エホバを待ちのぞんで勇ましく伝道する
ユーゴスラビア
ユーゴスラビアにおいて,神の御国の良いたよりを宣べ伝える仕事は,過去12ヵ月の間良く進歩しました。エホバ神に献身した人たちは,出来るだけ多くの機会をとらえて他の人に話しかけることを,自分たちのつとめとしています。彼らのこのような信仰はゆたかな報いをえています。ユーゴスラビアにおいて宗教の自由はかなり許されていますが,良いたよりを宣べ伝えるに際しては多少の障害があります。特に再訪問をして,聖書研究を開くという場合にこの問題があります。この活動を止めさせようとして,多くの努力が払われており,数多くの伝道者が,再訪問をした事が理由で訴えられ,有罪を宣告せられました。いわゆる『無届集会』を行なったと非難されているのですが,実際には出席者が招待されてやって来る集会のかたちでなく,ただ一人か,せいぜい二人の人が家を訪問したにすぎません。それでも証者たちは,自分の友人を訪ね,聖書について話し合っています。以上のような困難があるにもかかわらず,御国の側にしっかりと立場を取り,定期的な集会の場所であるエホバの証者の御国会館にあつまって来る人々があります。
完全な失明も真理の光をみるさまたげとはなりません。次の例が,そのような障害のある人でも新世社会内の有用な一員に成りうる事を良く示しています。一人の若い男は,光を失った傷病兵でしたが,真理の知識を得,やがて洗礼を受けました。読む事が出来ず,ただ聞く以外には知識を取り入れる方法がなかったので,彼は凡ての集会に出席する事にしました。しかしそれだけでなく,なんとかもっと学びたいと願っていたので,彼のためにテープレコーダーが準備され,話や聖書の討議が沢山ふきこまれました。それでこの盲の兄弟は毎朝のように御国会館にかよい,これらの録音された話に聞き入りました。間もなくして,彼は,真理に永年いる人にも劣らぬほど円熟した兄弟になりました。このように聖書を学ぶために非常に勤勉に努めたので,彼は1年後には,会衆の僕に任命され,更に「ものみの塔」研究を司会する任命をも受けました。彼は集会に備えるにあたって自分自身で材料を集め,いつでも兄弟達が驚く程良く準備しています。といっても,読む事が出来ないので,全部覚えていなければなりません。彼の妻が,彼のために資料を声を出して読んで助けているのです。こんなふうにして,彼女も真理にはいりました。立派な公開講演もするようになり,彼が司会する会衆は良く成長し,彼は大きな喜びを見出しています。そして彼が話をする時には,彼の以前の仲間や戦友たちも聞きに来ます。この経験は,私たちのクリスチャン奉仕において,円熟性を増し加えるために,私たち自身の熱意が如何に大切であるかという事をよく示しています。
使徒ペテロは私たちに対し,「あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には,いつでも弁明のできる用意をしていなさいと」助言しています。(ペテロ前 3:15,新口)これは刑務所に入れられている兄弟にも,しかも相手が牧師であっても,あてはまります。一人の巡回の僕は公開講演の中で進化論に反論したところ,有罪を宣告され,3ヵ月の入獄を命ぜられました。ところが刑務所の中で同じく服役していたあるカトリックの司祭と知り合いになり,この司祭がエホバの証者の活動や目的について多少関心を持っているのを知って,彼は巧みな方法で,主に聖書を用いて説明しました。彼は聖書を使い,司祭は祈構書を持っていました。二人は毎日1時間位話し合い,その間他の囚人たちは彼らのまわりに立って,その討論を聞いていました。司祭もこんな方法で話し合う事を喜び,三位一体,マリヤ崇拝,霊魂の不滅といったような事柄が論議のまとになりましたが,この兄弟は司祭の間違いを指摘するよりも,まわりに立っている沢山の囚人達の役に立つようにと考えて,質問と答えの方法を用いました。司祭は懸命になって自分の意見が正しいと主張しつづけましたが,遂にある日,彼は聴衆の前で,証者が彼をうち負かした事を認め,次のように言いました。「あなた方エホバの証者は,霊的によく目ざめています。私はあなた方程良く聖書を知らないから,年をとっているけれども勉強しなければならない事が沢山あります」。そして司祭は,私はあまり聖書を知りません,と言って,それ以上聖書の討論をするのを断りました。間もなく司祭は釈放されて出て行きましたが,司祭との討論が役立って,刑務所の仲間の囚人たちの質問に答えたり,彼らに証言する機会が沢山出来ました。しかしその討論の本当の効果は,しばらく後になって現われてきました。
司祭が働いている区域にも,小さいながら一つのエホバの証者の会衆がありましたが,その区域は典型的なカトリックの土地で,住民たちはいつも,真理に反感を抱き,事ごとに冷笑し,証者たちはさながらやっかい者のように考えられていました。ところが,司祭が刑務所から戻り,彼の教会で説教壇に立って,彼が服役中にエホバの証者の一人に会った事,又エホバの証者が真のキリスト教を代表しているのを自分自身で見て来た事を話しました。そして更に彼は,証者達はクリスチャンとして又キリストの追随者として生活する事に努める善良にして柔和な人々であり,真のクリスチャンと考えらるべきだ,と付け加えて述べました。
司祭のこの話には効果がありました。この村に奇跡でも起こったかのように,どこへ行っても,住民たちは兄弟を迎え,司祭が教会で話した事を伝え,更にもっと教えて欲しいと頼みました。それで,証言する機会が急にふえ,結果として新たに大勢の興味を持つ人々が見つかり,住民の反感はなくなり,反対に友好的な雰囲気が満ちるようになりました。これらの事は,巧みに,そして柔和な態度で私達の信仰を守ってゆくならば,如何に大きな祝福がもたらされるかを良く示しています。―1962年度エホバの証者の年鑑(英文)より。