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あなたの命は危険にさらされています ― どのように,またなぜものみの塔 1972 | 7月15日
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にて行ひしならば,今日までも,かの町は遺りしならん。然れば汝らに告ぐ,審判の日にはソドムの地のかた汝よりも耐へ易からん」。「ニネベの人,審判のとき今の代の人とともに立ちて之が罪を定めん,彼らはヨナの宣ぶる言によりて悔改めたり。視よ,ヨナよりも勝るもの此処に在り」。―マタイ 11:21-24; 12:41。
24 キリスト教世界で王国が宣べ伝えられた結果,どうなりましたか。
24 同様に,エゼキエルによって表わされている油そそがれた王国布告者たちは,『彼らの』民に,つまり大体同様の聖書的な言語を話し,彼ら同様クリスチャンと称する民に遣わされています。エホバの証人が「キリスト教」国の人びとに聖書について話す場合,彼らは証人たちの言わんとすることを知っています。また,聖書の表現や用語をよく知っているので,共通の立場に立っています。現代の「エゼキエル」の語ることは理解できないとして言いのがれる余地はありません。もし聞く耳をもって応じないとすれば,それはそうしたくないからです。
愛の音信
25,26 宣べ伝えるわざに携わる人たちを神はどのように強められましたか。彼らはどんな動機,またどんな力で動かされていますか。
25 イエスを信じたのはユダヤ国民の中のごく少数者にすぎなかったのと全く同様,エホバの証人の音信を受け入れるのは,キリスト教世界のほんの一部の人たちにすぎません。キリスト教世界はおおむね反抗的な家であり,さし迫った危険を認めてはいません。しかし,キリスト教世界は強情で無情であるにしても,エホバはご自身のしもべたちを強めて,同世界に対するご自分の音信を恐れずにふれ告げられるようにし,またそれらしもべたちの額を金剛石つまりダイヤモンドのようにたいへん堅くされました。彼らは人間に対する恐れのために無力になることはありません。(箴 29:25)しかしながらエホバの証人はどんな状況のもとでも宣べ伝えるわざを決してやめないため,狂信者とまちがえられる場合がありますが,実際には愛とエホバの霊によって動かされているのです。なぜなら,愛のあるエホバ神は,人びとが直面している恐るべき危険をご存じであり,良いたよりで心を動かせる人すべてを救出したいと考えておられるからです。―エゼキエル 33:11。
26 神はさらにエゼキエルに仰せられました。「人の子よ わが汝にいふところの凡の言をなんぢの心にをさめ汝の耳にきけよ 往てかの拠へ移されたる汝の民の子孫にいたりこれに語りて主エホバかく言たまふと言へ 彼ら聴も拒むも汝然すべし」― エゼキエル 3:10,11。
霊的な捕われからのがれなさい
27 エゼキエルの時代のユダヤ人と同様,今日,キリスト教世界の人びとはどんな状態に陥っていますか。
27 エゼキエルから音信を宣べ伝えられたユダヤ人はバビロンで流刑の身となっていました。同様に今日,「キリスト教」国の人びとは,罪への隷属から人を解放する真理を実践してはいません。そのうえ,偽りの宗教の世界帝国,大いなるバビロンに霊的な意味で捕われています。事実,神とその真の崇拝から「流離」しているのです。(ヨハネ 8:31,32,34)彼らの慣習は聖書の純正な原則とは無縁のものです。たとえば,いわゆる「新しい道徳律」は聖書の規準,および人間の従うべき規準を定める神の権利を否定するものです。―ガラテヤ 5:19-21。
28,29 神がエゼキエルに語り終えたのち,何が起こりましたか。
28 ゆえに,現代のエゼキエルが行動を起こさなければなりません。これは,エゼキエルに関連して次に生じた事がらによって予表されていました。彼はこう述べます。
