「神の言葉は力を及ぼす」
「エホバの言葉」という表現は,形は多少異なりますが,聖書の中で何百回も出て来ます。天は「エホバの言葉」によって創造されました。神が言葉を述べると,それは成し遂げられました。「神は言われた,『光が生じるように』。すると光があるようになった」と記されています。(詩編 33:6。創世記 1:3)このことから,エホバご自身は少しも働かれないなどと解すべきではありません。(ヨハネ 5:17)しかし,エホバは確かに,ご自分の言葉にこたえ応じてご意志を遂行する無数のみ使いを持っておられます。―詩編 103:20。
有生無生を問わず,創造物は神の言葉に支配されており,神はご自分の目的を成し遂げるために創造物を用いることがおできになります。(詩編 103:20; 148:8)神の言葉は信頼できます。神はご自分の約束する事柄を忘れずに行なわれます。(申命記 9:5。詩編 105:42-45)神ご自身が言われたように,そのみ言葉は,『定めのない時に至るまで保ち』ます。み言葉が目的を成し遂げずに帰って来ることは決してありません。―イザヤ 40:8; 55:10,11。ペテロ第一 1:25。
エホバはご自身の意志と目的が何かを様々な仕方でご自分の被造物に啓示なさる点で意思を伝達する神であられます。神の言葉はひとりのみ使いを通して,アダム,ノア,アブラハムなどの人々に語られたに違いありません。(創世記 3:9-19; 6:13; 12:1)神はご自分の目的を知らせるために,時にはモーセやアロンのような聖なる人たちをお用いになりました。(出エジプト記 5:1)モーセがイスラエルに命じた「すべての言葉」は,事実上,彼らに対する神の言葉でした。(申命記 12:32)神はエリシャやエレミヤのような預言者やデボラのような女預言者の口を通して話されたこともあります。―列王第二 7:1。エレミヤ 2:1,2。裁き人 4:4-7。
神のおきての多くはモーセの時代以降,書き留められました。ヘブライ語聖書で「十の言葉」として知られ,一般に十戒と呼ばれるデカローグは,最初,口頭で伝えられ,後に石の書き板に「神の指によって書き記され」ました。(出エジプト記 31:18; 34:28。申命記 4:13)申命記 5章22節では,それらのおきては「言葉」と呼ばれました。―「聖書に対する洞察」,第2巻,313-315ページの「十の言葉」をご覧ください。
ヨシュアは神からの霊感を受けて,さらに「言葉を神の律法の書に」書き加えましたが,聖書の他の忠実な筆者たちもそうしました。(ヨシュア 24:26。エレミヤ 36:32)やがて,それらの文書はすべて,集大成されて,いわゆる聖なる書,つまり聖書が出来上がりました。今日,『神の霊感を受けた聖書全体』には聖書の正典の書すべてが含まれているはずです。(テモテ第二 3:16。ペテロ第二 1:20,21)クリスチャン・ギリシャ語聖書では,霊感を受けて記された神の言葉はしばしば,単に「み言葉」と呼ばれています。―ヤコブ 1:22。ペテロ第一 2:2。
神の言葉を意味する同義語は少なくありません。例えば,エホバの「み言葉」に言及している箇所が20か所以上ある詩編 119編では,その同義語が詩の対句法の中に見られます。それは律法,諭し,命令,規定,おきて,司法上の定め,法令,エホバのことばなどの語です。このこともまた,「言葉」という表現が,あるまとまった考え,もしくは音信を意味していることを示しています。
神の言葉はまた,意味を広げたり加えたりする他の幾つかの仕方で表現されています。それは「信仰の『言葉』[もしくは「ことば」(レーマ)]」(ローマ 10:8,王国行間逐語訳),「義の言葉[もしくは音信(ロゴスの変化形)]」(ヘブライ 5:13),「和解の言葉」(コリント第二 5:19)などです。神の言葉,もしくは音信は「種」のようなもので,良い土にまかれると,実をたくさん生み出します。(ルカ 8:11-15)神のみことばはまた,「速やかに走る」とも言われています。―詩編 147:15。
み言葉を宣べ伝えたり教えたりした人々
霊感を受けて記された,エホバの真理のみ言葉の最大の解説者ならびに支持者は主イエス・キリストでした。イエスはその教え方によって人々を驚嘆させましたが(マタイ 7:28,29。ヨハネ 7:46),それをご自分の手柄とはせず,「あなた方が聞いている言葉はわたしの言葉ではなく,わたしを遣わされた父に属するものなのです」と言われました。(ヨハネ 14:24; 17:14。ルカ 5:1)キリストの忠実な弟子たちはイエスの言葉のうちにとどまった人たちで,そのために彼らは無知や迷信や恐怖から,さらには罪や死への隷従状態からも自由にされました。(ヨハネ 8:31,32)自分たちの伝承や教えによって「神の言葉[もしくは宣言]」を無効にしていたパリサイ人に対して,イエスはしばしば異議を唱えないわけにはいきませんでした。―マタイ 15:6。マルコ 7:13。
