神は熱心に求める者に報いられる
「さらに,信仰がなければ,神を喜ばすことは不可能である。神に近づく者は,神がおられること,また神を熱心に求める者に神が報いてくださることを信じていなければならないからである」― ヘブル 11:6,新。
1 幸福な家族生活のために欠くことのできないものはなんですか。それはどんなことに表われていますか。
あなたはお子さんを持たれますか。あるいは自分のお父さんやお母さんと一緒に生活する子どものひとりですか。そのいずれであっても,あなたは,幸福な家族生活のために,自分の願いや必要を自由に言い表わせることがいかに大切かを認められるでしょう。しかし,今日の状態では,そうした願いや必要に,正常なそしてふさわしいはけ口が与えられず,それらが抑圧される場合も少なくありません。抑圧されてもそれらはなくなるわけではなく,容易に消し去れるわけでもありません。それはやがて有害な出口を通じて表わされることにもなります。こうしたことは子供のごく幼いころから表われてきます。幼子はごく小さな事柄についても同情と注意を求めて泣き叫びます。何かうれしいことがあると,子供は,それを理解してくれるだれかに示そうとします。外で遊んでいて,ちょっとしたできごとに会い,じっと感情をこらえて家の中に駆け込み,母親を見つけたとたんにわっと泣き出す子供を見たことのない人がいますか。
2 人が他の人との連絡を願うのは,どんな能力および特性の表われですか。
2 そうです。人間には他の人に意志を伝え,自分が興味を持つ事柄を他の人と分かつ能力,またそうしたいという強い欲求があります。人は自分の気持ちを表現することを切に求めます。それは,そうすることそのものの喜びのため,あるいは当面する問題に助けを求めるため,さらにはだれか困っている人を助けるためです。この強い欲求の出所を尋ねることができますか。確かにできます。人間には推理力と探求心とがあります。人は物事を調べ,工夫し,組織することができます。人は正邪を見分ける鋭い感覚を備えています。人は物事を選択し,判断を下すことができます。そして,物事の意味を理解し,他の人々や周囲の事物に対する深い認識をつちかうことができます。当然に人は,自分も他の人々から理解され,認識を示してもらうことを願います。また人は他の人々を愛することができ,同時にその愛が自分に返されることを強く願います。そして,愛が通うとき,人は深い満足感と励みとを得ます。あなたもこれを経験しておられませんか。人間にはこうしたすばらしい能力と特性が備わっており,それは当然に表現を求めます。人が他の人々と意志を通わせようとするのはこのためです。
3 (イ)ほかのどんな要素がこの問題に関係していますか。(ロ)これら二つの要素が人の幼いころから大切な役割を果たしていることを述べなさい。
3 しかしこの欲求は別の大切な要素,つまり相手との関係という問題に注意を呼びます。これら二つは密接に結び付いており,両者は相互に依存しています。相手との関係が良いものでなければ,その相手と自由に,また十分に意志を通わせることはできません。他方,意志を通わせる方法を学ばないなら,良い関係を築くことはできません。これらはいずれも注意深くつちかうべきものです。この点を示すために,子供の場合を再び例に取りましょう。子供には自分の心にあるものを言い表わしたいという自然の欲求があり,心に浮かんだ時すぐそれを口にします。それは,自分が周囲から受ける愛の心づかい,また接する人々との良い関係を当然のものと考えているからです。しかし,ごく早いうちから正しく訓練するなら,子供は,母親でさえ自分の言うことすべてにすぐには答え応じてくれない場合のあること,また時には黙っていなければならないことを学びます。子供は,行儀が悪ければ人との良い関係がそこなわれることを,訓練によって理解するのです。また子供は,成長するにつれ,学校,友人との交友,なかんずく異性の友だちとの接触,また仕事や娯楽のために社会に出た場合など,生活のあらゆる分野において,先の二つの要素,つまり相手に意志を伝えること,および相手との間に持つ関係が重要な役割を果たしていることを学びます。そうです,これら二つの要素は,人の幸福および物事の成功を少なからず左右するのです。わたしたちは,これら二つの要素を向上させ,それによって自分の福祉を守りかつ増進させることを学び続けるべきです。
