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  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 2000
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 2000
塔00 10/1 24–29ページ

ライフ・ストーリー

特別な遺産に恵まれて

キャロル・アレン

私は一人きりでした。手にはきれいな新しい本を握りしめていました。私はとても怖くなり,涙がほおを流れました。なにしろ,まだ7歳の幼い女の子です。知らない都市で,しかも何万人もの人込みの中で迷子になってしまったのです。

それからほぼ60年後,主人のポールと最近ニューヨーク州パタソンにある美しいものみの塔教育センターを訪問したのがきっかけで,子どものころに経験したさまざまな事柄の記憶が次々に鮮やかによみがえってきました。主人は,エホバの証人の旅行する監督が出席する学校の第2期のクラスに入るため,パタソンに招待されていたのです。

日のさし込むロビーを見回したとき,「大会」という題の付いた大きな展示物があるのに気づきました。その中ほどに,子どもたちが興奮した様子で本を振っている,古い白黒の写真がありました。その子どもたちが持っていたのは,私が子どものころに読んだ本だったのです。私はすぐに写真の説明文を読みました。「1941年 ― ミズーリ州セントルイス。午前のプログラムが始まると,5歳から18歳までの1万5,000人の子どもたちが,本会場のステージ正面に集められた。……ラザフォード兄弟は『子供たち』という新しい書籍を発表した」。

子どもたちは銘々その書籍を1冊受け取ると,親が座っている席へ戻って行きましたが,私だけは別でした。迷子になってしまったのです。親切な案内係が私を抱き上げて,高い寄付箱の上に立たせ,知っている人がだれかいないか探してごらん,と言いました。私は不安な気持ちで,広い階段を降りて来る大勢の人を一生懸命に見ました。と突然,知っている顔が見つかりました。「ボブおじちゃん! ボブおじちゃん!」 おじちゃんは私に気づいてくれました! ボブ・レイナーは,心配しながら待っていた両親のところへ私を連れて行ってくれました。

私の人生を方向づけた昔の出来事

その展示物を見ていると,さまざまな思い出が脳裏に浮かびました。私の人生はそれらの出来事によって方向づけられ,その結果,パタソンの美しい施設に主人と共に来ることになりました。私は100年以上も昔の出来事,とりわけ祖父母や両親から聞いた事柄に思いをはせました。

1894年12月,米国ペンシルバニア州スクラントンの自宅にいた,私の父方の祖父,クレイトン・J・ウッドワースを,当時聖書研究者として知られていたエホバの証人の全時間奉仕者が訪問しました。それは祖父が結婚したばかりの時でした。祖父は,ものみの塔聖書冊子協会の会長チャールズ・テイズ・ラッセルに宛てて手紙を書きました。そしてそれは「ものみの塔」誌(英語),1895年6月15日号に掲載されました。祖父はその手紙の中で次のように説明しています。

「私たちは,10年ほど名ばかりの教会に属してきた若い夫婦です。しかし,今ではその暗闇から出て,至高者の聖別された子どもたちのために今や明け始めた新しい日の光の中へ足を踏み入れつつあると確信しています。……私たち夫婦は知り合うかなり前から,もしそれが主の御心であれば,宣教師として外国で主にお仕えしたいという切なる願いを抱いていました」。

その後1903年に,ペンシルバニア州の美しいポコノ山地の大きな農場に住んでいた,私の母方の曾祖父母,セバスチャン・クレズギとキャサリン・クレズギは,ものみの塔の二人の代表者が農場に携えて来た聖書の音信に喜んで耳を傾けました。娘のコーラとメアリーは,それぞれの夫ワシントン・ハウエルとエドマント・ハウエルと共にその農場に住んでいました。ものみの塔の代表者カール・ハマラリーとレイ・ラトクリフは,丸1週間そこに滞在し,多くのことを彼らに教えました。そして家族6人全員がそれに耳を傾け,研究し,間もなく熱心な聖書研究者になりました。

その同じ年,つまり1903年に,コーラ・ハウエルとワシントン・ハウエルに,キャサリンという名の娘が生まれました。そのキャサリンが,あとで私の父クレイトン・J・ウッドワース・ジュニアと結婚するに至ったいきさつは興味深く,また意味深い物語であったと思います。それは,私の祖父クレイトン・J・ウッドワース・シニアの愛情深い洞察と,親としての気遣いがよく表われている物語です。

父に対する愛のこもった助け

私の父クレイトン・ジュニアは,1906年にスクラントンで生まれました。ハウエル家の農場とは80㌔ほど離れていました。その当時,祖父ウッドワースは,ハウエル家の大家族と非常に親しくなり,同家の有名な歓待にあずかることがしばしばありました。祖父は,その地域の聖書研究者の会衆にとって大きな助けになっていました。そのうちに,ハウエル家の3人の息子たちの結婚式を執り行なうよう頼まれました。祖父は自分の息子の福祉を念頭に置いて,それぞれの結婚式に息子を必ず連れて行きました。

