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「来て,私の弟子になりなさい」
追 第6章 56–65ページ

第6章

「キリストは……従じゅう順じゅんを学まなびました」

1-2. 愛あい情じょう深ぶかい父ちち親おやが,息子むすこが言いい付つけを守まもるのを見みてうれしく思おもうのはどうしてですか。エホバはどんな点てんでこの父ちち親おやのようですか。

父ちち親おやが家いえの窓まどから,幼おさない息子むすこが庭にわで友とも達だちと遊あそんでいる様よう子すを見みています。ボールが弾はずんで道どう路ろに転ころがっていってしまい,息子むすこはそれをじっと見みています。友とも達だちから「取とってきなよ」と言いわれますが,息子むすこは首くびを振ふり,「道どう路ろに出でちゃだめなんだ」と言いいます。父ちち親おやはにっこりほほ笑えみます。

2 父ちち親おやがうれしく思おもったのはどうしてでしょうか。1人ひとりで道どう路ろに出でてはいけないという言いい付つけを息子むすこが守まもったからです。息子むすこは父ちち親おやが見みているとは知しりませんでしたが,言いわれた通とおりにしました。従じゅう順じゅんであることの大たい切せつさを理り解かいしていて,危き険けんを避さけることができたのです。この父ちち親おやと同おなじように,私わたしたちの天てんの父ちちエホバも,私わたしたちが従じゅう順じゅんだとうれしく感かんじます。私わたしたちに,忠ちゅう実じつであり続つづけて将しょう来らいの素す晴ばらしい祝しゅく福ふくを味あじわってほしいと思おもっています。それで私わたしたちは,エホバを信しん頼らいして従したがうことを学まなぶ必ひつ要ようがあります。(格かく言げん 3:5,6)そんな私わたしたちのために,エホバは最さい高こうの先せん生せいを遣つかわしてくれました。

3-4. イエスが「従じゅう順じゅんを学まなび」,「完かん全ぜんにされた」とはどういうことですか。

3 聖せい書しょには,イエスについて次つぎの興きょう味み深ぶかいことが書かかれています。「キリストは神かみの子こであったにもかかわらず,苦くるしんだ事こと柄がらから従じゅう順じゅんを学まなびました。そして,完かん全ぜんにされた後のち,自じ分ぶんに従したがう人ひと全すべてに永えい遠えんの救すくいをもたらす方かたになりました」。(ヘブライ 5:8,9)神かみの子こは非ひ常じょうに長ながい間あいだ,天てんにいました。サタンと他たの反はん逆ぎゃく的てきな天てん使したちが神かみに背そむくのを見みましたが,初はつ子ごであるイエスは決けっして彼かれらに加くわわりませんでした。預よ言げんの通とおり,「反はん抗こう的てきでは……なかった」のです。(イザヤ 50:5)では,ずっと従じゅう順じゅんだったイエスが「従じゅう順じゅんを学まな」んだと言いわれているのはどうしてでしょうか。もともと完かん全ぜんなのに,「完かん全ぜんにされた」とはどういうことでしょうか。

4 例たとえで考かんがえてみましょう。兵へい士しが鉄てつの剣つるぎを持もっています。完かん璧ぺきな仕し上あがりですが,まだ戦せん闘とうで使つかわれたことはありません。兵へい士しは鉄てつの剣つるぎを鍛きたえて,もっと強つよい鋼はがねの剣つるぎにします。その鋼はがねの剣つるぎは戦せん闘とうで使つかわれても折おれ曲まがることなく,強つよさが実じっ証しょうされます。同おなじように,イエスは地ち上じょうに来くる前まえにも完かん璧ぺきな従じゅう順じゅんを示しめしていましたが,地ち上じょうで経けい験けんした事こと柄がらによって従じゅう順じゅんの質しつがより高たかいものになりました。天てんでは遭あうことのなかった試し練れんによって従じゅう順じゅんが試ためされ,いわば鍛きたえられて,イエスがどんな状じょう況きょうでも神かみに従したがい通とおすことが完かん全ぜんに実じっ証しょうされたのです。

5. イエスが従じゅう順じゅんであることが欠かかせなかったのはどうしてですか。この章しょうではどんなことを考かんがえますか。

5 イエスが地ち上じょうでの使し命めいを果はたすには,従じゅう順じゅんが欠かかせませんでした。イエスは「最さい後ごのアダム」として,最さい初しょの人にん間げんアダムができなかったことを行おこなうために地ち上じょうに来きました。試し練れんに遭あってもエホバ神かみに従したがい続つづけるということです。(コリント第だい一いち 15:45)イエスは単たんなる義ぎ務む感かんから従じゅう順じゅんだったわけではありません。知ち力りょくを尽つくし,心こころを尽つくし,自じ分ぶんの全すべてを尽つくして喜よろこんで従したがいました。天てんの父ちちの望のぞむことを行おこなうのは,イエスにとって食しょく事じをすることよりも重じゅう要ようでした。(ヨハネ 4:34)どうしたらイエスのように従じゅう順じゅんでいられるでしょうか。まず,イエスがいつもエホバに従したがえたのはどうしてか考かんがえてみましょう。イエスと同おなじ考かんがえ方かたや感かんじ方かたができれば,誘ゆう惑わくに負まけることなく神かみの望のぞむことを行おこなえます。キリストのように従じゅう順じゅんだとどんな良よいことがあるかも考かんがえます。

イエスがいつもエホバに従したがえたのはなぜか

6-7. イエスが従じゅう順じゅんだったのはどうしてですか。

6 イエスがいつもエホバに従したがえたのは,心こころの中なかが良よい状じょう態たいだったからです。第だい3章しょうで考かんがえた通とおり,イエスは心こころから謙けん遜そんでした。傲ごう慢まんな人ひとは従したがうのを嫌いやがりますが,謙けん遜そんな人ひとは喜よろこんでエホバに従したがいます。(出しゅつエジプト記き 5:1,2。ペテロ第だい一いち 5:5,6)イエスが従じゅう順じゅんだったのは,正ただしいことを愛あいし,悪わるいことを憎にくんでいたからでもあります。

7 イエスが最もっとも愛あいしていたのは,天てんの父ちちエホバです。その愛あいについては第だい13章しょうで詳くわしく取とり上あげます。その愛あいがあったからこそ,イエスは神かみを畏おそれていました。エホバをとても深ふかく愛あいし敬うやまっていたので,お父とうさんをがっかりさせるようなことはしたくないと思おもっていたのです。神かみへの畏おそれは,イエスの祈いのりが聞きき入いれられた理り由ゆうの一ひとつです。(ヘブライ 5:7)また,メシアである王おうとしてのイエスの統とう治ちの特とく徴ちょうでもあります。(イザヤ 11:3)

2人の兄弟が,暴力的な映画のポスターの前に立っている。1人は顔をしかめていて,もう1人は顔を背けて立ち去ろうとしている。

悪わるいことを憎にくんでいる人ひとは,どんなものを楽たのしむかを注ちゅう意い深ぶかく選えらぶ

8-9. 預よ言げん通どおり,イエスは正ただしいことと悪わるいことに対たいしてどんな感かん情じょうを持もっていましたか。それはどんなことに表あらわれていましたか。

8 エホバを愛あいする人ひとは,エホバが憎にくむものを憎にくみます。メシアである王おうに語かたり掛かけている次つぎのような預よ言げんの言こと葉ばがあります。「あなたは正ただしいことを愛あいし,悪わるいことを憎にくんだ。それで,あなたの神かみはあなたを任にん命めいし,あなたの仲なか間まを喜よろこばせる以い上じょうにあなたを喜よろこばせた」。(詩し編へん 45:7)イエスの「仲なか間ま」とは,ダビデ王おうの家か系けいの王おうたちのことです。それらのどの王おうよりも,イエスは任にん命めいされたことを喜よろこべます。ずっと大おおきな報むくいを受うけて,王おうとして誰だれよりもはるかに素す晴ばらしいことを行おこなうからです。イエスが報むくいを受うけるのは,正ただしいことを愛あいして悪わるいことを憎にくみ,その気き持もちからいつも神かみに従したがったからです。

9 イエスが善ぜんを愛あいし悪あくを憎にくんでいたことは,どんなことに表あらわれていたでしょうか。例たとえば,弟で子したちがイエスの指し示じ通どおりに伝でん道どうして祝しゅく福ふくを受うけた時とき,イエスは喜よろこびにあふれました。(ルカ 10:1,17,21)一いっ方ぽう,イエスが愛あい情じょう深ぶかく助たすけようとしたにもかかわらず,エルサレムの人ひとたちが繰くり返かえし不ふ従じゅう順じゅんな態たい度どを取とった時とき,イエスは涙なみだを流ながしました。その都と市しの人ひと々びとがエホバに背そむいたことを悲かなしく思おもったからです。(ルカ 19:41,42)イエスは善よい行おこないに対たいしても悪わるい行おこないに対たいしても強つよい感かん情じょうを表あらわしたのです。

10. 私わたしたちは善よい行おこないと悪わるい行おこないに対たいしてどんな気き持もちを持もつ必ひつ要ようがありますか。そのためにどうすることが大たい切せつですか。

10 イエスの感かん情じょうについて思おもい巡めぐらすと,自じ分ぶんがエホバに従したがっているのはどうしてだろうと考かんがえさせられます。私わたしたちは不ふ完かん全ぜんですが,善よい行おこないを心こころから愛あいし,悪わるい行おこないを心こころから憎にくむことができます。そのためにはエホバに祈いのり,エホバやイエスのような気き持もちを持もてるように助たすけを求もとめる必ひつ要ようがあります。(詩し編へん 51:10)同どう時じに,そうした気き持もちを弱よわめるものに気きを付つけることも大たい切せつです。どんなものを楽たのしみ,どんな人ひとと交こう友ゆうを持もつかをよく考かんがえなければいけません。(格かく言げん 13:20。フィリピ 4:8)キリストのような考かんがえ方かたや気き持もちがあれば,形かたちだけの従じゅう順じゅんを示しめすようなことはありません。私わたしたちが正ただしいことをするのは,そうしたいと心こころから思おもっているからです。悪わるい行おこないを避さけるのは,罰ばつを受うけたくないからではなく,悪わるいことを憎にくんでいるからです。

「キリストは罪つみを犯おかさ」なかった

11-12. (ア)イエスが宣せん教きょうを始はじめて間まもなく,どんなことがありましたか。(イ)サタンはまず何なんと言いってイエスを誘ゆう惑わくしましたか。どんなところにずる賢がしこさが表あらわれていますか。

11 イエスは宣せん教きょうを始はじめて間まもなく,罪つみを本ほん当とうに憎にくんでいるかどうかを試ためされることになりました。バプテスマを受うけ,荒こう野やで40日にち間かんずっと何なにも食たべずに過すごした後あと,サタンに誘ゆう惑わくされたのです。悪あく魔まが使つかった方ほう法ほうは非ひ常じょうにずる賢がしこいものでした。(マタイ 4:1-11)

12 サタンはまずこう言いいました。「神かみの子こなら,これらの石いしに,パンになるように命めいじなさい」。(マタイ 4:3)聖せい書しょによると,イエスは長ながい断だん食じきの後あとで「空くう腹ふくを感かんじ」ていました。(マタイ 4:2)サタンは,何なにかを食たべたいという自し然ぜんな欲よっ求きゅうに付つけ込こんだのです。イエスが弱よわるのを待まっていたに違ちがいありません。「神かみの子こなら」という言いい方かたも挑ちょう発はつ的てきです。サタンはイエスが「全ぜん創そう造ぞう物ぶつの中なかの初はつ子ご」であることを当とう然ぜん知しっていたからです。(コロサイ 1:15)でもイエスは,サタンの挑ちょう発はつに乗のって神かみに不ふ従じゅう順じゅんになったりはしませんでした。自じ分ぶんの欲よくを満みたすために力ちからを使つかうことを神かみが望のぞんでいないのを知しっていたので,サタンの言いう通とおりにはしませんでした。必ひつ要ようなものを与あたえて導みちびいてくれるエホバに謙けん遜そんに頼たよっていたのです。(マタイ 4:4)

