「私たちの神の家をなおざりにしない」
1 エルサレムの宮に対してイエス・キリストはどんな態度を取られましたか。それはどのように示されましたか。
預言者ダニエルの予告通り(ダニエル 9:24-27),「メシヤなるひとりの君」は西暦29年にあらわれました。ナザレの大工イエスがヨルダン川で浸礼を受け,神の聖霊によって油をそそがれたのはこの年だからです。(マタイ 3:13-17)メシヤすなわちキリストとして,イエスはエルサレムの宮の壊滅を予告し,それは西暦70年に実際に起きました。イエスは「見事な石」を初め高価な資材で造られたこの模型的な「神の家」を保存しようとはしませんでした。(ルカ 21:5,6)しかし,神がエルサレムのこの宮の存続を許しておられるかぎり,イエス・キリストはこの宮を尊敬し,そこで崇拝をしました。イエスは2回にわたり,宮で行なわれていた商売行為をやめさせました。―ヨハネ 2:13-22。マタイ 21:10-14。
2 しかし,イエスはどんな建物にいっそうの関心を持っておられましたか。
2 しかし,イエス・キリストがいっそうの関心を払っていたのは,自分の天の父,エホバ神の永遠の宮,すなわち真の宮でした。それゆえ,エルサレムへの最後の旅をし,この町とその宮との壊滅を予告するに先だち,イエスは12使徒のいるところでこう語りました。「わたしはこの岩の上にわたしの〔会衆〕を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない」。―マタイ 16:18,〔新世〕。
3,4 (イ)マタイ伝 16章18節で,イエスはご自分の会衆をなにになぞらえましたか。(ロ)エペソのクリスチャンに手紙を書いたパウロは,会衆を何にたとえましたか。どのように?
3 自分の会衆(あるいは教会)を建てること,それをひとつの岩の上に建てることについて語った,この以前の大工は自分の会衆をひとつの宮になぞらえました。彼はそれを生きた「神の家」であるとしたのです。西暦30年の春に初めて宮を清めた時,イエスは「宮」という言葉をエルサレムにあった物質の宮とは違う意味で使われました。(ヨハネ 2:13-22)そして今,マタイ伝 16章18節において,イエスはご自分の忠実な追随者の会衆を,自分自身を基礎石とする宮になぞらえました。このことと一致して,世界的に有名な女神アルテミス(ダイアナ)の神殿がまだあった,小アジア,エペソの会衆に手紙を書いたクリスチャン使徒パウロは,クリスチャン会衆全体を生きた宮であるとしました。パウロはこう述べました。
4 「彼〔イエス・キリスト〕によって,わたしたち両方の者〔ユダヤ人と異邦人〕が一つの御霊の中にあって,父のみもとに近づくことができるからである。そこであなたがたは,もはや異国人でも宿り人でもなく,聖徒たちと同じ国籍の者であり,神の家族なのである。またあなたがたは,使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって,キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。このキリストにあって,建物全体が組み合わされ,〔エホバの〕聖なる宮に成長し,そしてあなたがたも,主にあって共に建てられて,〔神が霊によって住まれるところに〕なるのである」。―エペソ 2:18-22,〔新世〕。
5 コリント前書 3章16,17節のパウロの言葉によると,真の「わたしたちの神の家」とはなんですか。
5 真の「わたしたちの神の家」が今や生きた人々によって構成される宮であることを再び指摘して,使徒パウロは古代ギリシャ,コリントにあったクリスチャン会衆にこう書きました。「あなたがたは神の宮であって,神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が,神の宮を破壊するなら,神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら,神の宮は聖なるものであり,そして,あなたがたはその宮なのだからである」。―コリント前 3:16,17。
6 象徴的な宮の構成員は何にたとえられますか。ペテロはどのようにこのたとえを用いていますか。
6 それゆえ,この象徴的な宮の構成員は物質の宮の石になぞらえられます。クリスチャン使徒ペテロがその者たちを「生ける石」と呼んだのはそのためであり,小アジア全域に分散したクリスチャンにあてた手紙の中で,ペテロはこう述べました。「主〔イエス・キリスト〕は,人には捨てられたが,神にとっては選ばれた尊い生ける石である。この主のみもとにきて,あなたがたも,それぞれ生ける石となって,霊の家に築き上げられ,聖なる祭司となって,イエス・キリストにより,神によろこばれる霊のいけにえを,ささげなさい。聖書にこう書いてある,『見よ,わたしはシオンに,選ばれた尊い石,隅のかしら石を置く。それにより頼む者は,決して失望に終ることがない』」。―ペテロ前 2:4-6。エペソ 2:20。
