第13章
フィラデルフィアの使いへ
1 (イ)フィラデルフィア市はどこにありましたか。同市およびそこで信奉されていた宗教に関し,顕著な点を幾つか述べなさい。(ロ)同市のユダヤ人はクリスチャン会衆に対し,「フィラデルフィア」という名にふさわしい行動をしていましたか。
栄光を受けたイエス・キリストは今度は,サルデスの会衆からフィラデルフィアの会衆に注意を向けます。フィラデルフィアは,サルデスの南東50㌔,また,使徒ヨハネが同市の会衆に対する特別の音信を与えられたパトモス島から約200㌔離れた所にありました。今日,そこはアラセヒル(丘陵から後方部にかけて“赤味がかった都市”)と呼ばれています。その地方には何度か地震があり,ヨハネの時代のフィラデルフィアは,西暦17年の地震後,ローマ皇帝ティベリウス・カエサルが再建した都市で,ローマ硬貨に新カエサレアとして刻まれたこともあります。そこはぶどう酒の生産地にあったため,偽りの神バッカスつまりディオニュソスがその主神となっていました。それは,「エホバに逆らう強力な狩人」,後にタンムズとして崇拝者がそのために泣いたニムロデに相当します。(創世 10:8-10,新。エゼキエル 8:13,14)古代都市フィラデルフィア,つまり「兄弟の愛情」の都市には,クリスチャン会衆の外にユダヤ人が住んでいましたが,記録によると,割礼を受けた生来のユダヤ人は,クリスチャン会衆に対してほとんど兄弟の愛情を示しませんでした。
2,3 キリスト・イエスはフィラデルフィアの会衆に関しどんな見解を示されましたか。
2 西暦1世紀の終わり近く,フィラデルフィア会衆に対し,人間の観点からではなく,キリストの観点から,どんな見解が示されたでしょうか。それは,会衆の地的監督に送るよう使徒ヨハネに告げられた音信の中で,次のように述べられています。
3 「また,フィラデルフィアにある会衆の使いにこう書き送りなさい。聖なる者,真実なる者,ダビデの鍵を持つ者,開けてだれも閉じぬように,閉じてだれも開けぬようにする者がこう言う。『わたしはあなたの行ないを知っている ― 見よ,わたしはあなたの前に開かれた戸を置いた。それはだれも閉じることができない ― すなわち,あなたは少しの力があり,わたしのことばを守って,わたしの名に不実な者とはならなかった。見よ,わたしは,ユダヤ人であると言いながらそうでなく,偽りを語る,サタンの会堂の者たちを与える ― 見よ,わたしは彼らを来させてあなたの足もとに敬意をささげさせ,わたしがあなたを愛したことを悟らせる。あなたがわたしの忍耐に関することばを守ったので,わたしもあなたを,地に住む者たちを試すため人の住む地全体に臨もうとしている試みの時から守る。わたしは速やかに来る。自分が持っているものをしっかり守りつづけ,あなたの冠をだれにも取られないようにしなさい。
4 フィラデルフィア会衆に対する最後の言葉で,キリストは征服する者に何を約束されましたか。
4 「『征服する者 ― わたしはその者をわたしの神の神殿の中の柱とし,彼はもはやそこから決して出ないであろう。そしてわたしは,わたしの神の名と,わたしの神の都市,すなわち天からわたしの神のもとから下る新しいエルサレムの名と,わたしの新しい名をその者の上に書く。耳のある者は霊が諸会衆に述べることを聞きなさい』」― 啓示 3:7-13。
5 (イ)キリストがご自分を「聖なる者,真実なる者」と言われることにはどんな意義がありますか。(ロ)神聖さを守り通したことにより,彼はご自分の父からどんな職務を与えられましたか。
5 この音信を油そそがれたクリスチャンに送る,栄光に輝く天の者は,信頼に値します。そのかたは「聖なる者,真実なる者」だからです。他のユダヤ人が,信仰の欠如のゆえに,その「聖なる」かたイエス・キリストから離れて行こうとした重大な時に,ユダヤ人の使徒ペテロは彼にこう言いました。『わたしたちは,あなたが神の聖なるかたであることを信じかつ知るようになりました』。(ヨハネ 6:69)後日,イエス・キリストが天で栄光を受けた後の迫害の期間,エルサレムのクリスチャン会衆全員は,宣べ伝える特権をさらに願い,エホバ神に祈りをささげましたが,そのとき彼のことを聖なる者として語りました。「また,いやしのためにみ手を伸ばしてくださり,あなたの聖なるしもべイエスの名によってしるしや異兆が起きますように」。(使徒 4:23-30)その神聖さゆえに,彼は神の大祭司つまり,『忠節で,偽りも汚れもなく,罪人から分けられ,もろもろの天よりも高くなられ……わたしたちの必要にかなった』者とされたのです。―ヘブライ 7:26。
