史跡を訪ねて
その朝,つまり1978年6月12日の朝,ノルウェーからやって来た10人ほどの私たちのグループはベツレヘムへ行こうとしていました。二人のアラブ青年が私たちの世話をしてくれていました。エルサレム郊外の停留所でバスを待っていると,突然,“バン!”という大きな音がしました。それは爆弾の破裂音のようでした。一瞬,アラブ青年の顔がこわばりました。しかし,一台の大型トラックが急に道路の端に寄り停車するのを見て,ほっとしました。トラックの大きなタイヤの一つがパンクしたのです。
「もしも爆弾だったら,面倒なことになっていたでしょう」と,青年の一人が言いました。青年の説明によると,爆弾事件が起きた現場周辺にいるアラブ人は,全員が官憲の監視下に置かれ,ある期間拘留されることさえあるのです。こうして,私たちは,イスラエル国内の緊張した空気を膚で感じました。しかし,しばらく前にある人々が表明した懸念とは逆に,イスラエルの観光旅行は非常に安全であるというのが,最近の旅行者たちの一致した意見です。
私たちは,エホバの証人の企画した旅行にノルウェーから参加しました。春の訪れとともに,エホバの証人が世界の各地からイスラエルにやって来ました。フランスから2,400人,ドイツから1,500人,オランダから1,200人,米国から750人といった具合いです。7月までに約9,000人が訪れました。10月末までに,旅行者の合計数は約1万5,000人に達するものと予想されています。
旅行参加者の大半はエホバの証人のバッジを付け,バスのフロントガラスにも,聖書の土地を巡るエホバの証人という標示が掲げられました。米国カリフォルニア州に住むユダヤ系の一婦人は,イスラエルのある村を訪問して帰国した後,驚きの表情で,親族の者にこう言いました: 「どこに行っても,あなたと同じエホバの証人がいたわ。あなたたちがイスラエルにそれほど関心を持っているとは思いませんでした」。この婦人には,私たちがそこへ行った理由がよく分からなかったようです。
訪問の目的
エホバの証人は聖書を神の言葉として信じており,それゆえに聖書についてできるだけ多くの事柄を知りたいというのがこの旅の基本的な理由です。聖書中の出来事の大半がイスラエルの地で生じたため,私たちはその土地に関心を持っているのです。自分の読んでいる印刷物に出てくる場所を熟知していることには大きな価値があります。これを例で示してみましょう:
あなたの育った場所の近くで注目を引く出来事が起き,それを新聞で読んだとしましょう。そして,記事の中に,丘や建物や川などその土地の特徴が書かれていたとします。その場所に行ったことのない場合に比べ,あなたはその記事をより深い関心を持って読み,また一層よく理解できるのではありませんか。そうです,あなたは周囲の情景を思いに描くことができます。丘の高さや川幅など,その土地の特徴ある地形を思い浮かべ,出来事を生々しく再現することができるでしょう。
このように,土地を知っておくことは,聖書に登場する人物や出来事をよりよく知る上で助けとなるのです。
現代の証人たち
しかし,私たちが関心を持っているのは古代のエホバのしもべだけではありません。ノルウェーから訪れた証人たちのためにハイファの王国会館で特別の集会が開かれた際,イスラエルにエホバの証人の現代の会衆が五つあり,260人ほどの王国宣明者がこれらの会衆と交わっていることが話されました。説明によると,ベツレヘムとラマラに会衆があり,これらの会衆の成員の大半はアラビア語を話す証人たちです。テルアビブにある二つの会衆の成員は大部分がユダヤ人です。しかし,ハイファの会衆と交わる75人の証人たちは,ほぼ半数がユダヤ人で,残りの半数がアラビア語を話す人たちです。