7 神はご自分の生きた宮にどのように住まれるのですか。
7 使徒パウロは偶像崇拝の盛んなコリントにあったクリスチャン会衆に2度目の手紙を書き,神がご自分の生きた宮に住まわれるのは彫像その他の偶像によるのではなく,ご自分の霊によることを明確に告げました。「神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは,生ける神の宮である。神がこう仰せになっている。『わたしは彼らの間に住み,かつ出入りをするであろう。そして,わたしは彼らの神となり,彼らはわたしの民となるであろう』」。―コリント後 6:16。
8 これらパウロとペテロの言葉は当時のエルサレムに建っていた宮について何を示していますか。
8 これらの事のすべてが使徒パウロとペテロによって書かれたのは,エルサレムにあったユダヤ人の宮が西暦70年にローマ軍団によって破壊されるより少なくとも5年前です。それゆえ,この時までにエホバ神がエルサレムにあった物質の宮を捨てておられたことは明らかです。神の子イエス・キリストはこの町で死を宣告されていました。これは,宗教指導者がイエスを殺させるより3日前のニサン11日に,「おまえたちは応じようとしなかった。見よ,おまえたちの家は見捨てられてしまう」と語られたイエスの言葉どおりでした。―マタイ 23:37,38。
9 イエス・キリストが「隅のかしら石」としてシオンに置かれたのはいつですか。イエスを土台として建てることはいつ始まりましたか。
9 死んでから3日目に,全能の神はイエスを死人の中からよみがえらせ,天,すなわち天のシオンの山に帰らせました。神はイエス・キリストを象徴的な「隅のかしら石」としてそこに置かれました。この上に新しい,生きた宮が建てられるのです。(ペテロ前 2:6。イザヤ 28:16。マタイ 16:18)この生きた宮は神がご自分の聖霊によって住まわれる「霊の家」ですから,これが建て始められたのは,天の「隅のかしら石」を信じた信仰のユダヤ人に神の聖霊が注がれた西暦33年の五旬節の日です。―使行 2:1-42。
なおざりにされることがある,どのように?
10,11 (イ)真の神の家をなおざりにする危険が今日のわたしたちにもあると言えるのはなぜですか。(ロ)パウロはどんな言葉でそのことをテモテに警告しましたか。
10 真の「わたしたちの神の家」はキリストに従う人々の忠実な会衆によって造られる生きた宮ですから,その中の「生ける石」となる人々によってこの象徴的な家がなおざりにされることがあり,わたしたちも容易にそれを理解できます。そして,このような「生ける石」を選び,この霊の宮のために備えることが今日まで続けられていることを思い出しましょう。それゆえ,なおざりにすることは今日でも起こり得るのです。使徒パウロはクリスチャンの監督テモテにそのような事態を警告してこう述べました。
11 「わたしは……この手紙を書いている。万一わたしが遅れる場合には,神の家でいかに生活すべきかを,あなたに知ってもらいたいからである。神の家というのは,生ける神の〔会衆〕のことであって,それは真理の柱,真理の基礎なのである。確かに偉大なのは,この信心の奥義である,『キリストは肉において現れ,霊において義とせられ,御使たちに見られ,諸国民に伝えられ,世界の中で信じられ,栄光のうちに天に上げられた』。しかし,御霊は明らかに告げて言う。後の時になると,ある人々は,惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて,信仰から離れ去るであろう」。―テモテ前 3:14–4:1,〔新世〕。
12,13 (イ)それゆえ,テモテはどんなことを避けようとしましたか。(ロ)テモテ前書 4章14-16節,6章2,20,21節にあるように,テモテは何をしましたか。
12 たしかに,パウロの最初の手紙,そしてそれを補うパウロの第二の手紙を得た1世紀のクリスチャン監督テモテは,パウロの書いた通り「神の家でいかに生活すべきか」をいっそう深く悟りました。神の家ないしは会衆に対する自分の責任のひとつをもなおざりにせぬよう,テモテは十分に心を用いねばなりませんでした。テモテは神の家の構成員であり,使徒であった者の言葉どおりにしようとしました。その言葉はテモテ前書 4章14-16節,6章2,20,21節にあります。
13 「長老の按手を受けた時,預言によってあなたに与えられて内に持っている恵みの賜物を,軽視してはならない。すべての事にあなたの進歩があらわれるため,これらの事を実行し,それを励みなさい。自分のことと教のこととに気をつけ,それらを常に励みなさい。そうすれば,あなたは,自分自身とあなたの教を聞く者たちとを,救うことになる」。「あなたは,これらの事を教えかつ勧めなさい。……テモテよ。あなたにゆだねられていることを守りなさい。そして,俗悪なむだ話と,偽りの『知識』による反対論とを避けなさい。ある人々はそれに熱中して,信仰からそれてしまったのである」。
なおざりにすることには重大な結果が伴う
14 (イ)テモテは何にいつも出席しましたか。テモテがそうしたのはなぜですか。(ロ)このような集会の出席はどんな年齢の人がすることですか。
14 会衆の監督であったテモテは会衆の集会にいつも出席しました。それは,「聖書を朗読することと,勧めをすることと,教えることとに心を用いなさい」とのパウロの言葉に従って,そこで行なわれることを監督するためであり,また集会において自分の役割を果たすためでした。(テモテ前 4:13)テモテは集会を欠かそうとはしませんでした。集会を欠かすなら,『生ける神の会衆であり,真理の柱,真理の基礎である神の家』から自らを切り断つことになったでしょう。集会を欠かすなら,テモテは自分の責任を果たせませんでした。集会に行くことは死に近づいた老人だけのものではありません。集会に行くことは,現在の生がいの終わりに近づいた人々ばかりでなく,若い人々,人生の盛りにある人々もすべきことです。テモテも若者でした。パウロがテモテに,「あなたは,年が若いために人に軽んじられてはならない。……老人をとがめてはいけない。むしろ父親に対するように,話してあげなさい。若い男には兄弟に対するように」と告げたのはこのためでした。―テモテ前 4:12; 5:1。
15,16 (イ)故意に集会に行かない成員は,実質的には何をしていますか。これはどんな方向に向かうことですか。(ロ)このことはヘブル書 10章23-31節にどう示されていますか。
15 会衆の集会に出席しないなら,あきらかに「わたしたちの神の家」を捨て,なおざりにしていることになります。献身し,浸礼を受けた神の家の構成員が故意に集会を休むなら,その者は実質的には自ら会衆を排斥していることになります。排斥とは人を神の家族から追い出すことです。死ぬまでこの排斥の状態にいるなら,その者は神に捨てられた者として永遠の滅びを受けることになります。集会から離れている人はこの道を歩んでいるのです。ヘブル人への手紙 10章23-31節はこうです。
16 「約束して下さったのは忠実なかたであるから,わたしたちの告白する望みを,動くことなくしっかりと持ち続け,愛と善行とを励むように互に努め〔互を避けではなく〕,ある人たちがいつもしているように,集会をやめることはしないで互に励まし,かの日が近づいているのを見て,ますます,そうしようではないか。もしわたしたちが,真理の知識を受けたのちにもなお,ことさらに罪を犯しつづけるなら罪のためのいけにえは,もはやあり得ない。ただ,さばきと,逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを,恐れつつ待つことだけである。……『復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と言われ,また『〔エホバ〕はその民をさばかれる』と言われたかたを,わたしたちは知っている。生ける神のみ手に落ちるのは,恐ろしいことである」。―申命記 32:35,36をごらんください。
17 キリスト教国では,どんなことが集会にいつも行くことの少なからぬ妨げとなりますか。真の神の家についてはどうですか。
17 キリスト教国の教会の集会に行くことには費用がかかります。宗教上の集会の間に寄付盆,袋,バケツなどが出席者に一度ないしはそれ以上まわされるからであり,あるいはその宗教上の建物にはいるのに入場料を出さねばならないからです。物質的には貧しく,こうした強制的な寄付の出せない人も少なくありません。しかし,真の神の家にあっては,そうした経済的な障害が会衆の集会に定期的に出席することの妨げとなることはありません。「入場無料,寄付は集めません」という言葉はエホバのクリスチャン証人の集会すべてにあてはまります。人は集会に来るだけの努力をすればよいのです。
18 会衆の必要な経費はどのようにまかなわれますか。エホバのクリスチャン証人はこれをどのように行ないますか。
