある」と述べています。続く節によれば,その定められた時の中には,笑う時,跳び回る時,抱擁する時,愛する時などが含まれます。箴言 5章18節と19節では,夫たちに「あなたの若い時の妻と共に歓べ」と勧められており,夫婦が性関係を楽しむことの美しさも称揚されています。ですから,欲求を満足させることはすべて悪というわけでも,どんな欲求にせよそれを満たすことはとにかく我慢しなければならないというわけでもないことは明らかです。しかし,見落とされがちな要素は自制心です。―ガラテア 5:22,23。
わたしたちは楽しみ事を,生活全体との関連で見てふさわしい位置に置かねばなりません。優先順位を正しく定める必要があります。神を喜ばせることを,自分の楽しみ事よりも十分優先させなければならず,生活の中で第一にしなければなりません。次に来るのが,仲間の人間に対する原則に基づいた愛です。(マタイ 6:33; 22:36-40)もし本当に神と隣人を愛しているなら,喜んでそれら二つの事項を優先し,自分の欲求を充足させることは二の次にすることでしょう。
聖書に基づく優先事項はまた,欲求をきっぱり退ける必要がある時にそうする助けになります。酔酒,姦淫,淫行,かけ事,貪欲,麻薬の乱用,暴力行為などに携わることなど考えもしないでしょう。これらの罪はいずれもそれなりに欲求を即座に満たすものではあっても,神の怒りを招き,仲間の人間に害を与えます。それらの罪を非とする神の律法は,わたしたちに対する神の愛の確かなしるしです。なぜなら,長い目で見れば,その罪のためにだれよりも大きな代価を支払うことになるのは,罪を犯した本人だからです。その代価は病気かもしれず,家庭の崩壊や貧困かもしれません。もしかしたら人生の最後である死を迎えることになるかもしれず,あるいは深みのない,満たされない人生を送るという悲劇的な結果になるかもしれません。
良い模範に倣う
神はわたしたちが幸せな,実りのある生活を送ることを望んでおられます。み言葉にはそのような生活を送った男女の模範が豊富にあります。多くの場合,彼らは神に対する信仰と愛に動かされて自分の欲求を満たすことを後回しにしました。(ヘブライ 11章をご覧ください。)その点で有名なのはモーセです。古代エジプトのファラオの娘の子として育てられたモーセの前には,欲に飽かせた生活をする機会が開けていました。もしファラオの家にとどまっていたなら,権力や影響力や富,そして疑いなく性関係を持つ多くの機会をすべて自分のものにすることができたでしょう。ところがモーセは,そうする代わりに,侮られていた奴隷身分のイスラエル国民と運命を共にすることにしました。なぜでしょうか。
ヘブライ 11章25節は,モーセが「罪の一時的な楽しみを持つよりは,むしろ神の民と共に虐待されること」を選んだと述べています。モーセは刹那的な満足の何たるかを見抜いていたのです。それはつかの間のもので,はかなく,すぐに終わるものです。そのためモーセは,一時的な快楽をもたらすものに目を留める代わりに,幸福な将来に向かって進むことに注意を集中しました。ヘブライ 11章26節が述べているとおり,「彼は報いを一心に見つめた」のです。モーセにとってその報いは現実のものであり,報いを与える方も現実のものでした。27節には,「彼は,見えない方を見ているように終始確固としていた」と記されています。
モーセの行なった選択をあざ笑う人もいるかもしれません。自分だったら富と権力と名声を選んだだろうと言うかもしれません。しかし,考えてみてください。もしモーセが刹那的な満足を求める道を選んでいたなら,今日わたしたちは果たしてモーセのことを知っていたでしょうか。モーセのエジプト名は,博物館にある,所々が欠けたあばた状の石に刻まれた象形文字として,一握りの考古学者しか知らない不明瞭なわずかな文字として残っていたでしょうか。それとも,34世紀という年月の間に土砂の下に埋もれて,忘れ去られていたでしょうか。それに,モーセの報いについてはどうでしょうか。もし好き勝手なことができる楽な道を選んでいたなら,エホバの記憶の中に確実に場を占めていたでしょうか。
モーセの名は今日,幾百幾千万もの人々を励ますものとなっています。モーセの将来は確実なものです。あなたの将来もそれと同じほど確かなものになる可能性があります。あなたも他の人々の励みになれます。ですから大小を問わず様々な決定を下すとき,欲しいものは今手に入れるべきだという世の宣伝に乗せられないようにしてください。こう自問してみることです。『自分が望んでいる事柄は,創造者がわたしのために望んでおられる事柄と調和しているだろうか。自分が今したいことをしようとすれば,なすべき霊的な事柄は二の次になってしまうだろうか。自分は報いを受けられなくなるようなことを何かしているだろうか。友人や家族にどんな模範を示しているだろうか』。
先見の明を示す神の知恵に代えて,世の近視眼的な見方を選んではなりません。長期的な幸福と引き換えに短期的な快楽を求めたり,永遠のものと引き換えに一時的なものを求めたりしてはなりません。想像を絶する長い期間にわたる満足を与えてくださるのは,何といっても,わたしたち人間を創造された方なのです。詩編 145編16節が神について,「あなたはみ手を開いて,すべての生きているものの願いを満たしておられます」と述べているとおりです。この種の満足には,すぐに与えられるものもあれば,与えられるまで時間と忍耐を要するものもあります。エホバに仕える生活は楽しい事柄で満ちています。創造物の美しさ,友情の温かさ,やりがいのある報いの多い仕事をする喜び,生活上の難問の解決策を知る楽しさなどです。それに加えて,創造者はとこしえに満足のゆく命をわたしたちに与えてくださるのです。―ヨハネ 17:3。