神の目的とエホバの証者(その39)
「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10,新世訳
判決破棄にともなう暴力行為
それから,1940年6月には,「公平な判決の傾向に反対する出来事があった。―大ぜいの人がしばしば論じていたゴバイテス事件」です。a
トム: それは前にお話しのあった国旗敬礼の件ではありませんか。たしか,アメリカの上級裁判所で,エホバの証者は有利な判決を受けたのではありませんでしたか。
ジョン: そうです。ところが,この件が1940年にアメリカ合衆国の最高裁判所で審議されたとき,せっかくエホバの証者に有利であった判決が8対1で取り消されてしまいました。この重大な決定のときに,敢然とその決定に反対した判事は,ハーラン・エフ・ストーン判事ひとりだけでした。ゴバイテス事件のこと,および裁判所の決定の結果は,ストーン判事の伝記の中に示されています。(ストーン判事は,後日裁判長に任命された)。次の言葉を聞いて下さい。
25年以上の期間中,ストーンはこの最も敏感なレベルにあった自由と権威のパラドックスについて熱心に取組んできた。……1940年まで,彼は裁判所と同じく,二つの近づき方を保持しているように見えた。その年の春に大詰が来た。彼と他の判事たちは,思想と信仰の自由に「優先の立場」を認めて来たのであるが,そのとき彼の仲間はみなエホバの証者に国旗敬礼を強制しても良いと認めたのである。それは重大な決定であった。そして,遂にストーンは発言した ― 彼一人だけであった。
1936年,12歳と10歳だったゴバイテスの子供たちは,他の生徒に加わって国旗を敬礼することを拒絶した。この国旗敬礼は,ペンシルバニア州ミナースビル学校委員会の命じたもので,ゴバイテスの子供たちは町の小学校から放校された。彼らは国旗敬礼を拒絶したが,彼らが非愛国主義者であったとか,母国を愛していないという意味ではない。彼らは聖書を読んで,国旗敬礼は偶像崇拝を禁じている聖書のいましめに反するということを知ったのである。父親は子供たちを復校させようとして訴訟を起こし,その事件は第二世界大戦が勃発する直前に,最高裁判所に達した。国家は戦争準備に狂奔していた。8人の判事は,時機と環境を考慮して判断を下したと思われる。彼らの代弁者は,〔フェリクス〕フランクファーター判事で,次のような意見を述べた,すなわち学校の委員の定めた儀式は,国家的な一致を促進するのに関係がある。それは,「国家的な安全の基礎」であり,「法律的な価値において大切な利害」である。
その基本的な問題は,ストーンにとってもフランクファーターにとっても新しいものではなかった。1918年9月18日,陸軍長官ニュートン・ベーカーに送った覚書の中で,フランクファーターは次のように述べていた,「良心的参戦拒否者は,宗派に属する者も一般人も……妥協しないで反対するなら,〔軍役でも,軍役でなくても〕有罪者と判定し,刑務所に入れるべきである」。「これらの絶対論者はフォートリーベンワースの当局者に引渡して教育を受けさせることを提案する」とフランクファーターは書いた。これに反しストーンは次のような意見を述べた,「人間の経験全部の教えるところによると,道徳の問題はその支持者を殉教者にしたところで抑圧することも,解決することもできない」。ストーン判事は,エホバの証者の事件の場合でも,この信念に従った。b
ストーンの反対は,人々の好評を博し,「道理にかなっているだけでなく,勇気あるもの」「アメリカ史上,大きな反対意見のひとつ」と言われました。新聞の論評も,きわめて良いものでした。最高裁判所の判決を非難した指導的な新聞は171もあり,その判決に賛成したのはその中の10にも満たないものでした。しかし,
ある方面では,ストーンの大胆不敵さに対して不快な反動が起きた。ボストンの在郷軍人会は,彼の辞職を勧告した。その決議は次のように述べていた,「貴下はその決定に反対して悪い模範を示し,生徒たちに国旗敬礼を拒絶することを励ました。貴下の行動から貴下がその宗教の信奉者であるとも考えられる」。