より高い見地から見る
4 これらの要素の活用を人間どうしの接触だけに限るのは賢明ですか。
4 この論議をさらに高度なものにできますか。多くの人はこうした要素をただ人間相互の交渉という点からしか考えません。しかしそれは正しいこと,また理性的なことですか。それは,より深い満足感,またより確かでより永続的な益を得そこなうことではありませんか。すでにあげたようなすぐれた特性と能力が備わっていることは,人間が,盲目的で非人格的な力によって生み出されたものではなく,至上の支配者,知性を持つ設計者,すなわち,これらの特性を自ら最高度に持たれる創造者によって造り出されたものであることの明白な証拠です。さらに,人間はロボットや,本能によって支配される動物ではありませんから,これらの賜物を自分の意志で自由に使うことができ,望むなら悪用することさえできます。今日の人々そして地上の諸国家は自分の道を選び,自分の運命を自ら定めようとして多くの論議をしています。しかし実際には,この地球と地上の人間に対して明確な目的をもたれる創造者の存在を無視しているのです。このような見方,またこのような歩き方は正しく,また理性的なものですか。
5 人間がすぐれた特性を備えていることからどんな疑問が起きますか。
5 この世の道にならわず,その精神に影響されるべきでないことについて,わたしたちはすでにその根拠を十分に提出したと思います。この点を認め,創造者の存在を認めるならば,次の段階として,創造者が人間に対して,ご自身とご自分のお目的を啓示しておられるのではないかと問うのは当を得たことでしょう。人間が推理力と探求心を持ち,信仰と愛と熱情を働かせる能力を備えていることは,これらすばらしい賜物を与えたかたが,それを最高度に表現する手段をも与え,ご自分を熱心に求める者に報いられることを示していませんか。人間どうしの接触においてこれらの特性がいかに大切であるかを見たわたしたちは,この論議をより高い見地に移した場合でも,同様のことが言えるかどうかを調べましょう。その場合の結論には,はるかに大きな報いがあるのです。
6 どうすることによってのみ,わたしたちの必要と願いはほんとうに満たされますか。これはどのようにして可能とされましたか。
6 連絡および相手との関係という問題は,わたしたち人間相互のあいだで重要な地位を占めていますが,同じことは創造者とわたしたちとの間においていよいよ重要です。子供でさえこの面での必要を意識するとすれば,創造者の生み出されたもの,いわばその子孫であるわたしたちが,創造者との良い関係および創造者との連絡を願い,かつその必要を感じるのは,むしろ当然ではありませんか。もとより,そうした願いが満たされるかどうかは,全く創造者にかかっています。それをかなえることができるのは創造者だけです。しかし,創造者がこれまでそれをしてこられたと言えるのはほんとうにうれしいことではありませんか。そうです,創造者は確かにご自身を人間に示され,わたしたちが祈りによって創造者に接する道を開いてくださいました。どのようにですか。それは主として,創造者のみことばをしるした聖書によって,また聖書そのものが述べるとおり,生きた「ことば」つまり神の愛される御子イエス・キリストによってです。イエス・キリストは「神の言」という名を与えられています。―黙示 19:13。ヨハネ 1:1。
7 神を求める者にどんな励みが与えられていますか。
7 前述のことは,しるされたみことばの中にその裏づけがあります。「偶像の満ちた」アテネの町に行き,「神々を敬ふ心のあつ(い)」,その町の人々と話した使徒パウロは,その機会をとらえて創造者について説明しました。パウロは,創造者は「世界とその中のあらゆる物とを造りたまひし神」であると語りました。そしてパウロがはっきり述べたとおり,「人々が神を求め,神をさがし尋ねて,ほんとうに見いだす」ことは,創造者の喜ばれることです。パウロはさらに述べました。「事実,神はわたしたちおのおのから遠く離れておられるのではない。わたしたちは神によって生き,動き,存在しているからである。あなたがたの中の詩人のある者も,『我らはまたその子孫なり』と言った」― 使行 17:16,22-28,新。