当時父は,聖書研究者の宣教に活発ではありませんでした。宣教のための訪問に出かける祖父を車で送って行くことはしましたが,父自身は祖父の励ましにもかかわらず,積極的に宣教に携わることはしませんでした。その当時,父は他の何よりも音楽に関心があり,プロの音楽家を目指していました。

コーラ・ハウエルとワシントン・ハウエルの娘キャサリンも,すぐれた音楽家になり,ピアノを演奏したり教えたりしていました。ところがキャサリンは,プロの音楽家としての道が自分の前にまさに開かれつつあったとき,音楽家としての道を捨て,全時間宣教に携わるようになりました。祖父は息子のためにこれ以上よい伴侶を考えることはできませんでした。少なくとも私はそう思っています。父はバプテスマを受け,6か月後の1931年6月に母と結婚しました。

祖父は父の音楽の才能をいつも誇りに思っていました。1946年にオハイオ州クリーブランドで開かれる国際大会のための大規模な大会オーケストラの中核をなす人たちを訓練してほしい,と父が頼まれたとき,祖父は非常に喜びました。その後何年かの間,父は,他の幾つかのエホバの証人の大会でもオーケストラを指揮しました。

祖父の裁判と刑務所生活

パタソンのロビーでポールと私は,次のページにある写真が展示されているのも見つけました。あの写真だとすぐに分かりました。祖父が50年以上前,それと同じ写真を私に送ってくれていたからです。右端に立っているのが祖父です。

愛国的な興奮に包まれた第一次世界大戦中,ものみの塔協会の会長ジョセフ・F・ラザフォード(中央に座っている)をはじめとする8人の聖書研究者が不当に投獄され,保釈も許されずに拘禁されました。8人に対する告発は,「聖書研究」の第7巻である「終了した秘義」(英語)に述べられていた事柄に集中していました。その本の述べる事柄は,米国に,第一次世界大戦への参戦を思いとどまらせようとするものだ,と間違って受け取られていました。

チャールズ・テイズ・ラッセルは,多年にわたって「聖書研究」の最初の6巻の執筆に携わりましたが,第7巻を書く前に亡くなりました。それで,ラッセルの草稿は,祖父ともう一人の聖書研究者に渡され,彼らが第7巻を執筆しました。この本は大戦が終結する前の1917年に出されました。裁判では祖父と残る7人の聖書研究者のほとんどに,同時に執行される各20年の四つの刑期が宣告されました。

パタソンのロビーにある写真には,次のような説明文が付いています。「ラザフォードとその仲間たちが判決を受けてから9か月後,すでに戦争も終わっていた1919年3月21日に,控訴裁判所は8人の被告人全員の保釈を命じ,彼らは3月26日,ブルックリンで各々1万㌦の保釈金を納めて釈放された。1920年5月5日,J・F・ラザフォードと他の人たちの嫌疑は晴れた」。

判決を言い渡されてから,ジョージア州アトランタの連邦刑務所に送られるまで,8人は最初の数日間をニューヨーク市ブルックリンのレイモンド通りにある刑務所で過ごしました。祖父はその刑務所から,縦1.8㍍横2.4㍍の「不潔で乱雑きわまりない」監房の様子を手紙に書きました。「新聞紙が山積みになっているが,最初はそれを軽く見たとしても,やがて,それらの新聞紙,石けん,そして1枚の洗面用タオルのおかげで清潔さと自尊心を保てるのだということが分かる」。

それでも祖父はユーモアのセンスを失わず,その刑務所を「オテル・ド・レイモンディー」と呼び,「ホテル代がなくなればすぐここを出るでしょう」と述べています。中庭の散歩についても書いています。ある時,髪をとかそうと思ってちょっと立ち止まったとき,懐中時計をひったくられました。でも祖父は,「鎖がちぎれたので時計は取られないで済んだ」と書いています。1958年に私がブルックリン・ベテルを訪問した際,当時ものみの塔協会の会計秘書だったグラント・スーターが私を事務所に呼んで,その時計をくださいました。今でもその時計を大切に持っています。

父に及んだ影響

1918年に祖父が不当に投獄されていたとき,父はまだ12歳でした。祖母は家を閉じ,父を連れて,祖母の母親や祖母の3人の妹たちと一緒に暮らすようになりました。祖母の旧姓はアーサーで,その一族は,親族に米国の第21代大統領チェスター・アラン・アーサーがいることを誇りにしていました。

