『讃美のいけにえを神に捧げよ』
『我らは唇をもて牛のごとくに汝に捧げん。』― ホセア 14:2
1 ユダヤ人の祭司たちは,ヱホバの食卓が卑しいものである,とどのように言つていましたか。ヱホバの反応はどのようでしたか。
ヱホバは,キリスト前5世紀のユダヤ人の祭司たちを責め,彼らはヱホバの御名をあなどると共に『ヱホバの食卓は卑しきなり』と言つていた,と非難しました。(マラキ 1:6,7,ア標)それらの宗教指導者たちは,たいへん驚いた振をなし,どの事柄でそのようなことをしたのでしようか,と尋ねました。ヱホバはこう答えています,『なんじら盲目なる者を犠牲に捧ぐるは悪にあらずや。また跛足るものと,病めるものを捧ぐるは悪しきにあらずや。いまこれを汝の司に捧げよ。されば彼なんじを悦ぶや。』律法契約によると動物の犠牲が必要であつて,祭司たちは動物の犠牲を捧げていました。しかし,律法契約はまた健全で疵のない動物を捧げることを要求しましたが,祭司たちはそうしなかつたのです。彼らは劣等のもの病気のもの,跛足のもの,盲のものを選んで,ヱホバの祭壇なる食卓の上に捧げました。このようにして彼らは神の御名をあなどり,神の食卓を卑しめました。彼らが人間の司をよろこばして,その恩恵を得ようとするとき,人間の司にそのような病気のものを捧げよう,などということは一瞬といえども考えなかつたのです。ところが,最高の神の恩恵をお願いするときには,疵のない動物を捧げようとはせず,劣等なものだけを選んで捧げたのです。そのような犠牲をするための費用は,まつたく僅かか,又は無であつて,事実上では価値のないものでした。そのようなことをして,良い結果が得られますか。良い結果は得られない,とヱホバは言われました,『これらはすべて汝らの手になれり彼なんじらを納んや。』彼らは,詐偽者と呪われました。なぜなら,彼らは誓を立てて,しかもその誓を果すことができたのに,利己的な気持から誓を果さなかつたからです。『群の中に牡あるに,誓を立て疵あるものをヱホバに捧ぐる詐偽者は呪わるべし。』― マラキ 1:8,9,14。
2,3 今日のクリスチャンたちは,動物の犠牲になぞらえられるどんな犠牲を捧げますか。
2 ヱホバの民と主張する国民が,そのようなことをするとは,まつたく罪深い僭越な行でありました。国民が病気の犠牲を携えてきたり,祭司たちがそれらの犠牲をヱホバの食卓に捧げたりするなどということは,全能の神に対するはなはだしい侮蔑でありました。そして,全能の神を人間の支配者よりもずつと低い地位につけることです。なぜなら,人間の支配者に対しては,それ程までに見すぼらしい,無礼な仕方で取扱うなどと,彼らは夢にも思わなかつたからです。仮に,あたがその当時に生活していたとするなら,ヱホバの食卓にたいしてそのような侮蔑は決して示さなかつたことでしよう。或は示したでしようか。あなたは現在示しますか。実に多くの人々は示しているのです。しかし,動物の犠牲がもはや祭壇に捧げられていないのに,どうして示すことができるか,とお尋ねになることでしよう。いま神に捧げるものは,当時の動物の犠牲になぞらえられており,今の捧げものは,昔の動物の犠牲に要求されたのと同じく潔くて健全であり,疵があつてはならないのです。現代のこれらの犠牲とは何ですか。あなたはその犠牲を捧げていますか。あなたの犠牲は,病気のものですか,それとも健康のものでか。跛のものですか,それとも健全のものですか。盲のものですか,それとも目の明いているものですか。
