「御心が地に成るように」(その25)
キリスト前6世紀,5世紀,そして4世紀に存在した巨大なペルシャ帝国のひとりの王クロスの統治第3年に,ヱホバの預言者ダニエルは御使から最後のまぼろしを受けました。彼はその預言の書の11章と12章の中で私たちの為にそのまぼろしを説明しています。第一に,その預言的なまぼろしは,聖書歴史の第4番目の世界強国であるペルシャ帝国の過ぎ去ることを予めに告げています。それは圧倒的なギリシャに屈するでしよう。御使は次のように語りました,「ひとりの勇ましい王が起り,大いなる権力をもつて世を治め,その意のままに事をなすでしよう」。(ダニエル 11:3,新口)そのギリシャの王は,有名なアレキサンダー大王でした。彼によつて,聖書歴史の第5番目の強国,ギリシャ帝国は設立されました。
5 最終的なまぼろしの或る部分もいまは重要でないと見過すことによつて,聖書の研究生たちは誰を軽んじていますか。それの最初の部分を理解する価値は何ですか。
5 ダニエルへの預言の中でつづけて述べられていることは,その全部が重要なものです。それは君なるミカエルと共に働いたひとりの御使を通して述べられた神御自身の音信です。それは3週間のダニエルの祈りに対する答でした。それは争い合つた昔の王たちのあいだの政治的な陰謀や戦いについての詳細な預言だけではありません。もしそれだけのものであるなら,私たちが今日時間を使つて調べる価値はないものです。神の御使は,時間をかけてこの預言的な言信をダニエルに伝える機会を得るために戦いました。神はこの音信を御使に持たせてつかわしたのです。また,神はダニエルに霊感を与えて,御使が与えたまぼろしを書かせました。それですから,私たちがこの預言のすこしの部分も現代の危険な時にあつて肝要のものでない,または重要なものでない,とするなら,神とその御使およびダニエルを軽んじていることになります。なぜそうですか。なぜならその預言に適合する出来事を研究するとき,ヱホバ神の先見の正確さが示され,ヱホバ神が大いなる預言者であると立証されるからです。それで,預言的なまぼろしの最初の部分を研究して証明することは,預言の最後の部分も必ず成就するということについての私たちの信仰と確信を強めます。たしかに,神の御言葉の全部の預言が真であり,信頼できるものである,という私たちの信仰を強めます。
6 起き上つたペルシャの3人の王は誰でしたか。予告されていた第4番目の王は,誰でしたか。
6 ヱホバの御使は,最初のメデア-ペルシャ世界支配者,メデア人ダリヨスについて言及してから,次のように語りました「わたしは今あなたに真理を示そう。見よ,ペルシャになお三人の王が起るでしよう。その第四の者は,他のすべての者にまさつて富み,その富によつて強くなつたとき,彼はすべてのものを動員して,ギリシャの国を攻めます」。(ダニエル 11:2,新口)「起きる」,つまり世界の支配権をとるペルシャの3人の王は,(1)クロス大王,(2)エジプトの征服者,キャンビセス(キリスト前530-522年)(3)クロスの義理の息子,ダリヨス,ヒスタスペス(キリスト前521-485年)です。この3人の王を記する際に,さん奪者であるガウマタと呼ばれるマジアンを数えません。この者はキャンビセスの兄弟スメルディス・バーディジヤである振をしました。彼の支配は8ヵ月にもみたず,その間いつわり者であることが発見されて,ペルシャのダリヨス1世(ヒスタスペス)により殺されました。このダリヨスの命令にしたがい,ギリシャの侵略はキリスト前499年に始まりました。第2番目の侵略中,ペルシャ人はキリスト前490年,9月28-29日,マラソンで大敗し,その軍除は小アジアまで撤退を余儀なくされました。それから5年の後,ダリヨス1世は死んで,「第四番目」の王,クセルクセス1世が相続しました。
