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永遠に生きるための方法ものみの塔 1971 | 11月1日
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ました。それで,イエスからほんとうに学んだ人は,神と神の王国について他の人に話します。あなたはそうしますか。
でも,たいせつなのはそれだけではありません。聖書に正しいと書かれている事がらを毎日行なうべきです。悪い事をしないように注意しなければなりません。ほんとうに愛しあっていることを示さねばなりません。
そうした事を行なうなら,偉大な師のことばをほんとうに聞いていたことになります。
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読者からの質問ものみの塔 1971 | 11月1日
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読者からの質問
● 聖書には預言者サムエルが燔祭をささげたとしるされていますから,彼は祭司だったということになりますか。―アメリカの一読者より。
いいえ,聖書が明らかにしているように,サムエルはアロンの家系に属する祭司ではありませんでした。サムエルの父エルカナはエフライムの山地のラマに住んでいましたから,エフライム人と呼ばれています。しかし系図からいうと,エルカナはレビ人であり,コハテの子孫で,祭司でない家族のものでした。(サムエル前 1:1,19。歴代上 6:27,33,34)祭司でないコハテの家系のレビ人として,サムエルは聖所の祭壇で職務を執り行なう権限を与えられていませんでしたし,彼がそうしたという記録は全然ありません。アロンの家系に属さないレビ人に関し,神の律法はこう述べています。『聖所の器具と壇とに近くべからず恐くは彼等死るならん』。(民数 18:3)しかしながらサムエルは,エホバの代表者であり預言者であったのですから,マナセの部族のギデオン,さらに後代になって預言者エリヤが行なったように,神の指示に従って聖所以外の場所で燔祭をささげることができました。―士師 6:15,25-28。列王上 18:36-38。
サウル王が「勉て」燔祭をささげた時に,サムエルが彼に対して,不当にも祭司の職を執ろうとしたといって非難しなかったことは注目に価します。サムエルはサウルにただ次のように言っただけです。「汝おろかなことをなせり汝その神エホバのなんぢに命じ給ひし命令を守らざりしなり若し守りしならばエホバ,イスラエルををさむる位を永く汝に定めたまひしならん然どもいま汝の位たもたざるべし」。(サムエル前 13:12-14)では,なんの戒めを犯したとしてサムエルはサウルをとがめたのですか。また,このことからわたしたちは指針となるどんな原則を学べますか。
サムエルはそれ以前にサウルに次の指示を与えていました。「汝我にさきだちてキルガルにくだるべし我汝の許にくだりて燔祭を供へ酬恩祭を献げんわが汝のもとに至り汝の為すべきことを示すまで汝七日のあひだ待つべし」。(サムエル前 10:8)この命令が別の機会に関するものであったとしても(そう信じる注解者がいる),サウルが破ったものに幾分類似しています。いずれにせよ,事実はサムエルはエホバの代表者であり,したがって破られた命令は実はエホバの命令であり,罰せられずに済むわけにはいきませんでした。ゆえにサウルの罪は,せん越にも先走って燔祭をささげ,待つようにとのエホバの命令(サムエルを通して与えられた)に従わなかった点にあります。祭司職を奪取しようとしたのではありません。なぜならサムエルはアロンの家系の祭司ではなかったからです。サウルの罪は,後代の王ウジヤのそれとは違います。ウジヤはこう告げられました。「ウジヤよエホバに香を焚ことは汝のなすべき所にあらずアロンの子孫…たる祭司等のなすべき所なり」― 歴代下 26:18。
サウルの罪は,神の取り決めた事柄を個人が無視するのはいかに重大なことかを例証するものとなっています。サムエルはみずから預言者になったのではありません。エホバ神がご自分の霊によって彼をその地位につけたのであり,それゆえにすべてのイスラエル人は『サムエルが預言者とさだまれるをしりました』。(サムエル前 3:19,20)同様にクリスチャン会衆内で監督や牧羊者として奉仕している人たちも,聖霊によってその任命を受けるのです。(使行 20:28)もちろん,彼らはサムエルのように神の霊感を受けて話すのではありません。それでもわたしたちは,彼らが正しく物事を取り扱っていないとか,処置の仕方がおそすぎるとかと感じてせん越になり,任命を受けた者たちの責務をわがものにしようなどとしてはなりません。故意にそうした行動を取る者はだれでもサウル王のように,自分自身に問題をもたらし,エホバ神との関係を危険にさらすことになります。
● 詩篇 102篇25,26節およびヘブル書 1章10,11節で,天と地が『ほろびる』また『ふるびた衣のごとくにかえられる』と述べられているのはなぜですか。―ハワイの一読者より。