6,7 (イ)キリストが「ダビデの鍵を持つ者」であるとはどういうことか説明しなさい。(ロ)王の家の鍵を持つ者にはどんな権威が与えられましたか。(ハ)ローマの司教,あるいは地上でキリストを代表すると自称する者のうち,「ダビデの鍵」を所有したり使ったりしたことのある人がいますか。
6 栄光を受けたイエス・キリストは,聖なる者でありながら同時に,悪魔のように不実かつ偽り者ではあり得ません。それで,彼はフィラデルフィア会衆にご自分を明らかにするさい,自分がだれか,また何かについて真実を語られます。ご自分を「ダビデの鍵を持つ者,開けてだれも閉じぬようにし,閉じてだれも開けぬようにする者」,と言い得る聖書的な根拠は十分にあります。(啓示 3:7)ヨハネへのこの啓示の中でここで初めて出て来るダビデとは,栄光を受けたイエスのことを「ダビデの根」,さらに「ダビデの根また子孫」と述べている聖句に記されている,そのダビデのことです。(啓示 5:5; 22:16)つまり,エホバ神が永遠の王国に関して契約を結ばれたエルサレムの王,昔のダビデのことです。(サムエル後 7:4-29)イエスは,ダビデ王家の処女マリアから人間として生まれることにより,ダビデの王統の子孫となりました。(マタイ 1:1-25。ルカ 1:26-38; 2:1-21; 3:21-31。ローマ 1:1-4)そして,殉教の死に至るまで神に忠実であることにより,イエス・キリストは永遠の王国に関してダビデの永久相続者となりました。それゆえに,ダビデ王が持っていた,またそのダビデが忠実なしもべに託す「鍵」を持っておられるのです。
7 したがって,イエス・キリストがイザヤ書 22章22節の言葉を引用されたのは当を得たことでした。その個所でエホバ神は,エルサレムの王の信任を得ていたしもべエリアキムに触れ,こう言われました。『我またダビデのいへの鍵をその肩におかん 彼あくればとづるものなく彼とづればあくるものなし』。つまり,鍵を持つこのしもべは,ダビデ王の家に対して大いなる権限と権威の備わった重大な責任を担っていたのです。王は彼に開ける権威と閉じる権威を与えました。ここで注意すべき点は,この啓示がヨハネに与えられた時,栄光を受けたイエス・キリストは,「ダビデの鍵」が,マタイ 16章18,19節の言葉の語られた,使徒シモン・ペテロの使徒職継承者としての,異教都市ローマの司教のだれかの手中にあるとは言われなかったことです。開けまたしっかりと閉じる「鍵」によって象徴される権威を備えた「ダビデの鍵」の所有者は,地上でキリストを代表すると自称する者たちではなく,天のイエス・キリストご自身なのです。
8 (イ)フィラデルフィア会衆の前に,『だれも閉じることのできない開かれた戸』を置いたのはだれですか。(ロ)1919年,だれが忠実な残りの者の前に「開かれた戸」を置きましたか。ローマの教皇はそれに関してどんなむなしい試みをしましたか。
8 フィラデルフィア会衆の前に,『だれも閉じることのできない開かれた戸』を置いたのは,使徒のシモン・ペテロでも,異教ローマのいわゆる,ペテロの使徒継承者でも,または使徒ヨハネでさえもありません。それは,「ダビデの根また子孫」である,栄光を受けたイエス・キリストであり,彼はフィラデルフィア会衆の監督に次のように語られました。「わたしはあなたの行ないを知っている ― 見よ,わたしはあなたの前に開かれた戸を置いた。それはだれも閉じることができない ― すなわち,あなたには少しの力があり,わたしのことばを守って,わたしの名に不実な者とはならなかった」。(啓示 3:8)同様に,戦後の1919年,油そそがれたクリスチャンの忠実な残りの者たちの前に,『だれも閉じることのできない開かれた戸』を置いたのは,ローマの教皇ベネディクトゥス十五世(西暦1914-1922年)などではありません。事実,ローマとバチカン市の教皇は,その「開かれた戸」を閉じることができないでいます。なぜなら,その象徴的な「戸」は実際には,教皇や,他の単なる人間によってではなく,主イエス・キリストによって開かれたからです。
9 (イ)その「開かれた戸」は,フィラデルフィア会衆をどんな特権と機会に招き入れましたか。(ロ)『あなたには少しの力がある』というキリストの言葉は,どんな意味を持っていましたか。
