名にふさわしい生活をする
『汝の神ヱホバの名を妄に口にあぐべからずヱホバはおのれの名を妄に口にあぐる者を罰せではおかざるべし。』― 出エジプト 20:7
1 クリスチャンは自分の崇拝に進歩的でなければならないと何が示していますか。
真の崇拝は,何世紀も経た怠惰な形式主義ではありません。それは生きたものであり,進歩的で,生産的です。『神の言葉は生きている』と霊感を受けた使徒パウロは言います。(ヘブル 4:12,新口)そしてシンゲン 4章18節は次のように断言します,『義者の途は旭光のごとし,いよいよ光輝をまして昼の正午にいたる。』私たちはかがやきを増しつつある光の中で歩み続けなければなりません。ですから,クリスチャンであるということは,単にある教理を学び,生活を支配する原則の一部を善と認め,それ以後クリスチャンという名称を自ら称えるだけの問題ではありません。決してそうではありません! クリスチャンは,自分の信仰を実行し,真理の研究とそれを崇拝に応用する点で進歩を示し,神ヱホバに誉をもたらす良い業に対して生産的でなければなりません。
2 真理の光を受けいれる人々は,何を避けなければなりませんか。
2 私たちはすでに自分の信仰のために,しつかりした聖書的な基礎の必要性や,人から真理の光を奪う人間の哲学や単なる伝説を捨てなければならないことを知りました。イエスは言われました,『わたしは世の光である。わたしに従つて来る者は,やみのうちを歩くことがなく,命の光をもつであろう。』(ヨハネ 8:12,新口)人が暗闇からこのすばらしい光の中に呼び出されたら,世界をおおう暗闇の中に後もどりしないで,その中に歩み続けるだけの価値を認めなければなりません。(ペテロ前 2:9。イザヤ 60:2)光と闇は仲間ではあり得ないのです。―コリント後 6:14。
3 人が新世社会と交わることはなぜ大切ですか。
3 ひどい霊的な闇が世界をおおい人々の心を盲目にしていることを認めている人々は沢山います。彼らは,イエスが『世の光』と確認された人々の宣明した真理の光を見つけましたが,それでも光をかかげる者たちの新世社会と交わりません。(マタイ 5:14)彼らは,想像上の『中立的』な立場を保とうと努力します。そうすることによつて彼らは,次のことを考慮するのに失敗しているのです。すなわち,彼らが真理を学んで,ヱホバ神の側に立つ機会を与えられているこのさばきの時に,彼らは生か死を意味する決定を行うということです。(申命 30:15,16)彼らは音信を信ずるかも知れません。しかし,キリストと彼の兄弟である油そそがれたヱホバの証者の集合体と交わつて,実際にキリストに従わなければ,生命の光をもつていないのです。昔ソドムで,行動もおこさず,実際にロトとも交わらず,あの滅びに定められた町から出なかつた者は一人も生き残りませんでした。ノアの伝えた警告のおとずれに応じて,ノアやその家族と共に箱舟にはいらなかつた者は,一人も当時の大洪水を生き延びませんでした。『人の子の現れるのも,そのようであろう。』(マタイ 24:39,新口)残るわずかの時の間に,箱舟のような新しい組織制度の中で,新世社会と交わることは,人にとつてなんと急を要することでしよう! 聖書は明白です。真のクリスチャンはそれに対して感謝しています。なぜなら神の証認を得るために何が要求されているか,彼らの心に何の疑いも残さないからです。
4 集会に出席することに対し,どのような見解を持つべきですか。
