ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 塔80 4/1 8–13ページ
  • 「希望を与えてくださる神」にあって喜ぶ

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • 「希望を与えてくださる神」にあって喜ぶ
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1980
  • 副見出し
  • 関連する記事
  • 生ける希望の必要性
  • 「胤」に関する希望
  • 永遠の命の希望に対する確かな根拠
  • 義の政府に関する希望
  • 私たちの希望が失望に終わることはない
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔(研究用)2023
  • 希望,望み
    聖書に対する洞察,第1巻
  • エホバを待ち望み,勇気を出しなさい
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 2006
  • 聖書 ― 希望を与える本
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1969
もっと見る
エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1980
塔80 4/1 8–13ページ

「希望を与えてくださる神」にあって喜ぶ

「ああ,主権者なる主エホバ,あなたはわたしの望み,若い時からのわたしの確信だからです」― 詩 71:5,新。

1,2 (イ)神がわたしたちを気遣ってくださることを示すどんな聖書的根拠がありますか。(ロ)どのようにわたしたちの喜びは満たされますか。

あなたは神との貴重な関係について時々じっくりと考えることがありますか。神がわたしたちを気遣っておられることを知るのは,何と心楽しいことなのでしょう。確かに,エホバの観点からすれば,諸国民は桶の一しずくにすぎません。ですから人間一人一人は,神の目に極めて小さなものと映るに違いありません。しかし,イエス・キリストは次のように保証しておられます。「すずめ二羽はわずかな価の硬貨一つで売っているではありませんか。それでも,あなたがたの父の知ることなくしては,その一羽も地面に落ちません。ところが,あなたがたの頭の毛までがすべて数えられているのです。それゆえ,恐れてはなりません。あなたがたはたくさんのすずめより価値があるのです」― マタイ 10:29-31。イザヤ 40:15。

2 神が一羽のすずめが落ちるのを知っておられるなら,ご自分の像に造られたわたしたち人間に対しては,もっと厚い同情心を抱いておられるに違いありません。(創世 1:26)わたしたちの神は知恵と創造の力においても非常に偉大な方ですが,神の偉大さは,打ちひしがれた人々の福祉に関心を抱き,人類に対する愛を広く示されるという点ではそれらをはるかに上回ります。(詩 33:4,5)イエスは,「わたしのおきてを守るなら,あなたがたはわたしの愛のうちにとどまることになるのです。わたしが父のおきてを守ってその愛のうちにとどまっているのと同じです」,と語られましたが,そのイエスの励ましの言葉どおり,神の愛に浴し,その愛のうちにとどまることができるのは,本当に特権です。そしてイエスは,「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは,わたしの喜びがあなたがたのうちにあり,あなたがたの喜びが満ちるためです」,とつけ加えられました。―ヨハネ 15:10,11。

3 なぜダビデはエホバに全き確信を抱いていましたか。わたしたちが同じ確信を抱けるのはなぜですか。

3 今の危機的な時代に住むわたしたちは,愛に富まれる神が希望を与えてくださったことをも喜ぶことができます。ダビデは厳しい試練を経た後に詩篇 71篇を書いたようです。そしてその詩の中で,若い時からの望み,そして確信である主権者なる主エホバを賛美しています。一例を挙げれば,ダビデはのっしのっしと歩く巨人ゴリアテに面と向かったとき,次のように叫びました。「獅子の手や熊の手からわたしを救い出してくださったエホバ,その方がこのペリシテ人の手からもわたしを救い出してくださいます」。エホバはまさにそのとおりのことをされました。(サムエル前 17:37,45-50,新)そして今に至るまで,エホバは,『その若い時から』力強い希望を抱いて忠実に仕え続けているご自分の証人の油そそがれた残りの者たちをずっと支えておられます。

生ける希望の必要性

4 「以前に書かれた」事柄はなぜ希望の源となりますか。

4 み言葉の中に記されているエホバの長期間にわたるさまざまな約束は,確かに,将来に対する確固とした希望の源です。使徒パウロが述べるとおりです。「以前に書かれた事がらはみなわたしたちの教えのために書かれたのであり,それは,わたしたちが忍耐と聖書からの慰めとによって希望を持つためです」。(ローマ 15:4)わたしたちが希望を持つ必要があることは疑うべくもありません。しかし,「以前に書かれた」事柄は,どのように希望の根拠となるのでしょうか。それよりもまず,希望が必要になったのはなぜでしょうか。

