「御名があがめられますように」― それはどのような名ですか
あなたは信仰心をお持ちの方ですか。日本では,たいていの人は,自分の家族は先祖代々の仏教徒です,と答えることでしょう。中には,神道を奉じていると言う人もいます。聖書や創造者について聞いたことのある人も少なくありません。その中には,イエス・キリストの教えた有名な祈りの言葉に通じている人もいるでしょう。その祈りは次の言葉で始まっています。「天にいますわれらの父よ,御名があがめられますように」。(マタイ 6:9,日本聖書協会 口語訳)あなたもこの祈りをこれまでに耳にしたことがありますか。
イエスはなぜ,この祈りの中で神のみ名の『あがめられる』,つまり神聖なものとされることをまず第一に求めたのだろうか,とお考えになったことがありますか。イエスはその後に,神の王国の到来すること,神のご意志が地上においてなされること,わたしたちの罪の許しなど,他の事柄にも言及されました。これら他の願いがかなえられることは,最終的には,永続する平和が地上に実現し,人間が永遠の命を享受できるようになることを意味しています。これより重要な事柄を考えることができるでしょうか。それにもかかわらず,イエスは,神のみ名が神聖なものとされることをまず第一に祈り求めるようわたしたちに告げられました。
イエスは,祈りの中で神のみ名を第一にすることをこの時たまたまご自分の追随者たちに教えたのではありません。その名がイエスにとって極めて重要であったことは明らかです。イエスはご自分の祈りの中で繰り返しみ名に言及しておられたからです。イエスは,人々の聞いているところで神に祈りをささげていたある時,「父よ,み名の栄光をお示しください」と言われました。すると神ご自身が,「わたしはすでにその栄光を示し,さらにまたその栄光を示す」とお答えになりました。―ヨハネ 12:28,エルサレム聖書。
イエスは亡くなられる前の晩,弟子たちの聞いているところで神に祈りましたが,弟子たちはこの時にも,神のみ名を極めて重要なものとするイエスの言葉を聞きました。「わたしは,あなたが世から取ってわたしに与えてくださった人々にみ名を知らせました」とイエスは言われました。その後,このようにも祈られました。「わたしはみ名を彼らに知らせました。またこれからも知らせてゆきます」― ヨハネ 17:6,26,エルサレム聖書。
神のみ名はイエスにとってなぜそれほど重要なものだったのでしょうか。み名が神聖なものとされることを祈るよう告げて,イエスはわたしたちにとっても神のみ名が重要なものであることを示されましたが,それはなぜでしょうか。この点を理解するには,聖書時代に名前がどのようにみなされていたかを知る必要があります。
聖書時代における名前
明らかにエホバ神は,物に名前を付ける願望を人間に付与されました。最初の人間には名前があり,アダムというのがその名でした。創造の物語の中で挙げられている,アダムが最初に行なった事柄の一つは,動物に名前を付けることでした。アダムに神から妻が与えられた時,アダムはすぐさま彼女を「女」(イッシャー,ヘブライ語)と呼びました。その後,アダムは彼女に,「生ける者」という意味のエバという名を付けました。それは,『彼女が生きているすべての者の母となる』ことになっていたからです。(創世記 2:19,23; 3:20)今日でも,わたしたちは人に名を付けるその習慣に従っています。実際,名前というものがなければ物事をどのように行なってゆけるのか想像もできません。
イスラエル人の時代に,名前は単なるラベルのようなものではありませんでした。名前にはそれなりの意味がありました。例えば,「笑い」という意味のイサクの名は,子供を持つようになるという知らせを初めて聞いた時の老年の二親の笑いを思い起こさせました。(創世記 17:17,19; 18:12)エサウの名には「毛深い」という意味があり,身体的な特徴を表わしていました。彼の異名エドムには「赤い」もしくは「赤みがかった」という意味があり,それは,彼が1杯の赤い煮物と引き換えに自分の長子の権を売ったことにちなんだものでした。(創世記 25:25,30-34; 27:11; 36:1)ヤコブは双子の兄弟エサウよりほんのわずか下でしたが,エサウから長子の権を買い取り,父から長子としての祝福を受けました。ヤコブの名には生まれた時から,「かかとをとらえる」もしくは「押しのける者」という意味がありました。(創世記 27:36)同様に,イスラエルはソロモンの治世中,平和と繁栄を享受しましたが,彼の名には「平和を好む」という意味がありました。―歴代第一 22:9。
そのため,例解聖書辞典(The Illustrated Bible Dictionary,第1巻,572ページ)は次のように述べています。「旧約[聖書]中の『名』という語の研究は,ヘブライ語においてそれがいかに深い意味を持つかを明らかにしている。名は単なるラベルではなく,その名を有する人の真の人格を表わしている」。
神が名前を大切なものと見ておられることは,バプテストのヨハネの母,またイエスの母になろうとしていた女性に神がみ使いを通してそれぞれ指示をお与えになり,その子にどのような名を付けるべきかを示されたことにも見られます。(ルカ 1:13,31)また,神は時折,人の名前を変えたり,人に新たな名前を与えたりして,その人がご自分の目的の中で占める立場を示されました。例えば,神は,ご自分の僕アブラム(「高揚の父」)が多くの国民の父となることを予告された時,その名をアブラハム(「多数のものの父」)と改めさせました。また神はアブラハムの妻サライ(「争いを好む」)の名をサラ(「王妃」)に変えました。それは,彼女がアブラハムの胤の母になるからでした。―創世記 17:5,15,16。創世記 32:28; サムエル第二 12:24,25と比較してください。
イエスも名前が重要であることを認めておられ,ペテロに奉仕の特権を与える際,ペテロの名に注意を向けておられます。(マタイ 16:16-19)霊の被造物にさえ名前が付けられています。聖書に挙げられている二つの例はガブリエルとミカエルです。(ルカ 1:26。ユダ 9)ですから,恒星や惑星,町や山河といった無生の物に名前を付ける人間は自分たちの創造者を見倣っているにすぎないのです。例えば聖書は,神がすべての星をそれぞれの名で呼ばれると述べています。―イザヤ 40:26。
