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エホバに近づきなさい
近 第29章 290–299ページ
イエスが思いやり深い表情をしている。

第29章

「キリストの愛あいを知しる」

1-3. (ア)イエスがお父とうさんのようでありたいと願ねがっているのはどうしてですか。(イ)これからイエスの愛あいのどんな面めんについて考かんがえますか。

何なんでもお父とうさんと同おなじようにしようとする男おとこの子こを見みたことがありますか。その子こはお父とうさんの歩あるき方かたや話はなし方かた,しぐさなどをまねるかもしれません。やがて,父ちち親おやと同おなじ道どう徳とく観かんや信しん仰こう心しんも持もつようになることでしょう。お父とうさんのことが大だい好すきで,尊そん敬けいしているので,自じ分ぶんもお父とうさんのようになりたいと思おもうのです。

2 では,イエスは天てんの父ちちについてどう思おもっているでしょうか。イエスは「父ちちを愛あいしている」と言いいました。(ヨハネ 14:31)エホバに最さい初しょに創そう造ぞうされ,非ひ常じょうに長ながい間あいだずっとエホバと一いっ緒しょに過すごしてきたイエスは,誰だれよりもエホバを愛あいしています。だからこそ,いつでもお父とうさんのようでありたいと強つよく願ねがっています。(ヨハネ 14:9)

3 この本ほんの中なかでこれまでに取とり上あげたように,イエスはエホバの力ちから,公こう正せい,知ち恵えに完かん璧ぺきに倣ならいました。では,愛あいについてはどうでしょうか。イエスの愛あいの3つの面めんを考かんがえましょう。イエスはエホバの愛あいに倣ならって自じ己こ犠ぎ牲せいを払はらい,優やさしい思おもいやりを示しめし,人ひとを快こころよく許ゆるしました。

「これより大おおきな愛あいはありません」

4. イエスが行おこなったどんなことに,自じ己こ犠ぎ牲せい的てきな愛あいが一いち番ばんよく表あらわれていますか。

4 イエスは,自じ己こ犠ぎ牲せい的てきな愛あいの際きわ立だった手て本ほんです。自じ己こ犠ぎ牲せい的てきな愛あいがある人ひとは,人ひとを心こころから気き遣づかい,自じ分ぶんのことを後あと回まわしにして人ひとのためになることをします。イエスはそういう愛あいをどのように示しめしたでしょうか。自じ分ぶんで語かたった,「友とものために自じ分ぶんの命いのちをなげうつこと,これより大おおきな愛あいはありません」という言こと葉ばの通とおりにしました。(ヨハネ 15:13)イエスは全ぜん人じん類るいのために自じ分ぶんの完かん全ぜんな命いのちを快こころよく差さし出だしました。それよりも大おおきな愛あいを表あらわした人ひとは誰だれもいません。そして,イエスが自じ己こ犠ぎ牲せい的てきな愛あいを表あらわしたのはその時ときだけではありませんでした。

5. 神かみの独ひとり子ごが天てんを離はなれることによって大おおきな犠ぎ牲せいを払はらったと言いえるのはどうしてですか。

5 神かみの独ひとり子ごは人にん間げんになる前まえ,天てんで特とく別べつな高たかい立たち場ばにいました。エホバや大おお勢ぜいの天てん使したちといつも一いっ緒しょに過すごしていました。しかし,そのような居い心ごこ地ちの良よい環かん境きょうを後あとにし,「全すべてを捨すてて奴ど隷れいのようになり,人にん間げんになりました」。(フィリピ 2:7)「邪じゃ悪あくな者ものの支し配はい下かに」ある世せ界かいで罪つみ深ぶかい人にん間げんに囲かこまれて生せい活かつすることになるにもかかわらず,喜よろこんでやって来きたのです。(ヨハネ第だい一いち 5:19)神かみの子こは人にん間げんを深ふかく愛あいしていたので,そのような大おおきな犠ぎ牲せいを払はらいました。

