クリスチャンは迫害を当然に予期する
「キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は,みな,迫害を受ける」― テモテ第2 3:12。
1 神のしもべの迫害に関する聖書の記述を読む時,どんな疑問が心に起きますか。
聖書を読んだ人ならだれでも,神に忠実に仕えるがゆえに迫害を受けた神のしもべたちのことを知っています。その迫害には悪口,投獄,殴打,殺害などがありました。迫害にあっても忠実さを守り通した人の良い例としてはヨブ,ししのおりに入れられたダニエル,『四十に一つ足りないむちを五度受けた』パウロなどがあり,中でも顕著な例として迫害者に自分の命をさえ渡されたキリスト・イエスがあります。ヘブル人への手紙第11章は,クリスチャン時代以前の忠実な神のしもべの苦難をこう記述しています。「石で打たれ,さいなまれ,のこぎりで引かれ,つるぎで切り殺され,羊の皮や,やぎの皮を着て歩きまわり,無一物になり,悩まされ,苦しめられ,……荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを,さまよい続けた」。こうしたなまなましい記述を読むと,なぜかといぶからざるを得ません。忠実な神のしもべがいったいなぜこのように虐待されるのですか。神はそうした者たちを守られないのですか。そして,今日のクリスチャンは同様な迫害を予期しなければいけないのですか。もしそうなら,忠実な態度で迫害に耐え,首尾よくそれをくぐり抜けるためにどうしたらよいですか。―コリント第二 11:24。ヘブル 11:37,38。
なぜ迫害されるか
2,3 (イ)この迫害の源を知るために,どこを調べるべきですか。(ロ)サタンとエホバのしもべの敵対関係はどんなことから始まりましたか。
2 迫害の源および迫害の理由を知るために,わたしたちは聖書のいちばん初め,創世記の1章から3章までを学ばねばなりません。そこにはまず,地球の創造および地球を人間の住みかとするための準備のことが出ています。その次に,最初の人間アダムおよびその妻エバの創造に関する記述があります。神は愛のみこころから,創造者と一致して生きるための指示をふたりに与えられました。ふたりは楽園のすまいで広範な自由を与えられ,そこにある植物と果物を意のままに食べることができました。ふたりの喜びを増し加えたものは,ゆだねられた楽園の動物を愛の心で治め,この幸福な条件下で子供を育てることでした。(創世 1:28-30)神が人間に従順を求められたのは正当なことでした。ふたりは園のある木の実を食べてはなりませんでした。もとよりこれは無理な要求ではありません。ほかに多くの木があり,その実を心ゆくまで食べてもよかったからです。(創世 2:17)神は,この簡単な要求に従わないことがふたりの死を意味することをも明示されました。
3 ここにおいて,第三者がへびの形をとって園に現われました。この者はこうかつな態度で女に語り,偽りの約束によって女を惑わし,禁じられた木の実を食べさせました。後にアダムがこれに加わり,妻と同じく神に反逆の行ないをしました。これによってふたりは神から死の宣告を受けました。これは当然の結果です。神はへびに対する処置を明らかにしてさらにこう述べられました。「わたしは恨みをおく,おまえと女とのあいだに,おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き,おまえは彼のかかとを砕くであろう」。(創世 3:15)聖書のほかのところから明らかなとおり,ここで言うへびは悪魔サタンを表わしています。(黙示 12:9)また女とは聖なる被造物から成る神の偉大な天の組織のことであり,これは神の妻にたとえられています。(黙示 12:1-6。イザヤ 54:1-6)サタンに対するこの宣告の中で,エホバ神はサタンと神の女のすえないしは子孫との間に恨みもしくは敵意が存在することを明確にされました。この敵対関係はサタンが最終的に滅びる時に初めて終わります。
4 サタンの敵意はどのように表わされてきましたか。特に今,迫害に耐える用意をしなければならないのはなぜですか。