3 ホセア書 14章2節はこう述べています,『汝ら言葉をたずさえ来り,ヱホバに帰りて言え,もろもろの不義は赦して善ところを受納れ給えかくて我らは唇をもて牛のごとくに汝にささげん。』私たちがヱホバの恵から離れているなら,悔改めを述べて赦しを求める言葉をたずさえ,ヱホバに帰らなければなりません。そして,これらの言葉を犠牲の牛のごとくに捧げなければならないのです。また,悔改めを述べるだけでなく,ヱホバの御名と讃美を公やに宣伝えることも,神に捧げる言葉です。丁度モーセの律法下にあつて,収穫の実を捧げたことと同じです。『私たちはイエスによつて讃美のいけにえ,すなわち彼の御名をたたえるくちびるの実を,たえず神にささげようではないか。』それで,牛であり,唇の実なるもの,すなわち言葉は,讃美の犠牲として今日ヱホバに捧げられねばなりません。クリスチャンは,真理と健全な教理の言葉,そしてヱホバとその目的を崇める言葉を捧げねばなりません。特に,今は神の新しい正義の世の良いたよりについて正しい言葉を捧げねばならないのです。―ヘブル 13:15,新口。
4 犠牲ということがらにおいて,キリスト教国は非難を受けたユダヤ人の祭司たちとどのように似ていますか。
4 クリスチャンはキリストの足跡に従うと称える者です。すると,キリストの為したごとく,言葉の実と牛を捧げる誓ということも含まれているのです。群の中には神に嘉納されるような動物を持つていたイスラエル人の場合と同じく,クリスチャンと称える幾百万という人々は,神に嘉納されるような言葉を持つているのです。幾百という言語で広く配布されている聖書は,これらの言葉でいつぱいです。唇からそれらの言葉を捧げるために,クリチャンはそれらの言葉を思と心に入れるのに必要な時間と努力を払いさえすれば良いのです。しかし,キリスト教国の幾百万人という大多数の人々は,そうするのはたいへんなことで,とうていできない,と考えています。ちようど,不忠実なイスラエル人が疵のない動物を捧げるのは勿体な過ぎる,と考えて,悪いものを選んで捧げ,残りものを捧げた,のと同じようです。イスラエル人たちは,恩恵を得るために,最上の動物を人間の司に与えました。キリスト教国の幾百万という人々は,国家の支配者やこの世の傭主に仕えるために時間や努力の面で最善のものを捧げます。そして,恩恵,名声,報酬,肉的な慰めを得ようとするのです。イエスは,『カイザルのものはカイザルに神のものは神に返しなさい。』と言いました。現代の風潮は,神に属するものをも含めてありとあらゆるものをこの世と,その肉の業に返してしまうことです。そして,その時間と努力のごく僅かな残りのものだけをヱホバに捧げようと考えます。そのような残りものの中から,ほんのすこしの努力を捧げて,信心している振をするのです。―ルカ 20:25,新口。
5 クリスチャンと称する多くの人々は,どのようにヱホバの食卓を卑しめますか。
5 これはどういうことになりますか。すなわち,『ヱホバの食卓は卑しきなり』と言うことです。ヱホバの食卓には,屑と残りものしかない,と言うことです。ヱホバの食卓の上に犠牲として捧げられる言葉は,滋養のある霊的な食物でなければなりません。しかし,クリスチャンとしてのあなたの言葉が,神の言葉を無にするとイエスの言われた空覚えの信条や宗教的な言伝えを鸚鵡返しに繰り返して言うなら,あなたは間ちがいなくヱホバの食卓をいやしめています。(マタイ 15:6)あなたの唇によつて牛のごとくに捧げられるものが,次のような異教の教理を教える言葉ならそれは病気のもの,足跛のもの,盲のものです,そして,そのようなものを食べる人は,みな霊的に病気になり,不具者となり,啓発を受けることがないでしよう。その異教の教理とは,すなわち『罪を犯せる魂は死べし』という聖書の言葉に反する魂の不滅という教理,『罪の払う価は死なり』という聖書の言葉に反する罪人の永遠苦悩という教理,そして,『父は我よりも大なる』というイエスの言葉に反する三位一体の教理などです。(エゼキエル 18:4。ロマ 6:23。ヨハネ 14:28)自分はクリスチャンである,と考える幾百万人という人々は,正しい理解を持たずに言葉を繰り返して述べ,そして宗教的な形式や式典や儀式を行います。ちようど,昔のユダヤ人たちが疵のある動物を献げることによつて,犠牲という形式を行つたのと同じようです。そのような人々は,口先だけでヱホバに近より,唇でヱホバを尊びますが,彼らの心はヱホバからはるかに遠いのです。それで,彼らについてヱホバはこう述べています,『彼らの宗教は偽善にして,空に覚んだ言伝えに過ぎない。』― イザヤ 29:13,モハット訳。
