燃えないものを使うことが必要
1 クリスチャン会衆はいつ設立されましたか。何を土台として? ペテロの話はそのことをどう示しましたか。
「神の建物」に許された唯一の土台は神のみ子イエス・キリストです。キリスト教国ではなく,真のクリスチャン会衆は19世紀前の西暦33年シワン6日五旬節の日に,エルサレムでこの土台の上に設立されました。「神の同労者」として仕えた使徒ペテロは神の建物の土台がだれであるかを勇敢に発表し,その場に集まるユダヤ人への話をこう結びました。「だからイスラエルの全家は,この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが,〔刑柱〕につけたこのイエスを,神は,主またキリストとしてお立てになったのである」。
2 心をさされたユダヤ人に対するペテロの助言はどんな土台に注目させましたか。今日の宇宙時代に,神の建物の成員はどこに立っていますか。
2 その後,心をさされたユダヤ人が神の備えに応じて何をすべきかを尋ねた時にも,ペテロは神のただ一つの土台に忠実に従ってこう勧めました。「悔い改めなさい。そして,あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために,イエス・キリストの名によって,バプテスマを受けなさい。そうすれば,あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう」。(使行 2:1-38,〔新世訳〕)ここですえられた土台は幾世紀もの間,きびしい風雨に耐えています。そして今日,物質主義的,また現代主義的で,科学を崇拝するこの核宇宙時代にも,神の建物を構成する人々は依然としてこの不滅の土台の上に立っています。
3,4 (イ)わたしたちの救いの基礎としてどんな犠牲を認めるべきですか。なぜ?(ロ)イエスの上に建てるにあたり,彼があがないの犠牲であることだけを認めればよいですか。ペテロの五旬節の時の話は何を示していますか。
3 イエス・キリストを土台として建てるということは,わたしたちの罪のためのあがないの犠牲としてのイエス・キリストの上に建てることだけを意味しているのではありません。イエスのささげた人間の犠牲がわたしたちの永遠の命への救いの基となっていることは確かです。わたしたちはイエスのことばをそのことばどおりに受け入れねばなりません。「人の子がきたのも,仕えられるためではなく,仕えるためであり,また多くの人のあがないとして,自分の命を与えるためである」。(マタイ 20:28)またわたしたちは使徒パウロのことばをその字義どおりにとらねばなりません。「神は,すべての人が救われて,真理を悟るに至ることを望んでおられる。神は唯一であり,神と人との間の仲保者もただひとりであって,それは人なるキリスト・イエスである。彼はすべての人のあがないとしてご自身をささげられた」。(テモテ第一 2:3-6)しかし,わたしたちはイエス・キリストがあがない主以上のものであることを認めねばなりません。
4 わたしたちは復活し,天の栄光を受けたイエス・キリストに信仰と望みを置かねばなりません。これはペテロが五旬節の日にユダヤ人に伝道した事柄です。ペテロはイエスが復活していること,および神の右に上げられ,サレムの王であり至上の神の祭司であった昔のメルキゼデクの予表した王なる祭司とされていることを説き明かしました。
5 ペテロが詩篇 110篇1節を適用したことから詩篇 110篇4節をどう適用すべきですか。わたしたちはイエスのどんな地位を認めるべきですか。
5 ダビデ王が詩篇 110篇1節にあらかじめしるしたとおり,イエスは天にのぼりました。それでペテロはイエスが神の右に上げられたことを述べたのち,詩篇 110篇1節に言及してこう語っています。「ダビデが天に上ったのではない。彼自身こう言っている,『〔エホバ〕はわが主に仰せになった,あなたの敵をあなたの足台にするまでは,わたしの右に座していなさい』」。それゆえ詩篇 110篇4節は天の神の右に高められた主イエス・キリストを相手として語られたものです。「〔エホバ〕は誓いを立てて,み心を変えられることはない,『あなたはメルキゼデクの位にしたがってとこしえに祭司である』」。このことはクリスチャンとなったヘブル人にあてられた霊感の聖書の中でくり返し確証されました。(使行 2:32-35。ヘブル 1:1-4,13; 5:5-10; 6:19–7:22; 10:12,13)わたしたちはクリスチャンとして,イエスがこのような位にあることを認めねばなりません。
