苦しみを通して学ぶ従順のもたらす祝福
「彼は子であったが,苦しんだ事柄から従順を学ばれた。そして,彼は完全にされたのち,彼に服従している人々すべてのための永遠の救いに対して責任を持つ者となられた」― ヘブル 5:8,9,新。
1 忍耐が深い感動をもたらすことが多いのはなぜですか。忍耐には,どんなことが関連していますか。
超人的な忍耐の試練! こうした見出しの新聞記事は,直ちに読者の注意を引きつけずにはおかないでしょう。なぜなら,それは世間をあっといわせるようなニュースを報じているに違いないだけでなく,忍耐という特質に関心をもつ人が大ぜいいるからです。読者は,自分に大いに関係のあるものとして,そうした見出しの記事を読み,自分が同様な試練に面したなら,どうなっただろうかと思案するでしょう。事実,登山・長距離マラソン・水泳その他,きびしい忍耐の試練に喜んで服する人は少なくありません。そうした競技をし遂げるには,特定の行動を中途でやめずに続けねばならないだけでなく,圧力や困難また苦しみに面しても,圧倒されたり,あきらめたりすることのない不動の強じんさが必要です。それがすなわち忍耐です。それが,我慢・竪忍・専心の力・不屈の精神・勇気などを要する,きわめてすぐれた特質と考えられているのは,もっともです。前述のような競技の場合,それをし遂げようとする動機には,競争意識や,偉業を成し遂げるという意味での誇りが含まれているかもしれませんが,いつもそうであるとは言えません。回復の見込みもないまま,長年,苦しい闘病生活を続ける人を看病するとか,気むずかしくなったり,あるいは,ふしだらになったりした人とともに何年も生活するなど,その他,それに類する境遇にはすべて,忍耐が要求されます。しかも,人のかっさいを受けることなど念頭にないばかりか,たいてい,そうした場合の忍耐は当然のこととされ,忘れられてゆきます。
2 聖書は,忍耐に関するどんな特別の模範に,わたしたちの注目を促していますか。
2 しかしここでは,超人的な忍耐の試練をみごとに通過した人の特異な例に,みなさんの関心を向けていただきましょう。これは誇張ではありません。同時に,みなさんが,そのことを自分に大いに関係のあることとして考えるよう,神のことばの権威に基づいて,勧められていると言うことができます。事実,それはわたしたちすべてに,それぞれ関係している事がらなのです。それは,他の試練と本質的に異なっているからではなく,考慮に十分値する,ある種の顕著な特色および状況のゆえに特異な例となっています。すでに予想されたかたがたがいるかもしれませんが,その例とは,神のひとり子,キリスト・イエスに関するものです。イエスについては,こうしるされています。「彼は子であったが,苦しんだ事柄から従順を学ばれた。そして,彼は完全にされたのち,彼に服従している人々すべてのための永遠の救いに対して責任を持つ者となられた」。(ヘブル 5:8,9,新)しかし,彼はどのように,また,なぜ試練を受けられたのかを詳細に検討する前に,イエスが忍耐した事がらすべての直接の結果として得た祝福の幾つかを,簡単に取り上げて,励みを受けることにしましょう。
3 簡単にいって,イエスは,忍耐の結果として,どんな祝福を得ましたか。
3 まず最初に,パウロはそうした祝福の三つを続けて直接,指摘しています。(1)それによって,イエスは特別な意味で,「完全にされた」。(2)イエスは,「彼に服従している人々すべてのための永遠の救いに対して責任を持つ者」となることを認められた。(3)「メルキゼデクのさまにしたがう大祭司」となる資格を得られた。(ヘブル 5:9,10,新)もちろん,この3番目の点は,(4)イエスが,メルキゼデクのような「王」となる資格をも得られたことをも意味します。(5)イエスは,「新しい契約の仲介者」として任命され,(6)「神の王座の右」の,きわめて高い位を持っておられます。最後に,(7)彼は神の子たちの家「の上に立つ子として」,かしらとされました。問題の暗い面と見られる事がらを考慮するに際して,以上の点を銘記しなければなりません。それこそ,イエスがなさったことなのです。こうしるされているとおりです。「彼は自分の前におかれた喜びのために…刑柱を忍(ば)…れたのである」。―ヘブル 7:1,2; 9:15; 3:6; 12:2,新。