6 ヱホバの真のクリスチャン証者は,熱心に何をいたしますか。
6 真実のヱホバのクリスチャン証者は,ヱホバの食卓に対して,侮蔑の行をいたしません。彼らの最重要な関心は,聖書の最善の言葉を取つて,それを唇の実や牛のごとくに献げることです。この終の日に,神より遠ざかる大多数の人々は『健全な教えに耐えられ』なくても,ヱホバのクリスチャン証者は健全で啓発を与える言葉,そして霊的な健康を増進させる言葉を用います。(テモテ後 4:3,新口)しかし,現在でも霊的な必要物を意識している幾万人という少数の人々がいます。それらの人々が,昔の異教の教えや現代の哲学,そして科学的な思惑で汚されている正統派宗教の教理から耳を背けて,ヱホバの証者の給する聖書の真理を求めるとき,彼らは霊的に養われ,満足を覚えます。それですから,私たちはヱホバとその言葉および目的を崇める正しい答,力のある言葉,そして明白な説明を得るよう是非とも学ばねばなりません。それらは,曖昧なものとか,病気のもの,弱いものであつてはなりません。聞く者の心から偽りの言葉を追い出す程に強力なものでなければなりません。必要な言葉は聖書の中にあります。私たちは,讃美の犠牲として,それを取出して用いねばならないのです。
聖書を読むこと
7 聖書から健全な知恵を得るために,わたしたちは何をしなければなりませんか。
7 私たちの言葉の犠牲が,聖書から得た良いものでないなら,また私たちの気持が怠けていて,一番良いものを出そうとしないなら,ヱホバの食卓にのせる霊的な食物は適当なものでなく,他の者には卑しいものに見えるでしよう。そして,それらの人々の反対の信仰や論議にうち勝つことができません。前もつて研究することによつてのみ,私たちは効果的に答えることができます,『義者の心は答うべきことを考える。』鉱夫が貴金属を得るために骨折つて働くように,私たちもこれらの真理を得るために聖書を詳しく調べることが必要です,『我が子よ,もし我が言葉をうけ,我がいましめを汝のこころに収め,かくて汝の耳を知恵に傾け,汝の心をさとりにむけ,もし知識を呼求め,悟りを得んと,汝の声をあげ銀のごとくこれを探り,秘れたる宝のごとくこれを尋ねば,汝ヱホバを畏るることを悟り,神を知ることを得べし,そは,ヱホバは知恵をあたえ,知識と悟りとその御口より出づればなり,彼は義人のために聰明を貯え,直く行む者の盾となる。』ヱホバは,私たちの為に健全な知恵を聖書の中に録されました。私たちがその知恵を熱心に求めるなら,それを見出すであろうとヱホバは約束しておられます。―シンゲン 15:28; 2:1-7。
8 聖書を定期的に読むことについて,どんな前例がありますか。
8 私たちは,聖書を定期的に読むべきです。イスラエルの王は,『この律法をひとつの書に書写し』そして『世に生存うる日の間つねにこれを己の許におきて誦め』と命ぜられました。当時には,聖書の写本は極く僅かであつて,自分個人の写本を持つている人は,極く少数でした。それですから,皆の前で公やけに読むことが命ぜられていたのです,『なんじイスラエルのすべての人の前にこの律法を誦てこれに聞すべし。』イスラエルがカナンに入つてすぐ後の特別な時に,『モーセの命じたるすべての言葉の中にヨシュアがイスラエルの全会衆および女子供ならびにイスラエルの中における他国の人の前にて誦ざるは無りき。』