確かに,名前は神の目に重要なものであり,神は人間に,人や物をそれぞれの名前によって識別するという願望をお与えになりました。ですから,み使いにも,人間にも,動物にも,また星その他の無生の物にも名前があります。では,これらすべてのものの創造者ご自身が名前のないままでおられるというのは矛盾していないでしょうか。正にそのとおりです。詩編作者の次の言葉を考えるとき,特にそう言えます。『すべての肉なる者が,定めのない時に至るまで,神の聖なるみ名をほめたたえるように』― 詩編 145:21。
新約聖書神学新国際辞典(The New International Dictionary of New Testament Theology,第2巻,649ページ)は次のように述べています。「聖書の啓示における最も基本的かつ肝要な特徴の一つは,神は無名ではない,という事実である。神には固有の名があり,その名によって神に呼びかけることができるし,またそうすべきである」。「天におられるわたしたちの父よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように」と祈るよう追随者たちに教えた際,イエスは明らかにその名を念頭においておられました。―マタイ 6:9。
これらすべてから明らかなように,神のお名前が何であるかを知るのは重要なことです。あなたは神の固有のみ名をご存じですか。
神のみ名は何か
驚くことに,キリスト教世界の諸教会の幾億を数える教会員の大半はこの質問に答えるのにおそらく困難を感じるでしょう。神のみ名はイエス・キリストです,と答える人がいるかもしれません。しかしイエスは,「わたしは,あなたが世から与えてくださった人々にみ名を明らかにしました」と言われた際,自分以外の他のだれかに祈っておられました。(ヨハネ 17:6)子が父に語りかけるように,イエスは天におられる神に祈っておられたのです。(ヨハネ 17:1)『あがめられる』つまり『神聖なものとされる』べきなのは天の父のみ名でした。
しかし,現代の多くの聖書にそのみ名は載っておらず,教会でもそれはまれにしか用いられません。ですから,『あがめられる』どころか,そのみ名は聖書の幾百万もの読者にとって縁のないもののようになっています。聖書翻訳者たちが神のお名前をどのように扱っているかを示す例として,み名の出てくる節を一つだけ考慮してみましょう。詩編 83編18節を取り上げますが,四つの異なった聖書の中でこの聖句がそれぞれどのように訳出されているかを以下に記します。
「主という名をおもちになるあなたのみ,全地をしろしめすいと高き者であることを彼らに知らせてください」。(日本聖書協会 口語訳)
「こうして彼らが知りますように。その名,主であるあなただけが,全地の上にいますいと高き方であることを」。(新改訳)
「ヤーウェと名のる あなただけが,全地において いと高き者。それを かれらに思い知らせよ」。(カトリック・フランシスコ会訳,1968年)
「然ばかれらはエホバてふ名をもちたまふ汝のみ全地をしろしめす至上者なることを知るべし」。(日本聖書協会 文語訳)
これらの訳の中で神のお名前はなぜこのように異なっているのでしょうか。主,主,ヤーウェ,エホバのどれが神のお名前なのでしょうか。それとも,これらすべてをみ名として受け入れることができるのでしょうか。
その答えを得るには,聖書がもともと日本語で書かれたのではないということを覚えておかなければなりません。聖書筆者たちはヘブライ人であり,そのほとんどの部分を当時のヘブライ語やギリシャ語で書きました。わたしたちのほとんどはこれら古代の言語を話しません。それでも,聖書は数多くの現代語に翻訳されてきましたから,わたしたちは,神の言葉を読みたいと思うとき,それらの翻訳を用いることができます。
クリスチャンは聖書に深い敬意を抱いており,『聖書全体は神の霊感を受けたものである』ことをそのとおりに信じています。(テモテ第二 3:16)ですから,聖書の翻訳には重い責任が伴います。仮にだれかが聖書の内容の一部を故意に変えたり省いたりするなら,その人は霊感によるみ言葉を改ざんしていることになります。そのような人には,聖書の次の警告が当てはまるでしょう。「これらのことに付け加える者がいれば,神はこの巻き物に書かれている災厄をその者に加えるであろう。また,この預言の巻き物の言葉から何かを取り去る者がいれば,神は,命の木から……彼の分を取り去られるであろう」― 啓示 22:18,19。申命記 4:2も参照してください。
ほとんどの聖書翻訳者は疑いなく聖書に敬意を抱いており,その内容を現代の人が理解しやすいものにしたいと誠実に願っています。しかし,翻訳者たちは霊感を受けてはいません。また,大半の翻訳者は宗教上の事柄について独自の強い見解を抱いています。また,個人的な考えや好みに影響されることもあります。人間的な間違いを犯したり,判断を誤ったりする場合もあります。
ですから,次の幾つかの重要な質問をするのは当を得たことです。神の本当のお名前は何ですか。また,さまざまな聖書翻訳が神のみ名として異なったものを挙げているのはなぜでしょうか。これらの質問に対する確かな答えを得た後に,神のみ名の神聖なものとされることがなぜそれほど重要なのかという初めの問題に戻ることができます。
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み使いにも,人間にも,動物にも,また星その他の無生の物にも名前がある。これらすべての創造者に名前がないというのは矛盾していないだろうか
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神のみ名がイエスにとって極めて重要であったことは明らかであった。イエスはご自分の祈りの中で繰り返しみ名に言及されたからである