4 新世社会の中の人々は,ヘブル書 10章24節25節に述べられている要求を,自分たちの霊的福祉のために準備されたものと認識しています,『愛と善行とを励むように互に努め,ある人たちがいつもしているように,集会をやめることはしないで互に励まし,かの日が近づいているのを見て,ますます,そうしようではないか。』ヱホバは,御自分の民が,現在直面している信仰をためす試錬に,また前途に横たわるさらに大きな試錬,すなわちマゴグのゴグが,霊的に繁栄している新世社会を全滅させようと全力をあげて攻撃して来る時に耐え得るために,彼らを力づけ,強くするために,肥えたものの霊的御馳走を用意されて来ました。今こそこの霊的食物に自由に与れという招待に応ずる時です。(黙示 22:17)新しい人々そして他の人々でさえ,他の関心事によつて,定期的な新世社会の交わりを妨げられる傾向があるかも知れません。それは普通の仕事や来客,あるいは他の活動ですか。そうならば,エペソ書 5章15,17節に示されている助言を注意深く読んで下さい。『あなたがたの歩きかたによく注意して,賢くない者のようにでなく,賢い者のように歩き,今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。』そうです,そのために私たちは何かを犠牲にするのです。私たちはそれらの晩には他の活動を中止しなければならないかも知れません。しかし,私たちがクリスチャンとして,自分の心を,「義の住む新しい天と新しい地」に置いたのならば,その関心事を常に心にとどめ,それに従つて生活するのは当然ではないでしようか。(ペテロ後 3:11-13)『このために,無分別を捨てて,ヱホバの御心が何であるかを悟るようにしなさい。』この問題に関しヱホバの御心が何であるかは,疑問の余地はありまん。彼はそれを御言葉の中に表わされています。道理にかなつたクリスチャンの道とは,私たちの生活を神の承認に値する型にはめることです。―ロマ 12:2。
5 真理を学ぶ人の当然の望みは何ですか。
5 私たちの心が真理で満ちてくると,ヱホバ神が御自分の創造物に示されている数えきれないほどの愛ある御親切に対する感謝を,他の人に知らさないではいれなくなります。神の僕の一人と数えられ,また神に専心の献身を捧げる自分たちは幸福であると私たちは思います。昔詩篇記者が言つたように私たちも答えます,『ヱホバに感謝せよヱホバはめぐみ深し,その憐憫はとこしえに絶ゆることなければなり。』もし私たちがためらうなら神の御言葉は,『火のわが骨の中に閉こもりて燃るが如くなれば……堪難し』と言つたエレミヤのように感ずるでしよう。(詩 136:1。エレミヤ 20:9)私たちは,神に自分を献身し,その献身を水による洗礼によつて表わし,それから神の御心をつづけて行い,献身にふさわしい生活をすることによつてこの奉仕の希望を,示すことができます。
クリスチャンの献身
6 クリスチャンとしてその名にふさわしく生活する人にとつて献身と洗礼が必要であることを何が示していますか。
6 献身と洗礼が,神聖な要求であることは聖書中に明確に述べられています。クリスチャンの献身とは,聖書中に示され,神の聖霊によつて明確にされている神の御心を,率直に無条件に行うことを同意することにより,自分を区別する行為のことです。そのような行いの正しさを証明するには,次のことを自問するだけでよいのです。つまり,「人が専心の献身によつて神に奉仕するのは正しいことだろうか。そしてこの希望は,祈りの中に神に対して表わすべきであろうか。」答は明らかに肯定です! 悪魔の反対の申し出に対して,イエスは次のように拒否されました,『あなたは,あなたの神ヱホバを崇拝し,彼のみに聖なる奉仕を捧げねばならない。』(ルカ 4:8,新世)このことがあつた少し前に,イエスはずつと昔,詩篇に,「見よ,わたしは御旨を行うためにまいりました」と記録されたように,父に向つて祈りの中に御自分の考えを述べられました。(ヘブル 10:7-9,新口)イエスは,父ヱホバ神にのみ聖なる奉仕を捧げたいという希望をあらわされました。この献身の誓いの象徴としてイエスはヨルダン河で洗礼者のヨハネから洗礼を受けられました。(マルコ 1:9)少しためらつたヨハネに対してイエスは,神の正しい御要求を遂行するために洗礼は必要であることを御自分で説明されました。そしてヱホバ御自身も天を開き,自分の子であることを認めると言われ,必然的にイエスのとつた道を認めることによつてその事実の証明に参加されました。(マタイ 3:13-17)イエスは自分の弟子になるものが,同じように洗礼を受けることを指摘されました。―マタイ 28:19,20。
