神の霊感による聖書の全部はどのように有益か
1 聖書の真の目的は何ですか。それで聖書に匹敵する本がほかにありますか。
今日たいていの本は売るために書かれ,著者と出版者に利益をもたらします。聖書は単にベストセラーになることを目ざして書かれた本ではありません。いままでに1202の言語に訳され,毎年何百万冊も売られる聖書はどの本よりも多く流布されており,たしかにベストセラーではあります。それはごく当然のことですが,聖書の本当の目的は物質的利益を得ることではなく,霊的な益を得ることです。それは神の造る栄光の新しい秩序の下に永遠の生命を得ることにつながっています。ゆえに聖書を読み,それに従って生きる人が聖書から得る益は,他のどんな本から得る益にもまさっています。聖書はこの地上で最も有益な本です。ゆえに私たちは聖書を読まなければなりません。
2 (イ)テモテ後書 3章16,17節に述べられている聖書の益をひとつ残らずあげなさい。(ロ)「聖書はすべて」というパウロの言葉は,聖書のどれだけを意味していましたか。パウロはその事をどのようしていますか。
2 神の人すなわち神に属する民となることを望み,神の人々にふさわしく全く献身して神に奉仕することを望む人にとって,「聖書」が如何に有益かに注目して下さい。使徒パウロは聖書の有益さについて,クリスチャンの監督テモテに次の事を書き送りました。「聖書は,すべて神の霊感を受けて書かれたものであって,人を教え,戒め,正しくし,義に導くのに有益である。それによって,神の人が,あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて,完全にととのえられた者になるのである」。(テモテ後 3:16,17,新口)「聖書は,すべて」と述べたパウロが意味したものは聖書全巻であって,いわゆる新約聖書だけ,あるいは霊感によるヘブル語聖書だけではありません。キリスト教国の一部の宗教家は,新約聖書がクリスチャンに必要なもののすべてであると唱え,ユダヤ人は将来の世界で祝福された生命を得るために必要なものはヘブル語聖書だけであると唱えます。しかし私たちには,クリスチャン以前の部分とクリスチャン時代に加えられた部分とを含む聖書全巻が必要です。両方の部分とも「神の霊感によって書かれた」のであり,如何なるものであれ神の霊感したものを人は無視できないからです。幸福な永遠の生命を求める人にとってその全部は有益です。使徒パウロもそれと同じことを述べています。ここでパウロはクリスチャン以前のヘブル語聖書から一つの句を引用してイエス・キリストに適用したのち,次のことを述べました。「キリストさえ,ご自身を喜ばせることはなさらなかった。むしろ『あなたをそしる者のそしりが,わたしに降りかかった』と〔詩篇 69篇9節に〕書いてあるとおりであった。これまで,〔すなわちキリストの時よりも前〕に書かれた事がらは,すべてわたしたちの教のために書かれたのであって,それは〔キリスト以前に書かれた〕聖書の与える忍耐と慰めとによって,望みをいだかせるためである」。(ロマ 15:3,4)従っておよそ「神の人」が「十分の準備ができて,完全にととのえられた者」となるには,聖書全巻を持ってそれを使わなければなりません。
「教え」る
3 パウロは教える者の資格をどのように備えていましたか。私たちの最も偉大な師はどなたですか。
3 聖書はすべて神の霊感によるもので教えるのに有益であると,使徒パウロが述べていることに注目して下さい。教えるとはすなわち永遠の生命という貴重な報いをかち得る道を他の人々に教えるために聖書を使うことです。パウロ自身がこの事のよい手本でした。それでテモテに次のように書き送っています,「そのために,わたしは立てられて宣教者,使徒となり(わたしは真実を言っている,偽ってはいない),また異邦人に信仰と真理とを教える教師となったのである」。(テモテ前 2:7,新口)霊感を受けて聖書を書いたクリスチャンの中で,最も多く書いたのはパウロでした。キリストの弟子のうち,パウロをはじめ,他の7人がクリスチャン・ギリシャ語聖書を書きました。これらの人々は地上の人間のうちで最も偉大な師イエス・キリストの追随者でした。そのうえ聖書全巻の霊感の与え主は天にいますかた,あらゆるものの中で最も偉大な師です。この師に関して次の言葉が神の組織にむかって述べられています,「又なんぢの子らは皆エホバに教をうけ,なんぢの子らのやすきは大ならん」― イザヤ 54:13。ヨハネ 6:45。