6-7. (ア)イエスが地ち上じょうで伝でん道どうを行おこなっていた間あいだ,生いき方かたのどんな面めんに自じ己こ犠ぎ牲せい的てきな愛あいが表あらわれていましたか。(イ)イエスの自じ己こ犠ぎ牲せい的てきな愛あいのどんな感かん動どう的てきな例れいがヨハネ 19章しょう25-27節せつに書かかれていますか。

6 地ち上じょうで伝でん道どうを行おこなっていた間あいだのイエスの生いき方かたにも自じ己こ犠ぎ牲せい的てきな愛あいが表あらわれていました。イエスはいつも自じ分ぶんのことより人ひとのことを考かんがえ,ひたすら伝でん道どうを行おこないました。人ひと並なみの暮くらしをしたいとさえ考かんがえませんでした。「キツネには穴あながあり,鳥とりには巣すがありますが,人ひとの子こには自じ分ぶんの家いえがありません」と言いっています。(マタイ 8:20)イエスは腕うでの良よい大だい工くだったので,少すこし伝でん道どうを休やすんで自じ分ぶんのために快かい適てきな家いえを建たてたり,質しつの良よい家か具ぐを作つくってお金かねを稼かせいだりすることもできたはずです。でも,良よい生せい活かつを送おくるために自じ分ぶんの技ぎ術じゅつを使つかうことはしませんでした。

7 イエスの自じ己こ犠ぎ牲せい的てきな愛あいの感かん動どう的てきな例れいが,ヨハネ 19章しょう25-27節せつに書かかれています。イエスは亡なくなる直ちょく前ぜん,気き掛がかりなことがたくさんあったに違ちがいありません。杭くいに掛かけられて苦くるしみながら,弟で子したちのことや伝でん道どう活かつ動どうのこと,また特とくに,自じ分ぶんが忠ちゅう誠せいを貫つらぬけるか,天てんの父ちちの名めい誉よが傷きずつかないか,ということを心しん配ぱいしていました。人じん類るい全ぜん体たいの将しょう来らいが自じ分ぶんに懸かかっていることも知しっていました。そういう中なかで,イエスは母はは親おやのマリアのことを気き遣づかいました。その時ときマリアはすでに夫おっとを亡なくしていたようです。イエスはマリアの世せ話わを使し徒とヨハネに託たくし,マリアを実じつの母はは親おやのように大たい切せつにしてほしいと頼たのみました。ヨハネはそれに応こたえてマリアを自じ分ぶんの家いえに引ひき取とりました。そのようにしてイエスは,母はは親おやが生せい活かつ面めんや信しん仰こう面めんでのケアを受うけられるようにしたのです。人ひとのことを思おもいやる優やさしい愛あいがよく伝つたわってきます。

「かわいそうに思おもった」

8. 「かわいそうに思おもった」と訳やくされているギリシャ語ごから,イエスの思おもいやりについてどんなことが分わかりますか。

8 イエスは天てんの父ちちと同おなじように思おもいやりにあふれていました。聖せい書しょによると,イエスは苦くるしんでいる人ひとたちを見みて「かわいそうに思おもい」,何なんとしても助たすけたいと思おもいました。「かわいそうに思おもった」と訳やくされているギリシャ語ごについて,ある聖せい書しょ学がく者しゃはこう述のべています。「その言こと葉ばは……人ひとをその存そん在ざいのまさに最さい奥おうまで動うごかす感かん情じょうを描びょう写しゃしている。ギリシャ語ごで,同どう情じょう心しんを意い味みする最もっとも強つよい言こと葉ばである」。では,イエスが人ひとを深ふかく思おもいやって行こう動どうした例れいを幾いくつか考かんがえてみましょう。

9-10. (ア)イエスと使し徒とたちが静しずかな場ば所しょに行いきたいと思おもったのはどうしてですか。(イ)待まち構かまえていた群ぐん衆しゅうにイエスはどう接せっしましたか。どうしてですか。