6 (イ)ペテロが話した時以来今日までに,神とそのキリストに関する事実はどう変化していますか。(ロ)異邦人の諸国家はキリストをどう扱ってきましたか。しかしわたしたちは今彼をどのように受け入れるべきですか。
6 しかし,使徒ペテロがこの五旬節の話をした時以来,神とキリストに関する事実は大きく変わっています。イエスが天にのぼって神の右に座したのはペテロの話の10日前であり,その時2520年に及ぶ異邦人の時期はわずかに638年経過していたにすぎません。しかし今,異邦人の時期は終わっています。それが終わったのは1914年の秋です。そしてイエスが神の右で待つ期間も終わりました。その時神はイエスを王位につけ,王として敵のただ中で支配する権威を完全に授けられました。神はご自分が王としてたてられたイエス・キリストの杖を天のシオンからつき出され,敵のただ中で治めよと命じられました。この時以来,イエスは王として君臨しておられます。異邦人の諸国家は国際連盟およびその後継である国際連合を好んで,主イエス・キリストを退けました。しかしわたしたちは今,支配する神の王として彼を受け入れます。彼が天のシオンに『堅くすえられた尊い隅の石である』ことを信ずるなら,わたしたちは世界の現状を見て恐れ,あるいは失望することはありません。―イザヤ 28:16。ペテロ第一 2:6-8。
7 キリスト教国はキリストがあがないの犠牲であることを形の上でどのように認めていますか。しかしキリストの今日の地位に対してどんな態度を取っていますか。
7 カトリック,ギリシャ正教,プロテスタントなどの信徒幾億人をも擁するキリスト教国は,表面的には犠牲になったキリストを尊重してきました。キリスト教国は十字架像をいたる所に掲げ,十字架に釘づけになったキリスト像を展示しています。キリスト教国は教会のせん塔に十字架をつけています。これはキリストを殺した道具の象徴です。キリスト教国は年毎の受難日,月毎ないしは週毎の主の晩さん,日毎のミサなどを祝い,あがないの犠牲となったキリストに形の上では敬意を払っていますが,キリストが神の右において王として支配していることにはつまずいています。キリスト教国の信徒の半数以上はバチカン市の支配者を「キリストの代理者」として崇拝しています。またキリスト教国の全信徒は(961,112,000人),天で支配するキリストを退け,カイザル以外に王はないと言うかのごとくに,国際連合をはじめ地上の政治力に依存しています。そしてバチカン市さえ国際連合を支持しています。
8 今日の人々はイエス・キリストの価値をどのように下げようとしていますか。この攻撃は意外にもどんなところから出ていますか。
8 現代主義的な傾向の強い今日,人々はイエス・キリストが神の子であること,また人類を救うあがないであることをさえ否定しようとしています。イエス・キリストに対するこの新たな攻撃は意外なところ,つまり大学の宗教学部や神学校で教壇に立つ,任命されたプロテスタントの牧師から出ています。これらの牧師は「神なしの神学」をあみ出し,「神は死んでいる」との宗教哲学をうち立てようとしているのです。「1966年版ブリタニカ年鑑」671ページの一記事はこう述べています。
9 神に関する従来の考え方を退けることによって,「キリストの人物に対する忠節さは深まる」ということがどう主張されていますか。そしてクリスチャンであることの意味はどう説明されていますか。
9 「この急進的な神学の提唱者は神の観念の代わりになにを提出するのか。またなぜ彼らは今なお『神学者』であると言うのか(あるいは言うべきか)。逆説的であるが,従来の有神論の否定によってイエスの人物に対する忠節さは深まっている。〔ドイツの牧師〕ボンホエファーの別のことばを借りれば,イエスは『ほかの人々のための人』であり,自分の命をもささげて同胞の福祉につくして,勇気と希望の生活を他の人々に,そして今日のわたしたちに可能にした人である。クリスチャンであることは信条を暗しょうしたり,教会の儀式に参列したりすることではなく,他の人々に役だつ人間となり,他の人々の益のために自分の命をささげて,イエス・キリストの生涯と死に表わされた真の人間性の自由を体得し,また発揮することである」。
10 パウロが土台としてすえたのはこのようなキリストですか。この点に関しパウロはコロサイ人への手紙 2章2-10節でキリストについて何と述べていますか。