13-15. (ア)サタンの2つ目めと3つ目めの誘ゆう惑わくはどういうものでしたか。イエスはどう反はん応のうしましたか。(イ)イエスが決けっして気きを緩ゆるめるわけにいかなかったのはどうしてですか。

13 サタンは次つぎに,イエスを神しん殿でんの最もっとも高たかい所ところに立たたせます。神かみの言こと葉ばを都つ合ごうのいいように当あてはめ,イエスに派は手でなパフォーマンスをさせようとします。その高たかい所ところから飛とび降おりて,天てん使したちに救すくってもらうようにと誘ゆう惑わくしたのです。神しん殿でんにいる人ひと々びとがそのような奇き跡せきを見みたら,それ以い後ごは誰だれもイエスが約やく束そくのメシアであることを疑うたがったりしないでしょう。そうなれば,イエスはいろいろな問もん題だいや苦く労ろうを避さけられるかもしれません。でもイエスは,メシアが謙けん遜そんに活かつ動どうすることをエホバが望のぞんでいると知しっていました。人ひと目めを引ひく華はな々ばなしい奇き跡せきによって人ひと々びとを信しんじさせることは,神かみの考かんがえに反はんしていました。(イザヤ 42:1,2)それで,この時ときもイエスは誘ゆう惑わくを退しりぞけ,エホバに従したがいました。人ひとの注ちゅう目もくを浴あびたいなどとは全まったく考かんがえなかったのです。

14 では,権けん力りょくには魅み力りょくを感かんじたでしょうか。サタンは3つ目めの誘ゆう惑わくとして,自じ分ぶんに1度ど崇すう拝はいの行こう為いをすれば世せ界かいの全すべての王おう国こくをあげようとイエスに言いいました。イエスはサタンが持もち掛かけてきた話はなしについて考かんがえようともせず,すぐにこう返へん答とうしました。「離はなれ去され,サタン! 『あなたが崇すう拝はいすべきなのはエホバ神かみであり,この方かただけに神しん聖せいな奉ほう仕しをしなければならない』と書かいてあるのです」。(マタイ 4:10)イエスはどんな誘ゆう惑わくを受うけても,エホバ以い外がいの神かみを崇すう拝はいしようなどとは思おもいませんでした。世よの中なかでの高たかい立たち場ばや権けん力りょくを与あたえると言いわれても,神かみの考かんがえに反はんすることは一いっ切さいしなかったのです。

15 サタンは諦あきらめたでしょうか。その時ときはイエスに命めいじられた通とおり引ひき下さがりましたが,ルカの福ふく音いん書しょにあるように,「別べつの都つ合ごうの良よい時ときまでイエスから離はなれた」にすぎませんでした。(ルカ 4:13)サタンはイエスが地ち上じょうにいた間あいだずっと,イエスを誘ゆう惑わくするチャンスをうかがっていたのです。聖せい書しょには,イエスが「あらゆる点てんで……試ためされ」たと書かかれています。(ヘブライ 4:15)それでイエスは決けっして気きを緩ゆるめるわけにはいきませんでした。私わたしたちも同おなじです。