それから幾世紀も後になつてヨシア王は『ヱホバの家に見あたりし契約の書の言葉をことごとく彼らの耳に読みきかせ』たため,その結果イスラエルの国民全部は悪鬼崇拝を廃絶したのです。それから,幾世紀も経つた後でも,聖書は皆の前で規則的に読まれていました,『古い時代から,どの町にもモーセの律法を宣べ伝える者がいて,安息日ごとにそれを朗読するならわしである。』― 申命 17:18,19; 31:11。ヨシュア 8:35。列王紀略下 23:2。使行 15:21,新口。
9 聖書を読むだけでは,なぜ十分ではないのですか。どんな附加的な援助を得ることができますか。
9 今日の私たちは,ずつと幸福です。輪転機は,聖書を幾百万部も印刷しているからです。乾きを感じている人は,誰でも聖書を所有して読むことにより,生命の水を容易に飲むことができます。しかし,読むだけでは十分でないことがあります。理解を助ける援助が必要になるでしよう。丁度,イザヤ書を読んでいたエチオピヤ人の場合と同じようです。それを見た福音伝道者ピリピは,『あなたは,読んでいることが,おわかりですか』と尋ねました,彼は『だれかが,手引をしてくれなければ,どうして分りましよう。』と答えました。ピリピが良く導いたため,その人は正しく理解することができました。(使行 8:26-38,新口)今日,聖書を読むことを補足する教は,『忠実にして慧き奴隷』制度を通してヱホバより備えられます。この制度は,『正しい時に霊的な食物』を供給するであろう,とヱホバが約束しておられたものです。この援助の多くは,印刷した聖書研究の手引を配布することによりなされています。この手引を用いる人は,聖書を読むときに広い理解を得ることができます。一つの主題についての聖句は,聖書の中の諸々方々に出ていますが,これらの手引の文書の二,三頁の中だけにも,その聖句が皆収められています。それで,聖書を学ぶ人は時間を節約することもでき,また十分の理解を得るのに必要な聖句は,ひとつも見落すことがないでしよう。新しく学ぶ人は,このような印刷した手引を持つていても,往々にして別の人からの援助を必要とします。イエスは,たとえ二人の者でも互に学ぶために集まるときには,援助すると約束しました,『ふたりは又は三人が,私の名によつて集まつている所には,私もその中にいるのである。』― マタイ 24:45; 18:20,新世。
10 聖書を朗読することには,説明が含まれていた,とどんな例が示していますか。
10 自分一人で読んでいる時も援助を必要とすることでしよう。それですから,朗読を聞く人々は,朗読と共になされる説明を聞いて益を受けます。ヨシャパテ王は,その治世中に君たち,レビ人,そして祭司たちを遣わして『ユダの邑々にて教えをなさしめ』ました。『彼らはヱホバの律法の書を携え,ユダにおいて教えをなし,ユダの邑々をことごとく行きめぐりて民を教えたり。』この聖書教育の計画の中には,律法を読むこと以上の事がなされたに違いありません。律法を説明したり,その適用法を述べたり,また従順がすすめられたにちがいないでしよう。囚れから解放されて後,総督ネヘミヤは夜明けの時から昼まで律法を朗読させ,人々はその言葉に注意深く聴きいりました。しかし,すべての人が確かに理解するため,書かれた言葉の外に別の言葉がつけ加えられたのです。『彼らその書につきて,(真)の神の律法を朗らかに誦み,かつその意を解き明してその誦む所をこれに了らしむ。』イエスは,ナザレの会堂で朗読し,読み終つたときに,『この聖句は,あなた方が耳にしたこの日に成就した。』と説明しました。多分,イエスは,簡潔に記録されているこの言葉以上を語られたことでしよう。使徒パウロは,会堂における朗読を聴いていましたが,それの終つた後に,会堂司のすすめにしたがい,しばらくのあいだ話をしました。人々は,その話に深い感銘をうけ,次の安息日にも話して頂きたいとパウロに願いました。そして,『次の安息日には,ほとんど全市をあげて,ヱホバの言葉を聞きに集まつてきた。』パウロは,若いテモテに,朗読すること,すすめること,教えることをしなさい,と命じました,『聖書を朗読することと,勧めをすることと,教えることとに心を用いなさい。』― 歴代志略下 17:7-9。ネヘミヤ 8:38。ルカ 4:16-21。使行 13:15-44。テモテ前 4:13,新世。
