神の目的に従う
フアン・ムニスの経験
このすばらしい宇宙の設計者が,目的の神であることはきわめて明らかです。私は自分の長い生涯をふり返ってみて,さいわいにも自分が神の目的を知り,それに動かされて自分の生活を神の目的に一致させてきたことを心からうれしく思います。私はいろいろな体験から,私たちひとりびとりが,神の御目的に自分の生活を順応させねばならぬ,ということを確信しました。それでその体験を少しお話しすることをゆるされればさいわいです。
私の人生は,1885年10月29日,スペインのアスツリアスにあった質素な家庭の一員として始まりました。いなかの普通の学校を終えてのち,私は修道僧の指導する学校にはいり,そこで神学を勉強しました。しかし私は,彼らの教えることと彼らの実生活との調和を見ることができなかったので,その学校を止め,この世の中で,人間に役立つことを何かしようと決意しました。そうして就職した工場では社会党にはいりました。当時私は19歳でした。
しかし間もなく,社会党も目的をもたぬものであることに気づきました。私は従業員の無知と,絶え間ない争いと,汚い言葉にあきれてしまいました。集会での言い争いのみならず,指導者たちの偽善も目につきました。そこで1909年,脱党を決心し,また,政治と宗教からのがれるため,アメリカへの移住を決意しました。
真理を発見
1910年私は弟と一緒にアメリカ,ペンシルバニア州のフィラデルフィアに落ち着きました。建築会社に2年勤めたのち,私たちはふたりで店を出すことにしました。真理を学ぶ機会が開けたのはここでした。
ある晴れた日に,ひとりの男が伝道に来ました。彼が言ったことは思い出せませんが,それによって聖書を読みたいという気持ちを再びよび起こされました。店主でしたから,お客のない時には本を読む時間がありました。私は聖書を読みはじめました。そしてヨブ記まできたとき深い感動をおぼえました。私は見た目にはたくましいからだつきをしていますが,きわめて多感な男です。この義人の苦しみを読み進むにつれて,私の目からは涙があふれ落ちました。
しかし読むだけでは十分と言えません。エホバのしもべのひとりが店を訪れたとき,その必要な助けがきました。私は「世々にわたる神の経綸」という本を彼から求めました。彼が再び訪れたときも,「聖書研究」シリーズの本をいく冊か求めました。
1916年,私は,フィラデルフィア市に一つしかなかった会衆の集会に出席しはじめました。メンバーは300人前後いたでしょうか。私は煙草を吸う者がひとりもいないのに気づきました。私自身はたいへんなたばこ好きで,店には葉巻だけでも37種類を置いていました。しかし,たばこに火をつけるたびに ― とりわけ人の前で ― うしろめたさを感ずるようになりました。そこで私は自分に言い聞かせました。「これは真理ではないか。もし私がこの組織にとどまることを望むなら,いつかは自分も,何が正しいかを他の人に告げねばならなくなるだろう。じゃあなぜいまからそれを始めないのだ。ムニス,お前はたばこをやめねばならない!」。私はたばこをやめました。
そうして集会への出席と研究をつづけ,1917年までには,兄弟たちと一緒に伝道するまでになり,ノース・フィラデルフィアでバプテスマを受けました。
多難の年
1919年まではすべての人にとって多難の年でありました。私もその間忙しく働きました。よい事のためには戦わねばならぬ,ということを私は早くら学びました。
一度などは,ものみの塔協会の責任者たちの不当な投獄に対する抗議文に署名を得る運動をしなければなりませんでした。その抗議文には,裁判官たちが公正をまげたことを暴露する強い言葉が使われていました。少数者の団体が使うにしては,それが非常に強い言葉であることに私も気づきましたが,少しも恐れを感じませんでした。私は150の署名を得ました。
その後私たちのグループは,あの有名な講演「現存する万民は決して死することあらじ」の小冊子を配布したかどで逮捕されました。みなで7人いましたが,裁判官の前では私がつたない英語でグループを弁護しました。私に真理を伝えてくれた兄弟は,その間ずっと口を開きませんでした。私には彼が恐怖にとらわれていることがわかりました。釈放されてのち彼は姿を消し,消息を絶ってしまいました。