最高裁判所が強制的な国旗敬礼を是認して以来,宗教的な偏狭と熱狂的で無思慮な愛国主義がさかんになった。エホバの証者は「宗教を信じない。エホバの証者にとって,宗教とはジャッジ・ルサフォードの本を売って金をつくる金銭強要行為である」と言われ,自警団体は,暴力行為によって国旗に対する敬意を示すことにした。1940年の6月12日から6月20日までに,証者に対する幾日もの襲撃事件が法務省に報告され,FB1の行動を要求した。メイン州のケネブンクポートでは御国会館が燃された。立派な最高裁判所の建物から20マイルも離れていないメリーランド州ロックビルでは,警察は暴徒に参加して聖書の集会を攻撃した。イリノイ州リッチフィールドでは,1000人もの町の住民が60人の証者を取り巻き,証者の冊子を燃し,証者の自動車をひっくり返した。インディアナ州コナースビルでは,エホバの証者の弁護士は叩かれて,町から追い出された。ミシシッピー州ジャクソン市では,在郷軍人会はエホバの証者とトレーラーの家をジャクソン市から追放した。類似の出来事は,テキサス州カリフォルニア州,アーカンソー州,およびワイオミング州でも生じた。法務省の調べによると,この暴力の波は国旗敬礼問題における最高裁判所の決定に起因したのである。c
非アメリカ人的な行為の記録
かつてなかったような暴力の波が起こると共に,逮捕の数もぐっと増加しました。1940年,1941年,および1942年の記録によると,毎年3000人以上の人々が逮捕されました。多くの場合,各地の役人や警官は,この不法の活動に協力したり,参加したりしました。ここでも,ゴバイテス事件の判決が一般人に及ぼした悪い影響の表われが見られました。
トム〔さえぎりながら〕: どうやらジャッジ・ルサフォードが先見の明を持っていたということが信じられそうです。たしか1938年に彼はアメリカ合衆国内に生じたファシストの危険をアメリカ人に警告しましたね。
ジョン: この期間中,エホバの証者に対して行なわれた不法な,非アメリカ人的な行為の記録がここにあります。
何百人という多数の人が告発されたにもかかわらず,主の民は家から家に,また街頭でエホバの賛美を歌うことを中止しませんでした。悪鬼の影響を受けた敵は,暴徒化して御国伝道者に猛烈な反対を引きおこしました。多くの年数がたってこの種の迫害が1939年の秋,ペンシルバニア州とオハイオ州で再び始まりました。1940年,5月になると暴力行為は深刻化し,テキサス州デル・リオに始まって,ただちにテキサス州の他の小さな町や他の多くの州にひろまりました。
1940年6月3日,アメリカ合衆国最高裁判所は,学校委員会が公立学校の生徒に国旗敬礼を要求し,国旗敬礼しない生徒を放校しても良いと裁定しました。ローマ・カトリック教職制度の影響を受けたアメリカの新聞は,この判定をうんと歪曲として発表し,偽りにも,すべての人は国旗を敬礼すべきであるという風に記事を書き立てました。そのような間違った記事が書かれた結果,悪鬼の影響とローマ・カトリック教職制度の影響を受けたアメリカ世界大戦参加軍人会は,テキサス州で始まった暴徒の暴力活動にいっそうの拍車をかけました。そのため,暴力行為はアメリカのすべての州に急速にひろまりました。
1940年5月以来,ローマ・カトリックの教職制度とアメリカ世界大戦参加軍人会は,勝手放題のことをする暴徒を使って,形容不能の害を加えました。エホバの証者は襲われ,打たれ,さらわれ,町,郡,州から追い出され,タールを塗られたり,羽をつけられたり,ヒマシ油をむりやりに呑まされたり,いっしょにしばられて,物の言えぬ獣のように街路を歩かせられて,その跡を追いかけられたり去勢されたり不具にされたり,悪鬼の影響を受けた群衆に嘲笑されたり,ばかにされたり幾百人もの証者は告訴なしに刑務所に入れられて,他の人との連絡を取ることがゆるされず,親族,友人あるいは弁護士と相談する特権もうばわれました。他の何百人という人々は,刑務所に入れられ,いわゆる「保護留置」されました。ある者は夜中に銃殺され,ある者は絞首刑にされると脅かされ,気を失うまで叩かれました。数多くの暴力行為が起こりました。多数の者は衣服をはぎ取られ,聖書と他の文書は没収されて人々の前で燃されました。彼らの自動車,トレーラー,家庭,および大会の会場は破壊されて火がつけられました。その被害の金額は莫大なものになりました。
アメリカの多くの場所で人々や役人は悪鬼的な暴力行為に訴え,エホバの証者が暴動を企てているとか,「反政府運動」を行なっているというような偽りの告訴をしました。この種類の迫害は,ケンタッキー州,ミズーリ州,そしてインディアナ州で最高潮に達しました。ケンタッキー州では,10人の兄弟が暴動罪を問われて裁判を受けることになっています。その最高の刑は,刑務所に21年間留置されることです。インディアナ州では,二人の無害の婦人は,アメリカ世界大戦参加軍人会が「反政府」ときめつけた文書を持っていたために「暴動陰謀」の罪を着せられ,10年の入獄を宣告されました。