集会に出席すること
11 今日,会衆の集会に出席することは,なぜ重要なのですか。
11 自分一人で聖書を読んだり,または公やけに聖書を読み,そして印刷されたものや口の言葉を用いながら論じ合つたり説明を聞いたりするなら,牛のごとき是認の言葉を捧げるのに必要な言葉を聖書から得ることができます。しかし,ヱホバは今日,御自分の見える制度を通して,会衆の集会を取極めることにより附加的な援助をさしのべられています。これらの集会において,ヱホバは私たちの為に霊的な食卓をひろげられているのです。集会から遠ざかることは,この食卓が卑しいものと言うことであり,価値がすこしもない,と言うことです。しかし,個人としても,またクリスチャンの会衆としても,集会は霊的な滋養と力を与える,という点で私たちにとつて極めて大切なものです。集会の際に,註解を述べることによつて他の人の前に私たちの希望を述べます。また,他の人の註解を聞く事によつて,その人々の希望を聞きます。私たちは,註解することによつて他の人々を励ますことができ,そして他の人々の註解を聞いて私たち自身が励ましを受けます。現在の終の時において,このことは特に大切なのです,『約束をして下さつたのは忠実なかたであるから,私たちの告白する望みを,動くことなくしつかりと持ち続け,愛と善行とを励むように互に努め,或る人たちがいつもしているように,集会をやめることはしないで互に励まし,かの日が近づいているのを見て,ますます,そうしようではないか。』― ヘブル 10:23-25,新口。
12 会衆はどんな集会を開いていますか。
12 ヱホバの証者の会衆は,1週間に数回集まります。一つの集会は,特に新しく興味を感じた人々の為の公開講演です。しかし,会衆の人は全部出席しなければなりません。かくして,すべての人は何かを学ぶことができるでしよう。もし会衆の人が出席しないなら,誰が一般の人々を歓迎しますか。もしあなたが会衆と共に交つているなら,公開集会に出席して,新しい人々を歓迎し,人々の質問に答えねばなりません。『ものみの塔』研究は,絶対に大切なものです。会衆内のすべての人は,勉強の箇所を研究し,出席してみなさんの註解を聞き,また自分でも註解し,そしてすべての人,特に新しい人々に親しい態度を示さねばなりません。神権宣教学校は,宣教の奉仕の際に,他の人々に何を言い,どのような言葉で述べるか,またどのように伝えるか,ということについて会衆を訓練します。統一のとれた聖書朗読は,研究課程の一部になつています。奉仕会も訓練を施す集会であつて,その特色は家から実の証言,戸口で聖書の話を述べること,そして家庭内で聖書研究を司会することについて教を与えるものです。疵のない牛と唇の実を捧げることに強い関心を持つ人は,必らず奉仕会に出席します。会衆の開くもう一つの集会は,会衆の区域内の要所にある個人の家で行われる書籍研究です。これらの小さな研究の群では,聖書研究の手引が用いられています。そして,群が小さいので,みなさんは容易に親しむようになり,註解を述べたり,お互を援助して神に汚れのない讃美の犠牲を捧げることができるのです。
13 会衆の集会は,クリスチャンである私たちをどのように進歩改善せしめますか。
