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あなたの命は危険にさらされています ― どのように,またなぜものみの塔 1972 | 7月15日
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者に至り驚きあきれてその坐する所に七日倶に坐せり」― エゼキエル 3:12-15〔口語〕。
30 エゼキエルの時代の,ほむべきエホバの栄光の生ずるその「所」とは何でしたか。今日,それは何ですか。
30 讃べきエホバの栄光の生ずる『その所』とは何ですか。それは,エホバの場所と呼ばれたエルサレムの神殿ではありません。そこはユダヤ人の偶像崇拝や反抗的な行ないで汚され,冒とくされていたからです。そのエホバの「所」は,任命された預言者エゼキエルとともにありました。今日,エホバの栄光はキリスト教世界では讃められてはいません。同世界はエホバの栄光を表わす所であると唱えているにすぎません。それは,実際にエホバのみ名と,新秩序に人類を救出する手段であるエホバの王国とを宣明する,エゼキエルに似た忠実な油そそがれた者たちとともにあります。
31,32 自分の命のことを心配している人は何を行なうべきですか。どんな見込みをいだいてそうすべきですか。
31 あなたは自分の霊的な福祉が危険にさらされていること,またそれゆえに自分の命も危ういことを悟っていますか。心配しておられますか。では,大いなるバビロンの偽りの宗教体制内の正直な心の持ち主に対する神の命令に従ってください。「わが民よ,かれの罪に干らず,彼の苦難を共に受けざらんため,その中を出でよ。かれの罪は積りて天にいたり,神その不義を憶え給ひたればなり」― 黙示 18:4,5。
32 まずこのことを行ない,次いで神の栄光を他の人びとに宣明し,神の恵みと救出にあずかってください。神から次のように言われる人のひとりになってください。「[彼らは]神の御座の前にありて昼も夜もその聖所にて神に事ふ。御座に坐したまふ者は彼らの上に幕屋を張り給ふべし。彼らは重ねて飢えず,重ねて渇かず,[神の不興の]日も[神の懲罰の]熱も彼らを侵すことなし。御座の前にいます羔羊は,彼らを牧して生命の水の泉にみちびき,神は彼らの目より凡ての涙を拭ひ給ふべければなり」― 黙示 7:15-17。
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クリスチャンは断食をする義務がありますかものみの塔 1972 | 7月15日
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クリスチャンは断食をする義務がありますか
この質問に対してあなたは,「はいあります。それはイエスが弟子たちに断食をするようすすめられたからです」と言われたことがあるかもしれません。カトリック信徒ならその答えは肯定的でしょう。なぜならカトリック教徒は,特定の断食日を認め,とくに「聖ざん式」の前にはいつも断食をするからです。
イエスはほんとうに弟子たちに断食を勧める,あるいは命令することをされましたか。
聖書に記録されている断食の場合は,悲しみや罪の悔い改めの表現として,あるいは窮状に陥ったときに行なわれました。(ダニエル 10:2,3。サムエル前 31:13。歴代下 20:3,4)また,神の導きを切実に必要とするとき,あるいは神への特定の奉仕に普通以上に注意を集中しなければならない場合にも,断食を行なったものと考えられます。―士師 20:26。エステル 4:16。
贖罪の日,その日の断食は予影
しかしながら,イエス・キリストもイエスの使徒たちも,クリスチャンたちに断食をするよう命令したことはありません。しかしまた一方,聖書は断食を禁止してもいません。イエスが断食にかんして助言を与えておられる箇所もありますが,そこではイエスは,律法の下にあったユダヤ人に話しておられます。(マタイ 6:16-18。ルカ 18:9-14)律法の下においては,特定の時期,あるいは特定の時,とりわけ贖罪の日には断食を守ることになっていました。
陰暦7月10日のこの日には,ユダヤ人はたましいを悩ますことになっていました。(レビ 16:29-31)これには断食も含まれていました。そのことはダビデのことばから伺えます。ダビデは彼が経験した苦しい状態について,「糧をたちてわがたましひをくるしめたり」と述べています。―詩 35:13。イザヤ 58:1-5と比較してください。
贖罪の日に,ユダヤ人の大祭司は,全国民のために供え物をささげました。贖罪の日は,彼らが生まれつき罪深い者であることをユダヤ人に思い起こさせる日でした。それは,神の前に自分たちの罪深い状態を認め,悲しみと悔い改めを示すときでした。したがって彼らは断食をするよう要求されました。それは単なる形式主義ではありませんでした。
それにしても,ユダヤ人は毎年くりかえし断食を守らなければならなかったのに,クリスチャン会衆に断食の命令が全く与えられていないのはなぜですか。
使徒パウロは,律法の下でささげられた犠牲にかんする解説を行なって,わたしたちの理解を助けてくれます。それによると,これらの犠牲は,それをささげた者の「肉体を潔むることを得」ましたが,『彼らの良心を完全に』することはありませんでした。神は,それらユダヤ人の崇拝者たちを,神に近づきうる程度には清い者と見られました。彼らは異邦人ほどには汚れていませんでした。しかし翌年の贖罪の日には再び罪を思い起こさせられました。彼らの清さは儀式的な清さであって,キリストの「一度」の犠牲によってクリスチャンが得る良心の完全な清さを象徴するもの,あるいは表わすものにすぎませんでした。―ヘブル 9:9,13,28。
クリスチャン会衆は,その罪を清められているので,毎年断食と悔い改めの日を設ける必要はありません。イエス・キリストはご自分の犠牲の歩みによって,ご自身の会衆の罪をあがなわれました。イエスは,贖罪の日によって予表されていたことを成就されたのです。成就におけるこの「日」は,イエスのバプテスマの時から,イエスがご自分の犠牲の価値をささげるために天において神の前に出られた時までつづきました。(ヘブル 9:24-26)西暦33年の五旬節の時には,一度に約3,000人が加えられて,自分の罪を認めかつ悔い改めました。その罪にはキリストの死にかかわる流血の罪も含まれていました。キリストの犠牲に対する信仰は,実際に罪から清められるという結果をもたらしました。―使行 2:37-39,41。
それにしても,個々のクリスチャンは,日々うかつに犯す罪のために断食をする必要があるのではないでしょうか。その必要はありません。クリスチャンは「一度」ささげられたキリストの犠牲にたよることができます。この犠牲にもとづいて,クリスチャンはいつでも,「憐憫を受けんがため,また機に合ふ助となる恵を得んがために,はばからずして恵の御座に来る」ことができるのです。―ヘブル 4:16。
「聖ざん式」または「主の晩さん」
しかし,「最後の晩さん」または「主の晩さん」とも呼ばれる「聖ざん式」についてはどうですか。聖書は,「聖ざん式」の前に断食が要求されていないことを,きわめて明確にしています。
使徒パウロは,コリント市のクリスチャンたちに,この記念すべき晩さんについて書き送りました。コリントのクリスチャンたちは主の晩さんの時を,集会所でまずいっしょに食事をするときとしていたのです。そのことはもちろん,分派主義のただ中にあって悪い結果をもたらしました。ある人々は十分の飲食物をもっていましたが,他の人々は食べ物が何もなかったので空腹のままでした。こういうことが会食の前に行なわれたのです。なかには飽食して主の晩さんの意義を理解しそこなった者もいました。パウロは彼らを叱責し,「汝ら飲食すべき家なきか」,「もし飢うる
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