9 1世紀当時,その「開かれた戸」がフィラデルフィア会衆をどんな特権と機会に招き入れたかは,今日正確には分かりません。しかし,それが象徴的な黄金の燭台としてのさらに多くのクリスチャン活動へ通ずるものであったことは明らかです。なぜなら,栄光を受けたイエス・キリストは,「戸」について話すに先立ち,会衆の監督に,「わたしはあなたの行ないを知っている」と言っておられるからです。彼は,会衆が「開かれた戸」を通り,新しく開かれた特権と機会を捕らえることができるのを知っておられました。なぜなら,フィラデルフィア会衆に語られたように,「あなたには少しの力」があるからです。政治的な力ですか。いいえ。恐らくそれは,フィラデルフィアの人びとに対する影響力のことでしょう。そして間違いなく,忠実なクリスチャンとしてすでに耐え忍んできたことに加え,なおも前進し続けようとするクリスチャンの献身と勇気また能力という力を指しているものと思われます。
10 終戦直後の1919年当時,この世に対する政治的な力に関し,忠実な油そそがれた残りの者はどんな立場にありましたか。
10 第一次世界大戦の終了した1918年,そして戦後の始まった1919年当時,イエス・キリストに追随する,油そそがれた忠実な残りの者は,政治的な力も,政治家,判事,軍人またキリスト教世界の僧職者との“手づる”もありませんでした。国際的な流血行為に直接加わる代わりに,キリストによる神の王国を宣べ伝えようと誠実な努力をするために迫害される,宗教的少数団体でした。「事物の体制の終結」に関するイエス・キリストの預言どおり,彼らはまさしく,「わたしの名のゆえにあらゆる国民の憎しみの的」とされました。(マタイ 24:3,9)ものみの塔聖書冊子協会により出版された彼らの聖書文書は,いろいろな国で全部またはその一部が禁書にされ,彼らの多くは,軍の収容所や強制収容所また刑務所に拘禁されました。ものみの塔協会の会長,会計秘書それに他の六人の著名な代表者は,後に法廷で破棄されることになった,戦時の偽りの告訴に基づき,アメリカ,ジョージア州アトランタの連邦刑務所に,1919年3月25日に至るまで拘禁されました。
11 フィラデルフィア会衆の持っていた「少しの力」とは何ですか。彼らはどのようにそれを使いましたか。
11 古代フィラデルフィアの会衆とその「使い」が,「開かれた戸」を与えられた時に持っていた「少しの力」とは,イエス・キリストの次の言葉どおりに行動する力だったのです。あなたは「わたしのことばを守って,わたしの名に不実な者とはならなかった」。彼らは,キリストの言葉,またキリストによって与えられた教えと命令を守り,それに付き従いました。クリスチャンであることを,言葉によっても,生き方によっても否定しなかったのです。クリスチャンが話し,考え,行ない,また宣べ伝えるべき方法に反する行動を取って,キリストの名に不実な者とはなりませんでした。したがって,今や「開かれた戸」を通って入った後においても,彼らはそうした態度を保ち続けるものと期待されました。
「開かれた戸」
12 油そそがれた残りの者たちは,第一次世界大戦後の時期が始まったとき「少しの力」を持っていましたが,それは大戦の期間中およびその直後に彼らが何をしたためですか。
12 第一次世界大戦の迫害と困難な状況を生き残った,試練を受け試された,油そそがれたクリスチャンの残りの者に関しても同様なことが言えます。本になった「終了した秘義」(英文)とその雑誌版(1918年3月1日特別号の「ものみの塔」),および「聖書研究者月刊」として知られていた一連の小冊子の配布は,1918年3月以降中断されていましたが,油そそがれた残りの者たちは,月二回刊行される彼らの公式雑誌「ものみの塔およびキリストの臨在の告知者」を,一号も欠かさずに出版し続けました。1919年4月13日,日曜日の夜,彼らは主イエス・キリストの命令に従い,全人類に対する贖いの犠牲としての彼の死を記念して主の夕食を祝いました。彼らは,理解できる範囲においてキリストの言葉を守ろうと努めたのです。自分たちのことを人間の指導者に追随する一宗派であるとする敵の非難を否定はしても,キリストの名を否定したり,キリストを否認したり,その名に故意に不実な者となったりしたことは一度もありません。彼らは,天の王国においてキリストと早く結ばれたいという希望をしっかり抱き続けました。その結果,戦後の時期が始まったとき,「少しの力」を持っていたのです。
13 (イ)第一次世界大戦後,「開かれた戸」は特にどんな事件とともに,油そそがれた残りの者の前に置かれましたか。(ロ)残りの者は開かれたその機会に関して何をしましたか。