暴徒の支配する社会で裁判が行なわれる時,多くの場合に弁護士や証者たちは,法廷に出ている時に,暴徒に襲われて打たれました。
暴徒が暴力行為をしても,警官はぼんやりと腕組みしているだけで証者たちに保護を与えようとしませんでした。警官が暴徒に加わったり,時には暴徒を指導したというような例も幾十かありました。d
この迫害はひじょうに激しくなったので,アメリカ合衆国の首席検事フランシス・ビドルと,当時のアメリカ大統領夫人,エリノア・ルーズベルトは,迫害を中止するよう公共に呼びかけました。1940年,6月16日,NBCの国内放送により,首席検事は次のように語りました。
エホバの証者はしばしば襲われて打たれている。彼らは罪を犯していない。しかし,暴徒は彼らが罪を犯したと判断し,暴徒たちの手による刑罰を加えている。検事総長は,このような暴力行為をただちに調査するよう命じた。
国民は緊張して,目ざとくしていなければならない。特に冷静と正気を保たねばならぬ。暴徒の暴力行為があると,政府の仕事はきわめてむずかしくなる故,すぐに中止してもらいたい。ナチの方法を真似てみたところでナチを負かすことにはならない。e
民間人の自由に興味を持つ一つの群れは,このような暴力行為を記述した一つの冊子を出版しました。次のものは,その中の言葉をすこし引用したものです。
幾年か前にモルモン教徒が迫害を受けて以来,少数の宗教でエホバの証者ほどつらい攻撃をうけた群れはない。―特に1940年の春と夏に,彼らは攻撃をうけた。それは彼らに対する攻撃の最高潮であったが,数年の間は彼らに対する敵意と差別行為があったのである。
エホバの証者の弁護士と米国市民の自由連盟が法務省に提出した書類によると,1940年中44の州で335以上の暴動事件があった。その事件に1488人の男,女および子供が関係していた。
この常軌を逸した暴動行為の原因は,欧州におけるナチの軍隊の成功でひきおこされた「愛国主義的な」恐れと,アメリカ合衆国が侵略されるのではないかという想像にもとづく恐怖であった。カリフォルニア州からメイン州にいたるまで,この感情は「第5列」と「トロイの馬」をさがし出す運動を通して表わされた。この言葉は,ほとんどすぐに人々の人気を得て,国家の防衛に反対していると考えられる者を特徴づけるようになった。
エホバの証者は,ただちに各方面で攻撃を受けた。その主要な理由は,国旗敬礼に関する彼らの立場による。その件は,1940年5月22日号の「慰め」誌により,広く宣伝されたのである。その雑誌は,ゴバイテスの国旗敬礼問題に関し,アメリカ合衆国最高裁判所における裁判の模様を詳細に記していた。1940年6月3日の判定により,国旗敬礼を拒絶するこの派の子供たちを追放できる学校委員会の権利は支持された。それ以来,ある人々はこの宣伝を暴動的なものと見なした。f
1940年の大会で元気づけられる
法律に関しての戦いがつづけられエホバの証者に対する迫害が最高潮に達したとき,大会の開催が決定されました。大会を開くにはずいぶん時機が悪いと思われるかも知れません。しかし,実際にはそうではなかったのです。エホバの証者は,反対を受けてもわざをつづける決意をしました。大会により神の民は大きな力を受けて一致結合することができました。彼らは霊的な滋養物をいただくと共にクリスチャンどうしの交際により励まされました。
オハイオ州コランバスのオハイオ州博覧会会場で準備がなされました。大会の日は1940年7月24-28日まででした。同時にアメリカ合衆国内の30以上の他の都市で大会が取りきめられました。その大会はみな私設の陸上電線により,ひとつの大会として結合される予定でした。ところが,ローマ・カトリック教職者たちからの圧迫を受けたオハイオ州の役人は,契約を解除して,証者たちに博覧会会場を使用する権利を与えませんでした。
ただちに請願状が国内にまわされ,数日のうちに204万2136人の署名者は,クリスチャン大会をするエホバの証者に博覧会会場の使用を許可するようにとブリッカー知事とオハイオ州博覧会会場協会に要求しました。ブリッカー知事は,請願者たちの要求を拒絶したので,証者たちは大会の中心都市として別の都市をさがしました。
