自分自身とあなたに聞く者たちとを救いなさい
「自分のことと教のこととに気をつけ,それらを常に努めなさい。そうすれば,あなたは,自分自身とあなたの教を聞く者たちとを,救うことになる」― テモテ第1 4:16。
1 奉仕者の生活の中でいちばん大切なものはなんですか。忠実を守るべき三つの理由をあげなさい。
平衡のとれた神の奉仕者の生活の中で大切なのは,人々の前でエホバを賛めること,エホバのすばらしいお目的をすべての人とくに聞く耳を持つ人に語ることです。聞く耳を持つ人に神の国の福音を語り,その人々が知識と理解に進むのを見守るのは大きな喜びです。そしてその人々がやがて心から「エホバに謝」するようになるのを見る時,喜びはますます大きくなります。それは実際には「羊」が生命に至る道を歩むのを見守ることであり,そのような人々を助けるのはわたしたちの特権です。それで宣教に忠実でなければならない三つの大きな理由があります。すなわち自分自身と聞く者とを救い,また何よりもエホバの御名を賛美する者になることです。―詩 109:30,文語。
2 聞く耳を持つ者が生命を得るために,エホバはどんな備えをされましたか。これはいま緊急な事柄ですか。
2 ハルマゲドンを避けることのできないこの事物の制度において,人々は生死の問題に直面しています。「そのような心配は次の時代の人に任せておけばよい」「それはわたしの生きているうちには来ない」と言うことはできません。そのような考え方をする余裕はないのです。残された時は多くの人が考えるよりも短かくなっています。それで聞く人を見出して神のことば聖書の真理を伝えるのは,その人々を死のわなから救い出すことです。わたしたちも他の人もみな生命を愛しています。エホバは救いの道を備えられました。マタイによる福音書 20章28節はそのことを次のように述べています。「人の子がきたのも,仕えられるためではなく,仕えるためであり,また多くの人のあがないとして,自分の命を与えるためである」。生命は何もしないでいて与えられるものではなく,人間の知恵によって得られるものでもありません。そのことは確かです。生命のことで絶対の力を持つのはエホバ神とみ子キリスト・イエスです。「真のいのちを得」,それを固くとらえて離さない者が生命を得ます。(テモテ第一 6:19)あがないの動機となったのは神の愛でした。しかしこのすばらしい賜物を得るにはそれを受け入れ,神に信仰を抱かねばなりません。聖書のヨハネによる福音書 3章16節はそのことを述べています。「神はそのひとり子を賜わったほどに,この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで,永遠の命を得るためである」。永遠の生命を得るのは信仰を抱く人,永遠の生命にふさわしいことを証明する人です。
3 (イ)イエスが平衡のとれた奉仕者であったことを示しなさい。(ロ)ヤコブへの手紙 2章24,26節に述べられたわざは,わたしたちの信仰とどんな関係がありますか。
3 キリスト・イエスは地上において平衡を保つことの完全な手本を示されました。イエスが語ったことば,また正しいと認めた事柄に注目してください。「あなたが崇拝しなければならないのは,あなたの神エホバであり,あなたは彼のみに聖なる奉仕をささげねばならない」(マタイ 4:10,新世)「わたしたちの日ごとの食物を,きょうもお与えください」(マタイ 6:11)「まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ 6:33)「わたしのくびきは負いやすく,わたしの荷は軽いからである」(マタイ 11:30)「カイザルのものはカイザルに,神のものは神に返しなさい」(マタイ 22:21)「あなたは思いをつくし,魂をつくし,心をつくしてあなたの神エホバを愛さねばならない」(マタイ 22:37,新世)「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイ 22:39)「この御国の福音は,すべての民に対してあかしをするために,全世界に宣べ伝えられるであろう」(マタイ 24:14)「それゆえに,あなたがたは行って,すべての国民を弟子として,父と子と聖霊との名によって,彼らにバプテスマを施し……なさい」(マタイ 28:19)「マルタよ,あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし,無くてならぬものは多くはない。いや,一つだけである」(ルカ 10:41,42)言い伝えのためにイエスの平衡が失われたということはありません。