8 神に近づいて受け入れていただくために,わたしたちにはどんな指示が必要ですか。
8 こうしたことばを励みとして,わたしたちは,連絡および相手との関係という点で,わたしたちを導く明確な指示が,聖書の中にあるかどうかをさらに調べましょう。それは,わたしたちがほんとうに神を見いだし,神に受け入れられる祈りの仕方を学ぶためです。わたしたちは,子供と同じように,自分の意志を伝えることのほうに心を奪われることがありますが,実際には,意志を伝える相手との関係のほうがはるかに重要です。それでわたしたちは,後者を先に取りあげましょう。聖書は,神の恵みを得,神を喜ばすに必要な基本的な段階を明らかにしていますか。
三つの基本的な要求
9 (イ)神のみことばは第一の要求をどのように明示していますか。(ロ)人格神としての創造者の存在を信ずることはなぜ道理にかなっていますか。このことからどんな疑問が生じますか。
9 第一に要求されるものは信仰です。パウロはヘブル人にあてて,「信仰がなければ,神を喜ばすことは不可能である。神に近づく者は,神がおられること,また神を熱心に求める者に神が報いてくださることを信じていなければならないからである」と述べて,この点を明らかにしています。(ヘブル 11:6,新)人間は神および神の属性を見ることができません。しかし,探求心のある正直な人にとって,神の存在を信ずるのはむずかしいことではないでしょう。それは,使徒パウロがほかの所で述べるとおり,「神につきて知り得べきことは……あらは(であり)……神の見るべからざる永遠の能力と神性とは造られたる物により世のはじめより悟りえて明かに見(られる)」からです。パウロは,「彼ら[神を無視し,真理を退けようとする者たちは]言ひのがるるすべなし」とつけ加えています。宇宙にゆきわたる無限のエネルギー,その働きをつかさどる諸法則,それらが裏がきする宇宙の統一的な管理と力の中心,こうした点の知識の増加を考えるとき,わたしたちはパウロのことばに容易に同意できるでしょう。しかし,「熱心に神を求める者に神が報いてくださる」という点で,どんな保証がありますか。またこのことは神との関係という点で,どのようにわたしたちの助けになりますか。―ロマ 1:18-20。
10 アブラハムの信仰の根拠となったのはなんですか。それは第二のどんな要求を明らかにしますか。
10 ここでも聖書の記録が助けになります。早くも,創世記の第15章は,熱心に神を求め,神への信仰を表わし,大きな報いを約束された人について述べています。(創世 15:1,6)その人の名はアブラムであり,のちにアブラハムと改められました。アブラハムはまことの神エホバに対する信仰をそもそもどのようにして得たのですか。これは大切な点です。それは第二に要求されるものを明らかにするからです。アブラハムは,ノア,セムなど,自分の先祖の手を経て伝えられた記録に通じていました。その記録は,のちにモーセの五書の初めの部分となったものであり,また今日の創世記の巻頭の部分となっています。そこに盛られた信頼できる情報が,アブラハムに正確な知識を与え,真の信仰の大切な根拠となりました。わたしたちはそれら初めに書かれた事柄の幾らかをここで取りあげましょう。それは自分をアブラハムの立場に置いて,彼のすぐれた手本をよりよく理解するためであり,それがわたしたちに役だつからです。
11 人間の創造に関する記録はどんな貴重な情報を含んでいますか。
11 その記録の中では,人間が神にかたどって造られ,地を治め,すべての物を従わせるための能力と特性を付与されたことが明白に述べられています。つまり,わたしたちが先に論じたことと一致しています。人間は当初,創造者と緊密な交わりを持ち,その祝福を受けて,創造者と良い関係にありました。人間は創造者の「能力と神性」をよく知っていただけでなく,与えられた多くのものの中に創造者の愛のしるしを得ていました。加えて,理想的な伴侶また助け手を与えられ,初めの人間の幸福はととのいました。この伴侶は人間が楽しい交わりを持ち,親しい関係を築く別の相手ともなりました。―創世 1:26-31; 2:18-23。