9 神かみの導みちびきを必ひつ要ようとしている人ひとたちを教おしえた。マルコ 6章しょう30-34節せつを読よむと,イエスが特とくにどんな人ひとたちをかわいそうに思おもったかが分わかります。その時ときのことを想そう像ぞうしてみましょう。使し徒とたちは伝でん道どう旅りょ行こうを終おえたばかりで興こう奮ふんしています。イエスの所ところに戻もどり,見み聞ききしたことを生いき生いきと報ほう告こくします。ところが,大おお勢ぜいの人ひとが集あつまってきたので,イエスと使し徒とたちは食しょく事じをする時じ間かんもありません。イエスは使し徒とたちが疲つかれていることに目めざとく気き付づき,「さあ,一いっ緒しょに静しずかな場ば所しょに行いって,少すこし休やすみなさい」と言いいます。一いっ行こうは舟ふねに乗のり,ガリラヤ湖この北ほく部ぶを渡わたって静しずかな場ば所しょに向むかいます。しかし,それを見みていた群ぐん衆しゅうがほかの人ひとたちにも知しらせ,皆みなで湖みずうみの北ほく岸がんに沿そって走はしり,舟ふねより先さきに対たい岸がんに着ついてしまいます。

10 イエスは,これでは休やすめないと考かんがえていら立だったでしょうか。そのようなことは全まったくありませんでした。自じ分ぶんを待まっている何なん千ぜん人にんもの人ひとたちを見みて,深ふかい同どう情じょうを覚おぼえました。マルコはこう書かいています。「イエスは……大おお勢ぜいの人ひとを見みて,かわいそうに思おもった。羊ひつじ飼かいのいない羊ひつじのようだったからである。そして,多おおくのことを教おしえ始はじめた」。イエスはそこに集あつまっていた一人ひとり一人ひとりが神かみの導みちびきを必ひつ要ようとしていることを見みて取とりました。その人ひとたちは,導みちびいたり守まもったりしてくれる羊ひつじ飼かいがいないためにさまよう羊ひつじのようでした。本ほん来らいは優やさしい牧ぼく者しゃになってくれるはずの宗しゅう教きょう指し導どう者しゃたちから,冷つめたくあしらわれていたのです。(ヨハネ 7:47-49)それでイエスはぜひとも助たすけになりたいと思おもい,「神かみの王おう国こくについて」教おしえ始はじめました。(ルカ 9:11)イエスが人ひと々びとを教おしえる前まえから思おもいやっていたことに注ちゅう目もくできます。教おしえに耳みみを傾かたむける人ひとたちだけに優やさしい思おもいやりを示しめしたのではなく,最さい初しょから深ふかい同どう情じょう心しんがあったことがよく分わかります。

イエスが重い皮膚病の人を思いやり,手を伸ばして触れている。周りの人たちは嫌悪感を示し,近寄ろうとしない。

「イエスは手てを伸のばして男だん性せいに触さわ[った]」

11-12. (ア)1世せい紀きのユダヤで,重おもい皮ひ膚ふ病びょうの人ひとはどのような扱あつかいを受うけていましたか。でもイエスは,「全ぜん身しん重おもい皮ひ膚ふ病びょうの」男だん性せいが近ちかづいてきた時とき,どうしましたか。(イ)ある博はく士しの経けい験けんについて考かんがえると,イエスに触ふれてもらった人ひとはどう感かんじたに違ちがいありませんか。