こうしたむずかしい問題は,第一次世界大戦の終わりにかけて生じましたが,そのときある人々は,もう伝道活動は終了して,天に召されるのを待つ以外にすることはない,と考えました。私も,終わりは近い,と信じていました。それはいまでも同じです。私は時に献身したのではなく,エホバに献身していました。私の心にはいつも,まだまだなすべきことがたくさんある,という確信がありました。あれから47年の歳月が流れましたが,私はいまでも同じことを感じており,かえってその気持ちは強くなっています。
エホバは備えてくださる
伝道に多くの時間を費やすようになると,商売が重荷になってきました。そこで1920年,店を売り,宣教に専念することにしました。
どうやって生活するかという問題はすぐに解決しました。その解決策は,ドイツ系のある宝石商を再訪問した結果見つかりました。彼はある日私に,商売をやめてこれからどうするつもりか,どうして食べていくつもりだ,と尋ねました。彼は自分のところで働いてくれないか,と頼みましたが,私は時計の修繕など知らないからできないと言いました。すると彼はこうこたえました。「そんなことはかまわない。君は私の望み通りの人なんだ。私は貴重品を安心して任せられる人がほしいと思っていたんだ」。そこで私は彼のところで働き,時計の修繕を習いました。むろんこの技術を,のちにスペインで生かすことになるとは思ってもみませんでした。
再びスペインへ
当時ものみの塔協会の会長であったラザフォード兄弟は,スペインに戻って福音を伝道をしてはどうか,と私にすすめました。それで私は自費でスペインに戻りました。スペインでは,最初からむずかしい状況の中で伝道しなければなりませんでした。姉と一緒に住めたのは非常に都合のよいことでしたが,やはり時計やミシンの修理,文書を配布して受け取るお金によって生活しなければなりませんでした。進歩ははかばかしくありませんでしたが,それでも,真理を愛して,おとずれに耳を傾ける人はいました。
ある鉱山町での経験は忘れることができません。1日の伝道を終えて宿に帰り,バーにいた男たちに話しかけました。そして彼らがつまらぬことにお金を費やし,時間を浪費し,家庭の世話を怠っていることを説きました。そういうことで,自分はクリスチャンである,と公言することはできません。この調子で私は1時間半ほど彼らと話しをしました。彼らは半ばあざ笑うような態度で,何をして生活しているのか,と私に聞きました。私は道具箱を開いて道具を見せ,人々から離れた生活をする彼らの司祭とは違うことを証明しました。かれらはその事に強く心を動かされました。私は使徒パウロのように,「わたしのこの両手は,自分の生活のためにも,また一緒にいた人たちのためにも,働いてきたのだ」と言うことができました。―使行 20:34。
宿の主人も私の証言から良い印象を受けました。さぞかし主人は,なまけ者の男たちに説教するような私を放り出したいことだろう,と私は考えたのですが,反対に主人は私を無料で泊めてくれました。
1924年の4月,ラザフォード兄弟から,マドリッドで講演会を開く取決めをつくれるかどうか問い合わせがきました。その許可はおりなかったので,ラザフォード兄弟は私にパリまで来るようにと言いました。そこで1924年の5月,私はサン・ジャメ・ホテルで彼と合いました。彼は,スペインでの私の状態を検討したのち,私を新しい土地に任命することに決めました。そういうわけで私は,スペインに戻って間もなく,アルゼンチンに行くようにとの手紙を受け取りました。
南アメリカへ
アルゼンチンのブエノスアイレスに着いたのは,1924年の7月12日でした。ここではヤング兄弟が,真理の種をまいている,と聞いていましたが,彼は見つかりませんでした。そこで私は部屋を借り,伝道を始めました。聖書関係の本はトランクにいっぱいもってきていたので,それらを用いて真理の種をまきました。ここでも時計の修繕は,生活費をかせぐ助けとなりました。証言をする時に,とまった時計が目につくと,修繕することをすすめました。しばらくしてヤング兄弟に会いましたが,彼はのちに私のかわりにスペインに派遣されました。
アルゼンチンには非常に多くのドイツ人がいたので,ドイツ語の話せる兄弟がいればよいと考え,ドイツから全時間宣教者を二,三人派遣してもらいたい旨を協会に知らせました。1925年の7月,その兄弟たちが到着しました。彼らは,聖書に関心をもつドイツ人を専ら援助すると同時に,すべての区域で伝道できるよう,熱心にスペイン語を学びました。