12 人間の不従順さはどんな結果をもたらしましたか。ここで第三の要求はいかに明らかにされていますか。
12 しかし,ロボットでなかった人間は,初めに女,ついで男が,それぞれに与えられた選択の自由を行使し,エホバの明示された戒めに意識的に逆らう道に進みました。両人は自分勝手に生活し,自分本位の道を進むことを望みました。それはどんな結果になりましたか。その結果の一つは,創造者に対する関係,および創造者との交わりがはなはだしくそこなわれたことです。そして互いどうしの関係と交わりもそこなわれました。ふたりは『エホバ神の顔を避けて身をかくした』のです。そして審問を受けた時,男は,「汝が与へて我とともならしめたまひしをんな 彼その樹の果実を我にあたへたれば我くらへり」と述べて,責任を神と女に押しつけようとしました。(創世 3:8,12)ここに,アブラハムも学んだに違いない重要な教訓があります。アダムとエバは自分の命および他のすべての良いものをエホバから受けていることを知っていました。ふたりがこのことを認識し,ひたすら自分をささげる献身の精神をもって創造者に従順であるかぎり,両人は創造者との良い関係および良い交わりという祝福を享受できました。しかし,そうした精神をなくし,自分勝手に行動しはじめたとき,そうした祝福は失われました。このことはアダムとエバだけでなく,今日のわたしたちにもあてはまります。ここに第三の重要な要求を認めることができます。つまり,信仰と正確な知識に加えて,エホバへの専心の献身がなければなりません。
13 前述の三つの要求が密接に結びついていることを述べなさい。
13 これら三つの要求は密接に結びついています。信仰とは,何か見えないものの存在に対する単なる精神的な同意とか信条,また盲目の信仰と言われるようなものではありません。それは,見えなくても真実さと現実性を持つものに対する強い確信です。つまり,このような信仰の基として正確な知識が必要なのです。パウロは信仰を,「まだ見ていない実体の明白な表われ」と定義しました。目で見ることのできない最も偉大な実在はエホバです。エホバの『見えない属性』は造られたものの中に『明らかに見られ』,かつ表われています。エホバのみことばである聖書には真理がこもっており,イエスは,「汝のみことばは真理なり」とエホバに語りました。このような信仰つまり強い確信は力づよく,そして生きたものであり,当然のこととして,その基つまり神のことばから得た正な知識と理解にかなう実を生み出します。そのような信仰を持つ人は,「神を熱心に求める者に神が報いてくださる」ことを確信します。熱心に求めることはつまり献身であり,それはエホバをいつも求めようとする願いまた決意であり,みことばの中にしるされたエホバの御心を行なうことに喜びを持つことです。次の預言のことばどおり,イエスはこのような態度を持っておられました。「わが神よ 我はみこゝろにしたがふことを楽しむ,なんぢの法[なんぢのみことば]はわが心のうちにあり」― ヘブル 11:1,6。ロマ 1:20。ヨハネ 17:17。詩 40:8。
14 エホバはエデンにおいて,信仰と希望の強力な根拠をどのように与えられましたか。
14 しかし,アブラハムが以前の記録から学び取ったことで,報いの約束に対する彼の信仰,およびその約束をされたかたに対する彼の愛の献身を大いに深めたものはほかにもあります。それはあなたの信仰と献身をも深めるでしょう。意識的な不従順の行為が生じたのち,エデンにおいてさばきの宣告をされたエホバは,同時に,一つの目ざましい預言をも語られました。それはなぞを含んだことばの中に,将来の報いに対する確かな希望を言い表わしたものでした。それは,へびの裔と女の裔とのあいだに敵対関係のあることを予告していました。その女がだれであるかはその時まだ明らかにされていませんでした。神は,「彼[女の裔]は汝[へび]の頭を砕(かん)」と言われたのです。これは,そのへびを用いていた者つまり悪魔サタンが打ち砕かれ,滅ぼされることを意味していました。―創世 3:15。ヨハネ 8:44もごらんください。