11 苦くるしんでいる人ひとたちを癒いやした。いろいろな病びょう気きの人ひとたちが,イエスが思おもいやり深ぶかいことを感かんじ取とり,イエスのそばに行いきたいと思おもいました。ある時ときには,「全ぜん身しん重おもい皮ひ膚ふ病びょうの」男だん性せいが,群ぐん衆しゅうに囲かこまれているイエスに近ちかづきました。(ルカ 5:12)モーセの律りっ法ぽうの下もとでは,病びょう気きが伝でん染せんしないように,そのような人ひとは隔かく離りされることになっていました。(民みん数すう記き 5:1-4)後のちに,ラビと呼よばれる指し導どう者しゃたちが独どく自じの厳きびしい規き則そくを設もうけたため,その病びょう気きの人ひとたちへの偏へん見けんや差さ別べつが広ひろまりました。a しかし,イエスは病びょう気きの男だん性せいにどう接せっしたでしょうか。こう書かかれています。「重おもい皮ひ膚ふ病びょうの男だん性せいがイエスの所ところに来きて,ひざまずいて嘆たん願がんし,『あなたは,お望のぞみになるだけで,私わたしを癒いやすことができます』と言いった。イエスはかわいそうに思おもい,手てを伸のばして男だん性せいに触さわり,『そう望のぞみます。良よくなりなさい』と言いった。すぐに病びょう気きは消きえ,男だん性せいは良よくなった」。(マルコ 1:40-42)イエスは,律りっ法ぽうによればその人ひとはそこにいるべきではないと知しっていました。それでも,その人ひとを去さらせたりせず,深ふかい同どう情じょうの気き持もちから,当とう時じでは考かんがえられないようなことをしました。その人ひとに触ふれたのです。

12 イエスに触ふれてもらった人ひとはどう感かんじたと思おもいますか。それをイメージするのに役やく立だつ現げん代だいの例れいがあります。ハンセン病びょうの専せん門もん家かであるポール・ブランド博はく士しが,インドである患かん者じゃを治ち療りょうした時ときのことです。診しん察さつの時とき,博はく士しは患かん者じゃの若わかい男だん性せいの肩かたに手てを置おき,通つう訳やくを介かいして,その人ひとが受うけることになる治ち療りょうについて説せつ明めいしました。すると突とつ然ぜん,その患かん者じゃは泣なき出だしました。博はく士しは,「何なにか悪わるいことを言いったかな」と尋たずねます。通つう訳やく者しゃは患かん者じゃと話はなし,こう答こたえました。「いいえ,先せん生せい。この人ひとが泣ないているのは,先せん生せいがこの人ひとの肩かたに手てを置おいたからです。もう何なん年ねんもの間あいだ,誰だれも触ふれてくれなかったそうです」。イエスに近ちかづいた人ひとにとって,触ふれてもらったことにはもっと大おおきな意い味みがありました。一いち度ど触ふれられただけで,みんなから避さけられる原げん因いんとなっていた病びょう気きから解かい放ほうされたのです。

13-14. (ア)イエスはナインという町まちに着ついた時とき,どんな行ぎょう列れつを目めにしましたか。それが特とくに気きの毒どくな状じょう況きょうだったのはどうしてですか。(イ)イエスはやもめに深ふかく同どう情じょうして何なにをしましたか。

13 悲かなしみに暮くれる人ひとたちを慰なぐさめた。イエスは悲かなしんでいる人ひとに深ふかく同どう情じょうしました。一いち例れいとして,ルカ 7章しょう11-15節せつに書かかれている出で来き事ごとについて考かんがえましょう。イエスが伝でん道どうを始はじめて1年ねん半はんほどたち,ガリラヤ地ち方ほうのナインという町まちに着ついた時ときのことです。町まちの門もんの近ちかくで,イエスは葬そう式しきの行ぎょう列れつを目めにします。亡なくなったのはやもめの女じょ性せいの一人ひとり息子むすこという,特とくに気きの毒どくな状じょう況きょうでした。その女じょ性せいは,以い前ぜんに夫おっとが亡なくなった時ときにもそのような葬そう式しきをしたはずです。そして今こん度どは,おそらく唯ゆい一いつ頼たよりにしていたであろう息子むすこを失うしなってしまいました。行ぎょう列れつには,雇やとわれて嘆なげき悲かなしむ人ひとたちや,物もの悲がなしい曲きょくを演えん奏そうする人ひとたちも加くわわっていたかもしれません。(エレミヤ 9:17,18。マタイ 9:23)イエスは,悲かなしみに打うちのめされている母はは親おやに目めを留とめます。母はは親おやは息子むすこの遺い体たいを載のせた台だいの隣となりを歩あるいていたことでしょう。