4 エホバはどのように私たちの師となりますか。
4 エホバ神ご自身から教えをうけることを考えるとき,心をおどらせるべきではありませんか。神から学ぶ者となって,神の霊感による本を受け入れ,読み,学び,行なうとき,エホバ神は私たちの師となるのです。それで聖書には人間の作ったどんな最新の本にもまさって教える特質がそなわっているはずです。もちろんそれはこの世の学校で教えるためではなく,永遠の生命の与え主エホバ神の啓示されたお目的にかなった生活を送って,人生に輝かしい成功をおさめるためです。
5 神のことばを教える者となるのは11人の忠実な使徒だけではありません。そのことはどんな事実から明らかですか。
5 復活したイエス・キリストから次の命令を与えられたのは,11人の忠実な使徒だけではなく,ガリラヤでその時集まったすべての弟子たちでした。「それゆえに,あなたがたは行って,すべての国民を弟子として,父と子と聖霊との名によって,彼らにバプテスマを施し,あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ,わたしは世の終りまで,いつもあなたがたと共にいるのである」。(マタイ 28:19,20,新口)11人の忠実な使徒はすべて1世紀の終りまでに死んでいますから,組織制度の終結の時まで人々を弟子とし,バプテスマを施し,教えよとの命令は使徒だけに与えられたものではありません。それは弟子のすべてに与えられたものです。「世の終り」のとき地上に生きているのは忠実な11人の使徒ではなくて私たちなのです。それで復活したイエス・キリストが「世の終り」の最後に至るまで常に私たちと共にいますことを確信できます。人々を弟子にしてバプテスマを施し,教えよとの命令は,私たちに与えられています。イエスの忠実な追随者であることを証明するには,これらの事をしなければなりません。
6 真理を教えるには,なぜ文字に書かれた正確な記録が必要ですか。イエスの死と復活後,その事は変りましたか。
6 命ぜられたこれらのことを行なうのに必要なのは,文字に書かれた,あるいは印刷された本です。単なる伝聞とか,あるいは正確な伝授が言い伝える人の完全な記憶また正直さに依存する口頭の言い伝えではありません。地上で最も偉大な師であったイエス・キリストでさえも,思いつくままを語ったのではありません。イエスは教えを授ける本を使いました。それは当時の聖書すなわち霊感によるヘブル語およびアラミア語の聖書です。イエスはそれを読み,学ぶことができました。それでイエスは常に「と書いてある」と言われ,霊感のヘブル語聖書から引用されたのです。(マタイ 4:4-10。ルカ 24:27,32,44-47,新口)イエスの復活と昇天の後にも,弟子たちを教える教科書は変らず,他の教科書は与えられませんでした。それは元のままであり,ただ27冊の本が霊感の下に加えられて完成した教科書となっただけです。完成以来ほとんど1900年の年月を経ていても,この本は時代おくれのものとはならず,何か現代的なものにとりかえる必要はありません。
7 教えを授ける本として,今日なおそれが「正しい」本なのはなぜですか。
7 聖書の預言のことを考えれば,聖書は今の時代にさえ先んじています。聖書が「神の霊感によって書かれた」という事実は変らず,従ってそれは常に正しく,この核時代,宇宙時代または頭脳の時代においても正しいのです。人間は聖書の神から与えられた頭脳を使っているに過ぎません。私たちが教科書を変える必要はありません。必要なのは聖書を教えよとの命令に従うことです。それは「神の言」だからです。師イエス・キリストと12使徒は私たちのならうべき手本です。コリントにいた時の使徒パウロについて,宣教旅行を共にしたルカは次のように述べています。「パウロは一年六ヵ月の間ここに腰をすえて,神の言を彼らの間に教えつづけた」― 使行 18:1-11,新口。
8,9 真理を教えるにあたって,今日どんな問題に直面しますか。
8 今日教えることをする私たちのまわりには,人々の喜ぶ話をして教会員の耳をくすぐり,教会員を喜ばせて給料を得ている牧師がいます。パウロはこのような事態を見越してテモテに次のことを書き送りました。