4 この時以来まことの神のしもべに加えられてきた攻撃と迫害は,エホバの予告どおり,サタンの敵意の表われでした。最初の人間の夫婦をエホバにそむかせたサタンは,こうして激しく敵対することによって神のほかのしもべたちをもエホバにそむかせようとしています。このサタンの火のような敵意は,エデンの時からすでに約6000年を経過した今でも,まだ燃えつきてはいません。イエスの時代に,サタンの敵意はイエスに対して激しく燃えました。それはサタンがこの約束された「女のすえ」をまっ殺しようとしたためです。イエスは同様の迫害が臨むことをご自分に従う者たちに警告されました。「わたしがあなたがたに『僕はその主人にまさるものではない』と言ったことを,おぼえていなさい。もし人々がわたしを迫害したなら,あなたがたをも迫害するであろう」。(ヨハネ 15:20)そして今,この事物の制度の終わりの時にあって,エホバのしもべに対するサタンの敵意は,黙示録 12章13-17節でヨハネが予告したとおり,新たな頂点を迎えています。サタンは自分の終わりの近いことをよく知っており(黙示 12:12),エホバに仕える者すべてに対する激しい敵意をむき出しにしています。この敵意がやむのは,「悪魔とか,サタンとか呼ばれ(る)……年を経たへび」がハルマゲドンの直後に神の女のすえのかかとで踏み砕かれる時です。それでわたしたちは迫害に耐える備えをしなければなりません。―黙示 12:9; 19:11–20:3。
いろいろな迫害
5 温和な迫害の一つは何ですか。それを恐れるべきですか。
5 聖書の中には敵対者が忠実なエホバのしもべに用いたいろいろな迫害の方法が出ており,そのすべては今日でも用いられています。比較的に温和な迫害の一つは悪口です。その目的は神のしもべをしりごみさせると同時に,他の人々の心を毒して福音の伝道に耳を閉じさせることです。もとより,ほかの者からののしられ,あるいは自分について偽りの語られることを好む人はいません。しかしイエスは,これによって心をわずらわすべきでなく,むしろ喜ぶべきであると言われました。「わたしのために人々があなたをののしり,また迫害し,あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には,あなたがたは,さいわいである」。このような不快なしうちを受けることがなぜさいわいですか。「喜び,よろこべ,天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも,同じように迫害されたのである」― マタイ 5:11,12。
6 親族からの反対についてイエスは何と言われましたか。ヨブの経験はこれに耐えるのにどんな助けとなりますか。
6 さらに陰険で,時に耐えにくい迫害は親族からの反対です。人が新たにクリスチャンとなる場合,その人が深く愛し,長年親密な間柄にあった親族が,クリスチャンの新しい生活態度を見て急に反対し,迫害を始めることがあります。忠実の人ヨブは自分の苦悩の絶頂の時にこれを経験しました。ヨブの妻は,「あなたはなおも堅く保って,自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」と言って,自分の資産のほとんどすべてを失ったヨブに逆らいました。(ヨブ 2:9; 19:17)しかしヨブは,はげしい苦痛をかかえ,また,本来なら自分を慰めるべき者の口から出たこの思いやりのないことばに胸を刺される思いをしたに違いないのに,エホバに対する忠実さを堅く守りました。同様の試練にあうなら,どんなにむずかしく見えても,わたしたちも同じ態度をとらねばなりません。イエスはそうした事態の起きることを予告して言われました。「わたしがきたのは,人をその父と,娘をその母と,嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が,その人の敵となるであろう」― マタイ 10:35,36。
7 迫害によって投獄される場合,どんな態度をとるべきですか。
7 サタンがよく用いる迫害の方法は投獄です。サタンはこのために偽りの告訴をすることが少なくありません。たとえばヤコブの子ヨセフは,自分の主人の妻に強姦を企てたと偽りの告訴を受けて,エジプト人の獄に入れられました。全く潔白であったヨセフにとってこれは過酷な経験であったに違いありません。ヨセフは何をしましたか。自由を求めて獄を破り,自分の潔白を立証しようとしましたか。いいえ,ヨセフはそのようなことをしません。彼はじっと忍耐し,エホバがご自分の時に,ご自分の方法で解放してくださるのを待ちました。エホバはまさにこのことをされたのです。結果としてヨセフはパロのもとで高い地位につき,さらには神の栄光とほまれのためにエホバ神に用いられました。迫害されながらも忠実に忍耐したヨセフはすばらしい報いを受けたではありませんか。
8 エホバのしもべのほかのどんな投獄の例から勇気を得られますか。