13 「開かれた戸」は1919年,「ダビデの鍵」を持つ,栄光を受けたイエス・キリストにより,油そそがれた残りの者たちの前に確かに置かれました。この開くことは,特に,ニューヨーク,ブルックリンにおける,1919年3月26日,水曜日の意義深い出来事つまり,ものみの塔協会の会長,会計秘書および他の六人の特別な代表者たちの連邦収容所からの保釈とともに生じました。a 戦後の期間に対する特権と機会が,油そそがれた残りの者たちすべてに開かれたのです。そして,その特権と機会はすでに半世紀の間(本書〔英文〕の出版された1969年に至るまで)存続し,しかも拡大しています。1919年に持っていた「少しの力」を用いて,油そそがれた残りの者たちは前途の業が続く限りそれに備えようと,エホバの献身した民を直ちに再組織する仕事に取り掛かりました。
14,15 (イ)使徒パウロのために,また西暦1919年には,油そそがれた残りの者たちのために同じように「戸」が開かれました。このことに関してだれに誉れが帰せられるべきですか。(ロ)その「戸」が「だれも閉じることができない」ものであることはどのように証明されましたか。
14 使徒パウロは,自分のために開かれた「戸」に関し,ギリシャのコリントにいたクリスチャンに(西暦55年ごろ)次のように書き送りました。『活動に通ずる大きな戸口がわたしのために開かれています。しかし,反対者も多くいます』。(コリント第一 16:9)後日,彼らにこうも記しました。「主にあってわたしのために戸が開かれた時,わたしは……霊に安らぎを得られず……マケドニアに向かいました」。(コリント第二 2:12,13)使徒パウロのためにの戸を開いたのは,「ダビデの鍵を持つ」主イエス・キリストです。同じく,1919年の春,霊的イスラエル人の油そそがれた残りの者たちのために活動へ通ずる戸を開いたのは,地上の人間のだれでもなく,主イエス・キリストご自身です。その「戸」は,1919年当時多くの反対者がいたものの,『だれも閉じることのできない』戸であることがめいりょうになりました。ロシア共産主義,イタリアのファシズム,教皇の指導するカトリック信徒運動,ドイツのナチズム,そのいずれもこの戸を閉じることはできませんでした。第二次世界大戦中の軍国主義といえども,この戸を閉じることはできなかったのです。第二次世界大戦のぼっ発した1939年,全世界で7万1,509人のエホバの証人が活動を報告していましたが,戦争の終わった1945年には,14万1,606人が野外における証言活動を報告していました。
15 今日,油そそがれた残りの者たちと積極的に交わる人が多くいるため,世界各地で王国の良いたよりを定期的に宣べ伝えているエホバの証人の数は飛躍的に増加しており,1975年の初めには200万人を優に超えることになりました。これは疑いなく,「ダビデの鍵」の所有者が古代フィラデルフィアの会衆に与えた約束の成就に関係があります。「見よ,わたしは,ユダヤ人であると言いながらそうではなく,偽りを語る,サタンの会堂の者たちを与える ― 見よ,わたしは彼らを来させてあなたの足もとに敬意をささげさせ,わたしがあなたを愛したことを悟らせる」― 啓示 3:9。
「サタンの会堂」
16 フィラデルフィアにいた不信者のユダヤ人は,自分たちが「サタンの会堂の者」であることをどのように証明しましたか。
16 古代フィラデルフィア会衆およびその「使い」つまり監督と,当時の,割礼を受けた生来のユダヤ人との間には,明らかに接触がありました。ユダヤ人たちは,フィラデルフィア会衆の中にいる,キリストの十二使徒のように生まれはユダヤ人でありながら,クリスチャン信者となり,それゆえに霊的ユダヤ人つまり霊的イスラエル人となった者を,自分たちの方に引き戻そうとしたのかもしれません。あるいは,それらユダヤ人のクリスチャン信者が,肉の割礼や週ごとの安息日などといった,昔のモーセの律法にある特定の事柄を守り続けるか,または再び行なうよう説得しようとしたのかもしれません。いずれにせよ,そのようなユダヤ人の不信者は,フィラデルフィア会衆に反対し,それを腐敗させようとしました。彼らは,アブラハム,イサクまたヤコブ,そしてモーセの神の会堂の者であると主張しましたが,霊的イスラエル人の会衆に敵対する努力をしていたため,「サタンの会堂の者」であることを自ら証明することになりました。生来の,肉的な意味ではユダヤ人でしたが,霊的な意味でのユダヤ人ではなく,したがって,キリストの使徒のように,真のユダヤ人であると呼ばれるに値しなかったのです。彼らは自分ではユダヤ人であると言いましたが,主イエス・キリストは,『そうではない,彼らは偽りを語る』と言われました。キリストは当然,彼らの実体を知っておられるはずです。
17 (イ)イエスがフィラデルフィア会衆に対して述べた言葉は,今日,慎重に行動するよう生来のユダヤ人を警告するものとなっています。どのようにですか。(ロ)しかし,今日自分が「サタンの会堂の者」であることを示している主要な者たちはだれですか。