9 「人々が健全な教に耐えられなくなり,耳ざわりのよい話をしてもらおうとして,自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め,そして,真理からは耳をそむけて,作り話の方にそれていく時が来るであろう」。(テモテ後 4:3,4,新口)「しかし,御霊は明らかに告げて言う。後の時になると,ある人々は,惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて,信仰から離れ去るであろう。それは,良心に焼き印をおされている偽り者の偽善のしわざである。これらの偽り者どもは,結婚を禁じたり,食物を断つことを命じたりする。しかし食物は,信仰があり真理を認める者が,感謝して受けるようにと,神の造られたものである。これらのことを兄弟たちに教えるなら,あなたは,信仰の言葉とあなたの従ってきた良い教の言葉とに養われて,キリスト・イエスのよい奉仕者になるであろう。しかし,俗悪で愚にもつかない作り話は避けなさい」― テモテ前 4:1-3,6,7,新口。
10,11 (イ)いまの事態に照らしてみるとき,私たち各人は教えることに関して何を確かめねばなりませんか。(ロ)どんなすぐれた援助の手だてが与えられていますか。
10 このような事態に面しているゆえに,キリスト教国の牧師の教える事柄を聖書と比較してしらべるだけでなく,私たち自身の教えることを調べなければなりません。それは私たちが聖書にかなったことを常に語るためです。真理からはずれ,精神的,霊的に病気となり,反キリストの教師になることを,私たちは決して望みません。それで霊感による神のことばを,他の人と共に自分に教え,他の人に教えることを自ら実践すべきです。エホバ神から教えられる者となって聖書を学ぶとき,啓発を与える力を得なければなりません。それは何ですか。その力は神の聖霊です。聖書は神の聖霊の霊感によって造り出されました。それで聖書を理解するには,同じ聖霊の助けがいります。神がご自身を愛する者のために備えられたものについてパウロの語った言葉は,御霊の必要なことを示しています。
11 「そして,それを神は,御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ,神の深みまでもきわめるのだからである……神の思いも,神の御霊以外には,知るものはない。ところが,わたしたちが受けたのは,この世の霊ではなく,神からの霊である。それによって,神から賜わった恵みを悟るためである。この賜物について語るにも,わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで,御霊の教える言葉を用い,霊によって霊のことを解決するのである」。
12,13 (イ)今日のクリスチャンにとって,エホバの御霊をそそがれることはなぜ必要ですか。この御霊は今日どこに豊かに見出されますか。(ロ)それでクリスチャンは何をしますか。
12 コリント前書 2章10-13節にしるされたこの言葉通り,使徒ペテロは五旬節の日,神のそそがれた聖霊によって教えられ,ヨエル書 2章28-32節,詩篇 16篇8-11節および110篇1節の成就について語ったのです。キリストの弟子たちは,その時までこれらの聖句を全く理解していませんでした。(使行 2:1-36)1918年に第一次世界大戦が終って以来,私たち神のことばを学ぶ者は,西暦33年の五旬節に初期クリスチャンが必要としたと同じだけの神の御霊の助けを必要としてきました。この助けがなかったとすれば,メシヤによる神の国が西暦1914年天に設立されたことを,目にも心にも証明する聖書預言の驚くべき成就を理解できなかったに違いありません。この神の国は神の敵をことごとく滅ぼし,完全な正義の政府を人類に与えるものです。(マタイ 24,25。マルコ 13。ルカ 21。黙示録 11:15–12:10)神の聖書は神の霊にみたされています。祈りをこめて聖書を心に受け入れる人はだれでも,御霊の力を感じます。ご自身の語った言葉についてイエスは次のことを言われました,「人を生かすものは霊であって……わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり,また命である」。(ヨハネ 6:63,新口)文字に書かれた神のことばについても同じことが言えます。神のことばはその中に神の霊があり,従って教えを授けます。