7 なぜそしてどのように第4番目の王は全力をあげてギリシャの領域に攻撃を加えましたか。
7 マラソンでペルシャ人が敗北したことは,復讐の気持を駆りたてました。それで,その富によつて強力になつたクセルクセスは,帝国全体をあげての準備をととのえて,ギリシャ人を降す手筈をととのえました。このクセルクセスは,ユダヤ人のエステルを妻にめとり,インドからエチオピアまでの127州を治めたアハシュエロスのことです。(エステル 1:1)彼の軍隊は,すべての州から集められたもので,東方のインド人からエチオピア人までが含まれていました。フェニキヤ人は1200隻の軍艦と乗組員を提供しました。さらに,この混合の大軍隊を輸送するために3000隻の舟が用いられました。歴史家のヘロドタスの言葉によると,170万人の歩兵,10万人の騎兵,51万人の水兵と航海員,合計231万人がいたということです。キリスト前480年の春,この巨大な戦闘軍隊はギリシャに向つて進撃しました。
8 侵略を企てたペルシャ人はどのようにギリシャから去ることを余儀なくされましたか。
8 ペルシャ人は,ギリシャ,テルモピレーにおけるギリシャ人の英雄的な遅延活動をやつとのことで取りのぞきましたが,莫大な損害を受けました。ペルシャ人はアテネを略奪しましたが,サラミスでは大敗北を受けました。ギリシャ人はこのサラミスを最後の拠り所にしようと決意していたのです。翌年のプラタエアにおけるギリシヤ人の別の勝利は,決定的なものでした。ギリシャはペルシヤ人の来る場所ではなく,クセルクセス王は小アジアに逃げもどりました。スレースの首都ビザンチンさえも,南ギリシャの勇敢なスパルタ人によりペルシャ人の手から取られました。
9 御使は,ペルシャの王について間ちがつたと,なぜ高等批評家たちは言いますか。しかし,なぜ御使は4人の王だけを述べただけで,次の世界強国について述べたのですか。
9 ギリシャからこのように排撃されたにもかかわらず,ペルシャ帝国は第4番目の世界強国として,それから約150年ながくつづきました。その結果,さらに7人のペルシャの王がクセルクセスの後につづきました。すなわちアルタクセルクセス1世,クセルクセス2世,ダリヨス2世(オカス),アルタクセルクセス2世,アルタクセルクセス3世,アルセスとダリヨス3世です。この理由のゆえに,「高等批評家たち」は,ダニエルに向つて「私はいまあなたに真理を示そう」と語つた御使が間ちがつたと言います。しかし,そうではありません。なぜなら,「第四番目」のペルシャの王が最後の者であるとか,またクセルクセス1世が第4番目の王で,クロス大王から数えて最後の世界支配者である,と御使は語つていないからです。御使は「第四番目」のこのペルシャの王で止めているだけです。この王はギリシャに対して全力をかたむけての復讐の運動をいたしますが,痛烈な敗北を受け,名声を失います。彼はギリシャに進入して戦争をした最後のペルシャ皇帝でした。それで,御使は歴史をちぢめて語りました。すなわち残りの7人のペルシャの王の支配を述べず,かえつて形勢を逆転してペルシャに進入し戦争を行なつた欧州人の王についての預言的な先見を述べたのです。それですから,次のように語つた御使は,歴史的に正しいものです。
10 誰がその時に立つた「勇ましい王」でしたか。そして,どこで?