17 主イエス・キリストがどのように,それら偽りを語る自称ユダヤ人を来させ,フィラデルフィア会衆の足もとに敬意をささげさせたか,この点の消息を伝える歴史の記録はありません。1969年の「世界暦」(英文,224ページ)によると,世界には1,353万7,000人のユダヤ人がいます。「ダビデの鍵」を持つ,栄光を受けたイエス・キリストがフィラデルフィア会衆に言われたことと照らし,そうした生来のユダヤ人は,霊的ユダヤ人つまりイスラエル人の油そそがれたクリスチャンの残りの者に対しどんな態度を取るか,慎重に考慮すべきです。しかし,油そそがれた残りの者の面する主要な困難は,霊的ユダヤ人つまり「内面のユダヤ人」であると自称する,キリスト教世界の者たちからもたらされます。(ローマ 2:28,29)油そそがれた残りの者に反対し,彼らを迫害しているのは,主に,霊的ユダヤ人であると主張しているそうした宗教家,特にその僧職者たちなのです。それら宗教上の反対者は次のように論じ,かつ言い触らします。油そそがれた残りの者たちは,割礼を施された心を持つ霊的ユダヤ人ではない。いや,自分たちこそ,至高の神の会堂の本物の霊的ユダヤ人である,と。しかしその行動は,彼らが偽り者で,「サタンの会堂の者」であることを示しています。
18 真の,「内面のユダヤ人」はだれかという問いに関し,キリスト教世界の宗教家たちは何を見,何をすることを余儀なくされていますか。
18 真のユダヤ人,霊的な意味での「内面のユダヤ人」であるということに関し,現代20世紀の歴史の事実は,キリスト教世界の宗教家たちを不利な立場に立たせます。彼らは,真のクリスチャン,真の霊的ユダヤ人であるということに関する限り,エホバの崇拝者である油そそがれた残りの者たちこそ,狂暴な反対,迫害,独裁主義,軍国主義,国家主義的政策,物質主義,はなはだしい無法状態に面しながら,真のクリスチャンの忠誠を守ってきた者であることを見てきましたし,またそう認めざるを得ない立場にあります。油そそがれた者たちに敬意を示してもらう代わりに。自分たちがエホバの証人の油そそがれた残りの者を認め,身をかがめねばならなかったのです。もちろん不承不承にではありますが,事実を前にしては,それを回避することはできませんでした。エホバの記されたみことばにおののく油そそがれた残りの者については,イザヤ書 66章5節に予告された預言のとおりになりました。
19,20 (イ)フィラデルフィア会衆に対するキリストの預言とイザヤ書 66章5節を考え合わせると,フィラデルフィア会衆の足もとに敬意をささげた者たちはどんな祝福を受けましたか。(ロ)同様に,油そそがれた残りの者に関し,西暦1919年以来どんな事態が起きていますか。
19 『なんぢらエホバの言をおそれおのゝく者よエホバの言をきけ なんぢらの兄弟なんぢらを憎みなんぢらをわが名のために逐出していふ 願くはエホバその栄光をあらはして我等になんぢらの歓喜を見せしめよと 然どかれらは恥をうけん』。―イザヤ 60:14もごらんください。
20 こうして来て,フィラデルフィア会衆の足もとに敬意をささげ,イエス・キリストがこの会衆を愛しておられることを知るなら,彼らは何に導かれますか。もしそうした人のある者たちが,クリスチャンとなって会衆の成員になるなら,フィラデルフィア会衆の成員の数が増加することになります。そうした事態は,西暦1919年以来,霊的イスラエル人つまりユダヤ人の油そそがれた残りの者たちに関し,確かに生じています。付け加えられた大多数の成員は,キリスト教世界の様々な宗派から出て来ているからです。
21 (イ)それら霊的兄弟たちの外に,だれが残りの者に加わって神を崇拝しますか。(ロ)それらの者たちが残りの者の前で『敬意をささげる』ということは,それにより彼らがエホバ神にのみささげられるべき崇拝からそれるという意味ですか。
21 さらに,画期的な年であった西暦1935年以降,百万以上の人びとが,大いなるバビロンつまり,偽りのバビロン的宗教の世界帝国から出て来ました。そして,油そそがれた残りの者の隊列に加わり,エホバ神を唯一の生けるまことの神として崇拝し,そのみ名とメシアによる王国とを広く告げ知らせています。これは,栄光を受けたイエス・キリストが忠実な油そそがれた残りの者を愛しておられる,否認することのできない証拠であり,1935年以来加えられている百万人以上の仲間の崇拝者は,そのことを知っています。彼らは,油そそがれた残りの者が神の業において示している指導の能力を認め,敬意をささげます。しかしそれは,エホバ神にのみささげられるべき崇拝からそれる,ということではありません。
