第8章
エフェソスの使いへ
1,2 (イ)エフェソスはどんな都市で,どこにありましたか。(ロ)栄光を受けたイエス・キリストがその都市の監督に書くようヨハネに命令した音信は何でしたか。
エフェソスは,古代アジア州の主要都市で,ヨハネのいたパトモス島から約100㌔ほど離れた所にありました。このことに適合して,栄光を受けたイエス・キリストは,まずそこの会衆の人間の監督に書き送るよう指示を与えました。「エフェソスにある会衆の使いに書き送りなさい。右手に七つの星をしっかりと持つ者,七つの黄金の燭台の中央を歩く者がこう言う。『わたしはあなたの行ないを知っている。また,あなたの労と忍耐を,そしてあなたが悪人たちに耐えることができず,使徒であると言いはするがそうでない者たちを試して,それが偽り者であるのを見いだしたことを知っている。またあなたがたは忍耐を示しており,わたしの名のために耐えてきた。そしてうみ疲れたことがない。とはいえ,わたしにはあなたを責めるべきことがある。それは,あなたが,最初にいだいていた愛を離れたことである。
2 「『それゆえ,自分が何から落ちたかを思い出し,悔い改めて以前の行ないをしなさい。もしそうしないなら,わたしはあなたのところに来て,あなたの燭台をその場所から取り除く。あなたが悔い改めないならばである。しかし,あなたにはこの点がある。すなわち,ニコラオ派の行ないを憎んでいることである。わたしもこれを憎む。耳のある者は霊が諸会衆に述べることを聞きなさい: 征服する者に,わたしは,神のパラダイスにある命の木[ギリシャ語,クシロン]から食べることを許そう』」― 啓示 2:1-7。
3 パウロはエフェソスの監督たちに何を警告しましたか。パウロの警告した事態が実際に生じた時,エフェソス会衆は何をしましたか。
3 啓示の与えられる何年も前,使徒パウロは,ギリシャ,コリントの会衆に偽使徒のいることを述べました。後に彼は,エフェソス市から来た監督たちに,アルテミス(ダイアナ)つまり,月の女神の有名な神殿のある彼らの都市にいるクリスチャンの間に,偽使徒が起こることを警告しました。(コリント第二 11:12-15。使徒 20:17-31)使徒ヨハネの死ぬ前に,その事態はすでに起きていました。しかし,エフェソス会衆はキリストの真の使徒たちに忠節を示し,使徒職に対するそれら偽りの主張をなす者を試し,聖書から彼らが偽り者であることを見いだしました。今日も同様のことがいえます。
4 1914年に「主の日」が到来した時,エフェソスにおけると同じような事態が見られましたか。献身した聖書研究者たちはそれにどう対処しましたか。
4 1914年,「主の日」が世に切って落とされた時,キリスト教世界の多くの宗教指導者は,キリストの使徒また「使徒の後継者」であると主張していました。事実,イタリアにあるバチカンのローマ・カトリック教会の法王は,「使徒の後継者; 権力を有するペトロ」,また「使徒的主かつ父の父」として歓呼を受けていました。しかし,「子羊の十二人の使徒」(啓示 21:14)に付き従う,全き献身をし,バプテスマを受けた聖書研究者たちは,エホバ神の記された言葉を研究し,使徒職に対するそれらの主張者が偽り者であるのを見いだし,彼らと一切かかわりを持とうとはしませんでした。これが理由の一つとなって,聖書研究者たちは,偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンの主要部分,つまりキリスト教世界から出てきたのです。(啓示 18:4; 17:1-5)そのような宗教的な偽り者が自分たちの中にいることを容認しなかったのです。
5 イエス・キリストがエフェソスの会衆に対して責むべきところがあるとされた,たった一つの点は何ですか。