7 ある人はなぜ献身と洗礼をためらいますか。
7 クリスチャンの道のためにそのようなはつきりとした先例があるのに,一体何が人の献身や洗礼をためらわせるのですか。それは円熟したクリスチャンの愛の不足です。(ヨハネ第一 5:3)もちろんこれには,色々な事情に影響されるかも知れません。たとえば,ある人々は余りにも事業に没頭しすぎるか,この世の楽しみを追い求めすぎて時間がなくなります。もしそうならば,新しい世で生命を得るために,今こそ彼らの愛情の対象をかえる時です。『世と世にあるものとを,愛してはいけない。もし,世を愛する者があれば,父の愛は彼のうちにない。すべて世にあるもの,すなわち,肉の欲,目の欲,持ち物の誇は,父から出たものではなく,世から出たものである。世と世の欲とは過ぎ去る。しかし,神の御旨を行う者は,永遠にながらえる。』(ヨハネ第一 2:15-17,新口)聖書は,多くの人々が切望する物質を,『富の惑わす力』と言つています。なぜなら,富を持つと人は偽りの安心感を持つからです。(マタイ 13:2)真の安心は,ヱホバを愛しヱホバに奉仕することにあります。
8 神を愛する人はなぜ献身し,それを水の洗礼によつて表わすことを避けるのを望みませんか。
8 ヱホバに献身することをためらう愛の足りない人々がいます。彼らはそのような方法で重い責任の荷を負うことを避けており,それについて申しひらきをしなくてもよいと感じます。彼らは新しい世に住むことは望みますが,それに対して何かをするには余りにも怠惰です。『惰る者はこころに慕えども得ることなし,勤めはたらく者の心は豊かなり。』(シンゲン 13:4)彼らは責任をのがれてはいません。その責任は,彼らがヱホバの御言葉を聞く機会を得た時に生じたからです。(エゼキエル 33:7-9)献身することによつて,彼らは自分が神の御旨を理解していることと,それをなすのを切望していることを実証するのです。そして,洗礼を受けることはさらに大きな責任を負うことではなく,彼らが神に全き従順を誓つた時に言つたことは事実であると,従順によつて実証するだけです。彼らはすでに神の御前に立場を明らかにしたと同じく仲間のクリスチャンに対しても,立場を明らかにし,神に奉仕したいと言えばそれは事実であるという言質を与えるのです。それは彼らの側の従順な行為であつて,より重い責任を招くかわりにヱホバの祝福をもたらします。なぜなら,彼らはすでに祈りの中に神に捧げた献身の誓いにふさわしく生活しているからです。
9 ある人が十分な知識がないのを恐れて献身をためらう時実際に何が欠けていますか。どの聖句がそれを示していますか。
9 他の人々を恐れさせ,しりごみさせている理由は,不適当であるという意識,つまり自分は他の人に教えるほど十分な聖書の知識はないという考えかも知れません。しかし欠けているのは知識だけでしようか。使徒行伝 8章に述べられているエチオピヤの宦官は,馬車に乗つてピリポと討論した後,ヱホバに対する献身をあらわす決心をしました。イエスにきよめられたあるらい病人は,感謝でいつぱいになつたので,それを秘密にしておくことができず,『自分の身に起つたことを盛んに語り,また言いひろめはじめ』ました。(マルコ 1:40-45,新口)確かに彼は,自分が話す相手の質問全部に答えることはできませんでしたが,しかし彼はこれこそ自分が今までに遭遇した最良のものであることを知つていました。また人々がより多くのことをどこで学べるかを告げることができました。