14 イエスは,息子むすこに先さき立だたれた母はは親おやを「かわいそうに思おもい」,優やさしい口く調ちょうで「泣なくことはありません」と言いいます。そして,遺い体たいを載のせた台だいに近ちかづいて触さわります。台だいを担かついでいた人ひとたちは立たち止どまり,おそらく行ぎょう列れつ全ぜん体たいも止とまったことでしょう。イエスは遺い体たいに向むかって威い厳げんのある声こえで,「若わか者ものよ,さあ,起おき上あがりなさい!」と言いいます。すると,死しんでいた若わか者ものは,まるで深ふかい眠ねむりから覚さめたかのように「体からだを起おこして話はなし始はじめ,イエスは息子むすこを母はは親おやに渡わたし」ます。本ほん当とうに感かん動どう的てきな場ば面めんだったに違ちがいありません。

15. (ア)イエスの手て本ほんから,思おもいやりと行こう動どうにはどんな関かん係けいがあることが分わかりますか。(イ)私わたしたちはどうすればイエスの手て本ほんに見み習ならえますか。

15 これらの出で来き事ごとから,どんなことが分わかるでしょうか。どの場ば合あいにも,イエスは思おもいやりの気き持もちから行こう動どうしました。つらい思おもいをしている人ひとを見みるとかわいそうに思おもい,何なにかをせずにはいられなかったのです。私わたしたちはどうすればイエスの手て本ほんに見み習ならえるでしょうか。クリスチャンには,良よい知しらせを伝つたえて人ひと々びとを弟で子しとするという責せき任にんがあります。私わたしたちがその務つとめを果はたすのは,主おもに神かみを愛あいしているからですが,人ひと々びとを思おもいやっているからでもあります。イエスのように人ひとを深ふかく思おもいやると,できる限かぎりのことをして良よい知しらせを伝つたえたくなります。(マタイ 22:37-39)つらい経けい験けんをしている兄きょう弟だい姉し妹まいには,どのように思おもいやりを示しめせるでしょうか。当とう然ぜん,奇き跡せきによって病びょう気きを治なおしたり亡なくなった人ひとを生いき返かえらせたりすることはできませんが,仲なか間まのために行おこなえることはいろいろあります。気きに掛かけていることを伝つたえたり,助たすけになることをしてあげたりできるでしょう。(エフェソス 4:32)

「父ちちよ,彼かれらをお許ゆるしください」

16. イエスは苦くるしみの杭くいに掛かけられた時ときでさえ,どのように人ひとを快こころよく許ゆるしましたか。

16 イエスは,人ひとを「快こころよく許ゆる[す]」という面めんでもエホバの愛あいに完かん璧ぺきに倣ならいました。(詩し編へん 86:5)苦くるしみの杭くいに掛かけられた時ときでさえそうでした。屈くつ辱じょく的てきな刑けいに処しょされ,手て足あしにくぎを打うち込こまれたイエスは,何なんと言いったでしょうか。刑けい執しっ行こう人にんたちを罰ばっしてくださいとエホバに頼たのみましたか。全まったくその逆ぎゃくで,死しを目もく前ぜんにしてもこう言いいました。「父ちちよ,彼かれらをお許ゆるしください。自じ分ぶんたちが何なにをしているのか知しらないのです」。(ルカ 23:34)b