5 栄光を受けたイエス・キリストが,1世紀の終わり近くに,エフェソスの会衆を責むべきところがあるとして指摘した一つの点は,それが最初の愛を離れたことです。『あなたは,最初にいだいていた愛を離れた』。(啓示 2:4)エフェソス人への使徒パウロの手紙に触れてあるような,また,使徒 19章1節から20章1節,17-38節に描写されているような,エホバ神に対して最初に抱いた,熱意のこもったクリスチャン愛を持っていなかったのです。
6,7 (イ)イスラエルの国はどのように,エフェソスの会衆に起きたことの例といえますか。(ロ)使徒ヨハネは,エフェソス会衆がもはや持っていないこの愛をどのように説明していますか。
6 これは,国として若かりしころ,うら若い花嫁が花婿に対して抱くような,熱烈な愛をその神に対して抱いていたイスラエルの国のことを思い出させます。『エホバ斯くいふ我汝につきて汝の若き時の懇切なんぢが契をなせしときの愛荒野なる種播ぬ地にて我に従ひしことを憶ゆと イスラエルはエホバの聖物にしてその初に結べる実なり』。(エレミヤ 2:2,3)同様に,エフェソスの会衆も最初は,自分たちに対するエホバの愛にこたえて燃えるような愛を示しました。使徒ヨハネ自身,認識から発する,このこたえ応ずる愛を次のように描写しています。
7 「愛はこの点,わたしたちが神を愛してきたというよりは,神がわたしたちを愛し,ご自分のみ子をわたしたちの罪のためのなだめの犠牲として遣わしてくださった,ということです。わたしたちは,彼がまずわたしたちを愛してくださったので愛するのです」― ヨハネ第一 4:10,19。
8,9 (イ)献身した聖書研究者たちは1914年,1世紀のクリスチャン会衆を特徴づけた愛を離れていました。どのようにですか。(ロ)この状態は主に何に帰因していましたか。(ハ),その誤りはいつ正され始めましたか。
8 驚くべき類似点として,1914年の「主の日」の始めには,宗教的キリスト教世界から出て来た,献身し,バプテスマを受けた聖書研究者たちでさえ,1世紀のクリスチャン会衆を特徴づけた愛を離れていました。どのようにですか。エホバ神ご自身に対するよりも,神のみ子に対して多くの注意,また愛の表現を注いでいたのです。もちろん,その原因は多分に,聖書研究に用いられた聖書の翻訳にありました。それらの聖書の中で,キリスト教世界およびユダヤ教徒の翻訳者たちは,神の名エホバをほとんど,あるいは全く使いませんでした。
9 例えば,ジェームズ王訳つまり欽定訳聖書は,エホバという名を四回訳出しているだけです。また,ユダヤ教徒のアイザック・リーサーの翻訳による,24冊から成る聖書は,神の名前を全然用いず,代わりに「主」また「神」を使っています。しかし第一次世界大戦後,献身し,バプテスマを受けた聖書研究者たちは,これが不適当であることに気づき,それを是正するものとして,彼らの公式雑誌「ものみの塔およびキリストの臨在の告知者」,1926年1月1日号の主要記事(英文)に,「エホバを尊ぶのはだれか」という挑戦的な表題を掲げました。
10 (イ)その最初の愛に返る面での最高潮が訪れたのはいつですか。(ロ)その最初の愛に返ろうとするこの誠実な努力と一致して,エホバの証人の公式雑誌の表題はどのように変更されましたか。(ハ)そうすることにより彼らはキリストを無視していたのですか。説明しなさい。
10 年たつうちに,それらクリスチャンの聖書研究者たちは,神の名前を証しすることにいよいよ多くの注意を払い,その最高潮として,1931年7月26日の日曜日,アメリカ,オハイオ州のコロンバスにおける国際大会で,自分たちを明らかにする名称として,「エホバの証人」という名を選び,その名称によってキリスト教世界から区別されたいとの決議を採択しました。その後この名前は,各地の献身したクリスチャンの会衆により採用されました。1939年3月1日号をもって,彼らの公式雑誌の表題は,「ものみの塔,エホバの王国を告げ知らせる」と変えられました。彼らは,使徒ヨハネが,「忠実な証人」つまり,天の父エホバ神の証人と呼んだ,イエス・キリストのようでありたいと望んだのです。(啓示 1:5)それは実に,1世紀のクリスチャン会衆が「最初にいだいていた」愛,その最初の愛に返ろうとする誠実な努力でした。この愛は,今日の彼らを動かしています。彼らは,クリスチャンと自称する者たちがどこから落ちたか,それを思い出したことを実証してきました。宇宙の主権者エホバ神を見過ごしていたことに対する彼らの悔い改めは,純真なものでした。