イエスは安息日にひとりの婦人をいやしました。(ルカ 13:10-17)家族を顧みる必要や税金を払うべきことはイエスも認めていますが,大切なのはエホバを崇拝し,みことばと御国を宣べ伝え,御名の賛美者となることです。それは容易に認められます。事実,このような奉仕者でなければ救いは得られません。ヤコブの手紙 2章24,26節はそのことをよく説明しています。「人が義とされるのは,行いによるのであって,信仰だけによるのではない。〔思〕のないからだが死んだものであると同様に,行いのない信仰も死んだものなのである」。〔新世〕生命を得るには働く奉仕者となって,神の国の福音を伝道し教えなければなりません。人は献身したエホバ神の奉仕者となることが必要です。エホバの証人は任命された奉仕者の社会を成し,今日二つの部分から成る救いのわざに加わっています。
二つの部分から成る救いのわざ
4 人格を変えることにおいて,わたしたちはどのように進歩し,神に奉仕する真の喜びを得ますか。
4 人類の現在の制度の考え方と人格を変えなければ,平衡を得て自分自身また聞く人の救いを図ることはできません。今の世の人の多くは自分のことを考えるだけに絡始しています。もちろん自分のことを心にかけるのは,聖書から見ても正しいことです。毎日,神のことばを学んで自分を養うのも,自分自身に対する関心の正しい表われです。信仰を得させる知識を得,また円熟した奉仕者の援助を受けるため,神の民の集会に出席するのもやはり自己に対する関心の表われでなければなりません。同じ理由で,わたしたち各人はこれらの肝要な事柄を日常生活において実行します。中でもいちばん大切なのは,神の国の福音を宣べ伝えるわざに毎週,参加することです。わたしたちが視野を広げ,知識を実行に移すのでなければ,平衡を保ち,肝要なもの,すなわち信仰を守ることはできません。イエスはマルタにむかって,「わたしを信じる者は,いつまでも死なない」と言われました。(ヨハネ 11:26)またローマ人への手紙 10章10節にあるとおり,「人は心に信じて義とされ,口で告白して救われる」のです。人はエホバの目的を理解するときに感嘆し,大きな安心と満足を得ます。しかし学んだ事柄を他の人に告げる時,さらに大きな喜びを得ます。―詩 71:1-24。
5 霊的食物に関するどんな質問が,霊的な健康の必要なことを強調していますか。
5 自分自身に注意を払う動機は自分の利益の追求ではなく,神を喜ばせようとする願いです。神を喜ばせるために考えなければならない事がいくつかあります。霊的に強く生きるためには,日毎の食物つまり霊的な食物を欠かすことができません。定期的に,計画にしたがって神のことばを学んでいますか。それともろくに学ぶことをしないで,神に奉仕する力がないのをいぶかっていますか。霊的な食物を満喫していますか。あるいは忙しくて,信仰を強める豊かな食物をとるひまがありませんか。個人研究はしかたなく行なう重荷になっていますか。それとも期待で待ち遠しいほどの楽しみになっていますか。個人研究は飢えをみたすだけでなく,他の人に教えるのに役だつ真理の知識と教え方を豊富にします。相手が納得しない時,別の見方,別の教え方ができるからです。清い奉仕者は神のうしろだてを得ます。それには実際の伝道においてのみならず,家庭,職場においても,くつろぎや娯楽の時にも清いふるまいをすることです。たとえ真理を語っていない時でも,わたしたちは真理に生き,他の人に手本を示さなければなりません。マタイによる福音書 22章37節に「あなたは思いをつくし,魂をつくし,心をつくしてあなたの神エホバを愛さねばならない」と述べられている事柄が崇拝の根底をなす動機であれば,それらのことは可能となります。テモテへの第一の手紙 4章16節に述べられた励みをこれに加えるとき,わたしたちは無私の心を持つ,平衡のとれた,堅実な奉仕者に成長することでしょう。「自分のことと教のこととに気をつけ,それらを常に努めなさい。そうすれば,あなたは,自分自身とあなたの教を聞く者たちとを,救うことになる」。
聖書研究によって「羊」を勤勉に養いなさい
6 良いたよりを他の人にわかつ時,わたしたちはどんな態度をつちかいますか。そうすることから幸福を得ますか。
6 御国の福音を宣べ伝えるべきことを,エホバはみことばを通してご自身の民に命ぜられています。(マタイ 24:14)この宣教に携わることは,わたしたちの崇拝の活動的な部分です。わたしたちがそれをするのは自分からそれを願っているためであり,人を喜ばせたり,あるいは報告を出すためではありません。神に奉仕する純粋の喜びが奉仕者の食物となり,力となります。人を喜ばせるため,あるいは単に報告を出すための伝道はそれだけのこと,つまり一片の紙片に終わります。エホバを崇拝する特権また聞く耳を持つ人に生命のことばをわかつ特権を認識することが力となって,人はいま,そして生きているかぎり,祝福を楽しむことができるのです。わたしたちが福音にあずかったことを考えてみると,出版物を準備し,聖書を印刷し,戸別訪問して伝道することに人々が多くの時間を費やしていることがわかります。それで今度はこちらが無私の気持ちで他の人を助ける番です。伝道するのは今です。エホバを避けどころとすることを望んでもそうすることのできない時が来ます。それは遠い将来のことではありません。「彼女〔大いなるバビロン〕から離れ去って,その罪にあずからないようにし,その災害に巻き込まれないようにせよ」と命じたことばに従うのはいまです。(黙示 18:4)「彼女から離れ去」ることをすべての人に告げて「他の羊」を見出し,養い,牧するのは今です。これは生命の問題です。他の人に真理を教えるよりも自分のために楽しみと物質を追い求めることによって,その事実を忘れてしまうことはできません。聖書研究の司会は,聞く人を養ううえに最も大切なわざです。(ヨハネ 21:15-17)赤ん坊が成長し,ことばを覚え,次々にいろいろな事をするようになるのを見て親は喜びます。定期的な聖書研究によって霊的な食物を与え,「羊」を養う奉仕者の喜びもそれと同じです。
7 イエスは収穫のたとえの中で何を強調されましたか。収穫はどんな時ですか。
7 マタイによる福音書 9章35節から38節に示されているように,イエスは聞く耳を持つ人々に注意を払うことの重要さを強調されました。「イエスは......巡り歩いて......教え,御国の福音を宣べ伝え(られた)......また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて,倒れているのをごらんになって,彼らを深くあわれまれた。そして弟子たちに言われた。『収穫は多いが,働き人が少ない。だから,収穫の主に願って,その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい』」。イエスは,ふたたびおとずれて「羊」を助け,養い,生命の道に牧する必要を指摘されたのです。農夫は種まき時に備えて畑を勤勉に耕やし,それから種をまきます。しかし種をまけばあとは何もしなくてもよいというのではありません。畑をあらす動物,雑草,害虫を防ぐことが必要です。多くの場合,芽が出たあと水をそそぐことも行なわれます。収穫の時が来て刈り取ることが行なわれます。しかしそれは収穫の初めの段階であって,脱穀がすみ,穀物を納屋に収めるまでは収穫は完全にすんだことにはなりません。収穫の時には緊張します。好天がつづかず,刈ってまだ畑にある穀物が雨にかかるかもしれず,あるいは雨のために刈り入れがおくれて最後の取り入れは雪の降ったあとになるかもしれません。収穫時の農夫がおそくまで働き,また自分と一緒に働く人々にもそのことを期待するのは当然です。怠け者や,おもしろおかしく過ごすことを考えているだけの人に用はありません。
8 どのようにして神の同労者となりますか。手助けを必要とする時,どんな奉仕者が求められますか。
8 イエスは,「羊」を養うことの緊急さと,働き人のことを収穫に結びつけて話されました。うえた「羊」はまことの崇拝への道をさし示してくれる人を神に祈り求め,収穫のわざに働く人は人手を祈り求めています。そのことを真剣に考えなければなりません。わたしたちが働かなければ,それらの人々の祈りは答えられません。収穫する農夫は,神の恵みである雨と太陽によって作物が育つことを賢明に認めるでしょう。しかし土を耕して種をまかなければ,雨と太陽の光がそそがれても作物は生じません。「羊」を養う場合にも同じことが言えます。そのことを述べたコリント人への第一の手紙 3章6節から9節を考慮してください。「わたし,〔パウロ〕は植え,アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは,神である。だから,植える者も水をそそぐ者も,ともに取るに足りない。大事なのは,成長させて下さる神のみである。植える者と水をそそぐ者とは一つであって,それぞれその働きに応じて報酬を得るであろう。わたしたちは神の同労者である。あなたがたは神の畑であり,神の建物である」。
9 (イ)ピリポその他が用いた聖書研究の方法は今でも効果的ですか。(ロ)どんなことのために,聖書研究はいま重要であり,緊急ですか。