13 文字に書かれた神のことばは霊の表現と言えます。それでこの霊のことばに反する事柄を教える反キリストよりも,神のことばに表わされた霊に従わなければなりません。偽りを語る反キリストについて論じた使徒ヨハネは次のように言葉をつづけています。「なんぢらの喪には主より〔神の霊によって〕注がれたる油とどまる故に,人の汝らに物を教ふる要なし。此の油は汝らに凡ての事を教え,かつ真にして虚偽なし,汝等はその教へしごとく主に居るなり」。文字に書かれた神のことばに留まることによって,この事をしなければなりません。―ヨハネ第一 2:27。
14 イエスはなぜ従うべきよい手本ですか。
14 私たちの模範である師イエス・キリストは言われました,「わたしは自分からは何もせず,ただ父が教えて下さったままを話していた」。(ヨハネ 8:28,新口)完全な意味において神の人であったイエスもまた,文字に書かれた神の言葉から教えを受けました。イエスは謙遜にエホバの教えを受け入れました。それでイエスの追随者である私たちも高慢になることなく,神の霊の助けを得,神のことばによってエホバから教えられなければなりません。「教え(る)に有益」な本として,霊感による聖書にまさる本はありません。それによって教えられ,またそれを用いて他の人を教えなさい。
「戒め」る
15 どのように聖書は戒めるのに有益ですか。
15 使徒パウロは,霊感による聖書が「戒め」るのに有益であると書きました。たとえクリスチャンであっても不完全であるゆえに,戒められることは時に必要です。復活した後のイエス・キリストは,あるクリスチャン会衆全体を強く戒めたことがありました。イエスはその会衆が物質主義的になり,霊的にみじめで貧しく,盲目であり,裸であることを告げました。小アジア,ラオデキヤの会衆に対するこの戒めの言葉を結ぶにあたり,イエスはこう述べています,「凡てわが愛する者は,我これを戒め之を懲す。この故に,なんぢ励みて悔改めよ」― 黙示 3:14-19。
16,17 (イ)ペテロを戒めることはなぜ必要でしたか。(ロ)パウロはどのようにペテロを戒めましたか。
16 ある使徒でさえ,一度は戒められることが必要でした。それは使徒ペテロすなわちケパです。西暦36年,ペテロは無割礼の異邦人(非ユダヤ人)がクリスチャン会衆にはいる道を開き,その時はじめて異邦人の家でもてなしを受けました。それは正しいことです。何年かのちのことシリヤのアンテオケで,批判を恐れたペテロは異邦人と交わるのをやめました。それを見た他のユダヤ人のクリスチャンも同じく偽善的な行いをするようになりました。神は別の使徒すなわちパウロを用いてペテロを戒めました。
17 パウロは次のように述べています,「彼らが福音の真理に従ってまっすぐに歩いていないのを見て,わたしは衆人の面前でケパに言った,『あなたは,ユダヤ人であるのに,自分自身はユダヤ人のように生活しないで,異邦人のように生活していながら,どうして異邦人にユダヤ人のようになることをしいるのか』」。パウロは他の人々の前でケパすなわちペテロを戒めました。それはなぜですか。パウロは次のように説明しています,「彼に非難すべきことがあったので,わたしは面とむかって彼をなじった」。(ガラテヤ 2:11-14,新口。使行 10:24-48)ペテロ(ケパ)は自分の非を認め,クリスチャンである自分の行いを改めたものと,私たちは理解しなければなりません。ペテロは間違った考えを持つ人間の批評よりも,使徒である僕を通して与えられた神の批評をもっと深く考えたことでしょう。
18 戒めることと叱責することの相違を説明しなさい。
18 ここに戒めと叱責の相違を見ることができます。聖書の中でこの二つの言葉は使い分けられ,異なったギリシャ語が使われています。叱責は正当な理由がないのに与えられるかも知れません。その場合,叱責は不当なものであり,従って叱責された人に罪あるいは悪を認めさせるものとはなりません。罪や悪が初めからないからです。このような叱責を受けても,その人が悔いて行いを改める結果にはなりません。むしろ叱責を与えた人が自分の間違いを認めるべきでしょう。
19 (イ)ペテロがイエスを戒めるよりも叱責していたと言えるのはどうしてですか。(ロ)悪鬼,あらしの海,風をイエスが叱責したのは,なぜ正しいことでしたか。
