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マタイものみの塔出版物索引 1951-1985
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24:30 塔85 2/1 16-17; 塔84 12/1 16,18-19; 塔82 3/1 8; 塔81 1/1 26; 塔81 12/1 25; 最 168-169; 政 152,154; 塔77 501-502; 塔76 189; 塔75 122,172,175,464; 千 324,328; 目73 11/8 8; 塔70 242; 目68 3/8 28; 塔66 229,232; 事 337-339; 塔63 208; 目63 8/22 26; 目62 7/8 7; 塔61 191; 塔56 8; 天 259; 塔54 332; 塔53 168; 塔52 104
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マタイ 注釈 24章新世界訳聖書 (スタディー版)
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人の子のしるし: このしるしは,マタ 24:3の「[イエス]の臨在……のしるし」とは別。ここで言うしるしは,人の子が大患難の時に裁きを宣告して執行するために裁く方として「来る」ことと結び付いている。この節の来るに関する注釈を参照。
胸をたたいて悲しみ: または,「嘆き悲しみ」。手で何度も胸をたたき,深い悲しみや,罪悪感と後悔の気持ちを表現すること。(イザ 32:12。ナホ 2:7。ルカ 23:48)
天の雲: 雲があると見えにくくなるが,人は理解の目で「見」ることができる。(使徒 1:9)
来る: マタイ 24章と25章でイエスが来ることについて述べている8例のうちの最初。(マタ 24:42,44,46; 25:10,19,27,31)どの場合にも,ギリシャ語動詞エルコマイ(「来る」)の活用形が使われている。その語はここで,人類に注意を向ける,とりわけイエスが大患難の時に裁きを宣告して執行するために裁く方として来る,という意味で使われている。
見ます: 「見る」と訳されるギリシャ語動詞は字義的には,「物を見る」,「眺める」という意味だが,心の目で「識別する」,「知覚する」という比喩的な意味でも使われる。(エフ 1:18)
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