15 エホバへの信仰と献身は,どんな祝福と報いへのとびらを開きますか。
15 これは忠実な女の裔に対する大きな報いでした。それはまた,エホバへの信仰と献身を表明した者たちにとって,エデンでの最初の反逆に由来する罪と死からの解放の希望となりました。そうした者たちの最初はアベルであり,彼はヘブル書 11章にあげられる数多くの忠実な男女のうち,その最初の者となりました。アブラハムもそうした人々のひとりにあげられており,彼および他の人々の報いは,都にも似た神の取り決めの中に永遠の場所を得,自らも完全になって,祝福,つまり神とのあいだに回復される完全な関係および交わりを楽しむこととして描かれています。事実,こうした男女は,その信仰のゆえに,まだ不完全であった自分の時代においてすでに,そうした祝福を少なからず享受しました。のちの節で示すとおり,バウロは同じ手紙の中で,今日の男女も同様の祝福を受けられること,しかも昔以上に受けられることを示しています。―ヘブル 11:8-10,16。
16 その信仰と献身に対して,アブラハムはどんな特別の報いを与えられましたか。
16 アブラハムについて言えば,創世記 22章1-18節の記録にあるとおり,エホバはアブラハムに特別の報いを与えることを喜ばれました。信仰と献身のきびしい試練を通過し,必要なら自分の愛する子イサクをさえすゝんで犠牲にするという態度を実証したアブラハムに対し,エホバは,エデンで約束した裔がアブラハムの家系から出ることを啓示され,また,「あなたの裔によって地のすべての国の民は自らを祝福するであろう。あなたがわたしの声に聞き従ったからである」と語られました。エホバがそれ以前に語られたとおり,アブラハムの「報いは非常に大きい」のです。―創世 22:18; 15:1,新。
エホバを熱心に求める
17 大きな問題に直面する時,たいていの人が神を呼び求めることは,どんな点に表われていますか。
17 わたしたちは,エホバとの良い関係を持つための予備的な段階について調べましたが,今度は,エホバとの連絡をどのようにして開き,それをどのように保つかという問題があります。神との連絡を願うわたしたちの気持ちはほとんど本能的なものであるにもかかわらず,このことは少なからず問題になります。片意地な人,そして無神論者を自任する人々でさえ,極度の危険や絶望的な状態に陥った時には神を呼ぶことが知られています。最初の殺人者となったカインでさえ,エホバにむかって,『わたしの罰は重くて負いきれません』と叫びました。それは,一つにカイン自らも述べたとおり,カインが『神の面を見ることなきにいたる』からでした。またエバは,エホバから罪の宣告を受けていながら,自分の子供の誕生とエホバとを結び付けようとして,「我エホバによりてひとりの人を得たり」と語りました。またのちに,『神アベルのかはりに他の子を与へたまへり』とも語りました。―創世 4:1,13,14,25。
18 たいていの宗教の礼拝式における祈りにはどんな特徴がありますか。
18 こうした願いが深いところに根ざしており,いかに広範囲に及んでいるかを示す別の例として,すべてではないまでも,たいていの宗教の礼拝においては,なんらかの形の祈りが顕著な地位を占めています。しかし,キリスト教と唱えていても,あるいはその他の宗教の場合でも,そうした礼拝においては機械的な手順や形式に重きが置かれていませんか。そして,異なる点と言えば,クリスマスや復活祭など,宗教上の節季による相違ではありませんか。このことはそうした礼拝での祈りについても言えます。その多くは単調な詠唱であり,祈禱書を単に読み上げているにすぎません。多くの人々,特にキリスト教国に育ち,子供のころからこれ以外の礼拝式を見たことのない人々にとって,これはあまり問題にならないかもしれません。それに慣れきった人にとっては,それでもある種の感情の満足となるのです。建物,音楽,祭服などを含め,すべてのものがそうした目的で整えられ,時にはある種の神秘性もそえられて,静けさや高揚したような雰囲気がかもし出され,出席者は神聖なものに接し,別の世界にいるかのように感じるのです。