5 (イ)希望の必要はどのように生じましたか。(ロ)わたしたちの最初の親が死の刑罰を招いても当然だったのはなぜですか。そのことにわたしたちが関係しているのはなぜですか。

5 「以前に書かれた」事柄は,神が人間の最初の両親を作り,その二人を喜びの楽園に置かれたいきさつや,二人の前途には永遠に生きる見込みと,決して死ぬことのない愛のある幸福な人々でこの地を満たすという見込みがあったことを明示しています。(創世 1:26-28; 2:7-9,18-25)ところが,アダムとエバはこの特権を失いました。なぜでしょうか。二人は罪を犯し,彼らの父エホバ神に対する完全な従順という的をはずしたのです。当然,主権者なる主エホバは不従順なこの夫婦に死を宣告されました。二人はかたくなになり,神から独立するようになったので,二人にはもはや,エホバの忠節な被造物の間で占める地位はなくなりました。さらに,自分たちに死の刑罰を招いただけでなく,この罪深い親たちから将来生まれ出る幾十億もの子孫にも死の刑罰をもたらしました。パウロの述べるとおりです。「それゆえ,ひとりの人を通して罪が世に入り,罪を通して死が入り,こうして死が,すべての人が罪を犯したがゆえにすべての人に広がったのと同じように」― ローマ 5:12。

6 どんな希望に基づいて創造物は奴隷状態に陥りましたか。

6 しかしパウロは続けて,「創造物は虚無に服させられ」たが,それは「この希望に基づいていた」と述べています。どんな希望でしょうか。それは創造物が「腐朽への奴隷状態から自由にされ,神の子どもの栄光ある自由を持つ」ようになるという生ける希望です。わたしたちの最初の両親もそのような自由を,エデンの楽園で享受していました。それは永遠の命の希望を伴う自由でした。このような希望を与えることができるのは神だけでした。―ローマ 8:20,21。ヨハネ 17:3。

「胤」に関する希望

7 約束の「胤」の正体は,どのように明らかになりますか。

7 「以前に書かれた」事柄の中でも早い時期のものには,天にある,神の妻のような組織の「胤[子孫]」が,「[蛇の]頭を踏み砕く」,つまりサタンをその配下もろとも滅ぼすという神の約束について書かれたものがあります。(創世 3:14,15,新)しかし,この「胤」とはだれのことですか。この者については,あとの所で,神の友アブラハムの「胤」でもあり,このアブラハムの胤によって「地のすべての国民は確かに自らを祝福するであろう」と述べられています。使徒パウロはこの胤の正体を明かし,「さて,その約束はアブラハムとその胤に語られました。……『またあなたの胤に』と述べてあり,それはキリストのことなのです」と説いています。―創世 22:18,新。ガラテア 3:16。

8 (イ)地上におけるイエスの生涯については,そのはるか前にどんな予告がされていましたか。(ロ)人類に対する神の愛はどのように示されましたか。

8 「以前に書かれた」事柄は,キリスト・イエスの地上における生涯を予告していました。イザヤが700年以上も事前に預言していたとおり,イエスはさげすまれ軽んじられ苦しめられて,「さながら羊のようにほふり場に連れて行かれ(ました)」。み父のご意志に従い,『彼は自分の魂を』死に「注ぎ出し」ましたが,それは「多くの民」が罪への束縛から解放されるためでした。(イザヤ 53:3-12,新)エホバは彼を死人の中から引き上げられ,「彼を信じる者がみな永遠の命を持つため」,天において,「命の主要な代理者」としての立場におつけになりました。神がこのような備えをされたのは,「[人類]の世を深く愛された」からです。(ヨハネ 3:15,16。使徒 3:15)このことは,実にすばらしい希望への道を開くものとなりました。―ヨハネ 5:24-29。