10 「またひとりの勇ましい王が起り,大いなる権力をもつて世を治め,その意のままに事をなすでしよう」。(ダニエル 11:3,新口)これはキリスト前336年でした。すなわちクロス大王から数えて11番目の最後のペルシャの世界支配者が王位についた年と同年です。その年にマケドニヤ人のアレキサンダーは「起きて」,父ヒリツプ2世の後継者としてマケドニヤの王に即位しました。このヒリップ2世の名にちなんで聖書的に有名なピリピの町の名がつくられました。この21歳の支配者は,「勇ましい王」であつて,アレキサンダー大王と呼ばれるようになりました。
11 アレキサンダーは,どのように「大いなる権力をもつて世を治め」「その意のままに」に行ないましたか。
11 アレキサンダー大王は,父親の始めた計画に熱中して,アジア征服に進撃し,矢つぎ早に成功をおさめました。彼は中東とエジプトにあつたペルシャの領土を手中に入れました。エジプトでは,今日でも存在している町アレキサンドリアを設立しました。彼は鉾先を北に向けてユフラテ川とチグリス川を渡り,ガウガメラの戦場でダリヨス3世と会戦しました。この場所の近くには,アッスリヤの昔の首都ニネベが荒廃の中に埋もれていました。アレキサンダーの方陣と騎兵隊4万7000人は,100万人の戦士で構成されていたダリヨスの大軍に突進して散らしました。ダリヨス3世は逃げましたが,結局のところ殺されてしまい,ダリヨス1世から始まつたアカメニア王朝の支配に終りをもたらしました。ペルシャ帝国を支配下に置いたアレキサンダー大王は「大いなる権力をもつて世を治め」そして「その意のままに」事をなしました。彼は征服したバクトリア王の娘ロクサーナと結婚し,ペルシャの王ダリヨス3世の娘スタチラとも結婚しました。彼はロクサーナによつてアレキサンダー(アロウ)という名の息子を得ました。また,あるバルシネによつて彼はヘラクレス(ハーキュレス)という名の私生児をもうけました。
12 アレキサンダーは,どのくらいの期間世界支配を楽しみましたか。彼の国はいつ分裂しましたか。
12 アレキサンダーが楽しんだ世界支配は,束の間のわずかな期間でした。ヱホバの御使は,このことを予めに告げました,「彼が強くなつた時,その国は破られ,天の四方に分かたれます。それは彼の子孫に帰せず,また彼が治めたほどの権力もなく,彼の国は抜き取られて,これら以外の者どもに帰するでしよう」。(ダニエル 11:4,新口)キリスト前323年,まだ33歳で生涯のさかりの時に,宴会を催していたアレキサンダーは,バビロンでマラリヤ熱病にかかりました。聖書の中で滅亡が宣告されているこの都市を,世界の首都にしようとする彼の計画は水泡に帰しました。欧州,小アジア,アジア,中東そしてエジプトにまたがつた彼の大帝国は分裂して,天の四方に分かれました。彼の死体はエジプトの太守プトレミイ将軍により,エジプトに運ばれてアレキサンドリヤに埋葬されました。
13 王国はアレキサンダーの子孫に伝わらないという預言は,どのように正しいと証明されましたか。
13 その帝国はアレキサンダーの子孫に引きつがれませんでした。マケドニヤには無能の弟ヒリップ・アリダイアスが残つていました。彼の支配は7年にも満ず,キリスト前317年実の母親により殺されました。ロクサーナから生まれたアレキサンダーの嫡子アレキサンダー・アロウが父の後を継いで,わずか6年ぐらい支配しました。キリスト前311年,彼も父の将軍のひとりカサンダーにより非業の死を遂げるにいたりました。このカサンダーは,マケドニヤとギリシャの王位を奪つた者です。アレキサンダーの私生児ヘラクレスは,父の名をもつて支配しましたが,キリスト前309年に殺されました。彼の最期と共に大流血者アレキサンダーの血統は,流血の中に消えました。支配権は,彼の家から離れました。御使の預言は,正しいものと証明されたのです。
14 アレキサンダーの王国は,一時のあいだどのように「天の四方に」分かれましたか。後日これはどのように三つになりましたか。