この質問に答えるのに,「天」や「地」ということばが必ずしも文字どおりの天地をさすとはかぎらないという事実を指摘する人がいるかもしれません。たとえば,詩篇 96篇1節で,「地」は「新しき歌」をうたうように励まされています。この場合,それが地上の民を意味していることは明らかです。聖書はさらに,「天の処にある悪の霊」についても述べています。(エペソ 6:12)これはそうした悪の霊が,邪悪な人間社会の上の「天」を構成するものであることを示唆しています。事実,悪魔は「この世の神」と述べられています。(コリント後 4:4)以上の事柄を根拠にして,ある人々は詩篇 102篇25,26節(ヘブル書 1章10,11節に引用されている)で言及されている天と地が,サタンとその悪霊によって構成されている邪悪な天,つまり神から離反した人類から成っている地を支配するその天をさすとの結論を下すかもしれません。しかし問題の聖句自体にはこうした考えを当てはめることができるでしょうか。
詩篇 102篇25,26節にはこうしるされています。「汝いにしえ地の基をすえたまへり,天もまたなんぢの手の工なり,これらは亡びん されど汝はつねに存らへたまはん,これらはみな衣のごとくふるびん 汝これらを袍のごとく更たまはんされば彼等はかはらん」。これは,神がどうして邪悪な天と邪悪な地との創造者でありえようか,という疑問を提起します。
もっとも,反逆してついには人類を治める邪悪な天となった霊者を神が創造した,さらに,神から離反した人間すべての生みの親となったアダムとエバを神が創造した,と言えなくもありません。しかしながら,聖句それ自体からもその前後関係からも,こうした結論を引き出すには少し無理が伴うという点に注意すべきです。そのうえ,他の聖句で,エホバが邪悪な人間社会の基を置いた,あるいは邪悪な天を創造したと述べられている箇所は全くありません。したがって当然,文脈にもっと自然にまた論理的に合う説明を捜さねばなりません。
詩篇 102篇の頭書から明らかなとおり,この1編は「なやみたる者おもひくづほれてその歎息をエホバの前にそそぎいだせるときの祈祷」です。そうした悩みのうちにある者が,自然界の天と地と比べてエホバが永遠の存在であることを思いめぐらすのは理にかなったことです。そうです,天地といった自然界の創造物は滅びうるのです。神が意図されるなら,それを破壊することは可能です。神の永遠にわたる存在とは異なり,神の自然界の創造物のどの部分にせよ,それが永続するには何かに依存しなければなりません。地球の例から明らかなように,自然界の創造物が持続し,あるいは,その現状の形態を維持するためには,更新作用を絶えずくり返さねばなりません。自然界の天が神の意志と,事物を維持する力とに依存していることは詩篇 148篇に示されています。太陽・月・星および神の創造物の他のものに触れながら,この詩篇(6節)は神が「此等をいざとほながに立たまひたり又すぎうすまじき詔命をくだしたまへり」と述べています。
ヘブル書 1章10,11節で,詩篇 102篇25,26節のことばはイエス・キリストに適用されています。イエスについても,『地の基を置いた』そして天を「抑手の業」としていだした,と言えます。なぜなら,神のただひとりもうけられたみ子は,自然界の宇宙を創造するさいに用いられた神ご自身の代理者であったからです。(ヨハネ 1:1,2。コロサイ 1:15,16)今や不滅性つまり「朽ちざる生命」(ヘブル 7:15,16)を享受しておられる,神のみ子の偉大さを強調しながら,ヘブル人への手紙の著者はみ子の永続性を,神がもし望まれるなら,『袍のごとく畳んで』廃棄することのできる自然界の創造物の永存性と対照させています。―ヘブル 1:12。
したがって,不滅性をもたず,破壊されうる自然の創造物に対するよりも,さらに偉大な永続性がエホバ神(詩 102:25,26)と,栄光を受けたみ子イエス・キリスト(ヘブル 1:10,11)とに帰せられています。他の聖句もこの結論を支持しています。たとえばルカ伝 21章33節でイエスは,「天地は過ぎゆかん,然れど我が言は過ぎゆくことなし」と言われました。イエスはここで,自然界の天地が滅びうるものであることとは対照的に,ご自分のことばの不変性と永遠の真実性とを述べました。天地を破壊することを神が意図されているというのではなく,それは破壊されうるのです。ゆえに,この表現の真意はマタイ伝 5章18節の表現と同様に解せます。「誠に汝らに告ぐ,天地の過ぎ往かぬうちに[あるいは,「…よりも天地の過ぎ往くは易し」,ルカ 16:17],律法の一点,一画も廃ることなく,悉とく全うせらるべし」。
エホバ神とそのみ子は自然界の天地よりもさらに偉大な永続性を所有しておられるのですから,イエスは常に生きていて,悩める者のために嘆願してくださる,また,神は常に生きていて,そうした願いを聞き,かつそれに答えてくださるとの十分の確信をいだくことができます。(ヘブル 7:25と比較)以上の点を理解すれば,神の約束はそれをはばむかに見えるどんなものが存在していようと必ず成就されるとの十分の確信を持ち,そのすべての約束に,全き信頼を置くよう励まされます。
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