神の大祭司が人々のために行なう事柄
「このように,聖にして,悪も汚れもなく,罪人とは区別され,かつ,もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ,わたしたちにとってふさわしいかたである」― ヘブル 7:26。
1,2 多くの人が祭司職から逃避していることに対して,どんな反応がみられますか。この事態に関して,時宜を得たどんな質問がありますか。
今日,祭司職からの逃避が見られ,キリスト教国と呼ばれる宗教領域においてとくにそれが著しくなっています。キリスト教国ではでに祭司が不足しています。祭司を勤める人間の地上にいなくなる時が,近い将来に来るでしょう。それはあなたにとってどういうことですか。多くの宗教的な人々は,そのようなことを考えるとき不安になります。人類の世は,地上に祭司がいなくてもやって行けますか。「やって行ける」と無神論者は叫び,「祭司がいなくて幸いだ」とつけ加えるでしょう。しかしどんな宗教の信者であっても,いまなお余命を保っている祭司に愛着を感ずる人は,このように敵対的な態度をされると,気を悪くします。人間の祭司が地上にいなくなる時,これら信心深い人々は気を悪くしますか,絶対に必要なものをなくしたことになって困るでしょうか。
2 最高の権威によれば,祭司に関して人類は将来この事態に直面します。祭司の職には必ず「神」の観念が伴うゆえに,この来たるべき事態によって神のない世界が出現しますか。そのために人類は人間の弱さ,不完全さ,有害なならわし,病気と死にいつまでもまとわれて苦しみますか。その状態は,人間がみずからの不浄,不完全また自滅の性向によって死に絶えるか,あるいは宇宙空間からの天変地異によって滅びるまでつづきますか。祭司に対する態度がどんなものであるにしても,わたしたちすべての福祉に関係する重要な問題があるのです。
3 祭司および人間の造った神々について,歴史は何を示していますか。
3 歴史を学んだ人が今日知るように,人間は何千年の間自分たちの神々を作り,これら人の手で造った神々に犠牲をささげる祭司を任命してきました。古代バビロニア人は彼らの神々を有し,それらに仕える祭司を任命しました。古代エジプト人にも彼らの神々そして魔術師の祭司があり,古代アッシリア人にも彼らの神々と祭司がありました。古代ペルシャ人とメディア人,古代ギリシャ人,古代ローマ人も同様です。むかし中東に住んでいた異教徒のカナン人にも神々と祭司があり,祭司は人身御供をさえささげました。これらの神々は死んでいます。その証拠に今日その寺院と祭壇は廃墟となっています。命のない神々の祭司たちは,人類にとっていったい何の役にたちましたか。これらの祭司は人々にどんな益を与えたのですか。現代の人がこのような疑問をいだいても不思議ではありません。人間の歴史から得られるその答えは,決してかんばしいものではありません。
4 ヒンズー教および仏教の祭司は何百万の信者のためにその勤めをしていますが,それらの信者について,わたしたちは何を尋ねますか。その答えはそれらの祭司にとってかんばしいものですか。
4 ヒンズー教の祭司制は,ある人々がまちがってキリスト教時代とも呼んでいる西暦紀元の何世紀も前に成立したものです。同じく仏教の僧職も西暦紀元のずっと前からありました。ヒンズー教の祭司も仏教の僧侶も今なお何百万人の信者のためにその勤めを行なっています。しかし彼らについても同じ質問をしなければなりません。これらの祭司は人々とくにヒンズー教や仏教を奉ずる信者のためにどんな働きをしましたか。それらの人々の今日の状態を見れば,ことばを費やさなくても答えは明白です。それはこれらの祭司が仕える神々に誉れとなるものではありません。
5 今日,最も大きな勢力を得ているのは,どの宗教組織ですか。その宗教組織ついて何を訪ねなければなりませんか。
5 キリスト教国はいわゆる異教の領域に対して誇ることができますか。決してできません。世界の宗教史上においてキリスト教国の祭司と僧職者は,最大の宗教組織を作りあげています。何世紀にもわたり彼らは世界の宗教界に君臨してきました。今日においてもその諸宗派は9億の信者を擁しています。世界のあらゆる宗教の中ではとにかく,キリスト教国の諸宗派の中ではローマ・カトリック教会が最も多くの信徒を持ち,最大の勢力を誇っています。その理由で最も重い責任を負うべき地位をこの世で占め,また多くのことに対して責任があるのです。いわゆる異教の宗教家に対して公平というたてまえからも,キリスト教国つまりカトリックとプロテスタントの祭司が人々のためにどんな働きをしたかを問わねばなりません。彼らが改宗させようと努めている何億の“異教徒”にとり,いわゆるキリスト教の諸国民は良い手本となっていますか。キリスト教国の祭司は彼らをそのような者にしましたか。唯一の生ける真の神を人々に近づけ,あるいは人々を唯一の生ける真の神に近づけましたか。そのとおりだと言える人がはたしていますか。
6 神の真の祭司職があやまり伝えられてきたために,多くの人は神についてどう考えていますか。しかしそれはほんとうに正しい態度ですか
6 祭司と僧職者つまり人々の前で神を代表しているはずの彼らの記録を見ると,人類一般の前で神はあやまって伝えられてきたと言えます。それだけでなく,唯一の生ける真の神の真の祭司職も人類にあやまり伝えられてきました。無数の人が神のことに無とん着なのも不思議ではありません。その人々にとって神は死んでいると言えるでしょう。彼らはおよそ神や祭司職のことになると何のかかわりも望みません。しかし人間の定めた祭司のために人々が理解と信仰を欠いていても,全知全能の生ける至上の神が存在するという事実は否定できません。また人々が信仰と理解を欠いていても,至上の全能者であられるこの神が全人類の祝福のために,今日,遂行していられる愛の目的はむなしくなりません。人々が真理の知識を欠いているからといって,ご自身を犠牲にされた神の大祭司が職を失うことはありません。すでになされたことに加えて,神の大祭司がその助けを必要とする人々のためにこれから行なわれるすべての良いことに,人々が盲目になっているだけです。
7 (イ)冷笑するかわりに何をすることを,人々は求められていますか。(ロ)神の祭司として聖書に初めて出てくるのは,だれですか。
7 歴史の記録を見,人間の定めによって立てられたいろいろな種類の祭司に失望した人も冷笑してはなりません。唯一の生ける真の神は真実の祭司たちを地上にずっと持たれ,彼らは真に人々の益となる働きをし,人類のために神の代理者をつとめてきました。このような価値ある祭司の記録は,いま世界で1200以上の言語に訳されている聖なる本,聖書に収められています。はじめて神の祭司に任命された人の名前は,意義深いものです。その名をご存じですか。それは聖書巻頭の本に出ています。その名はメルキゼデクであり,「義の王」を意味します。この名がきわめてふさわしいのは,西暦紀元前20世紀のこの祭司が,中東の山地の古代都市サレムの王でもあったからです。今日,国際的また宗教的紛争の絶えないエルサレムの町は,明らかに昔のサレムの地を占めています。
8 (イ)信仰を失った人は,このメルキゼデクに関する記述に対してどう感ずるかもしれませんか。(ロ)わたしたちはこの記述をどのように見るべきですか。
8 「それがどうしたというのか。メルキゼデクは3800年前の人で今日生きておらず,わたしたちを益することはできない」。神の真の祭司の存在を,もはや信じない人は,あきあきしてこう言うかもしれません。しかしわたしたちすべては注意をむけてしかるべきです。そうするもっともな理由があります。公に任ぜられた神の最初の祭司として聖書に述べられているのは,預言的な人物です。彼は神の大祭司つまり今日における神の大祭司を表わしています。神ご自身,その霊感による書物,聖書の中でそのことを言われています。それゆえ,「神の大祭司は人々のためにどんな働きをされるか」を問うことができるのです。彼は昔のメルキゼデクのさまに似た祭司であるゆえに,人々は多くのこと,実際にすべてのことを期待できます。
メルキゼデクは型を残す
9 アブラハムとはだれですか。アブラハムの神はどの神でしたか。
9 西暦紀元前20世紀のむかし二人の重要な人物が相会しました。そのひとりはサレムの王,祭司メルキゼデクでもうひとりはテラの子アブラハムです。アブラハムとはだれですか。回教徒のアラビア人に尋ねてごらんなさい。彼らは答えるでしょう。一神教徒であるユダヤ人に尋ねても,彼らはアブラハムについて語ることでしょう。中東のヘブロンにあるアブラハム埋葬の地は,回教徒のアラビア人にもユダヤ人にも神聖視されています。両方の民族ともアブラハムをその先祖としています。今日の多くの人と異なり,アブラハムは唯一の生ける真の神を信じた,信仰のある人でした。アブラハムは神を崇拝してその名を呼びました。アブラハムが呼んだ神の名は,聖書の創世記 14章22節にあるアブラハム自身のことばに示されています。文語聖書からそれを引用してみましょう。「我天地の主なる至高きエホバを指て言ふ」。このことばが述べられたのは,アブラハムがサレムでメルキゼデクに会った直後のことです。
10,11 アブラハムが,「エホバの友」と呼ばれたのはなぜですか。エホバはアブラハムとどんな契約を結ばれましたか。
10 エベル(ノアのひまごの子)の子孫であったためか,あるいはユウフラテ川のむこう(東側)から来たために,アブラハムは「ヘブル人」と呼ばれています。(創世 10:21; 11:16; 14:13。ヨシュア 24:3)神に対する信仰と従順のゆえに,アブラハムは「神の友」あるいは「エホバの友」と呼ばれるに至りました。(歴代下 20:7。イザヤ 41:8。ヤコブ 2:23,新世訳)この忠実な友に対してエホバ神は,すばらしい約束をされました。西暦紀元前20世紀に約束された事柄ではあっても,それは西暦20世紀に住むわたしたちと大いに関係があります。アブラハムがユウフラテ川を越えて約束の地にはいる前に,神はこの約束つまり片務契約をされました。それは文語聖書の創世記 12章1節から3節に次のように記録されています。
11 「こゝにエホバ,アブラムに言たまひけるは汝の国を出で汝の親族に別れ汝の父の家を離れて我が汝に示さん其地に至れ 我汝を大なる国民と成し汝を祝み汝の名を大ならしめん汝は祉福の基となるべし 我は汝を祝する者を祝し汝を詛ふ者を詛はん天下の諸の宗族汝によりて福禔を獲と」― 創世 12:1-3,文語。
12 (イ)どのようにして,人は神から与えられるアブハラムの祝福にあずかることができますか。(ロ)どんな事情の下で,神はアブラハムを祝福する約束を確認されましたか。
12 あなたは「天下の宗族」のひとりですか。そうとすれば,言うまでもなくアブラハムをのろわないかぎり,あなたはアブラハムによって幸いを得る人です。しかしもしのろうならば,神ののろいを受けます。神はアブラハムを祝福する者を祝福されます。あなたも含まれるこのアブラハムへの約束は,神ご自身の厳しゅくな誓いによってアブラハムに堅くされました。それは約50年後のことで,神に試みられた時,アブラハムがその最愛のむすこイサクを神への犠牲としてささげることも惜しまないことを証明してのちです。神が天使をとおしてどのように誓いのことばを述べられたかは,文語聖書の創世記 22章15節から18節にこう述べられています。「エホバの使者ふたたび天よりアブラハムを呼て言けるはエホバ諭したまふ我己を指て誓ふ汝是事を為し汝の子即ち次の独子を惜まざりしに因りて我大に汝を祝み又大に汝の子孫を増して天の星の如く浜の沙の如くならしむべし汝の子孫は其敵の門を獲ん又汝の子孫によりて天下の民皆福祉を得べし汝わが言に遵ひたるによりてなりと」― 創世 22:15-18。
13 約束の祝福はなぜ確かですか。人類の世は,なぜ祝福を必要としていますか。
13 あなたは「天下の民」のひとりですか。では西暦20世紀に住むあなたもアブラハムの子孫によって祝福される望みをいだくことができます。それで関心を払うべきではありませんか。これはエホバ神の誓いのことばによることを心にとめてください。神の誓いに偽りはありません。神が偽って誓うことはありません。神はより高い者によって誓うことができないゆえにご自身をさして誓われ,誓いのことばを堅くされました。ゆえに地のすべての国民,家族は必ず祝福されます。確かに今日の人類はこの祝福を必要としています。人間の定めによる祭司によって,このような祝福がもたらされたことはないからです。確かな希望を持ち,神に対してアブラハムの信仰をいだいてください。祝福はなお神の大祭司をとおしてもたらされるからです。その時は近づいています。
14,15 (イ)エホバは,アブラハムを真に祝福されていたことの証拠を,どのように示されましたか。(ロ)メルキゼデクとはだれですか。彼とアブラハムとが相会した時,どんなことが行なわれましたか。
14 神はメソポタミアの周辺から侵入してアブラハムのおいロトとその家族を連れ去った王たちに対する軍事的な勝利を,アブラハムに与えられました。これはアブラハムに対する神の祝福を証拠だてるものです。アブラハムがサレムの町でメルキゼデクに会ったのは,ロトとその家族を救い出して帰る途中のことでした。このメルキゼデクはだれでしたか。霊感による聖書は彼がヘブル人であったとは述べていません。もちろん彼はユダヤ人つまりイスラエル人ではありませんでした。霊感を受けた預言者モーセをとおしてさえ,神はメルキゼデクの家系を明らかにされていません。またメルキゼデクの死について,聖書には何も出ていません。彼が聖書に出てくるのは,その占めていた地位また勝利を得たアブラハムと会った時に行なったことのゆえであり,また神の永遠の大祭司を預言的に表わしていたからです。メルキゼデクについては簡単に次のように述べられています。
15 「その時,サレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒とを持ってきた。彼はいと高き神の祭司である。彼はアブラムを祝福して言った,『願わくは天地の主なるいと高き神が,アブラムを祝福されるように。願わくはあなたの敵をあなたに渡されたいと高き神があがめられるように』。アブラムは彼にすべての物の十分の一を贈った」― 創世 14:18-20。
16 (イ)メルキゼデクの祝福には,アブラハムのほかにだれが含まれていましたか。(ロ)アブラハムは,メルキゼデクがだれであること認めましたか。それでアブラハムは何をしましたか。
16 メルキゼデクはアブラハムを祝福したのであり,のろったのではありません。こうして彼はアブラハムに対する神の祝福を確認しました。こうしてメルキゼデクは,まだ生まれていないアブラハムの「子孫」すなわちそれによって天下の民が幸いを得ると言われた「子孫」をも祝福したことになります。メルキゼデクは,アブラハムの軍事的な勝利を「天地の主なるいと高き神」に帰しました。メルキゼデクはいと高き神を祝福しました。神がアブラハムの敵をその手に渡されたからです。アブラハムはその事実を認め,またそれゆえにいと高き神に対する恩義を感じました。彼はメルキゼデクが「いと高き神の祭司」であることを認め,それゆえに,圧制者の敵に対する勝利のぶんどり品の10分の1をメルキゼデクに贈ったのです。アブラハムは,取り返したすべての物を元の所有者に返しました。それで自分がアブラハムを富ませたのであると言える人は,ひとりもいません。アブラハムは,「いと高き神の祭司」が彼を祝福したことばに信頼していました。―創世 14:21から15:1。
「メルキゼデクの位にしたがって」祭司
17 (イ)メルキゼデクはこの事ののち,姿を消しましたが,約400年後にもエホバが彼を覚えていられたことは,どうしてわかりますか。(ロ)その後さらに400年あるいはそれ以上を経て,メルキゼデクは神によってだれの型とされましたか。
17 西暦紀元前20世紀のこの意義深い出来事があってのち,サレムの王メルキゼデクは突然に姿を消してしまいます。彼には後継者がありません。彼はその名を残す王と祭司の王朝を設立しませんでした。バビロン,アッシリア,エジプト,カナンの地の偽りの神々の祭司がその勤めをつづけている中で,メルキゼデクは忽然として消えうせます。しかしいと高き神の祭司,サレムの王が神から忘れられることはありません。400年以上ののち,神は,「いと高き神の祭司」メルキゼデクの短い記録を,トーラーすなわちモーセが霊感によって書いた本の中でも,今日,創世記と呼ばれる部分に書きしるさせました。その後400年あまりを経て(西暦紀元前1070年ごろ)いと高き神エホバは,意外にもメルキゼデクを思い起こされました。メルキゼデクはきたるべき神の大祭司の型であることが示されたのです。この大祭司は人々のために働き,その勤めは永続する益をもたらします。いと高き神はどのようにそのことをされましたか。それはいつのことでしたか。
18,19 (イ)ダビデ王はその首都をどこに定めましたか。(ロ)エホバはダビデを霊感し,いま詩篇110篇となっているどんなことばを書かせましたか。わたしたちにとってとくに関心のあるどんな人のことが,そこに述べられていますか。
18 それはエルサレムの最初の王ダビデの時代です。ダビデは「神の友」と呼ばれた族長アブラハムの子孫で,アブラハムの神エホバを愛し崇拝しました。西暦紀元前1070年ごろダビデ王は,いと高き神エホバの助けによってエルサレムの城砦シオンの山を占領し,この昔のシオンの山に首都を定めて王宮を建て,また最も神聖な崇拝の器物,すなわち選民とともにいますエホバの臨在を象徴するエホバの契約の箱を,その山に安置しました。(サムエル下 5:4から6:19)こうして地上のシオンの山から治めたダビデ王は,エホバの選民である12部族全部の上に立てられた見える主でした。こののちエホバは預言者であるダビデ王に霊感を与え,一つの詩篇を書かせました。それはヘブル語聖書詩篇の第110篇です。その中でエホバ神は,ダビデ王にとってさえ主となる者の現われることを預言されました。それでこの詩篇の中でダビデ王は,このきたるべき者が主であることを認め,彼がどこでどんな地位につき,何をするかを預言しています。文語聖書の詩篇 110篇1節から4節のことばで言えば,ダビデは次のように述べました。
19 「エホバわが主にのたまふ我なんぢの仇をなんぢの承足とするまではわが右にざすべしエホバはなんぢのちからの杖をシオンよりつきいださしめたまはん 汝はもろもろの仇のなかに王となるべしなんぢのいきほひの日になんぢの民は聖なるうるはしき衣をつけ心よりよろこびて己をさゝげん なんぢは朝の胎よりいづる壮きものゝ露をもてりエホバ誓をたてゝ聖意をかへさせたまふことなし汝はメルキゼデクの状にひとしくとこしへに祭司たり」― 詩 110:1-4,文語。
20 メルキゼデクよりもさらに重要なのはだれですか。その者はどんな地位を占めますか。
20 3800年あまり前に「いと高き神の祭司」であったメルキゼデクが,なぜそれほど重要な人物であったかが,これでわかります。しかし唯一の生ける真の神の真の祭司の歴史の上で,元のメルキゼデクがどれほど重要な人物であったにしても,メルキゼデクの予表した者また「メルキゼデクの状にひとしく」祭司であるとエホバ神が誓われた者は,さらに重要です。この者は今日のわたしたちにとってはるかに大きな意義をもっています。メルキゼデクのさまにひとしいこの祭司は,ユウフラテ川からエジプトの川に至る中東の地を当時治めたダビデ王の主となることになっていました。ダビデ王の子孫であるこの来たるべき者は,王であるのみならず祭司すなわちメルキゼデクのような「いと高き神の祭司」となります。彼は主となってダビデ王の上に位するだけでなく,天のエホバ神の右にすわるのです。それで王である彼の力の杖が突き出されるシオンは地上のものではなく,天のシオンです。この者はいったいだれですか。
21,22 イエスの時代に,詩篇 110篇はどんな事情のため,エルサレムのヘロデの宮で論議されるようになりましたか。それに関してイエスはどんな難しい質問を出されましたか。
21 ダビデ王が神の霊感によって詩篇 110篇を書いてから1000年以上の間,メルキゼデクの名は聖書に現われません。西暦1世紀になって中東における顕著な事態のゆえに,メルキゼデクに関する詩篇110篇は,エルサレムで宗教的な論議の話題となりました。エルサレムはメルキゼデクがかつて王また祭司であった以前のサレムです。それはヘロデ大王の建てた壮麗な宮における出来事でした。議論の中で難しい質問が提出されました。もしあなたがその議論に加わっていたならば,それに答えられたでしょうか。パリサイ派およびサドカイ派に属する頭脳の優秀な宗教家は答えられませんでした。それは真実にダビデの子孫であるイエスによって出された問いであり,メシヤすなわちキリストに関するものでした。
22 この問答の場に居合わせた人の書いた記録がマタイの福音書 22章41節から46節にあります。「パリサイ人たちが集まっていたとき,イエスは彼らにお尋ねになった,『あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子なのか』。彼らは『ダビデの子です』と答えた。イエスは言われた,『それではどうして,ダビデが御霊に感じてキリストを主と呼んでいるのか。すなわち「〔エホバ〕はわが主に仰せになった,あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは,わたしの右に座していなさい」。このように,ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるなら,キリストはどうしてダビデの子であろうか』。イエスにひと言でも答えうる者は,なかったし,その日からもはや,進んでイエスに質問する者も,いなくなった」― 〔新世訳〕。
23-25 (イ)イエスの質問はいつ答えられましたか。(ロ)五旬節の日のどんな出来事は,聖書預言の成就を理解すべき時が来たことを示していますか。
23 この問答が行なわれたのは,西暦33年,エルサレムの宗教上の暦でニサン11日,火曜日のことです。しかしわずか54日後のスィーワーン6日,エルサレムにおける宗教的な祭りシャブオスつまり五旬節の朝,今日のわたしたちにとって非常に大切なこの問いは,いと高き神の霊感の下に権威ある答えを与えられました。物議をかもした人物イエスは,それより前のニサン14日,金曜日,杭に釘づけにされて殺され,ニサン16日,日曜日によみがえらされ,それから40日後のイツヤール25日,木曜日に昇天していました。この事実を目撃した証人は二,三人にとどまりません。しかしイエスの昇天の10日後,西暦33年スィーワーン6日の日曜日,五旬節の日に驚くべき事が起きました。その日の朝9時前に奇跡が起きたのです。エルサレムの,とある2階の部屋で待っていたイエスの弟子120人に神の聖霊がそそがれ,それには目に見えるしるしが伴っていました。彼らがひとり残らずユダヤ人のことばではない多くの外国語で神の大いなるみわざを語ったことは,みたまをそそがれたことのいっそうの証拠でした。―使行 2:1-4; 1:1-15。
24 このことがエルサレム中に知れ渡ると,五旬節を祝っていた何千人の人が集まって,この奇跡的な光景を目撃しました。人々は,ヨエル書 2章28,29節の昔の預言が,目の前で成就していることを悟りませんでした。それから,イエスの120人の弟子のひとりが立ち,あらゆる種類の人にエホバ神のみたまの注がれることを述べた,800年前の預言が成就しはじめたことを説明しました。それを語ったガリラヤのシモン・ペテロは,次のようにことばをつづけています。
25 「イスラエルの人たちよ,今わたしの語ることを聞きなさい。あなたがたがよく知っているとおり,ナザレ人イエスは,神が彼をとおして,あなたがたの中で行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより,神からつかわされた者であることを,あなたがたに示されたかたであった。このイエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによるのであるが,あなたがたは彼を不法の人人の手で〔杭〕につけて殺した。神はこのイエスを死の苦しみから解き放って,よみがえらせたのである。イエスが死に支配されているはずはなかったからである。ダビデはイエスについてこう言っている」。
26,27 (イ)聖霊を受けたペテロは,詩篇 110篇1節から4節をどのように説明しましたか。(ロ)したがってローマ法王に「メルキゼデクの位を継ぐ者」の称号を冠することは,なぜ正しくありませんか。
26 詩篇16篇8節から11節にしるされたダビデのことばがこのナザレ人イエスに成就したことを説明してのち,弟子シモン・ペテロは次のように話を結びました。「このイエスを,神はよみがえらせた。そして,わたしたちは皆その証人なのである。それで,イエスは神の右に上げられ,父から約束の聖霊を受けて,それをわたしたちに注がれたのである。このことは,あなたがたが現に見聞きしているとおりである。ダビデが天に上ったのではない。彼自身こう言っている,『〔エホバ〕はわが主に仰せになった,あなたの敵をあなたの足台にするまでは,わたしの右に座していなさい』。だから,イスラエルの全家は,この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが〔杭〕につけたこのイエスを,神は,主またキリストとしてお立てになったのである」― 使行 2:5-36,〔新世訳〕。
27 したがって詩篇110篇の残りの部分は,ダビデの主であり神のキリストすなわちメシヤである,復活したこのイエスにあてはまります。「メルキゼデクの状にひとしく」永遠に祭司であるとエホバ神が誓われたのは,イエスのことです。(詩 110:4,文語)昔のメルキゼデクと同じくイエスに後継者はいません。ゆえにローマおよびバチカン市の法王に「メルキゼデクの位を継ぐ者」の称号を冠してきたことは,まちがっています。それは人間の作った称号であって正しいものではありません。このような称号に値する働きを,法王が人々のためにしたことはありません。a 実体的なメルキゼデクとしてイエス・キリストが神に仕える期間は,法王レオ1世の就任によって終わりませんでした。イエス・キリストは「メルキゼデクの状にひとしくとこしへに祭司」です。祭司としてのイエスの栄光にあずかれる人はひとりもいません。(詩 110:4,文語)これは地上の人々にとって非常に重要なことです。
彼が人々のために成し得た事柄
28 かつて神に是認されたどんな祭司職が,イエスによって無用のものとなりましたか。
28 「メルキゼデクの状にひとし」い神の大祭司としてイエス・キリストが人々のためにすでに行なわれた事柄により,別の祭司職の勤めが無用になりました。それはどうしてですか。実体的なメルキゼデクであるイエス・キリストの祭司職がその勤めを始めて以来,ユダヤ人の祭司職の勤めは無用になったことに気づかれていましたか。それは偶然ではなく,いと高き神のみこころでした。しかしそれはなぜですか。ユダヤ人の祭司職は,ただおひとりエホバという名をお持ちになるいと高き神によって制定されたものではありませんか。確かにそうです。その昔の祭司職は預言者モーセの兄弟であるレビ人アロンの家に設立されました。アロンは初代の大祭司となり,アロンの子たちは従属の祭司となりました。このアロンの祭司職が発足したのは,エホバ神がその選民をエジプトの隷属から解放されてのちのことで,西暦紀元前1512年でした。それは,エホバ神がモーセを仲保者として,その国民と結ばれた契約に従ってイスラエル国民のために働きました。―出エジプト 28:1から29:44; 40:1-32。
29 アロンの祭司職は,どれだけの期間にわたってその勤めをしましたか。それを終わらせたものはなんですか。
29 この祭司職は,西暦紀元前1512年から西暦70年まで1581年間イスラエルにおいてその勤めをはたしました。その最初の大祭司はレビ人アロンであり,83代目の,そして最後の大祭司は,記録によればパニアスつまりピネハスでした。b その任期は西暦70年に突然に終わりを告げました。どうしてですか。その年,エルサレムと宮が滅びたからです。大祭司パニアス(ピネハス)は宮と滅びをともにしたに違いありません。祭司および祭司とともに宮で働いたレビ人の記録はそののち消失しました。祭司を意味するヘブル語はコーヘーンです。今日コーヘーンという名のユダヤ人は大ぜいおり,レビという姓を持つユダヤ人もいます。しかし祭司アロンの家あるいはレビ族の子孫であることを系図によって確かに証明できる人はいません。
30 アロンの祭司職は,今日なぜ価値のないものですか。
30 たとえこのようなコーヘーン氏やレビ氏が祭司の家柄の者でありレビの子孫であることを証明できたとしても,それはその人にとって今日何の価値もないでしょう。なぜですか。彼らが祭司の勤めをする場所はなくなってしまったからです。西暦70年以来,エルサレムの神殿の丘にエホバの御名のための宮が建てられたことはありません。かつての聖地には今日,回教寺院,岩の円屋根が建っています。
31 イエスはユダヤ人の祭司職を否認しませんでしたが,しかしこの事について語ったとき何を非難し,また預言されましたか。その預言はいつ成就ましたか。
31 エルサレムのユダヤ人宗教指導者は,ローマ人の手を借りてイエスを殺すことにより,メシヤまた実体的なメルキゼデクとしてのイエス・キリストの存在を抹殺しようとしました。しかしイエスがユダヤ人の祭同制度を否定したことはありません。それがエホバ神によって制定されたものであることを,イエスはご存じだったからです。イエスは,学者,パリサイ人,サドカイ人,すなわち祭司,レビ人,宗教指導者が属していたユダヤ教の宗派を確かに非難されました。(マタイ 23:1-36; 22:23-34)カルバリで死なれる3日前,イエス・キリストは,エルサレムとその宮がローマ軍の手にかかって滅びることを預言されました。いうまでもなく,それはアロンの家系に伝わるユダヤ人の祭司職がその勤めを失うことの予告でもありました。西暦70年にその恐るべき滅びが臨んで以来,アロンの家系の大祭司がイスラエル国民に仕えたことはありません。(マタイ 23:27–24:3; 15-20)それでユダヤ人であると異邦人であるとを問わず,人は今日,ユダヤ人のどんな宗教指導者からも永続する真の助けを期待できません。
32 イエスは,いつから,そしてどのぐらいの間エホバの大祭司ですか。
32 ユダヤ人の祭司制度が滅びたために,聖書の神には大祭司がいなくなりましたか。そのようなことは決してありません。西暦33年ニサン16日の復活の日に,神は永遠の大祭司イエス・キリストを死からよみがえらせました。エホバ神は,イエスが「メルキゼデクの状にひとしく永遠に祭司」であることを誓われています。それで彼は西暦70年にも生き延びました。
33,34 (イ)アロンの家系の祭司とその犠牲について,エホバは何をご存じでしたか。(ロ)アロンの祭司職とその犠牲は,なんの預言的な型でしたか。
33 エホバ神は人々の福祉を真に心にかけていられます。昔のイスラエルにおいて神から任命されたアロンの家の大祭司は,死を免れない不完全な人間でした。また神の定めによって彼らが宮の祭壇の上にささげた犠牲は単なる動物や鳥であって,その生命の価値は人間のそれに及ばないものでした。これらの動物や鳥の犠牲,その流された血は人間の罪を除くことができず,罪のある全人類の上に臨んだ死の定めを取り消すことができません。それで動物や鳥の犠牲の血によっては,完全な天の政府の治める地上で人々が永遠の生命を得る道は開かれないのです。(ヘブル 10:1-4)エホバ神はこのすべてのことをご存じでした。そこで神は何をされましたか。
34 西暦紀元前1512年から西暦33年に至るまで,エホバ神は,人類の世の罪を除く犠牲を神にささげる,来たるべき完全な大祭司の預言的な型としてアロンの家系の大祭司を用いられました。神の真の大祭司が備える,罪を除く完全な犠牲の型として,神は動物や鳥の犠牲を用いられたのです。その理由でイエスの先駆者バプテスマのヨハネは,イエス・キリストをさして「見よ,世の罪を取り除く神の小羊」と人々に宣言しました。(ヨハネ 1:29)イエス・キリストは,レビ人アロンの家系に属するがゆえに神の大祭司なのではありません。イエスはエホバ神の誓いによって不滅の大祭司とされました。(詩 110:4。ヘブル 7:15-17)彼は,ユダヤ人の大祭司アロンおよび西暦70年に至るまでの,その後継者のだれよりもずっと高く,また重要な存在です。このことは,昔の祭司,サレムの王メルキゼデクがレビ人アロンの先祖アブラハムを祝福した時に予表されました。まだ生まれていず,アブラハムの腰にあったアロンは,こうして,メルキゼデクに祝福され,それはアロンが祭司メルキゼデクにおとる,つまり彼より低いことを証明しています。―ヘブル 7:4-10。
35 エホバの大祭司イエスにとって,地上の宮はなぜ必要ではありませんか。イエスは罪を除くどんな供え物をエホバにささげましたか。
35 イエス・キリストは,アロンの家の祭司が昔のエルサレムで犠牲をささげるのに用いた,地的な物質の宮を必要としません。罪なくしてご自分の完全な人間の生命を犠牲としてささげられたのち,イエス・キリストは3日目に死からよみがえらされ,それから昇天して神のみまえに実際に現われました。そこにおいてイエスは,人々のために完全な人間の犠牲の価値を唯一の生ける真の神にささげられたのです。アロンの家系の大祭司は,地上の宮の至聖所に,雄牛とやぎの血を携え入れたにすぎません。その血は,型として用いられたものであり,人間の罪を永久に除くことができませんでした。しかし,イエス・キリストはご自分の血の価値,すなわち,完全な人間の生命の価値を携えて昇天し,神のみまえに現われました。―ヘブル 9:22-26。
36,37 御父の御名と主権を立証するために,イエスは喜んで何をされましたか。エホバ神は,イエスの無実を立証してイエスのために何をされましたか。
36 昔のメルキゼデクがアブラハムそしてまだ生まれていなかった子孫レビ人のアロンよりも高かったように,「メルキゼデクの状にひとし」いエホバの大祭司イエス・キリストは,昔のユダヤ人の大祭司よりも高いのです。イエスは事実,神の御子であり,天の父は御子を天からつかわして完全な人間にならせました。そのことは神の御子にとってご自分を甚しく低くすることでしたが,御子は神の御名と宇宙主権の立証のために喜んでそうされたのです。人間となられた御子はサタン悪魔から最大の誘惑を受け,またアロンの家の大祭司をも含めてご自身の民族の宗教指導者から激しく迫害されました。そのすべてにもかかわらず御子は神に対する絶対の忠誠と従順をまげずに忠実を保ち,神の国を宣べ伝え,いかなる国の祭司もなし得ない善を人々のために行なわれました。神に対する全き従順と神の国に対するゆるぎない献身のために御子は殺されました。全く無実でありながら,冒瀆と扇動の罪をきせられたのです。このようにして,御子は,神に嘉納される完全な人間の犠牲として死なれました。
37 全能の神は3日目にイエス・キリストを死からよみがえらせて,御子の無実を立証されました。それで使徒ペテロは,イエス・キリストについて,「肉においては殺されたが,霊においては生かされた」と書いています。(ペテロ第一 3:18)このように霊者になられたキリストは昇天して神のみまえに現われ,人々をあがなうための完全な人間の犠性の全き価値を,正義の神にささげられました。ゆえに御子イエス・キリストが「メルキゼデクの状にひとしくとこしへに祭司」であることを誓われたエホバ神に悔いはありません。―詩 110:4。ピリピ 2:5-11。ヨハネ 3:15-17。
彼のような祭司はいない
38 キリスト教国の一部の祭司は,何を主張していますか。しかし彼らは何をすることができませんか。
38 ユダヤ人その他を問わず,地上の祭司で,このことを人々のために為し得た者がはたしていますか。キリスト教国の一部の祭司は,主の夕食を始められた時のイエスのことばをくり返すことにより,パンとぶどう酒にすぎないものをイエスの実際の血と肉に変えると主張しており,イエスの血と肉が何度も犠牲に供されるものとしています。またイエス・キリストは単に神の御子ではなく神であると主張しています。そして教会の儀式の席でパンを食べ,ぶどう酒を飲むことにより,キリストの肉を食べ,血を飲むのであるとも教えています。そうとすれば,彼らは人食いであると言わねばなりません。キリスト教国のこれら祭司のならわしを観察したある人のことばを借りて言えば,「彼らは自分たちの造った神を食べます」。かりにこのような祭司がイエス・キリストのからだと血を実際に再創造したとしても,その宗教的な犠牲の価値を天において神にささげるため,天に上って神のみまえに現われた者がいますか。そのような者はひとりもいません。ゆえに人々は,これらの祭司の手でくり返されるこのような宗教的“犠牲”から真の益を受けません。
39 キリストの犠牲をくり返すことが必要であるとするキリスト教国の祭司の主張は,なぜまちがっていますか。
39 ユダヤ人の祭司は,動物の犠牲を年毎にくり返してささげることが必要でした。それらの犠牲は人間より低いもので,人類をあがなうだけの価値をそなえていなかったのです。キリスト教国の祭司は,イエス・キリストの犠牲がそれ自体限られた価値のもので,地上の祭司によってくり返されねばならないと考えているところから,彼らの犠牲を日毎にくり返しささげています。しかしそれとは反対に,神のことばは,完全な人間の犠牲が全く適切で十分なものであり,もはやくり返す必要がないことを何度も明白に述べています。(ヘブル 9:27,28; 10:10)それゆえにクリスチャン使徒パウロはこう述べました。「キリストは死人の中からよみがえらされて,もはや死ぬことがなく,死はもはや彼を支配しない」。ゆえにミサの宗教的な犠牲において死ぬことはないのです。(ローマ 6:9)イエス・キリストはいま天にあって不滅の祭司であられ,死ぬことがないゆえに永遠に大祭司であられます。いついかなる時でもキリストは,人々の永遠の救いのためにみずから祭司の勤めをすることができます。キリストは人々のためにご自分の完全な人間の生命を捨てられました。―ヘブル 7:19-28。
救いを施す大祭司
40 人間のものと動物のものを問わず,偽りの宗教の祭司によってささげられる他のすべての犠牲は,今日どんな価値のものですか。
40 それでどういうことになりますか。西暦33年,天においてキリストの犠牲がささげられて以後,宗教の世界帝国の祭司によってささげられる他のどんな犠牲も,人間と動物のいずれを問わず,価値のないもの,神に嘉納されないものとなりました。このことと一致して,エホバ神は,イスラエルのアロンの家系の祭司によってささげられていた犠牲が西暦70年に悲劇的な終わりを告げることを許されました。その年にエルサレムと宮は異教徒のローマ人に滅ぼされ,以後,再建されませんでした。
41 キリスト教国の祭司のどんな行ないは,彼らがキリストの従属の祭司ではないことを示していますか。
41 イエス・キリストはキリスト教国の祭司たちの上に立つ大祭司ではありません。彼らはキリストの従属の祭司ではないのです。キリストの代理者と主張する人々,キリスト教国の聖職者の行ないを見て,イエス・キリストに対する判断をあやまってはなりません。キリスト教国の僧職者は教会と国家の連合を形成し,みずから政治に手を出すとともに教会員にもそうすることをすすめてきました。彼らは戦時においては交戦中のキリスト教の国々を祝福し,戦争に参加する教会員を祝福しました。しかしそのことにおいて,彼らは神の大祭司イエス・キリストを代表していますか。
42 地上にいられた時,イエスは何を避けられましたか。ゆえにイエスの追随者は何を避けますか。
42 イエス・キリストは地上の政治にかかわりを持たず,イエスを王にしようとした,当時のユダヤ人の試みをさえ,しりぞけました。(ヨハネ 6:14,15)そしてユダヤ人の地上の国を宣明したのではなく,バプテスマのヨハネのことばを受けて「天国は近づいた」と言われました。(マタイ 4:12-17)不当にも扇動の告訴を受けてローマ総督ポンテオ・ピラトの前に立たされた時,イエスは言われました。「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば,わたしに従っている者たちは,わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。しかし事実,わたしの国はこの世のものではない」。(ヨハネ 18:36)この理由があったからこそ,イエスに真に従った者は,「天国」,「神の国」をもっぱら宣べ伝えたのです。この世の国々の戦争によって流された血に対して,彼らは責任のない立場をとりました。―コリント第二 10:3,4。
43,44 大祭司であるほかに,イエスはどんな役割をされますか。イエスは悪人に対して何を行なわれますか。
43 今日,人々はこの世の国々の圧制に苦しんでいます。そのような人々は次のことを心にとめなければなりません。すなわち昔のメルキゼデクと同じく,イエス・キリストはいと高き神の大祭司であると同時に,いと高き神の聖霊によって油そそがれた王です。天の王であるキリストには,はたすべき役割があります。詩篇110篇は生彩な筆致でこれを預言し,「エホバ誓をたてゝ聖意をかへさせたまふことなし汝はメルキゼデクの状にひとしくとこしへに祭司たり」ということばのすぐあとに次のことを述べています。
44 「主はなんぢの右にありてそのいかりの日に王等をうちたまへり主はもろもろの国のなかにて審判をおこなひたまはん此処にも彼処にも屍をみたしめ寛潤なる地をすぶる首領をうちたまへり」― 詩 110:4-6,文語。
45 エホバの大祭司なる王の働きは,黙示録 19章11節から21節にどのように描かれていますか。
45 西暦紀元前20世紀にエホバ神が忠実なアブラハムの右にいられたことは確かです。アブラハムは侵略者の王たちと戦って神のしもべを彼らの手から救い出し,その帰途サレムの王メルキゼデクから祝福を受けました。(創世 14:13-20; 15:1。ヘブル 7:4-10)詩篇110篇の預言によれば,ハルマゲドンにおける「全能の神の大なる日の戦闘」のとき,エホバ神が,大祭司なる王イエス・キリストの右にいられることは,それと同じく確かです。(黙示 16:14,16,文語)聖書巻末の本の19章には,神の怒りの日にこの王なる大祭司がエホバ神をとおして「王たちをうち」,「もろもろの国のなかにてをおこな」って圧制者を除くさまが描かれています。また,神の国に対する世界的な反対のゆえに,彼は全地に「屍をみたし」,一人の敵ものがさないこと,さらにどれほど多くの人と土地を治める強力な支配者であっても必ず砕かれて,圧迫されていた人々に救いのもたらされることが描かれています。(黙示 19:11-21)人々はキリストにそのことをしてもらう必要があります。
46,47 (イ)メルキゼデクの名は何を意味しますか。(ロ)それで大いなるメルキゼデクは,国際連盟や国際連合のなし得なかった,またなし得ないどんな事をしますか。
46 このことは人々にどんな結果をもたらしますか。それは昔メルキゼデクが王であった中東の町の名に示されています。この点についてヘブル人への手紙 7章1節から3節の霊感のことばは,次のように述べています。「このメルキゼデクはサレムの王であり,いと高き神の祭司であった……その名の意味は,第一に義の王,次にまたサレムの王,すなわち平和の王である……(彼は)神の子のようであって……」。
47 大いなるメルキゼデク,イエス・キリストは,中東の,つまり地上のどんなサレムの王でもありません。キリストは天の平和の王です。サレムは「平和」を意味します。国際連盟の後身である国際連合は,今日に至るまで人類の世に永続する平和と安全をもたらしていません。世界平和と安全のためのどんな国際機構もそのことをなし得ないでしょう。しかし大いなるサレムの王はそれをなし得る,またなさるかたであり,またその任務を受けられています。平和を乱し,人々の安全をおびやかす地の支配層は砕かれます。エホバ神はキリストをとおしてそのことをされるでしょう。詩篇110篇がそれを預言しているのも不思議ではありません。
48 天国においてだれがイエスとともになりますか。彼らはどんな地位を占めますか。
48 エホバ神は寛大であられ,したがって天国にはいるのは御子イエス・キリストおひとりではありません。あらかじめ定められた数すなわち聖書巻末の本によれば14万4000人が,天においてキリストとともに支配にあずかります。(黙示 7:4-8; 14:1-3)イエス・キリストのこれら忠実な追随者について,黙示録20章5,6節に次のように述べられています。「これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は,さいわいな者であり,また聖なる者である。この人たちに対しては,第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり,キリストと共に千年の間,支配する」。それで聖書から見て次のことは確実です。すなわちハルマゲドンの戦いが行なわれ,サタン悪魔と悪霊が束縛されてのち,大いなるメルキゼデク,イエス・キリストは,地上の人々のために1000年のあいだ天の王として治め,また神の大祭司の勤めをされます。―ルカ 22:28-30。テモテ第二 2:11,12。
49 偽りの宗教のバビロン的な世界帝国の祭司はどうなりますか。人間の永遠の祝福のために仕えるのはだれですか。
49 死に至るまで忠実なこれらクリスチャンの「第一の復活」によって彼らが天に移され,「神とキリストとの祭司となり,キリストと共に千年の間,支配する」とき,エホバ神の,任命された祭司は地上にいなくなります。キリスト教国の偽りのキリスト教の祭司をはじめ,偽りの宗教の世界帝国,大いなるバビロンの祭司すべては,国々がさばかれる来たるべきエホバの怒りの日に職を失い,滅びてしまうでしょう。(詩 110:4-6)その結果,地上の人々にとっては,神と直接に接し,天の権威をもって彼らのために仕える神の大祭司と真の従属の祭司たちがいるだけです。それはすべての人にとって永遠の祝福となります。神の大祭司と天の従属の祭司は,約束された真のアブラハムの「子孫」だからです。その数は天の星のようにかつては知られていませんでした。この「子孫」によって地のすべての民は永遠に祝福されます。(創世 22:17,18)これらの祭司はキリストの犠牲の価値をすべての人に適用することでしょう。
50 それで罪はどのようにしてほんとうに許されますか。このような許しには何が伴いますか。
50 こうして人類の罪は真に許されます。それは宗教的な建物の中に設けられた告白室に行き,不完全で罪のある司祭に告白することによってではありません。むしろ悔い改め,大祭司イエス・キリストをとおし祈りによってひとり神に近づき,許しを求めることによるのです。(マタイ 6:9-12。ヨハネ第一 1:9; 2:1,2)彼らの罪は天において真に許されるでしょう。天からのこのような許しにともなって,からだにもいやしの益が及びます。
51 (イ)イエスは,ある人の罪が許されたことを示すために何を行なわれましたか。(ロ)イスラエルにおいて,大祭司および従属の祭司にはどんな役目もありましたか。ゆえに大いなるメルキゼデクの下で何を期待できますか。
51 かつて地上においてイエス・キリストは,罪の許しの表われとしてひとりの人の病気をいやされました。そのことを思い出してください。(マタイ 9:1-8)また預言者モーセの律法下にあった神の選民の間で,エホバの大祭司とその従属の祭司は人々の健康状態を見守り,神の律法の定める衛生上の処置を施しました。(レビ 13:1-8; 14:1-32。マタイ 8:1-4。ルカ 17:11-19)メルキゼデクのさまにひとしい神の大祭司は,その治める地上の人々の健康をさらに強力かつ効果的な方法で管理されます。神を恐れる従順な人々は祝福され,キリストの血と,義のこらしめとによって罪の状態から離れるにつれ次第に完全な人間の健康と完全な身体をとりもどします。
52 (イ)愛と思いやりのあるどんな質問が尋ねられていますか。(ロ)キリスト教国の祭司が人々にとって何の役にもたっていないことは,どのように明らかですか。
52 「しかし何か欠けていないだろうか」。あなたはこう言って次のように尋ねるかもしれません。「ハルマゲドンにおける全能の神の大いなる日の戦いを生き残る人にとって,そのすべては全くすばらしく,けっこうなことだが,しかし6000年前に,罪と罪の払う価である死とが世にはいって以来,死んで塵にもどった何十億の人々はどうなるのか」。それは愛と思いやりのある質問です。キリスト教国の司祭や牧師またいわゆる異教の世界の祭司は,地上のこのような事態に面する時なんと無力なのでしょう。人間の魂の不滅を信ずる彼らは,死者が,天使や悪霊の住む霊界に直ちにおもむくのであると説いてきました。また彼らは死者のために宗教儀式を行ない,「ミサの犠牲」のような,死者のためのある種の犠牲をささげることもします。それも遺族にとって費用を要することです。これによって彼らは人々のために真に何かをしましたか。しかし神の大祭司の場合はどうですか。
53,54 エホバの大いなる大祭司は,墓にいる死者のために何を行なわれますか。
53 大いなるメルキゼデク,イエス・キリストは,ハルマゲドンの戦いを生き残る人々をあがない,サタンと悪霊をつなぐためばかりでなく,エデンの園で罪を犯した最初の地的な親から不完全さと罪を相続したゆえに死んだすべての人のためにも,ご自分の完全な人間の生命を犠牲にされたのです。(ローマ 5:12-18)預言された1000年にわたり,王また大祭司として治める間にキリストは,そのあがないの犠牲の益を受ける人がひとり残らずその益をじゅうぶんに受けるように取りはからわれます。しかしどのようにしてですか。彼らを死からよみがえらせ,天の御国の治める地上に生命を得させるのです。地上にいられた時イエスご自身がそのことを言われ,何人もの人を死からよみがえらせて復活の力を示されました。イエスの忠実な使徒たちもそのことをしています。(ヨハネ 5:28,29。使行 24:15)こうして清められた楽園の地で永遠の完全な生命に至る機会が,よみがえった人々にも開かれるでしょう。そして遂には黙示録 21章4節の神の約束が全く成就します。
54 「神(は)……人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや,死もなく,悲しみも,叫びも,痛みもない。先のものが,すでに過ぎ去ったからである」― イザヤ 25:7-9とくらべてください。
55 イエスは,マラキ書 2章7節のどんな標準にかなっていましたか。ゆえに神の大祭司イエス・キリストの下における将来には,どんな見込みがありますか。
55 キリスト教国の内外の祭司は,慰めを与えるこれらの事柄を今日人々に教えていますか。その答えはあなたご自身おわかりだと思います。これらの祭司が祭司に対する神の標準にかなっているかどうかを,あなたはご存じです。キリストの初臨に先だって書かれたヘブル語の最後の預言書マラキ書の2章7節(文語)には,祭司に求められる事柄が次のようにしるされています。「夫れ祭司の口唇に知識を持べく又人彼の口より法をたづぬべしそは祭司は万軍のエホバの使者なればなり」。地上に人となった時,イエス・キリストはこの標準にかないました。天における神の大祭司としても,キリストはこの点において人々の期待にそむくことはありません。すべての人は,唯一の生ける真の神と,人々を罪と死から救う神の道について教えられることでしょう。この知識を得,それに一致して従順に生きる人は,エホバ神とその大祭司の天の国の下で,平和と幸福にみちた地上の楽園に永遠の生命を得ます。―ヨハネ 17:3。イザヤ 11:9。
[脚注]
a ローマ・カトリックの高位聖職者ケイベルの著書「キリストの代理者,教会のかしらなる法王」。ものみの塔聖書冊子協会出版の本「時は近づけり」(1889年,英文)306,307頁。クレアボーの僧院長聖バーナードが1150年,法王ユウジニウス3世に出した手紙(308頁所載)。
b 聖書,歴史家ヨセハス,古いヘブル語の年代記セダー・オーラームによる。なおマクリントックとストロングの百科事典第8巻58頁,第4巻251頁。ユダヤ百科事典第10巻21頁「ピネハス・ベン・サムエル」の項。