17-19. イエスなど知しらないと3回かい言いったペテロを許ゆるしていることを,イエスはどのように示しめしましたか。

17 イエスが人ひとを快こころよく許ゆるしたさらに感かん動どう的てきな例れいとして,使し徒とペテロのことを考かんがえてみましょう。ペテロはイエスを深ふかく愛あいしていました。ニサン14日か,イエスが亡なくなる前まえの最さい後ごの晩ばんに,ペテロはイエスにこう言いいました。「主しゅよ,私わたしはあなたと牢ろう屋やに入はいることも死しぬことも覚かく悟ごしています」。ところが,わずか数すう時じ間かん後ごに,ペテロは3回かいもイエスなど知しらないと言いってしまいました。聖せい書しょによれば,ペテロが3回かい目めにそう言いった時とき,「主しゅイエスが振ふり向むいてペテロを真まっすぐに見み」ました。ペテロは重じゅう大だいな罪つみを犯おかしてしまったことに気き付づいて打うちのめされ,「外そとに出でて激はげしく泣な」きます。その日ひの後ご刻こくにイエスが亡なくなった時とき,ペテロは「主しゅは私わたしを許ゆるしてくださっただろうか」と考かんがえたことでしょう。(ルカ 22:33,61,62)

18 ペテロの心こころのもやもやは,間まもなく晴はれることになります。イエスはニサン16日にちの朝あさに生いき返かえらされ,おそらくその日ひのうちにペテロに会あいに行いきました。(ルカ 24:34。コリント第だい一いち 15:4-8)イエスなど知しらないと言いい切きったこの使し徒とを,イエスが特とく別べつに気き遣づかったのはどうしてでしょうか。悔くい改あらためたペテロに,今いまでも愛あいし大たい切せつに思おもっているということを伝つたえたかったのでしょう。イエスがペテロを安あん心しんさせるために行おこなったことは,ほかにもあります。

19 しばらく後のちに,ガリラヤ湖こで弟で子したちの前まえに現あらわれた時ときのことです。イエスなど知しらないと3回かい言いったペテロに対たいして,イエスは「私わたしを愛あいしていますか」と3回かい尋たずねました。3回かい目めに,ペテロはこう答こたえました。「主しゅよ,あなたは全すべて分わかっています。私わたしがあなたに愛あい情じょうを抱いだいていることを知しっています」。確たしかに,イエスはペテロの心こころを読よむことができたので,自じ分ぶんへの愛あい情じょうがあることはよく分わかっていました。それでもペテロに,イエスを愛あいしているとはっきり言いう機き会かいを与あたえたのです。それだけでなくイエスは,自じ分ぶんの「小ちいさな羊ひつじ」を「養やしない」,「世せ話わ」するという務つとめも与あたえました。(ヨハネ 21:15-17)それより前まえに,伝でん道どうするという仕し事ごとをすでにペテロに与あたえていました。(ルカ 5:10)でもこのたびは,深ふかい信しん頼らいの表あらわれとして,キリストの弟で子しになる人ひとたちを世せ話わするといういっそう重おもい責せき任にんを委ゆだねたのです。少すこし後あとには,ペテロが弟で子したちの中なかで重じゅう要ような役やく割わりを果はたすようにもしました。(使し徒と 2:1-41)ペテロは,自じ分ぶんがイエスに許ゆるされ,変かわらず信しん頼らいしてもらえていることが分わかって,どんなにかほっとしたことでしょう。

「キリストの愛あいを知しる」にはどうしたらよいか

20-21. キリストの愛あいを十じゅう分ぶんに知しるにはどうしたらいいですか。

20 聖せい書しょを読よむと,キリストの愛あいの素す晴ばらしさに感かん動どうします。では,私わたしたちはどうしたらよいでしょうか。聖せい書しょは,「知ち識しき以い上じょうのものであるキリストの愛あいを知しる」ようにと勧すすめています。(エフェソス 3:19)すでに考かんがえた通とおり,イエスの生しょう涯がいや伝でん道どうについて書かかれている福ふく音いん書しょを読よむと,キリストの愛あいについて多おおくのことが分わかります。でも,キリストの愛あいを十じゅう分ぶんに知しるには,イエスについて聖せい書しょに書かかれていることを学まなぶ以い上じょうのことが必ひつ要ようです。

21 「知しる」と訳やくされているギリシャ語ごには,「経けい験けんを通とおして」知しるとか,「実じっ践せんすることによって」知しるという意い味みがあります。ですから,私わたしたちはイエスと同おなじように愛あいを示しめす必ひつ要ようがあります。自じ己こ犠ぎ牲せいを払はらって人ひとのためになることをし,つらい思おもいをしている人ひとに優やさしい思おもいやりを示しめし,人ひとを快こころよく許ゆるしましょう。そうすれば,イエスがどんな気き持もちで愛あいを表あらわしたかを,身みをもって理り解かいできます。そのようにして自じ分ぶんの経けい験けんを通とおして,「知ち識しき以い上じょうのものであるキリストの愛あいを知しる」ことができるのです。そして,私わたしたちがキリストのようになればなるほど,イエスが完かん璧ぺきに見み習ならった愛あい情じょう深ぶかい神かみエホバとの絆きずなが強つよまっていきます。

a ラビたちが作つくった規き則そくによると,重おもい皮ひ膚ふ病びょうの人ひとからは少すくなくとも2㍍ほど離はなれていなければなりませんでした。風かぜが吹ふいているときには,最さい低ていでも50㍍ほど離はなれることが求もとめられていました。「ミドラシュ・ラバ」という書しょ物もつには,この病びょう気きの人ひとから身みを隠かくしたラビや,石いしを投なげて追おい払はらおうとしたラビがいたと書かかれています。重おもい皮ひ膚ふ病びょうの人ひとたちはそのように嫌きらわれてのけ者ものにされ,つらく感かんじていました。

b 古ふるい写しゃ本ほんの中なかには,このイエスの言こと葉ばが省はぶかれているものもあります。しかし,他たの多おおくの信しん頼らいできる写しゃ本ほんには書かかれているので,「新しん世せ界かい訳やく」を含ふくむ多おおくの翻ほん訳やく聖せい書しょはこの言こと葉ばを訳やく出しゅつしています。イエスは,自じ分ぶんを杭くいに掛かけたローマ兵へいのことを言いっていたようです。その兵へい士したちはイエスがどういう人じん物ぶつなのかを分わかっておらず,自じ分ぶんたちがしていることの重じゅう大だいさを理り解かいしていませんでした。イエスが許ゆるしたいと思おもった人ひとたちの中なかには,イエスの処しょ刑けいを求もとめたものの,後のちにイエスに信しん仰こうを持もったユダヤ人じんたちもいたかもしれません。(使し徒と 2:36-38)一いっ方ぽう,イエスの処しょ刑けいをたくらんだ宗しゅう教きょう指し導どう者しゃたちのほとんどは,許ゆるされる余よ地ちがありませんでした。イエスがメシアだと気き付づいていながら,悪あく意いを抱いだいて行こう動どうしていたからです。(ヨハネ 11:45-53)

じっくり考かんがえたいこと

  • マタイ 9:35-38 イエスは主おもにどのようにして人ひとに思おもいやりを示しめしましたか。そのことを考かんがえると,どうしたいという気き持もちになりますか。

  • ヨハネ 13:34,35 キリストの愛あいに見み習ならうことが大たい切せつなのはどうしてですか。

  • ローマ 15:1-6 どうすればキリストの自じ己こ犠ぎ牲せい的てきな愛あいに倣ならえますか。

  • コリント第だい二に 5:14,15 キリストの犠ぎ牲せいに感かん謝しゃしていると,どんな見み方かたや目もく標ひょうを持もち,どんな生いき方かたをしたいという気き持もちになりますか。

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