19 使徒ペテロと主イエス・キリストはこの例です。イエスは神のみ心を行なうため,ご自分を犠牲にして苦難を受けるべきことを,はじめて使徒たちに告げました。「すると,ペテロはイエスをわきへ引き寄せて,いさめはじめ〔叱責,改訂標準訳,欽定訳〕,『主よ,とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません』と言った。イエスは振り向いて,ペテロに言われた,『サタンよ,引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで,人のことを思っている』」。(マタイ 16:21-23)ペテロはイエスの言葉に強く反対して主を叱責しました。イエスがこのような叱責を受けるいわれはありません。従って悔いて行いを改めるかわりに,考えの浅いペテロを矯正したのです。少年についた悪鬼をイエスが叱って追い出したのは,もちろん正しいことでした。(マタイ 17:18)嵐の海上においてイエスは風や海を叱りました。これら無生のものを戒めることはできません。―マタイ 8:23-27。
20,21 (イ)改訂標準訳,欽定訳のルカ伝 17章3節によれば,イエスはどんな助言を与えましたか。(ロ)ではマタイ伝 18章15-17節において,兄弟を戒めることをイエスが語っているのはなぜですか。
20 クリスチャンの兄弟同志の不和について,イエスは言われました,「あなたがたは,自分で注意していなさい。もしあなたの兄弟が罪を犯すなら,彼をいさめ〔叱責し,改訂標準訳,欽定訳〕なさい。そして悔い改めたら,ゆるしてやりなさい」。(ルカ 17:3,新口)しかし罪を犯した人が何時でも悔い改めて許しを請うとは限りません。
21 では同様な場合に戒めることを,イエスが語っているのはなぜですか。イエスは次のように言われました,「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら,行って,彼とふたりだけの所で忠告しなさい〔すなわち戒めを与えなさい〕。もし聞いてくれたなら,あなたの兄弟を得たことになる。もし聞いてくれないなら,ほかにひとりふたりを,一緒に連れて行きなさい。それは,ふたりまたは三人の証人の口によって,すべてのことがらが確かめられるためである。もし彼らの言うことを聞かないなら,教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら,その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい」。(マタイ 18:15-17,新口)これは訴えられた人が会衆から排斥されるべき場合ですから,単なる叱責にとどまらず戒めを与えるのが当然です。その人の非は証明され,当人もその事を承知しています。害を加えられた人が初め二人だけのところで罪を犯した人をいさめる目的は,そこにあるのです。もっとも罪を犯した人が決して罪を告白しないこともあるでしょう。証拠を提出することはつづき,まず二,三人の証人の前,ついで会衆の前に問題が提出されます。
22,23 (イ)兄弟を戒めることには何が関係していますか。(ロ)パウロは戒めの意味をどのように説明していますか。
22 このように,戒める場合戒めを与える人は訴えるばかりでなく,訴えを裏づける証拠を提出します。訴えられた人が自分を弁護して何かを主張すれば,戒める人はそれに答えるだけでなく,反論し,反証をあげます。それでもなお,戒められた人が自分の非を正直に認めず,告白しないかも知れません。しかし内心では有罪感を持っています。その人は心の中で自分の罪また悪行を意識させられます。この罪の自覚にともなって人は行いを改めようとするはずです。そうしなければ,証拠に照らして排斥されることでしょう。使徒パウロは会衆に宛てた手紙の中で,戒めがどのように働くかを説明し,コリント前書 14章24,25節に次のことを書いています。
23 「〔集会において〕全員が預言をしているところに,不信者か初心者がはいってきたら,彼の良心はみんなの者に責められ〔戒められ〕,みんなの者にさばかれ,その心の秘密があばかれ,その結果,ひれ伏して神を拝み,『まことに,神があなたがたのうちにいます』と告白するに至るであろう」。
24,25 戒めることに関して,光を掲げる者にはどんな責任がありますか。