永遠の命の希望に対する確かな根拠

9 (イ)何がわたしたちの希望を保証していますか。(ロ)希望はわたしたちにどのように影響を及ぼしますか。

9 確かな根拠に基づくわたしたちの希望は,わたしたちの神エホバの名前そのものによって保証されています。その名前には「彼は成らせる」という意味があり,神がご自分の目的を達成するに際して特定の事柄を生じさせることを示しています。その方は「偽ることのできない」神であり,「長く続いた時代の前に約束された」『希望の根拠』を与えておられます。(テトス 1:2)あなたにとってこの希望は何を意味しますか。その希望に対する見方は,キリスト教世界の人々が自らの宗教に対して抱いているのと同じような,口先だけの形式的なものでしょうか。それとも,心の奥深くから,自分のすべて,命のすべてを「希望を与えてくださる神」に捧げているでしょうか。(ローマ 15:13)その希望はあなたにとって,すでに現実と思えるほど強いものとなっているでしょうか。もしそうであれば,その希望はあなたの信仰になっています。その信仰は自分の希望について他の人々に証しを行なうという良い業を伴う生きた信仰です。―ヘブライ 11:1。ヤコブ 2:17。

10 (イ)わたしたちの希望をより現実的なものとするのは何ですか。(ロ)なぜ油そそがれたクリスチャンは,その希望にあって今,喜ぶべきですか。

10 わたしたちの主権者なる主エホバは永遠に生きておられるのですから,神の約束は「生ける希望」の根拠となります。そして復活されたみ子イエス・キリストは「永久に生き続けるので」,この希望は一層現実的なものになります。なぜなら,「彼は自分を通して神に近づく者たちを完全に救うこともでき(る)」からです。み子は「常に生きておられて彼らのために願い出てくださるからです」。(ヘブライ 7:24,25)そのわけで,使徒ペテロは油そそがれたクリスチャンたちに次のように書きました。「わたしたちの主イエス・キリストの神また父がたたえられんことを。神はその大いなるあわれみにより,イエス・キリストの死人の中からの復活を通して,生ける希望への新しい誕生をわたしたちに与えてくださったのです。すなわち,朽ちず,汚れなく,あせることのない相続財産への誕生です。それはあなたがたのために天に取って置かれているものであり,そのあなたがたは,終わりの時期に表わし示されるよう備えられている救いを信じているので,神の力によって保護されています。このことをあなたがたは大いに喜んでいます」。(ペテロ第一 1:3-6)すでに「終わりの時期」に入っている現在,油そそがれたクリスチャンには,この希望を抱いて喜ばずにはいられない理由があります。

11 (イ)「大群衆」も,どんな「生ける希望」を抱いていますか。(ロ)その希望に関するどんな確かな根拠がありますか。

11 では,地上の楽園での永遠の命を望み見る,「すべての国民と部族と民と国語の中から来た……大群衆」についてはどうでしょうか。彼らの希望も「生ける希望」です。というのは,彼らには次の約束が与えられているからです。「彼らはもはや飢えることも渇くこともなく,太陽が彼らの上に照りつけることも,どんな炎熱に冒されることもない。[神の]み座の中央におられる子羊が,彼らを牧し,命の水の泉に彼らを導かれるからである。そして神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去られるであろう」。(啓示 7:9,16,17)こうした「良いたより」に希望を置いている人々は,それが霊感を受けた神の言葉の上にしっかりと築かれたものであるゆえに,落胆することはありません。使徒ペテロはイザヤ書 40章8節を引用し,「生ける,いつまでも存在される神のことば」に関し,次のように述べました。「『肉なるものはみな草のごとく,その栄光はみな草の花のようである。草は枯れ,花は落ちる。しかしエホバの語られることばは永久に存続する』とあるからです。そして,これが,すなわち,あなたがたに良いたよりとして宣明されたことが,その『語られることば』なのです」― ペテロ第一 1:23-25。

12 永遠の命を与えてくださる,という点で,神はどれほど寛大な方ですか。

12 イエスは,ご自分のことを『羊のために自分の魂をなげうつ』りっぱな羊飼いと言い表わし,「わたしは,彼らが命を得,しかも満ちあふれるほど豊かに得るために来ました」と語られました。(ヨハネ 10:10,11)この寛大さは,天でキリストの共同相続者となる「小さな群れ」だけに示されるのではありません。(ルカ 12:32)決してそうではないのです。なぜならイエスは,「わたしにはほかの羊がいますが,それらはこの囲いのものではありません。それらもわたしは連れて来なければならず,彼らはわたしの声を聴き,一つの群れ,ひとりの羊飼いとなるのです。そしてわたしは彼らに永遠の命を与え(ます)」とおっしゃったからです。(ヨハネ 10:16,28)「大患難」を生きて通過することを期待する「大群衆」のほかにも,キリスト教以前の忠実な僕たちと,永遠の命の見込みを抱いて地上に復活する幾十億もの死者たちがいます。(マタイ 24:21。ヘブライ 11:35。啓示 20:12)こうした命のための備えを与えてくださるわたしたちの神は何と寛大な方なのでしょう。

