ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 目95 3/22 12–15ページ
  • ジェームズ・クック船長 ― 太平洋の勇敢な探検家

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • ジェームズ・クック船長 ― 太平洋の勇敢な探検家
  • 目ざめよ! 1995
  • 副見出し
  • 関連する記事
  • ジェームズ・クックという人
  • 1769年の世界情勢
  • クックの航海が始まる
  • 第2回航海は成功する
  • 第3回航海は災いとなる
  • 人格が変化する
  • 航海の遺産
  • 統治体の新しいメンバー
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔(研究用)2019
  • エホバは私を十分に顧みてくださった
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1992
  • クック諸島の思い出
    目ざめよ! 1981
  • 南極大陸 ― 最後のフロンティア
    目ざめよ! 2000
もっと見る
目ざめよ! 1995
目95 3/22 12–15ページ

ジェームズ・クック船長 ― 太平洋の勇敢な探検家

オーストラリアの「目ざめよ!」通信員

英国,オーストラリア,ニュージーランド,ハワイや太平洋の島々以外では,ジェームズ・クック船長の名前は,大抵の人にとって聞き覚えのないものかもしれません。しかし,上に挙げた国々では,学校に通う男の子の大半はクック船長(キャプテン・クック)のことを知っています。それはアメリカの子供たちがクリストファー・コロンブスを知っているのと同じようなものです。

しかし,南太平洋に浮かぶオーストラリア大陸やニュージーランドで,この海洋探検家が最も有名であることには,疑問の余地がありません。クック船長の名前は至るところに見られるからです。さらに,1974年にオーストラリア国歌になった「アドバンス・オーストラリア・フェア」という歌の原曲は,文字通りには勇敢なこの船長への賛美を歌っています。

ジェームズ・クックという人

ジェームズ・クックは1728年10月に英国のヨークシャーで生まれた田舎の少年でした。どんな少年時代を送ったのかはあまりよく知られていませんが,エイトン村に今も残っている学校で幾らか教育を受けたようです。その後,彼はステイセスという漁港の食料雑貨商に奉公しました。しばらくの間,海のそばに住んでから,彼は仕事を替えて石炭の輸送船の仕事をするようになり,航海術を学び,強風の北海沿岸付近で働きました。

クックの後年の航海の基礎となったのは,石炭船だけではありませんでした。彼は陸にいる間に数学の勉強を続け,やがて1755年には英国海軍に入隊しました。クックは海軍で熱心に働きましたが,ニューファンドランド,ノバスコシア,ラブラドルの地図や海図を作成したことで,いっそう有名になりました。

1769年の世界情勢

英国は1763年に植民地支配と商業力において世界最強の国になりました。200年間の様々な戦いで,英国はスペイン,オランダ,フランスに勝利を収めました。最後のライバルのフランスは大敗を喫しました。劇的な時代でした。科学の発達により迷信があっという間に打破され,知識に対する渇望が広まりました。航海術も大幅に進歩しました。英国海軍と科学団体は,太平洋探検隊を率いてくれる,操船技術を持つ科学者を緊急に求めていました。ジェームズ・クックは困難を極めるこの任務に抜てきされました。

クックの航海が始まる

クックが1768年から1771年にかけての第1回航海に際して受けた指示は,「未知の国々を発見し,既に発見されてはいるものの完全には調査されていない遠隔地についての知識を深めること」でした。彼の受けた指示には,「南方に大陸か大きな島が発見されるかもしれない,と考える理由がある」ともあり,彼は「その大陸を発見するために南進する」ことになっていました。しかし最初の仕事は,地球と太陽の間の正確な距離を決定するために,金星の太陽面通過を観測することでした。これはタヒチ島で行なわれることになっていました。

第1回航海は3年に43日満たない期間でした。クックは指示されたことを成し遂げ,それ以上のことを行ないました。第1回航海の期間に,有名なボタニー湾上陸を行ないました。ボタニー湾は,後で発見された美しいシドニー港からほんの数キロ南に位置していました。クックはまた,ニュージーランド両島を周航し,オーストラリア東海岸の地図を作った最初のヨーロッパ人となりました。もちろんクックは,想像していた巨大な南方大陸を発見することはありませんでした。

第2回航海は成功する

1772年から1775年にかけての第2回探検旅行では,クック船長は,リゾリューション号とアドベンチャー号の2艦を率いて航海に出る使命を受け,今回も成功を収めました。今回は,船影のない南太平洋を蛇行しながら南極圏を巡りました。しかし,数か月に及ぶ凍りつくような寒さと身を切るような風のゆえに,彼は未知の南方大陸などないと確信しました。疲れ果てた乗組員たちは凍結した海を離れ,タヒチ島に戻ることができて喜びました。

クックの第2回航海は文句なしの成功で,歴史的な出来事となりました。アラン・ムーアヘッドは自著「運命の衝撃」の中で次のように書いています。「1775年7月の終わりに,彼らはプリマスに錨を下ろした。彼らは3年と18日にわたって海に出ていたのである。2万リーグ[6万海里]余り ― 地球3周分 ― を航行し,亡くなった船員は四人だけだった。……この航海により,クックは空前絶後の偉大な海洋探検家として世に認められるようになった」。

第3回航海は災いとなる

第3回探検旅行の目的は,カナダの太平洋沿岸を探索し,北極海を経由して太平洋と大西洋を結ぶと考えられていた北西航路を調査することにありました。それはクック船長の最後の航海となりました。彼は修復されたリゾリューション号に乗り,ディスカバリー号を率いて1776年7月12日に英国を出発しました。1778年1月18日に,現在はハワイ諸島として知られている土地を発見しました。そこでクックと乗組員たちは温かく迎えられました。彼らはその美しい諸島で再び食糧を積み込み,北の海でその年の夏を過ごしましたが,大西洋への航路を発見しようとする試みは無駄に終わりました。その後,ハワイに戻ってそこで冬を過ごそうとしました。

この時点でクックの側の振る舞いに変化が見られた理由については,歴史家の間でも意見が分かれています。ハワイに戻った彼が住民をどのように扱ったかに関して,不明な点があります。クックは残酷にも彼らを食いものにするようになったのではないか,と言う人もいます。また,クックが住民の崇拝の周期を侵したのではないかと言う人もいます。事実がどうであれ,クックは1779年2月14日にその地で殺されました。

どのような最期だったのでしょうか。この探検家たちは,1月17日にケアラケクア湾に戻った際,ハワイの人々1万人に迎えられました。島民は自分たちの神,地の神ロノのためのマカヒキの祭りを祝っていました。クックはロノ神扱いにされたようで,クックと乗組員たちは再び特別な親切ともてなしを受けました。3週間後の2月4日に,彼らは錨を揚げ,出航しました。しかし,わずか四日後に猛烈なハリケーンに遭遇し,リゾリューション号は帆柱を失いました。クックはハワイに戻りました。

クックが驚いたことに,今回は敵意が示されました。ハワイの人は理性に基づいて物事を慎重に考慮し,自分たちはクックと乗組員たちに食いものにされていると結論したのかもしれない,と考える人もいます。クックが戻ってきたことは,彼が“神”であることと矛盾したのではないか,と言う人もいます。理由は何であれ,困惑したクックの部下たちは,残念ながら暴力に訴えました。このことがきっかけでディスカバリー号からボートが盗まれました。クックは船を取り戻すために酋長のカラニオプを人質に取ろうとしました。争いが生じ,クックは浜辺で刺され,なぐり殺されました。

リゾリューション号の乗組員で士官候補生だったジョージ・ギルバートは航海日誌の中で,クックの生涯の最後の数分間を生々しく詳細に描写しています。「クック船長は水際に着くやいなや,発砲をやめるよう船に向かって手を振った。その時,酋長の中でも大胆な一人が背後から歩み寄り,鉄の短剣で船長の背中を刺した。その時もう一人がこん棒で船長の頭をなぐったので,船長は水中に沈んだ。彼らはすぐにそれを追って水に飛び込み,数分間,船長を水中に沈めておき,そのあと船長を岩の上に引きずり上げ,頭を岩に数回打ちつけた。すぐに息を引き取ったことは間違いない」。

人格が変化する

第3回航海で,クックの振る舞い方に変化が生じ始めたようです。かつて南洋を2度にわたって旅した時と同じような落ち着きや自制は見られませんでした。第3回航海では,クックは罰として部下の37%をむちで打ちました。これは第1回航海のほぼ2倍に当たります。また,今回のポリネシアの島民に対する扱い方には人間味がありませんでした。例えばアイマオというタヒチの島では,子をはらんだやぎを一匹盗まれた仕返しとして,抜け目なく家々を焼き,カヌーを破壊するように命じました。クックは盗みを働いて捕らえられた島民の耳を切り落とすことさえしたのです。クックは病気だったか,もしくは疲れていたのでしょうか。それとも単に残酷なだけだったのでしょうか。

航海の遺産

バーナード・スミス教授は自著「ジェームズ・クック船長とその時代」の中で,「新しい土地の発見者という言葉が持つどんな基本的な意味においても,クックはそうではなかった」ことを示唆しています。これは真実かもしれません。なぜなら,クックが見つけた地域の大半には既に人が住んでいたからです。しかし,グレンフェル・プライスは次のように述べています。「クックが地理学の知識に関して大きく貢献した点は,長距離に及ぶオーストラリア東海岸を発見したり,ニュージーランドの輪郭を明らかにしたり,北アメリカの長い海岸線を調査したり,ハワイやニューカレドニアなどの新しい島を発見したり,他の諸島の再発見と正確な位置づけをしたりして,太平洋の大まかな地図を完成したことだ。クックは事実上……南極大陸を発見した航海者であり,北極圏にいた時には,ベーリングが発見した海峡の存在を確認した」。クックの海図と地図は,彼の船の檣頭が太平洋の水平線のかなたに消えた後も長く用いられました。

しかし悲しいことに,クックの航海は,性病による汚染,火器を使った暴力行為,南極の野生生物の死滅,太平洋の島民に対する搾取などの余波を残しました。クックが南極を発見したことに関して,アラン・ムーアヘッドはこう書いています。「今度も,余波として災いをもたらすことがクックの運命だった。彼は偶然に,おそらく世界最大の野生生物の群れを発見し,その存在を世界に知らせた最初の人となった。……クックがタヒチ島やオーストラリアに侵入したことは,原住民にとっては極めて不利益であった。南極の動物にとっては大虐殺を意味した」。

クックの広範囲にわたる報告と海図が出されたので,猟師や捕鯨船団が殺りくを行なうためにやって来ました。ムーアヘッドはこう続けています。「殺りくは実際に獲物が底をつくまで続けられ,少なくとも,簡単に殺せて利益の上がるものがいなくなるまで続けられた」。

[15ページの図版]

ハワイでのクックの横死

オーストラリアのボタニー湾を発見

[クレジット]

絵: Australian International Public Affairsの厚意による

[12ページの図版のクレジット]

絵はJohn Weber/Dictionary of American Portraits/Doverによる。背景: The Complete Encyclopedia of Illustration/J. G. Heck

    日本語出版物(1955-2025)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする