最近王の秘書官があなたを訪問しましたか
「其中に一人布の衣を着,〔秘書官〕の墨盂を腰におぶる者あり」― エゼキエル 9:2,〔新〕。
1 王の秘書官の訪問にかんしてどんな質問が提起されますか。こうした質問に対する答えは重要ですか。
すでに相当の年月,王の秘書官が人々の家を訪問しています。最近,その秘書官があなたの家を訪問しましたか。この質問にあなたは驚いて,次のように言われるかもしれません。『王の秘書官だといって,だれかが私の所に尋ねてきたことなど一度もありません』と。しかしあるいは,今は危険な時代ですから,知らない訪問者のために戸をあけるのを恐れて,あなたは戸を閉じて,かぎをかけておられたのかもしれません。または,その訪問者のために確かに戸はあけたのですが,訪問者が王の秘書官であることには気づかなかったのかもしれません。気づかなかったからといって,彼は訪問しなかったのだろうということにはなりません。その秘書官の仕事はたいへん急を要するものであり,彼はあなたの益のために訪問していたのです。『そんなことはわかるはずがないではありませんか。その王とはいったいだれのことですか。そしてその秘書官とはだれですか。また,彼はなんの用があって訪問するのですか』,とあなたは大声で尋ねるかもしれません。こうした質問に対する答えは,緊急な事態あるいは不慮の事変が必ずや起ころうとしている今日の不安な時代にあって,非常に重要な意味を持っています。
2 ここではどんな王が関係していますか。現代においてその王が秘書官を遣わすことは予期されていました。その理由を述べなさい。
2 この異例の質問は,それを提起させた状況に照らして考えると,理解できます。今日の世界情勢はかつてない全く新しい事態であるというわけではありません。遠い昔,小規模ながら同様な情勢の見られた時代がありました。したがって,その時の事態は今日のわたしたちに警告を発する例となっています。それゆえにこそ,その教訓が忘れ去られることがないようその事例が古代史の中に記録されたのです。わたしたちは今日その教訓を必要としており,永続する益を願うなら,その教訓を心に銘記し,それに注意を払わねばなりません。昔の模型的な情勢におけると全く同様,最も偉大な王が,そうです,その当時と同じ王が現在においても深いかかわりを持っているのです。この王が今日遣わしておられる秘書官は,遠い昔,困窮している民のために出かけて行くよう同じ王から権限を与えられた者に相当します。そのようなことをする王が地上に何人いるでしょうか。少なくとも,この偉大な王だけはそうなさいました。彼は現代においてそうすることを,遠い昔,同様な状況のもとで行なったことによって予表しておられたのです。わたしたちを今日啓発し導くために,彼はそれに関する真実かつ正確な記録が作成されるよう取り計らわれました。
3 今から2,582年前,世界強国,および長期間にわたったただ一つの家系の歴代の王の治める王国に関して,どんな事態が見られましたか。その王国に生じたできごとはどうして世界的な重要性を帯びるものとなりましたか。
3 では,その記録を調べるために,西暦前612年,つまり今から2,582年前のことをふり返ってみましょう,新しく興った大世界強国(バビロン)が,世界政治の領域で優勢な立場を占めるようになってからまもない時のことです。西暦前1077年以来,ただ一つの王家によって465年間支配されてきた一つの王国が滅ぼされようとしていました。歴史の発展の跡をふり返って見ると,その王国の滅亡までにはわずか5年の期間が残されているだけでした。つまり,その首都エルサレムが実際に滅ぼされたのは西暦前607年であり,同時にその王国の神の神殿も破壊されました。この事件は人類の全世界に影響を及ぼすことになっていました。というのは,その時から,バビロニア世界強国,メデヤ-ペルシャ世界強国,ギリシア世界強国,ローマ世界強国そして英米世界強国が順を追って全人類を支配する2,520年に及ぶ期間が始まろうとしていたからです。
4 世界支配のなされたその期間はどのように中断されずに続くことになっていましたか。それはいつ終わりましたか。西暦前612年は今日のわたしたちにとってなぜ興味深い年といえますか。
4 その間,これら世界強国によるこの地に対する支配は宇宙で至高の力を有するかたの建てる王国によって中断される事態は起こらないことになっていました。中断されることなくなされる政治的世界支配の続くその長い期間は,歴史の上で西暦1914年,つまり,最終的には英国とアメリカから成る二重世界強国をも含む28か国を巻き込むにいたった国際戦争,すなわち,人類史上最初の世界大戦がぼっ発した年に終わりを告げました。したがってわたしたちは今,ここで注目している遠い昔の西暦前612年という年が,当時きわめて重大な時であったこと,さらにその年が今日におけるきわめて重大な時を予表していたことを認識できます。
5 その西暦612年,1万人ほどのユダヤ人はどこにいましたか。その年にエゼキエルは幻の中でどんな経験をしましたか。
5 西暦前612年当時すでに,エルサレムおよびユダの王国から追放され,バビロンで流刑に服している人たちが1万人もいました。(列王下 24:14)その中には,エホバ神の預言者となった人たち,つまり,ダニエルと祭司ブシの子エゼキエルが含まれていました。(ダニエル 1:1-6。エゼキエル 1:1-3)西暦前612年は,このふたりにとって流刑の6年目に当たります。その年,預言者エゼキエルは一つの幻を見ました。肉身においてはエゼキエルはバビロニアのケバル川のほとりにあるテル・アビブという場所にとどまっていましたが,霊においては,あるいは霊感によってエルサレムに移されていました。(エゼキエル 3:15; 8:1-4)この幻の中でエゼキエルは,イスラエル王国の神であるエホバの崇拝のために,ダビデの息子ソロモン王の建てた神殿を案内してもらいます。エホバは,目に見えない神であるご自分を崇拝するのに,像や絵の使用を禁じておられます。それにもかかわらず,天と地を治めるこの神にささげられたその神殿で預言者エゼキエルが見たのは,偽りの神々の崇拝に用いられているさまざまな象や,壁にかかった絵でした。たとえば,エゼキエルが目にした光景の一つは次のようなものでした。
6 神殿のこの見学のさいにエゼキエルはイスラエルの70人の長老が何をしているのを見ましたか。
6 「もろもろの爬蟲と憎むべき獣畜の形およびイスラエルの家の諸の偶像その周囲の壁に画きてありイスラエルの家の長老七十人その前に立てり シャパンの子ヤザニヤもかれらの中に立ちてあり 各手に香炉を執る その香の煙雲のごとくにのぼれり 彼われに言たまいけるは 人の子よ 汝イスラエルの家の長老等が暗におこなふ事即ちかれらが各人その偶像の間におこなふ事を見るや彼ら言ふエホバは我らを見ずエホバこの地を棄てたりと」― エゼキエル 8:10-12。
7 偶像崇拝を行なっていたそれら70人の長老たちにエホバが何をもたらしたのは正しいことでしたか。どうしてそういえますか。
7 エホバの神殿の中にいたそれら70人の長老たちがそのように言うのは正しいかどうか,また,そのような仕方でエホバの崇拝の家を卑しめ汚しておきながら,処罰されずにすむと期待するのは正しいかどうかは,時たつうちに,しかも非常に間近に明らかにされようとしていました。彼らは忌むべき仕方で十戒の第一と第二の掟を破っていたのです。エホバは,専心の献身を求めるという意味で,また,ご自分の栄光を偽りの神々と分かつことも,ご自分の賛美を偶像とともにはしないという意味で,「嫉む神」です。エホバは,エルサレムにあるご自分の神殿のただ中で偽りの崇拝をならわしにしていた者たちすべてをその罪過と罪悪のゆえに処罰されたのは正当なことでした。(出エジプト 20:1-6。イザヤ 42:8)エホバは,ご自分の考えを変えることなく,本気でそうしようとしておられたことを預言者エゼキエルに示されました。ご自分の神殿の中で行なわれている,こともあろうに太陽崇拝をエゼキエルに目撃させてその証人とした後,エホバは彼にこう仰せになりました。
8 エホバは本気で正当な処罰を課そうとしておられたことをどんなことばで示されましたか。
8 「我また怒をもて事をなさん[それら70人の長老によって,盲目とみなされた]吾目はかれらを惜み見ず我かれらを憫まじ彼ら大声にわが耳に呼わるとも我かれらに聴じ」― エゼキエル 8:13-18。
9 この点で,エホバは買収されるような神ではないことを何が証明していますか。それで,個々の人間にかんしてどんな質問が生じますか。
9 これに対し,同様に重大な時期に住んでいるわたしたちはなんと言えばよいでしょうか。エホバは憫れみのない神なのか。この時代の重大な事態がやがて最高潮に達するとき,エホバはだれにも憫れみを示されないのか,との質問をしましょうか。偽善的で偽りの崇拝者たちが自分自身の悪行の結果をこうむるままにされたからといって,いささかもエホバを非難することはできません。しかも,エホバはまさにこのことを行なうとわたしたちすべてに明確に告げておられるのですから,エホバは買収されるような神ではないという事実をわたしたちは認識すべきです。預言者エゼキエルの民はそのことを認めさせられ,それが歴史的な事実となったことは,エホバは実在する生ける神であり,全存在にわたって真実に生きておられる真理の神であることを証明しています。今日の世代の人類もまた,このことを認めさせられようとしているのです。それにしても,神がこの世代の人々に憫れみを示すかどうかについてはどんな希望があるのでしょうか。その答えは,エゼキエルの時代のエルサレムに起こった事柄からわかります。では,エゼキエルが次になんと述べているか耳を傾けてみましょう。
その都に注意が向けられる ― どのように?
10,11 (イ)エゼキエルの聞こえるところで大声で呼んだのはだれですか。どこから呼びましたか。(ロ)そのかたはどうしてこの都に関して命令を発する権利を持っておられましたか。
10 「斯て彼大声に吾耳に呼はりて言たまふ邑〔に注意を向けている〕者等各々剪滅の器具を手にとりて前み来れと」。
11 エゼキエルの聞こえるところでこの命令を発しているのはエホバです。(エゼキエル 9:1〔新〕)エホバはどこにおられるのですか。恐ろしいほど高い輪を備えた戦車に乗って進む,栄光に輝く御座に座しておられるのです。その四つの輪のおのおののそばには天のケルブがひとりずつついています。(エゼキエル 8:2-4; 10:1,2)エホバはエルサレムの都に関して指令を発する権利を持っておられます。彼は王だからです。「とこしえの王」であられるのです。(テモテ前 1:17,新世界訳。モファット訳。黙示 15:3)彼は実際にエゼキエルの国民の上に立つ,見えない王でした。そしてエルサレムの王座に座した油そそがれた王は,目に見えない王エホバの見える代表者として,「エホバの位」に座す者と言われていました。(歴代上 29:23。エゼキエル 20:33)イエス・キリストは当時のエルサレムを「偉大な王の都」と呼ばれました。(マタイ 5:35,新)ゆえにエホバは,エルサレムの都をどのように処置すべきかについて指令を発する,最高の王権を持っておられたのです。エゼキエルに与えられた一連の幻の中の次の幻によると,エルサレムは焼き滅ぼされることになっていました。(エゼキエル 10:1-7。列王下 25:8,9。歴代下 36:17-19)しかし,その都が破壊される前に,その住民には何が行なわれようとしていましたか。
12 破滅をもたらすそれらの武器にかんしてどんな質問が生じますか。『町に注意を向けている者ども』という表現はだれを意味してはいませんか。なぜですか。
12 エルサレムの住民に関しては,目に見えない王エホバが,命令的な響きのこもった大声で次のように呼ばわるのが聞かれました。それは不吉な響きを持っていました。「邑〔に注意を向けている〕者等各々剪滅の器具を手にとりて前み来れ」。(エゼキエル 9:1〔新〕)その破滅のうつわ,つまり武器はだれに対して使用されるのですか。エルサレムの住民に対してですか。その全住民に対してですか。破滅をもたらす武器で身を固めた者たちは,『町に注意を向けている者ども』として言及されています。この表現は,当時統治していた王ゼデキヤをさすのではありません。また,彼に仕える政治上の支配者,軍事指揮官,神殿の大祭司あるいは下位の祭司などを意味していたのでもありません。彼らがエルサレムに住む自分たちの民に,破滅をもたらす武器を振うとは考えられません。では,この武装した者たちはいったいだれだったのですか。
13 では,幻の中で見たそれらの武装した者たちはだれでしたか。ゆえに,バビロンの軍勢についてはなんといわなければなりませんか。
13 「怒をもて事をなさん」としておられたエホバに服する者であった彼らは,エホバの刑執行官であり,エルサレムの住民に対してエホバの司法上の判決を執行しようとしていました。その意味で彼らは『町に注意を向けている』と言えました。幻の中でそれらの者たちは人間として現われましたが,実際には,エルサレムの住民に不利な裁きを執行するために用いられようとしていたエホバの聖なるみ使いだったのです。歴史によると,目に見えるものとしてはバビロンの武装した軍隊が,この反抗的な都市にエホバのさばきを執行するのに用いられました。しかし,エゼキエルの幻の中で描かれていた者たちはバビロンの軍隊ではありませんでした。それらバビロニア人たちは,天のみ使いによりエルサレムに敵対するものとして用いられたにすぎなかったのです。
14 エホバの召しの声を聞くや,何人の武装した者たちが出てきましたか。どの方向から来ましたか。
14 王としてのエホバの命令が出されるや,何人の武装した者が現われましたか。彼らはどの方向から来ましたか。エゼキエルは次のように告げています。「即ち北にむかへる上の門の路より六人の者おのおの打壊る器具を手にとりて来る其中に一人布の衣を着〔秘書官〕の墨盂を腰におぶる者あり 彼ら来りて銅の壇の傍に立てり」― エゼキエル 9:2,〔新〕。
15 (イ)幻の中のそれら「六人の者」は実際にはだれでしたか。彼らがやって来た方角は,なんの前兆となりましたか。(ロ)どんな抵抗がなされようとも,「怒をもて事をなさん」としておられたエホバの決意はどのように勝利をもたらすものとなりましたか。
15 打ちやぶるうつわ,または武器を手にした者が6人です。多い数ではありません。とはいえ,彼らはみ使いを表わしているのですから,エルサレム内部にいる幾千人の住民をもってしても対抗できないほどの超人的な力を持っていました。ですから,その数が6人だからといって,彼らに何か不備なところがあったとか,刑執行者としての仕事を果たす力がなかったなどということにはなりません。それら6人の刑執行者が「北にむかへる上の門の路より」来ることに注目してください。これは,バビロンの軍隊が北方からエルサレムに向かって行進し,エホバの刑を執行するみ使いの器として地上でその任を果たすことの前兆となりました。南からはエルサレムの王ゼデキヤの要請に応えて,エジプトのパロの軍隊が上ってきましたが,その連合軍はバビロニア人によって撃退されました。エルサレムを破壊すべく「怒をもて事をなさん」としておられたエホバの決意は,ざ折するはずがありませんでした。『町に注意』を向けるようエホバから命ぜられた,打ちやぶる武器を携えたその象徴的な「六人の者」は,神の支持を得ており,いかなる抵抗を受けようとも,それに打ち勝つことは必至でした。
16 こうした状況からすれば,諸国民は近い将来,何に実際に直面しようとしていますか。
16 わたしたちは今日,この預言的な状況の真意をつかみそこなってはなりません。全世界にまたがる現行のこの事物の体制が近い将来に直面しようとしているのは,滅亡と破壊とを図る単なる人間の諸勢力ではありません。それら過激で無政府主義的また虚無主義的で無秩序な人間の諸分子が破壊し,まっ殺できなかったものを,この邪悪な事物の体制に対して「怒り」を執行するエホバの超人的なみ使いの軍勢は,ことごとくぬぐい去ってしまうのです。この腐敗し,堕落した事物の体制のこん跡をとどめるものは,一つ残らず消滅しなければなりません。
17 このことにキリスト教世界が含まれるかどうかを決めるどんな理由がありますか。キリスト教世界の人々には急を知らされなければならない理由があります。なぜですか。
17 キリスト教世界もですか。そうです。なぜなら,今日それはこの事物の体制の主要な部分を成しているからです。そのうえ,キリスト教世界は,不忠実な古代のエルサレムとその領域,つまりユダの地によって描かれている特殊な組織であり,エホバという名の聖書の神を崇拝すると主張する宗教組織なのです。それは,エホバ神のみ子であるイエスをキリストと認めると唱え,それゆえに,キリスト教世界という名称をもって呼ばれるのをよしとしてきました。しかし,古代のエルサレムと同様,キリスト教世界はエホバとの宗教上の契約を破り,この世の異教の諸宗教によって自らを堕落させてしまいました。したがって,キリスト教世界は真のキリスト教を実践してはいません。その宗教的な名称は自らを守るものとはなりません。象徴的な「六人の者」が打ちやぶる武器をもって,『キリスト教世界に注意を向ける』その厳粛な時は近づいています。キリスト教世界のみなさん,これはまさしくあなたがたに急を告げる事態なのです。
18 そうした粉砕はいつ生じようとしていますか。それは回避できますか。わたしたち個人についてはどんな質問が生じますか。
18 キリスト教世界を含むこの事物の全体制がこの世代のうちに打ち砕かれる,つまり粉砕されるのは必至です。ご自分のさばきを徹底的に執行すべく天の戦車に乗って到来する宇宙の王エホバのみ手からもたらされるこの世界的大変災は不可避です。このことに関して,それら象徴的な「六人の者」が破滅をもたらす武器をもって世の事物を打ち破り始める前の今,わたしたちが何か個人的に行なえることがありますか。それを知るために,預言者エゼキエルが幻の中で見た預言的な劇をさらに調べることにしましょう。
王の秘書官の実体を明らかにする
19 北の方からやって来て,祭壇のかたわらに立った者たちは何人でしたか。彼らはみな武装していましたか。
19 北の方から来て神殿の中庭にはいり,犠牲を供する銅の祭壇のかたわらに立つのは「六人の者」だけではなかったことに注目してください。そこに立ったのは7人です。しかも,その7番目の者は他の6人の者たちのように武装してはいませんでした。エゼキエルはこう述べます。「其の中に一人布の衣を着〔秘書官〕の墨盂を腰におぶる者あり」。(エゼキエル 9:2〔新〕)この者はいったいだれですか。
20 7番目の者はだれでしたか。彼はエルサレムのゼデキヤ王に仕えていましたか。
20 そうです,それは王の秘書官です。軍服を着用しておらず,筆と墨のはいった墨いれを持っていることから,彼は秘書官であることがわかります。彼もエルサレムに注意を向けなければなりません。そして,天の戦車の上の王座に座しておられるかたから召喚されたのですから,この者はエホバの秘書官であるにちがいありません。エルサレムにおけるエホバの地的な見える王座には当時,ダビデの王家に属するゼデキヤ王がついていました。問題の秘書官は反逆的なゼデキヤ王に仕えていたのではなく,とこしえの王エホバに仕えていたのです。昔のエゼキエルの時代におけるこの者はだれでしたか。そして,今日その者はだれですか。
21 布の衣を着た者がみ使いであったかどうかについてはなんといえますか。その者が幻の中でもたらしたと同様の結果が,エゼキエルの時代にもたらされましたか。
21 彼は,エホバの裁きを執行するみ使いを表わす「六人の者」の中にいたのですから,やはりみ使いあるいはみ使いの一団を表わすのでしょうか。もし彼が目に見えない天のみ使いであるとするならば,その者があなたを最近訪問したかどうかはどうしてわかるのでしょうか。しかし,エホバが彼に割り当てた仕事からすれば,この者は地上で平和な仕方で用いられる見える何ものかを表わしていることは明白です。それでは,彼は人間を表わしていたのではありませんか。それにしても,エゼキエルの時代にさかのぼって聖書を調べても,「布の衣を着」たこの者がするようにと告げられた仕事を,だれかひとりの人間が文字どおりに行なったことをしるしている記録はありません。その当時,エルサレムにいた預言者エレミヤはそのようなことをしませんでした。エゼキエルにしてもそうです。というのは,彼は幻の中で,つまりエホバからの霊感による霊によってエルサレムに戻ったにすぎなかったからです。しかし当時,秘書官の墨いれをもった文字どおりの人間が,エゼキエルが幻の中で見た仕事を行ないながらエルサレムを巡る光景は見られなかったとはいえ,そうした秘書官の仕事のもたらす有益な結果は,あたかも文字どおりの人間が都市の中を行き巡り,割り当てられた仕事を成し遂げたかのように現われました。ゆえに,その当時における,墨いれを携えた問題の人は,神によって完遂されたわざをさし示す描画的な趣向にすぎませんでした。
22 この幻は第一義的にはだれのために,またいつ成就されることになっていましたか。それでは今日,その王の秘書官とはだれですか。
22 それにしても,わたしたちの時代についてはどうですか。墨いれを携えた者の幻は第一義的にはわたしたちの時代に対して,つまり「事物の体制の終わりの到来した」時代の今のわたしたちの益のために適用されるべきことが明らかになってきます。(コリント前 10:11,新)エゼキエルの時代においては,ある個人が,エルサレムが破壊されるまでに残されていた期間に,城壁で囲まれたその古代都市の中で,この仕事を成し遂げようと思えば成し遂げることができたかもしれませんが,ここで描写されていたのはただひとりの人ではありません。そして,その対型的な今日の『都市』がキリスト教世界であること,およびその世界的な規模を考慮するなら,それはひとりの人がなしうる仕事ではないことがわかります。それは一群の人々による,かなりの年月を要する仕事にちがいありません。ゆえに,わたしたちの時代において,「布の衣を着〔秘書官〕の墨盂を腰にお(びた)」この幻の人物は,複合的な現代の人,すなわち,「とこしえの王」エホバの奉仕にあって,唯一の同じ目的を目ざし,ひとりの頭のもとで唯一の同じわざに全員が協働する,一致した一群の人々であるに違いありません。それこそわたしたちの時代における王の秘書官です。
23,24 (イ)生来のユダヤ人は布の衣を着た者にかんする幻を成就する者ではありません。なぜですか。(ロ)キリスト教世界の僧職者はエホバのための秘書官の仕事をしていますか。その答えの理由を述べなさい。
23 この複合的な「秘書官」がエホバの奉仕に携わっているからといって,それはユダヤ人のグループだ,ということにはなりません。エホバは,彼らの父祖アブラハム,イサク,ヤコブおよびモーセの神ではありましたが,割礼を受けた生来のユダヤ人つまりイスラエル人は今日,いうまでもなくエホバの奉仕に携わっていません。不幸なことに,彼らはみずからをこの奉仕から除外しています。なぜなら,彼らは,刑柱にかけられ,そして復活させられたイエスを,メシヤすなわちキリスト,また,エホバ神のみ子として受け入れないからです。そのうえ,彼らはユダヤ人なので,エゼキエルの幻の中に現われた『布を着た』者によってなされた仕事を全うするクリスチャンのわざをキリスト教世界の至る所で行ないたいとは考えていません。キリスト教世界の僧職者にしてもエホバ神の秘書の仕事を行なう一致した団体として行動してはいません。それら僧職者はそのような仕事が必要だとは全然考えません。キリスト教世界がエホバによって,つまり,エホバのみ子イエス・キリストの率いるみ使いたちの手で間もなく滅ぼされようとしていることを信じてはいないからです。たとえば,さる1971年4月11日の復活祭の日曜日,バチカン市のローマ・カトリックの教皇はなんと言いましたか。
24 その翌日の日付でニューヨーク・タイムス紙は,「ローマ発,4月11日」の日付のある至急報を掲載して,こう述べました。「希望に満ちた復活祭のメッセージの中で,教皇パウロ6世はきょう次のように述べた。『現代世界を導く光ともいうべきこの偉大な理想は決して消滅しないであろう』。『世界の一致は成し遂げられるであろう』と教皇は断言した。……『希望のメッセージ』と名付けられた音信の中で,教皇はこう語った,『人身の尊さは正式に認められるだけでなく,実際に認められることになろう。生命は母の胎内にある時から老年にいたるまで犯すべからざるものであることは,一般の,また事実上の支持を得ることになろう。卑劣な社会的不平等は克服され,諸民族相互の関係は平和,理性,兄弟愛に満ちたものになるであろう』」。
25 秘書官の墨いれを携えたその複合の人の現代における成就は,キリスト教世界の宗教諸団体の中に見いだせるものではありません。なぜですか。しかし,その実体を明らかにするものが手もとにあります。それはなんですか。
25 わたしたちの時代にかかわる聖書の預言を信じていない,キリスト教世界の僧職者や宗教団体は,キリスト教世界がそのもろもろの忌まわしい事物とともに永続することを願って働き,そのために祈り,尽力しているのです。秘書官の墨いれを携えた預言的な人の現代における成就は,キリスト教世界のそうした宗教団体の中に見いだされるわけがありません。では,『布の衣を着た』現代の複合的な人の仕事をしてきたのはだれですか。わたしたちの手もとにある,全地に知られた歴史的な諸事実は,この複合的な者あるいは人がだれであるかを明らかにすることができます。
26 それで,1931年およびそれ以後明らかにされた,王の秘書官とはだれのことですか。
26 それは1931年に,キリスト教世界に滅亡がさし迫っていることを悟り,それゆえに,現代に適用される『布の衣を着た者』の仕事をしなければならないことを知った,献身しバプテスマを受けたクリスチャンで構成されるある小さな団体です。1931年7月30日,アメリカのオハイオ州コロンバスで開かれたそれら油そそがれたクリスチャンたちの大会で午後3時から,「墨いれを腰におぶる者」と題する講演が始まり,その講演が終わると直ちに,エゼキエル書の1章から24章までを説明した「立証」と題する本が,大会に集まった数千人の出席者に発表されました。それよりわずか4日前の1931年7月26日,日曜日,この大会に出席していた霊によって油そそがれたクリスチャンたちは,自分たちのために「エホバの証人」という顕著な名称を採用したばかりでした。その名称のみならず,それ以来彼らが遂行したわざもまた,至高の神の油そそがれたクリスチャンのこの残れる者たちが,『布の衣を着,秘書官の墨いれをおぶる者』の20世紀におけるまぎれもない成就となっていることを証明しています。したがってこれが現代の「王の秘書官」です。最近,あなたはその訪問を受けましたか。
27,28 (イ)エゼキエルの幻の中で,布の衣を着た人がある人間の企てにしたがって人間から命令を受けたかどうかを何が示していますか。(ロ)7人のグループの中で最初に行動することになっていたのはだれですか。何をするようにとの命令が出されましたか。
27 この油そそがれた残れる者のわざが,人間の企てによるものではなく,エホバ神に由来することは,エゼキエルの見た幻の中にいみじくも描かれています。『布の衣を着た者』がどこからその指示を得たかを示しながら,エゼキエルは自分の見聞きしたことを次のように告げています。「爰にイスラエルの神の栄光その居るところのケルブの上より起あがりて家[神殿の聖所]の閾にいたり彼の布の衣を着て腰に〔秘書官〕の墨盂をおぶる者を呼ぶ」― エゼキエル 9:3〔新〕; 10:2。
28 こうしてエホバの栄光は,そのかたわらに4人のケルブが配置されていた輪の上の台を離れて,エルサレムの神殿の至聖所と呼ばれる区画の敷居の上に位置を定めました。その時,エホバはまさしくご自分の聖なる神殿の中におられたのであり,このかたから,『布の衣を着た者』は何をすべきかを告げられたのです。汚された神殿の不忠実な祭司たちから告げられたのではありません。この者は,打ち破る武器で武装した「六人の者」が行動する前に,まず最初に行動することになっていました。彼はそれら6人の刑執行者に先だって何をすることになっていましたか。エホバはこう言われます。「邑の中エルサレムの中を巡れ而して邑の中に行はるゝところの諸の憎むべき事のために歎き哀しむ人々の額に記号をつけよ」― エゼキエル 9:4。
29 布の衣を着た者は,しるしをつける仕事を神殿の中で行なえとは命じられませんでした。なぜですか。彼はなぜエルサレムのただ中を通るようつかわされましたか。
29 エホバはその者に,神殿の中を通ってしるしをつける仕事をしなさいとは命じませんでした。そこには,額にしるしをつけられるべき者はいませんでした。というのは,預言者エゼキエルは検査のために神殿の中を一巡したさい,そこで崇拝者が偽りの崇拝を行なっているのを,さらに幾人かの女たちが神殿やエルサレムのただ中で行なわれている憎むべきことのためにではなく,偽りの神タンムズのために泣いているのを見せつけられていたからです。(エゼキエル 8:13,14)このゆえに,『布の衣を着た者』は神殿の外に行って,「エルサレムの中を巡れ」と命じられました。エホバは不忠実なエルサレムの至る所に,そのただ中で行なわれている「諸の憎むべき事のために歎き哀しむ人」がいるのをご覧になりました。
30 布の衣を着た者はどのようにして正しい種類の個々の人を捜し出すのですか。それらの人々にはどんな理由に基づいて所定の箇所にしるしをつけられましたか。
30 『衣を着た者』は,こうして「歎き哀しむ」人たちを,どのようにして見つけるのですか。単に町の広場や市場に行くだけでなく,人々の家を戸別に尋ねることによってです。そうすれば,人々が心から述べることばを聞くことができ,額にしるしをつけるべきかどうかを決定できます。これは決して急いでする作業ではありません。むしろそれは,しんぼう強く,またきちょうめんに家々を戸別に尋ねて公正な調査をし,王の都の中で他の人たちが行なっているもろもろの憎むべき事を誠実な気持ちから嘆いている人々のみに,また偏ぱなくしるしをつける仕事でした。『布の衣を着た者』はそれらの人々に,胸中をあらわにしなさい,そうすれば心にしるしをつけます,とは言いませんでした。そうではなく,友にも敵にも公に見られる額に顕著なしるしをつけたのです。衣服の種類や偽善的で信心深そうな話しぶりではなく,このしるしこそ人をしてエホバの崇拝者であることを明らかにするものでした。
[271ページの図版]
エゼキエルは幻の中で,エホバの崇拝の家を汚し,「エホバは我らを見ず」と語っていた70人の長老たちを見た
[273ページの図版]
6人の武装した者が王の秘書官に同伴した。彼らは,キリスト教世界を含むこの腐敗した体制をまもなく一掃する,神の使いたちの軍勢を表わしている