1925年の10月,はじめて私たちは会場を借りて集会を開きました。伝道にはじめて参加した8人のグループを私はいまでも忘れることはできません。そのうちのいく人かは依然健在で,ほとんど40年後のいまなお活発に伝道しています。
発展
わざは間もなく,アルゼンチンやその他の国の町々で行なわれるようになりました。私は南アメリカに来て間もなく,ウルグアイとパラグアイに御国のおとずれを紹介する特権にあずかりました。その後,私が最初の旅行でまいた種に水をかける仕事をしてもらうため,私と一緒にいた兄弟たちをそこに派遣しました。ひとりはウルグアイへ,もうひとりはパラグアイへ,そして他のひとりはチリへ行きました。
チリでは,エホバがわざを導いておられるという確信と信仰を強める経験をしました。チリに派遣した兄弟が,私に,できるだけ早く来て,会衆を組織し,費用の面をみてください,という手紙をよこしたのです。私は書類その他をいっさい準備しましたが,旅費がありません。ところがちょうどその時,ある額のお金を手に入れた姉妹が事務所にきて,400ペソの寄付をしていきました。それは私が必要としていた旅費の2倍もの額でした。
組織が大きくなるにつれ,ブエノスアイレスで私たちが借りていた場所はきゅうくつになってきました。しかしついに,協会の現在の建物の近くにもう一つの場所を借りることができました。ここで,ブエノスアイレスにおけるエホバの証者の最初の会衆が組織されました。しかし,エホバが私たちの努力を祝福されたため,二,三年後にはこの場所も小さくなり,1940年,現在協会が所有する大きな建物を購入することになりました。
1945年には,ノア兄弟とフランズ兄弟の訪問がありました。その直後,開設されたばかりのギレアデ聖書学校の卒業生が次々と到着しました。彼らは組織の仕方や,より効果的な伝道の方法をたくさん教えてくれました。そのためわざはいっそう拍車がかけられ,より急速に拡大していきました。
アメリカを訪問
私の生涯のうち,最も思い出深い出来事は,1946年にオハイオ州クリーブランドで開催されたエホバの証者の国際大会に招待されたことでした。しかしそのまえに,クリーブランドに行く途中で起きたことをお話ししなければなりません。
私はアラバマ州のモビールに上陸してから,4日間友人の家に泊りました。そのとき「ものみの塔」誌を用いて街頭伝道に参加しました。ところが,問題を起こすことを好む者たちが私を訴えたので,私は警察署に連行されました。移民局の役人が呼び寄せられ,街頭で仕事をしたことについて,私に質問をしました。私のパスポートには,アメリカ遊覧旅行となっているから,仕事をしてはいけない,というわけです。そこで私はこたえました。「文書を通して神の御言を宣べ伝えることほど,私にとって大きな楽しみはありません」。私は釈放されました。
クリーブランド大会では,見聞きすることに胸をおどらせました。そのあと5ヵ月間,ものみの塔協会のブルックリン・ベテルで働く特権を得,ここで,すぐれた組織と,すべての人が一つの目的をもって働く姿を目撃しました。その後またアルゼンチンに帰ってきました。
アルゼンチンの家
私は伝道活動が将来目ざましい発展をとげることに気づいていました。それと同時に,その発展に歩調を合わせうる,若くて,より活力に富んだ兄弟が必要であることにも気づきました。それで,1949年にノア兄弟が再度アルゼンチンを訪問したとき,その問題を提出しました。そのため支部の組織に変更が加えられました。しばらくの間私は,協会の会計を扱う特権を与えられましたが,現在は,2年まえに完成した新しいベテルの家の受付けで働いています。
私は,エホバが私を用いつづけて下さったこと,また79歳のいまもなお用いて下さっていることを深く感謝しています。エホバの恵みにより,生きてこの美しい3階建のベテルの家を見ることもできました。アルゼンチンにこのようなベテルの家ができること,また,1万人を越える御国伝道者が出ることなど,想像もしませんでした。現在ではチリにもウルグアイにもパラグアイにもそれぞれ支部があって,いずれも発展しています。エホバの御手を,私たちの参加すべきその御わざの中に目撃する以上の祝福を望めるでしょうか。
私は,エホバとその組織の導きのもとにすごしてきた自分の生涯とその歩みを回顧するとき,人はエホバの導きによって歩みを定めねばならない,と言ったエレミヤに共鳴せざるをえません。(エレミヤ 10:23)神の導きに従い,神の目的に自分の生活を調和させることによって,私はほんとうに大きな特権を得たのです。