4 ヘブル書 7章26節を考えると,ヘブル書 5章8,9節のことばから,どんな疑問が生じますか。
4 同じ使徒が霊感を受けてしるしたヘブル書 5章8,9節(新)に再び注意を向けると,一見奇妙で理解しにくい表現が用いられていることに気づきます。イエスは天からつかわされた,「忠節で,偽りも汚れもなく,罪人から分けられ(た)」,神の完全な子であった以上,ご自分の「苦しんだ事柄から従順を学ばれ」,その結果,「完全にされた」と,どうしていえるのでしょうか。(ヘブル 7:26,新)イエスにとって,それはなぜ必要だったのでしょうか。彼は常に従順で完全だったのではありませんか。こうした主要な問題に関する正しい見方と正当な評価を持つため,パウロが特にエホバの霊に恵まれていたことを思い起こし,いわば,パウロの目を通して問題の全ぼうを見ることにしましょう。
5 ヘブル書 1章にあるパウロの論議の主題はなんですか。そのことは,どのように裏づけられていますか。
5 ヘブル人のクリスチャンにあてた手紙の中で,パウロの論議がどのように展開されているかを調べ,同時に,その手紙の初めのほうで,天使についてしばしば言及されている事実に注目するのは,たいへん興味深いことです。まず第一に,パウロは,神の子が最高の地位に高められたという特異な事がらを主題にしました。その結果,神の子は,「〔神の〕栄光の反映であって,神の存在そのものの厳密な表象」となられ,「また,彼はわたしたちの罪のための清めをなしたのち,きわめて高い所にいます君主の右にすわられたのである。そういうわけで,彼は……天使たちよりもすぐれた者となられた」のです。(ヘブル 1:3,4,新)このことばの後に,天使たちの上に立つキリストのまさった地位を示す,ヘブル語聖書の引用句がたくさん掲げられていますが,その中でパウロは,詩篇 45篇7節(新)の次のことばを引用して,キリストが高められた根本的な理由を明示しています。「あなた[子]は正義を愛し,不法を憎まれた。こういうわけだから,神,あなたの神は歓喜の油をもって,あなたの共同者[イスラエルの王たち]以上に,あなたに油を注がれた」。(ヘブル 1:9,新)わたしたちはここに示されている原則を銘記しなければなりません。どんな試練に巻き込まれようと,この原則に従うかぎり,エホバの是認と祝福が得られるので,わたしたちも好結果の得られることを確信できます。
6 (イ)その論議はヘブル書 2章1から4節で,どのように続けられていますか。それはどんな責任を示していますか。(ロ)その論議は,ヘブル書 2章5から9節で,どんなすぐれた仕方で展開されていますか。
6 イエスがきわめて高い地位に上げられたことを念頭におくと,パウロの次のことばの真意をいっそう深く認識できます。「こういうわけだから,わたしたちは」,天使たちによってではなく,「わたしたちの主によって話しはじめられ……たという点で,これほど偉大な救い」の音信に,「普通以上の注意を払わねばならない」。イエス・キリストの王国にかかわる,天への希望,あるいは,地上で命を得る希望のいずれを問わず,イエス・キリストの差し伸べる救いのための機会をなおざりにするなら,そうした過分の恵みによる特異な備えをはねつけるのですから,「公正にのっとった」恐るべき「懲罰」から,「わたしたちはどうしてのがれうる」でしょうか。(ヘブル 2:1-4,新)次いでパウロは,詩篇 8篇を引用してこの問題を詳述し,神の王国では,「すべてのものを」例外なく,天使たちにではなく,「人の子」であるイエスの足もとに『服従させる』のが,神の目的であることを指摘しました。しかし,興味深いことに,この目的の達成にあたって,イエスは,地上に来たひととき,「天使たちよりも少し低く」されました。それはなんのためであり,また,どんな結果をもたらしましたか。その答えとして,イエスは今や,「神の過分の恵みによって,あらゆる人のために死を味わおうとして,死の苦しみを受けたゆえに,栄光と誉れの冠を与えられ」ていることに注目してください。(ヘブル 2:5-9,新)このことから,救いのために設けられた備えは,たいへん包容力が大きく,人類家族の成員はだれでもその恩恵にあずかれるということがわかります。その益がだれに対しても自動的あるいは強制的に及ぶものでないことは確かですが,その益にあずかれない人がいるとすれば,その責任はほかならぬ当人自身にあります。その備えは,「あらゆる人」に及ぶものなのです。あなたは,こうした備えの価値を十分に認めておられないでしょうか。あなたに深い関係があると感じておられませんか。「決してさまよい出ない」よう,また,「生ける神から離れ去って,信仰の欠けた,よこしまな心臓」を発達させることがないよう,わたしたちは十分注意しなければなりません。―ヘブル 2:1; 3:12,新。
7 ヘブル書 2章10節に述べられている「多くの子たち」がだれかを,どのようにして明らかにすることができますか。
7 ここまでは何も問題がありません。神の愛する子が,そのような高められた地位に上げられるにふさわしいかたであったことを,わたしたちは容易に認められます。しかし,パウロの次のたいせつなことばについてはどうですか。「多くの子たちを栄光へと連れて行くにあたり,彼らの救いの主要な代理者を苦しみを通して完全にさせるのは……ふさわしいことであった」。(ヘブル 2:10,新)それら「多くの子たち」とはだれですか。特別な誉れを受けるにふさわしい神聖な天使たちのうちのだれかを意味しているのですか。そうではありません。その答えのかぎは16節(新)にあります。その句は次のとおりです。「彼[イエス]は,実際,天使たちを少しも援助してはいないが,彼はアブラハムのすえを援助しているからである」。そうです,問題のかぎはその「アブラハムのすえ」なのです。この級がだれであるかは,ガラテヤ書 3章16,26そして29節(新)のパウロの説明を引き合いに出しさえすれば,明らかになります。そこで彼は,約束が多くのすえたちにではなく,ただひとりの者,「『そして,あなたのすえ』……キリスト」に対してなされたことを述べた後,こう語ります。「事実,あなたがたはすべて,キリスト・イエスに対する,あなたがたの信仰による,神の子たちなのである。…そのうえ,あなたがたがキリストに属しているのであれば,あなたがたはほんとうにアブラハムのすえ,約束に関する相続者たちなのである」。このことからわかるように,アブラハムのすえは,おもにイエス・キリストですが,その拡張的な成就においては,クリスチャン会衆,すなわち,天への希望を持つ「小さな群れ」が含まれています。(ルカ 12:32,新)それらの人たちは,自分たちのかしらとともに,苦しみを通して学ぶ従順のもたらす,約束された特別な祝福に大いにあずかります。たとえ,その限られた数の人のひとりではなくても,羊のような人であれば,あなたもやはりこの問題に関係を持っておられるのです。というのは,後に考慮しますが,この「終わりの時」にいる,エホバの羊すべては,同じ動機をもって,同じ行動を取り,そのすべてが等しく現在の特に「対処しにくい危機の時代」に苦しみを通して従順を学ぶことが要求されているからです。―テモテ後 3:1,新。
苦しみを通して完全にされた主要な代理者
8 (イ)大祭司としてのイエスによって,まず最初に,どんな備えが設けられましたか。それはなぜでしたか。(ロ)それ以上の助けが必要とされていますか。それはどのようにして備えられていますか。