29 「時に霊われを上に挙しが我わが後に大なる響の音ありてエホバの栄光のその〔所〕より出る者は讃べきかなと云ふを聞けり また生物の互にあひ連る翼の声とその傍らにある輪の声および大なる響の音を聞く 霊われを上にあげて携へゆけば我苦々しく思ひ心を熱くして往く エホバの手強くわが上にあり 爰に我ケバル河の辺にてテラアビブに居るかの虜移れたる者に至り驚きあきれてその坐する所に七日倶に坐せり」― エゼキエル 3:12-15〔口語〕。
30 エゼキエルの時代の,ほむべきエホバの栄光の生ずるその「所」とは何でしたか。今日,それは何ですか。
30 讃べきエホバの栄光の生ずる『その所』とは何ですか。それは,エホバの場所と呼ばれたエルサレムの神殿ではありません。そこはユダヤ人の偶像崇拝や反抗的な行ないで汚され,冒とくされていたからです。そのエホバの「所」は,任命された預言者エゼキエルとともにありました。今日,エホバの栄光はキリスト教世界では讃められてはいません。同世界はエホバの栄光を表わす所であると唱えているにすぎません。それは,実際にエホバのみ名と,新秩序に人類を救出する手段であるエホバの王国とを宣明する,エゼキエルに似た忠実な油そそがれた者たちとともにあります。
31,32 自分の命のことを心配している人は何を行なうべきですか。どんな見込みをいだいてそうすべきですか。
31 あなたは自分の霊的な福祉が危険にさらされていること,またそれゆえに自分の命も危ういことを悟っていますか。心配しておられますか。では,大いなるバビロンの偽りの宗教体制内の正直な心の持ち主に対する神の命令に従ってください。「わが民よ,かれの罪に干らず,彼の苦難を共に受けざらんため,その中を出でよ。かれの罪は積りて天にいたり,神その不義を憶え給ひたればなり」― 黙示 18:4,5。
32 まずこのことを行ない,次いで神の栄光を他の人びとに宣明し,神の恵みと救出にあずかってください。神から次のように言われる人のひとりになってください。「[彼らは]神の御座の前にありて昼も夜もその聖所にて神に事ふ。御座に坐したまふ者は彼らの上に幕屋を張り給ふべし。彼らは重ねて飢えず,重ねて渇かず,[神の不興の]日も[神の懲罰の]熱も彼らを侵すことなし。御座の前にいます羔羊は,彼らを牧して生命の水の泉にみちびき,神は彼らの目より凡ての涙を拭ひ給ふべければなり」― 黙示 7:15-17。
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クリスチャンは断食をする義務がありますかものみの塔 1972 | 7月15日
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クリスチャンは断食をする義務がありますか
この質問に対してあなたは,「はいあります。それはイエスが弟子たちに断食をするようすすめられたからです」と言われたことがあるかもしれません。カトリック信徒ならその答えは肯定的でしょう。なぜならカトリック教徒は,特定の断食日を認め,とくに「聖ざん式」の前にはいつも断食をするからです。
イエスはほんとうに弟子たちに断食を勧める,あるいは命令することをされましたか。
聖書に記録されている断食の場合は,悲しみや罪の悔い改めの表現として,あるいは窮状に陥ったときに行なわれました。(ダニエル 10:2,3。サムエル前 31:13。歴代下 20:3,4)また,神の導きを切実に必要とするとき,あるいは神への特定の奉仕に普通以上に注意を集中しなければならない場合にも,断食を行なったものと考えられます。―士師 20:26。エステル 4:16。
贖罪の日,その日の断食は予影
しかしながら,イエス・キリストもイエスの使徒たちも,クリスチャンたちに断食をするよう命令したことはありません。しかしまた一方,聖書は断食を禁止してもいません。イエスが断食にかんして助言を与えておられる箇所もありますが,そこではイエスは,律法の下にあったユダヤ人に話しておられます。(マタイ 6:16-18。ルカ 18:
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