11 (イ)彼らが「以前の行ない」に返った,というその行ないは何でしたか。(ロ)彼らが最も重要なこととして認識するようになったものは何ですか。彼らはそれについて何をしましたか。
11 こうして彼らは,「以前の行ない」つまり,至高の神の名前とメシアによる王国の証しをする義務に返りました。(イザヤ 43:10-12。使徒 1:8)エホバの宇宙主権をメシアの王国によって立証することが,エホバの主要な目的であり,また,聖書の主要な教えであると認識するようになったのです。イエス・キリストの贖いの犠牲による人類の救いは,エホバ神の総合的な目的の中で顕著かつ不可分の一部であるとはいえ,第二義的なものにすぎませんでした。この認識によって行動に駆り立てられた彼らは,エホバの宇宙主権とお名前を立証し,さらには人類を救う手段ともなる,エホバのメシアによる王国を全世界に宣べ伝える業に取りかかりました。―マタイ 24:14。マルコ 13:10。
12 (イ)キリストは,エホバのクリスチャン証人の間から燭台を取り除くことにより,ご自分の警告を実行に移す必要はありませんでした。どのようにそれが分かりますか。(ロ)一方,キリスト教世界が「世の光」であるとの主張を実践してきたかどうかに関し,事実は何を示していますか。
12 「エフェソスにある会衆の使い」に対するキリストの指示の中で,それら霊的イスラエル人は,この「主の日」に「以前の行ない」をしないなら,「七つの黄金の燭台の中央を歩く者」により「燭台をその場所から」取り去られるであろう,と警告を受けていました。彼らの場合,天の燭台の管理者からそうされる必要はありませんでした。第一次世界大戦終了以来,「世の光」として輝くよう努めているからです。今までに,この象徴的な燭台の光は,200以上の国や群島に届いています。キリスト教世界は,自分のキリスト教の型に合った名ばかりの改宗者を,全地に9億7,738万3,000人以上も得たとして,「世の光」であると主張してきました。しかし,多くの人種や国籍からなるその幾百万人の成員は,1世紀の使徒時代の真のクリスチャンが抱いたような「最初の愛」を示しているでしょうか。(啓示 2:4,欽定)二つの世界大戦を行ない,ファシスト,ナチスまた共産主義の独裁者を支持し,諸国の政治革命や他の騒乱に参加したのは,キリスト教世界の幾百万人もの成員にほかなりません。
13 キリスト教世界は,マタイ 24章14節のイエスの預言を成就する代わりに何をしてきましたか。その結果,同世界は今日どんな事態に陥っていますか。
13 キリスト教世界は,この「主の日」に,「王国のこの良いたより」を諸国民に対する証しとして全地に宣べ伝えることにより,マタイ 24章14節のイエスの預言を成就しているでしょうか。いいえ。この世の王国を選び,国際連盟およびその後身である国際連合を設立することにより,全地で宣べ伝える業をエホバのクリスチャン証人に任せてしまっています。キリスト教世界が,その主張どおりに,神のキリスト教の取決めの中で,象徴的な燭台を持っているか,あるいはその燭台であったにせよ,栄光を受けたイエス・キリストは,その「燭台をその場所から」取り除かれました。西暦1914年以後の歴史の事実が明らかにするように,キリスト教世界は光を掲げる神の会衆(象徴的な燭台)でも,光を掲げる組織でもありません。その光は消えてしまい,地を覆う暗い陰,そして国家群を覆う暗黒のやみに自ら包まれています。悔い改めることができない程悪化してしまい,起き上がることも,輝くこともできないのです。―イザヤ 60:1,2。
分派主義を憎む