9 聞く耳を持つ「羊」を聖書研究によって養うのは新しいことではありません。神の天使に導かれた奉仕者ピリポは女王の宝物を司るエチオピア人を神への奉仕に導くため,この方法を用いました。この人がバプテスマを受け,エホバへの奉仕に喜びを見出すようになったのは,質問と答えによる研究の結果でした。(使行 8:27-38)まだまだ大ぜいの「羊」を見出し,同じ方法つまり聖書研究によって同じ霊的な食物で養わなければなりません。他の人々に注意を払ううえに大切なのは,戸別訪問をする時の奉仕者の態度です。さらに養うため,二,三日うちに再び訪問するつもりでいますか。これらの「羊」のような人々が奉仕者になるまで,毎週きまって聖書研究を司会し,忍耐強く親切に育てることをしますか。人々の生命を気づかうとき,聖書研究の司会を束縛と考えることはありません。聖書研究の奉仕に携わるとき,神のなされたことに対する感謝と成長を目のあたりに見ることができます。その喜びを望まない人はいません。ピリポは天使のことばに従って行動し,聞く人と研究して,相手とともに祝福されました。天から命ぜられることばに従い,生命をもたらす真理の水を与えて,かわいた人々を養うわざは今日でも同じです。エホバ神は「羊」の霊的な福祉を心にかけておられます。(エゼキエル 34:11-16)キリスト・イエスは「羊」を見出して養うべきことを命じました。(マタイ 28:19,20。ヨハネ 21:15-17)伝道のわざに責任を持つ天使は,この事柄にいち早く注意を払うことを促しています。(黙示 14:6-10)「わたしの民よ。彼女〔大いなるバビロン〕から離れ去って,その罪にあずからないようにし,その災害に巻き込まれないようにせよ」と命じているのは天からの声です。(黙示 18:4)ゆえに聖書研究の方法によって「羊」を養う特権にあずかるとき,最高の権威のうしろだてを得ていることになります。その声に聞き従って行動する人は祝福されます。
10 聞く耳を持つ人と聖書研究を司会する前に,すべての事を知る必要がありますか。答えの理由を述べてください。
10 老若を問わずだれでもこの特権にあずかることができます。エホバの証人の1966年度年鑑にはそのことを示す多くの例がのせられています。それは神のことばの教えと原則を討議する,きわめて実際的で簡単な方法です。聖書がいつでも絶対の権威であって,教える人は聖書から正しい答を示すだけでよいのです。このような聖書研究をするにあたって聖句索引やものみの塔協会の出版物が非常に大きな助けとなります。収穫の大きさ,時がさし迫っていること,わたしたちに与えられたものを思えば,会衆内でもっと大ぜいの人が,聞く耳を持つ,散らされてうえた「羊」と聖書研究を始めて定期的に司会することが必要です。
新しい人をエホバの組織にやさしく導きなさい
11 会衆の集会に出席する前に,新しい人はどんな事柄を知ることを望みますか。
11 聞く人を救うには計画にしたがって定期的に養うことが必要であり,それは神に奉仕する平衡のとれた生活に備えて初めから訓練を施すものでなければなりません。証明ずみの,そして聖書にもかなった方法は,これらの「羊」をすぐにでもエホバの組織に導くことです。集会に出席する前に人々は組織についていろいろなこと,たとえば集会がどのように司会されるか,出席する人々は何をするかを知りたいと思っています。エホバの証人の集会で寄付を集める盆が回されないことを知って驚く人は少なくありません。集会の間に聖書がよく使われるのを見,また聞いて人々は喜びます。儀式ではなく,知識を得ることに重点がおかれているこれらの集会はほんとうに教訓的であり,人々はそのことにすぐ気づきます。
12 清い崇拝をするために必要な事柄を新しい人々に教えるのは,わたしたちに対するエホバのみこころですか。清い崇拝はこれらの人々にとって何を意味しますか。
12 ほんとうにくつろぐことができるために,これらの人々は組織を清く保つことに関する聖書の要求を理解しなければなりません。それで,正直,飲酒に節度を保つこと,両性間の関係,真実を語ること,また「わたしは奉仕者です。エホバの証人のひとりとして神の国の福音を伝えています」と公に言う者にふさわしい行ないなど,これらの事を少しずつ知らせる必要があります。いちどに全部の事をなしとげるのは無理です。しかしコリント人への第一の手紙 6章9節から11節にしるされた厳粛なことばを心に留めておかなければなりません。「それとも,正しくない者が神の国をつぐことはないのを,知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者,偶像を礼拝する者,姦淫をする者,男娼となる者,男色をする者,盗む者,貪欲な者,酒に酔う者,そしる者,略奪する者は,いずれも神の国をつぐことはないのである。