効果的な聖書の読み方
「霊において貧しい者は祝福されている」。幾つかの英語の聖書では,イエスの有名な山上の垂訓がこのような言葉で始まっています。(マタイ 5:3,改訂標準訳,プロテスタント版およびカトリック版)イエスが本当にどんな意味で「霊において貧しい」と言われたのか理解できますか。イエスは落胆した人々のことを言っておられたのでしょうか。それとも精神の薄弱な人という意味で言われたのでしょうか。後者であるなどとは思われませんが,ともかくその答えを知るのは重要なことです。
批判的な人々からさえ優れた聖書研究者とみなされているエホバの証人は,「新世界訳聖書」が明解さと正確さの条件を見事に満たしていると考えています。新世界訳聖書は山上の垂訓のその部分を,「自分の霊的な必要を自覚している人たちは幸いです」と訳しています。
幾つかの聖書注釈書は,この訳こそ「霊において貧しい」という表現の意味であることを認めています。では,なぜカトリックのエルサレム聖書や新国際訳など多くの現代訳聖書は,「霊において貧しい」という表現を用いることに固執するのでしょうか。
この例からも分かるとおり,聖書を効果的に読むためには,正確で明快で理解しやすい翻訳を選ぶ必要があります。
正しい態度
効果的に聖書を読むには,読む側の正しい態度も求められます。山上の垂訓のその同じ言葉は,わたしたちの態度がどうあるべきかを見事に要約したものと言えます。つまり,「自分の霊的な必要を自覚している人たちは幸い」なのです。あなたの生活には真の霊的要素が欠けているでしょうか。自分の思いや心を霊的糧で養う必要があるという事実に気づいているでしょうか。聖書はその必要を満たす助けになります。
しかし,ほかの文学作品を読むときと同じような読み方をすれば,聖書から思いと心の糧を得ることはできないでしょう。ですから,「人間の言葉としてではなく,事実どおり神の言葉として」聖書に近づかなければなりません。(テサロニケ第一 2:13)そうすれば,人間の哲学や国家主義の歴史ではなく,神のお考えや,神が持たれた地上の僕との交渉に関する歴史をそこから読み取ることになるでしょう。また聖書には驚くべき預言が収められていて,そのあるものはすでに成就し,あるものはわたしたちの眼前で成就しつつあるか,または人類の最善の益となるよう将来実現することになっています。
聖書は神の言葉ですから,効果的に聖書を読むには,神の助けを求めなければなりません。ですから神に祈ることは,聖書を読む前のふさわしい準備行為と言えます。簡潔な言葉で心から祈り,読むことが理解できるよう,またそれを私生活にどう当てはめるかが分かるよう,助けを求めます。時には得た知識を活用する能力が欠けている場合もあります。その能力というのは知恵のことです。聖書も次のように助言しています。「あなた方の中に知恵の欠けた人がいるなら,その人は神に求めつづけなさい。神はすべての人に寛大に,またとがめることなく与えてくださるのです。そのようにすれば,それは与えられます。しかし,信仰のうちに求めつづけるべきであり,疑うようなことがあってはなりません」― ヤコブ 1:5,6。
信仰をもって読む
『信仰がないのに,どうして信仰をもって祈り,信仰を抱いて読むことができるでしょうか』と言う人があるかもしれません。「自分の霊的な必要を自覚」して聖書を読むことに取り組むなら,エホバ神と,キリストを中心とするエホバ神のすばらしい目的とに関する知識を得るにつれて,信仰は増してゆくでしょう。真の信仰と盲目的な軽信とを混同しないようにしなければなりません。聖書自体,信仰を,「望んでいる事柄に対する保証された期待であり,見えない実体についての明白な論証です」と定義しています。―ヘブライ 11:1。
真の信仰にはその根底となる知識の基礎が必要です。その知識があれば神が約束された事柄はあたかも見ているかのように現実味を帯びてきます。したがって,信仰は獲得できるものです。信仰は神に関する事柄や,神が人類のために立てられたすばらしい目的を読んだり聞いたりする結果生じます。使徒パウロが,「信仰は聞く事柄から生じるのです。一方,聞く事柄はキリストについての言葉によるのです」と述べているとおりです。―ローマ 10:17。a
信仰が増すにつれて,聖書を読むことも効果的なものになっていきます。なぜでしょうか。それは『望んでいる事柄に対する期待』が一層「保証」されるからです。このことは,自分と別の人との間の新たな友情に例えることができるでしょう。時間が経過し,その人を一層よく知るようになると,その人に対する確信は深まります。さまざまな状況を生き抜き,いつもその友人が決してあなたを見捨てなかったのであれば,最後にはその友人に対して絶対的な信頼を抱くようになります。その人から手紙が来れば,その真意をどうくみ取ったらよいかが分かります。たとえ文章があまり明確でなくても,その人をよく知っているために考えを把握するのに困難を覚えません。疑いではなく信頼を抱いてその友人の手紙を読みます。