14 (イ)啓示 2章6節の賞賛の言葉はなぜキリスト教世界に当てはまりませんか。(ロ)「主の日」の始めに,真の聖書研究者たちの間に宗派を形成しようとする傾向が見られたのは,なぜ不思議ではありませんか。
14 キリスト教世界は,千以上の宗派に分かれており,教会併合や,1962-1965年の第二バチカン公会議で発布された教会一致運動によってその数を少なくしようとしています。エフェソス会衆に対するキリストの次の賞賛の言葉は,キリスト教世界には当てはまりません。「しかし,あなたにはこの点がある。すなわち,ニコラオ派の行ないを憎んでいることである。わたしもこれを憎む」。(啓示 2:6)1世紀に使徒パウロが明らかにしたように,真のクリスチャン会衆は,ニコラオ派のような宗派を形成する傾向と戦わねばなりませんでした。(コリント第一 1:12-15; 3:1-5)彼は,エフェソス会衆の監督たちに対してさえ,自分が去った後にその地の弟子たちの間に,ある人びとが起こり,「自分につかせようとして曲がった事がらを言う」であろうと警告しました。(使徒 20:29,30)そうであれば,「主の日」の始めに,今日エホバのクリスチャン証人として知られる人たちの間に,宗派を形成しようとする傾向が見られたのも不思議ではありません。
15 (イ)ものみの塔聖書冊子協会の初代会長は宗派を作ろうとしましたか。(ロ)1916年に彼が死んだ後,どんな努力がなされましたか。その努力を支持するため,どんな聖句が間違って適用されましたか。
15 1884年から1916年まで,ものみの塔聖書冊子協会の会長を務めたチャールズ・テイズ・ラッセルは,協会の成員および,その関連組織であった国際聖書研究者協会の成員の間に宗派を形成しようとしたのではありません。むしろ,1914年の「異邦人の時の終わり」ごろに,真のクリスチャン会衆の天の栄化を期待していたのです。(ルカ 21:24,欽定)しかし,第一次世界大戦のさなか,すなわち1916年10月31日に彼が死んだ後,その意図があったわけではないのに,彼の教えと組織を基にして宗派を作ろうとする傾向が生じました。1917年7月,「聖書研究」の第七巻「終了した秘義」が英文で出版されましたが,同書は発行者のページである2ページで,「パスター・ラッセルの遺著」と呼ばれました。その本は,C・T・ラッセルが,マタイ 24章45-47節(欽定)で予告されていた「忠実で聡い僕」である,また啓示の注釈の個所では,彼が「第七の使い」つまり,七番目また最後の会衆として記されている「ラオデキアの教会の使い」であるとしていました。(啓示 3:14,欽定)さらに,エゼキエルの預言に関する注釈においては,C・T・ラッセルが予告されていた,『麻布を着て筆記者の墨入れを脇に携えた者』である,と述べていました。(エゼキエル 9:4-11; 10:1-7,欽定)そうした解釈を受け入れた人たちは,当然のことながら,驚くような仕方でエホバ神に用いられたしもべに忠節の念を覚えました。「ラオデキア時期」と呼ばれた期間に,至高の神に用いられた地上の器として,彼に付き従うことを義務と感じたのです。
16 イエス・キリストはこの傾向をどうごらんになりましたか。その導きの下にどんな分離が生じましたか。
16 しかし,ご自分の忠実な追随者の間に見られる,宗派を作ろうとする傾向は,「右手に七つの星をしっかりと持つ者」には不快なことでした。その導きの下に,クリスチャンに反する分派主義を憎む者たちは,自分たちが出て来たキリスト教世界に見られるような宗派を作ろうとする傾向と戦いました。死人に従うことを選んだ者たちは離れて行き,聖書の真理の光がものみの塔聖書冊子協会の初代の会長の死とともに前進を止めることはないと信じた人たちは,神の見える組織に付き従い,明るさを増す光の中で聖書を調べ続けました。
17 1927年2月15日号の「ものみの塔」誌には,チャールズ・テイズ・ラッセルの周辺に宗派を作ろうとするあらゆる根拠を弱める,どんな論議が提出されましたか。