彼らはすべての質問に答えることはできなかつたかも知れませんが,しかし彼らの心は自分たちが聞いたこと経験したことに対する感謝であふれていたのです。彼らは恐れてしりごみはしませんでした。『愛の中には恐れはない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れは拘束を持つからである。』(ヨハネ第一 4:18,新世)答で満ちた頭だけでなく,愛で満ちた心こそ神の命令に従うよう人を動かすのです。私たちが新しい世で生命を得るというのなら,そのような性質の愛を持たなければなりません。『「心をつくし魂をつくし,力をつくし,思いをつくして,あなたの神であるヱホバを愛しなさい」また「……あなたの隣り人を愛しなさい」……「そのとおりにしなさい。そうすれば生命が得られる。」』― ルカ 10:25-28,新口。
効果的な奉仕を行う
10 ヱホバに受けいれられるには,野外奉仕はどのように行われるべきでずか。
10 マタイ伝 24章14節には,この終りの時にあるクリスチャンに対して,奉仕に関する教えが与えられています,『御国のこの良いたよりは,すべての国民に証をするため全世界に伝道されるであろう。それから全き終りが来るのである。』愛を持つてキリストに服従するすべての人は,この宣教に与ることを特権と考えます。御国の伝道活動に参加することにより,彼らは『賛美の犠牲,つまり神の御名を公けに述べる唇の実を捧げ』るのです。(ヘブル 13:15,新世)これらの犠牲は出まかせの方法で捧げられてはならず,奉仕を捧げる神にふさわしい方法でなされなければなりません。しかしながら,人の奉仕が受けいれられるのは,その人の兄弟たちとの比較を基礎にして決められるのではなく,彼のなし得ることとの比較によつて左右されます。宮で,わずかな価値しかない二つの硬貨を捧げた貧しいやもめは,彼女の『生活費全部』を与えたので,金持ちよりも多くのものを与えたことをイエスは指摘されました。(マルコ 12:44)私たちもまた神に賛美の犠牲を捧げるに際して,私たちのすべてをそれに注ぎこむことは,何と重要なことでしよう!
11 実の多い奉仕の一つのよい証拠は何ですか。それはなぜそんなに重要ですか。
11 キリスト・イエスは,他の何が人の奉仕を神の御前に満足なものとするかを示されました。『あなた方が多くの実を結びそしてあなた方は私の弟子であると証明することによつて私の父は栄光をうけられる。』(ヨハネ 15:8,新世)単なる種まきと実を結ぶことは同じではありません。真理の種は,実を結ぶために,水を与えられ耕されて生産的な木へと生長しなければなりません。私たちの宣教の結果として,もし真理の種が実際に根をおろし,実を結ぶ木に生長するまでその世話をしたならば,その宣教はヱホバに栄光をもたらします。それはさらに多くの賛美者たちを生み出すからです。ヱホバへの奉仕に与る各人,各会衆は次のように自問してみるとよいでしよう,「ヱホバに対する賛美の生産的な宣教の証拠として,私は,賛美を捧げている献身した奉仕者である実を示すことができるだろうか。」パウロはそれを示すことができました。そして次のように言いました,『汝らはすなわち我らの職によりて書かれたるキリストの書なり。しかも墨にあらで活ける神の御霊にて録され,石碑にあらで心の肉碑に録されたるなり。』(コリント後 3:3)私たちがもしそのような推薦状を持つていないならば,この点で非生産的な宣教を続けるかわりに,私たち自身とまたその奉仕を分析してどこに改良すべき点があるかを見出すのは良いことです。
12 イエスが示し,クリスチャンが見習うどの特質が,反対にもかかわらず伝道を継続するために彼らを力づけますか。