祖父ウッドワースが国家に対する犯罪容疑で長期の刑を言い渡されると,アーサー一族は,祖父が一族の名を汚したと考えたに違いありません。父にとってそれは感情的につらい時期でした。父が公の宣教に参加するのを最初ためらったのも,一族のそのような扱いが要因だったのかもしれません。

祖父は刑務所から釈放されると,家族をスクラントンのクインシー通りに面した,化粧しっくいの大きな家に転居させました。子どもだった私は,その家のことも,祖母のすてきな陶器のこともよく覚えています。祖母はそれらの陶器をだれにも洗わせなかったので,私たちはそれらを神聖な食器と呼びました。1943年に祖母が亡くなると,母はよくその美しい食器を使ってお客さまをもてなしていました。

王国奉仕に忙しく携わる

別の日のことですが,私はパタソンの構内で,1919年のオハイオ州シーダーポイントの大会でラザフォード兄弟が講演している写真を偶然見つけました。その大会で兄弟は,神の王国を熱心に宣伝するよう,また大会で発表された「黄金時代」誌を用いるよう出席者全員を励ましました。祖父は「黄金時代」誌の編集者に指名されました。そして1940年代から亡くなる直前までずっと記事を書きました。その雑誌の名称は1937年に「慰め」誌に,1946年には「目ざめよ!」誌に改称されました。

祖父は,スクラントンの自宅と,自宅から約240㌔離れたブルックリンのものみの塔本部とに,それぞれ2週間ずついて執筆しました。父の話によると,朝の5時にタイプライターの音が聞こえてくることがよくあったとのことです。それでも祖父は,公の伝道活動に参加する責任を真剣に受け止めていました。そういえば祖父は,聖書文書を入れる大きな内ポケット付きの男性用チョッキをデザインしました。94歳になる私のおばナオミ・ハウエルは,いまだにそのチョッキを1着持っています。祖父は女性用の書籍かばんもデザインしました。

ある時,家の人と聖書について活発に話し合った後,祖父の奉仕のパートナーが,「C・J,君は一つ間違いをしたよ」と言いました。

「どんな間違いだい?」と,祖父は尋ねました。そしてチョッキを見てみましたが,ポケットは両方とも空になっていました。

「家の人に『黄金時代』の予約を勧めるのを忘れたじゃあないか」。二人は,雑誌編集者が自分の雑誌を勧めるのを忘れたということで大笑いしました。

子どものころの思い出

子どものころ私は,祖父のひざに抱かれ,小さな手を祖父の手の中に置いて,「指物語」を聞いたのを覚えています。「親指トミー」から始まって,「人差し指のピーター」に移り,それぞれの指について祖父は何か特別なことを話してくれました。それから全部の指を注意深く包み込みながら,「みんな一緒だと一番いい働きができるんだよ。それぞれが,あとのみんなを助けるからなんだ」という教訓を話してくれました。

両親は結婚後オハイオ州クリーブランドへ引っ越し,エド・フーパーとメアリー・フーパーと親しくなりました。エドとメアリーの家族はどちらも,20世紀初頭から聖書研究者でした。エドおじさんやメアリーおばさん ― 私は二人をそう呼んでいた ― は両親の無二の親友でした。フーパー夫妻は一粒種の娘を赤ちゃんだったころに亡くしていたので,1934年に私が生まれると,私は二人の大切な“娘”になりました。このような豊かな霊的環境の中で育った私は,神に献身し,8歳の誕生日が来る前にバプテスマを受けました。

聖書通読は子どものときの私の生活の一部になっていました。神の新しい世の生活を描写したイザヤ 11章6‐9節は,好きな聖句の一つでした。私が初めて聖書を読み通す努力をしたのは1944年でした。ニューヨーク州バファローの大会で「アメリカ標準訳」の特別版が発表され,それを個人用として手に入れたときからのことです。神の名エホバが「旧約聖書」のあるべき場所にほぼ7,000回復元されているこの訳を読んで,本当に感動しました。

週末は楽しい時でした。両親とフーパー夫妻は,私を田舎の伝道に連れて行ってくれたのです。お弁当を持って行き,小川のほとりで食事をしました。それからだれかの農場へ行き,隣近所の人を皆呼んで,屋外で聖書講演を行ないました。生活は簡素なものでした。でも家族が一緒にいるだけで楽しかったのです。そのころ家族ぐるみで付き合っていた友人の多くは,エド・フーパーや,ボブ・レイナーとその二人の息子のように,後に旅行する監督になりました。リチャード・レイナーは妻のリンダと共に,今でもこの奉仕を続けています。