18 もとより,1世紀の聖書時代のように集会が人の私宅で開かれていないところでは,いつも一緒に集まる集会場所のために会衆のまかなわねばならない費用があります。(ロマ 16:5。コリント前 16:19。コロサイ 4:15。ピレモン 2)そのような場合には,会衆の成員により出来る分に応じた寄付が自発的になされます。この目的のため,見せびらかすことなくお金を入れられる適当な場所に寄付箱がおかれます。わたしたちは,「〔人に〕見られるため……人にほめられるため」に慈善的な行ないをし,施しをした1世紀の宗教的な偽善者のようになりたくありません。(マタイ 6:1-4)それゆえ今日,エホバのクリスチャン証人の集会場所には寄付箱が置かれており,それは人が好みに応じて自分の寄付を入れるためです。
19 金銭的な寄付は大切ですか。ここで大切なのはなんですか。
19 会衆全体としては,会衆がまかなえるような費用の不足などのために,会衆の全員が集まる場所の準備を怠って,「わたしたちの神の家」をなおざりにするようなことを望んでいませんが,金銭的な寄付そのものは大切な問題でありません。大切なのは集会に出席することであり,しかもいつも出席することです。
20 集会においては,財政的な面以外にどんな面で貢献できますか。
20 このような集会に出席するなら,人は財政面以外のいろいろな面でいつも貢献できます。神への賛美の歌が歌われる時には自分の声を会衆の声に加えることができます。会衆の聖書研究が開かれる時には,尋ねられる質問に答えて聖書的な注解を述べ,研究に参加することができます。そしてこのために,研究するものを予め見ておくことができます。公開講演が行なわれる時には,自分も出席し,よく聞き,関心と感謝とを示して,講演者を励ますことができます。また,集会の前後には会衆の人々と交わり,会う人々をはげまし,建て起こすことができます。これは,「わたしたちの告白する望みを,動くことなくしっかりと持ち続け」,「愛と善行とを励むように互に努め」ることになります。―ヘブル 10:23-25。
予習と祈り
21 (イ)予習をして集会に出席する人は何を示していますか。(ロ)これによって人は会衆のどんな状態を保つことに貢献できますか。
21 このような集会にそなえて予習をするのは,「わたしたちの神の家」をなおざりにすまいとしていることのよいしるしです。これによって人は,おきまりの課業をするかのような無関心な態度ではなく,自分自身を霊的に建て起こし,神の家族の他の人々を建て起こそうとの明確な目的を持って集会に来ている事を示します。こうして人は会衆を助け,会衆の信仰と希望と勇気を保つだけでなく,これら肝要なものをいよいよ強めることになるのです。人は会衆の清さを見張れます。「聖徒たちによって,ひとたび伝えられた」とおりの信仰の清さだけでなく,個人の生活における道徳的な清さも守られねばなりません。このためには「神の武具」を十分に活用し,「福音の信仰のために力を合わせて戦い」つつ,霊的な意味できびしい戦いをしなければなりません。(ユダ 3。エペソ 6:11-17。ピリピ 1:27)これは神の家を霊的によく手入れしておくために必要です。
22 エペソ書 6章18,19節のパウロの願いにも示されている通り,人は他のどんな面でも「わたしたちの神の家」をなおざりにしませんか。
22 このほか,神の家族の忠実な成員は神の霊的な家をなおざりにしていないことのしるしとして,神の家のために祈ります。すなわち自分の家にあっていつも神の家のために祈り,集会においては会衆と共に祈ります。パウロは「〔エホバの〕聖なる宮」の土台となった使徒の一人でしたが,エペソの会衆に宛てた手紙の中で,「すべての聖徒のため」ばかりでなく,「わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり,大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように,わたしのためにも祈ってほしい」と書きました。(エペソ 2:20-22; 6:18,19)神の家の福祉と繁栄を真に心がけていることは人の誠実な祈りにあらわれます。
23 祈りはなぜ本当に強力ですか。ダニエルのように,わたしたちはどんな祈りをしますか。
23 神のみ心と目的に従う祈りは聞かれ,神によって答えられますから,祈りは本当に強力です。「義人の祈は,大いに力があり,効果のあるものである」。(ヤコブ 5:16)預言者ダニエルは神の宮がエルサレムに再建されることを祈りましたが,今日わたしたちが祈るのは,「生ける石」でなる神の家が守られ,霊的に良い状態が保たれることです。―ダニエル 9:1-19。
24 詩篇 122篇1,2,8,9節によると,ダビデ王はどんな点でわたしたちの模範ですか。
24 エルサレムの王としてエホバ神の栄光ある宮の建設を願ったダビデは,感謝の歌の中でこう言いました。「人々がわたしにむかって『われらは〔エホバ〕の家に行こう』と言ったとき,わたしは喜んだ。エルサレムよ,われらの足はあなたの門のうちに立っている。わが兄弟および友のために,わたしは『エルサレムのうちに平安があるように』と言い,われらの神,〔エホバ〕の家のために,わたしはエルサレムのさいわいを求めるであろう」。(詩 122:1,2,8,9,〔新世〕)神の家の大切さを認め,神の家に一緒に行こうとの言葉に喜んだダビデ王はわたしたちに対する模範です。
活動の家
25 ペテロ前書 2章5,9節にも示される通り,わたしたちは他のどんな面で神の家をなおざりにすることを望みませんか。
25 しかし,真の神の家は生きているものであることを忘れてはなりません。それゆえこれは活動にあふれる組織です。神の霊の家によって,またそれを通して神への崇拝が行なわれていますが,それは単にわたしたちが会衆の集会に行くことだけによるのではありません。使徒ペテロは,神の「霊の家」の目的が「イエス・キリストにより,神によろこばれる霊のいけにえ」をささげることにあり,「聖なる国民」,「神につける民」は「暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを,あなたがたが語り伝える」べきことを明らかにしています。(ペテロ前 2:5,9)このために必要なのは活動です。そして神の家をなおざりにすることを望まない人は,すすんでその家の活動に加わるでしょう。
26,27 (イ)崇拝者が神の家でささげる「霊のいけにえ」とはなんですか。(ロ)ロマ書 10章13-15節のパウロの論議に一致して,このようないけにえとなる言葉が会衆の外でも語られねばならないのはなぜですか。
26 崇拝者が神の家でささげる「霊のいけにえ」は動物の犠牲ではありません。ヘブル書 13章15,16節はこう述べています。「このゆえに我らイエスによりて常に賛美の供物を神にささぐべし,すなはちその御名をほむる口びるの果なり」(文語)「そして,善を行うことと施しをすることとを,忘れてはいけない。神は,このようないけにえを喜ばれる」。神の御名をほめ,善を行なうことは会衆の中はもとより会衆の外でも行なわれねばなりません。神の御名と神のみわざとは全地に,そして万国民に伝えられねばなりません。それは万国の人々が神の名を呼び,救われるためです。ヨエル書 2章32節を引用した使徒パウロの次の論議に見られる通り,これはきわめて合理的な結論です。
27 「『〔エホバ〕の御名を呼び求める者は,すべて救われる』とあるからである。しかし,信じたことのない者を,どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を,どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては,どうして聞くことがあろうか。つかわされなくては,どうして宣べ伝えることがあろうか」。―ロマ 10:13-15。
28 神の家の人々は宣べ伝えるためにつかわされることをまじめに考えています。それはどのように示されますか。
28 神の家族の成員は神の御名を宣べ伝え,全人類を祝福するメシヤによる神の国を知らせるためにつかわされることをまじめに考えています。それゆえ,この者たちが神の家の活動に熱心に参加するのも不思議ではありません。彼らは神の家の成員の中で任命され,これらの活動を率先する者を忠節にまた私心なく支持します。また彼らは,使徒パウロの宣教活動をおしみなく助けた1世紀のピリピ会衆の人々にも似ています。(ピリピ 4:14-16)神の家の活動に加わるのは大切なことであり,彼らはこれを怠って,「わたしたちの神の家」をなおざりにしないようにと注意しています。
29,30 「聖なる祭司」の活動が拡大された結果,黙示録 7章の預言どおり,どんなことが見られますか。
29 1918年の第一次世界大戦終結以来,神の家における「聖なる祭司」の活動が拡大したことの結果として,全地のあらゆるところから実に多くの人々が神の霊の家に集まって来ています。この人々が最終的にどれほどの数になるかは今わかりませんが,黙示録 7章9-15節はこの人々を預言的に描写していました。
30 「見よ,あらゆる国民,部族,民族,国語のうちから,数えきれないほどの大ぜいの群衆が,白い衣を身にまとい,しゅろの枝を手に持って,御座と小羊との前に立ち,大声で叫んで言った,『救は,御座にいますわれらの神と小羊からきたる』。……『彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって,その衣を小羊の血で洗い,それを白くしたのである。それだから彼らは,神の御座の前におり,昼も夜もその〔宮〕で彼に仕えているのである。御座にいますかたは,彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう』」。〔新世〕