19,20 個人の祈りについても時に同様のことが言えますか。このことに関連してどんな疑問が起きますか。
19 個人個人の祈りについても,これと同じような特徴が見られませんか。人々は子供のころに教えられたとおりの仕方で祈りをしています。小さな子供は食事の時あるいは就寝時の祈りとして一定のきまったことばを教えられます。おとなもこれと似た方法に従っています。祈禱書を読み,あるいは暗記したことばを復唱し,そのために,ことばを数えるじゅずや祈り車などを使っています。
20 こうした祈り,特に個人的になされるものには,全て誠実な気持ちでさゝげられるものも多くあります。しかし,これはほんとうの意味での祈りですか。それはそうした祈りをする人々にある種の満足感を与えるかもしれません。しかしそれは神を喜ばせるでしょうか。神は,誠実なものであればどんな祈りでも聞き,かなえてくださると述べておられますか。この点で何が神の御旨にかなうかを決定するのはわたしたちにまかされているのですか。いろいろな宗教組織の中には伝統を頼りにして決定をするところがありますが,どんなに古く,どんなに大きな宗教組織でも,こうした事柄を自らの権威で決定する権利を持つものがあるでしょうか。
21 若い世代の人々は一般に伝統や慣習をどのように見ますか。わたしたちはどんな結論を得ますか。
21 わたしたちは今,崇拝の形式や表現がなんの疑問もなく受け入れられていることについて述べました。しかし,あらゆるものを疑い,どんなものに対してもきわめて批判的な態度をとるのは,今の時代の特徴ではありませんか。若い世代の人々はいかなるものをもあたりまえとはみなしません。人間の業績その他の有形の事柄,あるいは政治・軍事上の英雄などでなければ,どんなものに対しても容易には敬意を払わぬ人々が多くいます。結果として,じゅずや詠唱などの形式に頼りながら,自分は祈りをしていると考える人々を別にすれば,宗教界の内外を問わず,ほとんどの人は祈りの仕方を忘れていると言えるでしょう。
22,23 (イ)祈りに関する確かな導きをどこに求めることができますか。(ロ)神を求めるに際して,どんな疑問が提出されていますか。
22 同時にわたしたちは,正しい導きさえ受けるなら,真の祈りの仕方を喜んで学び,偉大な創造者に自分の祈りを必ず聞いていただけるとの確信に至る人も無数にいることを知っています。すでに述べたとおり,祈りが聞かれるかどうかは人間的な権威で決定すべきことではなく,また人間の感情や感覚にゆだねられるものでもありません。祈りの仕方を学ぶのは,単語を覚えるようなものではありません。むしろわたしたちは,これまでの方法にならい,必ず導きを得られるとの確信をもって,神のみことばである聖書に導きを求めます。わたしたちはすでに,神に近づいて受け入れていただくために必要な段階について,聖書が有益な指示を与えていることを知りました。特にヘブル書がこの点で実際的な助言と忠告を差し伸べていることをも知りました。その第11章が,神の是認と祝福を受けた信仰の人々を列挙していることについて覚えておられるでしょう。それら信仰の人々すべては,「神を熱心に求める者に神が報いてくださる」ことを信じていました。―ヘブル 11:6,新。
23 しかし,パウロは同じヘブル書の中で,それら昔の信仰の人々だけでなく,神に献身したわたしたちすべてが,さらに別のものを熱心に求めねばならないことについて述べています。事実,神の是認をほんとうに願うなら,これを無視することはできません。それはなんですか。
神の都を熱心に求める
24 パウロはわたしたちが熱心に求めるべき都についてどのように述べていますか。またそれはなんであると述べていますか。