8 ほかの神のしもべたち,たとえば預言者エレミヤや使徒パウロなどは,禁じられながらも大胆に神のことばの真理を語ったことのゆえにひとやにつながれました。敵対者はいつでも,エホバの御目的の真理が公に宣べ伝えられることを阻止しようとしています。ヒトラー時代のドイツにおいては,エホバの証人として忠実に福音を宣明したことのために,わたしたちの兄弟幾千人もが刑務所や強制収容所に入れられました。共産主義国の刑務所で同様の迫害を受けた人々も多くいます。最近釈放された一兄弟はナチスと共産主義者の刑務所に24年間も入れられていました。それでも妥協しなかったのです。ナチスの刑務所に入れられた者の多くは信仰を否認すれば自由になることができました。それでもこの人々が一瞬といえどもそのようなことを考えたことはありませんでした。事実彼らは刑務所の中でさえ伝道を続け,そこにもエホバの「羊」を多く見いだしたのです。こうした試練において彼らをささえたのは黙示録 2章10節の神の約束です。「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ,悪魔が,あなたがたのうちのある者をためすために,獄に入れようとしている」。たしかにこの人々は『ためされ』,同時にエホバがそうした者たちを助けられることを実証しました。
9 敵対者は迫害の一方法として身体的な暴力をどのように用いてきましたか。
9 聖書時代の迫害は,単なる投獄を越えて,はげしい身体的な虐待という形を取ることもありました。使徒たちはユダヤ最高法廷の命令によってむち打たれました。これは使徒たちがイエスの復活について伝道するのをやめさせるためでした。(使行 5:40)ピリピでキリスト教の宣教をしたパウロとシラスは,衣を裂かれたうえむちで打たれました。(使行 16:22,23)最近では,アフリカにおいて,幾百人もの兄弟たちが兵士に囲まれ,銃の台じりで残酷に打たれました。兵士たちは国家の象徴を偶像のように崇拝させようとしたのです。
10 クリスチャンに対して暴徒行為はどのように用いられてきましたか。
10 暴徒行為は聖書時代においても今日においても,サタンの用いる迫害の一武器となってきました。イエス・キリストは自分の育った町ナザレの会堂で率直な伝道をしましたが,これに宗教的な感情を刺激されたユダヤ人はイエスに対して暴動を起こしました。(ルカ 4:28,29)使徒パウロは暴徒の襲撃を少なくとも2回受けています。一度はテサロニケ,他の一度はルステラにおいてです。特にルステラにおいては暴徒の激しい石打ちに会い,町の外に引き出されて死ぬにまかされました。それでもパウロは息をふき返し,驚くほどの勇気をもって町に帰り,「わたしたちが神の国にはいるのには,多くの苦難を経なければならない」と言って,そこの弟子たちを力づけました。(使行 14:19-22; 17:5)アメリカ合衆国その他の幾千ものわたしたちの兄弟たちも,近年,数々の暴徒行為に勇敢に耐えており,それによって信仰をいよいよ強くしています。
11 (イ)迫害者の最後の武器は何ですか。死に至るまでの忠実の模範としてどんな例がありますか。(ロ)死に面しても忠実を保てるのはなぜですか。
11 迫害者の最後の武器は殺害です。エホバの許しを受けたサタンはこの種の手段をも大いに用いてきました。クリスチャン会衆がまだ若かった初期の時代に,兄弟たちはユダヤ教指導者たちから成る暴徒の石打ちに会って殺されたステパノのすぐれた模範を見て,非常に強められました。のちに,使徒ヤコブはヘロデ・アグリッパ1世に剣で切り殺されました。(使行 7:57-60; 12:1,2)迫害下にあっても死に至るまで忠実であった最大の模範は主イエス・キリストです。イエスについてパウロはこう書いています。「彼は,自分の前におかれている喜びのゆえに,恥をもいとわないで〔刑柱〕を忍び,神の御座の右に座するに至ったのである」。(ヘブル 12:2,〔新世訳〕)死に直面してなお不動の態度を守るには勇気が必要です。1944年の秋,ドイツ,ザクセンハウゼンの強制収容所で,絞首台に進みながら少しも動揺するところのなかったヨナタン・スタルクロは勇気がありました。札つきの犯罪者である刑執行人がちゅうちょし,収容所の司令官が刑執行の命令を忘れた時,ヨナタンははっきりした声で言いました。「なぜためらっているのですか。エホバとギデオンの側に立ちなさい」。クリスチャンがこのような死に直面してびくともしないのはなぜですか。それはイエス・キリストを復活させたエホバの復活に関する約束に確かな希望を置いているからです。「死に至るまで忠実であれ。そうすれば,いのちの冠を与えよう」。(黙示 2:10)「からだを殺しても,魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」― マタイ 10:28。
迫害に対するクリスチャンの態度
12,13 (イ)迫害が始まる時,わたしたちは驚きますか。なぜそのように答えますか。(ロ)悪口をあびる時,どのように応ずるべきですか。
12 迫害は忠実さを試みるためエホバの許しによってエホバのしもべに来るものですから,わたしたちは何らかの迫害が起きても驚いてはなりません。事実,もしそうした試練にあっていないなら,自分はほんとうにクリスチャンとして歩んでいるのだろうかといぶかる気持ちさえ起きるでしょう。もとより,敵対者の憎悪を経験するためにすべての者が死に直面しなければならないわけではありません。時には単に悪口をあびせられる場合もあります。クリスチャン活動に携わり,家から家に福音を伝道する者すべては,いつかそのような経験をします。このような場合,クリスチャンの伝道者はどんな態度をとるべきですか。
13 この問題に答える最良の方法は,キリスト・イエスならどうされるだろうかと考えてみることです。イエスがどうされるかについてわたしたちが推測する必要はありません。ペテロの第一の手紙 2章23節にすでに答えが出ているからです。「(キリストは)ののしられても,ののしりかえさず,苦しめられても,おびやかすことをせず,正しいさばきをするかたに,いっさいをゆだねておられた」。ののしった者にののしり返していたなら,イエスは相手と同じ立場に自分を落とすことになり,また悪魔と同じく「そしる者」となったことでしょう。そして,「真理についてあかしをする」という自分の生まれた目的にそむく結果になったでしょう。彼の生まれた目的は反対する者を中傷することではありません。(ヨハネ 18:37)イエスは自分にあびせられる悪口のすべてが天の御父の許しによってもたらされていることを知っていましたから,エホバのみむねに全く従順に服し,この迫害に黙って耐えました。嘲笑や偽りの非難などを受ける場合には,パウロが示すように,柔和な答え方をすることもできるでしょう。「はずかしめられては祝福し,迫害されては耐え忍び,ののしられては優しい言葉をかけている」。(コリント第一 4:12,13)激した怒りのことばに対して出されるもの静かなことばには荒海をしずめる油のような力があります。「柔らかな舌は骨を砕く」。(箴言 25:15)確かに,反対して骨のように堅くなった心が,ものしずかな応答によってやわらげられることは少なくありません。―箴言 15:1。
14 (イ)何を理解していれば迫害に耐えるのに役だちますか。(ロ)使徒たちは迫害に対する正しい見方をどのように示しましたか。
14 長期間にわたってきびしい迫害に耐えるには,それがなぜ許されているかを理解していなければなりません。聖書を研究し,悪の由来を知っているなら,サタンが神に仕える者の信仰をことごとく打ち砕こうと躍起になっていることを知っているはずです。新秩序で神から永遠の命の祝福を受けるには,まずわたしたち自身がそれにふさわしいことを実証しなければなりません。わたしたちの忠実さ,また信仰の堅さは試みられねばならないのです。エホバは,この目的のために,サタンがわたしたちを迫害することを許すと言われました。そしてわたしたちが忠実に忍耐するなら,神の偉大な御名の立証となるのです。このことを知っているなら,使徒たちと同じように,迫害を喜ぶことさえできます。使徒行伝はこの少数のクリスチャンの信仰の試練に関する劇的な記録です。彼らは獄につながれましたが,神の使いによって奇跡的に救い出された時,直ちに大胆な伝道を再開しました。彼らは再びユダヤ人の最高法廷に引き出されました。復活したイエスについて伝道することをやめよと命じられた時,彼らは大胆に答えました。「人間に従うよりは,神に従うべきである」。(使行 5:29)この時,使徒たちはむち打たれ,伝道の中止を命じられました。これによって使徒たちはついに沈黙しましたか。しだいに強まる迫害のために使徒たちはひるみ,姿を消しましたか。使徒行伝 5章41,42の答えをお読みください。「使徒たちは,御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜びながら,議会から出てきた。そして,毎日,宮や家で,イエスがキリストであることを,引きつづき教えたり宣べ伝えたりした」。彼らはエホバに対する自分たちの燃えるような愛を実証する機会が与えられたことを神に感謝したのです。これこそ迫害に対する正しい見方です。
15 わたしたちを迫害する人にどんな態度をとるべきですか。例をあげなさい。
15 しかし,わたしたちに迫害を加える人々に対してはどんな態度をとったらよいですか。イエスは簡明な答えを与えられました。「敵を愛し,迫害する者のために祈れ」。(マタイ 5:44)このことは人間的に可能ですか。ドイツにいたわたしたちの兄弟は,ナチスの迫害者に愛をいだくことができましたか。ナチスの迫害者は鋼鉄のむちで意識がなくなるほどに彼らを打ち,年配者に苦役を課し,倒れるほどの重荷を背負わせたのです。また彼らにほとんど食物を与えず,衰弱した人の中にはねずみにかまれても抵抗できずに死んでゆく者も少なくありませんでした。兄弟たちは自分にこのような非人間的な行為をした者をも愛することができましたか。それはどのような愛を問題にしているかによります。兄弟たちが彼らに対してギリシャ語「フィリア」で表わされるような兄弟の親愛の情を感じなかったことは明らかです。しかし,ギリシャ人に「アガペー」として知られた,利己心のない,原則に基づく愛についてはどうですか。兄弟たちはこのような愛をいだき,また実際に示しました。自分を迫害する者たちに伝道しつづけ,その者たちと接する際にクリスチャンの原則を示すことによって,兄弟たちは迫害者にアガペー愛を表わしました。結果として,かつては迫害者でありながら,転じてエホバの証人となった者もいます。
16 どんな見方をすれば迫害する人間に愛を示せますか。
16 しかし迫害者の中には無知のためにクリスチャンの虐待をつづける者がいます。光の天使に擬装したサタンのために神のことばの真理に盲目にされている者も多くいます。(コリント第二 4:4; 11:14)迫害のみなもと,つまり神のしもべを迫害する者のかしらがサタンであり,人間は単にその道具となっているにすぎないことを理解するなら,わたしたちは人間の迫害者に対して愛のある態度を取ることができます。ステパノはこのような態度で物事を見,まさに死なんとする時にも,「〔エホバ〕よ,どうぞ,この罪を彼らに負わせないで下さい」と叫びました。―使行 7:60,〔新世訳〕。
17 迫害から生まれる二つの良い結果をあげなさい。
17 それで迫害はいつでも嫌悪すべきものではありません。わたしたちが忠実に耐えるなら,良い結果が生まれる場合も多いのです。まず,迫害の理由を知り,またエホバがなぜそれを許しておられるかを理解しているなら,迫害はわたしたちひとりびとりを強くします。信仰のゆえに迫害にあい,エホバの聖霊の助けを得てそれを耐えぬく人には,ことばに言いつくせない喜びがあります。その人は忠実を実証する機会と忍耐する力とを与えられたことについてエホバに感謝します。そして前以上にエホバに引き寄せられます。第二に,反対されながらも忠実であるなら,仲間の信者の励みになります。パウロがひとやにつながれながらも忠実に忍耐し,そのような条件下でも大胆に伝道を続けたことは,ローマの大ぜいのクリスチャンを大いに強くしました。「わたしが獄に捕われているのはキリストのためであることが,兵営全体にもそのほかのすべての人々にも明らかになり,そして兄弟たちのうち多くの者は,わたしの入獄によって主にある確信を得,恐れることなく,ますます勇敢に,神の言を語るようになった」― ピリピ 1:13,14。
18 迫害に忠実に耐えるなら,ほかにどんな良いことがありますか。
18 迫害を忠実に忍耐することの第三のすぐれた結果は,それによってエホバのお名前がたたえられることです。「もしだれかが,不当な苦しみを受けても,神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら,それはよみせられることである。悪いことをして打ちたたかれ,それを忍んだとしても,なんの手柄になるのか。しかし善を行って苦しみを受け,しかもそれを耐え忍んでいるとすれば,これこそ神によみせられることである」。(ペテロ第一 2:19,20)わたしたちが賢明に,そして正しく行動するなら,いつでもエホバを喜ばすことができます。「わが子よ,知恵を得て,わたしの心を喜ばせよ,そうすればわたしをそしる者に答えることができる」。(箴言 27:11)アダムの堕落の時以来,サタンはエホバをそしってきました。わたしたちがもし迫害に屈するなら,神をそしる論拠をさらにサタンに与えることになります。しかし,神のことばと神の聖霊とから力を得,あらゆる反対に面して確固とした信仰を守るなら,わたしたち自身がそしる者に対するエホバの答えとなります。そしてサタンはむなしく引きさがらねばなりません。わたしたちの願いはエホバを喜ばすことではありませんか。それではわたしたちは喜んで,そうです,心から喜んで,比類のない神のお名前のゆえの恥を受けようではありませんか。
19 エホバに仕えるがゆえに迫害されるとき,なぜ恥じる必要はありませんか。
19 迫害をこのように見るなら,わたしたちが自分を恥ずかしく思うことはありません。キリストの名のゆえに「すべての人に憎まれ」,「この世のちりのように,人間のくずのようにされ」ても,あわてたり,心配したりする必要はありません。(マタイ 10:22。コリント第一 4:13)パウロはそのように考え,テモテにこう語っています。「だから,あなたは,わたしたちの主のあかしをすることや,わたしが主の囚人であることを,決して恥ずかしく思ってはならない。……そのためにまた,わたしはこのような苦しみを受けているが,それを恥としない」。(テモテ第二 1:8,12)ペテロもこれと同じように考えました。「しかし,クリスチャンとして苦しみを受けるのであれば,恥じることはない。かえって,この名によって神をあがめなさい」。(ペテロ第一 4:16)自分の信仰が正しいこと,また自分が神のみこころを行なっていることを確信しているなら,どんな恥ずべきしうち,悪口,迫害などを受けねばならない場合でも,それによって落胆し,あるいはエホバへの奉仕をやめることはありません。現代のポルトガルのエホバの証人の場合はまさにそうでした。最近,ある会衆では成員全体が逮捕され,裁判にかけられ,不当にも罪とされました。しかしこれによって,この国のエホバの証人が神への奉仕をやめたわけではありません。
20 たとえひとりでも迫害に耐えられることは,どうして確信できますか。
20 エホバの力を確信しているなら,たとえひとりになっても迫害に負けることはありません。忠実の人ヨブは,助けたり慰めたりしてくれる人がだれもいなくても,そうした試練に耐えました。そしてエホバはやさしく彼をささえられました。「あなたがたは,ヨブの忍耐のことを聞いている。また,〔エホバ〕が彼になさったことの結末を見て,〔エホバ〕がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが,わかるはずである」。(ヤコブ 5:11,〔新世訳〕)パウロもローマにおいてはそのような孤立の経験をしましたが,終わりまでそれを忍びぬきました。「わたしの第一回の弁明の際には,わたしに味方をする者はひとりもなく,みなわたしを捨てて行った。どうか,彼らが,そのために責められることがないように。しかし,わたしが御言を余すところなく宣べ伝えて,すべての異邦人に聞かせるように,主はわたしを助け,力づけて下さった。そして,わたしは,ししの口から救い出されたのである。主はわたしを,すべての悪のわざから助け出し,天にある御国に救い入れて下さるであろう」。(テモテ第二 4:16-18)現代の例をあげるなら,共産主義中国の独房でそれぞれ7年と5年を過ごしたスタンレー・ジョーンズとハロルド・キングの確固とした信仰の模範があります。確かにエホバは,ご自分に全幅の信頼をおく者を見捨てません。「〔エホバ〕はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は,わたしに何ができようか」― ヘブル 13:6,〔新世訳〕。
21 前途に迫害があっても,なぜ確信をもって将来を見ることができますか。
21 エホバの確かなお約束に心をとめ,迫害下で忠実をつくした兄弟たちの模範を忘れないなら,サタンの燃える怒り,死の苦闘のすべてがわたしたちに臨もうとも,わたしたちがそれを恐れる必要はありません。エホバはわたしたちが試練に会うことを許しておられます。それはわたしたちが自分の信仰を実証するためであり,また神の偉大なお名前を立証するためです。また,「神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか,試練と同時に,それに耐えられるように,のがれる道も備えて下さるのである」。(コリント第一 10:13)それゆえ,わたしたちは信仰と確信に満ちて将来を見,「悪しき者の放つ火の矢を消」し得ることを確信しています。(エペソ 6:16)そして最後には喜んでこう叫ぶことができるでしょう。「しかし感謝すべきことには,神はわたしたちの主イエス・キリストによって,わたしたちに勝利を賜わったのである」― コリント第一 15:57。