あなたがたの中には,以前はそんな人もいた。しかし,あなたがたは,主イエス・キリストの名によって,またわたしたちの神の霊によって,洗われ,きよめられ,義とされたのである」。組織の清いことを説明するだけでなく,清いふるまいを身をもって示さなければなりません。それを見て,人は,清いふるまいを教える神のことばに従うことの幸福を感じとるでしょう。言うまでもなく,組織にはいってくる新しい人々は,いつでもキリスト教の奉仕者にふさわしい行ないをしなければなりません。会衆の交わりに迎え入れられ,会衆の一員となるにはそのことが必要です。(ペテロ第一 4:3,4)その人々が創造者エホバに対して持つ関係はいちばん大切です。汚れた状態のために妨げられることなく,祈りによってエホバに近づくことができますか。(ペテロ第一 3:7)「悪者の祭物はエホバに憎まれ,直き人の祈は彼に悦ばる」― 箴言 15:8,文語。
13 新しい人を教えるにあたって,会衆の組織はどのように助けとなりますか。
13 人々を会衆に招待するのは,実際には宣教の特権にあずかるように招待することです。この組織は教える組織であり,他の人を教えるように新しい人を訓練する責任をはたすことに専心しています。テモテへの第二の手紙 2章2節においてこの点が強調されていることに注目してください。「あなたが多くの証人の前でわたしから聞いたことを,さらにほかの者たちにも教えることのできるような忠実な人々に,ゆだねなさい」。組織は,神のしもべとして平衡を保つための貴重な教育を授けます。研究中の「羊」のような人を組織に導いてください。それは最善の場所です。
14 新しい人が組織に親しむのを助けるため,何をしますか。進歩するために何が肝心ですか。
14 もちろん,聞く人々をどのように組織に導けばよいか,という問題があります。人はさまざまであり,環境も異なりますが,しかし次のことをするのは有益でしょう。組織について,毎週ひとつの事柄を話してごらんなさい。「ものみの塔出版物の索引」(英文)のとくに「会衆」の項が参考になります。それぞれの集会の目的,大会,しもべ,伝道のいろいろな方法を説明できます。聖書研究のあとで数分間このようなことを話しているうちに,人々は組織を身近に感じ,それがどのようなものかを知るでしょう。研究中の人を宣教に伴い,一歩一歩忍耐強く教え,人々に語りかけ,聖書を使い,出版物をすすめることに経験を積むように援助してください。この訓練の期間は大切です。訓練を授ける人が信頼できる人で定期的ならば,新しい人がやがて聖書研究を司会し,他の人を援助する時にも,自分の受けた援助の方法を踏襲します。羊の群れは定期的に養われる時に繁栄します。それで牧する者に肝要なのは忠実さです。エホバとイエスは約束に忠実なことの手本です。「また,約束をして下さったのは忠実なかたであるから,わたしたちの告白する望みを,動くことなくしっかりと持ち続け……ようではないか」― ヘブル 10:23。
忠実は生命に至る道
15 (イ)わたしたちの避けるべき行ないをした不忠実な人の例をあげなさい。(ロ)忠実な人をそれとくらべ,忠実な人の得た祝福を述べなさい。
15 望みをしっかり持ち続けるには忍耐が必要です。忍耐は是認された状態を生み,是認された状態は希望を生み出します。(ローマ 5:4)人はたゆまず心に信仰を働かせるならば義とされ,たえず口で公に言い表わすならば救われます。(ローマ 10:10。コリント第二 13:5。ガラテヤ 6:9)「自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと,ほかの人に宣べ伝えておきながら,自分は失格者になるかも知れない」と,パウロは書きました。(コリント第一 9:27)ソロモンはその例です。ソロモンの最後を考えてごらんなさい。ソロモンは40年間,王として治め,20年をついやしてエホバの宮と王の家を建てました。また都市を建設し,船を造り,その知恵と,平和と繁栄の世は天下に知れ渡りました。ソロモンは知恵をエホバに祈り求め,その願いはかなえられました。それにもかかわらず,ソロモンは不忠実な者となって死にました。(列王上 11:1-43)イエスは真の崇拝をすてる者があることを預言しています。(マタイ 24:12)わたしたちが「冷える」者の部類にはいってよいわけはありません。ヘブル人への手紙 11章4節から39節にしるされた人々の手本にならいましょう。アブラハムのことを考えてごらんなさい。