「試みの時」
22 油そそがれた残りの者たちは,第一次世界大戦以後どのように耐え忍ぶことができましたか。
22 油そそがれた残りの者たちは,1918年11月11日の第一次世界大戦終了後に始まった苦難の時にもかかわらず,すでに半世紀以上ものあいだ忍耐を示してきています。悪化する世界状勢や世界の出来事は,クリスチャンの信仰と忠誠を厳しく試みており,その結果,偽善的なクリスチャンと真のクリスチャンの相違は判然としてきています。しかしそうした事態も,残りの者を犠牲にすることはできません。彼らが耐え忍んだことは明白です。といっても,それは自分の力によってではなく,上からの助けによってです。これは,主イエス・キリストがフィラデルフィア会衆の「使い」に語った次の言葉の成就でした。「あなたがわたしの忍耐に関することばを守ったので,わたしもあなたを,地に住む者たちを試すため人の住む地全体に臨もうとしている試みの時から守る」― 啓示 3:10。
23 (イ)1918年以後の試みにはどんな事柄が含まれていますか。その目的は何ですか。(ロ)キリストは残りの者を「試みの時」から守ってこられましたが。それは彼らが特にどの命令に従ったからですか。
23 1918年の第一次世界大戦終了以来,油そそがれた残りの者をも含め,地に住むすべての人がこの試みを受けています。人間および目に見えない悪霊に源を発する圧力は,物質主義,信仰の欠如,反抗,革命,国家主義の方向へすさまじい勢いでのしかかっています。その試みは,人が,悪魔サタンの,目に見えない支配下にあるこの事物の体制の者か,あるいは,神のメシアによる王国を支持し,その関心事を求める者かを,神の前で決定するものとなってきました。人を世の圧力と魅力に屈服させ,この事物の体制の一部にならせようとする強い誘惑が存在しているのです。しかし20世紀における50年余の歴史は,油そそがれた残りの者たちがこの試みに耐えてきたことを証明しています。1919年,キリスト教世界が,世界の平和と安全のために政治的な国際連盟を唱道し支持する方向を打ち出した時,油そそがれた残りの者たちは,キリストによる神の王国の側に公の立場を取ることを再確認しました。イエスがマタイ 24章14節で予告されたとおり,彼らは,かつてない勢いで神の王国を宣べ伝え始めました。それゆえに,イエスは「試みの時」から彼らを守ってこられたのです。
24 忠実な油そそがれた残りの者たちは,現在まで耐え忍んできたとはいえ,啓示 3章11節のキリストの警告に注意を払う必要があります。なぜですか。
24 しかし,『一時』のような比較的短い期間におけるこの世界的な試みは,まだ終了したわけではなく,忠実な油そそがれた残りの者は,決して自己過信に陥ったりはしません。試みの続く中で,今までのところ,霊的な災難の犠牲になったことはありませんが,試みの最高潮はこれからなのです。その時には,栄光を受けたイエス・キリストは最終的な検分のために到来し,油そそがれた残りの者が最後まで耐え忍んだかどうかをごらんになります。ですから,彼らはフィラデルフィア会衆の「使い」に与えられた警告に注意を払う必要があります。「わたしは速やかに来る。自分が持っているものをしっかり守りつづけ,あなたの冠をだれにも取られないようにしなさい」― 啓示 3:11。
25 (イ)油そそがれた残りの者たちは,「わたし[キリスト]の忍耐に関することば」をどのように守ってきましたか。(ロ)油そそがれた残りの者は,どのようにして「自分が持っているものをしっかり守りつづけ」ねばなりませんか。
25 油そそがれた残りの者は,「わたし[キリスト]の忍耐に関することば」を持っています。それを守り行ない,それが述べる忍耐,すなわち,キリストが地上にいた時に神への従順の試みの下で示された忍耐の模範に倣おうとすることにより,その言葉を守ってきました。彼の名に不実な者とならず,国家主義や,国家唯一の指導者として総統<フューラー>,首領<デューチェ>を自任する全体主義的独裁者の存在にもかかわらず,キリストを自分たちの指導者,また,神に油そそがれた王である,と言い表わしてきました。彼らは,「ダビデの鍵」を持つキリストによって自分たちの前に置かれた,「開かれた戸」を通って入ったのです。そしてこの「戸」によって開かれた,神のメシアによる王国を支持するクリスチャン活動を,この世のあらゆる反対や迫害にもかかわらず,決して断念しようとはしませんでした。しかし,キリストの到来が今や間近とはいえ,その時までなおこの王国の奉仕を固く守り続けねばなりません。彼らは,クリスチャンの忍耐と奉仕に関する良い記録を神に対して持っており,キリストと共に天で支配するという正当な希望を抱いています。こうした事柄を彼らはしっかり守る必要があるのです。そうすれば,他のだれにも冠を取られることはありません。