13 任命された僕たちや,計画された集会を持つ会衆は,私たちをして円熟したクリスチャンに生長せしめ,かつ私たちの壊滅を図るサタンの無神論の波に対しても,打ち克つことのできるために,組織されています。いまは,使徒の時代と丁度同じようです,『彼はある者を使徒,ある者を予言者,ある者を宣教者,ある者を牧者,および教師とし,宣教の業のために,聖徒たちの訓練を目的とされた。それはキリストの体を建てて私たちが一つの信仰を持ち,神の御子の正確な知識を得るためである。かくして,私たちは全く成長した人,キリストの全きに達するのである。それは私たちがもはや幼児ではなく,人間の悪企みによるいろいろな教の風に吹きまわされたり,もてあそばされたりすることのないためである。』集会に出席したり,註解を述べることにより,『あなた方は信仰を持つているのかどうか,いつたいどういう者であるのかを調べ吟味し』つづけることができます。もし,あなたの註解が本筋から離れるなら,『もつと円熟している別の人は,あなたを正しい考えに引戻すことができます。このことをしないなら,『みな語ることを一つにし,』『同じ心,同じ思になつて,堅く結び合つていてほしい。』という神の要求を,会衆としてあなた方はとうてい充すことができないでしよう。―エペソ 4:11-14。コリント後 13:5。コリント前 1:10,新世。
14,15 会衆の集会でたがいに交ることは,ヱホバの証者にとつてなぜ重要ですか。
14 会衆の集会に出席するときの価値は,学んだり心を一つにしたり,またヱホバに捧げる讃美の犠牲を改善することだけで,終つてしまうのではありません。たがいに交るということ自体だけにも価値があるのです。そこには,ヱホバの御霊が集中しているように見えます。それで,私たちの精神は神権的なものに向上します。私たちの中の大部分の人々は,この世で多くの時間を費し,堕落した人々と肩をならべ,人々の無意味で汚れた話を聞き,そして下劣な行を見ております。それですから,会衆の集会に出席することは,都会の貧民窟を通り抜けて爽快な山のところに行くようなものです。『悪い交わりは,良いならわしをそこなう。』しかし,良いまじわりは悪い習慣を消し去り,悪い習慣の代りに良い習慣をつくります。(コリント前 15:33,新口)ヱホバから離れているこの人類の海の中に散らばつている私たちは,小さな島々のようです。そして,後から後から果てしなく押し寄せる波によつて,海面の高さまでけずり落される危険にいつも面しています。しかし,私たちが互に集まるとき,お互に力を受けて,襲いかかる海にもビクともしない強い土地のようになります。私たちは新しく勇気と大胆不敵さを得ます。そして力を新にしてこの世に反抗することができます。しかし,私たちを集会から遠ざける巧妙な罠にかかるなら,私たちは間もなくしてたゆむようになるでしよう。『私たちは,善を行うことにうみ疲れてはならない。たゆまないでいると,時が来れば刈り取るようになる。』― ガラテヤ 6:9,新口。
15 私たちがひとりだけでいて,この世から打ち叩かれるなら,私たちは勇気を失い勝ちです。そして,忠実を守つているのは私たちだけであり,必らず負かされてしまうだろう,と考えます,ずつと以前の昔,予言者エリヤはヱホバの為に熱心でした。しかし,自分になされた恐ろしい脅迫の執行を避けて生命を守るため逃げてしまつたのです。エリヤは洞穴の中に一人だけで閉じこもつていましたが,ヱホバは彼にこう尋ねました,『エリヤよ,汝ここにて何をなすや』予言者はこう答えました,『イスラエルの子孫,汝の契約を棄て,汝の壇をこぼち,刀をもて汝の予言者を殺したればなり。ただ我一人存れるに彼らわが生命を取んことを求むと,』エリヤは,自分一人だけが生残つてヱホバの義に関心を持つている者だ,と感じましたが,そうではなかつたのです。『我イスラエルの中に七千人を遺さん。みなその膝をバアルにかがめず,その口をこれに接ざる者なり。』(列王紀略上 19:13,14,18)集会に定期的に出席するならば,他の兄弟たちとも接触を保つて私たちは力をうけることができます。