夏はとりわけ楽しい時期でした。私はいとこたちと一緒にハウエル家の農場で過ごしました。1949年,いとこのグレースがマルコム・アレンと結婚しました。後に私が彼の弟と結婚するとは思ってもみませんでした。年下のいとこマリオンはウルグアイの宣教者でした。彼女は1966年にハワード・ヒルボーンと結婚しました。この二人のいとこは,それぞれの夫と共に長年にわたってブルックリン本部で奉仕しました。

祖父と,私の卒業

私はハイスクールに通っている間,祖父とよく手紙のやり取りをしました。祖父の手紙には,家族の古い写真がたくさん同封されていて,その裏には家族の歴史の詳細がタイプされていました。祖父と他の人たちが不当に投獄された時の写真は,そのようにして受け取りました。

1951年の末,祖父はがんのため喉頭部を取り除きました。頭の回転の良さは相変わらずでしたが,祖父は言いたいことを,携帯していた小さなメモ用紙に書かなければなりませんでした。私のクラスは2学期,つまり1952年1月に卒業することになっていました。12月上旬,私は卒業式で行なうスピーチの原稿を祖父に送りました。祖父は提案を幾つか書き,そして最後のページに,「おじいちゃんは,とてもうれしいよ」と書いてくれました。心にしみる言葉でした。祖父は1951年12月18日に81歳で地上での歩みを終えました。* 私は今でも,最後のページに祖父の言葉が書かれた卒業式の色あせたスピーチ原稿を大切に持っています。

私は卒業してすぐに開拓奉仕 ― エホバの証人は全時間の宣べ伝える業をそう呼んでいる ― を始めました。1958年には,ニューヨーク市で開かれた大規模な大会に出席しました。123か国から来た最高25万3,922人がヤンキー・スタジアムとポロ・グランドを埋め尽くしました。その大会で,ある日アフリカからの代表者に出会いましたが,身分証明のバッジには「ウッドワース・ミルズ」と書かれていました。彼は30年ほど前,祖父にちなんでその名前をつけられたのです。

遺産を受け継いで幸福

私が14歳の時,母は開拓奉仕を始めました。そして40年後の1988年に亡くなりましたが,亡くなるまで開拓者でした。父は,できるときに開拓奉仕を行なっていました。父は母より9か月先に亡くなりました。私たちと研究した人たちは,親しい生涯の友となりました。その息子たちの中には,ブルックリン本部で奉仕した人たちもいれば,開拓奉仕を始めた人もいます。

私にとって,特に1959年は特別な年です。その年にポール・アレンに紹介されたのです。ポールは1946年にギレアデ第7期のクラスを卒業し,旅行する監督に任命されました。ギレアデとはエホバの証人の宣教者を訓練する学校です。ポールと出会ったとき,二人とも,ポールの次の任命地がオハイオ州クリーブランドになるとは知りませんでした。クリーブランドで私は開拓奉仕をしていたのです。父も母もポールがとても気に入りました。私たちは1963年7月,ハウエル家の農場で,家族に囲まれ,エド・フーパーに式を執り行なってもらい,結婚しました。まさに夢がかなったのです。

ポールは車を持ったことがありませんでした。次の任命地に向けてクリーブランドを後にしたとき,私たちの財産は,私の1961年型フォルクスワーゲンの“かぶと虫”の中に全部収まりました。私たちが次の会衆へ移動する月曜日には,友達がよく立ち寄って,荷物の積み込みを見ていました。スーツケースや手提げかばん,ファイル・ボックス,タイプライターなどが小さな車の中に消えてゆくのを見るのは,まるでサーカスの曲芸を見るようなものだったのです。

ポールと私は計算できないほど長い距離を車で走り,生活が順調なときは楽しみ,順調でないときには忍耐しました。エホバだけが与えることのできる力によって,すべてのことを行ないました。エホバへの愛,互いに対する愛,古くからの友や新しい友への愛に満たされた幸福な年月でした。ポールが訓練を受けるためにパタソンで過ごした2か月間は,私たちのこれまでの人生の中でとりわけすばらしい時期でした。エホバの地上の組織を間近で見ると,大切な霊的遺産の一部として私が受け継いだ,これこそ神の組織であるという確信を再確認することができました。その組織のほんの一部であることさえ,何という大きな喜びなのでしょう。

[脚注]

「ものみの塔」誌(英語),1952年2月15日号,128ページをご覧ください。

[25ページの図版]

1941年のセントルイス大会直前のエド・フーパーと私。この大会で「子供たち」という本を受け取った

[26ページの図版]

祖父。1948年

[26ページの図版]

両親(円内)が結婚した時。ハウエル家の農場で

[27ページの図版]

1918年に不当に投獄された8人の聖書研究者(右端に立っているのが祖父)

[29ページの図版]

私たちの財産は全部フォルクスワーゲンに収まった

[29ページの図版]

夫のポールと共に

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