10 使徒パウロが土台としてすえたのは,このような神を度外視した,人間的なキリストではありません。今日,正直な態度で聖書を学ぶ者にとって,イエス・キリストがだれであり,どんな人物であるかは少しも問題になりません。キリストがだれであるかは長年にわたる「神の奥義」でしたが,使徒パウロは明らかにされたキリストについてさらにこう述べています。「キリストのうちには,知恵と知識との宝が,いっさい隠されている。わたしがこう言うのは,あなたがたが,だれにも巧みな言葉で迷わされることのないためである。……このように,あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから,彼にあって歩きなさい。また,彼に根ざし,彼にあって建てられ,そして教えられたように,信仰が確立されて,あふれるばかり感謝しなさい。あなたがたは,むなしいだましごとの哲学で,人のとりこにされないように,気をつけなさい。それはキリストに従わず,世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基くものにすぎない。キリストにこそ,満ちみちているいっさいの神の徳が,かたちをとって宿っており,そしてあなたがたは,キリストにあって,それに満たされているのである。彼はすべての支配と権威とのかしらであ(る)」― コロサイ 2:2-10。
11 今日このような聖書的なキリストを土台として認めているのは,どんなクリスチャンですか。その人々と聖書の研究をする人はどんなことを確信できますか。
11 これが聖書のキリストであり,今日のエホバの証人がエホバ神の備えられた土台として認めているものです。エホバの証人が「神の同労者」として使うことのできる土台はこれだけであり,エホバの証人は実際にこの土台の上に建てています。だれでも神を求めてエホバの証人と交わり,エホバの証人と聖書を学ぶ人は必ず一つのことを確信できます。すなわち,その人がキリストから離れてキリスト教国の宗教哲学に迷い込むことはありません。その人は唯一の聖書的な土台つまりエホバ神のみ子イエス・キリストの上に霊的にしっかりと建てられます。
わたしたちはどのように建てているか
12 わたしたちは正しい土台の上にありますが,パウロはコリント人への第一の手紙 3章12,13節でどんな警告をしていますか。
12 わたしたちが今,正しい土台の上にいることは全く確かです。しかしわたしたちは,この土台の上にどのように建てられるのですか。「神の同労者」に対する使徒パウロの次のことばはこの点で一つの警告を含んでいます。「この土台の上に,だれかが金,銀,宝石,木,草,または,わらを用いて建てるならば,それぞれの仕事は,はっきりとわかってくる。すなわち,かの日は火の中に現れて,それを明らかにし,またその火は,それぞれの仕事がどんなものであるかを,ためすであろう」― コリント第一 3:12,13。
13 正しい土台の上にどのように建てるかを気をつけるにあたり,わたしたちが建てるものについてどんな疑問がありますか。
13 これより先にパウロが,「どういうふうに建てるか,それぞれ気をつけるがよい」と言ったのはこのためです。(コリント第一 3:10)しかし神の同労者が唯一の土台イエス・キリストの土に建てるものは何ですか。それは教義の組み立て,つまり聖書の教えからなる建物ですか。そしていろいろな教義を宗教上の価値や重要さに応じて金,銀,宝石,木,草,わらなどにたとえているのですか。そしてこの教義の組み立ては,人が自分で聖書を勉強し,それによって得る聖書の教えの理解と信仰とによって,自分自身の中に建てるものですか。そして,このわたしたちの教義的な建物が材料の耐久性を火でためされるのですか。使徒パウロが論じているのは,人が知識や理解や信仰の面でどのように自分自身を教育するかという問題ですか。
14,15 語法から見てパウロはどんな建物について論じていますか。文脈はそのことをどう証明していますか。
14 もう一度見てごらんなさい。パウロのことばを読み返してごらんなさい。パウロは教義を組み立てること,また教理や信条を作り上げることなどについて語っているのではありません。彼は人々を建てることについて語っているのです。「あなたがたは……神の建物である」と彼は述べています。(コリント第一 3:9)この建物はユダヤ人が神の崇拝のためにエルサレムに建てた宮によって予影されました。この考えを追って使徒パウロはさらにこう語っています。
15 「あなたがたは神の宮であって,神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が,神の宮を破壊するなら,神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら,神の宮は聖なるものであり,そして,あなたがたはその宮なのだからである」― コリント第一 3:16,17。
16 それでこれはなんの宮ですか。何の上に建てられますか。どんな目的のために?
16 この生きた人々の宮つまり霊的な宮はイエス・キリストを基本的な土台として建てられています。使徒パウロはエペソ人への手紙 2章20-22節で述べました。「あなたがたは,使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって,キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。このキリストにあって,建物全体が組み合わされ,〔エホバ〕にある聖なる宮に成長し,そしてあなたがたも,主にあって共に建てられて,霊なる神のすまいとなるのである」,〔新世訳〕。
17 わたしたちは「神の同労者」として何かを創造するのですか。わたしたちは土台の上にどのように建てていますか。
17 それで,「神の同労者」であるわたしたちは以前に存在しなかった人々を創造しているのではなく,すでに人間として存在する人々をある特定の人々に作りあげているのです。わたしたちは神の助けを得ながらどんな人々を作っているのですか。それはキリストの弟子です。わたしたちは真の意味のクリスチャンを作っているのであり,人々の中にクリスチャンの人格を建てているのです。エホバ神が天のシオンにすえた貴い土台すなわちイエス・キリストの上に建てているなら,当然にこのことをしていなければなりません。わたしたちの願いは真のクリスチャンを生み出すことです。さもなければわたしたちの建てる仕事はむだに終わるでしょう。
18 イエスは麦と毒麦のたとえ話の中で,注意することの大切さをどう示しましたか。注意しなければ毒麦をまいた者に加担する場合もあることを説明しなさい。
18 麦と毒麦のたとえの中で,イエスはにせのクリスチャンが多く出ることを示されました。成長の初期ににせ物は本物とよく似ていて,外観だけでは見まがうことがあります。農場の働き人が毒麦と思えるものを早いうちに抜き集めようとした時,農場の主人がそれを止めたのはこのためです。「いや,毒麦を集めようとして,麦も一緒に抜くかも知れない。収穫まで,両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら,刈る者に,まず毒麦を集めて束にして焼き,麦の方は集めて倉に入れてくれ,と言いつけよう」。(マタイ 13:29,30)イエスは説明して言われました。「良い種と言うのは御国の子たちで,毒麦は悪い者の子たちである」。(マタイ 13:38)それゆえ,パウロも警告するとおり,わたしたちはイエス・キリストの土台の上にどういうふうに建てるかに気をつけねばなりません。毒麦の表わすにせのクリスチャンを建てているなら,毒麦をまいた悪魔サタンに力を貸していることになります。
19 わたしたちの建てるものについてどんな疑問が起きますか。材料の選択は結果を左右しますが,どんな材料を選ぶことができますか。
19 わたしたちの建てるクリスチャンは火のような試練の時代に耐えますか。それとも,わたしたちの仕事はすべて煙になりますか。それはわたしたちがどんなものでクリスチャンを作るかによって決まります。わたしたちは火に耐える,燃えないものを使って建てねばなりません。わたしたちの建設の仕事の材料は金,銀,宝石,木,草,わらなどにたとえられます。もとより,木,草,わらなどに相当するもので建てるなら,わたしたちの建てるものが火で焼けることを予期しなければなりません。金,銀,宝石などは燃えません。これらは火の試練に耐えます。
20 キリスト教国は過去16世紀の間,どんな方法で自称のクリスチャンを作ってきましたか。どんな疑問が起きますか。
20 これまで16世紀の間,キリスト教国はキリストを土台にして立つことを主張し,何十億人もの自称のクリスチャンを生み出してきました。そして今日残る信徒の数は9億6100万人です。かつてキリスト教国は武力で人々を自分の宗教組織に入れました。また誕生後まもない幼児に洗礼を施し,教会にいれています。キリスト教国は異教の思想や慣行を採用し,それによって異教徒を教会組織に入れようとしています。また信徒が政治と商業と武力の世界の一部としてとどまることを許し,同時にそうした者たちに教会内で良い立場を与えています。キリスト教国はどんなクリスチャンを生み出していますか。
21 この疑問に対する答えはいつ完全に明らかになりますか。キリスト教国およびその信徒はどうなりますか。