これらの地元の証人たちは,何週間にもわたって忙しく働き,幾つもの特別の集会を準備して訪問者との霊的に築き上げる交流を楽しみました。また,ノルウェーからやって来た私たちのグループが6月11日にバスでベツレヘムを訪れた際,一人の地元の証人が新しく建てられた立派な王国会館に案内してくれました。この王国会館で,案内してくれた証人ともう一人の証人が,私たちの投げかける様々な質問に答えてくれました。
ベツレヘムの北約8㌔の所にあるエルサレムには,証人はわずか四人しかおらず,24㌔ほど南のヘブロンには一人もいないとのことです。「ベツレヘムの25人の王国宣明者は大きな区域を網羅しなければなりません」と,二人の証人は言いました。翌日,私たちのグループの何人かは,ベツレヘムから来た証人たちに加わってエルサレムで戸別に宣べ伝える業を行ないました。私たち残りの者は,ガイド役を買って出た二人の地元の証人と共に,エルサレムの私たちのホテルの近くから出るアラブのバスに乗って,再びベツレヘムに向かいました。
エルサレムの南の地域
数分もしないうちに,すでにベツレヘムに入っていました。ここは,私たちにとって実に大きな意味を持つ土地です。そうです,イエス・キリストはここで誕生されたのです。み使いたちが羊飼いたちに現われて,その誕生を知らせたのも,ベツレヘム郊外のある野原でのことでした。1 この地域は,私たちが予想していた以上の丘陵地で,乾燥した不毛の地のように見えました。私たちは,ベツレヘムの標高がエルサレムの標高とほとんど変わらないことを知って驚きました。周囲の田園地帯は数々の聖書中の他の出来事を思い起こさせます。
ヤコブの一行が旅をしていた時,愛妻ラケルがベニヤミンを出産して死んだのはこの近くでした。2 ここはボアズとナオミの家のあった所です。モアブ人の女ルツは,東方の起伏の多い不毛の荒野を横切って当地に至り,ボアズの畑で落ち穂を拾いました。3 また,若い羊飼いダビデが育ち,父の羊の番をしたのもこの土地でした。さらに,ダビデのおいである二人の有名な人物ヨアブとアビシャイの家もこの付近にあったようです。4
程なくして,私たちは車を借り切って,南のヘブロンに向かいました。ヘブロンはエルサレムやベツレヘムより137㍍ほど高く,標高は海抜約914㍍です。南に向かうにつれて,土地の様子が変わり始めました。より産出的な土地のように見受けられました。ヘブロン周辺の地域は,ずっと昔から作物が豊富なことで知られていました。イスラエル人の斥候が,二人がかりで大きなブドウの房をモーセの下に持ち帰ったのは,ヘブロンに近いエシコルの谷からでした。5 今日でも,この付近の土地が肥よくなことは一目りょう然です。
昔からのヘブロンの狭い道路を歩いていると,昔に戻った錯覚にとらわれます。ヘブロンは,現在でも人の住んでいる世界最古の都市の一つとされています。アブラハム,サラ,イサク,リベカ,ヤコブ,レアが葬られているマクペラのほら穴は古代ヘブロンの近くにありました。6 私たちは,その埋葬場所とされている所を訪ねました。現在,そのほら穴の上にはイスラム教の寺院<モスク>が建っています。アブラハムは,ヘブロンの近くのマムレを主な居住地にしていたようです。かつて,ここには大きな樹木が茂っていました。7 ソドムとゴモラが滅ぼされる前に,アブラハムはここで,み使いたちをもてなしました。8 ヘブロンに近い高さ1,220㍍ほどの場所から幾㌔も離れたソドムとゴモラをはるかに見下ろしたアブラハムは,あの大規模な滅びを示す濃い煙が立ち昇るのを目撃しました。9
ヘブロンに着くまでに私たちが通って来た山岳地帯のことを考えると,聖書の別の記録に対する認識が深まります。ヤコブは,ヘブロンに居を構えていた時,17歳になる息子ヨセフに向かって,家族が以前住んでいたシケム(今日のナーブロス)で羊の世話をしている10人の異母兄弟の所に行って,その安否を確認するようにと告げました。10 それは,35㌔ほど離れたエルサレム近くにまで旅する以上のことを意味していました。シケムに行くには,険しい山道をさらに幾十㌔も北に進まねばなりませんでした。ヨセフはやっと,シケムの先のドタン(現在のジェニーンの少し南に位置していた)で兄弟たちに追い付きました。そこはヘブロンから130㌔以上も離れているのです。