8 「主要な代理者を,苦しみを通して完全に」させることがなぜふさわしかったのか,また,それがどのようになされたのかを正しく認識するため,この句の前後の文脈に見られる,さまざまな表現で,問題に直接関係のあるものを関連させてみましょう。まず最初に,ヘブル書 2章17,18節(新)を考慮します。ここではイエスが,「すべての点で,彼の『兄弟たち』のような者となるのを余儀なくされたのである。それは,彼が人々の罪のための,なだめの犠牲を供えるために,神にかかわる事柄における,慈悲深い忠実な大祭司となるためであった」と説明されています。それら神の「多くの子たち」つまり,それらイエスの「兄弟たち」が受け入れられ,神の目に義の立場を与えられる十分の基礎を設けるには,前述のことがまず最初になされねばなりませんでした。しかも,それがすべてではありません。それらの人は,エホバの「羊」すべてと同様,さまざまの不完全さや欠陥に悩まされる人類家族の中から取られており,彼らの慈悲深い大祭司の援助をさらに必要としています。次の句の述べるとおりです。「彼は試練にあわされたとき,みずから苦しんだので,試練にあわされている人々を[も]助けに来ることができるのである」。これで初めて,この地上でイエスがあらゆる苦しみを耐え忍んだ理由の一つがわかってきます。こういうわけで,イエスは,いわば遠く離れたところから助けを備えることができるだけでなく,わたしたちが困ったときには,『わたしたちを助けに来ることができる』のです。神の右のきわめて高い立場に高められたにもかかわらず,イエスは遠くへだたった個人的な関係のもてないかたではありません。このことは,なんと親密な関係を示し,かつ,大きな慰めを与えるのでしょう。
9 (イ)イエスはどのように,また,どの程度,わたしたちの弱さに同情できますか。(ロ)そのために,わたしたちは,どんな益を得ることができますか。
9 次にヘブル書 4章15,16節(新)を考慮しますが,それはさらに慰めと励みを与えるものです。パウロは,「わたしたちは,わたしたちの弱点に同情できないかたではなく,わたしたちと同じように,すべての点で試みられながら,罪のないかたを大祭司として持っている」と述べています。これは,わたしたちの大祭司をなんと身近に感じさせることばでしょう。その大祭司は,わたしたちの限界だけでなく,弱点にさえ同情できるのです。また,人をつまずかせたり,完全な従順の道を踏みはずさせたりする幾多の圧力や,恐れをもたらす反対,あるいは,まちがった欲望を引き起こす誘惑などから来る圧力がどんなものかを知っておられます。「わたしたちと同じように,すべての点で試みられ」たのです。しかも彼ご自身は,ほんの少しでもつまずいたり,道を踏みはずしたりしたことは決してありません。イスラエルの大祭司のように,「彼は……無知な人や,あやまちを犯す者たちをおだやかに取り扱うことができる」ということを知るのは,大きな慰めです。(ヘブル 5:2,3,新)しかも,イスラエルの大祭司たちと異なり,イエスはご自分の罪のための供え物を一度も必要とされなかったのです。このことを考えると,パウロの次のことばに同感しないわけにはゆきません。「それゆえ,わたしたちは自由なことばをもって,過分の恵みの王座に近づこう。それは,慈悲を得,時にかなった助けとして,過分の恵みを見いだすためである」。それらヘブル書 2章18節(新)また4章16節(新)はいずれも,各それ自体の見地からしても真実です。わたしたちが試練にあわされるとき,わたしたちの大祭司はすぐ救助のために来て助けを備えてくださる一方,わたしたちは常に,まさに時にかなった親切な助けが必ず得られるとの絶対的な確信をいだいて,神の過分の恵みの王座に自由に近づけるのです。
10 (イ)イエスの苦しみは強烈な現実のものであったとどうしていえますか。(ロ)比類のない試練を経たゆえに,どんな目的が成し遂げられましたか。
10 これまでにパウロの論議の大要をたどって,そのすぐれた論点の幾つかを正しく評価しましたが,もう一度,ヘブル書 5章8節から10節(新)の,パウロのことばを見てみましょう。彼は,そのすぐ前の節で,イエスの受けた苦しみが強烈な現実のものであったこと,また,イエスは,「彼を死から救いうるかた[神]に,強烈な叫びと涙をもって,懇願とともに嘆願をささげた」ことを想起させています。それは確かに超人的な試練でした。次いで,問題のかぎともいうべきことばが続きます。「彼は子であったが,苦しんだ事柄から従順を学ばれた。そして,彼は完全にされたのち,彼に服従している人々すべてのための永遠の救いに対して責任を持つ者となられた」。続いて,その苦難の歩みを必要とした第一の理由がしるされています。「なぜなら,彼は神によって特別に,メルキゼデクのさまにしたがう大祭司と呼ばれているからである」。イエスは今や十分の資格を得ました。
11 ヘブル書 5章9節において,また,イエスが追随者に使命を与えられた際,従順ということがどのように強調されましたか。
11 従順が強調されていることに注目してください。イエスはみずから従順を学び,かつご自身の従順を実証しなければならなかったばかりか,彼を単に信頼するだけでなく,「彼に服従している人々すべてのために」のみ,その救いに対して責任を持っておられるのです。従順のもたらす祝福つまり,とこしえの救いを得るのは,試練を受けて苦しみにあい,従順を学ぶ人びとだけです。復活後十分の資格を得たイエスが,この点を強力に裏づけられたことに注目してください。ご自分の追随者に使命を与えるに際し,最初にこう言われました。「わたしは天と地のすべての権威を与えられた」。それで,イエスは従順を要求する権利を持っておられます。次いで,こう言われました。「それゆえ,行って……人々を弟子とし……わたしがあなたがたに命じた事柄すべてを守る[つまり,守って従う]ように教えなさい」。彼は要請あるいは提案したのではなく,命令したのです。彼に対する従順は,わたしたち自身も,また,わたしたちが特権に恵まれて教えている人びとも回避できません。もっとも,このことには,わたしたちの大祭司の場合と同様,慈悲その他の霊の実を加味して,釣り合いを保たせねばなりません。それはわたしたちに恐れをいだかせるどころか,確かにすばらしいささえを与えるものです。イエスはこう付け加えられたからです。「見よ,わたしは事物の体制の終局まで,[すべての権威をもって,あなたがたを支持し]いつもあなたがたとともにいるのである」。それ以上に何かが必要でしょうか。―マタイ 28:18-20,新。
12 (イ)どんな基本的な原則が,従順のたいせつさを強調していますか。(ロ)神のことばに照らしてみると,従順の試練は,どうして心臓をさぐるものであるといえますか。
12 では,イエスはどのように従順を学ばれたのだろうか,また,その結果,どのようにして完全にされたのだろうか,という主要な問題を考慮しましょう。従順の問題には,イエスおよびアブラハムのすえを構成する人びとのみならず,理知のある,神の被造物すべてにあてはまる,基本的な原則もしくは真理が関係しています。その偉大な真理とは,エホバがご自身の全被造物を治める正当かつ正義の宇宙主権を持っておられるという事実です。すべての者は,エホバがもたらす,あるいは許す,どんな試練に臨んでも,従順を実証して,この真理を十分に認めていることを立証しなければなりません。最初の試練はエデンで生じました。最後の試練は,キリストによる千年統治の後に訪れます。(黙示 20:7-10)そのいずれの場合においても,試練は軽々しく取り扱うべきものではないことを聖書は示しています。自分は当然,首尾よく通過できる,と考えうる者はひとりもいません。それは現実の試練であり,試練にある者の心臓が,明示されたエホバの意志に対する従順を促すか,あるいは不従順を促すかを明らかにします。あなたを支配する,つまりあなたの心臓と思い,また,あなたの全生活を支配する,エホバの主権に,あなたは無条件で進んで同意しますか。
13 聖書および日常会話で,完全ということばは,どんな二つの意味で用いられていますか。
13 従順に関するこの論議をさらに進める前に,完全という問題を考えてみましょう。この問題を正しく理解するには,まず第一に,聖書および日常会話の中で,完全ということばは二つの意味で用いられていることを知っておかねばなりません。(1)完全無欠で,誤ることがない,という意味で,何かが完全であると言う場合があります。それは十分に発達した完成されたものです。それは絶対かつ窮極の意味での完全であって,おもにエホバにあてはまります。エホバについて聖書はこう述べます。「彼は岩,その働きは完全である。その道はすべて公正だからである。忠実の神,彼には不正はない。正義かつ廉潔なかたであられる」。(申命 32:4,新)(2)しかし,完全ということばは,相対的もしくは限定的な意味で,つまり,特定の領域内に限りその範囲を越えない意味において用いられる場合がしばしばあります。たとえば,合成ダイヤは電気ドリルに供するには完全なものですが,婚約のしるしに贈る指輪には,決して用いてはなりません。
14 (イ)エバは,どのようにして完全の的からはずれるようになりましたか。そのことからどんな疑問が起きますか。(ロ)人間には,人間に関する神の目的をたたえる,どんな特別の性質や能力が付与されましたか。
14 この点に関して,やはり従順が関係しているアダムとエバの場合を,聖書から考えてみましょう。アダムは,彼自身の領域に関しては相対的な意味で完全であり,この地と彼から直接出る家族に関する創造者の目的を遂行するに際して,かしらの権を行使するのに完全に適した男性でした。エバは,彼女の領域に関するかぎり,母親であるとともに,彼女の夫の理想的な伴りょであることに完全にふさわしい女性でした。ところが,彼女はあまりにも早く道を誤りました。罪を犯したのです。つまり,完全という的からはずれたのです。どのようにしてですか。神から与えられた割り当ての範囲を越えて,神から自分の夫に与えられた特性を,わがものにしようとし,自分自身のかしらのようにふるまい,自分の夫と自分の創造者に対して不従順になったのです。それでもなお,昔から繰り返されてきた次のような疑問が持ち上がります。ふたりがほんとうに完全であったのなら,しかも一見したところそれほど早く,しかも簡単に罪を犯してしまうようなことが,どうしてありえたのでしょうか。ふたりはいずれも,他の完全な特性,完全に自由な思惟と意志,また,自分の望む方向に沿って物事を考え,かつ推論し,自分自身の結論を引き出して,みずから決定を下す能力といった他の特性にも完全に恵まれていたことを忘れないでください。ふたりは完全な選択の自由を享受していました。実際,もし,従順か不順従かのどちらかを選ぶ能力がない,つまりその選択の余地がなかったとすれば,ふたりは神の目からすれば不完全だった,ということになるでしょう。単に従順な男女によってではなく,神の正当な主権を認め,自発的な深い専心と忠節を神につくすかどうかに関する試練を経た男女によって,この地を満たすのが,神の目的であるということにどうか留意してください。神はだれからも,自動的で機械的かつ,あたりまえの,あるいは強制された崇拝や奉仕を求めてはおられません。それどころか,熟考しつくされた,すすんでなされる奉仕,愛の宿る心臓から自然に発する奉仕を求めておられるのです。
15 (イ)聖書は,罪の発端とその成立過程をどのように説明していますか。(ロ)選択の自由をどのようにみなし,かつ,どのようにたいせつにすべきですか。
15 そういうわけで,人間が完全の域から堕落したのは,悪い考えを自分の思いに持ち込んだためでした。最初にエバ,次にアダムがみずから意のままに選択して,悪いことを長く思いめぐらしたため,その悪が根をおろし,それに動かされて,ふたりは悪行を犯しました。聖書は,まさにそのとおりのことを述べています。「人はおのおの,自分自身の欲に引かれ,かつ,誘われて,試みられるのである。[つまり,人は,エバの場合のように,それが初めは自分のものではないにしても,そうした欲望をあえて自分自身のものにするのです。]次いで,その欲は,それが熟したときに罪を生む」のです。(ヤコブ 1:14,15,新)完全なものにも,そうでないものにも,この原則はすべてにあてはまります。完全な人間は道を踏みあやまることができないとすれば,不完全な人間は,特に圧力を受けた場合,正しい歩みを保つことはできないと言わねばなりません。ところが,今日,多くの不完全な人間が,たとえ苦しみを受けようとも,神に服従する正しい道に,実際に,つき従っているのです。一方,他の人びとは故意にまちがった道を進んだり,そうした道にふけったりしています。神がイスラエルの子らに対して,「視よ……我は生命と死……を汝らの前に置り 汝生命をえらぶべし」と言われた時と同様,わたしたちの前に選択の機会がおかれていることを悟るのは賢明です。(申命 30:15,19)イスラエルの子らは不完全だからといって,その選択を思いとどまったわけではありません。完全と従順に関するこの問題を明確に理解すれば,わたしたちの責任と,各人の前に開かれている種々の特権に対する,正しい見方を持つことができ,また,そうするための励みが得られます。人間は不完全であるにしても,罪と不完全のもとに,およそ6,000年を経た今日でさえ,どのように考え,かつ決定するかに関する選択の自由を依然として,相当の程度まで保有しています。思惟と意志を行使するこの自由は,貴重な賜物であるとともに,重大な責任を伴うものですから,それをどう用いるかに,普通以上の注意を払わねばなりません。
16 (イ)地上におられた時,また,それ以前,イエスは,相対的な意味でどのように完全でしたか。(ロ)どんな高い務めがイエスに与えられようとしていましたか。それはどんな特質を要求するものでしたか。
16 以上のことはイエスの場合にもあてはまります。相対的あるいは限定的な意味での完全ということがイエスにどうあてはまったかを考えてみましょう。この地上で生まれた時,イエスは完全な赤ん坊でしたが,それでも赤ん坊にすぎませんでした。12歳で,当時の教師たちと神殿の一隅で論議をかわしたイエスは,完全な少年ではありましたが,それでも少年にすぎなかったのです。(ルカ 2:41-52)人間として存在する前についても同じで,彼は,神の「熟達した働き手」として完全なかたでした。(箴言 8:30,新)しかし,実証された完全性・信頼性・円熟性に関する,確実な特質を最高度に必要とする,いっそう高い地位を彼に与えることを神は意図しておられました。したがって,王または大祭司となって,そうした高い務めにつく前に,神の子が,必要な成長と訓練,教育と懲らしめ,そして試練を経るのはふさわしいことでした。それは,彼を完全にして,その高い務めにふさわしく,失敗を犯すおそれの全くない者にするためだったのです。
17 地上におられた時,イエスの従順はどのようにきびしく試みられましたか。
17 それとともに,従順という問題も関係しています。確かにイエスは,地上に来る以前も常に従順でした。しかし,その従順が,きびしい試練にさらされたことは一度もありませんでした。ダニエルの時代には,『ペルシャの君』と呼ばれる霊者と,また,それより前には,モーセの死体の件でサタン自身と,それぞれ対立した当時,彼はそれら反対者の支配のもとにはありませんでした。(ダニエル 10:13。ユダ 9)彼は,従順であるために,高い代償を払う必要はなかったのです。しかし,地上に来て,宣教,つまり野外奉仕を始められた時,事情は一変しませんでしたか。ヨルダンからカルバリに至るまで,多くの苦しみを伴う試練に絶えずあいました。荒野で悪魔と直接対じして以来,敵意をいだいた種々の宗教上の圧力グループすべてに,絶えずねらわれ,あとを追われ,ついに捕えられたのです。そうです,イエスは,「強烈な叫びと涙をもって」苦しい試練を耐え抜かれました。それは非常にきびしい試練でした。そして,ついに,それら圧力グループとローマのいたばさみにされて殺されたのです。しかし,彼は霊において,またご自分の天の父に対する忠誠と完全な従順においては,砕かれたり,圧倒されたりはしませんでした。―マタイ 4:1-11。ヘブル 5:7。
18 イエスは,苦しみ,かつ耐えたことのすべてから,どんな祝福をご自分のものにされましたか。それは他の人にどんな益となっていますか。
18 イエスは常に信仰を持っていましたが,今や,それは質を試みられたものになったのです。彼は常に鋼鉄のような絶対的な真実さを示し,それは,忠節と確固さとを持っていることを表わすものとなっていました。しかし,この時にいたり,それは鍛えられた,つまり,火をもって鍛えられた鋼鉄にも等しいものとなりました。こうして考えてみると,極度の逆境や苦しみのもとでの従順とはどういうものかを,イエスはなぜ実際の経験を通して学ばねばならなかったのかが,いっそう十分に理解できます。それは,まず第一に,イエスの前途にあった,神の右に立つという特異な地位を考えてのことでした。そして,すべてのものは,イエスに服従させられるのです。そのうえ,彼はそうした道を忠実に忍ぶことによって,かつてないほどの広い,また深い意味で完全にされたことがわかります。こうして,イエスは,わたしたちを助けるために来て,時宜にかなった援助を与える大祭司として,十分の資格を得ることになりました。その結果,イエスは,まず最初に,天のご自分の王座にともにあずかることになっている,多くの従順な子たちのため,次いで,人類のうちの,その身代わりとしてイエスが死を味われた,他の多くの人びとのために,その窮極的な救いに対して責任を持つ者となられたのです。それらの人びともまた,神が親切にも,ご自分の忠実な子に「すぐれた地位」を与えられたゆえに,「あらゆるひざが」服従を示して,「イエスの名によってかが(む)」ということを知らねばなりません。もとより,このすべては,「父なる神に栄光を帰する」ためです。―ピリピ 2:5-11,新。
19 イエスは試練を強制されたのではない,とどうしていえますか。そのことはどのように予告されていましたか。
19 イエスに関しては,注目に値することが,もうひとつあります。イエスは強制されて種々の試練を受けたのではありません。彼は,当時,奉じられていた偽りの宗教や伝統すべてを公に暴露するわざを伴う宣教を,敵の攻撃を招くのを十分承知のうえで,進んで,しかもわざわざ開始されました。その気持ちと決意のほどは,予告されていたとおりでした。「わたしは信仰を持っていました。わたしは話しつづけたからです。わたし自身は大いに苦しめられました」。なかでも,イエスは,神の王国に信仰を置き,かつ,ご自分がその王として立てられることを信じておられました。そうした信仰に基づいて,彼は,「話しつづけ」,あらゆる機会に,「真理について証言を」しました。その結果,「大いに苦しめられ」たのです。さらに,最後に臨んで,「死のなわがわたしを取り巻き,シェオールの苦しい事態そのものが,わたしを見いだしました」と語りえた時でさえ,彼は,こう言われました。「わたしはわたしの誓いをエホバに果たします。そうです,彼の民すべての前で」。イエスは,エホバの忠節な者の第一人者でしたから,「エホバの目にとって,その忠節な者たちの死は貴重です」としるされたことばをその時思い起こし,大きな慰めを得られたことでしょう。―詩 116:3,10-15; 2:6,ヨハネ 18:37,新。
20 わたしたちのためのイエスの宣教を認識することのほか,どんな見地からイエスのことを考慮し,かつ,深い関心をいだくべきですか。
20 すでに述べましたが,きびしい方法で従順を学ばれたイエスは,その経験によってご自身が益を得,わたしたちの益のために奉仕する大祭司になることができただけでなく,その経験を通して,ある点でわたしたちが従うべき型を残されたのです。このことはイエスとともに,その天の王座にあずかる希望を持つ人びとのほか,復興された地上の楽園で命を受ける希望をいだく人にもあてはまります。この問題を読者のみなさんと,さらに十分論じ合いたいと願っていますので,みなさんにも関心を持っていただきたいと思います。もとより,みなさんは深い関心をお持ちのことと思いますが,多くの人はこう言われるかもしれません。これまでの見地からでは,あまり関心をもてません。イエスは完全でしたから,それでよかったのですが,わたしは自分の不完全さがあまりにも気になって,イエスのあがないの犠牲の益を感謝して受け入れること以上にはとても進めません。これはもっともな論議ですか。正しい考え方といえますか。