それは神の言葉が宣べ伝えられるのを単に聞くだけの事柄ではありません。それどころか,その音信に基づいて行動し,音信に対する従順を示すことも肝要です。(ルカ 8:21; 11:28。ヤコブ 1:22,23)宣教に備えてよく訓練された使徒や弟子たちは,次にみ言葉に従って,自分たちも宣べ伝えて教える業に携わりました。(使徒 4:31; 8:4,14; 13:7,44; 15:36; 18:11; 19:10)その結果,「神の言葉は盛んになり,弟子の数は……大いに殖えつづけ」ました。―使徒 6:7; 11:1; 12:24; 13:5,49; 19:20。
使徒たちとその仲間の人々は,偽の牧者たちのように聖書を売り歩く者ではありませんでした。彼らが宣べ伝えたのは,率直で純粋な神からの音信でした。(コリント第二 2:17; 4:2)使徒パウロはテモテに対して,「自分自身を,是認された者,また真理の言葉を正しく扱う,何ら恥ずべきところのない働き人として神に差し出すため,力を尽くして励みなさい」と語りました。さらに,テモテは,『み言葉を宣べ伝え,順調な時期にも難しい時期にもひたすらそれに携わる』よう命じられました。(テモテ第二 2:15; 4:2)パウロはまた,「神の言葉があしざまに言われることのないようにするため」,自分たちの振る舞いに注意するようクリスチャンの妻たちに助言しました。―テトス 2:5。
神がかつてエデンの園で話された事柄に悪魔が反ばくして以来,神の言葉に反対してサタンにくみした人々は少なくありません。聖書の預言と歴史の双方が証言しているように,神の言葉を擁護した多くの人々が命を失いました。(啓示 6:9)それと共に,神の言葉をふれ告げる業が迫害によって阻止されなかったことも歴史の事実です。―フィリピ 1:12-14,18。テモテ第二 2:9。
神のみ言葉と霊の力
神の言葉はそれを聞く人に非常に大きな力を及ぼします。それは命を意味します。神は荒野でイスラエルに対して,「人がパンだけによって生きるのではなく,エホバの口から出るすべての言葉によって人は生きるのである」ということを実証されました。(申命記 8:3。マタイ 4:4)それは「命の言葉」です。(フィリピ 2:16)イエスは神の言葉を話し,「わたしがあなた方に話したことば[レーマタ]は霊であり,命です」と言われました。―ヨハネ 6:63。
使徒パウロはこう書きました。「神の言葉[もしくは,音信(ロゴス)]は生きていて,力を及ぼし,どんなもろ刃の剣よりも鋭く,魂と霊,また関節とその骨髄を分けるまでに刺し通し,心の考えと意向とを見分けることができ(ま)す」。(ヘブライ 4:12)それは心を動かし,人が実際に正しい原則に従って生活しているかどうかを明らかにします。―コリント第一 14:23-25。
神の言葉は真理ですから,人を神に用いていただくために神聖なものとすることができます。(ヨハネ 17:17)神の言葉は人を賢くし,幸福にすることができます。それは何であれ神が人に行なわせるよう意図しておられる事柄を成し遂げることができます。(詩編 19:7-9。イザヤ 55:10,11)神の言葉は人をあらゆる良い業に対して全く整えさせることができ,邪悪な者を征服させることもできます。―テモテ第二 3:16,17。ヨハネ第一 2:14と比較してください。
イエスが行なわれた宣べ伝える業について,こう述べられています。「神(は)聖霊と力をもってこの方に油そそがれ……この方は善いことを行ないながら,また悪魔に虐げられている者すべてをいやしながら,国じゅうを回りました。神が共におられたからです」。(使徒 10:38)使徒パウロは,「説得のための[人間の]知恵の言葉ではなく,霊と力の論証」をもって,人々を,それも異教徒をさえ転向させることを成し遂げました。(コリント第一 2:4)パウロが神の聖霊により,神のみ言葉である聖書に基づいて話した言葉は,人々を転向させる強力な働きをしました。彼はテサロニケの会衆に,「わたしたちの宣べ伝える良いたよりは,ただことばだけでなく,力と聖霊と強い確信をも伴ってあなた方のところにもたらされ(ました)」と語りました。―テサロニケ第一 1:5。
バプテスマを施す人ヨハネは「エリヤの霊と力をもって」やって来ました。ヨハネはエリヤの「霊」,つまりその気力や迫力を持っていました。エホバの霊はまた,ヨハネを導いたので,彼は神の言葉,つまり強い力を及ぼす言葉を語りました。それで,「父の心を子供に,不従順な者を義人の実際的な知恵に立ち返らせるため,準備のできた民をエホバのみまえに整える」ことを実に首尾よく行なえました。―ルカ 1:17。
ですから,聖書つまり神のみ言葉の音信である良いたよりを過小評価してはなりません。神の言葉は人間が考え出せる,あるいは人間が語ることのできるどんな言葉よりも強力です。古代ベレアの人々は,使徒の教えた事柄が正しいかどうかを確かめるため,「聖書を注意深く調べた」ことでほめられました。(使徒 17:11)神の強力なみ言葉を語る,神の奉仕者たちは,「聖霊の力」によって活発に働くようにされ,また支持されます。―ローマ 15:13,19。