31 (イ)どの期間にこの「大ぜいの群衆」は出てきましたか。(ロ)彼らはエホバ神をどのように認めていますか。どんな生活の基準に彼らはもはや従いませんか。
31 この雑誌を読んでおられるあなたはこの「大ぜいの群衆」にはいっていますか。もしはいっているなら,ここに出てきた「大きな患難」が,「世の罪」を清める神への犠牲としてご自分の血を流された「小羊」,すなわちイエス・キリストの予告通り,1914年から1918年までの「産みの苦しみの初め」と共に始まったことを知っておられるでしょう。(マタイ 24:8。ヨハネ 1:29)諸国民に加えられる「産みの苦しみ」の終わりはまだ来ていません。この終わりは現存する事物の制度の完全な滅びとなります。しかしこの「大ぜいの群衆」は神への奉仕を始めることを「大きな患難」の終わりが来るまで待っていませんでした。彼らは,ひとたび犠牲となられた「小羊」イエス・キリストによる天と地の神の救いを求めて,「産みの苦しみの初め」以来出てきています。この者たちは,エホバ神が天の御使いと地上の人間の正しい統治者であることを認めています。また世俗的なこの事物の制度の道徳と宗教との基準をもはや受け入れません。かわりに,黙示録 7章9節から15節に描写された通り,自分たちが罪人であることを認め,汚れたよそおいを取り去ろうとしています。
32 彼らは「小羊」の血で自分の衣を洗って白くします。このことを説明しなさい。
32 それゆえ,この人々は「小羊」が流された血で自分の衣を洗います。みにくい罪の汚れを去るためです。これはイエス・キリストが神の大祭司であることを認め,この大祭司が罪のためにささげられた犠牲に信仰を持ち,ついで,もはや自分のものでも,この世のものでも,またサタン悪魔のものでもなく,神によって買われたエホバ神のものとして自らを完全に神にささげることによってなされます。
33 この者たちが神の霊の家に集まるのはなぜですか。夜奉仕することについてこの者たちはどんな態度を取りますか。
33 それゆえこの者たちが今,神に是認された立場にあるのも不思議ではありません。彼らはしゅろの枝を手に持つように,喜んで神をたたえます。この人々が,昼も夜もエホバ神に聖なる奉仕をささげるために,イエス・キリストを「隅のかしら石」とする神の霊の家に集まっているのも不思議ではありません。彼らは神の家の「霊的な祭司」に言います。「夜,〔エホバ〕の家に立って〔エホバ〕に仕えるすべてのしもべよ,〔エホバ〕をほめよ。聖所にむかってあなたがたの手をあげ,〔エホバ〕をほめよ」。霊的な祭司はこれに答えて言います。「どうぞ〔エホバ〕,天と地を造られた者,シオンからあなたを祝福されるように」。―詩 134:1-3,〔新世〕。
34 彼らは神の宮において目ざとくなにをつづけますか。1日24時間のいつ?
34 それゆえ,神の家に集合を続ける「大ぜいの群衆」は神の宮における集会に行く以上のことをします。すなわち,神への奉仕に活発に加わるのです。彼らは昼も夜も神の霊的な宮の「生ける石」のうちまだ地上に残っている人々に力を合わせます。総督ネヘミヤの時代のユダヤ人は神の崇拝のためのみつぎを怠り,宮で仕えたレビ人をしてやむなく宮を去らせ,生活のために自分の畑で働くことを余儀なくさせて,「わたしたちの神の家」をなおざりにしましたが,今日,これらの人々はこの昔の例にならおうとは思いません。(ネヘミヤ 13:10,11)それゆえ彼らは,神の「小羊」イエスによる救いを神に永遠に負っていることを認め,神の宮にあって,日夜目ざとく神に仕えます。
35 (イ)黙示録 7章9-15節の預言的な言葉が無意味なものでなかったことを説明しなさい。(ロ)大ぜいの群衆と霊的な祭司の残れる者はどんな決意を実行しますか。それはどんな結果をもたらしますか。
35 黙示録 7章9-15節の預言的な描写は無意味なものではありませんでした。そこに預言された事柄は今日,わたしたちの眼前で実現しているのです。それは地上で救われた人々の「大ぜいの群衆」が今日取るべき道を示しています。彼らは,「大きな患難」の「産みの苦しみ」の終わりが到来し,偽りの宗教とその人工の宮すべてに滅びがもたらされる前の今,これに実際に従います。神の霊の宮において,「大ぜいの群衆」と霊的な祭司の残れる者とは生きた,唯一まことの神に清い奉仕をささげます。彼らは,「わたしたちの神の家をなおざりにしない」との不変の決意を,昼も夜も実行します。その喜ばしい結果として,エホバ神の崇拝は続けられ,その活気は保たれ,従順な人々すべての祝福と永遠の命の源であられる方にいっそうの賛美がささげられるのです。