アブラハムはエホバから責任の伴う務めを与えられたとき,75歳でした。そしてこの奉仕に100年間携わってのち,175歳で死にました。「アブラハムは高齢に達し,老人となり,年が満ちて息絶えて,死ん(だ)」と書かれています。(創世 12:1,4; 25:8)神はアブラハムに満足され,ヘブル人への手紙 11章8節はアブラハムが従順と信仰の人であったことをしるしています。死に臨む前,そして前途に生命がある時,エホバへの奉仕にいつも満足を見いだし,自分の崇拝が神に是認されることを願わなければなりません。一部の弟子たちはイエスのことばにつまずいてイエスを離れ,元の生活にもどりました。他の者たちも去ることを望んでいるかどうかについてイエスが尋ねた時,シモン・ペテロは答えました。「主よ,わたしたちは,だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです」。(ヨハネ 6:68)それよりも前に,イエスはマタイによる福音書 24章13節にあるとおり,この問いにすでに答えています。「しかし,最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。
16 多くの責任をはたすのに必要な,平衡のとれた見方を説明しなさい。この結論の基礎として何を用いますか。
16 神を崇拝し,わたしたちの責任をすべて果たすには,確かに多くのことをしなければなりません。平衡を保つには健全な心と精神が必要です。おだやかで,釣り合いのとれた見方をする人が満足と幸福を感ずることは,箴言 14章30節に示されています。「穏やかな心は身の命である」。箴言 15章13節にも「心に楽しみがあれば顔色も喜ばしい」と述べられています。わたしたちの行ないを見,わたしたちのことばを聞く人々が古い人格を捨て,新しい人格を着けるために援助を必要としていることは言うまでもありません。この変化は心をかえて新たにすることから生まれます。(ローマ 12:2,3)パウロはそのことをすすめ,つづいてそれがどのように行なわれるかを述べています。「あなたがたは,主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」。(ローマ 13:14)イエス・キリストはすべての事において手本であると同時に,わたしたちが平衡を保つかなめともなっています。イエスは完全な人でした。わたしたちは不完全です。しかしわたしたちはどこを歩けば安全かを知ることができます。イエスは創造者エホバのみこころをあらわしました。それでみ子のことばとわざとによって天の父を知ることができます。これらのことに対する認識が,聞く人の心に生まれなければなりません。真理の価値を認めるならば,わたしたちは真理を教え,それをすすめ,さらにそれを使うことを促し,もう一歩進んで,神のことばを生活において実行するように,「羊」のような人を説得します。それは自分の益ばかりでなく,他の人の益をおもんばかることです。ピリピ人への手紙 2章4節は,神に喜ばれる生活をするように人々を助けることをわたしたちに求めています。それは人々にかわって考えたり,行動したりすることではなく,神のことばの教える原則を実行するように人々を援助することです。
17 (イ)新しい人に対して忍耐を示すのはなぜですか。(ロ)エホバに奉仕するときに味わう深い満足と喜びの原因を述べなさい。
17 新しい人格を生み出すのは神のことばです。そのことを心に留めてください。ゆえにこの変化がにわかに起きなくても,わたしたちはせっかちにならず,またあきらめません。自分を変えて,平衡のとれた奉仕者になるには時間がかかります。「あはれみと真実とによりて愆は贖はる,エホバを畏るることによりて人 悪を離る」。(箴言 16:6,文語)しかし「羊」を養い,エホバの崇拝の場所にやさしく導くとき,人は有意義なわざに用いられたことの深い満足感を覚えます。他の人に真理を伝える器としてエホバに用いられ,また天使の助けを得るならば,それは大きな特権です。その人がしみじみ感ずる幸福は,言いつくし得ません。聖書はそれを次のように述べています。「エホバもし人の途を喜ばばその人の敵をも之と和がしむべし」。(箴言 16:7,文語)「永遠の契約の血による羊の大牧者,わたしたちの王イエスを,死人の中から引き上げられた平和の神が,イエス・キリストによって,みこころにかなうことをわたしたちにして下さり,あなたがたが御旨を行うために,すべての良きものを備えて下さるようにこい願う。栄光が,世々限りなく神にあるように,アァメン。」 ― ヘブル 13:20,21。