ヘブロンの昔ながらの街路を歩き,古い市場をのぞいていると,ここの生活は,ダビデがヘブロンに住んでいたころと,さほど大きく変わっていないように思えました。ダビデが油をそそがれて王に任じられたのはここヘブロンであったことが思い出されます。首都を北のエルサレムに移すまでの7年半の間,ダビデはここから支配しました。11 しかし,当然のことながら,私たちが現代に生きていることを思い出させる情景が随所に見られます。ひとときもライフル銃を手から離さないイスラエル人の兵士の姿はその一つです。
ヘブロンは占領下の都市で,70万人近いパレスチナ人の住む,軍の管理下にある一地域に属しています。今日,“西岸”と呼ばれるこの地域は,東の死海とヨルダン川,および西の地中海沿岸にあるユダヤ人の住む海岸平野の間に位置しています。3,700平方㌔にも及ぶ,丘や谷などの起伏の多いこの広大な地域は,1967年の六日戦争の際にイスラエルがヨルダンから獲得したものです。
ヘブロンを出て,ベツレヘムに向かったのは午後3時ごろでした。しかし,ベツレヘムに帰る途中,ソロモンの溜め池という標示が目に入り,私たちは幹線道路を離れてわき道に車を進めました。思わず,自分の目を疑いました。三つある溜め池はなんと大きいのでしょう! 一番大きな溜め池は,長さが178㍍,幅が54㍍,深さが約15㍍もあるのです。これらの溜め池は,エルサレムに水を供給する目的で,ローマの時代に作られたものとされています。しかし,これらが,古くはソロモンの時代から同じ目的で使用されていたことも考えられます。
ベツレヘムに戻った私たちは,ヘロディウムと呼ばれるもう一つの場所を訪ねたいと思いました。それは,赤子のイエスを殺そうとしたヘロデ大王が,12 ベツレヘムの南東数㌔のひときわ高い丘の頂に築いた城塞で,彼の名にちなんで名付けられています。何日か前に,私たちはここからさらに南東の方角にあるマサダの城塞を見学しました。死海の近くにあるこの城塞はヘロデの豪勢な王宮でもありました。西暦73年に,ユダヤ人はここで,ローマ人に対する最後の抵抗を試みました。しかし,このヘロディウムは,マサダの城塞ほど大きくはないものの,私たちにとっては,ある面でより意味深いものでした。
それは,ここから周囲の景観が一望の下に見渡せるからです。不毛の土地とはいえ,沈みゆく太陽を背にした,茶色がかった黄金色の美しい景色は人の目を奪います。東の方は,はるか死海まで見渡すことができます。眼前に広がるユダの荒野で,ダビデは,命を付けねらうサウルの追撃を首尾よくかわしました。13 この付近の起伏の多い地勢を目にし,ダビデが若いころからこの付近の地理によく通じていたことを考えると,彼が追っ手から身を隠せた理由が分かります。私たちは,丘の上に立って,ダビデも羊の世話をした際にこの同じ丘に何度も登り,私たちが楽しんでいるこの同じ景観をながめたのではなかろうかと考えました。
テルアビブヤフォの南の地域
イスラエルに着いてからの最初の一週間,私たちは地中海を指呼の間に望むテルアビブ郊外のホテルに滞在しました。イスラエル最大の都市であるテルアビブは近代になってできた都市です。しかし,テルアビブは,古代の都市ヨッパに隣接しています。そのため,両市を合わせて,公式にはテルアビブヤフォと呼ばれています。
使徒ペテロは,ヨッパで,ドルカスをよみがえらせました。14 また,海辺に住む皮なめし工シモンの家に潜在している時に,ペテロが幻を見たのもここヨッパです。この幻を見たペテロは,異邦人コルネリオが遣わした使者たちと共に,進んでカエサレアのコルネリオの家に行きました。15 私たちはテルアビブから北のカエサレアに通ずる高速道路を通った際,自動車で一時間ほどで行けるところを,ペテロと同行者たちは二日がかりで行ったことを思い起こしました。