16. 今いまの時じ代だいにサタンは,神かみに仕つかえる人ひとたちをどのように誘ゆう惑わくしていますか。どうすればサタンの誘ゆう惑わくに抵てい抗こうできますか。

16 今いまでもサタンは神かみに仕つかえる人ひとたちを誘ゆう惑わくしています。私わたしたちは不ふ完かん全ぜんなので,サタンにとって格かっ好こうの標ひょう的てきです。サタンは私わたしたちが持もつ身しん体たい的てきな欲よっ求きゅう,自じ己こ顕けん示じ欲よく,権けん力りょく欲よくに付つけ込こんできます。そうした欲よっ求きゅう全すべてに訴うったえて,お金かねや物ものを重じゅう視しさせようと働はたらき掛かけてくることもあります。それで時とき々どき時じ間かんを取とって,自じ分ぶんを見みつめ直なおすことは大たい切せつです。ヨハネ第だい一いち 2章しょう15-17節せつを読よんで考かんがえてみましょう。この世よの中なかにあふれている罪つみ深ぶかい欲よく望ぼう,もっとお金かねや物ものが欲ほしいと思おもう気き持もち,人ひとから一いち目もく置おかれたいという気き持もちによって,天てんの父ちちへの愛あいが弱よわまっていないでしょうか。この世せ界かいも支し配はい者しゃであるサタンも終おわりに向むかっている,ということを忘わすれないでください。サタンがどれほどずる賢がしこく私わたしたちに罪つみを犯おかさせようとしてきても,それに抵てい抗こうしましょう。決けっして「罪つみを犯おかさ」なかったイエスにぜひとも見み習ならいたいものです。(ペテロ第だい一いち 2:22)

「私わたしは常つねに,その方かたが喜よろこぶことを行おこなう」

17. イエスは天てんの父ちちに従したがうことについてどう感かんじていましたか。どんなふうに思おもう人ひともいますか。

17 従じゅう順じゅんであるとは,罪つみを犯おかさないというだけのことではありません。キリストはいつも天てんの父ちちに命めいじられた通とおりに行こう動どうしました。「私わたしは常つねに,その方かたが喜よろこぶことを行おこなう」と言いっています。(ヨハネ 8:29)そのように神かみに従したがうことから大おおきな喜よろこびを感かんじていました。でもイエスにとって従じゅう順じゅんであることは私わたしたちほど難むずかしくなかっただろう,と思おもう人ひともいるかもしれません。イエスは完かん全ぜんな方かたであるエホバに従したがっていればよかったが,私わたしたちは不ふ完かん全ぜんな人にん間げんにも従したがわなければならない,と考かんがえるのです。しかし,聖せい書しょを読よむと,イエスも不ふ完かん全ぜんな人にん間げんに従したがっていたことが分わかります。

18. 若わかい時ときのイエスの手て本ほんから,従じゅう順じゅんについてどんなことが学まなべますか。

18 イエスはヨセフとマリアの子ことして生うまれ,不ふ完かん全ぜんな人にん間げんであるその2人ふたりに育そだてられました。普ふ通つうの子こ供ども以い上じょうに,両りょう親しんの短たん所しょに気き付づいたことでしょう。では,イエスは親おやに反はん抗こうしたり,親おやのやり方かたに口くちを出だしたりしたでしょうか。全まったくそんなことはありませんでした。ルカ 2章しょう51節せつには,12歳さいのイエスが「その後ごも両りょう親しんに従したがっていた」と書かかれています。いつも親おやに従じゅう順じゅんだったイエスは,若わかいクリスチャンにとって素す晴ばらしい手て本ほんです。努ど力りょくが要いるとしても親おやに従したがい敬けい意いを示しめすべきことが学まなべます。(エフェソス 6:1,2)

19-20. (ア)イエスはどんな難むずかしい状じょう況きょうの中なかで不ふ完かん全ぜんな人にん間げんに従したがいましたか。(イ)現げん代だいの本ほん物もののクリスチャンが,教おしえ導みちびいている人ひとたちに従したがうべきなのはどうしてですか。