13 人類に対する神の愛はどのように表明されていますか。このことからわたしたちはどんな影響を受けるはずですか。

13 エホバが人間に対する愛を寛大に示しておられることは,イエスがその前に語られた次の言葉からもうかがえます。「神は[人類の]世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持つようにされたからです。神はご自分の子を世に遣わされましたが,それは,彼が世を[不利に]裁くためではなく,世が彼によって救われるためなのです。彼に信仰を働かせる者は裁かれません」。(ヨハネ 3:16-18)エホバとそのみ子は大変寛大な方であられるのですから,わたしたちもこの壮大な「良いたより」を他の人々に知らせる点で,寛大であるべきではないでしょうか。

14 (イ)諸国民にはなぜ『希望がない』のですか。(ロ)どのような面にわたしたちの信仰と「生ける希望」は反映されますか。

14 このことを行なうとき,わたしたちは,「わたしたちがそのうちを歩むようにと神が前もって準備してくださった」「良い業」にあずかります。わたしたちはもはや,『約束にかかわる数々の契約に対するよそ者』,「希望もなく」,「世にあって神を持たない」者とパウロが描写したような者ではありません。「諸国民」は,「彼らのうちにある無知のため,またその心の無感覚さのため」に「精神的な暗やみにあり,神に属する命から疎外されています」が,わたしたちは,もう「思いのむなしさのままに歩む諸国民と同じように」歩むことはありません。(エフェソス 2:10,12; 4:17,18)それというのも,今わたしたちは神と共に歩んでおり,「良いたより」を宣べ伝え教えることを特色とする「良い業」には,わたしたちの信仰と,心に満ちあふれる「生ける希望」が反映されているからです。―マタイ 4:17; 5:16; 9:35; 24:14。

義の政府に関する希望

15 (イ)「生ける希望」を抱くために,なぜ良い政府が必要となるのですか。(ロ)この点で,イザヤは励ましとなるどんな預言を記しましたか。

15 わたしたちの生ける希望に含まれているのは永遠の命の見込みだけではありません。考えてみてください。歴史上幾度となく支配を行なってきた,残虐で圧制的な人間の政府のもとで永遠に生きるのはどれほど楽しいものでしょうか。その種の束縛よりもむしろ死を選ぶ人々さえいます。幸いなことに,神の民の生ける希望には,義の政府に関する希望が伴っています。クリスチャンはその王国のことを長い間祈ってきました。その王国はエホバのみ名を神聖なものとし,神のご意志が「天におけると同じように,地上においても成される」ようにします。(マタイ 6:9,10)この王国のための長い準備期間に,エホバはキリスト・イエスの王としての役職を予表するために,イスラエルのダビデ王をお用いになりました。預言者イザヤはその方を「平和の君」と述べ,次のように記しています。「あまねく行き渡るその君としての支配と平和に終わりはなく,ダビデの王座とその王国に座して,公正と義によりこれを堅く立て,これを支える。今より,定めのない時に至るまで。実に万軍のエホバの熱心がこれを行なう」― イザヤ 9:6,7,新。

16 王国に関し,ガブリエルと詩篇作者はどんな保証を与えていますか。

16 それから1,000年余り後のこと,み使いガブリエルが処女マリアに現われて言いました。「あなたは神の恵みを得たのです。そして,見よ,あなたは身ごもって男の子を産むでしょう。あなたはその名をイエスと呼ぶのです。これは偉大な者となり,至高者の子と呼ばれるでしょう。そしてエホバ神はその父ダビデの座を彼に与え……るのです。そして,彼の王国に終わりはありません」。(ルカ 1:30-33)ですから,この「至高者の子」は,永遠の命に至る救いの道を開かれるだけでなく,その王国による祝福をも与えてくださるのです。この政府は正義をもって全人類を治め,全地の臣民にあふれるばかりの平和をもたらします。―詩 72:1-8。