21 この質問の答えはキリスト教国の個々の教会員についていまだ明らかでないとしても,世界のハルマゲドンに先だつ火の試練によってやがて明らかになるでしょう。その時にはキリスト教国全体が非キリスト教的なものとして暴露されます。そしてキリスト教国がバビロン的な偽りの宗教の世界帝国つまり大いなるバビロンの一部,実際にはその主要な部分であることも明らかにされるでしょう。またキリスト教国が木,草,わらなど燃えるものを集めてただ名のみのクリスチャンを建ててきたことも明らかになるでしょう。霊的な収穫の時は絶頂に達します。そして麦と毒麦のたとえ話に描かれているとおり,象徴的な毒麦は真のクリスチャンから完全に分かたれ,焼き滅ぼされます。(マタイ 13:36-42)その時,非キリスト教的なキリスト教国を含む大いなるバビロン全体が永遠に滅びます。―黙示 18:1–19:3。
金,銀,宝石
22 燃えないもので建ててきたなら,金,銀,宝石などを使ってどんな建て方をしてきたはずですか,詩篇 19篇はこのことをどう示していますか。
22 それではわたしたちは象徴的な金,銀,宝石を用いてキリストの弟子を建ててきましたか。書かれた神のことばの律法,戒め,原則を弟子となる人々に教えそれをその人々の心に刻み込んできたなら,これに肯定の答えをすることができます。その人々に清く平和な「上からの知恵」を教えてきたならやはり「はい」と答えることができます。(ヤコブ 3:17)詩篇 19篇7-11節はこう述べています。「エホバの法はまたくしてたましひをいきかへらしめ エホバのあかしはかたくして愚なるものをさとからしむ エホバのさとしはなほくして心をよろこばしめエホバの誡命はきよくしてまなこをあきらかならしむ エホバをかしこみおそるる道はきよくして世々にたゆることなく,エホバのさばきは真実にしてことごとく正し これを黄金にくらぶるも,おほくの精純金にくらぶるもいやまさりてしたふべく,これを蜜にくらぶるも蜂のすのしたたりにくらぶるもいやまさりて甘し なんぢの僕はこれによりていましめを受く,これらをまもらば大なるむくいあらん」。(文語)
23 使徒ペテロは人の中に建てるべき信仰の質を何と比較しましたか。
23 さらに,神とキリストに対する信仰と確信の質について使徒ペテロはこう書いています。「今しばらくの間は,さまざまな試練で悩まねばならないかも知れないが,あなたがたは大いに喜んでいる。こうして,あなたがたの信仰はためされて,火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ,イエス・キリストの現れるとき,さんびと栄光とほまれとに変るであろう」― ペテロ第一 1:6,7。
24 霊的な金を求めるべきことをイエスはラオデキヤ会衆にどのように示されましたか。
24 栄光を受けたイエス・キリストはラオデキヤ会衆への手紙の中で金について述べました。「実は,あなた自身がみじめな者,あわれむべき者,貧しい者,目の見えない者,裸な者であることに気づいていない。そこで,あなたに勧める。富む者となるために,わたしから火で精錬された金を買い(なさい)」― 黙示 3:14-18。
25 箴言は燃えない材料として使える金,銀,宝石についてなんと述べていますか。
25 知恵と分別とさとりと考える力の永続的な価値について,昔の賢人は霊感のもとにこう書きました。「銀のごとくこれを探り,かくれたる宝のごとくこれを尋ねば なんぢエホバをおそるゝことをさとり神を知ることを得べし そはエホバは知慧をあたへ 知識とさとりとそのみくちより出づればなり かれはただしき人のためにさとりをたくはへ直くあゆむ者のたてとなる」。(箴言 2:4-7,文語)「知恵を求めて得る人,悟りを得る人はさいわいである。知恵によって得るものは,銀によって得るものにまさり,その利益は精金よりも良いからである。知恵は宝石よりも尊く,あなたの望む何物も,これと比べるに足りない」― 箴言 3:13-15。
26 燃えないもので建てるということはわたしたちが作る弟子に関してどんな意味になりますか。