19 イエスは崇すう拝はいの面めんでも不ふ完かん全ぜんな人にん間げんに従したがいました。現げん代だいの本ほん物もののクリスチャンは直ちょく面めんすることがない,どんな難むずかしい問もん題だいがあったか考かんがえてみましょう。当とう時じはエルサレムに神しん殿でんがあり,祭さい司したちがいました。そこを中ちゅう心しんとする崇すう拝はいは長ながい間あいだエホバに受うけ入いれられていましたが,間まもなくユダヤ人じんの宗しゅう教きょう体たい制せいは終おわりを迎むかえ,代かわりにクリスチャン会かい衆しゅうが設せつ立りつされることになっていました。(マタイ 23:33-38)イエスが地ち上じょうにいた頃ころは,多おおくの宗しゅう教きょう指し導どう者しゃがギリシャ哲てつ学がくに由ゆ来らいする間ま違ちがったことを教おしえていました。神しん殿でんでは悪あく徳とくな商しょう売ばいがたくさん行おこなわれていたので,イエスは神しん殿でんが「強ごう盗とうのすみか」になってしまったと言いいました。(マルコ 11:17)では,イエスは神しん殿でんや会かい堂どうに行いくのをやめたでしょうか。そんなことはありません。そこでの崇すう拝はいをエホバが望のぞんでいたからです。神かみがまだ崇すう拝はいのための取とり決きめを変かえていなかったので,イエスは従じゅう順じゅんに神しん殿でんでの祭まつりや会かい堂どうに出で掛かけました。(ルカ 4:16。ヨハネ 5:1)

20 イエスがそのように従じゅう順じゅんだったのであれば,現げん代だいの本ほん物もののクリスチャンはなおのこと従じゅう順じゅんであり続つづけるべきではないでしょうか。今いまはイエスの時じ代だいとは違ちがい,はるか昔むかしから予よ告こくされていた通とおり清きよい崇すう拝はいが回かい復ふくされています。神かみは,自じ分ぶんの民たみをサタンが堕だ落らくさせるようなことは決けっして許ゆるさないと言いっています。(イザヤ 2:1,2; 54:17)もちろん,クリスチャン会かい衆しゅうの中なかでも人ひとの罪つみや不ふ完かん全ぜんさを目めにすることはあります。しかし,間ま違ちがいをする人ひとがいるからといって,エホバに従したがうのをやめてしまっていいでしょうか。不ふ従じゅう順じゅんになって集しゅう会かいに行いかなくなったり,長ちょう老ろうを批ひ判はんしたりしてはいけません。会かい衆しゅうを教おしえ導みちびいている人ひとたちに進すすんで協きょう力りょくしてください。従じゅう順じゅんに集しゅう会かいや大たい会かいに出しゅっ席せきし,そこで聖せい書しょから教おしえられることに従したがいましょう。(ヘブライ 10:24,25; 13:17)

兄弟姉妹が王国会館の外で楽しそうに話している。

従じゅう順じゅんな人ひとはクリスチャンの集しゅう会かいで学まなんだ通とおりに行こう動どうする

21. イエスは,神かみに従したがうのを思おもいとどまらせようとする圧あつ力りょくを受うけた時ときどうしましたか。私わたしたちはその手て本ほんにどのように倣ならえますか。

21 イエスは,人ひとから何なんと言いわれようとエホバに従したがうのをやめませんでした。たとえ友ともが善ぜん意いでアドバイスをしてくれても,それが神かみの考かんがえと違ちがったときには聞きき入いれませんでした。例たとえばある時ときペテロは,苦くるしんで死しぬなんてとんでもないと言いって,自じ分ぶんを大たい切せつにするようイエスに強つよく勧すすめました。悪わる気ぎはなかったものの,そのアドバイスは間ま違ちがっていたので,イエスはきっぱりと退しりぞけました。(マタイ 16:21-23)現げん代だいでも,親しん族ぞくや友ゆう人じんが私わたしたちのためを思おもって,神かみの教おしえに従したがうのを思おもいとどまらせようとすることがあります。そういうときも,私わたしたちはイエスの1世せい紀きの弟で子したちと同おなじように「人ひとではなく神かみに従したが」います。(使し徒と 5:29)