17 1927年,「ものみの塔」誌2月15日号(英文)は,欽定訳によるマタイ 24章45,46節の聖句を主題とする,「良き僕と悪しき僕」という主要記事を掲載しました。それは,忠実に,また勇気をもって,そこに述べられている「忠実で聡い僕」が特定の個人ではなく,一つの級,また,しもべの集合体,つまり,その時のキリストの忠実な霊的追随者の全会衆であるとの説明を述べました。それはエホバのしもべと呼ばれた古代イスラエルの国の場合と同じです。その国に対し,次のように語られています。「エホバの言われる言葉はこうです。『あなたがたはわたしの証人たち,すなわち,わたしの選んだしもべである』」。(イザヤ 43:10,新)一人の「しもべ」ですが,多くの「証人」です。同様に,マタイ 24章45-47節の場合も,一人の「しもべ」(または奴隷)ですが,大勢の構成員がみな共になって,主の財産つまり所有物の管理を託される,一つのしもべまたは奴隷の集合体を形成するのです。これにより,ラッセルの周辺に宗派を作ろうとするどんな基礎も弱められました。
18 チャールズ・T・ラッセルが「ラオデキアの教会の使い」であるという誤った考えは,どのように捨て去られましたか。
18 この方向をさらに推し進めるものとして,1930年9月,二巻から成る「光」(英文)と題する本が出版され,啓示の書全体の注解が与えられました。同書は,「七つの星」および,会衆の『七人の使い』について,「終了した秘義」に載せられたものとは異なる理解を示しました。つまり,チャールズ・T・ラッセルを「第七の使い」,また「ラオデキアの教会の使い」と同一視しなかったのです。(「光」,第一巻,13ページ,および“ラオデキア”の項の44-52ページをごらんください。)さらに,その何年も前から,「終了した秘義」は発行切れになったままでした。
19 象徴的な,『麻布を着て筆記者の墨入れを携えた者』の真の実体は,いつ,またどのように明らかにされましたか。
19 ついに1931年7月30日,「立証」(英文)と題する本の第一巻が出版されました。同書は,エゼキエル書 9章の預言の成就において「麻布を着て筆記者の墨入れを脇に携えた者」が個人ではないことを明らかにし,「筆記者の墨入れを携えた者」と題する副見出しの下に,99,100ページで次のように述べました。「したがって,『筆記者の墨入れを脇に携えた者』は明らかに,地上における,主の,油そそがれた『僕』級を表わしていました。その級は神の組織の一部です」。
20,21 クリスチャンの霊的イスラエル人は,分派主義を憎んでいることをさらにどのように示しましたか。
20 このように最後には,三つの根本的な論点に関し,チャールズ・T・ラッセルの周辺に宗派を築くための基礎は完全に取り去られました。それらクリスチャンの霊的イスラエル人は,キリスト教世界の僧職者たちから「ラッセル派」と呼ばれ,軽べつされましたが,1世紀のエフェソス会衆の人たちと同じく,分派主義を憎み,その卑しむべきあだ名を受け入れませんでした。それで,1931年7月26日,「立証」という本の第一巻が発表された,オハイオ州コロンバスにおけるその同じ国際大会で,彼らは「エホバの証人」という聖書的な名称を決議により採択しました。
21 栄光を受けた主イエス・キリストは,「ニコラオ派の行ない」に抵抗したエフェソスの会衆をほめましたが,分派主義に反対の立場を取った,今日のそれらエホバのクリスチャン証人を同じくほめることができました。
神のパラダイスにある命の木
22 古代エフェソスの会衆に対する音信は,どんな言葉で結ばれていますか。
22 古代エフェソスの会衆に対する音信の結びで,栄光を受けたイエス・キリストはこう言われました。「耳のある者は霊が諸会衆に述べることを聞きなさい: 征服する者に,わたしは,神のパラダイスにある命の木[ギリシャ語でクシロン]から食べることを許そう」― 啓示 2:7。
23,24 (イ)エフェソスの会衆に対する最後の言葉は,彼らにとってのみ益となりますか。説明しなさい。(ロ)『霊が述べることを聞きなさい』と全部で七回繰り返したキリストは,どの霊のことを指しておられましたか。
23 ここで,『アジア地区にある会衆』の七つすべてが警戒を促されています。「耳のある」霊的イスラエル各人は,耳をふさぐのではなく,耳をそばだてて,七つの全会衆に『霊が述べることを聞くよう』求められているのです。それは,霊の述べることが彼らすべてに当てはまるからです。「霊」といっても,何の霊ですか。使徒ヨハネが,七つの会衆に対するあいさつの所で,彼らがエホバ神のみ座の前にある「七つの霊からの」,過分の親切と平和を得られるようにと祈ったことが思い出されます。(啓示 1:4)その後,ヨハネの見た,天のみ座にすわっておられる神の驚くべき幻の中で,「神の七つの霊」が,『み座の前で燃えている火のともしび七つ』によって表わし示されています。(啓示 4:5)興味深いことに,アジアの七つの会衆に対する各音信の中で,耳あるものめいめいに,『霊が諸会衆に述べることを聞くよう』にとの招待が出されています。つまり,全部で七回招待が出されています。もっともこれは,「七つの霊」の特定の霊が一つの会衆へ,そして他の六つの霊がそれぞれ一つの会衆へと,各霊が自分の会衆に順を追って語りかけるという意味ではありません。
24 明らかに,「霊」は七回とも,栄光を受けた主イエス・キリストを通して語ります。それは,主イエス・キリストと共にある,神の霊,神の活動力です。これは,イエスがここで自分勝手に,また自分の権限で話しているのではないという意味です。彼がアジアの会衆に話されることは,七回とも,神の権限によるものです。したがって,耳ある者で聞く人はおのおの,イエスがここで話されることが,神の是認と支持を得ていること,そして必ず成就することを確信できます。
25 語られたことに基づいて判断すると,七つの音信の各はだれに当てはまりますか。
25 霊はその述べることを「諸会衆に」述べるのですから,それがエフェソスの会衆に述べることは,エフェソス会衆だけでなく,他のすべての会衆にも当てはまります。同様に,霊がアジアの他の会衆のいずれかに対する音信の中で述べたことは,七つの会衆すべてに当てはまります。したがって,イエスにある神の霊が七つの音信すべての中でなす栄光の約束は,そのすべての会衆に当てはまり,かつ彼らすべてが分け合うものなのです。―啓示 2:7,11,17,29; 3:6,13,22。
26 (イ)征服するようだれが励まされていますか。それにはどんな見込みが伴いますか。(ロ)征服を遂げることにおいて,わたしたちの主要な模範はだれですか。クリスチャンの中にある何が征服を遂げさせますか。
26 会衆の全成員は征服するよう励まされており,それには,エホバ神がみ子イエス・キリストを通して与えてくださる報いの約束が添えられています。イエス・キリストご自身,征服する,または打ち勝つ点での模範です。イエスは,ユダ・イスカリオテに裏切られる前,ご自分の十一人の忠実な使徒に対する話の中でこう言われました。「世にあってあなたがたには患難がありますが,勇気を出しなさい! わたしは世を征服したのです」。(ヨハネ 16:33)イエス・キリストは,患難に耐えねばなりませんでしたが,エホバ神への信仰と忠実さにより世を征服しました。使徒ヨハネは,何年も後,啓示を与えられた後でさえ,次のように記しました。『神から生まれたものはすべて世を征服します。そして,わたしたちの信仰,これが世を征服する力となったものです』。(ヨハネ第一 5:4)このように征服を遂げ,霊によって生み出されるクリスチャンに対し約束が与えられるのです。
27 (イ)イエスが啓示 2章7節で述べておられる「神のパラダイス」は,エデンの園を指していますか。なぜですか。(ロ)すると,それはキリストの統治の間に楽園に戻される地を指しているのですか。