16 クリスチャンが孤立して,ひとりだけになろうとするのは,なぜ愚かなことですか。
16 サタンは群を分裂せしめて打ち負かし,そして群を散らして,迷い出た人々を餌食にしたいと望んでいます。会衆は相互の援助をなすために互に結集しなければなりません。私たちが独りであるなら,倒れるときに誰が私たちを助けますか。私たちが独りであるなら,ヱホバへの熱心を熱く保つのはずつと難しいものです。いつしよになるとき,私たちは無活動の人々の冷えた気持を暖めることができます。この原則は,伝道之書 4章9-12節にこう示されています,『二人は一人にまさる。そは,その労苦の為に善き報を得ればなり。すなわち,その倒るる時には,一人の人その伴侶を扶けおこすべし。されど,孤身にして倒るる者は憐なるかな。これを扶け起す者なきなり。又二人ともに寝ぬれば暖かなり。一人ならば,いかで暖かならんや。人もし其一人を攻め撃たば二人してこれに当るべし。三根の繩は容易く断れざるなり。』私たちが倒れるなら,私たちの熱心が冷えるなら,そしてサタンの攻撃をうけて屈服するなら,私たちはヱホバに讃美の犠牲を公やけに捧げることができなくなります。この災を避けるために,私たちは互に集まるのを忘れてはなりません。ひとりだけの羊になつてはなりません。群から離れ出た羊は,失われた羊だからです。忠実な僕である会衆の羊飼は,熱心に努力して失われた羊を新しい世の社会に連れ戻そうと努めます。(マタイ 18:12-14)それですから,自分の霊的な力を過大に評価して,一人だけになつて利己的な事柄を追求し,かつ互に集まれという健全な原則をないがしろにしても大丈夫,だなどと考えてはなりません。『己を人と異にする者は,おのれの欲するところのみを求めて,すべての善き考えにもとる。』― シンゲン 18:1。
17 私たちはヱホバからの教を,どのように受けねばなりませんか。
17 疵のない牛のごとき,神の是認をうける唇の実を持とうとするためには,私たちはヱホバからの教を受けねばなりません。聖書を読むことによつて,ヱホバからの教を受けなさい。秩序だつた研究をすることにより,教をうけなさい。会衆の集会で教を受けなさい。ヱホバは特に会衆の集会において,その食卓に霊的な食事をひろげておられるのです。来て食べなさい! みなさんは,寝床で食事を取りますか。みなさんは食事の価値を知つている故に,食卓のところで食事をします。それであるなら,実際の食事よりももつと大切な霊的な食事も食卓のところで頂くべきでしよう。ヱホバは霊的な食事を寝床で給したり,又は会衆の集会所からは離れている家庭で給したりするようなことをして,怠惰な気持をゆるすようなことをしません。食卓である御国会館に行きなさい! これらの必要なことを全部しないなら,健全で全く,しかも解明を与える讃美の犠牲として必要な言葉を熱心に得ていないことになります。恥ずかしいことには,次の神よりのさとしに沿つていないことになります,『あなたは真理の言葉を正しく教え恥じるところのない錬達した働き人になつて,神に自分をささげるように努めはげみなさい。』― テモテ後 2:15,新口。
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『義しき者の心は答うべきことを考える。』― シンゲン 15:28
[34ページの囲み記事]
『万軍のヱホバこの山にてもろもろの民のために肥たるものをもて宴を設け,久しく畜えたる葡萄酒をもて宴を設く。髄多き肥えたるもの久しく貯えたる清める葡萄酒の宴なり。』― イザヤ 25:6。