12 二つの偉大な命令の第2番目は,自分を愛するように隣人を愛することであるとイエスは指摘されました。彼はそれを言うのみでなく実際に行われました。イエスは自分が伝道した群衆に同情されました。彼らはイエスの言葉通りに,『飼う者のない羊のように弱り果てて,倒れて』いたからです。(マタイ 9:36,新口)イエスは彼らに愛情をそそがれました。そしてその愛が正しい性質を持つ人々を引きつけたのです。イエスの弟子たちについても同じことが言えます。彼らは永続性のある愛を示しますから,イエスの弟子であることを認められます。(ヨハネ 13:35)主の羊を憂慮して彼らは幾度も家庭を訪問し,居住者に『神と和解する』ように勧めます。(コリント後 5:20,新世)先回その家を訪問した時彼らは冷く拒絶されたり,目の前でぴしやりと戸を閉められたかも知れません。しかし「愛は寛容です。愛は自分の利益を求めず,いらだたず,恨みをいだきません。」(コリント前 13:4,5)彼らは愛に動かされて家庭を訪問するのですから,何回訪問してもやはり最初の訪問の時と同じように人々が新しい世で生命を得るよう援助することを熱望します。彼らが快く受けいれられなかつた区域や家庭を避けたり,あるタイプの区域を他の区域より好むようなことをしないのは,この特質のためなのです。彼らの伝える音信が繰り返し拒絶されても,愛は常に彼らを楽観的にします。準備と提供に最善をつくしてから,羊は主の声を知り,それに応答することを知つています。そして彼らは王キリスト・イエスの指導の下に,油そそがれた彼の兄弟たちや,彼らの仲間である他の羊たちが行う伝道を通して,分離の業が行われている明確な証拠を見て歓喜します。(マタイ 25:31-33)ある人が真理を受けいれると,彼らはもう一人の主の羊が彼と交わるのをどんなに喜ぶことでしよう! そして彼らが準備において,でき得る箇所で音信を提供することにおいて,自分の分をつくした時,良いたよりを拒絶して予言を成就する嘲笑者を見る時,彼らは落胆するかわりに自分の信仰をより強くしました。―ペテロ後 3:3,4。
繰り返して区域を伝道する
13,14 (イ)伝道者の勤勉な奉仕のため,多くの場所でどのような事態が起きましまか。(ロ)第1世紀のエルサレムの会衆に,どのようなよく似た状態が存在していましたか。
13 主ヱホバが御自分の契約の御使と共に審判のため霊的宮に来られて以来約40年の間,ヱホバの忠実な証者たちは,布の衣をき筆記人の墨入れを腰におびた男に関するまぼろしの成就として,各地を行きわたりました。(エゼキエル 9:1-11)ある都市や町では彼らは,幾度も家庭を訪問しました。たぶん二,三週間ごとにそうしているでしよう。家の人は,音信を聞いたことがあると言い,牧師たちはヱホバ神と彼の御国に関する教理で地を満たすと不平を言うかも知れません。ヱホバの証者は多くの場所で一般の無関心や,公然とした反対にさえあいます。これらの事柄を考えて,仕事はすんだと感ずるべきですか。
14 このような状態に直面した時,第1世紀のエルサレム会衆にいた兄弟たちの状態を考慮するのは賢明です。そこでは伝道の業があまりにも敏感に感じられたので,兄弟たちは最高裁判所に2回も拉致され,きびしく懲戒されました,『あの名を使つて教えてはならないと,きびしく命じておいたではないか。それだのに,なんという事だ。エルサレム中にあなたがたの教を,はんらんさせているあなたがたは確かに,あの人の血の責任をわたしたちに負わせようと,たくらんでいるのだ。』ある人々は,彼らの度かさなる訪問をありがたく思いませんでした。しかし使徒たちはこの奉仕から引きさがる自由を持つていましたか。もし彼らが真のクリスチャンであり神の奉仕者でありたいと願つたならば引きさがることはできませんでした。彼らが法廷でなしたかんたんな答は次のようです,『人間に従うよりは,神に従うべきである。』― 使行 5:28,29,新口。
15,16 (イ)彼らはどのように徹底的に自分の区域を伝道しましたか。(ロ)結果はどうでしたか。なぜ?