27 最初に与えられた約束は,「神のパラダイス」を指し示しています。(啓示 2:7)もちろんこれは,アダムとエバが自分たちの創造者である神に背いた後に追い出された「エデンの園」,つまり「楽しみのパラダイス」ではありません。(創世 2:8; 3:24,新,ド)アブラハムの時代,ヨルダン川の地域は,地上のその元のパラダイスと比較して,「主のパラダイス」のようであると言われました。(創世 13:10,ド)エゼキエルの時代,古代ティルスの王は,その場所の美しさのために,「神のパラダイスの楽しさの中に」いると言われました。(エゼキエル 28:13,ド)その最初の「楽しみのパラダイス」はもう存在していません。ですから,啓示 2章7節はそれを指しているのではありません。また,キリストの千年統治の間に地に回復される楽園を指しているのでもありません。カルバリで杭に掛けられたイエス・キリストは,自分のそばの杭に掛けられていた同情的な悪行者に話した時,その地上のパラダイスのことを指しておられました。「きょうあなたに真実に言いますが,あなたはわたしとともにパラダイスにいるでしょう」― ルカ 23:39-43。
28 (イ)悪行者に約束されたパラダイスは,なぜ啓示 2章7節に述べられているパラダイスではありませんか。(ロ)悪行者が将来入るパラダイスと,啓示 2章7節の「神のパラダイス」にはどんな相違がありますか。
28 その悪行者は,神のパラダイスにある命の木から食べる資格を得られるよう,世を征服してはいませんでした。彼は,バプテスマを受けた,「神の会衆」の成員ではありませんでした。というのは,それは,西暦33年のペンテコステの日つまり,悪行者がイエスのそばで死んだ51日後に創設されたからです。(使徒 2:1-42)さらに,聖霊はそのペンテコステの日に初めてキリストの弟子たちに注ぎ出されたのですから,この悪行者は神の霊によって生み出されてはいませんでした。霊によって生み出されることは,神の天の王国を見,それに入ろうとする者に要求されている事柄の一つなのです。(ヨハネ 3:3,5; 7:39)この悪行者が死人からの復活によって入るパラダイスは,神の王国の下における,来たるべき地のパラダイスであるはずです。それは,啓示 2章7節に述べられている神のパラダイスとは違います。そこに述べられているのは,征服を遂げる教会つまり会衆に約束されている,天的また霊的なパラダイスです。
29 (イ)「神のパラダイスにある命の木」は何を象徴していますか。(ロ)その「命の木」から食べ続けることは何を意味しますか。(ハ)したがって,それは征服を遂げる霊的イスラエル人にどんな報いを提供しますか。
29 「神のパラダイスにある命の木」は,必ずしも命と不滅性の源であるエホバ神の象徴ではありません。むしろ,持続される命のための神の備えを象徴しています。征服者がその「命の木」にあずかるということは,ここで示されている特別な命のための神の備えにあずかることを意味しています。ヨハネがここで使ったギリシャ語は,クシロンで,字義どおりには「木材」を意味します。ですから,それは果樹園の場合のように,「樹木」を意味するのかもしれません。その「命の木」から食べ続けるということは,その木のある場所,つまり,「神のパラダイス」で生き続けることを意味します。まさにエホバ神のおられるところで,エホバ神と交わりを共にしながら,パラダイスのような状態の下で生き,かつ住むという意味です。それはなんと壮大な考えではありませんか。それには,復活の時,彼らが死人から天の,霊の被造物によみがえらされることが必要です。(コリント第一 15:43-50)征服を遂げることに対するなんと壮大な報いでしょう。今日,霊的な事柄を取り入れることのできる耳を持つ霊的なイスラエル人にとって,み子イエス・キリストにある神の霊が,霊によって生み出される者たちから成る会衆に述べる約束を聞くことは,本当に価値あることなのです。
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ベテル。ニューヨーク市ブルックリン コロンビア・ハイツ122-124番地
C・T・ラッセル