26,27 (イ)油そそがれたクリスチャンのある者が地上の試みに失敗するなら何が起こりますか。(ロ)王国相続者が天の冠に対する資格を確かなものにするよう,キリストはどんな励ましを与えますか。
26 キリストと共になる天の王国において,王冠の数は限られており,14万4,000の王冠があるのみです。天の冠の各は,最後には,忠実なふさわしいクリスチャンが着けることになります。天の冠に対する希望を神から与えられた,油そそがれ,霊によって生み出されたクリスチャンが,地上の試みに失敗し,約束の冠に値しない者となり,その結果,他の人が王国に召され,終わりまで忠実を実証するその者に冠が取って置かれねばならないというような事態になるなら,最初の人は失望を味わうことでしょう。それで,王国相続者が自分の持っているものを固く守り,天の冠に対する資格を確かなものにするよう励ますため,イエス・キリストは神の霊により次の音信を全会衆に送ります。
27 「征服する者 ― わたしはその者をわたしの神の神殿の中の柱とし,彼はもはやそこから決して出ないであろう。そしてわたしは,わたしの神の名と,わたしの神の都市,すなわち天からわたしの神のもとから下る新しいエルサレムの名と,わたしの新しい名をその者の上に書く。耳のある者は霊が諸会衆に述べることを聞きなさい」― 啓示 3:12,13。
28 (イ)キリストはこの音信の中で,「わたしの神」という表現を四回使っておられますが,それはどんな意義がありますか。(ロ)神殿が神のものであるのに,キリストはなぜご自分が「わたしの神の神殿の中の柱」の各を立てると言い得るのですか。
28 「征服する者」に対するこの音信の中で,主イエス・キリストが「わたしの神」という表現を四回使っている点に注目してください。彼はご自分が,三「者」の各が同等かつ永遠に共存する三位一体の「第二位の者」であると主張したのではなく,天の父を,ご自分の崇拝し,仕え,従う神であること,また,霊的「神殿」がご自分の神のものであることを認めたのです。彼は,その霊的神殿に霊により住まわれるその所有者たる神により,「土台の隅石」として据えられたかたです。(エフェソス 2:20-22)しかしイエス・キリストは,神によりその霊的神殿の共同建築者として用いられるので,ご自分が「わたしの神の神殿の中の柱」の各を立てる,ということができるのです。
神の神殿における永久的立場
29 征服を遂げるクリスチャンが神の神殿の中の柱とされることは何を意味しますか。
29 征服者となるクリスチャンがその神殿で柱とされることは,当人がその霊的建造物の中で固定した立場を与えられることを意味しています。代理の建築者イエス・キリストが,そうした霊的な柱に関し,「彼はもはやそこから決して出ないであろう」と断言されたのはそのためです。昔のフィラデルフィアの地域を揺るがす地震のようなものは何も,神の神殿のその者の立場から霊的な柱を取り除くことはできません。彼はあらゆる出来事や状況の中にあってとこしえに,神の真理および,全宇宙における唯一の生けるまことの神の崇拝を擁護する柱として奉仕するという,祝福された特権を享受するのです。(テモテ第一 3:15,16。ペテロ第一 2:4-6)これは征服者たちにとって,なんと高貴な奉仕,神とのなんと貴重な親密さを意味するのでしょう。
30 (イ)イエスは地上におられた時,ご自分の父の名の正確な発音をご存じでした。どうしてそれが分かりますか。(ロ)征服を遂げるクリスチャンの体のどこに,イエスは「エホバ」という名を記されますか。それは何を意味しますか。
30 征服者に対するこの約束の中でイエス・キリストは,ご自分の神が固有の名を持っておられることを証ししています。神のみ子は,イエスという,固有の名を持っておられ,それに「キリスト」という称号が付されています。同様に,神もご自身の名を持っておられます。イエスはご自分の神のみ名を知っており,「征服する」ご自分の追随者おのおのの上にその名を記されるのです。イエス・キリストは地上におられた時,霊感を受けたヘブライ語聖書を読み,その中に神のみ名が幾千回も出てくることを知っておられました。そこには神のみ名が,JHVHまたはYHWHに相当する,ヘブライ語のアルファベットの四文字でつづられています。イエス・キリストはその名の正確な発音をご存じでした。今日それはエホバ,最近ではヤハウェと発音されています。主イエス・キリストはこの名を,征服を遂げるクリスチャンおのおのの上に記すと約束しておられます。疑いなく,見る人すべてがはっきり目にすることのできる,額に相当する部分にそれを記されるのでしょう。古代の聖書時代,人びとは,額に主人の名の焼印を押された奴隷を見ると,それにより,当の奴隷が記された名の主人に属する者であることを知りました。同様に,イエス・キリストが征服者に記す「わたしの神の名」も,その征服者がイエスの神であるエホバに属することを印するものとなります。
31 (イ)主イエス・キリストは,他のどんな誉れある名を征服者の上に記されますか。(ロ)その名にはどんな意義がありますか。その名はどれほど重要ですか。
31 征服者は,恥ずべき必要のない,別の誉れある名をもしるしとして受けます。主イエスはこう付け加えておられるからです。「わたしは……わたしの神の都市,すなわち天からわたしの神のもとから下る新しいエルサレムの名……をその者の上に書く」。昔の地上のエルサレムが,イスラエル連合王国の政府所在地また首都であったのと同じく,「天からわたしの神のもとから下る新しいエルサレム」は,天と地における神の全創造物の首都,また首都組織となります。啓示の幻の中で使徒ヨハネは後に,この象徴的な都市である新しいエルサレムが,全人類を完全な政府をもって支配し祝福するため,天から,神のもとから下って来るのを見ました。(啓示 21:2-4)エルサレムという名それ自体は,「平和の所有」を意味します。征服を遂げるクリスチャンが,「ダビデの鍵」を持つかたにより,新しいエルサレムの名をしるしとして付けられる時,その者はその象徴的な都市に属す者,その一部,その市民となるのです。フィリピ 3章20節によると,その「市民権は天にあり」ます。彼は神の首都組織の成員なのです。それはなんと高貴な職ではありませんか。―詩篇 87篇5,6節と比較してください。
32 イエスが「征服する者」の上に書かれる「わたしの新しい名」とは何ですか。この「新しい名」はついにはだれの知るところとなりますか。
32 神の首都組織の中で最も重要なかたは,み子イエス・キリストです。であれば,み子が,「征服する者」に対するご自分の約束に,次の結びの言葉を付け加えられるのは極めて適切なことといえます。「わたしは……わたしの新しい名をその者の上に書く」。(啓示 3:12)後に,啓示 14章1-3節で,14万4,000人の征服者たちは,子羊イエス・キリストと共に天のシオンの山に立ち,「彼の名と彼の父の名をその額に書かれて」いると示されています。しかしその個所では,彼らの上に彼の新しい名が書かれているとは述べられていません。彼の「新しい名」が何かは,「彼には記された名があるが,彼自身のほかはだれもそれを知らない」と書かれている,啓示 19章12節においてさえ啓示されていません。それは,征服を遂げるクリスチャンに与えられる「白い小石」の上の名のように,他の被造物に対しては秘されているのです。「その小石には,それを受ける者以外にはだれも知らない新しい名が書かれている」,とあるとおりです。(啓示 2:17)キリストの天における「新しい名」は,彼が14万4,000人の弟子たちの上にそれを書く時,いうまでもなく,彼らの知るところとなります。
33 (イ)イエス・キリストの「新しい名」の創始者また与え主はだれですか。(ロ)キリストの「新しい名」を書かれることは,14万4,000人にとって何を意味しますか。(ハ)彼らは征服者となるがゆえに,どんな三重の方法で報われますか。
33 当然,神エホバは,キリストの天的な「新しい名」をご存じです。それを彼に与えたのは神だからです。イエス・キリストは定めの時に,この「新しい名」を14万4,000人の共同相続者の上にいわば書くことにより,彼らとそれを分け合います。その「新しい名」を自分の上に書かれることは,彼の共同者とみなされ,神との新しい天的関係におけるイエス・キリストに属する者である,という意味です。天と地の他のいかなる被造物も,イエス・キリストが神エホバと持たれる極めて個人的かつ親密なこの新しい関係を分け合う特権にはあずかりません。このように名を記される14万4,000人のクリスチャン征服者は,天的な父である神の名,み子イエス・キリストの名,天の都である新しいエルサレムの名を帯びます。このようにして彼らは,霊が諸会衆に述べたことに注意を払う征服者となった報いとして,三重の仕方で,この上ない誉れを与えられるのです。
[脚注]
a 1919年4月15日号の「ものみの塔」誌(英文),118ページ,2節,さらに「光」と題する本(英文)の第一巻,249ページ,2節をごらんください。