15 その会衆内に行きわたつていた情況をよく考えて下さい。五旬節の日,聖霊がくだつて偉大な伝道活動がエルサレムで開始された時,神から聖霊を受けその後業をはじめた120人のグループがいました。彼らの任命地は必然的にエルサレムでした。どのくらいの大きさでしたか。当時のエルサレムは長さ南北4000フィート,東西の幅2600フィートであつたようです。半平方マイル以下の広さで,それには広い宮の区域が含まれていました。狭い道路と五,六階建ての家がぎつしりとつまつていましたから,人口は相当の数にのぼつたことは言うまでもありません。しかし状態をはつきりと心に描いて下さい。72の市街住宅区画に匹敵するこの地域では,一人の奉仕者に半区画あまりの奉仕区域がありました。あなたの伝道区域は,そんなにも御国奉仕者であふれていますか。
16 その業は停滞しませんでした。多くの事柄が起きたあの五旬節の日に,『およそ三千人』が彼らの数に加えられたからです。真理を語ることを切望する信者たちの殺到によつて,彼らの任命地で大証言が行われました。『同時にヱホバは救われる者たちを日々,彼らに加え給うた。』そして会衆は拡大しましたから,『その男の数が五千人ほどになつた。』それでも業は中止されず,『神の言は,ますますひろまり,エルサレムにおける弟子の数が,非常にふえていき,祭司たちも多数,信仰を受けいれるようになつた。』(使行 2:41,47; 4:4; 6:7,新口)なぜそのようなすばらしい発展がみられたのですか。それは彼らが「人に従うよりも神に従つた」という理由のみによるのです。しかしその業は,神の霊の導きの下になされました。彼らはその導きに従つて勤勉に植え水をそそぎ,神はそれを育て続けられたのです。
17 (イ)くりかえし訪問することによつて,ヱホバの証者は,隣人に対しどのように大きな考慮を示してきましたか。(ロ)幾度も伝道された地域で,手をゆるめるべきですか。
17 しかし一般の人の便宜を考慮にいれるべきではありませんか。そうです。ヱホバの証者が,自分の便宜よりも隣人の便宜を重要視して,ひじ鉄砲をくわされるか,無関心を示されるかも知れないにもかかわらず,悪天候や,彼らの活動が禁止されていて,もし彼らがそれを継続するならば投獄や死の恐れさえあるにもかかわらず,再び訪問する時にこそそれが考慮されているのです。彼らは次のことを知つています。すなわち,音信を聞いてそれを受けいれ,それに従つて信仰のうちに行動し,自ら進んで心にしるしを受ける人々のみが来るべきハルマゲドンの戦いを生き残るということです。彼らが『神と和解する』ように隣人にすすめるのは彼らが隣人を愛しているからです。神が今日の僕たちに与えられている命令は,昔のエゼキエルに与えられたものと同じです。つまり,『彼らこれを聞くもこれを拒むも汝わが言をかれらに告よ。』(エゼキエル 2:7)音信に答えそして『布の衣を着た人』の級からしるしを受ける人々は,『誰も数えつくすことあたわぬ大なる群衆』と叙述されています。(黙示 7:9)この事実をよく認識して,自分たちの区域での仕事はすんだ,羊はもうこれ以上いないなどとあえて言うヱホバの証者は一人もいません。彼らは,ヱホバが「町をあれすたれさせて住む者をなくし」,もうよいと言われる時まで,喜んで自分の奉仕を継続します。―イザヤ 6:11。
18 クリスチャン会衆の生長には何が必要ですか。そして従うべき正しい道は何ですか。
18 ヱホバの証者たちは,神の組織を生長させ続けているのは自分たちではなくて神であることをよく認識しています。(コリント前 3:6)それで自分たちの奉仕をいかに改善すべきかを考える時,人々を集めたり,大きな組織をつくりあげるという人間の企画や考えをさしはさみません。その組織は神のものであつて,神と神の子,神の御国を愛し信仰の中に神の御言葉に耳を傾けたため,神によつて組織に引きよせられた人々だけがその中にいるべき場所を持ちます。ヱホバは,御自分の霊を通して業を行われますから,ヱホバの民は,実を結ぶことによつて御霊の働きが彼らの奉仕に明らかに示されることを切望します。もしそれが欠けているならば,彼らはキリスト・イエスがとられた手段方法を再検討して,より厳密に彼に習うよう努力します。このように,聖霊の感動の下に書かれた聖書の導きに応ずることによつて,彼らは神の霊が自分たちの生活の中でより自由に活動できる道を開き,奉仕において神にほまれをもたらす実を結びます。
19 私たちの宣教において最大限の成果を保証するものは何ですか。そしてなぜ?
