-
生命の監督ものみの塔 1962 | 8月15日
-
-
人でなければなりませんが,道徳的に清い人というだけにとどまらず,会衆の内外において良い評判を得ていなければなりません。監督はよいわざに富み,その監督の下におかれるすべての人に対して,愛に根ざした関心を払わねばなりません。また羊飼が自分に委ねられた羊を守るように,群れを保護すべきです。使徒パウロは船でエルサレムに向かう途中,ミレトの港に立ち寄り,そこから人をエペソにやって会衆の古い人々を呼び寄せました。使徒行伝 20章の記録はそのことを告げています。パウロは,すべての人の血に対して自分は潔白であると言明しました。それは神の御旨をことごとくエペソの人々に告げたからです。また次のように言葉を加えました,「どうか,あなたがた自身に気をつけ,また,すべての群れに気をくばっていただきたい。聖霊は,神が御子の血であがない取られた神の教会を牧させるために,あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである。…わたしは,あなたがたもこのように働いて,弱い者を助けなければならないこと,また『受けるよりは与える方が,さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを,万事について教え示したのである」。―使行 20:27-35,新口。
22 (イ)使徒ヨハネはその宣教の後期において,どのように会衆のよい監督でしたか。(ロ)黙示録 1章によれば,キリストは周到な監督として何をしていますか。
22 使徒たちは最後の使徒であるヨハネに至るまで,みな会衆に深い関心を寄せていました。会衆を訪問して親しく励まし,指図と矯正を与えただけでなく,会衆に手紙を書き送ったのです。これらは当時広く流布され,さいわいにも聖書の一部となって今日に伝えられています。しかし預言によれば,「不法の人」,すなわちクリスチャンと唱える人々の背教の指導者が現われて,クリスチャン会衆の上に次第に強い影響を及ぼすでしょう。西暦100年頃には年老いた使徒ヨハネも世を去ろうとしており,従って不法を阻止していた者の最後の者が除かれようとしていました。(テサロニケ後 2:1-12)エホバ神から御子キリストを通して強い,しかし励ましを与える助言を与えられることが必要でした。これはヨハネに与えられ,ヨハネの手で諸会衆の監督に与えられるはずでした。小アジアにある七つの会衆は,当時の全部の会衆を代表していましたが,特に今日,地上にある,霊に生み出された者たちの会衆を表わしています。ヨハネはこの幻を与えられたとき,霊感によって「主の日」にいたからです。ヨハネは七つの燭台を見ました。それは霊に生まれた者たちの会衆全部を表わしています。燭台の間を歩む者は忠実な監督キリスト・イエスであり,検閲し,指図し,真の崇拝と神権的な進歩を阻む事柄を矯正します。各会衆には一人の監督がいました。監督は星によって表わされています。七つ(完全な数)がキリストの右の手にあり,キリストの支配を受けていました。監督はキリストの導きに従わねばならず,キリストを通して働く聖霊によって任命されたこと,キリストに対して申し開きすべきことを何時も心に覚えなければなりません。星の光が燭台の光よりも強いように,監督はよいわざ,よい行い,模範を示すことによって光り輝かなければなりません。
23 ある会衆はどんな点をほめられましたか。またある会衆はどんな事に欠けていましたか。
23 当時の七つの会衆の状態は,今日の会衆に存在し得る状態を表わしています。それで与えられている助言に従うことによって,監督は事態にどう対処すべきかを知ります。ある会衆はその労と忍耐をほめられましたが,奉仕と集会の出席がおろそかになっていました。神の奉仕のあらゆる面を行なわなかったため,霊的に死んでしまった会衆もありました。目ざめて,個人研究,集会の出席,宣教活動に精を出すことが必要でした。監督は会衆をはじめの愛に立ち帰らせるため,率先して導かねばなりません。ある会衆は物質主義の影響に屈しなかったことをほめられましたが,国家主義,宗教宗派の風潮の犠牲になる危険に瀕していました。監督は自分の地位を利得のために用いたり,性的な不道徳に陥らぬように,また会衆が不道徳によって汚れることのないように,注意しなければなりません。姉妹は会衆内における地位から出過ぎないようにし,クリスチャンの婦人にふさわい柔和,しとやかさを示して協力しなければなりません。なまぬるい態度をとることはできません。人は全くエホバの側に立っていることが必要です。またエホバに専心の献身をすることによって得る霊的な富の価値を知らねばなりません。―黙示録 1-3章。
24 会衆内で何を保護しなければなりませんか。指示はどのように会衆に与えられましたか。
24 アジアにある七つの会衆の監督に与えられた助言は,十分に適用すべきものでした。それは会衆が繁栄し,エホバの聖霊の自由な働きを妨げる状態が存続しないためです。ここで注目すべきことは。これらの指図がまず地上のヨハネに与えられ,それから会衆の監督に伝えられて,実行に移されたことです。エホバは何時でも制度的な手段を用いて,御心を行なわれます。エホバは秩序の神,目的の神,原則の神です。エホバの制度と一致し,その監督と一致して働くことは,神の僕の生きた時が何時であっても,祝福と繁栄を意味しました。エホバの愛の監督に答え応ずる人は,永遠の生命の報いを得ます。
-
-
監督たち,あなたの宣教を全うしなさいものみの塔 1962 | 8月15日
-
-
監督たち,あなたの宣教を全うしなさい
1 どんな事柄は,会衆の監督となるための資格ではありませんか。
今日,エホバの制度内の監督となる特権はあなたのものですか。その特権をエホバに感謝しなさい。あなたは会衆内で人気があるため,その特権を得ましたか。それは毎月あなたに確保されている高額の収入のためですか。それとも特別な教育,あるいは雄弁のためですか。あなたの知る通り,あなたがこの地位に任命されたのは,そのいずれのためでもありません。神の言葉に述べられた,監督に対する要求にかなわなかったとすれば,あなたは監督になっていないでしょう。人気があっても,監督になる資格がある訳ではありません。無私の気持ちを持つ人は金銭に心をひかれません。最高の神学校教育も無用です。またどんなに雄弁でも,耳ざわりのよい事を会衆に話すことのみを努めているなら,その言葉は全く空しいものです。
2 会衆の監督となるための資格は何ですか。すぐれた指導によって,今までにどんな成果が得られましたか。
2 従ってあなたが奉仕の地位についているのは,聖霊に導かれている神の見える制度が,「あなたの上に手をおく」,すなわち任命することをよいと見たからです。いっそうの円熟を目ざして努め,宣教に励んだことから,あなたはより重い責任を与えられました。あなたはどちらを向いても聖霊に面するため,それは重大な責任です。しかしそれは喜ばしい務です。なぜなら,使徒パウロがエペソの監督に引用したイエスの言葉に「受けるよりは与える方が,さいわいである」と述べられているからです。(使行 20:35,新口)よい監督,それほど円熟していない人々に気を配ること,真の崇拝のために会衆を清く保つこと,宣教に対する認識を常に深いものにしておくこと,このすべては群れが健全で幸福なものとなり,増加するために肝要です。エホバの制度は今日においても,組織された昔のエホバの民と同じく繁栄しています。それは制度内の人々がエホバの御心を成しとげるために一致して働くことを,心から願っているからです。それで数の増加だけでなく,質の向上も見られます。要点をついた短い聖書の話を戸口でする方法を用いて野外の宣教を改善した結果,良いたよりはいっそう効果的に伝道されるようになりました。経験の浅い伝道者を助ける訓練計画によって,わざの質は向上しました。監督は組織に十分注意し,援助を必要とする人々を訪問して霊的に強めています。
-
-
聖書を破壊するものみの塔 1962 | 8月15日
-
-
聖書を破壊する
ローマ・カトリック教会は,コロンビアで,1960年の5月に,聖書を破壊することを行ないましたが,カイザルの支配したローマ世界でも,かつて同じようなことが行なわれました。第4世紀に書かれた警察の報告について,1961年5月19日号の「タイム」は次のように述べています。「西暦346年にカルタゴ郊外のシトラで,ローマの警察の一キャプテンは,記録簿に,『五つの家を奇襲。キリスト教徒の巻物38を発見,押収,破壊す』と記入している」。
-