キリストのように従じゅう順じゅんな人ひとは報むくわれる

22. イエスはどんな疑ぎ問もんに対たいする答こたえを出だしましたか。どのようにですか。

22 イエスは死しを目もく前ぜんにして,従じゅう順じゅんであるかどうかを極きょく限げんまで試ためされることになりました。そのつらく苦くるしい経けい験けんを通とおして,より十じゅう分ぶんに「従じゅう順じゅんを学まなびました」。自じ分ぶんの望のぞむことではなく,天てんの父ちちの望のぞむことを最さい後ごまで行おこなったのです。(ルカ 22:42)そのようにして,神かみへの忠ちゅう誠せいを貫つらぬきました。(テモテ第だい一いち 3:16)そのイエスの歩あゆみにより,ずっと昔むかしからの疑ぎ問もんに対たいする答こたえが出でました。完かん全ぜんな人にん間げんは試し練れんに遭あってもエホバに従したがい続つづけられるか,という疑ぎ問もんです。アダムもエバも失しっ敗ぱいしましたが,イエスが地ち上じょうでの生しょう涯がいによってこの問もん題だいに片かたを付つけました。エホバが創そう造ぞうしたものの中なかで最もっとも偉い大だいな方かたが,大おおきな犠ぎ牲せいを払はらってまでも神かみに従したがい,これ以い上じょうない答こたえを出だしたのです。

23-25. (ア)エホバに従したがい続つづけるなら,どんな生いき方かたができますか。(イ)次つぎの章しょうではどんなことを考かんがえますか。

23 エホバへの忠ちゅう誠せい心しんは,従じゅう順じゅんな行こう動どうに表あらわれます。イエスは神かみに従したがって忠ちゅう誠せいを貫つらぬき,全ぜん人じん類るいが救すくわれるための道みちを開ひらきました。(ローマ 5:19)そういうイエスに,エホバは豊ゆたかな報むくいを与あたえました。私わたしたちも主しゅ人じんであるキリストに従したがうなら,エホバから「永えい遠えんの救すくい」という報むくいを与あたえていただけます。(ヘブライ 5:9)

24 さらに,忠ちゅう誠せいを貫つらぬく高こう潔けつな生いき方かたそのものが,私わたしたちのためになります。格かく言げん 10章しょう9節せつによると,「高こう潔けつに歩あゆむ人ひとは安あん全ぜんに歩あゆみ」ます。高こう潔けつに歩あゆむ人ひとは,れんが造づくりの立りっ派ぱな家いえを建たてているようなものです。従じゅう順じゅんな行こう動どう一ひとつ一ひとつを,いわばれんがのように積つみ上あげているのです。1個このれんがは大たいしたものではないと思おもえるかもしれませんが,どれもなくてはならないものです。たくさんのれんがを積つみ上あげていくと,素す晴ばらしいものが出で来き上あがります。同おなじように,従じゅう順じゅんな行こう動どうを日ひ々び積つみ重かさねていくと,私わたしたちは高こう潔けつな人ひととして良よい人じん生せいを築きずくことができ,エホバの目めに美うつくしく映うつるのです。

25 長ながい間あいだ神かみに従したがい続つづけるには,忍にん耐たいも必ひつ要ようです。次つぎの章しょうでは,イエスの忍にん耐たいの手て本ほんについて考かんがえます。

イエスの弟で子しとして考かんがえたいこと

  • キリストはどんなことを命めいじていますか。そうした命めい令れいに従したがってどんなことができますか。そうするとどんな良よいことがありますか。(ヨハネ 15:8-19)

  • イエスの親しん族ぞくは当とう初しょ,イエスが伝でん道どうしていることについてどう思おもいましたか。イエスが親しん族ぞくについて言いったことから何なにを学まなべますか。(マルコ 3:21,31-35)

  • エホバに従したがうと幸しあわせな生せい活かつを送おくれないのではないか,などと心しん配ぱいすべきでないのはどうしてですか。(ルカ 11:27,28)

  • イエスが従したがう必ひつ要ようのない規き定ていにも従したがったことから,どんな考かんがえ方かたを学まなべますか。(マタイ 17:24-27)

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