19 クリスチャンとして円熟し生長している人々は,聖書から,また忠実でさとい奴隷の上に明らかに示されるヱホバの御好意を見ることから,ヱホバが組織として御自身の民を扱つておられること,また神の霊はその組織に関連して働くことを認識するようになります。(マタイ 24:45-47)その結果,彼らが会衆の生長に影響する要素を考慮する時,彼らは「ものみの塔」「御国奉仕」また他の神権的な印刷物,大会などを通して定期的に準備される教訓に対する彼らの応答こそ考慮すべき主な事柄であることを知つています。神の霊が,組織に関連して働く以上,監督たちや,補佐たち,各奉仕者たちが神権的組織を通じて準備された教訓に応ずれば応ずるだけ,この方法によつて神の聖霊が自由に注がれて来ます。自分の任命されたところで,真の崇拝の拡大が,可能であるはずの成果をあげていないと感ずる人は誰でもこれらの要素を考慮すると良いでしよう。そして消極的な,または敗北主義的な態度を捨てて,神権組織が提案するすべての方法を,楽観的な気持で実行しなさい。ヱホバが,その御言葉と御自身の伝達の経路を通じて私たちに与えて下さる導きに従つて,私たちが勤勉に植え,水をそそぐならば,ヱホバは,すべての羊が新世社会の中へ安全に集められてしまうまで,発展をあたえられて私たちの努力を祝福して下さるでしよう。
20,21 (イ)私たちは奉仕を発展させるためにどのように組織しますか。(ロ)私たちの管理にゆだねられた奉仕の特権に対し,どのような見解を持つべきですか。
20 サタンの支配下にあるこの古い世が,ヱホバの任命された刑執行者,御子キリスト・イエスの手によつて完全な滅亡をとげる時は迫つています。この重大な時にあたつて,ヱホバと彼の御子の恩恵を受けることができるように,私たちが負うヱホバのクリスチャン証者という名にふさわしく生活することは非常に大切です。神のクリスチャン奉仕者として,私たちは生活の目的を持つています。そしてそれは,私たちの神ヱホバに専心の献身を捧げることです。私たちはその目的を見失うべきではなく,むしろ常に自分の生活をそれと一致させるようにすべきです。正義の道にすでに出発したのですから,決して後もどりしないようにしましよう。
21 神に奉仕するようすでに献身したならば,その献身を導きとしながらあなたの決定を下しなさい。あなたの奉仕を妨げるようなさらに大きな責任を引き受けるかわりに,むしろ常に真理に関する自分の知識を増進し,さらに大きな奉仕の特権を受けいれる機会を得るに機敏でありなさい。それは,あなたが会衆の伝道者として,奉仕により多くの時間を費やすため,仕事を手ぎわよくすることかも知れません。またできることなら,それは,援助を必要とする区域に家族と共に移ることかも知れません。たぶんあなたは,生活を組織し開拓者として全時間奉仕というすばらしい宝をとり,ギレアデ学校を卒業して宣教者として奉仕し,またベテルの家族の一員として奉仕することができるでしよう。前進の一歩をふみ出したからには,奉仕の特権を持ち続けることをあなたの決意としなさい。わき道にそれて他の誰かにゆずるのは容易なことですが,しかし私たちのために聖書に示されている模範は,自分の仕事に留まつた忠実な僕たちです。イエスは,その忠実さのゆえに,報いとしてさらに大きな奉仕の特権を与えられましたが,任命された奉仕を未完成でやめられたという記録はありません。アブラハムは75歳の時,外国で奉仕するべくヱホバから任命を受けました。そして死ぬ時まで,100年間その仕事に留りました。ヱホバの証者の新世社会と交わるすべての人の決意が,これらの忠実な忍耐の模範に習うことでありますように。その道に出発したからには,神の認められるキリスト・イエスの示された方法に従つて,私たちの前に置かれた馳場を忍耐をもつて走りましよう。―ヘブル 12:1,2。
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私は私の忠実の中に歩む。―詩 26:11,新世。