24 真理である神のことばを宣明すれば,神のことばの戒めがおのずと与えられます。そのわけでイエス・キリストは言われました,「悪を行っている者はみな光を憎む。そして,そのおこないが明るみに出される〔戒められる〕のを恐れて,光にこようとはしない」。(ヨハネ 3:20,新口)聖書の光を掲げる人は,宗教的,道徳的な暗黒に属するものを戒めるべきです。パウロは光を掲げる者に告げました,
25 「実を結ばないやみのわざに加わらないで,むしろ,それを指摘〔戒め〕してやりなさい。彼らが隠れて行っていることは,口にするだけでも恥ずかしい事である。しかし,光にさらされる〔戒められる〕とき,すべてのものは,明らかになる。明らかにされたもの〔もはや秘密でもなく,暗黒にも閉ざされていない,照らされたもの〕は皆,光となるのである。だから,こう書いてある,『眠っている者よ,起きなさい。死人のなかから,立ち上がりなさい。そうすれば,キリストがあなたを照すであろう』」― エペソ 5:11-14,新口。
26 戒められたとき,賢い人は何をしますか。
26 夜の暗黒の中にいるかのように眠っている者すなわち罪の中に死んでいる者は,与えられた戒めを受け入れ,霊的に死んだ状態から目ざめて起きあがり,イエス・キリストに従い始めます。キリストはその人に恵みと真理の光を照らし,その人はキリストから受けた光を反映して光を掲げる者となります。聖書はキリストについてあかししているのです。
27 テモテとテトスに宛てた手紙の中で,パウロは戒めの必要をどのように示していますか。
27 会衆の監督が会衆のメンバーの一人あるいは幾人かを公に戒めなければならない場合もあります。そこでパウロはテモテに宛てた最初の手紙の中で次のことを命じました,「罪を犯した者に対しては,ほかの人々も恐れをいだくに至るために,すべての人の前でその罪をとがむ〔戒める〕べきである」。最後の手紙の中でパウロはテモテに次のように命じています,「御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても,それを励み,あくまでも寛容な心でよく教えて,責め,戒め,勧めなさい」。(テモテ前 5:20。テモテ後 4:2,新口)パウロはまた別の監督テトスにも,会衆の前で公に戒める権威を授け,次のように書き送っています,「教にかなった信頼すべき言葉を守る人でなければならない。それは,彼が健全な教によって人をさとし,また反対者の誤りを指摘する〔戒める〕ことができるためである。……この非難はあたっている。だから,彼らをきびしく責めて〔戒めて〕,その信仰を健全なものにしなければならない。あなたは,権威をもってこれらのことを語り,勧め,また責め〔戒め〕なさい。だれにも軽んじられてはならない」― テトス 1:9,13; 2:15,新口。
28 戒めの真の価値は何ですか。それは最重要などんな源から与えられるべきですか。
28 それで戒めることの目的は罪人を立ち直らせ,反対者を言い伏せ,物質主義的な人が「信仰を健全なもの」にするのを助けることです。このように効果的な戒めを個人的に,あるいは会衆の前で与えるとき,聖書を使うよりも益のあることはありません。
29 戒めることはなぜ愛の表われですか。
29 戒めを与えられた人は,戒めの背後にある真の動機が愛であることを忘れてはなりません。それはなぜですか。戒める人は間違いをした者のあやまちを正し,その非をさとらせようと努め,あやまちを告白して行いを改めるように助けようとしているからです。イエスもご自分の愛する者を戒めると言われました。(黙示 3:19)あやまちをした人は戒めから益が得られることを悟るべきであり,それから理解を得ようと努めるべきです。箴言 19章25節は次のように述べています,「あざける者を打て,そうすれば思慮のない者も慎む。さとき者を戒めよ,そうすれば彼は知識を得る」。
30 箴言 3章11,12節には,戒めに関してどんな賢明な言葉がありますか。それで戒めをどう受けるべきですか。
30 それで戒められた人は,人間によって戒めが与えられたという理由で戒めを軽んじたりしないでしょう。ヘブル書 12章4-6節において,神の子となることを望む者は箴言 3章11,12節の次の言葉を忘れてはならないと命ぜられています。「我子よ汝エホバのこらしめをかろんずる勿れ,そのいましめを受くるをいとふこと勿れそはエホバはその愛する者をいましめ給ふ,あたかも父のその愛する子をいましむるが如し」。従ってたとえ人間を通して戒めが与えられても,それが霊感による聖書からとられたものであり,「神の人」であるクリスチャンの与えたものであれば,戒めはエホバからのものであることを確信できます。エホバからのものとしてそれを受け入れなければなりません。しかし戒めを神の愛の表われと見なしなさい。
「正しく」する
31 (イ)聖書はほかにどんな益を与えますか。(ロ)イザヤは,物事を正しくすることの必要をどのように示していますか。
31 霊感による聖書は「正しく」するためにも有益です。(テモテ後 3:16,新口)よこしまな世にいた時,たとえキリスト教国の中にいたとしても,私たちは神との関係を正しくすることが必要でした。それはまさしく神の望まれることです。イザヤ書 1章18,19節において神は不従順な民にむかい次のことを述べられています,「エホバいひたまはく,いざわれらともに論らはん〔物事を正しくする〕,なんぢらの罪は緋のごとくなるも雪のごとく白くなり,紅のごとく赤くとも羊の毛のごとくにならん若なんぢら肯ひしたがはゞ地の美産をくらふことを得べし」。
32 神は昔多くの場合どのようにして物事を正しくされましたか。今日どのようにそのことをされていますか。
32 むかしエホバ神は,罪深い民が物事を正しくし,物事の正しい理解を得て神の前に正しく歩むのを助けるために,預言者を遣わされました。今日,神の霊感による聖書が,私たちの生活を正しくするのに役立ち,「キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵」を与えます。このように役立つ聖書は全く有益な本であり,他のどんな本にもまして有用な本です。それは最も貴重な本です。聖書は私たちの生活の中からよこしまな事を除くのに役立ちました。それで聖書を用いて他の人々を援助するとき,その人々もまた心を正しくし,道徳,宗教の面で生活をただすことができるようになります。また気落ちした人を立ち直らせることもできます。
33-35 (イ)兄弟同志また外部の人に対して物事を正すため,神のことばをどのように使うべきですか。(ロ)パウロはテモテに対して,この事をどのように強調しましたか。
33 ヘブル書 12章12,13節はこの事をするようにと告げています。「それだから,あなたがたのなえた手と,弱くなっているひざとを,まっすぐにしなさい。また,足のなえている者が踏みはずすことなく,むしろいやされるように,あなたがたの足のために,まっすぐな道をつくりなさい」。むかしシリヤのアンテオケで使徒パウロは,ペテロ(ケパ)と他のユダヤ人のクリスチャンが「福音の真理に従ってまっすぐに歩いていないのを」見ました。(ガラテヤ 2:14,新口)同様に私たちの兄弟も時に矯正を必要とします。クリスチャンの兄弟に対しても,偽善的なキリスト教国を含むこの世の人に対しても,神を喜ばせる道,そして唯一の正しい道に従って物事を正しくするには,神の霊感によって書かれた本を使わなければなりません。監督テモテは兄弟を助け,神を求める人を助けて,物事を正しくする務を持っていました。そこで使徒パウロはテモテに次のことを書き送っています。
34 「あなたは,これらのことを彼らに思い出させて,なんの益もなく,聞いている人々を破滅におとしいれるだけである言葉の争いをしないように,神のみまえでおごそかに命じなさい。あなたは真理の言葉を正しく教え,恥じるところのない練達した働き人になって,神に自分をささげるように努めはげみなさい」― テモテ後 2:14,15,新口。
35 物事をただす必要があるとき,真理をかくそうとしたり,信者や学ぶ者の信仰をくつがえそうとする言葉によって混乱させられてはなりません。むしろ神の「真理の言葉」によって物事を決定すべきです。それは正しい教理を教えることを意味します。そうすれば,恥ずべき結果になることはありません。
「義を薫陶する」
36 (イ)牧師は非聖書的なものを弁護するため,たいていどのように言いますか。神のことばは,このような場合何をすべきことを命じていますか。(ロ)父親に対するエペソ書 6章4節のパウロの言葉を説明しなさい。