24 ヘブル書 13章14節で,パウロはその書簡を受ける人々に対し,「わたしたちはこゝには永続する都を持たず,きたらんとする都を熱心に求めているからである」(新)と述べています。わたしたちが熱心に求めるべきこの都とはなんですか。まずアブラハムについて,パウロはこう述べます。「信仰によって,彼は,外国の地にいる異国人のごとくに約束の地に住(んだ)……真の基を持つ都を待っていたからである」。また,アブラハムとその子イサク,孫ヤコブに関して,パウロはさらにこう述べます。「(彼らは)その土地にあっては,自分たちが他国人であり,寄留者であることを言い表わした」。つまり,古い事物の体制下にあって,カルデア人の土地での自分の場所を捨てカナンにあっても土地を持たなかったのです。パウロが述べるとおり,「彼らは,天に属する,より良い場所[天にある場所となっていないことに注意してください]を求めていた」のです。それで,「神は彼らを恥とされず,彼らの神と呼ばれることを恥とされ」ません。「神は彼らのために都を備えておられるから」です。のちにパウロはこの都がなんであるかを明らかにしています。肉のイスラエルがモーセの指導の下にシナイ山に近づいたことを述べたのち,パウロはそれを対照させ,霊的なイスラエルを構成する真のクリスチャンにあててこう述べています。「汝らの近づきたるはシオンの山,いける神の都なる天のエルサレム」。―ヘブル 11:9,10,13-16,新; 12:18-22。
25 都市はどんなものの適切な象徴となっていますか。神の都が何をさすかはさらにどのように示されていますか。
25 聖書の中で,都市は,中心的な管理の下に緊密な組織を構成して生活する人々の共同体を適切に表わすものとして用いられています。ヨハネはこの「聖なる都,新しきエルサレム」の幻を与えられましたが,その都の成り立ちは黙示録の中で明らかにされています。ヨハネはそれを見て,「夫のために飾りたる新婦」と描写し,また自分が聞いた天使のことばをしるして,それを構成する者たちが「羔羊の妻なる新婦」であることを述べています。これは,キリスト・イエスとその花嫁つまり真の教会もしくはクリスチャン会衆をさしているのです。―黙示 21:29。黙示 14:1,4もごらんください。
26,27 (イ)神の都のひな型は今日どのようにその成就を見ていますか。(ロ)天の市民権への希望をいだく人々と緊密に交わっているのはだれですか。(ハ)どんな問題をこれから取り上げますか。
26 あなたは神の都に関するこの描写の真義を理解されますか。描写もしくはひな型において,シオン山にあった地上の実際のエルサレム市は,古代の肉のイスラエルの全土を治める首都として,人々に愛されていました。しかし実際のところ,エルサレム市内に住めたイスラエル人はごくわずかでした。このひな型の成就においても同じです。つまり,キリスト・イエスおよび天にあってイエスとともになる真の教会は,神の地上の領域全体を治める首都的な組織となります。この取り決めが「新しき天と新しき地」を生み出すのです。(ペテロ後 3:13)今の古い事物の体制の終局の時にあって,真に献身したクリスチャンで,天への希望と天の市民権を持つ人々は,すでに緊密に一致した状態を取りもどしています。(ピリピ 3:20)この人々と緊密に交わっているのは,神の国の民として地上に生きる希望をいだく,献身した男女の『大いなる群衆』です。彼らは「昼も夜もその[神の]聖所にて神に事(へ)」ています。つまり,神の霊の家もしくは霊の宮を構成する人々の残れる者と交わりつゝ神に仕えているのです。(黙示 7:15。エペソ 2:19-22)アブラハム,イサク,ヤコブなどの精神にならって神に献身したこれら今日の男女も,古い事物の体制を捨てねばなりません。特に彼らは,邪悪な都大いなるバビロンとして象徴されるもの,つまり偽りの宗教の世界帝国から離れねばなりません。かわって,生きた信仰のしるしとして,彼らは神の都,つまりエホバの証人の中に明白に表明される,都にも似た神の取り決めを熱心に求めねばなりません。
27 それでもあなたは,神の都を見いだすことがどのように自分の祈りの助けになるのかと問われることでしょう。その点は次の記事の中で取り上げましょう。
[684ページの図版]
アブラハムは自分のむすこをもすすんでささげようとする態度によって信仰を示した。エホバは,「われ今なんぢが神をおそるるを知る」と言われ,アブラハムに特別の報いを与えられた