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「真理における同労者」として忠節な態度で仕えなさいものみの塔 1983 | 7月1日
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のエホバの証人たちがしばしば行なうように,愛する仲間の信者たちのことに触れました。(ヨハネ 15:13,14と比較してください。)ヨハネが地元の会衆の成員を非常によく知っており,友人たちの「名を呼んで」自分のあいさつを伝えて欲しいとガイオに頼むことができたのは,極めて適切なことでした。
同労者として忠節な態度で仕えつづけなさい
24,25 ヨハネの第二と第三の手紙は,何の必要性をエホバの証人に印象づけますか。この2通の手紙はどのようにわたしたちを動かすはずですか。
24 確かに,霊感によるヨハネの第二の手紙と第三の手紙は,互いに愛し合うこと,背教を退けること,真理にしっかりと付くこと,真の崇拝の関心事を促進することなどの必要性を現代のクリスチャンたちに強く印象づけます。したがって,エホバの証人であるわたしたちは,わたしたちの父の賛美を歌い,王国の良いたよりを告げ知らせ,人類を祝福するための神の取決めにおけるイエス・キリストの重要な役割を指し示しつつ,引き続き聖書の真理に忠節を保つ決意を抱いています。
25 エホバの証人としてわたしたちは,この危機的な「終わりの日」に幾度も信仰の試みに直面します。(テモテ第二 3:1-5)しかし,使徒ヨハネの健全な諭しは,わたしたちが生活の道としての「真理のうちを歩み」つづける助けになります。ですからわたしたちは,良いことを見倣い,王国の関心事を促進するためにできる限りのことを行ない,「真理における同労者」として忠節な態度で共に仕えつづけたいものです。そのすべては,すばらしい真理の神,エホバの賛美となるのです。
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読者からの質問ものみの塔 1983 | 7月1日
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読者からの質問
■ 近年,「ものみの塔」誌で,元カトリック司祭,ヨハネス・グレベールの翻訳が使われなくなったのはなぜですか。
この翻訳は,マタイ 27章52節と53節およびヨハネ 1章1節に関する「新世界訳」および他の権威ある聖書翻訳の訳文を支持するために時折用いられていました。しかし,ヨハネス・グレベール訳の「新約聖書」の1980年版の序文に示唆されているとおり,この翻訳者は難しいくだりをどのように訳すべきかをはっきりさせるため,「神の霊界」に頼りました。そこにはこう書かれています。「彼の妻は神の霊界の媒介として,しばしば神の使者からグレベール牧師に正しい答えを伝える器となった」。「ものみの塔」誌は,心霊術とそのように緊密な関係を持つ翻訳を利用するのはふさわしくないと見ています。(申命記 18:10-12)「新世界訳」の中の前述の聖句の翻訳の基盤をなしている,古典に関する学識は確かなものであり,その理由でグレベールの翻訳をよりどころにしなければならない理由はありません。ですから,グレベールの「新約聖書」を用いなくなったことにより失われたものは何一つありません。
■ 神が「ご自分の使いたちを霊とし,自分の公僕たちを火の炎とする」と述べているヘブライ 1章7節の言葉は何を意味していますか。
使徒パウロは神のみ子をみ使いたちと対比して,ヘブライ 1章7節でこの言葉を述べています。パウロは詩編 104編4節の言葉を引用していました。
み使いたちはすべて霊の被造物で,肉の体を有していませんから,神が「ご自分の使いたちを霊と(する)」と述べるこの節は,み使いたちの生体の種類に言及しているのではないと思われます。むしろ,この理解は「霊」という言葉の根本にある意味と関係しています。「霊」と訳出されている原語の言葉(ヘブライ語,ルーアハ。ギリシャ語,プニューマ)には,「息をする,あるいは吹き込む」という基本的な意味があります。文脈によって,それは「風」とか「活動力」と訳出されることがあります。ですから,ヘブライ 1章7節と詩編 104編4節の論点は,神が,目に見えないみ使いたちを,ご自分の奉仕のための霊的な勢力あるいは力強い勢力としておられるということのようです。神はまた,ご自分の火のような裁きを執行するためにみ使いたちを用いる際に,彼らを「火の炎」あるいは「むさぼり食う火」として用いることもおできになります。
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