テルアビブから南に向けて出発した日に,私たちは古代ペリシテ人の住んでいた地域に入って行きました。最初の一週間はバス旅行が計画されていませんでしたので,私たちは車を借りて聖書と関連のある場所を訪れました。南に向かう途中,まずアーシュドードに入りました。ここでは,地中海に面する近代的なイスラエルの都市が建設中でした。しかし,この近くに,ペリシテ人の有名な都市(アシドド)のあったことが思い出されます。ペリシテ人はイスラエルとの戦いで奪い取ったエホバの契約の箱をここに運び入れました。ところが,アシドドの住民は痛みを伴う痔に襲われ,やむなく契約の箱を町の外に送り出しました。16
私たちはさらに南のアシュケロンに向かいました。ここは,気持ちのよい海岸もあって,主な観光地になりつつあります。しかし,ここも,かつてはペリシテ人の重要な都市でした。古代の遺跡を訪れた私たちは,そこに掲げられている標識を見て満足しました。そこには,ペリシテ人との戦いで倒れたサウルとヨナタンの死を悼むダビデの歌の一節が次のように書かれていました: 『この事をアシケロンのちまたに伝えてはならない。おそらくはペリシテ人の娘たちが喜び,割礼なき者の娘たちが勝ちほこるであろう』。17
次に,ガザと“ガザ回廊状地帯”に向かいました。ここにも,海の近くに,ペリシテ人のもう一つの主要都市の遺跡があります。付近一帯の土地が肥よくなことは印象的でした。農耕に適したここの土地は古代ペリシテ人の繁栄に寄与したものと思われます。しかし,今日のガザには戦争の傷跡が残っています。町の通りを車で走っていても,希望を失った重々しいふんい気が感じられました。
私たちは,ここに来て,イスラエルの裁き人サムソンのことを思い起こしました。彼はガザをよく知っていました。ある晩,サムソンは,町の門のとびらを引き抜き,これを「肩に載せて,ヘブロンの向かいにある山の頂に運んで」行きました。18 これらの土地を実際に訪れた今,サムソンの奇跡的な力に対する私たちの認識はいっそう深まりました。彼は,これだけの荷を負って,50㌔以上も離れた所にある高さ914㍍近くの山に登ったのです。また,ここガザで,サムソンは,ペリシテ人たちが祝いをしていた建物の屋根を支える柱を倒して,幾千人ものペリシテ人を殺し,自分も最期を遂げました。19
次に私たちは,ガザから南東50㌔ほどの所にあるベールシェバに向かいました。広々とした土地を横断する立派な道路を通って行きます。そこではラクダ,羊,やぎと共にアラブ人の家畜の番人の姿が見えました。遠くに,これらアラブ人の天幕が見えた時,彼らの生活は,アブラハムやイサクがこの付近で生活したころとそれほど変わっていないに違いないと考えました。その大部分が極めて近代的な都市であるベールシェバで,私たちはベドウィンの市場(木曜日ごとに開かれる)を訪れ,そこに良い品物があるのに驚きました。しかも,それが非常に安いのです。私たちは,米貨に換算して30セント(約60円)ほどで,オレンジを2㌔(12,3個)買いました。
しかし,私たちの主な関心は,町の外にあるテルつまり古代の遺跡丘にありました。そこは,聖書に記されているベエルシバであると一般に考えられています。この高い丘の上からは周辺の地域を見渡すことができます。丘に登って,下方に広がる広大な低地の景観を楽しみました。姿を消そうとしている太陽が,光と影の美しい光景を描き出していました。古代の遺跡から発掘された出土品を調べた私たちは,『随分住みやすそうな場所だ』と考えました。アブラハムもそう考えたに違いありません。イサクを携えてモリア山(今日のエルサレムの城壁の内側)に登り,そこでイサクを犠牲にするようにとの神からの指示を受けた時,アブラハムはここにいました。モリア山に行った後,アブラハムは再びベエルシバに戻りました。20
その晩,ホテルに向かう車中で,私たちの気持ちは弾んでいました。これらの場所の多くは聖書に記述されている名前と同じ名前で呼ばれていますが,それらの場所を実際に見ることによって,若いころから読んできた聖書の記述に対する確信が強まり,その理解が深まりました。
サマリアに入る
別の日に,私たちは車で地中海沿いに北上し,ネタニヤで東に入りました。肥よくなシャロン平野を横切り,ほんの数㌔進むと,サマリアの山岳地帯に入ります。突然,右手に丘が見えました。かつて,この頂に,イスラエルの北の十部族の王国の首都,古代サマリアがありました。車で,この丘に登り,周辺の山々や肥よくな谷の壮大な景色を楽しみました。頂上では,イスラエルの王アハブの王宮跡を見ました。ここから,西暦前8,9世紀のものとされる象げ片が発見され,豪しゃな王宮のあったことが確証されています。21
幹線道路に戻り,私たちは北のドタンの谷に向かいました。そこは,青年ヨセフが,羊の群れの番をしている兄たちを見付けた場所です。畑で穀物の刈り入れをしている農夫たち,それに羊ややぎの群れが,過去をしのばせるような楽しい牧歌的風景を描き出しています。ジェニーン(昔のレビ族の町エンガンニム)の近くで車の向きを変え,元の道を戻りました。やがて,ナーブロスに着きます。ここには古代シケムの遺跡があります。北にはエバル山,南にはゲリジム山がそびえていました。22 ゲリジム山のふもとに,ヤコブの井戸があります。イエスはエルサレムから帰る途中,おそらくこの井戸で,サマリア人の女と会ったのでしょう。女は,イエスに向かって,「わたしたちの父祖はこの山で崇拝をささげました」と言いました。彼女の言及した山がゲリジム山であったことは明らかです。23
歴史的に有名なゲリジム山の頂上から降りた後,再び南に向かい,イエスがエルサレムへの行き帰りに歩いたと思われる道を進みました。突然,“シロ”と書かれた道路標示が目に入りました。私たちは,興奮しながら,東に伸びる非常に狭い道路に入り,裁き人の時代にエホバの契約の箱が置かれていた場所に向かいました。24 私たちはイスラエルの若い兵士の検問を受けました。この兵士は,他にだれの姿も見えない,こうした人里離れた場所に私たちが来たことに驚いているようでした。しかし,私たちにとって,ここを訪れ,エフタの娘や,後には幼いサムエルが,この静かな山の中にあったエホバの幕屋で仕えたことを思い巡らすのは,忘れ難い経験でした。25
すでに午後3時ごろになっていましたが,見たい所がまだ沢山ありました。山の中の道を数㌔南に進み,少し東に入ると,アラブ人の住む村ベイティンとダイルディブワーンがあります。かつて,この近くに,聖書に出てくる都市ベテルとアイがありました。しかし,そこがなかなか見付からないので,路上にいた二人の男の人に尋ねました。英語を話せる二人は,親切にも,一,二時間かけて,発掘された古代の遺跡を案内してくれました。
夕暮れの涼しい風に髪をなびかせ服をはためかせて,海抜914㍍ほどの高地に立ち,周囲の田園地帯をながめるのは,実に印象的でした。アブラハムとロトが,双方の家畜の牧者たちの間に争いが起こったために両者が別れるに当たり,アブラハムがロトに進むべき方向を選ばせたのは,この場所であったと思われます。聖書はこう記しています。「ロトが目を上げてヨルダンの低地をあまねく見わたすと……すみずみまでよく潤っていた」。26
ここを去ろうとしていると,一方の男の人が,ぜひ自分の家に寄って,お茶でも飲んで,家族と会って欲しい,と勧めてくれました。私たちは,その家でほんとうに楽しい時を過ごしました。暗くなってきたため,引き上げねばなりませんでしたが,全くの見知らぬ人たちから示された,予期しない暖かいもてなしをうれしく思いました。
美しいガリラヤ地方
私たちにとって最も印象的だったのはガリラヤです。海岸沿いのカルメル山脈,起伏の多い北部の地形,宝石のように輝く青いガリラヤ湖,南のサマリアと北のガリラヤの山々とを分けへだてる緑で覆われた美しいエズレルの谷(エスドラエロン平原とも呼ばれる)など,その地勢だけでも人を引き付けます。しかし,もとより,ガリラヤが私たちにとってとりわけ興味深かったのは,イエスが地上の生涯の大半をここで過ごされ,また聖書中の重要な出来事の多くがここで生じたからです。
私たちを乗せた観光バスは,ハイファを出ると,エズレルの谷に沿って進みました。右にはカルメル山脈が,左には紫の花の間を流れるキシオン川があります。私たちは,山脈を見上げながら,ここで行なわれた,有名な火を呼び寄せる試みの際に,天から火を送ってエリヤの犠牲を焼き尽したエホバの奇跡のことを思いました。エリヤは,この後,バアルの予言者450人を,私たちの足元からほんの数㍍しか離れていない,ここキシオン川に連れ下り,全員を殺させました。27 その場所を実際に目にすることによって,この出来事に対する認識が深まり,それがいっそう意義深いものとなりました。
さらに数㌔先に進み,古代メギドの遺跡を見学しました。この都市は,戦略上極めて重要な場所に位置していました。ここから見るエズレルの谷はなんと美しいのでしょう。この堅固な場所を取る者は,だれであっても,カルメル山脈の中を通る道を支配することができました。事実,ここでは,決定的な戦いが行なわれました。聖書の中で,ハルマゲドン(“メギドの山”を意味する)という名が,あらゆる政治上の敵対者に対する神の勝利の戦いと結び付けられているのはなんと適切なことでしょう。28
メギドからこの有名な谷もしくは平原をながめると,その地形が分かります。谷のほぼ中央にモレの丘があります。かつて,この丘のふもとや中腹に,ナイン,シュネム,エンドルなどの町がありました。これから北東寄り数㌔の所に,丸い頂上の有名なタボル山が立っています。ここから,裁き人バラクは,デボラと共に下り,不意を突かれてうろたえるカナン人を打ち負かしました。29 (これより前,私たちは車でタボル山に登りましたが,この頂上からも周囲の景観が望めます。)イエスの故郷ナザレは,ガリラヤの山々に隠れて見えませんが,その谷から非常に近い所にあります。イエスは,私たちが今目にしている地域一帯をよく知っておられたことでしょう。これらすべての場所は,ナザレから歩いても,そう遠くはないからです。
次に,私たちは,谷の反対側,つまりギルボア山の見えるはるか南東をながめました。ギルボア山のふもと近くにハロデの井戸もしくは泉があります。ここで,ギデオンは,向こう側のモレの丘に陣を張った13万5,000人のミデアン人に立ち向かいました。私たちは,エホバがギデオンに指示を与えて,兵力をわずか300人に減らした時の様子を思い起こしました。しかし,わずかこれだけの兵力でも,エホバはギデオンに勝利をお与えになったのです。30 ここは,後に,もう一度戦場となりました。ペリシテ人はモレの丘の近くに布陣していたようです。イスラエル人は再びハロデの井戸に陣を構えました。しかし,この度は,ペリシテ人がイスラエル人を敗走させ,サウルとヨナタンが殺されました。31 私たちにとって,こうした場所を実際に見ることは,聖書中のこれらの出来事をより克明に思いに描く助けとなりました。
しかし,どこよりも美しいながめだと思ったのは,初めて目にしたガリラヤ湖でした。そのとき私たちはガリラヤ湖の北側の山脈から下って行きました。深い水盤に宝石をはめ込んだような湖が眼下に見えます。長さ21㌔,幅12㌔の湖は青い水をたたえていました。しかし,かなり高い所から見下ろしていたせいか,湖はずっと小さく見えました。周囲をほぼ完全に丘や山で囲まれたガリラヤ湖は,驚いたことに,海面下213㍍近くの所に位置しているのです。
ボートに乗ったり,見晴らしのよい高い場所から湖をながめたりして,湖畔で時を過ごしている間,私たちはここで起きた様々な出来事について思いを巡らしました。イエスはこの湖の水面の上を歩かれました。32 嵐の際に湖面を静め,33 復活後,ガリラヤの湖のほとりで,弟子たちと共に朝食を取られました。34 近くの山腹で,これまでに記録された話の中で最も有名な話をなさいました。35 わずか数個のパンと二匹の魚で幾千人もの人に食物を与えたのもこの付近です。36 イエスは,ガリラヤ湖の北岸にある都市カペルナウムを活動の根拠地にしておられました。37
私たちを乗せたバスがガリラヤを出てエルサレムに向かった日,私たちは,エズレルの谷とヨルダン川流域の間に位置する要衝となる都市ベトーシャン(ベテシャン)に行きました。テルつまり古代都市の遺跡は高さ80㍍ほどの丘の上にあります。この頂上に立ってエズレルの谷の方向を見上げると,ギルボア山とメギドが望めます。ヨルダン川流域を見下ろすと,エリコが見えます。実にすばらしい景観です。ペリシテ人は,ギルボア山で死んだサウルの死体をこのベテシャンの城壁に打ち付けました。38
エリコとエルサレム
私たちは,ヨルダン川流域に沿って80㌔ほど下り,エリコに入りました。この付近は暑くて乾燥していますが,春にはもっと涼しいはずです。私たちは,イエスとその家族が過ぎ越しを祝うために毎年エルサレムに上る際,サマリアの山道ではなく,距離は長くても,もっと楽なこの道を通ったのではないだろうか,と考えました。39
エリコに入ってやしの木がとても多かったのは印象的でした。40 冷房の効いたバスから外に出ると,強い日差しで大変暑く感じました。この暑さから,ご自分の弟子に「一杯の冷たい飲み水」を与える人に対する,イエスのほめ言葉の意味がより十分に理解できました。41 私たちは,古代エリコの遺跡が発掘された遺跡丘に登りました。そこは,それほど広くありません。ヨシュアとその軍隊が,一日に七回,エリコを回ることができたのも納得がいきました。42
イスラエルに滞在した最後の四日間は,聖書の中の重要な都市エルサレムで過ごしました。聖書に繰り返し出てくる場所を自分の目で実際に見るのは,実に意義深いことでした。私たちは,オリーブ山の上に立ち,この付近のどこかにあったゲッセマネの園でユダがイエスを敵の手に売り渡した時のことを思い起こしました。43 キデロンの谷の向こう側には,イスラム教の岩のドームが見えます。しかし,イエスは,当時,そこに神殿が建っているのをご覧になったはずです。イエスは,神殿の見える場所で,「事物の体制の終結」に関する有名な預言を語られました。44
オリーブ山のこの位置に立つと,『ダビデの町』の実際にあった場所が見えます。また,その場所と,後年拡張されたエルサレムの北側や西側の部分との関係も分かります。元々の『ダビデの町』つまり「シオンの山」は,エブス人から獲得したものでした。45 その部分は,今日のエルサレムの城壁の外,岩のドームの南にあります。別の日に,私たちは,元の町の実際の位置を正確に定める手掛かりとなるものをよりはっきりと知ることができました。
私たちは,キデロンの谷に下り,『ダビデの町』が建てられていた丘のすぐ下でわき出るギホンの泉に行きました。洞窟の中に隠されているこの泉は,町の位置を確定する上で重要な手掛かりとなります。というのは,昔は,防護措置を施した水路が必要だったからです。町の城壁の外にあるこの泉に通じる縦坑を町の中から掘ったのはエブス人でしたが,ヨアブと配下の兵士は,この縦坑を伝わって上の方にあった町の中に入り,エブス人に攻撃を仕掛けたものと思われます。こうして,その町はダビデとイスラエル人のものになりました。46 何年も後に,ヒゼキヤ王は,ギホンから,当時すでに町の中にあったシロアムの溜め池に通じる,長さ533㍍のトンネル水路を掘りました。これは,まさに土木工学の傑作とも言うべきものです。47 これによって,エルサレムは,包囲されても,水の補給を心配する必要がなくなりました。