26 永続し,神の是認を受ける建物を作るために,わたしたちは霊感の聖書が金,銀,宝石などと比べているものをもって建てねばなりません。すなわちわたしたちは,キリストの弟子にしようとする人々に,天の知恵のとうとさ,霊的なさとり,忠実を保つことの大切さ,聖書の原則に対する献身,エホバ神の律法,さとし,いましめ,さばきに対する尊敬心,書かれた神のことばに対する信仰,神の民の神権組織に堅く従うこと,良い羊飼イエス・キリストにゆだねられた神の「羊」に対する愛,メシヤを王とする神の国への破れることのない忠誠,および自らすすんで神の国を証言する勇気などを教えねばなりません。わたしたちは「神の同労者」であり,そのゆえにキリストの弟子となる人々の中にイエス・キリストに似た新しいひととなりを築かねばなりません。エペソ人への手紙 4章20-24節はこう述べています。
27 エペソ人への手紙 4章20-24節はこの「新しい人」について何を述べていますか
27 「あなたがたは,そのようにキリストに学んだのではなかった。あなたがたはたしかに彼に聞き,彼にあって教えられて,イエスにある真理をそのまま学んだはずである。すなわち,あなたがたは,以前の生活に属する,情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て,心の深みまで新たにされて,真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである」。
28 わたしたちは古いひととなりをどうすべきですか。これにはどんな行ないが伴うべきですか。
28 コロサイ人への手紙 3章9-12,14節のことばもこれと同じです。「互にうそを言ってはならない。あなたがたは,古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て,造り主のかたちに従って新しくされ,真の知識に至る新しき人を着たのである。そこには,もはやギリシャ人とユダヤ人,割礼と無割礼,未開の人,スクテヤ人,奴隷,自由人の差別はない。キリストがすべてであり,すべてのもののうちにいますのである。だから,あなたがたは,神に選ばれた者,聖なる,愛されている者であるから,あわれみの心,慈愛,謙そん,柔和,寛容を身につけなさい。これらいっさいのものの上に,愛を加えなさい。愛は,すべてを完全に結ぶ帯である」。
29 このような材料は火の試練の時にどんな価値をあらわしますか。わたしたちはマタイによる福音書 28章19,20節に従ってどんな弟子を作ろうとしていますか。
29 クリスチャンのひととなりに組み込まれるこうした材料は火で燃えません。これらはクリスチャンの信仰の純粋さをためすいかなる試練にも耐えるでしょう。火のような試練にあっても信仰を守り通すのはこの種のクリスチャンであり,単に口先でキリスト教を唱える人々はたちまち灰となり,偽りもの,またにせものであることが暴露されます。わたしたちがイエスの命令に従って生み出そうとしているのはこの種のクリスチャンつまりキリストの弟子です。「それゆえに,あなたがたは行って,すべての国民を弟子として,父と子と聖霊との名によって,彼らにバプテスマを施し,あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ,わたしは世の終りまで,いつもあなたがたと共にいるのである」― マタイ 28:19,20。
30 (イ)大いなるバビロンの滅びの日が近づくにつれ,わたしたちの建築の仕事についてどんな疑問が起きますか。(ロ)その時どんな損失をこうむりたくありませんか。わたしたちの望むことは何ですか。
30 わたしたちの建設の仕事はどんな仕事ですか。虚偽の暴露,現代主義的な思潮,狂気のような国家主義,神の律法の無視などによって,個々のクリスチャン信仰の純粋さと耐久力とが試みられている今日,わたしたちの仕事はどんなものであることが現われていますか。エホバ神が大いなるバビロンおよびそれにつらなるにせのクリスチャンすべてを滅ぼされる日は近づいていますが,その時わたしたちの仕事はどんなものとしてあらわれますか。わたしたちは自分のクリスチャンの建設作業の結果が火で焼けることを望みません。むしろ火に耐える,燃えないものを使って正しい仕事をし,その報いを受けることを望みます。コリント人への第一の手紙 3章14,15節はこう述べています。「もしある人の建てた仕事がそのまま残れば,その人は報酬を受けるが,その仕事が焼けてしまえば,損失を被るであろう。しかし彼自身は,火の中をくぐってきた者のようにではあるが,救われるであろう」。
「火の中をくぐってきた者のように…救われる」
31 建築者であるパウロがコリント会衆に2通の手紙を書いたのはなぜですか。テサロニケ人への第一の手紙によればパウロはどんな報いを望んでいましたか。