36 最後に霊感の聖書は「義を薫陶する」のに有益です。(テモテ後 3:16)宗教組織の要求また実践する事柄が聖書にのっとっていない場合,牧師はそれが教会の規律であると言って,非聖書的な事柄を正当化しようとします。しかし聖書と一致していなければ,それは義を薫陶するものではなく薫陶を受けた者を救う結果になりません。薫陶のおもな目的は教育であり,教えを授けることです。(使行 7:22)この教育が組織の一定の法や規律の下で行なわれることはあります。パウロが父親にむかって述べた言葉の中で,この組織はクリスチャンの家庭です。「父たる者よ。子供をいらだたせないで,エホバのこらしめと,権威ある教えによって子供を育てなさい」。(エペソ 6:4,新世)ここで言うこらしめは,クリスチャンである父親に服従しながらクリスチャンの家庭においてどう振舞うべきかを子供に理解させるため,子供を訓練し教育することです。このこらしめに従って行なうように援助するため,訓練の期間中,必要に応じて権威ある教えすなわち神の権威あることばからの教えと励ましを子供に与えます。従ってこらしめは,未熟な子供が勝手気ままに無分別な行ないに走ることをおさえ,クリスチャンの家庭で規則に従って行動することを学ばせます。
37,38 このような訓練は,父親と子供以外の者にもどのように及びますか。
37 更に大きく,包括的な組織であるエホバ神の組織すなわち地上にあるクリスチャン証者の会衆においても,薫陶することが行なわれねばなりません。会衆は天の大いなる父の家すなわち「神の家」を表わします。その規則,規律,運営の方法は義に基づいており,それに一致して考え,行動するメンバーは義を学びます。
38 私たちは神の組織の中でどのように振舞うべきかを,教えられねばなりません。パウロがテモテに次の教訓を与えたのはそのためでした。「わたしは……この手紙を書いている……神の家でいかに生活すべきかを,あなたに知ってもらいたいからである。神の家というのは,生ける神の教会のことであって,それは真理の柱,真理の基礎なのである」。(テモテ前 3:14,15,新口)パウロがテモテに与えた教訓は,霊感による聖書にいまおさめられています。そして神の霊感による聖書は,「義を薫陶する」のに有益です。
39 ここでもこらしめを与える動機は何ですか。これはクリスチャンにとって何を意味しますか。
39 敬虔な家庭においてもエホバの証者の会衆においても,クリスチャンのこらしめの背後にある動機は愛です。従ってそれは正しく確立され,また与えられます。神権的な律法と定めにのっとって施されるこの教育の方法は,霊感による聖書に明らかに示されています。それは救いを得させるための,愛に根ざした教育です。それでこらしめを受け入れる結果たとえ会衆の内外においてこの世の放縦な話し方,行動,生き方をすることが許されなくても,私たちはこのこらしめに服従しなければなりません。
40 この世でどんな妨げに直面するかも知れませんか。しかしどんな喜びがありますか。
40 このこらしめに従って行くとき,批判,反対,迫害を世から受けるかも知れません。しかしそのすべては私たちがこの世で受ける訓練の一部です。そのため,「永遠の福音」を公にも家から家にも伝道して,神から与えられたわざを行なうことがつらい経験になるかも知れません。しかしそれはよい訓練となり,ヘブル書 12章11節の述べるように望ましい結果となります。「すべての訓練は,当座は,喜ばしいもものとは思われず,むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば,それによって鍛えられる者に,平安な義の実を結ばせるようになる」。ですからその事のゆえに天の父なる神を愛そうではありませんか。
41 「聖書すべて」に注意を払うならば,私たちは何になりますか。
41 今日私たちは生き,訓練されたエホバのクリスチャン証者として全世界にわたるわざを一致して遂行しなければなりません。神の人,神に献身した民として行動し,奉仕しなければなりません。永遠の救いに至る知恵の道は,「永遠の福音」の本を忠実に学び,それを使うことにあります。それは「神の人が,あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて,完全にととのえられた者になる」ため,愛をこめて私たちに与えられました。―テモテ後 3:17。黙示 14:6,新口。