同様に,聖書とその著者であるエホバ神を知れば知るほど,神とそのみ言葉の両方に対して信頼を抱くようになります。聖書の歴史の中の,理解しにくく思われる幾つかのエピソードさえも,その信頼を揺るがすことはありません。例えば,ある人または国に対して神が思い切った処置を取られた理由がすぐに分からなくても,それは必要なことだったのだという確信を持っています。それは,信頼している友人について,『もし彼がそれをしたのであれば,十分の理由があってのことに違いない』と言うのによく似ています。
もちろん,神がそのように行動された理由,あるいは神が時折,邪悪な者に対する処置を遅らせておられるように見える理由を知ることができれば,神に対する信仰は強められるでしょう。しかしそれには援助が必要です。このことから,聖書の効果的な読み方の別の重要な面が浮かび上がります。
援助の必要性
聖書全体を読むのは非常に良いことです。1日1章の割で読めば,ヘブライ語聖書とギリシャ語聖書の両方を読み通すのに3年以上かかるでしょう。1日に3章から4章読めば,約1年で読めます。しかし,聖書の内容を大まかにつかむためには,詩編や箴言から始めるとよいでしょう。それから創世記に戻り,出エジプト記,サムエル記第一,そしてキリスト教時代に移り,マタイによる書,使徒たちの活動,そしてフィリピ人への手紙,ヤコブの手紙,ペテロの第一の手紙または第二の手紙など,初期クリスチャンたちにあてて書かれた手紙を幾つか読むとよいでしょう。
そうして読んでいるうちに,実際的で霊的な益を聖書から得るには,特定の問題について聖書が何と述べているかを知るのが良いということに気づくようになるでしょう。一つの問題と関係のある箇所が聖書全体に分散しているかもしれません。それで,一つ一つの問題について聖書が述べている事柄を学ぶのに役立つ聖書研究の手引きの必要を感じるかもしれません。また,聖書の各書は厳重に年代順に配列されているわけではないので,そういう手引きは年代順を把握するのに役立ちます。地理的背景や歴史的背景を示す資料も聖書を理解するのにたいへん有益です。
ではそのような聖書研究の手引きはどこにあるのでしょうか。近年になってカトリックの著述家たちは,表向きはカトリック教徒が聖書を読むのを助けるという目的で多くの本を発行してきました。しかしその著述家たちは自分たちがジレンマに陥っていることに気づいています。カトリック教徒が聖書を理解するよう本当に助けるとすれば,カトリック教徒はカトリックの多くの教義が聖書に書かれていないことをすぐに見つけるでしょう。かといって,カトリックの教理を正当化すれば,その著者たちは,聖書を教会の伝承よりも下位に置いているために,読者が聖書に対して抱いている確信を覆すことになります。―マルコ 7:13と比較してください。
エホバの証人の援助を受け入れる誠実なカトリック教徒が増えています。多くの国で,多数のカトリック教徒が聖書を読んで理解するよう懸命に努力していますが,土地の司祭の援助はほとんど受けられません。その人たちはイザヤ書を読んでいたエチオピアの役人に似ています。福音伝道者のフィリポが,読んでいることが本当に分かるかどうか尋ねたところ,そのエチオピア人は謙遜な態度で,「だれかが導いてくれなければ,どうして分かりましょう」と言いました。(使徒 8:31,バルバロ訳)フィリポはその人を援助しました。すると少したってからこの誠実な人はバプテスマを受けたクリスチャンになりました。エホバの証人は戸口から戸口へ行くときにカトリックの人たちに会いますが,その人たちが私の家には聖書がありますと言うと,エホバの証人はフィリポと同じように,本当に効果的に聖書を読むための援助を望まれるかどうか尋ねるのです。
効果を生み出す読み方
エホバの証人は聖書教育の業でさまざまな聖書研究の手引きを用います。「わたしの聖書物語の本」(分かりやすい言葉で書かれた聖書の話が116話,年代順に配列されている),「聖書はほんとうに神のことばですか」(聖書の信ぴょう性を証拠づける科学的,歴史的証拠),「聖書全体は神の霊感を受けたもので,有益です」(聖書の内容の書ごとの要約および地理的,歴史的背景資料),「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」(30の重要な主題に関する聖句を集めたもの。今日の誠実な聖書の読者たちの前に神の言葉が置いているすばらしい希望を含む)などがあります。
こうした聖書研究の手引きは,エホバの証人が無償で,しかも喜んで差し伸べる個人的な援助と共に,聖書を読むことを楽しい,そして効果的なものにするでしょう。そしてあなたは,日常生活の導きになる教えや,神が約束された新秩序で生きるすばらしい希望などを知ることになるでしょう。その新秩序では,神のご意志がついに,「天に行なわれると同じく,地にも行なわれる」のです。―マタイ 6:10,バルバロ訳。
[脚注]
a 1985年の参照資料付き新世界訳聖書の脚注をご覧ください。
[7ページの図版]
そのエチオピア人は聖書を理解するのに何が必要かに気づいた