現在でも,ヒゼキヤのトンネル水路には水が流れています。私たちがその中を歩いた時は,水位はひざ辺りまでありました。シロアムの溜め池まで歩いた後,私たちはさらに谷を下ってエンロゲルの泉に行きました。この場所で思い出すのは,ダビデの反抗的な息子アドニヤが,王位のさん奪を謀る自分の企ての支持者を得る目的で,祝宴を設けたことです。48 死の床に伏していたダビデ王は,これを聞くと,谷からほんの数百㍍上がった所にあるギホンの泉で息子ソロモンを王として油そそがせました。49
これらの場所を訪問したことは,私たちにどんな結果をもたらしたでしょうか。それらの場所が実在していたことを信ずるために目で見る必要はありません。それでも,そうした場所を訪れた結果,確かにそれらの場所が実在することを確信できました。しかし,とりわけそれらの場所に実際に行き,聖書に記されている出来事の生じた自然環境を知ることによって,こうした出来事に対する認識は深まり,それらがいっそう意義深いものになりました。
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参照聖句
1 ルカ 2:4-16。
2 創世 35:16-20。
3 ルツ 1:16-19; 2:2-4。
5 民数 13:23。
6 創世 23:14-19; 25:9; 49:30,31; 50:13。
8 創世 18:1-8。
9 創世 19:27-29。
10 創世 37:12-14。
11 サムエル後 5:1-5。
12 マタイ 2:7-18。
13 サムエル前 24:1-3。
14 使徒 9:36-43。
15 使徒10:1-25。
16 サムエル前 5:1-9。
17 サムエル後 1:20,口。
18 士師 16:3,口。
20 創世 21:30-34; 22:1-19。
23 ヨハネ 4:5-7,19,20。
24 ヨシュア 18:1。
26 創世 13:1-11,口。
27 列王上 18:18-40。
29 士師 4:4-16。
30 士師 7:1-22; 8:10。
31 サムエル前 28:4; 31:1-4。
32 マタイ 14:23-32。
33 マルコ 4:35-41。
34 ヨハネ 21:9-14。
35 マタイ 5:1,2。
36 マタイ 14:14-22。
37 マルコ 2:1。
38 サムエル前 31:10。
39 ルカ 2:41,42。
40 申命 34:3。
41 マタイ 10:42。
42 ヨシュア 6:15。
43 マタイ 26:30,36-47。
45 サムエル後 5:7,9; 6:12。
48 列王上 1:9,10。
49 列王上 1:33-41。
[4ページの地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
イスラエル
地中海
カペルナウム
ガリラヤ湖
ナザレ
キシオン川
カルメル山
タボル山
モレの丘
エズレルの谷
メギド
カエサレア
エンガンニム(ジェニーン)
ギルボア山
ベテシャン
シャロン平野
ネタニヤ
サマリア
エバル山
ゲリジム山
シケム(ナーブロス)
ヨルダン川
西岸
シロ
ヨッパ(テルアビブ)
ベテル
アイ
エリコ
ヨルダン
エルサレム
アシドド
ベツレヘム
アシケロン
ソロモンの溜め池
ヘロディウム
エシコルの谷
マムレ
ガザ
ヘブロン
死海
マサダ
ベエルシバ
ソドムとゴモラ?
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この若い女の羊飼いは,テルベールシェバの近くで羊とやぎの世話をしていた
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今日の美しいガリラヤ湖