14 アレキサンダーの帝国は,アレキサンダーの子孫によつて支配されず,他の人々によつて奪いとられました。彼の将軍たちは,たがい同志に喧嘩して,土地を奪い取りました。かくして,分裂した王国は,四つの方向,「天の四方」に分れることになりました。独眼のアンティゴナス将軍は,全アジアの主になろうとつとめ,ついに王の称号を取つてアレキサンダー大王の相続者であると主張しました。しかし,彼に反対した3人の将軍たち,カサンダー,セレウカスそしてリシマカスの連合軍と対戦する羽目に陥りました。彼はキリスト前301年,小アジア,フリギヤのイプサスで彼らと戦い,敗北をこうむりました。その結果に生じた四つのギリシャ人の帝国は,(1)マケドニヤとギリシャのカサンダー将軍の帝国,(2)小アジアとビザンチゥムを含む欧州スレースのリシマカス将軍の帝国,(3)セレウカス・ニケイター(征服者)将軍の帝国。彼はバビロン,メデア・シリヤ,ペルシャそして東方のインダス河までに至る地区を占拠しました。(4)プトレミイ・ラガス将軍の帝国。彼はエジプト,リビヤ,アラビヤ,パレスチナ,そしてコエル ― シリヤを占拠しました。数年たたぬ中にカサンダー将軍の男子の血統は絶えて,キリスト前285年には,リシマカス将軍はマケドニヤ帝国の欧州側の部分を占拠しました。しかし,キリスト前277年には,独眼のアンティゴナス将軍の孫アンティゴナス・ゴナタスは,マケドニヤの王位を取りました。これにより,マケドニヤがキリスト前168年にローマの属国になり,キリスト前146年にローマの一州としてその終りに至つた時まで,ギリシャ人帝国は三つになりました。
15 征服者セレウカス将軍は,どのようにアジア地方の支配者になりましたか。彼は,使徒との結びつきを持つどんな都市を,設立しましたか。
15 キリスト前281年,リシマカス将軍はセレウカス・ニケーター将軍と戦つて敗れました。かくして,セレウカスは実質上にはアジア地方の支配者になつたのです。セレウカスは,シリヤにおけるセレウカス王朝の設立者になりました。彼はイスプスの決戦後,間もなくしてシリアにアンテオケの町を設立しました。それは自分の父アンテオカスの名にちなんでつけたものです。その町の海港として,彼は港湾の町をつくり,自分の名に因んでセルキヤと名づけました。それから幾世紀か後,クリスチャン使徒パウロは,セルキヤの海港を用い,シリヤのアンテオケでクリスチャン真理を教えました。その場所でイエスの弟子たちは,初めてクリスチャンと呼ばれるようになりました。―使行 11:25-27; 13:1-4。
16 セレウカスはどこにその首都を移しましたか。彼と共に,この最後のまぼろしの中に述べられているごとく,どんな長期間の戦争が始まりましたか。
16 セレウカスは,政府の所在地をバビロンから新しいシリヤの首都アンテオケに移しました。彼はキリスト前280年に暗殺されました。その後のセレウカス王朝の王は,キリスト前64年までずつと権力を握つていました。このキリスト前64年にローマのポンペイ将軍はシリヤをローマの一州にしたのです。セレウスカスは死ぬ以前のずつと昔,自分の息子アンテオカス1世にユフラテ河より向うの土地全部の支配権および王の称号を与えておきました。セレウカス・ニケーター王と共に,聖書的な「北の王」と「南の王」との間の長期間にわたる戦争が始まりました。先見の明に富むヱホバの御使は,「北の王」と「南の王」の名前を述べませんでした。なぜなら,これら「二人の王」の国籍と政治的な本体は,世紀がたつにつれて変り,現在の20世紀にいる私たちにとつても重大な意義を持つものになるからです。
二人の王の争い
17 誰に関連してこの二人の王は,北の王であり,南の王でありますか。