17 では,わたしたちが『希望に満ちあふれる』べきなのはなぜですか。その希望をどのように表わすことができますか。

17 使徒パウロは「以前に書かれた」事柄にもう一度言及し,このように書き記しています。「そしてまたイザヤは言います,『エッサイ[ダビデの父]の根があり,諸国民を支配するために起こる者がいる。諸国民は彼に希望をおくであろう』。希望を与えてくださる神が,その信ずることによって,あなたがたをあらゆる喜びと平和で満たしてくださり,こうしてあなたがたが,聖霊の力をもって希望に満ちあふれますように」。(ローマ 15:12,13)キリストによる神の王国に対するわたしたちの希望は,確かに,喜びと心の平安の源であり,この希望に満ちあふれるときわたしたちは,神の霊から得られる力をもってこの希望を他の人々にふれ告げるよう促されます。―ゼカリヤ 4:6。イザヤ 40:28-31。

18 イザヤは王国に関するどんなあざやかな予告編を示しましたか。

18 パウロはイザヤ書 11章を引用して,「エッサイの根」のことを述べていますが,このイザヤ書 11章には次のような,キリストの王国支配に関するあざやかな予告編が示されています。「彼の上に必ずエホバの霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊,計り事と力強さの霊,知識とエホバへの恐れの霊である。また,エホバを恐れることに彼の楽しみがある。そして,彼はその目に映る単なる見掛けによって裁くことなく,単にその耳で聞くところにしたがって戒めることもない。それで,彼は必ず義をもって低い境遇にある者たちを裁き,廉潔さをもって地の穏和な者たちのために戒めを与える」。そしてこの預言は,神の民が今日すでに享受している,地の野獣が飼いならされるかのような平和そのものの霊的パラダイスの情景を描いてから,「地は水がまさに海を覆っているように,必ずエホバについての知識で満ちる」と述べています。何と輝かしい希望なのでしょう。「エッサイの根」,つまり王座につき「もろもろの民のための合図として立ち上がる」イエスに物を尋ねようと,諸国民の大勢の者たちが向かうのは少しも不思議ではありません。―1節から10節,新。

19 わたしたちが,特に今,希望にあって喜ぶべきなのはなぜですか。

19 多事多難だった1914年以来,人類は「事物の体制の終結」の時に住んでいます。「人の子」はあらゆるみ使いを従えて到来し,栄光ある天のみくらに座しておられます。その方は,裁きのため,また「羊飼いが羊をやぎから分けるように,人をひとりひとり分け(る)」ため,諸国民を集め始められました。これは諸国民と「やぎ」にとっては絶望的な苦難の時ですが,羊のような従順な人にとっては『救出が近づいているゆえに,身をまっすぐに起こし,頭を上げる』べき時です。―マタイ 24:3-8; 25:31-34。ルカ 21:26-28。

20 何を行なう面で,わたしたちは今,希望を抱いて忍耐できますか。

20 しかし,希望が自分にとって現実のものとなるためには,忍耐が必要とされます。今の「終わりの日」はその終結に近づいているのですから,わたしたちは物事をイエスと同じように見なければなりません。パウロの諭しにあるとおりです。「忍耐と慰めを与えてくださる神が,キリスト・イエスと同じ精神態度をあなたがた互いの間に持たせてくださるように。それは,あなたがたが同じ思いになり,口をそろえて,わたしたちの主イエス・キリストの神また父の栄光をたたえるためです」。(ローマ 15:5,6)では,「それから終わりが来る」との確信を持ち,王国のこの良いたよりを「あらゆる国民に対する証しのために」宣べ伝えつつ,今後も「同じ思いになり,口をそろえて」忍耐のうちに仕えてゆきたいものです。(マタイ 24:13,14)そうです,「希望を与えてくださる神」,わたしたちの主権者なる主エホバに,揺るぎない確信を置くことができますように。

[9ページの図版]

「ひとりの人を通して罪が世に入り,罪を通して死が入り,こうして死が……すべての人に広がった」― ローマ 5:12。

「神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持つようにされた」― ヨハネ 3:16。

    日本語出版物(1955-2025)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする