敬虔の形を持つ
どんな動機で,私たちの宗教,私たちの崇拝の形式をしますか? それは神に対して,また神が私たちになされたことへの愛ですか? 神を讃美し,崇めたいために,なされていますか? それとも,宗教から何物かを得たい,或は他の人の考えているような物質的な益をうけたいと希望してなされますか? 霊と真をもつて神を崇拝していますか,それとも『敬虔の形を持つていても,その力にたいしては偽りであることを証明して』いますか? ―テモテ後 3:5,新世。
このことについて自分を欺くことは,非常に易しいものです。予言者エレミヤはこう述べています。『心は万の物よりも偽る者にして,はなはだ悪し。誰がこれを知るをえんや。』なぜそうですか? 最初の罪により,人の心は若い時から悪いものだからです。それで『愚かなること子の心の中につながる。懲しめの鞭これをおいいだす。』と書かれているのです。多くの人のしているように,自分自身を欺いたり,他の人を欺くこともできます。しかし,創造者であるヱホバ神を欺くことができるなどという欺きの考えをしてはなりません。『創造されたもので,神の目の前に表われないものは一つもない。すべてのものは,露わであり,神の目にはつきりと曝露されている。そして,私たちは神と交りを有しているのである。』― エレミヤ 17:9。シンゲン 22:15。ヘブル 4:13,新世。
悪を行おうとする傾向が自分の中にあるだけに止まらず,悪行をそそのかす者,すなわち他ならぬ悪魔サタンと戦わねばなりません。悪魔はなぜ利己的な道を取らせるのに関心を持つていますか? 利己主義に訴えてすべての人を神より離反させ,自ら創造者ヱホバ神に匹敵するためです。悪魔自身極端に利己的であつて他の者が無私の動機で行うということは,考えることのできないものです。それでヨブの動機を非難しただけでなく,ヨブを弱めるためにできるだけのことをなし,自分の正しいことを証明しようとしました。人間のヱホバ神崇拝を止めさせることができないならば,その崇拝をたんなる敬虔の形に退化させて,堕落させようとしています。非常に良く成功したため,悪魔は全地を惑していると聖書は述べています。
悪魔サタンおよびそれに従う者たちばかりでなく,生まれつきの利己主義とも戦わねばならぬため,神の予言者が次のように祈つたのは全く当然のことです。『ヱホバよわれ知る。人の途は己によらず,かつ歩む人は自らその歩みを定むること能わざるなり。』神はこのため,その愛ある御親切から,人間に御自身の御言葉,聖書を与えられ,足の燈火,路の光にいたしました。神の御言葉から,助言をうけることにより,たとえ生まれつきの弱さを持つているといつて,サタンに欺かれたり,悲しんだりしてはなりません。―エレミヤ 10:23。
現代の例
『敬虔の形を持つていても,その力にたいしては偽りであることを証明すること』は,終の日を特徴づけるしるしの一つであると使徒パウロは述べ,また私たちは終の日に生活していると聖書の予言は述べている故に,この状態が今日いままでになく広がつていることは,驚くにあたりません。例えば,クリスチャン奉仕者で神癒者と自称するミシガン州デトロイトの某『予言者』のことを考えてごらんなさい。イエスは弟子たちにむかい,地上に宝を積まず,天に宝を積み,『何を着ようかと体のことに思い煩うな。』と言われました。(マタイ 6:25,新世)しかし,デトロイト『予言者』は,イエスに従うと自称した結果,1万2900ドルの毛皮の外套や,衣服400着や,数え切れぬ程多い宝石や,ぜいたくな自動車のようなものを含む,財産を蓄積しました。明らかに,『敬虔の形』を持つていますが,無私の奉仕の力は何処にありますか?
別の例は,宗教的な物品の生産と販売です。それで,1954年11月15日のタイム誌は,『若干人の献身』という見出しの下に,こう述べていました。『ひとりの販売員は,見本の箱を持つてローマ・カトリック寺院のお土産店に来て,それから「今年いちばんの品物」を示した。すなわち,小さなプラスチックの框に入つているイエスの絵である。その販売人は絵を少し動かして,イエスの鬚のある顔は聖母マリヤの鬚の無い顔に変ると説明した。』他の品物の中に,次のようなものがあつた。『顔に覆いをかけ,祈りをしている一婦人のメダルで,それは10ドルであり,その下には「不滅になつた」競馬と,騎士がいた。そして「聖アニタ,我を勝者にさせ給え」と彫られていた。また,くらやみに輝く発光の聖い心。生産者の回状によると「病人への大きな慰め」と言われている。「商売の利潤を高めるものは常に入用である。」』そのような品物を取扱うお土産店や,また品物を供給し,またそれを助ける人々は,ただ「敬虔の形」だけに関心を払つているのです。しかし,何という形なのでしよう!
このことは,ハリウッド映画産業にも言えることです。ハリウッドは,「敬虔の形」が『良いもの』であると発見しました。それで,宗教的な映画を次から次に生産しています。しかし,それは宗教や,人々の道徳に関心を持つているからではなく,『クリスチャン伝統の劇場切符売上げ魔術』のためだからです。それに誠実が欠けていることは,これらの映画が『初期キリスト教のローマの背景にあつた華々しい不道徳や残酷』で人目を惑している仕方からも明白です。
人気のある牧師や,特に福音宣教師は,成功している商人や国家を讃めることにより,その崇拝が単なる敬虔の形だけであることを表しています。例えば,ひとりの福音宣教師は,フランスの後れている経済と比較して,ドイツの方がフランスよりもはるかに敬虔の国であるかのようにドイツの急速な経済復興を讃めるという具合です。
ビンゴのような賭博の手段を用いて収入を図る宗教制度は,敬虔の形を持つていてもその力に偽なることを証明する別の例を与えるものです。物質的な収得を得るために,人々の中に怠慢と不正直をはげまし,地下に潜む暴力団員や腐敗した政府の役人の力を強めています。このすべてのことの証拠は,1954年12月10日のコリアー誌の『ビンゴは大きくなり過ぎているか?』の記事の中に明白に述べられていました。
アメリカ合衆国のいちばん著名な心理学者のひとりであるフランク・クレイン博士は,他の事柄の中で次のように言い,この非常な矛盾をはつきりと指摘しました。『イエスが昔のヘブル人の宮に入り,不正な手段を用いて崇拝者たちから金銭をまき上げていた両替人を見出したとき,彼は何をなされたか? イエスは両替人を宮から追い出し,その台を覆したと聖書は述べている。』『もし教会が,居酒屋や競馬場で教えるものと違う倫理を青年に与えないならば,どうして熱心で理想主義の青年の心に訴えると希望できるのか?』
現在ただ『敬虔の形』だけを持つことは,祈の実際的な面に強調されているところです。1954年10月10日のアメリカ合衆国の国家的週刊誌パレード誌は,次のことを報じました。『今日の大きな宗教的物語。働く祈。アメリカの頭の良い事業家と実際的な政治家は,水素時代の問題を解決するため,神の援助を求めている。』
アイゼンハウアー大統領が1分間の黙禱でもつて秘密の内閣会議を始め,また閣員のひとりは幹部たちとともに祈でもつて毎日を始めるということを告げていました。議会には『祈禱室』があり,『12の宗教的な朝食の群は,いま定期的にワシントンで会つている ― ひとつの群は上院議会員たちであり,別の群は下院議会員たちである。』その他。又これは大きな実務界でも行われており,実際のところ『今日のアメリカ全地にわたり』1000回以上も行われていると言われます。
実務や政治内で宗教を入れようとするこのあらゆる風潮にもかかわらず,アメリカ合衆国はいままでにない政治腐敗を持ち,多くの性的不道徳や,また実務における誠実の欠如に苦しんでいるという事実は依然としてそのままであります。キリスト教会の国家会議は,その事実を認めています。『今日のアメリカで,教会員で信頼をうけることは,ほとんど無価値であると考えるとき,我々は心配するものである。一般の教会員は,教会員でない者とさして目立つ程違つていないのである。……我々の犯罪率は,教会員の増加する率と同じように上昇しているように見える。』
明らかにそれは『敬虔の形を持つていても,その力にたいしては偽りであることを証明している』例です。そうでなければ,そのような悪い実が結ばれる筈がなく,私たちが終の日に生活しているしるしの一つにはなりません。
心理上の理由や,実務や社会上の成功のために,人々は聖書を読む時,祈る時,教会に行く時,自分自身を欺き,それは適用されたキリスト教であると考えます。収得を敬虔と見ることにより,自ら腐敗した心の者と示しています。また表面だけ敬虔の形を装いながら,その行は敬虔の真の力に欠けていることを示すとき,人は自分自身を欺いているのです。そのようなものは,実際偽善以外の何ものでもないのです。
適用されたキリスト教と真正な敬虔は,ヱホバの是認を得ることだけに関心を持ち利己的な収得を得ようとする欲望や偽善とは関係のないものです。たしかに,『神は霊であられ,神を崇拝する者は,霊と真をもつて崇拝しなければならない。』― ヨハネ 4:24,新世。