17 ヱホバの御使は,長期間の戦争についての詳細な事柄を数多く語り始めています。「その君のひとりである南の王は強くなります。しかし,他の者は彼にまさつて強くなり,権力をふるいます。その権力は,大いなる権力です」。(ダニエル 11:5,リーサー訳)この「南の王」とは,何の南ですか。そして「北の王」とは,何の北ですか。彼らは,ダニエルの民の北と南です。ダニエルにこの幻が与えられたこの時までには,ダニエルの民はバビロンから自由に解放されて,ユダの地に復興していました。
18 ダニエル書 11章5節の,この「南の王」は,誰のことでしたか。彼はどんな支配者の系統を設立しましたか。
18 ダニエル書 11章5節に述べられているこの「南の王」とは誰のことですか。彼はアレキサンダー大王の将軍である「君」のひとり,すなわちラガスの息子プトレミイ1世です。彼は実際のところ,アレキサンダーの8人の護衛のひとりでした。彼はエジプトの太守にされましたが,独眼のアンティゴナス将軍にならいキリスト前306年に王の称号を取りました。彼は13人または14人つづいたエジプトにおけるマケドニヤ王すなわちパロの最初の者でした。彼は自分の名前にちなんで,エジプトを支配するプトレミイ王朝を確立しました。キリスト前312年頃,彼は安息日にエルサレムを占領しました。彼は,移住民になつて南方のエジプトに来るようユダヤ人にすすめ,ユダヤ人たちの植民地はアレキサンドリヤにつくられました。後継者である息子と共に,彼はアレキサンドリヤに有名な図書館と博物館を設立しました。ユダヤのユダヤ人地区は,キリスト前198年までプトレメイ王朝のエジプトすなわち「南の王」の支配下にいました。キリスト前198年,「北の王」はユダヤ人地区を占拠したのです。プトレミイ1世は,セレウカス王のシリヤ地方を数多く侵入しました。
19 「彼にまさつて強くな」つたその君とは誰でしたか。彼と彼の後継者たちは,どんな役割を果しましたか。
19 それでは,アレキサンダーの他の君すなわち将軍は誰ですか。その者は「彼にまさつて強くなり」その権力は「大いなる権力」ですと,御使は語つていました。この者は,セレウカス・ニケーター将軍です。彼は北の王の役割をいたします。彼が死ぬと息子のアンテオカス1世(ソター又はセイビア)がその後継者になりました。この王は,御使の預言の中で述べられていません。彼は「南の王」と戦つて戦死したのでなく,東アジアのガラテヤ人と戦つて戦死したからです。彼の後継者は息子アンテオカス2世で,「神」という意味の「テオス」と呼ばれました。彼はラオディスと呼ばれる女と結婚しました。そして彼女の産んだ長男に祖父セレウカスの名をつけました。
20 この「南の王」の娘は誰でしたか。彼女の父親はどんな翻訳を始めましたか。
20 しかし,このことは何のことですか。御使は次のように語つています,「年を経て後,彼らは縁組をなし,南の王の娘が,北の王にきて,和親をはかります。しかしその女は,その腕の力を保つことができず,また彼も,その腕も立つことができません。その女と,その従者と,その女を産んだ者およびその女を獲た者とはわたされるでしよう」。(ダニエル 11:6,ユダヤ人出版協会訳)この「南の王の娘」は誰ですか。それは,エジプトのプトレミイ2世(フィラデルハス)の娘,ベレニスです。伝説によると,このエジプトの王はユダヤ人の臣下に対して親切を示し,霊感されたヘブル語聖書をギリシャ語に翻訳し始める手筈をととのえました。この結果,有名なギリシャ語七十人訳ができました。ギリシャ語を話したクリスチャンたちは,西暦第1世紀にこの聖書訳を用いたのです。
21 その同意によると,南の王のこの娘について何がなされましたか。このことからどんな結果が生じましたか。
21 プトレミイ2世は,シリヤの「北の王」アンテオカス2世(テオス)と2度戦いました。キリスト前250年,両方の王は和親をむすびました。この同盟なる「和親」の代価として,シリヤの北の王アンテオカス2世は,プトレミイ2世の娘ベレニスと結婚しなければなりません。しかし,アンテオカス2世はすでにラオディスと結婚していましたから,エジプト人ベレニスと結婚するためにラオディスを離婚することを余儀なくされました。シリヤのアンテオカス2世は,ベレニスによつてひとりの息子を得ました。この子が「北の王」の王位に即く後継者になり,最初の妻ラオディスの息子たちは除外されることになりました。
22 ベレニスの「腕」は,どのように立ちませんでしたか。彼女と,彼女を連れて来た者たち,および彼女を得た者はどのように「わたされまし」たか。
22 ベレニスの「腕」すなわち支えの力は,彼女の父王プトレミイ2世でした。それで,彼がキリスト前246-247年に死んだとき,ベレニスは自分の夫,シリヤの王アンテオカス2世と,「その腕の力を保つことができません」。アンテオカス2世は彼女を捨てて,最初の妻ラオディスを呼び戻し,彼女の長男セレウカス・カリニカスをシリヤ王朝の後継者にいたしました。預言が前もつて告げていたごとく,災難はベレニスに関係するすべての者におよびました。「彼女の腕」であつた彼女の父親が死んだだけでなく,「彼の子孫」である彼女自身も死にました。ラオディスの計画通り彼女はその幼児の息子と共に殺されました。彼女を連れてきた者たち,すなわち彼女をエジプトからシリヤに伴つてきた従者たちも苦難を受けました。このことでラオディスの気持はしずまりませんでした。物語りに言われているごとく,おそらく彼女によつて,ラオディスを再び迎えたアンテオカス2世(テオス)は毒殺されたのでしよう。「神」の終りとしては,何という終りでしよう! 彼女が再び離婚されるのを防ぐためにこのことが行なわれたにちがいありません。それで,ベレニスを産んだその父と,彼女をしばらくの間得たシリヤの夫は,両人ともに死にました。かくして,ラオディスの長子,セレウカス2世は,父親の正当な後継者となりシリヤの王位に即くことになりました。これによつて,平和がかためられなかつたことはたしかです。
23 ベレニスの「根」は誰でしたか。
23 これには反動があると,御使は予め告げて次のように語りました,「そのころ,この女の根から,一つの芽が起つて彼に代り,北の王の軍勢にむかつてきて,その城に討ち入り,これを攻めて勝つでしよう」。(ダニエル 11:7,新口)ベレニスの「根」は,もちろん彼女の両親,すなわちプトレミイ2世(フィラデルハス)と彼の妹 ― 妻アーシノエです。
24 「女の根から一つの芽」はどのように立ちましたか。そして,どのように北の国の城に勝ち入つて,そこにいる者たちを処置しましたか。
24 「女の根から出て」父の代りに立つた特定な「芽」は,彼女の兄弟でした。彼はプトレミイ3世として「南の王」になり,エバーゲテス(「恩恵者」)という名前で呼ばれました。彼は,父が死んだときに王権を取ることにより「立ち始め」ました。シリアのアンテオケの首都で自分の姉妹ベレニスが殺されたことに対して,彼はただちに復讐を図りました。彼は軍隊をひきつれてシリヤの王,セレウカス2世カリニカスに向かつて進撃しました。その母ラオディスは,セレウカス2世を使つてベレニスと彼女の幼い男の子を殺しました。プトレミイ3世は,北の王の城に討ち入り,女王である母親ラオディスを殺しました。それだけに止まらず,彼はシリヤを征服し,首都アンテオケの要塞と,その海港セルキヤを占領しました。それから彼は,北の王の「広範囲な領土」を通つてバビロニアとスサを掠奪し,はるか東方のインドの岸辺まで進撃しました。このようにして殺人王セレウカス2世は,シリヤの王位から引きおろされることになりました。
25 彼は宗教的な面でどのように怒りを晴らしましたか。このことによつて彼はどんな名前を得ましたか。
25 南の王は宗教的な面でも,その怒りを晴らすでしよう。ヱホバの御使は,そのことをも予めに告げました,「彼はまた彼らの神々,鋳像および金銀の貴重な器物を,エジプトに携えて去り,そして数年のあいだ,北の王を討つことを控えます」。(ダニエル 11:8,新口)それより200年以上のむかし,エジプト王プサメティカス3世の時代中,第4番目の世界強国ペルシャの王キャンビセスは,エジプトを征服しました。そして,征服したエジプトの神々である「鋳像」を戦利品として持ち帰りました。南の勝利の王プトレミイ3世は,以前のペルシャの首都スサやバビロニヤを掠奪したとき,そこに運ばれていた古代エジプトの神々を取りもどし,宮の盗人たちから守りました。そして,故郷に連れ戻したのです。このために,彼は感謝の念を持つたエジプト人たちより,エバーゲテスすなわち恩恵者という名前を受けるにいたつたのです。
26 なぜ彼は「数年の間,北の王を討つことを控え」ましたか。彼は母国に何を持ち帰りましたか。
26 はるか南のエジプト国内の問題が生じたため,征服王プトレミイ3世はナイルの地に戻つてきました。母国の叛乱をしずめねばならなかつたため,彼は北の王に対する成功を十分に利用することができませんでした。それで,北の王に害を及ぼすことをひかえることにしました。プトレミイ3世は,エジプトから盗まれた神々を持ち帰つただけでなく,戦利品として2500を下らない「金銀の貴重な器物」を持ち帰りました。彼はキリスト前221年に死にました。それが自然の死であつたか,または殺されたのであるかは,分らず,その問題については,歴史は一致していません。しかし,彼は復讐を果したシリヤの王セレウカス2世よりは長く生き延びました。
27 なぜ北の王は,南の王の国に来て後に戻りましたか。
27 北の王は,この状態につけこんで何をしましたか。御使は,次のことを予めに告げました,「北の王は,南の王の国に討ち入るが,自分の国に帰るでしよう」。(ダニエル 11:9,新口)恥かしめを受けたセレウカス2世は復讐の反撃をして,南の王の国に攻め入りますが敗北します。キリスト前242年,彼は生き残つた僅かな数の軍隊と共に不面目な敗走を行い,シリヤの首都アンテオケに戻りました。彼の異名キャリニカス「栄誉に輝く勝利者」は,不適当な名前と判明しました。彼を恥ずかしめたエジプトのプトレミイ3世が死ぬ前に彼は死にました。そしてキャラウナス(「雷電」)という異名の彼の息子セレウカス3世が後継者になりました。セレウカス3世は暗殺されて,3年にも満たない彼の支配は突然終りました。彼の弟はアンテオケ3世としてシリヤの王位をつぎ「大王」と呼ばれるにいたりました。
28,29 (イ)北の王の長男には何が生じましたか。(ロ)次男はどのように進んで行つてみなぎりあふれ,また行つて憤激の行動をしました。
28 シリヤの王セレウカス2世キャリニカスのふたりの息子については,御使は次のように預言しました,「その子らはまた憤激して,あまたの大軍を集め,進んで行つて,みなぎりあふれ,通り過ぎるが,また行つて,その城にまで攻め寄せるでしよう。」― ダニエル 11:10,新口。
29 息子たちの一人,セレウカス3世(セラウナス)は,西方の小アジアに向つて軍事行動をしていたとき,暗殺者の刃にかかつて死にました。その弟であるもう一人の息子,アンテオカス3世大王は,大軍を集めて南の王の国を攻めました。そのとき南の王は,ヒロペイターという名前のプトレミイ4世でした。新しい北の王アンテオカス3世は,興隆してきたローマ強国と遂に戦うにいたりました。しかし,最初にエジプト人の占拠していたところを奪回するために軍勢をみちびいて行きました。そして,セルキヤの海港,コエレーシリヤ(シリヤ低地),ツロとプトレマイスの海港都市および近くの町々を取り戻しました。プトレミイ4世がさし向けた最初のエジプトの軍隊は,敗北しました。アンテオカス3世は,パレスチナのユダヤ地方の多数の都市を占拠しました。冬のあいだ勝利を得たアンテオカス3世は6万名の戦士とともにツロより約25マイル南方にあるプトレマイスの避寒地に行きました。翌年の春(キリスト前217年)彼は「また行つて,その城にまで攻め寄せる」ことをしました。