他の大会施設の多くも,圧迫を受けて契約が解消されました。それで大会が始まったときには,わずか18の都市でエホバの証者の大会が行なわれました。博覧会会場の使用が不可能であることが分かってから,大会の中心都市はミシガン州デトロイト市に移されました。反対を受けたにもかかわらず,大きな自動車のガレージを連結して,ひじょうにすばらしい大会が行なわれました。ジャッジ・ルサフォードの健康はとみに衰えていましたが,それでも彼は大会で3度登壇することができました。特筆すべき話のひとつは,「時と季節」と題する講演でした。デトロイト市では,3万5000人が出席しました。この話の終りに「宗教」(英文)と題する本が発表され,その3万部が国内の大会出席者たちにすぐに配布されました。大会の中心的な話は「世界救済策としての宗教」と題するもので,それは特に偽りの宗教と,キリスト・イエスの名によって行なわれる悪い組織制度をばくろしました。この講演は冊子に印刷されましたが,またレコードにも録音されて,大会が終了して後ひろく配布されました。
7月28日,日曜日の公開講演はデトロイト市の4万5000人になされました。聴衆は大会の会場とイースタン・スター・テンプルにつめかけ,さらに幾千人もの人は街路や出口に立って,拡声機を通して伝えられたその音信に聞き入りました。私設の電線を使用することにより,この講演はトレーラー・キャンプにも伝えられました。そこでは1万2000名もの人が集まってこの話を聞きました。他の17の都市に集まった大会出席者の総合計は,約8万人で,この宗教のばくろに耳を傾けました。「時と季節」および「世界の救済策としての宗教」という二つの話は,「民主主義に対する陰謀」(英文)と題する冊子の中で発表されました。
この大会の特筆すべき他の点は,開拓者の集会,模範的な奉仕会,ものみの塔の研究,直立型の新しい蓄音機の紹介でした。この直立型の蓄音機は,ふたをあけなくても真直ぐに置いてボタンをまわすだけでレコードをかけることができました。これはブルックリン・ベテルにいた兄弟たちが設計してつくったもので,家から家の蓄音機の使用を容易にしました。それに加えて,「御国ニュース」(英文)第6号が大会で発表され,その200万部以上が家に持ち帰られ,ただちに配布されました。
デトロイト市でのこの大会は,大きな反対を受けたにもかかわらず行なれました。デトロイト市のアメリカ世界大戦参加軍人会とローマ・カトリックの教職制度は,もの凄い圧力を加えて,その大会を流会させ,前納ずみの契約を取り消そうとしました。大会前と大会中,多数の兄弟たちが1日24時間中,警備にあたり,資産を守ることが必要でした。
新聞の報道員やカメラマンおよびほとんどすべての雑誌の代表者もこの大会に来ていました。エホバの証者が国内でひどい迫害を受けていたからです。その結果,エホバの証者についての新聞報道は,その時までかつてないような大きなものでした。g
もちろん,この期間中になされた多くの報告は,エホバの証者のことを良く述べていません。しかし,良い記事もありました。たとえば,1940年8月8日の「ミシガン・クリスチャン・アドボケイト」紙の社説は次のように述べていました。
この群れの人々は,いまの1940年にあって,キリストに関しはっきりあかしをしている。この群れはイエスを信じて,そのことを知らせている。宗教が妥協して人々の気持ちに迎合しようとしている今,教会の成員が教会にはいるなら,それはキリストについてあかしを立てることの始まりでなく終りであると考えているいま,私たちの中の多くの者が恥ずかしくて証言をためらう今,これらの証者たちは,われわれの異教的な無関心さに挑戦するものである……。
現在ではおそらく,前述のことよりももっと大切なことは,この派の者が,急速にファシスト化しているこの国で宗教的な自由という問題に人々の注意をひいていることである。この群れが小さいという事実は,その群れに対する迫害によって破られた宗教的な自由に関する原則を変えるものではない。h
多数の善意者はこの記事に啓発され,その結果,証言に耳を傾けるようになりました。
[脚注]
a (ト)ミネソタ法律回顧,第28巻,第4号1944年3月,227頁。
b (チ)ハーラン・フィスケ・ストーン。アルフェス・トーマス・メーソン著(1956年ニューヨーク,ザ・バイキング・プレス)525頁。
c (リ)上記と同じ。
d (ヌ)1941年「年鑑」(英文)96,97頁。
e (ル)被告人の申立書「ウエスト・バージニア州教育委員対バーネット」74頁。
f (オ)1941年1月,アメリカ民間人自由組合著「エホバの証者の迫害」(英文)3頁。
g (ワ)1941年の「年鑑」(英文)87-92頁。
h (カ)1941年の「年鑑」(英文)43,44頁。
[349ページの図版]
1940年6月16日イリノイ州リッチフィールドで暴徒により自動車は転覆された