31 使徒パウロは火で焼かれて損失をこうむることを望みませんでした。コリント会衆の場合に彼が2通の手紙を書き送ったのはこのためです。彼は「あなたがたを,きよいおとめとしてキリストにささげ」たいと述べました。(コリント第二 11:2)また迫害されていたテサロニケのクリスチャンに次のことばを書き送ったのもこのためでした。「あなたがたは,多くの患難の中で,聖霊による喜びをもって御言を受けいれ,わたしたちと主とにならう者となり,こうして,マケドニヤとアカヤとにいる信者全体の模範になった。実際,わたしたちの主イエスの来臨にあたって,わたしたちの望みと喜びと誇の冠となるべき者は,あなたがたを外にして,だれがあるだろうか。あなたがたこそ,実にわたしたちのほまれであり,喜びである」。(テサロニケ第一 1:6,7; 2:19,20)これらの人々を自分の仕事の結果として提出したパウロにはすぐれた報いがありました。
32,33 (イ)火の損失をこうむる建築者が救われるかどうかについて何が言えますか。(ロ)その者を火の中から引き出すために,その兄弟である「神の同労者」は何をしなければなりませんか。
32 キリストを土台としながら燃えやすいもので建設の仕事をする者自身は火をくぐり,最後に救われますか。そのようなことはおそらくないでしょう。その者自身も火で焼かれるかもしれません。しかし,その者が永遠の命に救われるとすれば,それはその者が自分の建てたものを焼き滅ぼす火の中をくぐって出るためです。貧弱な建築者である者がこうして救われるためには,まず自分自身の中に良い建築資材とも言うべきクリスチャンの資質を取り入れて,自らを火に耐える建物にしなければなりません。その者はやさしいクリスチャン兄弟のおりを得た介入によって火から引き出してもらわねばなりません。
33 コリント人への第一の手紙 3章15節の一現代訳(モハット訳)はこの点を明らかにしています。「もしある者の仕事が焼かれるなら,その者は損失者である ― そしてその者自身は救われるが,彼は炎から引き出されるのである」。その者が唯一まことの土台であるイエス・キリストの上にとどまるなら,その兄弟である「神の同労者」たちはその者を建てなおし,火に耐えるクリスチャンの資質をその者の中に建てねばなりません。それでユダ書 22,23節はこう述べています。
34 ユダ書 22,23節は同様な救出の行為をどう述べていますか。
34 「疑いをいだく人々があれば,彼らをあわれみ,火の中から引き出して救ってやりなさい。また,そのほかの人たちを,おそれの心をもってあわれみなさい。しかし,肉に汚れた者に対しては,その下着さえも忌みきらいなさい」。
35 (イ)救いを望む者がどんな考え方をするのは危険ですか。(ロ)火の試練にはいらないですむ人がいますか。真のクリスチャンの信仰を愛する人は火の中からどのようにして出ることを願いますか。
35 クリスチャンを自任する人のすべては皆ひとしく決定的な火の試練にはいらねばなりません。真のクリスチャンの信仰を愛する者はすべてクリスチャンの資質の確かさを実証して,火の中からくぐり出ることを願うでしょう。それは偉大な建築者であられる神の栄光となります。そしてわたしたちはその同労者です。自分の仕事の結果が焼失しても建築者自身はかろうじて永遠の滅びを免れることもありますが,だれにしてもこれに望みをかけることはきわめて危険です。神への奉仕の生活を真実に愛する者で火の中から引き出されてようやく救われることを望む者がいますか。誠実で賢明な神の同労者であるなら,粗末な建築者となって損失をこうむりたいとは思いません。彼らは忠実な同労者すべてに神がさしのべられる喜びの報いを大切なものと見ています。これこそ彼らの願うものであり,彼らはそれを目ざして働いています。
36 わたしたちの益のためにどんな建築の仕事に感謝すべきですか。それに対してどんな態度を取るべきですか。どのように。それはどんな結果を伴いますか。
36 それゆえわたしたちは,神の神権組織がわたしたち各自に行なうクリスチャンの建築の仕事すべてに感謝しましょう。それと同時に,神の組織と力を合わせながら神の是認を受ける仕事をし,唯一つの正しい基であるイエス・キリストを土台として,霊的な金,銀,宝石など火に耐える燃えないものを使って建築の仕事を続けましょう。これによってわたしたち自身が永遠の命を得,またわたしたちがその上で建てる仕事をする他の人々にも永遠の命を得させることができます。