-
崇拝における一致 ― それはあなたにとって何を意味しますか唯一まことの神の崇拝において結ばれる
-
-
1章
崇拝における一致 ― それはあなたにとって何を意味しますか
1,2 (イ)今日,崇拝の面での真の一致は何に基づいてもたらされていますか。(ロ)聖書は今起きている事柄をどのように述べていますか。
この地球上の至る所で,崇拝の面での一致を目指す胸の躍るような運動が進展しています。その運動はあらゆる国民,部族,言語の人々を引き寄せています。それらの人々のうちに見られる一致は,信仰の面での何らかの妥協の結果ではありません。それは神のみ言葉と相入れない生活様式を批判するのを差し控えて達成されているのではありません。では,その理由を説明するどんな事柄がありますか。それは,あらゆる背景の人々が唯一まことの神であられるエホバを知るようになり,しかも進んで自分たちの生活の仕方を神の義の道に合わせようとしているという事実なのです。―啓示 15:3,4と比べてください。
2 これはおよそ2,700年前に預言者ミカによって記録された一つの預言の成就です。「末の日」に関連して,ミカはこう書きました。「多くの国の民が必ず行って,こう言う。『来なさい。エホバの山に,ヤコブの神の家に上ろう。神はご自分の道についてわたしたちに教え諭してくださる。わたしたちはその道筋を歩もう』」。(ミカ 4:1,2)a このことが起きているのをあなたは見ておられますか。
3,4 (イ)多くの「国の民」がエホバに注意を向けているのはどうして真実であると言えますか。(ロ)わたしたちはどのように自問してみるべきでしょうか。
3 「国の民」全体がエホバの霊的な崇拝の家に来ている国は一つもありません。しかし,それらの国民の中の個々の人々はそのようにしています。それらの人々はエホバ神の愛ある目的や魅力的な性格について学ぶと,心を深く動かされます。そのような人々は神が自分たちに何を要求しておられるのかを知ろうと努めます。それらの人の祈りは,「あなたのご意志を行なうことをわたしに教えてください。あなたはわたしの神だからです」と述べた信仰の人ダビデの祈りに似ています。―詩編 143:10。
4 あなたはエホバの崇拝者のこのおびただしい群衆の一人となっておられますか。与えられる諭しに対するあなたの反応は,その諭しの源がエホバであるということに対する真の認識を示すものとなっていますか。あなたはどの程度,『その道筋を歩んで』おられますか。
それが成し遂げられる仕方
5 (イ)崇拝の面での一致はついにはどの程度まで達成されることになりますか。(ロ)エホバの崇拝者になることは,今どうして急を要する事柄ですか。わたしたちはどうすれば,他の人たちがそうなるのを助けることができますか。
5 エホバの目的は理知ある創造物すべてが ― だれ一人虚偽のために誤導されず,だれ一人として人生の真の意義を見いだせないために模索することなく ― 崇拝において結ばれることです。生きている者すべてが唯一まことの神をほめたたえるようになる日をわたしたちはどれほど待ち望んでいることでしょう。(詩編 103:19-22)しかしそれには,そうなる前に,神の愛ある王としての統治を侮り,あくまでも他の人々の生活を台なしにしようとする者たちを,エホバが創造物の中から追放しなければなりません。エホバは憐れみ深くも,ご自分の行なう事柄を事前に知らせておられます。どこにいる人々にも自分の行動を改める機会があります。ですから,まさしく今日,次のような緊急な訴えが全世界でなされているのです。「神を恐れ,神に栄光を帰せよ。神による裁きの時が到来したからである。それゆえ,天と地と海と水のわき出るところとを造られた方を崇拝せよ」。(啓示 14:6,7)あなたはこの招きに応じましたか。そうでしたら,そうするよう他の人たちを助けるためにエホバの組織と共に働くのは,今やあなたの特権です。
6 聖書の基礎的な教えを学んだ後,わたしたちはさらにどんな進歩を遂げるよう真剣に努力すべきですか。
6 エホバの存在を信じているし,楽園で生活したいと思うと単に言うだけで,同時に終始自分の利己的な関心事を追い求める人々を神の組織に導き入れることは,神の目的ではありません。神は人々がその「ご意志に関する正確な知識」を身に着けることを望んでおられますから,人々の生活はそれを反映するものとならなければなりません。(コロサイ 1:9,10)感謝を表わす人々は聖書の基本的な教えを学ぶと,クリスチャンとしての円熟に向かって邁進したいと思います。その願いはエホバのことを親しく知り,み言葉に関する理解を広げると共に深めてゆき,またみ言葉をいっそう十分に生活に当てはめることです。そのような人々は天の父に似るように努め,み父の特質を反映し,またみ父がなさるように物事を見ます。その結果,今日,神が地上で行なわせておられる業にできる限り十分にあずかる道を探し求めるよう動かされます。あなたもそうしておられますか。―エフェソス 5:1。ヘブライ 5:12-6:3。テモテ第一 4:15。
7 今,真の一致はどのような仕方でもたらすことができますか。それはどのように成し遂げられていますか。
7 聖書はエホバに仕える人々が一致した民となるべきであることを示しています。(エフェソス 4:1-3)わたしたちは分裂した世界で生活し,依然自分の不完全さと闘ってはいますが,その一致は今存在すべきものなのです。イエスは,ご自分の弟子たちが一つになって真の一致を享受するよう真剣に祈られました。それはどういう意味ですか。まず第一に,弟子たちはエホバとそのみ子と良い関係を持つという意味です。同時に,弟子たちは互いに結ばれるという意味です。(ヨハネ 17:20,21)このことは,エホバの「家」で受ける諭しを適用することによって,今成し遂げられています。
どんな要素が一致に寄与するか
8 (イ)わたしたちに影響を及ぼす質問に対する答えを自分で聖書を用いて考え出すと,何を発達させることができますか。(ロ)上に挙げられている種々の質問に答えて,キリスト教の一致に寄与する要素を分析してください。
8 一致に寄与する主要な要素の幾つかが下に列挙されています。それら各々の下に挙げられている質問を考慮する際,それぞれの点がエホバと仲間のクリスチャンとの自分の関係にどう影響するかを考えてみてください。参照されている聖句に照らしてそれらの点を推論すれば,わたしたちすべてに必要な特質である,神中心の思考力や識別力を発達させるのに寄与します。(箴言 5:1,2。フィリピ 1:9-11)それで,これらの要素を一度に一つずつ考慮してみてください。
(1)わたしたちは皆エホバを崇拝し,善悪に関する規準を定める神の権利を認めます。
もしわたしたちが自分にとって余り重要ではないと思える事柄に関する神の助言を故意に無視したなら,エホバはそれをどうご覧になられるでしょうか。(ルカ 16:10。マラキ 1:6-8と比べてください。)
もしわたしたちがエホバのご命令に必ずしも従わないとしたら,他の人々は影響を受けますか。(ローマ 5:12; ヨシュア 7:20-26; 列王第一 14:16と比べてください。)
(2)世界のどこにいても,わたしたちには指針となる神のみ言葉があります。
決定をする際,単に自分が正しいと「思う」事柄を行なうということには,どんな危険性がありますか。(エレミヤ 17:9。箴言 14:12)
もしある事柄に関して聖書がどんな助言を述べているかが分からないなら,わたしたちはどうすべきですか。(箴言 2:3-5)
(3)わたしたちはみな,霊的なもので養う同一の計画から益を受けています。
霊的なもので養うエホバの取り決めを正しく評価しない人たちの間にはどんな状態が見られますか。(イザヤ 1:3; 9:16; 65:14と比べてください。)
(4)どんな人間でもなく,イエス・キリストがわたしたちの指導者であって,わたしたちはみな崇拝を行なう際,この方を通してエホバに近づきます。
わたしたちのうちのだれにせよ,自分は一個人としてほかの人より勝っていると考えるべき正当な理由がありますか。(ローマ 3:23,24; 12:3。マタイ 23:8-10)
(5)わたしたちはどこに住んでいようとも,人類のための唯一の希望として神の王国に頼ります。
これは分裂を引き起こす影響力からわたしたちをどのように守るものとなりますか。(マタイ 6:9,10。ミカ 4:3)
(6)聖霊はクリスチャンの一致にとって肝要な特質をエホバの崇拝者たちのうちに生み出します。
わたしたちは,神の霊がその実をわたしたちのうちに生み出す道をどのように開けますか。(詩編 1:2。箴言 22:4。啓示 3:6。使徒 5:32)
わたしたちが霊の実を持っているなら,それはエホバとわたしたちとの関係にどのように影響しますか。仲間の兄弟たちとの関係についてはどうですか。(ガラテア 5:22,23)
(7)わたしたちはみな,神の王国の良いたよりを宣べ伝える責任を持っています。
この宣べ伝える活動に仲間のクリスチャンと共に忙しくあずかると,仲間に対するわたしたちの感じ方はどのような影響を受けますか。(コロサイ 4:7,11と比べてください。)
9 これらの真理を実際に生活に当てはめるとき,どんな効果がありますか。
9 これらの事実を認めることと,それに従って生活することとは別問題で,そのような生活をするにはさらに多くのことが求められます。しかし,そうするとき,わたしたちはエホバにいっそう引き寄せられます。また,仲間の信者とのわたしたちの交わりも気持ちをさわやかにするものとなります。それは,「見よ,兄弟たちが一致のうちに共に住むのは何と良いことであろう。それは何と快いことであろう」と,詩編 133編1節に記されているとおりです。世とそのすべての利己的な事柄から離れて,エホバを本当に愛している他の人々と共に集会に出席すると,どんなに気持ちがさわやかにされるかを,あなたも個人的に経験してこられたのではありませんか。
分裂を引き起こす影響力を避けなさい
10 わたしたちはなぜ独立の精神を避けるよう注意しなければなりませんか。
10 この貴重な一致を台なしにしないようにするには,分裂を引き起こす影響力を避けなければなりません。中でも,まず第一番目に挙げられるのは独立の精神です。エホバはその元祖である悪魔サタンを暴露して,それを避けるようわたしたちを助けておられます。エバを欺いて,神の言われたことを無視し,自分で決定をするのは有利なことだとエバに思い込ませたのは,そのサタンなのです。アダムは彼女と共にその反逆的な行動に加わりました。その結果はこの二人にとって,またわたしたちにとっても災いとなりました。(創世 2:16,17; 3:1-6,17-19)わたしたちはこの独立の精神のしみ込んでいる世の中で生活していますから,自分自身の内でその精神を抑制する必要があるとしても驚いてはなりません。エホバはその組織を通して助言を与え,そうするようわたしたちを優しく助けてくださいます。
11 わたしたちが神の義の新秩序で生活するために誠実に準備しているかどうかは何によって分かりますか。
11 現在の環境の代わりに,『義の宿る』新しい天と新しい地を設けるというエホバのすばらしい約束について,わたしたちはその組織を通して学びました。(ペテロ第二 3:13)間もなくこの邪悪な世が過ぎ去って,地球が楽園に変えられるという見込みを考えると感動を覚えます。しかし,自分自身の生活様式は,義が普通の習慣となる世界で生活するために自分が誠実に準備していることを示すものとなっているでしょうか。聖書はわたしたちにはっきりとこう告げています。「世も世にあるものをも愛していてはなりません。世を愛する者がいれば,父の愛はその人のうちにありません」。(ヨハネ第一 2:15)確かにこの世には,わたしたちのうちのだれも好まないようなものがたくさんあります。しかし,わたしたちはおもに,生活の中で自分が直接楽しんでいる事を妨げるような世の側面を嫌っていますか。それとも,わたしたちは世の霊,つまりその独立の態度,自己に対して極端に利己的に気を配ることをも避けますか。肉の何らかの相入れない傾向があるにしても,わたしたちはエホバの言われることを聴き,心からエホバに従うことを本当に習慣としているでしょうか。わたしたちはどこにいようと,何をしていようと,わたしたちの人生の歩み全体は,わたしたちが神中心の考え方や動機を持っていることを示すものであるべきです。―箴言 3:5,6。
12 (イ)エホバの道を学ぶ機会を今とらえ,その道に従って生活するのはなぜ重要なことですか。(ロ)この節で参照されている聖句は,わたしたち個人個人にとって何を意味していますか。
12 この邪悪な事物の体制とその道を愛する者すべてを滅ぼすエホバの定められた時が来たなら,エホバは手間取るようなことはなさいません。エホバは,なおも世に執着しようとする人々や,ただいい加減な態度で神のご意志を学んだり行なったりしている人々を受け入れるために,その時を延ばそうとしたり,あるいはご自分の規準を変えようとしたりはされません。今こそ行動を起こすべき時です!(ルカ 13:23,24; 17:32; 21:34-36)ですから,この貴重な機会をとらえて,エホバがその愛ある組織を通して備えておられる諭しを熱心に求め,次いでエホバの道筋を一致して歩んでいる「大群衆」を見るのは,何と心温まる事柄なのでしょう。
-
-
まことの神であられるエホバを大いなるものとしなさい唯一まことの神の崇拝において結ばれる
-
-
2章
まことの神であられるエホバを大いなるものとしなさい
1 (イ)まことの神とはだれのことですか。(ロ)神について学ぶにつれ,わたしたちの生活は当然どのように影響を受けますか。
使徒パウロは,たとえ神と呼ばれるものが多くとも,『わたしたちには父なるただひとりの神がおられ……また,ひとりの主,イエス・キリストがおられるのです』と,仲間のクリスチャンに書き送りました。(コリント第一 8:5,6)パウロが言及したその「ただひとりの神」とは,万物の創造者であられるエホバです。(申命 6:4。啓示 4:11)エホバの特質やエホバが人類のために行なわれた事柄を学んで感謝を表わす人たちは,エホバにいや応なく引き寄せられている自分に気づきます。その結果どうなりますか。そのような人たちが自分たちの深く感服している方を大いなるものとし,言行両面でそうするのはごく自然なことです。そして,神への愛が芽生えると,神についてほかの人々に告げずにはいられなくなると共に,人間として自分たちにできる限り神に見倣いたいと願うようになります。聖書は,「愛される子供として,神を見倣う者となりなさい。そして……あなた方も愛のうちに歩んでゆきなさい」と述べて,わたしたちすべてにそうするよう励ましています。(エフェソス 5:1,2)この助言を当てはめるには,わたしたちはエホバが本当にどんな方であるかを知るようになる必要があります。
エホバはどのような性格の方か
2 わたしたちを動かして神を賛美させずにはおかないその顕著な特質の幾つかを挙げてください。
2 聖書の中には,神の顕著な特質がどのようなものであるかを直接明らかに述べている言葉が数多く見いだされます。そのような言葉を読む際,その特質が実際にどのようなものか,それが自分にとってどれほど重要かについて時間をかけて考えてみてください。例えば次のような言葉があります。『神は愛です』。(ヨハネ第一 4:8)「そのすべての道は公正である」。(申命 32:4)『知恵は神と共にある』。(ヨブ 12:13)神は『力が強い』方です。(イザヤ 40:26)これらの属性についてよく考えてみると,神に対する感嘆の気持ちから神を賛美するよう動かされるのではないでしょうか。
3 エホバの性格のほかのどんな面も非常に魅力的ですか。
3 聖書は神の魅力的な性格についてわたしたちにさらに教え,エホバが「憐れみと慈しみとに富み,怒ることに遅く,愛ある親切と真実とに満ちる神」であると述べています。(出エジプト 34:6)『エホバよ,あなたは善良で,進んで許してくださいます』。(詩編 86:5)『エホバに関しては,その目はあまねく全地を行き巡っており,ご自分に対して心の全き者たちのためにみ力を表わしてくださいます』。(歴代第二 16:9)『神は不公平な方ではなく,どの国民でも,神を恐れ,義を行なう人は神に受け入れられるのです』。(使徒 10:34,35)エホバは『寛大に与えてくださる』方で,「幸福な神」です。(ヤコブ 1:5。テモテ第一 1:11)このような比類のない神に仕え,その愛ある世話を経験するのは何と気持ちをさわやかにさせる事柄でしょう。
4 (イ)エホバはどんな専心を要求しておられますか。それはどれほど重要ですか。(ロ)詩編 34編3節は何にあずかるようわたしたちを招いていますか。
4 エホバは,「全き専心を要求する神」であられるという事実はその属性と合致します。(出エジプト 20:5)神に受け入れられる仕方で仕えるには,わたしたちは神に全面的な専心を示さなければなりません。わたしたちはまた,サタンを神とするこの世を愛することはできません。(ヨハネ第一 2:15-17。コリント第二 4:3,4)エホバは単なる見せかけの義をすべて見抜かれます。エホバはわたしたちの行なうことだけでなく,それについてわたしたちがどう考えているか,またわたしたちがどんな人であるように努めているかをも十分に知っておられます。もしわたしたちが本当に義を愛するなら,エホバはわたしたちを助けてくださいます。(エレミヤ 17:10。箴言 15:9)エホバの性格のゆえに,全地の何百万もの人々は,「あなた方はわたしと共にエホバを大いなるものとせよ。わたしたちは相共にそのみ名を高めよう」と書いた詩編作者の招きに喜んで応じてきました。(詩編 34:3)あなたはそれらの人の一人ですか。
5 エホバの性格について研究することから十分益を得るのに何が役立ちますか。
5 神の高貴な特質を綿密に調べてみると,神について語りたいという願いは深められ,神に見倣おうとする努力の面で大いに助けられます。次の点を明らかにしてみてください。(1)厳密に言って,その各々の特質はどのようなものですか。各々の特質をそれぞれ異なったものにしているのは恐らく何ですか。(2)エホバはその特質をどのように,まただれに対して明示されましたか。さらに,(3)あなたはどのようにその特質を表わすことができますか。あるいは,それはどのようにあなたの見方に影響を及ぼすものであるべきですか。
6 一例として愛を用いて,エホバの特質をどのように調べることができるかを示してください。この節の終わりに挙げられている質問に答え,その答えの中に聖句を含めて,そのことを行なってください。
6 ほんの一例にすぎませんが,ここで次の点を考慮してください。『神は愛です』と,聖書は述べていますが,それはどういう意味ですか。(ヨハネ第一 4:8)言うまでもありませんが,愛には幾つかの種類があります。この句で用いられているギリシャ語の言葉は「アガペー」で,この語はエホバ神ご自身のうちに例示されている最高の形態の愛を表わしています。このような愛は徹底した利他主義の表われです。このことを念頭におきながら,参照されている聖句を用いて,下記の質問に対し自分で答えを出してみてください。
この特質はエホバの創造の業の中でどのように明示されていますか。(使徒 14:16,17)
人類に対するエホバの愛を示す最も顕著な実例は何ですか。(ヨハネ 3:16)エホバは人間の善良さゆえにこのことを行なわれたのですか。(ローマ 5:8)
エホバがそのみ子によって行なわれたことは,わたしたちの命の用い方にどのように影響を及ぼしますか。(コリント第二 5:14,15,18,19)
わたしたちはクリスチャンとして,仲間のクリスチャンに同様の愛を抱いていることをどのような仕方で示せますか。(コリント第一 13:4-7。ヨハネ第一 4:10,11; 3:16-18)
わたしたちはほかにもだれに対して,またどのように愛を示すべきですか。(マタイ 5:43-48; 28:19,20。ガラテア 6:10)
7 個人研究の際,どうすればエホバのほかの特質に関する同様の資料を見つけることができますか。
7 さらに,エホバのほかの特質の幾つかについて検討してみたいと思われませんか。手始めに,「公正」や「知恵」,それから恐らく「愛ある親切」や「憐れみ」について個人研究の際に調べてみるのはいかがですか。ものみの塔出版物の索引や聖書用語索引<コンコーダンス>を用いれば,啓発的な資料を豊富に見いだせるでしょう。
神に関する真理を学ぶよう他の人々を助けなさい
8 (イ)世の人々はどんな神々を崇拝していますか。(ロ)この混乱した状態すべての背後にはだれがいますか。なぜそのように言えますか。
8 まことの神の崇拝と相対して,文字どおり無数のほかの神々が人々によって崇拝されています。4世紀にキリスト教世界はそれ以前にバビロニア人,エジプト人,ヒンズー教徒,および仏教徒の教えた「三位一体」の信仰を採用しました。神に関するこのような概念に加えて,強力な支配者,傑出した運動選手や歌手が神々のように偶像視されてきました。さらに,お金や自己や性なども,熱烈な専心の思いの寄せられる神々となっています。このすべての背後にいるのはだれですか。それは「この事物の体制の神」,つまり悪魔サタンです。(コリント第二 4:4。コリント第一 10:20)サタンは考え得る,ありとあらゆるこうかつな手段を用いて,人々をエホバから引き離そう,あるいは少なくとも人々の専心の思いを迷わせようとしています。
9 神に関する真理を学ぶようだれかを助ける最善の方法とは何ですか。
9 クリスチャンであると公言する人々であれ,そうでない他の人々であれ,そのような人たちをどうすれば神に関する真理を知るよう援助することができますか。その最も優れた方法の一つは,聖書そのものがまことの神の実体と神がどのような性格の方であるかについて述べる事柄を親切な仕方でそれらの人々に示すことです。それから,自分自身の生活の中で敬虔な特質を反映する行状をもってそれを裏付ける必要があります。―ペテロ第一 2:12。
10 三位一体論者と話をする際,相手が何を信じているかを自分は正確に知っていると考えるのはなぜ賢明ではありませんか。
10 しかし,もしキリスト教世界の教会の成員のだれかが,「三位一体」の信仰は聖書に基づいていると主張して,あなたと論争するとしたらどうですか。「三位一体」の教理に関する公式の陳述はありますが,まず第一に,多くの人々は自分の考えを持っているということを銘記してください。そのような人には自分の意見を述べるように勧め,それらの人の信じている事柄と自分の聖書に記されている事柄とを比べるよう助けてください。やがて,教会の公式の教えをも神のみ言葉と比べるよう励ましてください。
11 五つの要点のうち一度に一つの点だけを取り上げ,この節の中に挙げられている質問と聖句を用いて,三位一体の教理が聖書に基づくものではないことについて推論しなさい。
11 誠実な人々を助けたいという願いを念頭におきながら,以下の箇所で言及されている聖句を用いて,その聖句と共に示されている論点について推論する方法を考慮してください。
(1)三位一体論者の中には,聖なる三者(父,子および聖霊)が存在するが,神は唯一であるという考えを強調する人々がいます。
しかし,使徒 2章4,17節は,「聖霊」がひとりの者であることを示していますか。
次の聖句の各々の中で何人の者のことが言及されているかに注目するのはなぜ役に立つ事柄と言えますか。(ヨハネ 17:20-22。使徒 7:56。啓示 7:10)
(2)中には,「三位一体」の構成員はみな同等の栄光を持っており,いずれも他より偉大でもなければ劣ってもおらず,それらは同等で永遠に共存すると信じる人々もいます。
聖書は同じ考えを示していますか。(この答えとして,ヨハネ 14:28; マタイ 24:36; 啓示 3:14をご覧ください。)
(3)「三位一体」を証明する句としてヨハネ 1章1節を指摘する人々もいます。それらの人はこの句のギリシャ語本文には不定冠詞(“a”)がないと主張し,それゆえにこの聖句は「言葉は神(a god)であった」ではなく,「言葉は神(God)であった」と訳されなければならないと主張します。
しかし,ヨハネ 1章1節の中では何人の者のことが述べられていますか。三人,それとも二人の者ですか。また,ヨハネ 1章18節は「三位一体」の教理とどのように対立しますか。
確かにギリシャ語には不定冠詞はありませんが,多くの言語にはそれがあります。ですから,それらの言語では考えを正確に表わすために不定冠詞が用いられています。もしだれかがヨハネ 1章1節を翻訳する際,その不定冠詞を用いるのは間違っていると思うなら,その人はジェームズ王欽定訳(英文)や他の英訳の使徒 28章6節からもそれを省きたいと考えるでしょうか。(ヨハネ 1章1節を別の仕方で訳すと,アメリカ訳にあるとおり,「言葉は神性を備えていた」となります。すなわち,言葉は神の持っておられるのと同じ神性の特質を持っていたという意味です。)
(4)三位一体論者はまた,創世記 1章1節と同26節で「神」と訳されているヘブライ語はエローヒームであって,これはヘブライ語の複数形で,実際には「神々」を意味していると論じます。
これはどうして「ひとりの神」のうちに聖なる三者が存在するという教えを支持していないのでしょうか。
もしそれが創世記 1章1節で「三位一体」を表わしているのなら,裁き人 16章23節ではそれは何を表わしていますか。この句の中では「神」を指して「エローヒーム」が用いられており,それに続くヘブライ語動詞は複数形ではなく,単数形なのです。
ヘブライ語ではこれらの句の中でなぜ神の複数形が用いられていますか。これはヘブライ人が卓越もしくは尊厳という概念を表わす一つの方法なのです。もし二人以上の者のことを意味しているのでしたら,それに続く動詞もまた複数形であるはずですが,前述の場合はそうではありません。
(5)諸教会がイエスを強調してきたため(それと共に,エホバというみ名が多数の聖書翻訳から除去されてきたため),神のことが述べられると,ある人々はイエスのことしか考えません。
しかし,イエスは崇拝の点でわたしたちの見倣うべきどんな手本を残されましたか。(ルカ 4:8)
12 イエスがみ父のことを「唯一まことの神」と呼んで話し掛けられたのはなぜふさわしいことでしたか。
12 イエスのことは聖書の中で「神」,あるいは「力ある神」とさえ述べられていますが,それでもイエスはみ父を大いなるものとし,「わたしの神またあなた方の神」と呼ばれました。(ヨハネ 1:1; 20:17。イザヤ 9:6)イエスは,「エホバこそまことの神である……そのほかにはいない」と,かつて述べたモーセと同じ考えを抱いておられました。(申命 4:35)エホバは偶像,神格化された人間や悪魔サタンのような崇拝の対象とはまさに著しい対照をなしています。そのすべてとは対照的に,エホバはイエスがお呼びになったように,「唯一まことの神」です。―ヨハネ 17:3。
『エホバの名によって歩みなさい』
13,14 エホバの名を『知り』,その名「によって歩む」ことには,何が関係していますか。
13 神の実体に関して多年困惑させられた後,エホバという神ご自身のみ名が自分の聖書の中にあるのを初めて見て,感動を覚える人は少なくありません。(出エジプト 6:3)しかし,『永久にエホバの名によって歩んで』初めて,この知識の益にいつまでもあずかれるようになります。(ミカ 4:5)このことには,単にエホバという名を知る,もしくは自分はエホバの証人であると主張する以上の多くのことが関係しています。
14 神の名の意義に関して詩編 9編10節は,「あなたのみ名を知る者たちはあなたに依り頼みます。エホバよ……」と述べています。このことには何が関係していますか。単にエホバという名を知る以上のことが関係しています。その名を知ったからといって自動的にエホバに依り頼むわけではありません。神の名を「知る」ということは,ここではエホバがどのような神であられるかを正しく認識し,その権威を尊重し,その命令に従うことを意味しています。同様に,「エホバの名によって歩む」とは,エホバに献身し,その崇拝者の一人としてこの神を代表し,実際に神のご意志と調和した仕方で自分の命を用いるという意味です。(ルカ 10:27)あなたはそうしておられますか。
15 もしわたしたちがエホバに永遠に仕えたいと思うのであれば,義務感のほかに何が必要ですか。
15 もし永遠にわたってエホバに仕えようと思うのであれば,わたしたちは義務感以上のもので動かされなければなりません。使徒パウロは,既に何年かエホバに仕えてきたテモテに,「敬虔な専心を目ざして自分を訓練してゆきなさい」と勧めました。(テモテ第一 4:7)専心は心から生じます。それはその対象となる存在者に対する感謝の念によって引き起こされます。「敬虔な専心」とはエホバに対する個人的な深い敬意です。それは,エホバとその道に対する感謝のゆえに愛の気持ちからエホバに傾倒していることを表わします。それは,エホバのみ名がすべての人によって大いに尊ばれるようになって欲しいとの願いをわたしたちに抱かせます。もしわたしたちがまことの神であられるエホバの名によって永遠に歩みたいと思うのであれば,「敬虔な専心」をわたしたちの生活の目的あるいは目標として培ってゆかなければなりません。―詩編 37:4。ペテロ第二 3:11。
復習のための討議
● エホバはどのような性格の方ですか。その属性の各々についてはっきりと理解するようになれば,わたしたちはどのように益にあずかれますか。
● わたしたちはどうすれば,他の人々が神に関する真理を学ぶのを助けることができますか。
● エホバを『知り』,「その名によって歩む」ことには,何が関係していますか。
-
-
神のみ言葉をしっかりつかんでいなさい唯一まことの神の崇拝において結ばれる
-
-
3章
神のみ言葉をしっかりつかんでいなさい
1 (イ)昔のイスラエルは神のみ言葉が真実であることをどのように体験しましたか。(ロ)それはどうしてわたしたちにとって興味深い事柄ですか。
「あなた方は心をつくし魂をつくして知っているはずです。すなわち,あなた方の神エホバの話されたすべての良い言葉は,その一言といえ果たされなかったものはありません。それはあなた方にとってすべてそのとおりになりました」。これは,イスラエル人が約束の地に定住した後,ヨシュアがその年長者たちに与えた諭しの言葉です。しかし,その後の長い期間,彼らは終始一貫神のみ言葉を心に留め,それを適用したわけではありません。その結果はどうなりましたか。聖書が明らかにしているとおり,祝福に関するエホバの約束が信用できるものであると判明したように,エホバはまた不従順のもたらす結果について言われたことをも遂行なさいました。(ヨシュア 23:14-16)その記録は,聖書の他の部分すべてと同様,わたしたちを教え諭すために保存されました。それは,『わたしたちが希望を持つため』,またその希望を失わせるような事を行なわないようにするためです。―ローマ 15:4。
2 (イ)聖書はどのような意味で「神の霊感を受けたもの」と言えますか。(ロ)このことを知っているわたしたちにはどんな責任がありますか。
2 聖書を書き記すためにおよそ40人の人間の“秘書”が用いられましたが,エホバご自身がその著者です。これはエホバがその中のあらゆる事柄の記述を積極的に導かれたという意味ですか。そうです。使徒パウロが事実に即して述べたように,「聖書全体は神の霊感を受けたもの」です。わたしたちはこのことを確信しているので,自分たちが努めてそうしているように,聖書に注意を払い,その中に収められている事柄を中心にして生活を築くよう,どこでも人々に勧めます。―テモテ第二 3:16。テサロニケ第一 2:13。
どうすれば,その真価を認めるよう他の人々を助けられますか
3 聖書が神のみ言葉であることを確信していない人たちの多くを助ける最善の方法とは何ですか。
3 もちろん,わたしたちが話しかける人々の多くは,聖書が本当に神のみ言葉であるという確信をわたしたちと同様に抱いている人たちではありません。どうすれば,そのような人たちを助けることができますか。多くの場合,最善の方法は聖書を開いて,そこに記されている事柄を人々に示すことです。「神の言葉は生きていて,力を及ぼし,どんなもろ刃の剣よりも鋭く,……心の考えと意向とを見分けることができるのです」。(ヘブライ 4:12)「神の言葉」は,聖書に記録されている神の約束の言葉です。それは死んだ歴史ではなく,生きており,いかなる抵抗をも排して成就に向かって進んでゆきます。神の言葉がそのように進むにしたがって,それに接するようになる人たちの心の真実の動機づけが種々の条件にかなうものかどうかが明らかになります。その影響力は,わたしたちが個人的に言うどんな事柄よりもさらに強力なものです。
4 ある人々は聖書の真理に関するどんな簡単な説明を聞いて,聖書に対する態度を変えましたか。それはなぜですか。
4 神のみ名が聖書に出ているのを見ただけで人生に転機をもたらした人は少なくありません。他の人々は人生の目的について聖書が述べることや神が悪を許しておられる理由,現代の様々な出来事の意味,あるいは神の王国を中心とした現実的な希望などを示されて,聖書を研究することに決めました。宗教上の慣行のために人々が悪霊の攻撃にさらされて大変苦しめられてきた土地では,そのような苦しみの原因やその苦しみからの解放をもたらす方法に関する聖書の説明が関心を起こさせました。それらの点が人々にとって非常に印象的なのはなぜですか。なぜなら,聖書はこれらの重要な問題に関する信頼できる唯一の情報源だからです。―詩編 119:130。
5 ある人が聖書を信じていないと言う場合,その理由としてどんなことが考えられますか。どうすればそのような人を助けることができるでしょうか。
5 しかし,もしある人が聖書を信じていないと,わたしたちに真っ向から言う場合はどうですか。それで話し合いをやめるべきでしょうか。もしその人が推論するのをいとわないなら,話し合いをやめるべきではありません。神のみ言葉のために確信を抱いて憶せずに話す責任を感じるべきでしょう。もしかすると,その人は聖書をキリスト教世界の本とみなしているのかもしれません。同世界が絶えずお金を懇願してきただけでなく,その偽善や政治に対する干渉などの記録のために聖書に対して消極的な反応を示すのかもしれません。そうなのかどうか尋ねてみてはどうですか。キリスト教世界のこの世的なやり方を聖書が非としていることや,キリスト教世界と真のキリスト教の間に見られる対照的な点などを示すなら,その人の関心を引き起こせるかもしれません。―マタイ 15:7-9; ヤコブ 4:4; ミカ 3:11,12と比べてください。
6 (イ)あなた自身は何に基づいて,聖書が神のみ言葉であることを確信していますか。(ロ)聖書が本当に神からの書であることを認識するよう人々を助けるために,ほかのどんな推論の仕方を用いることができるでしょうか。
6 他の人々にとっては,霊感を受けて書かれたことを示す証拠に関する率直な話し合いが助けになる場合もあります。聖書が神からの書であることをはっきりと証明するどんな事柄をあなたはご存じですか。それは聖書そのものがその起源について述べている事柄ですか。(テモテ第二 3:16,17。啓示 1:1)それとも,将来に関する詳しい知識を反映する数多くの預言が聖書に収められており,それゆえにその預言は超人間的な源から来たに違いないという事実ですか。(ペテロ第二 1:20,21。イザヤ 42:9)もしかするとそれは,聖書が1,610年余の期間にわたって大勢の人々により書き記されたにもかかわらず,聖書には内面的調和があるということですか。あるいは,当時の古い他の著作とは対照的に聖書が科学的に正確であるということですか。それとも,その筆者たちの率直さですか。あるいは,聖書を滅ぼそうとする悪らつな試みがあったにもかかわらず,それが保存されてきたことですか。深い感銘を与えることが分かっている事柄なら何でも用いて,他の人々を助けることができます。
聖書を自分で個人的に読む
7,8 (イ)わたしたちは個人的に聖書をどう用いるべきですか。(ロ)個人で聖書を読むことに加えて,わたしたちには何が必要ですか。聖書そのものがこのことをどのように示していますか。(ハ)あなた個人はどのようにしてエホバの目的を理解できるようになりましたか。
7 聖書を信じるよう他の人たちを助けることに加えて,わたしたち自身時間を取って聖書を定期的に読む必要があります。あなたはそうしておられますか。これまで出版されたすべての本の中でこれは最も重要な本です。もちろん,これは,聖書を読みさえすれば,ほかに何も必要ではないという意味ではありません。聖書は,自分を孤立させて,独自の研究を行なえば何でも理解できるなどと考えることがないよう警告しています。平衡の取れたクリスチャンであるためには,個人研究と集会に定期的に出席することとの両方が必要です。―箴言 18:1。ヘブライ 10:24,25。
8 聖書はわたしたちの益のために一人のエチオピア人の役人のことを述べています。その役人がイザヤの預言の一部を読んでいた時,み使いはクリスチャンの福音宣明者フィリポをそのもとに導きました。フィリポはその人に,「あなたは自分の読んでいる事柄がほんとうに分かりますか」と尋ねました。すると,そのエチオピア人は謙遜にこう答えました。「だれかが手引きしてくれなければ,いったいどうして分かるでしょうか」。そして,聖書のその句の意味を説明してもらいたいとフィリポに頼みました。さて,フィリポは単に聖書を自分独りで読んで,その場で聖書に関する自分の意見を述べる人ではありませんでした。そうではなく,記録の示すところによれば,エルサレムの会衆で使徒たちと密接な交渉を持っており,エホバの見える組織の一成員でした。ですから,彼は,エホバがその組織を通して備えておられた教えの益を受けられるよう,そのエチオピア人を助けることができたのです。(使徒 6:5,6; 8:5,14,15,26-35)同様に今日,わたしたちのうちのだれが独力でエホバの目的をはっきりと正確に理解できるようになったでしょうか。それどころか,わたしたちはエホバがその見える組織を通して愛の気持ちから備えておられる援助を必要としましたし,また引き続きそれを必要としています。
9 わたしたちすべては聖書を通読するどんな計画から益を得ることができますか。
9 わたしたちが聖書を用いたり理解したりするのを助けるため,エホバの組織は「ものみの塔」誌やこれと関連のある種々の出版物の中に優れた聖書的な資料を供給しています。その上,エホバの証人の諸会衆で開かれている神権宣教学校に関連して定期的に行なう聖書通読の予定がわたしたちのために設けられています。エホバの証人の中には,これに加えて継続的な聖書通読を行なっている人もいます。時間を費やして聖書を調べるなら大きな益が得られます。(詩編 1:1-3; 19:7,8)あなたは個人的に聖書全体をお読みになりましたか。もしまだでしたら,そうするよう特別の努力を払ってみてください。たとえすべてのことを十分に理解できないとしても,聖書を概観するのはたいへん価値のあることです。もしも1日にわずか4,5ページ読むとしたら,およそ1年で聖書を読み終えられるでしょう。
10 (イ)あなたはいつ聖書通読を行なっておられますか。(ロ)定期的にきちんと行なうことはなぜ重要ですか。
10 あなたはこのような聖書通読をいつ行なうよう計画できますか。もし1日に10分ないし15分でも取って置くことができるなら,それは何と有益なことでしょう。もしできなければ,少なくとも毎週そのための時間の予定をきちんと立てて,その予定をしっかり守ってください。聖書を読むことは,食物を食べることと同様,生涯の習慣となるべきです。ご承知の通り,食習慣が不調になると,その人の健康は損なわれるようになります。わたしたちの霊性も同様です。わたしたちの命は「エホバの口から出るすべてのことば」によって定期的に養われるかどうかに依存しています。―マタイ 4:4。
11 聖書を読む際,わたしたちは何を目的とすべきですか。
11 聖書を読む際,わたしたちは何を目的とすべきでしょうか。もしもその目標が割り当てのページの範囲を網らすること,あるいはただとこしえの命を得ることだけならば,それは間違っています。永続する益を受けるためには,より高い動機 ― 神への愛,つまり神をよりよく知り,そのご意志を理解し,受け入れられる仕方で神を崇拝したいという願い ― を抱かなければなりません。(ヨハネ 5:39-42)わたしたちの態度は,「エホバよ,あなたの道をわたしに知らせてください。あなたの道筋をわたしに教えてください」と語った聖書筆者の態度のようであるべきです。―詩編 25:4。
12 (イ)なぜ「正確な知識」を得なければなりませんか。聖書を読む際,それを得るためにはどんな努力が必要とされますか。(ロ)27ページに示されているとおり,どんな観点に立って考えれば,聖書中の自分の読む箇所を有意義な仕方で分析できますか。(ハ)この節の終わりに挙げられている質問に答えることによって,これら五つの点を一度に一つずつ取り上げ,例を用いて説明しなさい。必ず自分の聖書を用いてください。
12 その教えを受ける際,わたしたちは「正確な知識」を得たいと願うべきです。それがなければ,どうして神のみ言葉を自分自身の生活に当てはめたり,あるいは他の人に正しく説明したりすることができるでしょうか。(コロサイ 3:10。テモテ第二 2:15)正確な知識を得るためには,注意深く読まなければなりません。また,もしある部分が難しいなら,その意味を理解するためにそこを何度か読み返す必要があるかもしれません。また,時間をかけて資料について黙想し,様々な観点から考えるなら,やはり益が得られます。深く考えて調べるための価値ある五つの方法がこの本の27ページで強調されています。その一つかそれ以上を取り上げることによって,聖書の数多くの部分を有益な仕方で分析することができます。次のページに挙げられている質問に答えてゆくと,そのとおりであることが分かるでしょう。
(1)自分の読んでいる聖書中の箇所から,エホバがどのような性格の方であられるかをある程度示す事柄がしばしば得られます。
聖書がエホバの創造の業について述べる事柄を感謝の気持ちを抱いて黙想すると,エホバに対するわたしたちの態度はどのように影響を受けますか。(詩編 139:13,14。ヨブ 38-42章の中で特に38:1,2そして40:2,8それから42:1-6に注目してください。)
ヨハネ 14章9,10節のイエスの言葉から見て,ルカ 5章12,13節に記録されているような出来事から,わたしたちはエホバについて何と結論することができますか。
(2)その記述が聖書の主題,すなわち約束された胤であるイエス・キリストの治める王国によるエホバのみ名の立証という主題の展開にどのように寄与しているかを考えてください。
エジプトに臨んだ種々の災厄はこの主題とどのように関係していますか。(出エジプト記 5:2; 9:16; 12:12をご覧ください。)
モアブの女ルツに関する心温まる記述についてはどうですか。(ルツ 4:13-17。マタイ 1:1,5)
イエスの来たるべき誕生についてガブリエルがマリアに発表したことは,その主題とどのように合致しますか。(ルカ 1:26-33)
ペンテコステに際してイエスの弟子たちが聖霊で油そそがれたことには,なぜ重大な意義がありましたか。(使徒 2:1-4。ペテロ第一 2:4,5,9。ペテロ第二 1:10,11)
(3)文脈は特定の節の意味と関係があります。
ローマ 5章1節と8章16節で述べられていることは,だれに対して語りかけられた言葉ですか。(ローマ 1:7もご覧ください。)
コリント第一 2章9節は神の新秩序における地上の生活について注解した言葉であることを文脈は示していますか。6節から8節に示されているとおり,だれの目や耳はパウロが書いている事柄の意味を悟っていませんでしたか。
(4)どうすれば自分が読んでいる事柄を個人的に適用することができるか自問してください。
カインがアベルを殺したことに関する記録は単に歴史として興味深い事柄ですか。それとも,その中にはわたしたちに対する助言がありますか。(創世 4:3-12。ヨハネ第一 3:10-15。ヘブライ 11:4)
(出エジプト記から申命記の中で)荒野におけるイスラエルの種々の経験について読む際,わたしたちはそれをどのように個人的に適用すべきですか。(コリント第一 10:6-11)
油そそがれたクリスチャンに対して書き送られた,振る舞いに関する助言は,地上におけるとこしえの命の希望を抱く人々にも当てはまりますか。(民数記 15:16; ヨハネ 10:16と比べてください。)
たとえわたしたちはクリスチャン会衆の中で良い立場を得ているとしても,自分の既に知っている聖書の助言を一層十分に適用できる方法を考慮する必要がありますか。(コリント第二 13:5。テサロニケ第一 4:1)
(5)自分の読んでいる事柄をどのように用いて他の人々を助けられるかについて考えてみてください。
ヤイロの娘の復活に関する記述を用いれば,だれを助けることができますか。(ルカ 8:41,42,49-56)
13 エホバの組織と共に聖書を読んで研究する継続的な計画からどんな結果が期待できますか。
13 このような方法で聖書を読めば,何と豊かな報いが得られるのでしょう。確かに,聖書を読むことは一つの挑戦,つまり一生涯従事できる有意義な事業です。しかも,それを行なうにつれて,わたしたちは霊的に一層強くなります。また,わたしたちはわたしたちの愛するみ父エホバと仲間のクリスチャンである兄弟たちとにいっそう引き寄せられます。そしてわたしたちは,「命の言葉をしっかりつかんで」いるようにとの助言に留意するよう助けられます。―フィリピ 2:16。
復習のための討議
● 聖書はなぜ書き記され,今日まで保存されてきましたか。
● どうすれば聖書の真価を認識するよう他の人々を助けられますか。
● 個人で定期的に聖書を読むのはなぜ有益なことですか。どんな五つの観点から考えれば,自分の読む事柄を有意義な仕方で分析できますか。
[27ページの囲み記事/図版]
聖書を読む際,次の点を考慮してください
それぞれの部分は人格的存在としてのエホバについて何を教えているか
それは聖書全体の主題とどのように結びついているか
文脈はその意味にどのように影響するか
それは自分自身の生活にどのように影響するか
他の人々を助けるためにそれをどのように用いることができるか
-
-
すべての預言者により証しされた方唯一まことの神の崇拝において結ばれる
-
-
4章
すべての預言者により証しされた方
1 イエスが人間となる以前に存在しておられたことに関する事実は,イエスとエホバとの関係について何を示していますか。
イエスはご自分とエホバとの温かい関係を描写して,『父は子に愛情を持っておられ,ご自身のなさる事をみな子に示されます』と言われました。(ヨハネ 5:19,20)その密接な関係はみ子が創造された時,つまり人間として生まれる以前の計り知れないほど遠い昔に始まりました。この方は神の独り子,つまりただエホバおひとりによって創造された唯一の方でした。天でも地でもほかのものはみな,この深く愛された初子であられるみ子によって創造されました。み子はまた,神の言葉つまり代弁者として仕え,この方を通して神のご意志が他の者に伝達されました。この方,すなわち神が特に愛しておられたみ子が,人間イエス・キリストとなられたのです。―コロサイ 1:15,16。ヨハネ 1:14; 12:49,50。
2 イエスのことは聖書の預言の中でどの程度言及されていますか。
2 み子が人間として奇跡的に誕生する以前に,み子に関する霊感による数多くの預言が記録されました。使徒ペテロがコルネリオに向かって,『この方についてはすべての預言者が証しをしています』と証言したとおりです。(使徒 10:43)聖書の中でイエスの役割は清い崇拝に関連してそれほど特筆すべきものとされているため,ひとりのみ使いは使徒ヨハネに,「神を崇拝しなさい。イエスについて証しすることが預言に霊感を与えるものなのです」と述べました。(啓示 19:10)それらの預言はこの方がだれであるかを明らかにし,み子に関する神の目的の中で,今日のわたしたちにとって非常に興味深い幾つかの面に注意を引いています。
預言によって明らかにされた事柄
3 (イ)創世記 3章14,15節の預言の中で,「蛇」,「女」,『蛇の胤』はそれぞれだれを表わしていますか。(ロ)『蛇の頭を砕く』ことは,エホバの僕たちにとってどうして非常に興味深い事柄となりましたか。
3 そのような預言の最初のものは,エデンで反逆が起きた後に語られました。それは蛇に対して話されたエホバの裁きのうちに具体的に表現されました。エホバはこう言われました。「わたしは,お前と女との間,またお前の胤と女の胤との間に敵意を置く。彼はお前の頭を砕き,お前は彼のかかとを砕くであろう」。(創世 3:14,15)これはどういう意味ですか。その意味は,神のご予定の時に,他の預言によって明らかにされ,また詳述されました。その結果,わたしたちは,その裁きを告げられた,蛇によって表わされているものが悪魔サタンであることを知るようになりました。その「女」はエホバご自身の忠節な天的組織で,その組織は,エホバにとって忠実な妻のようです。『蛇の胤』には,エホバとその民に反対して,悪魔の精神を示すみ使いと人間の両方が含まれています。その蛇が悪魔によってエデンで用いられたことを考えると,その預言から,『蛇の頭を砕く』とは,エホバを中傷し,人間に大きな悲しみをもたらした,神のこの反抗的な子の最終的な滅びを指していたということが分かります。しかし,その砕くことをする「胤」の実体は長い間神聖な奥義となっていました。―ローマ 16:25,26。
4 イエスの先祖の系統はこの方が約束された胤であることを明らかにするのにどのように助けとなりましたか。
4 人類の歴史がおよそ2,000年経過した後,エホバはさらに詳細な点を明らかにし,その胤がアブラハムの家系から現われることを示されました。(創世 22:15-18)しかし,その胤に到達する家系は単に肉的な血統だけでなく,神の選びによるのです。アブラハムは奴隷女ハガルに生まれたその子イシュマエルを愛していたにもかかわらず,エホバははっきりと,「わたしの契約は……サラがあなたに産むイサクに対して立てるであろう」と言われました。(創世 17:18-21; 21:8-12)後に,その契約はイサクの長子エサウにではなくヤコブに対して確証されました。このヤコブからその子孫であるイスラエルの十二部族が出ました。(創世 28:10-14)やがて,その胤はユダの部族のダビデの家に生まれることが示されました。―創世 49:10。歴代第一 17:3,4,11-14。
5 イエスが地上で奉仕の務めに携わった初めのころでさえ,イエスがメシアであることをほかのどんな事柄がはっきりと示しましたか。
5 聖書はあらかじめ700年余り前に,その胤が人間として誕生する場所であるベツレヘムの名を挙げただけでなく,この方が既に「定めのない昔の日から」,つまり天で創造された時以来存在しておられたことを明らかにしていました。(ミカ 5:2)この方がエホバの油そそがれた者,つまりメシアとして地上に現われる時は預言者ダニエルを通して予告されていました。(ダニエル 9:24-26)そして,聖霊によって油そそがれた時,天からの声がこの方がだれであるかを明らかにしました。(マタイ 3:16,17)ですから,フィリポはイエスの追随者となった後,「わたしたちは,律法の中でモーセが,そして預言者たちが書いた方,ヨセフの[養子縁組による]子で,ナザレから来たイエスを見つけた」と,確信を抱いて言うことができました。―ヨハネ 1:45。
6 (イ)イエスの死後,その追随者たちは何を悟るようになりましたか。(ロ)『女の胤』とはおもにだれのことですか。その方が蛇の頭を砕くということは何を意味していますか。
6 その後,イエスの追随者たちは,イエスに言及した文字どおり幾十もの預言が霊感による聖書の中に組み込まれていたことを悟るようになりました。イエスは死んで復活させられた後,自ら,「聖書全巻にある,ご自分に関連した事柄を彼らに解き明かされ」ました。(ルカ 24:27)今や,おもにイエスが『女の胤』,つまり「蛇」の頭を砕く方であることは明らかです。こうして,サタンは最終的に打ち砕かれて存在しなくなります。人類に対する神の約束はすべて,つまりわたしたちの切望している事柄はみな,イエスによって成就されるのです。―コリント第二 1:20。
7 それらの預言の中で言及されている方の実体に加えて,ほかにどんな事柄を考慮するのは有益なことですか。
7 あなたはそれらの預言の幾つかを初めて読んだ時,多分,例のエチオピア人の宦官のように,「預言者はだれについてこう言っているのでしょうか」と尋ねたことでしょう。しかし,その宦官は答えを得た時,問題をそのままにしてはおきませんでした。フィリポが行なった説明を注意深く聴いた後,その人は,預言がイエスによって成就されたことを正しく認識するなら,バプテスマを受けて自ら行動を起こさなければならないということを悟りました。(使徒 8:32-38。イザヤ 53:3-9)わたしたちも同様に答え応じますか。時には,預言が述べられている仕方から深い感動を受けることもあれば,預言の成就を指摘されて,聖書そのものの中に示されている結論に心が動かされる場合もあるかもしれません。
8 ここではイエス・キリストに関する四つの預言的なひな型が考慮されています。それらの預言がわたしたちにどのように影響するかを示すために用意されている質問や聖句について推論してください。一度に一つの点を考慮してください。
8 それがイエス・キリストに関する次のような預言的な約束やひな型の場合にも当てはまることに注目してください。参照されている聖句を助けにしながら下記の質問に答えてみてください。
(1)アブラハムがイサクをささげようとしたことに関する記録は,エホバがみ子によって贖いを備える際になさったことを正しく認識するのにどのように助けとなりますか。(ヨハネ 3:16。創世 22:1-18[2節でイサクのことがどのように述べられているかに注目してください。])
これはわたしたちにどんな確信を与えますか。(ローマ 8:32,38,39)
しかし,わたしたちには何が求められますか。(創世 22:18。ヨハネ 3:36)
(2)聖書はイエスがモーセのような預言者であることを明らかに示して,どんな重大な責任をわたしたちに思い起こさせていますか。(使徒 3:22,23。申命 18:15-19)
イエスはわたしたちにどんな事を話されましたか。その幾つかを挙げてください。それはなぜ今,時宜を得たことと言えますか。(マタイ 28:18-20; 19:4-9; 18:3-6)
(3)聖書はアロンの祭司職によって予表されていた事柄を述べる際,大祭司としてのイエスのどんな魅力的な特質に注意を引いていますか。(ヘブライ 4:15-5:3; 7:26-28)
それで,わたしたちは自分の弱点を克服する助けを求めて,キリストを通して祈りの中で神に近づくことについてどう感じるべきでしょうか。
(4)(モーセの律法のもとでささげられたすべての犠牲に取って代わる)イエスの犠牲が勝っていることを考えると,何であれ,神の不興を買うものであることを知っていながら,それを習慣的に行なうようになるのを避けるため,なぜ十分注意すべきですか。(ヘブライ 10:26,27)
イエスの犠牲がささげられた結果,可能になった命の希望を本当に正しく認識しているなら,わたしたちはどんな事を勤勉に行なうようになるはずですか。(ヘブライ 10:19-25)
どうすればキリストに対する自分の信仰を表わせますか
9 イエス・キリストを別にしてはわたしたちに救いはありません。それはなぜですか。
9 ペテロはエルサレムのユダヤ人の高等法院に対して,預言がどのようにイエスのうちに成就したかを指摘した後,「ほかのだれにも救いはありません。人々の間に与えられ,わたしたちがそれによって救いを得るべき名は,天の下にほかにないからです」と,力強く結論を述べました。(使徒 4:11,12。詩編 118:22)アダムの子孫はすべて罪人ですから,その死は有罪宣告として臨むもので,それにはだれかのための贖いとして適用できる価値はありません。しかし,イエスは完全でしたから,その命を捨てることには犠牲としての価値がありました。(詩編 49:6-9。ヘブライ 2:9)イエスは,アダムがその子孫のために失ったものと価値の点で正確に対応する贖いを神にささげられました。それはどのようにわたしたちに益をもたらしていますか。―テモテ第一 2:5,6。
10 イエスの犠牲がわたしたちに大きな益をもたらした一つの方法を説明しなさい。
10 そのおかげで罪を許していただけるゆえに,わたしたちは清い良心を抱くことができるようになりました。これはモーセの律法のもとで動物の犠牲によってイスラエルのためにかつて成し遂げられたことよりもはるかに優れた事柄です。(使徒 13:38,39。ヘブライ 9:13,14)もちろん,そのためには,わたしたちは自分自身に関して正直でなければならず,イエス・キリストに対する純粋の信仰を持っていなければなりません。わたしたちは個人として,自分がキリストの犠牲をどれほど必要としているかを正しく認識しているでしょうか。「『自分には罪がない』と述べるなら,わたしたちは自分を惑わしているのであり,真理はわたしたちのうちにありません。わたしたちが自分の罪を告白するなら,神は忠実で義なる方ですから,わたしたちの罪を許し,わたしたちをすべての不義から清めてくださいます」― ヨハネ第一 1:8,9。
11 水による浸礼は神に対する正しい良心を得る点でなぜ重要な要素と言えますか。
11 もちろん,中には,自分が罪人であることを知っていると言い,キリストを信じていると公言し,またイエスが行なわれたように神の王国について他の人々に告げる業にさえある程度参加しますが,それでもイエスを全面的に信ずるまでには至っていない人がいます。どんな点でそう言えますか。聖書に示されているように,1世紀の人々は本当の意味で信者となった時,そのことをどのように公に表明しましたか。それらの人たちはバプテスマを受けました。それはなぜですか。なぜなら,弟子たちはバプテスマを受けるよう,イエスが命じておられたからです。(マタイ 28:19,20。使徒 8:12; 18:8)エホバがイエス・キリストを通して設けられた愛ある備えによって本当に心を動かされる人は,しりごみしたりはしません。その人は生活の面で何でも必要な調整を行ない,神に献身し,水の浸礼によってその献身を象徴します。聖書が示すように,このようにして信仰を表明することにより,「神に対して正しい良心を願い求める」のです。―ペテロ第一 3:21。
12 もし自分がある罪を犯したことに気づいたなら,どうすべきですか。それはなぜですか。
12 もちろん,その後でさえ罪深い性質が表われるものです。では,どうなりますか。使徒ヨハネは,「わたしがこれらのことを書いているのは,あなた方が罪を犯すことのないためです」と述べました。ですから,行動や話し方あるいは態度のいずれに表われるにしても,自分自身のうちにある罪を簡単に見逃すべきではありません。「それでも,もしだれかが罪を犯すことがあっても,わたしたちには父のもとに助け手,すなわち義なる方イエス・キリストがおられます。そして彼はわたしたちの罪のためのなだめの犠牲です。ただし,わたしたちの罪のためだけではなく,全世界の罪のためでもあります」。(ヨハネ第一 2:1,2)これは,わたしたちが何をしようとも,『わたしたちの罪をお許しください』と神に祈れば,万事大丈夫だという意味ですか。そうではありません。許しを得るためのかぎは真実の悔い改めです。また,クリスチャン会衆の長老たちからの助けも必要でしょう。わたしたちは行なわれた事柄の間違いを認め,それを繰り返さないよう真剣に努力するために,悪行に対して誠実な後悔の念を抱かなければなりません。(使徒 3:19。ヤコブ 5:13-16)そうするなら,確かにわたしたちはイエスに助けていただくことができます。罪を贖うその犠牲の価値に対するわたしたちの信仰に基づいて,エホバの恵みを受ける立場に立ち返ることは可能です。わたしたちの崇拝がエホバに受け入れられるには,これは肝要なことです。
13 (イ)イエスの犠牲がわたしたちに益をもたらしたもう一つの方法を説明しなさい。(ロ)神に対するわたしたちの奉仕は,なぜこの報いを勝ち得るものとはなりませんか。(ハ)しかし,もしわたしたちが本当に信仰を持っているなら,わたしたちは何を行なうことになりますか。
13 さらに,イエスの犠牲によってとこしえの命を受ける機会がわたしたちのために開かれました。つまり,「小さな群れ」は天で,また人類の中のもっと多くの何十億もの人は地上の楽園でそれにあずかるのです。(ルカ 12:32。啓示 20:11,12; 21:3,4)これは自分の力で勝ち取る報いではありません。たとえエホバへの奉仕においてどんなに多くのことをしたとしても,わたしたちは決して,わたしたちに命を与える義務を神に負わせるような業績を築けるものではありません。とこしえの命は『わたしたちの主キリスト・イエスによる神の賜物』です。(ローマ 6:23。エフェソス 2:8-10)それでも,もしわたしたちがその賜物に対する信仰と,それが可能にされた方法に対する深い認識を抱いているなら,わたしたちはそのことをはっきりと表わします。エホバがご自分の意志を成し遂げる上でいかに驚嘆すべき仕方でイエスをお用いになられたか,またわたしたちすべてがイエスの足跡にしっかり従うことがいかに肝要なことかをはっきり理解すると,わたしたちはクリスチャンの奉仕の務めを生活の中で最も重要な事柄の一つにします。わたしたちの信仰は,神のこの比類のない賜物について他の人々に告げる際の確信となってはっきり表われるでしょう。―使徒 20:24と比べてください。
14 イエス・キリストに対するこのような信仰には一致をもたらすどのような効果がありますか。
14 このような信仰には一致をもたらす何と優れた効果があるのでしょう。わたしたちはそれによって,エホバに,そしてそのみ子に,またクリスチャン会衆内でもお互いに密接に引き寄せられます。(ヨハネ第一 3:23,24)その信仰に動かされて,わたしたちは,エホバが親切にもそのみ子に「他の[神の名以外の]あらゆる名に勝る名」をお与えになられたことを歓ぶのです。「それは,天にあるもの,地にあるもの,地の下にあるもののすべてのひざがイエスの名によってかがみ,すべての舌が,イエス・キリストは主であると公に認めて,父なる神に栄光を帰するためでした」― フィリピ 2:9-11。
復習のための討議
● メシアが現われた時,神のみ言葉を本当に信じた人たちにとってメシアの実体はどうして明らかでしたか。
● 34ページに描かれているように,イエスのうちに成就した預言的なひな型は,わたしたちにどのように影響を及ぼしますか。
● イエスの犠牲はどのような仕方で既にわたしたちに益をもたらしましたか。わたしたちはどうすれば,その犠牲に対する感謝の念を表わせますか。
[34ページの囲み記事/図版]
イエスに関する預言的なひな型 ― それはどのようにあなたに影響を及ぼしますか
イサクをささげるアブラハム
神の代弁者であったモーセ
大祭司であったアロン
動物の犠牲
-
-
エホバの崇拝者たちが享受する自由唯一まことの神の崇拝において結ばれる
-
-
5章
エホバの崇拝者たちが享受する自由
1,2 (イ)神は最初の人間夫婦にどんな自由をお与えになりましたか。(ロ)その二人の活動を支配した律法の幾つかについて述べなさい。
エホバが最初の人間夫婦を創造された時,その二人は今日の人間が持っているものよりもはるかに優れた自由を享受しました。その二人の住みかは楽園でした。二人の生活の喜びを損なう病気はありませんでした。死が二人を待ち受けていたわけでもありません。しかし,神の律法に対する敬意は,二人がそのような自由を引き続き保つ上で一つの重要な要素となっていました。
2 その律法の幾つかは言葉をもって述べられてはいなかったかもしれませんが,アダムとエバはごく自然にそれに従うことができるように造られていました。ですから,食欲は食べる必要のあることを知らせましたし,のどが渇くと飲む必要のあることが分かりました。日没は必要な休息と睡眠を取るよう二人を促しました。エホバはまた,その二人に話しかけ,二人に仕事の割り当てをお与えになりました。実際,その割り当ては一種の律法でした。というのは,それは二人の行動を支配するものとなったからです。しかし,それは何と思いやりのある,有益な律法だったのでしょう。その結果,二人は十分に満足のゆく仕事を与えられ,自分たちの能力を健全な仕方で存分に行使することができました。二人は子供たちを生み,この地の動物を治め,徐々に楽園の境界を広げ,ついにはそれが地球全体に及ぶことになっていました。(創世 1:28; 2:15)神はその二人に重荷となる不必要な細かい事柄を課されませんでした。二人が決定を行なえる十分の余地が与えられていました。それ以上のどんなことを人間は求めることができたでしょう。
3 アダムは決定を行なう自由を賢明に行使するようどのように助けられたと考えられますか。
3 もちろん,アダムは決定を行なう特権を与えられたといっても,それは何らかの決定をする際,どんな決定をしても良い結果がもたらされるという意味ではありませんでした。決定を行なえるその自由には当然責任が含まれていました。アダムは天のみ父の言われることを聴き,その業を観察することによって物事を学ぶことができましたし,神はアダムに理知を付与されたので彼は学んだ事柄を適用することができました。アダムは「神の像に」創造されたので,その自然な傾向として,決定をする際,敬虔な特質を反映することになっていました。アダムは神がしてくださったことを本当に正しく認識し,神を喜ばせたいと願ったのであれば,確かに注意してそうしたはずです。―創世 1:26,27。ヨハネ 8:29と比べてください。
4 (イ)アダムに与えられた制限的な命令は自由を奪いましたか。(ロ)それはどうして適切な要求でしたか。
4 人間がその創造者で,命の授与者であられるエホバに依存していることを思い起こさせるものとして,エホバは次のような命令をアダムに課されました。「園のすべての木から,あなたは満ち足りるまで食べてよい。しかし,善悪の知識の木については,あなたはそれから食べてはならない。それから食べる日にあなたは必ず死ぬからである」。(創世 2:16,17)この律法は人間から自由を奪いましたか。決してそうではありませんでした。アダムは従うことも背くことも自由でした。その禁令は重荷を課するものではありませんでした。その一本の木に触らなくても食べる物はたくさんありました。しかし,アダムにとって自分がその上で生活した地球が神のものであり,また神は創造者としてその創造物の正当な支配者であることを認めるのはふさわしいというほかありませんでした。―詩編 24:1,10。
5 (イ)アダムとエバはかつて持っていた輝かしい自由をどのようにして失いましたか。(ロ)何がそれに取って代わりましたか。わたしたちはどのように影響を受けてきましたか。
5 しかし,何が起きましたか。利己的な野望に促されて行動したひとりのみ使いが,真実の手引きを装ってエバを欺き,神の意志に反する事柄を行なうよう彼女を納得させました。アダムはみ父に従うどころか,エバと違犯を共にしました。アダムとエバは自分たちのものではないあるものをつかもうとして,二人が持っていた輝かしい自由を失いました。そして,罪がその二人の主人となり,神が警告しておられたように,確かに死が彼らを待ち受けることになりました。その結果,二人の子孫は何を受け継ぐことになりましたか。それは悪行に走る先天的な傾向や,人を病気にかかりやすくしている弱さや,老化を起こしてやがては衰退してゆく状態などにはっきりと認められる罪です。同時に死も受け継ぎました。悪行に走るこの受け継がれた傾向がサタンの影響によって一層悪化し,だれにとっても命が不確かなものとなった社会を生み出しました。神が最初に人間にお与えになった自由と比べて何という違い方でしょう。―ローマ 5:12。ヨブ 14:1。啓示 12:9。
自由を見いだせるところ
6 (イ)本当の自由はどこに見いだせますか。(ロ)イエスはヨハネ 8章31,32節でどんな自由について語っておられましたか。
6 今日の状態から見れば,人々が自分たちの持っているものよりも一層大きな自由を切望しても驚くには当たりません。しかし,真の自由はどこで見いだせますか。イエス・キリストは言われました。「わたしの言葉のうちにとどまっているなら,あなた方はほんとうにわたしの弟子であり,また,真理を知り,真理はあなた方を自由にするでしょう」。(ヨハネ 8:31,32)この自由は,人々がある政治支配者あるいはある形態の政府を退けて別のほうを選ぶ際に望むような限られた自由ではありません。それどころか,それは人間の諸問題の核心に迫るものです。イエスが論じておられたのは罪,つまり罪への隷従からの自由だったのです。(ヨハネ 8:24,34-36をご覧ください。)ですから,もし人がイエス・キリストの真の弟子となるなら,その人の生活は著しい変化を遂げる,つまり解放がもたらされることになります。
7 (イ)では,わたしたちはどんな意味で今罪から自由になれますか。(ロ)そのような自由を得るためには,何をしなければなりませんか。
7 しかしこれは,現在真のクリスチャンが罪深い行為に走る先天的な傾向の影響をもはや感じないという意味ではありません。それどころか,クリスチャンにはそのような傾向のゆえに苦闘があります。(ローマ 7:21-25)しかし,もし本当にイエスの教えに従って生活するなら,もはや罪の惨めな奴隷になることはありません。そのような人にとって罪はもはや服従を命ずる王のようなものとはなりません。目的のない,また良心をかき乱されたままにする生き方にもはや陥ることはありません。キリストの犠牲に対する信仰に基づいて過去の罪は許されるゆえに,神のみ前で清い良心を享受するのです。罪深い傾向は表われようとすることがあるかもしれませんが,キリストの清い教えを思い起こすゆえに,そのような傾向にしたがって行動しないようにすれば,罪が自分の主人ではないことを示せるでしょう。―ローマ 6:12-17。
8 (イ)真のキリスト教はさらにどんな自由をわたしたちに与えますか。(ロ)これは一般の支配者に対するわたしたちの態度にどう影響しますか。
8 クリスチャンであるわたしたちは大きな自由を享受しています。わたしたちは偽りの教えの影響,迷信の束縛,罪への隷属から解放されました。死者の状態や復活に関するすばらしい真理は,良心の働きを抑えさせる,横死に対する不当な恐れからわたしたちを自由にしました。不完全な人間の諸政府が神の義の王国に取って代わられることを知ったおかげで,わたしたちは絶望から自由にされています。しかし,このような自由があっても,古い体制は間もなく過ぎ去るのだから法律を無視しても,政府の役人に敬意を示さなくてもよいということにはなりません。―ペテロ第一 2:16,17。テトス 3:1,2。
9 (イ)人間が今行使できる自由を最大限に享受するようエホバはどのように愛の気持ちからわたしたちを助けておられますか。(ロ)決定を下す際,アダムが自由を乱用したために生じた結果を自分がはっきり理解していることを,わたしたちはどのように示せますか。
9 エホバは,わたしたちが試行錯誤によってどれが最善の生き方かを見分けようとするままに放置なさることはありません。わたしたちがどのように造られているか,何がわたしたちに純粋の満足や自尊心をもたらすか,何がわたしたちにとって永続する最も有意義なものかをエホバはご存じです。また,ご自分の目的を遂行する予定の時をご存じですから,わたしたちが携わるのに最も価値のある活動をもご存じです。同様に,人の品性を下げたり,他の人との関係を損なったり,神の王国の祝福にもあずかれないようにする考え方や行状についても知っておられます。そして愛の気持ちから,聖書を通して,またご自分の見える組織によってわたしたちにそれらの事柄を知らせておられます。(ガラテア 5:19-23。マルコ 13:10。テモテ第一 1:12,13と比べてください。)ですから,わたしたちがどのように答え応じるかを決めるのは,神から与えられた自由意志を行使するわたしたち次第です。アダムが人間に与えられた自由を最初どのように失ったかについて聖書が述べる事柄を心に銘記しているなら,わたしたちは賢明な仕方でそのような決定を下せるでしょう。そうすれば,エホバとの良い関係が生活の中でわたしたちの主要な関心事であることを示せるでしょう。
別の種類の自由を渇望する
10 クリスチャンであると唱える人たちの中には,どんな自由を得ようと努める人がいますか。
10 エホバの証人として育てられた若い人たちや,それほど若くない他の人たちの中には,時々,別の種類の自由が欲しいと考えるようになる人がいます。この世は魅惑的に見えることがあるので,それについて考えれば考えるほど,世の人々がしていることをしたいという欲望は一層強くなります。麻薬で酔ったり,飲み過ぎたり,あるいは淫行を犯したりするつもりはないかもしれません。しかし,放課後や勤務時間の後,この世の仲間と一緒に時間を過ごすようになるかもしれません。もちろん,それら新しい仲間に受け入れてもらいたいと思うので,そのような人の話し方や行状を見倣うようになるのです。―ヨハネ第三 11。
11 時には,そうさせようとする誘惑がどこから来る場合がありますか。
11 時には,エホバに仕えていると唱えるほかの人から,この世的な行ないにふけるよう誘われる場合があります。サタンがエバをたぶらかし,次いでエバが自分に加わるようアダムを促した時にエデンで生じたのもこの事でした。初期クリスチャンの間でもやはりそのとおりでしたし,今日でもそれと同じことが生じます。そのような人たちは大抵刺激的なことを好み,強烈な楽しみをもたらすものを渇望します。そして,「大いに楽しく遊ぶ」よう他の人々を促します。『人に自由を約束しながら,彼ら自身は腐敗の奴隷なのです』― ペテロ第二 2:18,19。
12 (イ)この世的な行ないはどんな悲惨な結果を招きますか。(ロ)それに陥る人たちが結果を知っているのなら,どうしてそのようなことをあえてするのでしょうか。
12 その実は気持ちのよいものではありません。不義の性関係は感情面の混乱をもたらします。また,病気,望まれない妊娠,もしかすると結婚関係の破綻を招くかもしれません。(箴言 6:32-35。コリント第一 6:18。テサロニケ第一 4:3-8)麻薬を乱用すると,過敏症になったり,話し方が不明瞭になったり,視野がぼやけたり,目まいを起こしたり,呼吸能力が損なわれたり,幻覚症状を起こしたり,死ぬ恐れもあります。(箴言 23:29-35と比べてください。)麻薬には中毒にかかる恐れがあり,中毒にかかると,その常用癖に負けて犯罪に走る場合があります。そのような行ないに巻き込まれる人たちは普通,その結果どうなるかを知っています。しかし,刺激的なことや肉体的快楽を渇望するため,結果を考えようとはしなくなるのです。それが自由だと自分には言い聞かせますが,気がついた時には手遅れで,罪の奴隷となっているのです。罪は何と残忍な主人なのでしょう。問題について今推論すれば,そのような経験をしないですむよう身を守る助けが得られます。―ガラテア 6:7,8。
問題の始まるところ
13 (イ)そのような問題を招く欲望は,多くの場合どのように引き起こされますか。(ロ)「悪い交わり」とは何かを理解するには,だれの見方を知る必要がありますか。(ハ)この節の終わりに挙げられている質問に答える際,エホバの見方を強調してください。一度にただ一つの質問について注解してください。
13 ちょっと立ち止まって,それらの問題が多くの場合どこから始まるかについて考えてみてください。聖書はこう説明しています。「おのおの自分の欲望に引き出されて誘われることにより試練を受けるのです。次いで欲望は,はらんだときに,罪を産みます。そして罪は,遂げられたときに,死を生み出すのです」。(ヤコブ 1:14,15)それにしても,そのような欲望はどのようにして引き起こされるのですか。それは思いに入り込む事柄によるのです。多くの場合,それは聖書の原則を当てはめない人々と交わる結果生じます。もちろん,わたしたちは皆,「悪い交わり」を避けるべきであることを知っています。しかし,問題なのはどんな交わりが悪いかということです。エホバはこの問題をどのように見ておられますか。次のような質問や聖句に基づいて推論すれば,正しい結論に達するよう助けられるでしょう。
ある人々が高潔な人のように見えるということは,そのような人は良い友になれるという意味ですか。(創世記 34:1,2,18,19と比べてください。)
それらの人の会話,もしかするとその冗談は,そのような人と親しく付き合うことがふさわしいかどうかを示す場合がありますか。(エフェソス 5:3,4)
もしそのような人が神の目的に関してわたしたちが信じているのと同じことを信じていないなら,わたしたちが気にかけるべき何らかの理由がありますか。(コリント第一 15:12,32,33と比べてください。)
もしわたしたちがエホバを愛さない人々との交わりを望むとしたら,エホバはどう感じられるでしょうか。(歴代第二 19:1,2と比べてください。)
不信者と一緒に働いたり,あるいは学校で勉強したりする場合でも,どうすればそのような人を仲間として選んでいるのではないことを示せますか。(ペテロ第一 4:3,4)
テレビを見たり,本や雑誌や新聞を読んだりすることも他の人々と交わる方法です。近ごろは,そのようなところから得られるどんな種類の資料に対して特に警戒する必要がありますか。(箴言 3:31。イザヤ 8:19。エフェソス 4:17-19)
わたしたちの仲間の選び方は自分の本性についてエホバに何を語るものとなりますか。(詩編 26:1,4,5; 97:10)
14 神のみ言葉の助言を今,忠実に適用する人たちには,どんなすばらしい自由が前途に控えていますか。
14 わたしたちは間近な前途に神の新秩序を控えています。神の王国によって人類は,サタンとその邪悪な事物の全体制の,人をとりこにする影響力から自由にされるでしょう。やがて,罪のあらゆる結果が人類から除き去られます。楽園におけるとこしえの命が彼らの前途に控えています。創造物はすべて,ついには「エホバの霊」と完全に調和した自由を享受することになります。(コリント第二 3:17)神のみ言葉の助言を今軽く扱うゆえに,そのすべてを失う危険を冒すのは道理にかなったことでしょうか。今日,キリスト教の自由を行使する仕方によって,自分が本当に望んでいるのは「神の子供の栄光ある自由」であることを,わたしたちすべてがはっきり示せますように。―ローマ 8:21。
復習のための討議
● 最初の人間夫婦はどんな自由を享受しましたか。それは,人間が今経験しているものとどのように比べられますか。
● この世とは対照的に,真のクリスチャンはどんな自由を持っていますか。どうしてそのような自由を持つことができるのですか。
● 世の人々の持っているような自由を求める人たちは,どんな代償を払うことになりますか。
● 「悪い交わり」を避けるのはなぜそれほど重要なことですか。何が悪いことかに関し,わたしたちはアダムとは異なり,だれの決定を受け入れますか。
-
-
全創造物が直面しなければならない論争唯一まことの神の崇拝において結ばれる
-
-
6章
全創造物が直面しなければならない論争
1 (イ)サタンはエデンでどんな論争を引き起こしましたか。(ロ)サタンの述べたことはどのようにその論争を暗に示していますか。
エデンで反逆が起きた時,全創造物に影響を及ぼす重大な論争が引き起こされました。エバに近づいたサタンは,彼女とその夫アダムが重大なものを奪われているのだとほのめかしました。そして,こう尋ねました。「あなた方は園のすべての木からは食べてはならない,と神が言われたのは本当ですか」。エバは,ただ一本の木に関して神が次のように言われたと答えました。「あなた方はそれから食べてはならない。いや,それに触れてもならない。あなた方が死ぬことのないためだ」。そこでサタンは,エバの命もアダムのそれも神への従順に依存しているわけではないと言って,うそをついて直接エホバを非難しました。つまり,神は被造物からある良いものを差し控えておられる,すなわち生活の中で自分自身の規準を設ける能力を行使させないようにしておられると主張しました。「あなた方は決して死ぬようなことはありません。その木から食べる日には,あなた方の目が必ず開け,あなた方が必ず神のようになって善悪を知るようになることを,神は知っているのです」と,サタンは断言しました。(創世 3:1-5)サタンはエバに,自分自身で決定をするほうが物事が良く運ぶということを信じ込ませました。ここでサタンは物事を支配する神の権利とその支配の仕方にそれとなく挑戦したのです。実際,引き起こされたこの論争には宇宙主権が関係していました。
2 最初の人間夫婦はどうすれば身を守ることができたでしょうか。
2 エホバに対する愛があれば,エバは自らを守ることができたはずです。また,夫の頭の権に対する敬意があれば,悪行を思いとどまることができたはずです。しかし,彼女はただ当面の益と思える事柄だけを考えました。禁じられたものが彼女の目には望ましいものとなりました。彼女はサタンの論法に完全に欺かれ,神の律法を破りました。次いで,彼女はアダムを巻き込みました。サタンのうそで欺かれたわけではありませんが,アダムもまた,神の愛に対する正しい認識の甚だしい欠如を表わしました。そして,エホバの頭の権を度外視し,反抗的な妻に加わって進退を共にすることに決めました。―創世 3:6。テモテ第一 2:13,14。
3 (イ)さらに,エホバの主権に対するサタンの攻撃に密接な関係があるのはどんな争点ですか。(ロ)だれがその影響を受けますか。
3 エホバの主権に対するサタンの攻撃はエデンで生じた事柄をもって終わったわけではありません。エデンで一見成功を収めたかに見えたため,サタンはエホバに対する他の者たちの忠節に異議を唱えるようになりました。それで,これが密接な関連のある第二の争点となりました。サタンの挑戦はアダムの子孫と神の霊の子たちすべての双方,それにエホバの深く愛された初子をさえ包含するほどになりました。ヨブの時代にサタンは,エホバに仕える者は神とその支配の仕方を愛するからではなく,利己的な理由で仕えるのであると主張しました。そして,苦しい目に遭わされるなら,みな利己的な欲望に屈してしまうと論じました。サタンの言うとおりでしたか。―ヨブ 1:6-12; 2:1-6。啓示 12:10。
彼らはこの論争にどのように応じたか
4 なぜ多くの人間はエホバの主権を擁護しませんでしたか。
4 エホバは他の者がサタンと一緒に反逆に加わる可能性があることを認めておられました。事実,神はエデンで裁きを述べた時,『蛇の胤』を構成する者たちに言及されました。(創世 3:15)その中には,イエスの死を謀ったパリサイ人や,キリストを裏切ったユダ・イスカリオテがいます。彼らは単にそれとは知らずにある誤った歩みをしたのではありません。何が正しいかを知りながら,故意にエホバとその僕たちに反対する立場を取ったのです。しかし,エホバの要求に従わなかった数知れない他の者たちは,無知のままそのように行なってきました。―使徒 17:29,30。
5 (イ)エバと違って,エホバに忠節を示した人々は神の言葉をどのように見ましたか。(ロ)ノアはどのように忠節を実証しましたか。わたしたちはどうすればその模範から益を受けることができますか。
5 そのような人々すべてと著しく異なっていたのは,自分たちの創造者についてよく知り,主権者であられる神に対する忠節を実証した,信仰のある男女でした。それらの人たちは神を信じていました。また,神の言われることを聴き,神に従うことに自分たちの命が依存していることを知っていました。ノアはそのような人でした。ですから,神がノアに,「すべての肉なるものの終わりがわたしの前に到来した。……あなた自身のために……箱船を造りなさい」と言われた時,ノアはエホバの指図に服従しました。その時代の他の人々は警告を受けたにもかかわらず,あたかも異常なことは何も起きないかのように,普通の決まりきった生活をしていました。しかしノアは巨大な箱船を建造し,エホバの義の道について他の人々に忙しく宣べ伝えました。「ノアはすべて神から命じられたとおりにしていった。まさにそのとおりに行なった」と,記録が述べるとおりです。―創世 6:13-22。ヘブライ 11:7およびペテロ第二 2:5もご覧ください。
6 (イ)ほかにどんなことが忠誠を守った人たちを特徴づけていますか。(ロ)サラはどのようにそれらの特質を表わしましたか。わたしたちはどんな点でその模範から益を受けることができますか。
6 また,忠誠を守った人々のうちに顕著に見られるのは,頭の権の原則に対する深い敬意と共にエホバに対する個人的な愛です。それらの人は夫に聞かずに先走ったエバのようではありません。また,エホバの律法を無視したアダムのようでもありません。アブラハムの妻サラはそのような優れた特質を明らかに示しました。アブラハムは彼女の言葉だけでなく,その心の中でも彼女の「主」でした。その上,彼女はエホバを個人的に愛していた信仰の婦人でした。サラはアブラハムと共に,「真の土台を持つ都市[神の王国]を待ち望んでいたのです。その都市の建設者また造り主は神です」。―ペテロ第一 3:5,6。ヘブライ 11:10-16。
7 (イ)モーセはどんな状況のもとでエホバの主権を擁護しましたか。(ロ)わたしたちはこの模範からどのように益を受けることができますか。
7 アブラハムが故国を去ってから約430年の後,モーセはエジプトのファラオと面と向かって対決した際,エホバの主権を擁護しました。それはモーセが自信過剰だったからではありません。それどころか,モーセは十分上手に話すことができないと思っていました。しかし,彼はエホバに従いました。エホバの後押しと兄弟アロンの助けを得たモーセは,エホバの言葉を繰り返しファラオに伝えました。ファラオは強情でした。イスラエルの子らの中には,モーセのことを厳しく批判する人さえいました。しかし,モーセはエホバから命ぜられたことをことごとく忠節に行なったので,イスラエルはモーセによってエジプトから救出されました。―出エジプト 7:6; 12:50,51。
8 (イ)エホバに対する忠節には,神が特別に書面で述べておられる事柄を行なう以上のことが関係していますが,何がこのことを示していますか。(ロ)この種の忠節を高く評価するなら,ヨハネ第一 2章15節を当てはめるのにどのように助けとなりますか。
8 エホバに忠節を示した人たちは,要求されているのは律法の条文に従うこと,つまりただ神が書き記させた事柄に従うことだけであるとは考えませんでした。ポテパルの妻が自分と姦淫の関係を持つようヨセフを誘惑した当時,姦淫を明確に禁ずる書き記された神からのおきてはありませんでした。しかし,ヨセフはエホバがエデンで設けられた結婚の取り決めについて自分の知っている事柄に基づいて他人の妻と性関係を持つことは神にとって不快な行為であることに気づいていました。ヨセフは自分がどこまでエジプト人のようになるのを神が許されるのか試してみたいとは思いませんでした。ヨセフは神が人間を扱われた仕方を熟考することによってエホバの道を擁護し,次いで神のご意志として認識できた事柄を良心的に当てはめました。―創世 39:7-12。詩編 77:11,12と比べてください。
9 悪魔はヨブの時代に持ち出した主張に関して偽り者であることがどのように繰り返し証明されましたか。
9 たとえ厳しい試験を受けても,エホバを本当に知っている人たちは,エホバから顔を背けたりはしません。サタンは,ヨブが所有物を失ったり,あるいは身体的に虐待されたりしたなら,エホバから褒られたこの人物でさえ神を見捨てるようになるだろうと主張しました。しかしヨブは,悪魔が偽り者であることを証明しました。しかも,ヨブは我が身を襲っていた災いのすべてがなぜ起きたのかを知らなかったのにそうしたのです。(ヨブ 2:3,9,10)サタンはなおも自分の主張を証明しようとして,後日,激怒したバビロン王を用い,王の立てた一つの像の前で身をかがめてそれを崇拝しないなら,火の燃える炉に入れて殺すと言って三人の若いヘブライ人を脅すことをさせました。王の命令と,偶像礼拝を禁ずるエホバの律法との二者択一を迫られた三人は,自分たちはエホバに仕えており,エホバこそ自分たちの最高主権者であることを確固とした態度で知らせました。彼らにとっては神に対する忠実のほうが命よりも貴重だったのです。―ダニエル 3:14-18。
10 わたしたち不完全な人間はどうすればエホバに対して本当に忠節であることを証明できますか。
10 わたしたちはこのことから,エホバに忠節であるために人は完全でなければならない,つまり一度間違いをした人は完全に落第したのだと結論すべきでしょうか。決してそうではありません! 聖書はモーセがしくじった時のことをはっきりと述べています。エホバは立腹されましたが,モーセを退けたりはされませんでした。使徒たちは多くの点で模範的でしたが,弱点も持っていました。忠節であるためには,終始心から従順でなければなりません。しかし,エホバはわたしたちが不完全さを受け継いでいることを考慮なさるので,どんな点でもわたしたちが故意にそのご意志を無視するのでなければ,喜んでくださいます。もし弱さのゆえに悪行に関係するなら,誠実に悔い改めてそれを習慣にしないようにするのは大切なことです。こうしてわたしたちは,エホバが善いと言われる事柄を本当に愛し,同じく悪いと示される事柄を本当に憎むということを実証します。わたしたちは罪を贖うイエスの犠牲の価値に対する信仰に基づいて,神のみ前で清い立場を享受することができます。―アモス 5:15。使徒 3:19。ヘブライ 9:14。
11 (イ)人間の中でだれが完全な意味での敬虔な専心を保ちましたか。これは何を証明しましたか。(ロ)わたしたちはその方が行なわれた事柄によってどのように助けられますか。
11 それにしても,完全な意味での敬虔な専心を示すことは人間には事実上不可能な事柄なのでしょうか。この問題に対する答えはおよそ4,000年の間一つの「神聖な奥義」でした。(テモテ第一 3:16)アダムは完全な者として創造されましたが,敬虔な専心の完全な模範を示しませんでした。だれか示し得る人がいるでしょうか。確かにその罪深い子孫はだれ一人そうすることができませんでした。イエス・キリストはそうすることができたただ一人の人間でした。イエスが成し遂げられた事柄は,アダムはさらに恵まれた状況のもとにあったので,もしも望むなら,完全な忠誠を保ち得たということを証明しました。神の創造の業には落ち度はありませんでした。ですから,イエス・キリストは,神からの律法に対する従順だけでなく,宇宙主権者であられるエホバに対する個人的な専心を実証する上で努めて見倣うべき模範です。
わたしたちは個人個人どう答えるか
12 わたしたちはなぜエホバの主権に対する自分の態度に関して絶えず警戒していなければなりませんか。
12 今日,わたしたちは各々この宇宙的な論争に直面しなければなりません。これを避けて通ることはできません。もしわたしたちは自分がエホバにくみしていることを言明したのなら,サタンはわたしたちを攻撃目標にします。そして,考えられる,ありとあらゆる方面から圧力を加え,またその邪悪な事物の体制の終わりに至るまで引き続きそうしてゆくでしょう。わたしたちは警戒を緩めてはなりません。(ペテロ第一 5:8)わたしたちの行ないは,この最大の論争に関連して自分がどんな立場を取っているかを示します。
13 (イ)うそを言うことや盗むことの始まりに関するどんな事柄は,わたしたちにそういうことを避けさせるものとなりますか。(ロ)そのような悪行をしたいという気持ちを抱かせる状況に関して,この節の終わりに挙げられている質問を一度に一つずつ取り上げて答えてください。
13 わたしたちは,不忠節な行ないが世の中で普通になっているというだけの理由で,これを重要でない事柄として扱うわけにはゆきません。忠誠を保つためには,生活のあらゆる事柄にエホバの義の道を適用することが求められます。この点を例証するため,次の事柄を考慮してください。
(1)サタンはわたしたちの最初の二親を誘惑して罪に陥れるため偽りを用いました。サタンは「偽りの父」となりました。(ヨハネ 8:44)
若い人たちはどんな状況のもとで親に本当のことを言えない場合がありますか。若いクリスチャンがこのようなことを避けるのはなぜ重要ですか。(箴言 6:16-19)
商取引きのどんな慣行は,それに従う人が真理の神ではなく,「偽りの父」の共鳴者であることを示す恐れがありますか。(ミカ 6:11,12)
自分のことを実際よりも良く印象づけるようなことを言う場合,それはほかの人を傷つけなくても悪いことですか。(詩編 119:163。使徒 5:1-11と比べてください。)
もしだれかが重大な悪行に関係したなら,偽りを言ってそれを覆い隠そうなどとしないのはなぜ重要なことですか。(箴言 28:13)
(2)エバが,次いでアダムが,善悪に関して自分自身で決定をするよう促したサタンの勧めに従ったとき,二人が最初にしたことは,自分たちに属していないものを取ることでした。二人は盗人になりました。
もし,ある人が困っているなら,あるいは物品を取られる人が物をたくさん持っているなら,盗んでもよいということになりますか。(箴言 6:30,31。ペテロ第一 4:15)
わたしたちの住んでいる所でそういうことが普通に行なわれているなら,あるいは取る物がわずかな物であれば,それはさほど異議を唱えるべきことではありませんか。(ローマ 12:2。エフェソス 4:28。ルカ 16:10)
14,15 (イ)キリストの千年統治の終わりに,どんな試験が全人類に臨みますか。(ロ)わたしたちが今行なう事柄は,その時わたしたちに及ぶ結果にどのように影響しますか。
14 キリストの千年統治の期間中,サタンとその悪霊は底知れぬ深みに入れられるので,人間に影響を及ぼすことはできなくなります。それは何とありがたいことでしょう。しかし,その千年の後に,彼らはしばらくの間解き放たれることになります。サタンとこれに従う者たちは,「聖なる者たち」,つまり回復された人類のうちの忠誠を保っている者たちに圧力を加えるでしょう。サタンは,天的な新しいエルサレムである「愛されている都市」によってそのとき地上で確立されている義をぬぐい去ろうとして,その都市に対する戦いの場合のように戦いを進めてゆきます。―啓示 20:7-10。
15 過去の場合のように,サタンが利己心や誇りに訴えると共に,欺まんをろうして,エホバに対し不忠節なことを行なうよう人間を誘惑するのは,大いに考えられることです。もしわたしたちがその時生きているという特権にあずかれるなら,わたしたちは個人的にどのように反応するでしょうか。その宇宙的な論争に関してわたしたちの心はどこにあるでしょうか。その時,人間はみな完全になっていますから,どんな不忠節な行為も故意の行ないであって,それはとこしえの滅びを招くことになります。そのとき忠節であることを示すためには,エホバがそのみ言葉によってであれ,その組織を通してであれ,わたしたちにお与えになるどんな導きにも進んで,また積極的に答え応ずる習慣を今培うのは何と肝要なことでしょう。わたしたちはそのようにして,宇宙主権者であられるエホバにわたしたちの純粋の専心の念を示すのです。
復習のための討議
● 全創造物が直面しなければならない大論争とは何ですか。わたしたちはどのようにしてそれに巻き込まれるようになりましたか。
● 49ページに示されている男女が各々エホバへの忠誠を実証した仕方は,どんな点で際立っていますか。
● エホバを尊んでいることを行ないで表わすよう毎日気をつけるのはなぜ肝要ですか。
[49ページの図版]
彼らはエホバの主権を擁護しました
ノア
サラ
モーセ
ヨセフ
ヨブ
どうすれば彼らの模範から益を受けられますか
-
-
神が悪を許しておられることから学べる事柄唯一まことの神の崇拝において結ばれる
-
-
7章
神が悪を許しておられることから学べる事柄
1 (イ)もしエホバがエデンで反逆した者たちを速やかに処刑されたなら,それはわたしたちにどんな影響をもたらしたでしょうか。(ロ)そうする代わりに,エホバはわたしたちのために愛あるどんな備えを設けられましたか。
わたしたちの生活には困難な事柄が起こる場合もありますが,それでもわたしたちが生まれたことに関して神には不正な点は何もありません。神は最初の人間に完全性を付与され,その住みかとして楽園をお与えになりました。二人が反逆した後,もし神が直ちに二人を処刑されたなら,病気や貧困や犯罪を伴う周知の人類などは存在しなかったでしょう。しかしながら,エホバは憐れみ深くもアダムとエバが死ぬ前に子供をもうけることを許されました。とはいえ,その子供は不完全さを受け継ぐことになりました。神はアダムの子孫の中の信仰を働かせる人たちがアダムの失ったもの,すなわち生活を心ゆくまで楽しめる環境のもとで享受するとこしえの命を得る備えをキリストを通して設けてくださいました。―申命 32:4,5。ヨハネ 10:10。
2 このすべてはただわたしたちの救いのためにのみなされたのですか。
2 わたしたち個人個人に及ぶその恩恵は計り知れないものがあります。しかし,聖書の記録を調べると,わたしたちの個人的な救いよりもはるかに重大な事柄が関係していたことが分かります。
神の偉大なみ名のために
3 地と人類に対するエホバの目的の成就に関連して何が問題となっていましたか。
3 地と人類に対する神の目的の成就には,エホバのみ名,すなわち宇宙主権者および真理の神としての名声が関係していました。エホバの地位ゆえに,全宇宙の平和と福利を保つには,そのみ名が当然受けるに値する最高の敬意を受け,すべての者がエホバに従順であることが必要です。
4 厳密に言って,その目的には何が含まれていましたか。
4 アダムとエバを創造した後,神は二人に成し遂げるべき割り当てをお与えになりました。そして,全地を従わせて,楽園の境界を広げるにとどまらず,最初の男女,アダムとエバの子孫を地に住まわせるのが神の目的であったことを明らかにされました。(創世 1:28)この目的は二人が罪を犯したために果たされずに終わって,神のみ名に恥辱をもたらすことになりましたか。
5 (イ)創世記 2章17節によれば,だれでも善悪の知識の木から取って食べたなら,いつ死ぬことになりましたか。(ロ)エホバは地に人を住まわせることに関するご自分の目的を尊重すると共に,どのようにその定めを履行されましたか。
5 エホバはアダムに,もし彼が不従順にも善悪の知識の木から取って食べるなら,食べる「日に」必ず死ぬであろうと警告しておられました。(創世 2:17)神の言葉にたがわず,実際,アダムが罪を犯したその日にエホバはその違犯者たちの責任を問い,死の宣告を下されました。その処罰は免れ得ないものでした。司法上,神の見地からは,アダムとエバはその日に死にました。(ルカ 20:37,38と比べてください。)しかしエホバは,地に人を住まわせることに関する明言されたご自分の目的を成し遂げるため,その二人が実際に死ぬ以前に子供を生み出すのを許されました。それにしても,1,000年を1日のようにみなす神の見地からすれば,アダムの命が930年で終わった時,それは1「日」以内のことでした。(創世 5:3-5。詩編 90:4; ペテロ第二 3:8と比べてください。)このようにして,処罰が執行される時に関するエホバの真実さは擁護され,アダムの子孫を地に住まわせるというご自分の目的もくじかれずにすみました。しかしそのために,しばらくの間,罪深い人々が生きるのを許されることになりました。
6,7 (イ)出エジプト記 9章15,16節は,邪悪な者がしばらくのあいだ存続するのをエホバが許しておられる理由について何を示していますか。(ロ)ファラオの場合,エホバの力はどのように示され,そのみ名はどのように知らされましたか。(ハ)それで,現在の邪悪な体制が終わる時,結果はどうなりますか。
6 エホバがモーセの時代にエジプトの支配者に述べたことは,邪悪な者たちがしばらくのあいだ存続するのを神がお許しになった理由をさらに示しています。イスラエルの子らがエジプトから出て行くのをファラオが禁じた時,エホバは直ちにファラオを打ち倒されたりはされませんでした。その地には十の災厄が下され,驚嘆すべき多彩な仕方でエホバの力が表明されました。第七番目の災厄について警告がなされた時,エホバはファラオとその民を地からぬぐい去ろうと思えば容易にそうすることもできたということをファラオに告げました。エホバは,「だが,実際には,この目的のためにあなたを存在させておいた。すなわち,あなたにわたしの力を見させるため,こうしてわたしの名を全地に宣明させるためである」と言われました。―出エジプト 9:15,16。
7 エホバがイスラエルを救出された時,そのみ名は確かに広く知られるようになりました。およそ3,500年後の今日,エホバがかつて行なわれた事柄は忘れ去られてはいません。エホバというご自身のみ名が宣明されただけでなく,その名を有しておられる方に関する真理も宣明されました。そのために,ご自分の契約を守り,その僕たちのために行動を起こされる神としてのエホバの名声が確立されました。その全能の力ゆえに何者も神の目的をはばみ得ないことが証明されました。見えると見えざるとを問わず,邪悪な体制全体の迫り来る滅びはなおいっそう印象的なものとなるでしょう。全能の力のその表明と,それがエホバのみ名にもたらす栄光とは,宇宙史上決して忘れられないものとなるでしょう。その益は果てしなく続くでしょう!―エゼキエル 38:23。啓示 19:1,2。
『ああ,神の知恵の深さよ』
8 神の公正に関して,パウロはさらにほかのどんな要素を考慮するよう勧めていますか。
8 使徒パウロはローマ人にあてた手紙の中で,「神に不正があるのですか」という疑問を提起しています。それから,彼は神の憐れみを強調し,エホバがファラオに言われたことに言及して答えています。パウロはまた,わたしたち人間が陶器師の手の内にある粘土のようなものであるという事実を思い起こさせています。その粘土は自分に定められた用途について不平を言いますか。パウロはこう付け加えています。「そこで,もし神が,ご自分の憤りを表明し,かつご自分の力を知らせようとの意志を持ちながらも,滅びのために整えられた憤りの器を,多大の辛抱強さをもって忍び,それによって憐れみの器に対するご自分の栄光の富を知らせようとされたのであれば,どうなのでしょうか。その憐れみの器とは神が栄光のためにあらかじめ備えられたもの,すなわちわたしたちであり,ユダヤ人だけでなく,諸国民の中からも召されているのです」― ローマ 9:14-24。
9 (イ)「滅びのために整えられた憤りの器」とはだれのことですか。(ロ)エホバは彼らの示す敵意にもめげず,なぜ大いなる辛抱強さを示されましたか。最終結果はどのようにエホバを愛する人たちのためになりますか。
9 エホバが創世記 3章15節に記録されている預言的な声明を行なって以来ずっと,サタンとその胤は,「滅びのために整えられた憤りの器」となってきました。この間ずっと,エホバは辛抱強さを働かせてこられました。邪悪な者たちはエホバの道を嘲笑し,その僕たちを迫害して,そのみ子をさえ殺しました。しかし,エホバは大いなる抑制力を示されて,その僕たちに永続する益をもたらされました。創造物はすべて,神に対する反逆のもたらした悲惨な結果を見る機会に恵まれました。同時に,イエスの死は,従順な人類を救出し,「悪魔の業を打ち壊す」手だてを備えるものとなりました。―ヨハネ第一 3:8。ヘブライ 2:14,15。
10 エホバはなぜ過去1,900年間,邪悪な者たちを引き続き忍んでこられましたか。
10 イエスが復活させられて以来1,900年以上の間,エホバはさらに「憤りの器」を忍び,その滅びを延ばしてこられました。それはなぜですか。なぜなら,女の胤の副次的な部分,つまりイエス・キリストと共にその天の王国に加わることになる人々を整えておられたからです。(ガラテア 3:29)合計14万4,000人のそれらの人々は,使徒パウロの述べている「憐れみの器」です。まず,ユダヤ人の中の個々の人々がこの級を構成するよう招かれました。次いで,割礼を受けたサマリア人,そして最後に異邦諸国民の人々が加えられました。エホバは多大の辛抱強さをもってその目的を達成してこられましたが,ご自分に仕えるようだれをも強制することなく,かえってその愛ある備えに感謝して答え応じる人々にすばらしい祝福をお与えになりました。今や,その天的な級を整えることはほとんど完了しています。
11 ほかのどんなグループの人々が今エホバの辛抱強さの益を受けていますか。
11 しかし,地のための住民についてはどうですか。神のご予定の時に,何十億もの人々が王国の地的な臣民として復活させられます。また,特に西暦1935年以来,エホバの辛抱強さのおかげで,すべての国の民の中から「大群衆」を救うために集めることができるようになりました。―啓示 7:9,10。ヨハネ 10:16。
12 (イ)結果として,わたしたちはエホバご自身について何を学びましたか。(ロ)エホバがそれらの事柄を扱われた仕方に対してあなたはどう反応しますか。
12 このすべてのうちに何か不公正なところがありましたか。確かにありません! もし神が邪悪な者たち,つまり「憤りの器」の滅びを延ばしてご自分の目的と一致して他の人々に対して同情を示すことができるとしたなら,だれが正当な不平を述べることができるでしょうか。それどころか,神の目的が進展するのを見守るにつれ,エホバご自身について多くの事柄が分かってきます。わたしたちは,明らかにされてきた神の性格の様々な面,すなわち公正,憐れみ,辛抱強さ,知恵の多様性に驚嘆させられます。論争に対するエホバの賢明な扱い方は,その支配の仕方が最善であるという事実を永久に証明するものとなります。わたしたちは使徒パウロと共に「ああ,神の富と知恵と知識の深さよ。その裁きは何と探りがたく,その道は何とたどりがたいものなのでしょう」と言うことができます。―ローマ 11:33。
わたしたちの専心の念を表わす機会
13 (イ)わたしたちが個人的に苦しみに遭う場合,どんな機会がわたしたちに差し伸べられますか。(ロ)賢明な仕方で答え応じるのに何が役立ちますか。
13 神がまだ邪悪な者たちを滅ぼしておらず,人間の予告された回復をもたらしておられないので,個人的に本当に苦しみに遭う状況があります。わたしたちはそのような状況にどう反応しますか。そのような状況の中に,エホバのみ名にもたらされた恥辱を除き去り,悪魔が偽り者であることを証明することにあずかる機会があることを悟りますか。「我が子よ,賢くあって,わたしの心を歓ばせよ。わたしを嘲弄している者にわたしが返答するためである」という助言を銘記するなら,わたしたちはそうするよう大いに強められます。(箴言 27:11)エホバを嘲弄するサタンは,人々が物質上の損失あるいは身体的な苦しみに遭うなら神を非難し,神を呪いさえするであろうと主張しました。(ヨブ 1:9-11; 2:4,5)苦しみに遭っても神に忠節を示すことによって,わたしたちの場合にはそうは言えないことを実証するなら,わたしたちはエホバの心を喜ばせることになります。わたしたちは,エホバがご自分の僕たちに対して優しい愛情を持っておられ,ヨブの場合のように,もしわたしたちが忠実であることを証明するなら,エホバはやがてわたしたちに豊かに報いてくださるという全き確信を抱いています。―ヤコブ 5:11。ヨブ 42:10-16。
14 試練に遭う場合,もしエホバに頼るなら,ほかのどんな益を受けることができますか。
14 悲痛な試練に遭遇する場合,エホバを信じて頼るなら,わたしたちは貴重な特質を磨くことができます。イエスは苦しんだ事柄から,以前には決して知らなかった仕方で「従順を学ばれました」。わたしたちもまた,辛抱強さ,忍耐,エホバの義の道に対する深い認識を培いながら学ぶことができます。わたしたちはそのような訓練を辛抱強く受けますか。―ヘブライ 5:8,9; 12:11。ヤコブ 1:2-4。
15 わたしたちが辛抱強く苦しみに耐えるとき,他の人々はどのように益を受けられますか。
15 他の人々はわたしたちのすることを見守るでしょう。その中のある人々はやがて,わたしたちが義に対する愛のために遭遇する事柄のゆえに,だれが本当に今日のキリストの「兄弟」たちであるかを正しく認めるようになり,崇拝においてキリストの『兄弟たち』と一緒になることによって,とこしえの命の祝福を受ける見込みを持てるようになるでしょう。(マタイ 25:34-36,40,46)エホバとそのみ子はそれらの人々がそのような機会を持てるよう望んでおられます。わたしたちはどうですか。わたしたちはそうすることができるよう喜んで苦しみを忍びますか。
16 そうした個人的な苦しみに対するわたしたちの見方は,一致という事柄とどのように関係していますか。
16 こうして,わたしたちが生活で生ずる困難な状況をさえ,わたしたちの専心の念をエホバに示し,またそのご意志を達成することにあずかる機会とみなすなら,それは何と優れた見方でしょう。そのようにするなら,わたしたちはイエスがすべての真のクリスチャンのために祈り求められた神およびキリストとの一致を目ざして本当に前進しているという証拠を示すことができます。―ヨハネ 17:20,21。
復習のための討議
● エホバは悪が続くのを許すと共に,ご自分のみ名を大いに尊重しておられることをどのように正しく示してこられましたか。
● 神が「憤りの器」を忍んでおられるおかげで,その憐れみはどのようにはるばるわたしたちのところにまで及ぶようになりましたか。
● わたしたちは個人的に経験する苦しみの関係する状況の中に何を認めるように努めるべきですか。
-
-
『邪悪な霊の勢力と格闘する』唯一まことの神の崇拝において結ばれる
-
-
8章
『邪悪な霊の勢力と格闘する』
1 邪悪な霊者の活動はわたしたちにとってなぜ特に関心のある事柄ですか。
唯物論的な見方を持つ人々は邪悪な霊者という考えを嘲笑するかもしれません。しかし,それは笑いごとではありません。信じようが信じまいが,悪霊の活動はあらゆる人々に影響を及ぼします。エホバの崇拝者たちも例外ではありません。実際,彼らは主要な標的となっているのです。使徒パウロは次のように述べて,この争いに関しわたしたちに警告を発しています。「わたしたちのする格闘は,血肉に対するものではなく,もろもろの[血肉の領域のものではない]政府と権威,またこの闇の世の支配者たちと,天の場所にある邪悪な霊の勢力に対するもの(なの)です」。(エフェソス 6:12)今日,この圧力はこれまでの最高に達しています。なぜなら,サタンは天から追い落とされてたけり狂っており,自分の時が短いことを知っているからです。―啓示 12:12。
2 どうすれば超人間的な霊者と首尾よく格闘することができますか。
2 わたしたちはだれでも,どうしたら超人間の霊の勢力との闘争で首尾よく勝つことができるでしょうか。ただエホバに全く頼るしかありません。わたしたちはエホバの言われることを聴き,そのみ言葉に従わなければなりません。そうすれば,サタンの支配下にある人々の被ってきた身体的,道徳的,感情的,精神的害を免れることができます。―エフェソス 6:11。ヤコブ 4:7。
天の場所にいる世の支配者たち
3 サタンは何に,まただれに猛烈な反対をしていますか。
3 エホバは天における有利な立場から世界情勢をご覧になって,わたしたちのためにそれを生き生きと描写しておられます。エホバは使徒ヨハネに一つの幻をお与えになりました。その幻の中でサタンは,神のメシアによる王国が西暦1914年に天で生み出されるやいなや,できればそれを食らい尽くそうと身構える「火のような色の大きな龍」として描かれました。サタンはそれに失敗すると,神の「女」の胤の副次的な部分を構成する,その王国の見える代表者たちを猛烈な反対に遭わせました。―啓示 12:3,4,13,17。
4 (イ)聖書は人間の諸政府の力の源に関するどんな事実に対してわたしたちの注意を喚起していますか。(ロ)今,政治上の支配者たちは皆,だれによって,またどこに集められていますか。
4 また,ヨハネに与えられたその啓示の中で人間の諸政府の力と権威の源もあらわにされました。ヨハネには,七つの頭と十本の角のある複合の野獣,つまり「あらゆる部族と民と国語と国民に対する」権威を持つ獣が示されました。これは単なる一つの政府ではなく世界的な規模の政治体制を表わしています。そして,「龍[悪魔サタン]は自分の力と座と大きな権威をその野獣に与えた」ということがヨハネに知らされました。(啓示 13:1,2,7。ルカ 4:5,6と比べてください。)政治上の支配者がどんな宗教を奉じていると公言するにせよ,その「獣」の成員国はどれ一つとしてエホバの主権とその油そそがれた王イエス・キリストに服従していません。それらの国々は皆,自国の主権を固守しようとして闘争しています。今日,啓示の書が示しているように,「悪霊の霊感による表現」が諸国民すべてをハルマゲドンにおける「全能者なる神の大いなる日の戦争」に集めています。(啓示 16:13,14,16)使徒パウロが書き記したとおり,確かに「世の支配者たち」は単なる人間ではなく,「天の場所にある邪悪な霊の勢力」なのです。(エフェソス 6:12)自分がエホバの真の崇拝者であることを立証したいと思う人は皆,このことの重要性を十分に理解する必要があります。
5 巧みに操られてサタンの体制を支持するようになるのを避けるためには,なぜ注意する必要がありますか。
5 わたしたちの生活は人類家族を引き裂いている種々の争いによって日々影響を受けています。人々は普通,口頭あるいはその他の方法で,自分たちがその一部となっている国民,部族,言語グループあるいは社会階級などの味方をします。人々は自分たちの所属する特定の社会階層が現在起きているある争いに直接関係していない場合でさえ,一方の側にくみして他を退けていることに気づく場合があります。しかし,苦情の種が何であれ,自分たちの是認する人物あるいは主義にかかわりなく,人々は実際には何を支持しているのでしょうか。聖書ははっきりと,『全世界は邪悪な者の配下にある』と述べています。(ヨハネ第一 5:19)では,どうすれば人類の残りの人々と共に誤導されないようにすることができますか。ただ神の王国を全面的に支持し,世の様々の党派間の争いに関して完全な中立を保つことによってのみそうすることができます。―ヨハネ 17:15,16。
邪悪な者の悪賢い策略
6 サタンが人々を真の崇拝から引き離すために用いてきた手段の中には何が含まれていますか。
6 歴史の全期間を通じてサタンは個々の人々を真の崇拝から引き離そうとして,口頭による迫害や身体上の迫害を利用してきました。しかし,サタンはまた,さらに巧妙な手段,つまりこうかつな行為や悪賢い策略をも用いてきました。
7 偽りの宗教を用いるサタンの巧みさはどのように示されていますか。
7 サタンは人類の大部分の人々を偽りの宗教によって巧みに闇の中にとどまらせ,もし人々が望めば,自分たちが神に仕えているのだと思い込ませています。人々は真理に対する純粋の愛に欠けているため,神秘的また感情的な礼拝に魅惑されたり,あるいは強力な業によって感銘を受けたりする場合があります。(テサロニケ第二 2:9,10)しかし,真の崇拝に共にあずかってきた人々の中からさえ,「ある人たちが……離れ去り,人を惑わす霊感のことばや悪霊の教えに注意を寄せるようになる」と警告されているのです。(テモテ第一 4:1)どうしてそのようなことが起きるのでしょうか。
8 サタンはかつてエホバを崇拝していた人たちをさえどのように誘惑して,偽りの宗教に引き入れましたか。
8 悪魔は悪賢いことに,人の弱点に訴えます。人間に対する恐れに依然として支配されている人がいますか。もしそうであれば,その人は偽りの宗教に起源を持つ慣行に一緒に加わるよう親族や隣人から圧迫を受けると屈してしまうかもしれません。その人は誇りを持っていますか。では,助言をされたり,あるいは自分の唱道する考えが他の人々に受け入れられなかったりすると,腹を立てるかもしれません。(箴言 29:25; 15:10。テモテ第一 6:3,4)もしも,愛の動機から野外宣教に参加しているのでない場合はどうなりますか。キリストの模範に従うよう自分の見方を調整する代わりに,ただ聖書を読んで,“善い生活”をしていれば十分だと言って,『耳をくすぐる』人々の考え方に傾くかもしれません。(テモテ第二 4:3)とにかく,神がみ言葉とその組織を通して導いておられる仕方でエホバを崇拝しない限り,実際ほかの宗教団体に加わろうが,あるいは単に自己流の宗教を固守しようが,サタンにとってそれは重要なことではありません。
9 サタンはその目的を遂げるため,こうかつにもどのように性を用いますか。
9 また,サタンはこうかつにも正常な欲望を間違った仕方で充足させるよう人々を誘惑します。性的な面での親密な関係に対する欲望に関してそのように行なってきました。聖書の道徳律を退ける世の多くの人々は,未婚者同士が性関係を楽しむことを正当な行為,あるいは大人であることを証明する一つの方法とみなします。また,既婚者についてはどうですか。結婚生活の問題を経験する世の人々が離婚して再婚したり,あるいは単に別れて別の配偶者と一緒に生活したりするのは珍しいことではありません。このような生活の仕方を見るとき,わたしたちは自分が何かを得損なっているとか,キリスト教のやり方は厳格過ぎるなどと感じますか。サタンの巧妙な誘い方は,エホバが何か良いものを差し控えていると人に思い込ませることです。サタンは ― 長期間にわたってわたしたち自身と他の人々に及ぶ影響についてではなく,したがって確かに,エホバおよびそのみ子とのわたしたちの関係についてではなく ― 今味わい得る快楽について考えるよう,わたしたちにしきりに勧めるのです。―ガラテア 6:7,8。コリント第一 6:9,10。
10 サタンはどんな方法で暴力に対するわたしたちの立場を覆そうとしますか。
10 もう一つの自然な欲求は娯楽を求める欲望です。娯楽は健全なものであれば,身体的,精神的また感情的に人の気持ちをさわやかにさせることができます。しかし,サタンがくつろぎの時を巧みに利用してわたしたちの考えを神の考えから遠ざけさせようとするなら,わたしたちはどう反応しますか。例えば,わたしたちは暴力を愛する人々をエホバが憎まれることを知っています。(詩編 11:5)しかし,テレビ映画や劇場での映画が暴力を呼び物にしている場合,わたしたちはただ静かに座って,そのまま全部見ますか。あるいは,それがスポーツという名目で提供されるなら,それを受け入れ,もしかすると参加者たちに大声で声援を送ることさえしますか。―創世記 6:13と比べてください。
11 心霊術に関する真相を知っている人でさえ,もしよく注意していないと,どのようなわなに陥る恐れがありますか。
11 わたしたちはまた,占いを行なったり,魔法をかけたり,あるいは死者と話そうとするなど,どんな形であれ,心霊術にふける者たちが「エホバにとって忌むべきもの」であることを知っています。わたしたちは霊媒に相談をしたいとは思いませんし,魔術を行なってもらうためそのような人を家に歓迎したいとは決して思いません。しかし,もしそのような人がテレビの画面に現われたなら,わたしたちはその言うことを聴き,我を忘れてそのすることを見守りますか。祈祷師の勧める治療法を受け入れようなどとは決して思わないかもしれませんが,もしかすると災いに遭わないよう子供を守ってくれるかもしれないと考えて,生まれたばかりの子供の手首にひもをゆわくようなことをしますか。あるいは,「まじないで他の人を縛る」ことを聖書が非としていることを知りながら,たとえ一時的とはいえ,催眠術師に自分の思考力を支配させるようなことをしたいと思うでしょうか。―申命 18:10-12。ガラテア 5:19-21。
12 (イ)自分でもそれが間違いであると分かっているような考えをわたしたちの心に抱かせるため,音楽がどのように用いられていますか。(ロ)人の衣服や髪型あるいは話し方は,エホバに非とされる生活の仕方をする人々を当人が称賛していることをどのように示す場合がありますか。(ハ)サタンの悪賢い策略の犠牲者とならないようにするには,何をすることが求められていますか。
12 わたしたちは,『わたしたちの間では,淫行やあらゆる汚れが間違った動機で,口に上ることさえあってはなりません』という趣旨の聖書の言葉を読んだことがあります。(エフェソス 5:3-5)しかし,もしそのようなテーマが快いメロディー,覚えやすいリズム,あるいは強烈なビートをもった音楽で巧みに表わされるとしたらどうですか。結婚関係外の性行為,快楽のための麻薬の使用,その他の事柄を称揚する歌詞を無意識のうちに繰り返し口ずさむようにさえなりますか。あるいは,そのようなことにふける人々の生活態度に見倣うべきではないことを知ってはいるものの,ともすればそれらの人の服装や髪型<ヘアスタイル>あるいは話し方を見倣ったりして,そのような人々に共鳴していますか。サタンは何とこうかつなのでしょう。サタンはその腐敗した考えに従うよう人間を誘惑するために何と陰険な方法を用いるのでしょう。(コリント第二 4:3,4)その悪賢い策略の犠牲者とならないようにするには,この世と共に漂い流れないようにしなければなりません。わたしたちは「この闇の世の支配者たち」がだれであるかを銘記し,その影響を受けないよう真剣に格闘しなければなりません。―エフェソス 6:12。ペテロ第一 5:8。
征服者となるために装備を整える
13 わたしたちはだれでも不完全さを持っていますが,どうすればサタンの支配する世を征服することができますか。
13 イエスは死を前にしてご自分の使徒たちに,「勇気を出しなさい! わたしは世を征服したのです」と言われました。ですから,彼らもまた征服者となることができました。60年余の後,使徒ヨハネは,「イエスは神の子であるとの信仰を持つ者でなければ,いったいだれが世を征服する者でしょうか」と書きました。(ヨハネ 16:33。ヨハネ第一 5:5)このような信仰は,わたしたちがイエスのご命令に従い,イエスがなさったとおり,神のみ言葉に頼ることによって示されます。ほかに何が求められていますか。イエスが頭であられる会衆にしっかりとどまることが求められています。もししくじったなら,わたしたちは真剣に悔い改め,イエスの犠牲に基づいて神の許しを求めなければなりません。こうして,不完全な者であるにもかかわらず,わたしたちもまた征服者となることができるのです。
14 (イ)エフェソス 6章13-18節を読んでください。(ロ)挙げられている質問や聖句を,霊的な武具の各々の部分から得られる益について論ずる基礎として用いてください。
14 首尾よくそうなるには,「完全にそろった,神からの武具」を身に着ける必要があり,そのどの部分をもおろそかにしてはなりません。どうぞ,ご自分の聖書のエフェソス 6章13節から18節のところを開いて,その武具に関する説明を読んでください。それから,下記の質問に答え,その武具の一つ一つでどのように身を守って益を受けられるかを考慮してください。
「真理を帯として腰に巻き」
わたしたちはたとえ真理を知っていても,定期的に研究し,聖書の真理について黙想し,集会に出席することによって,どのように身を守ることができますか。(フィリピ 3:1; 4:8,9。コリント第一 10:12,13。コリント第二 13:5。ペテロ第一 1:13,王国行間逐語訳)
「義の胸当て」
これはだれの義の規準ですか。(啓示 15:3)エホバの道に対する愛を培わなかったためにその命令に従順に従わないと,どのように重大な霊的害を受ける恐れがあるかについて,例を挙げて説明してください。(サムエル第一 15:22,23; 申命記 7:3,4をご覧ください。)
「平和の良いたよりの装備を足にはき」
平和のための神の備えについて人々に話すために自分の足を絶えず忙しく用いることはどのように身の守りとなりますか。(ローマ 10:15。詩編 73:2,3。テモテ第一 5:13)
「信仰の大盾」
土台の上にしっかりと建てられた信仰を抱いているなら,わたしたちに疑いを抱かせたり,恐れさせたりするためになされる努力に直面する際,わたしたちはどう反応するでしょうか。(テモテ第二 1:12; 列王第二 6:15-17と比べてください。)
「救いのかぶと」
救いの希望は,物質上の所有物のことで過度に心配してわなに陥るのを避けるためにどのように助けとなりますか。(テモテ第一 6:7-10,19)
「霊の剣」
わたしたちの,あるいは他の人たちの霊性を損なおうとする攻撃に打ち勝つには,わたしたちは常に何に頼るべきですか。(詩編 119:98。箴言 3:5,6。マタイ 4:3,4と比べてください。)
このことと調和して,エフェソス 6章18,19節では,霊的な戦いで功を奏するには,ほかに何が肝要であることが示されていますか。どれほどしばしばそれを行なうべきですか。だれのためになされますか。
15 (イ)わたしたちすべてが行なっているのは単なる個人的な霊的戦いですか。(ロ)その戦いでわたしたちはどうすれば攻勢に出ることができますか。
15 クリスチャンの兵士であるわたしたちは,霊的な戦いに参加している大きな軍隊の一員です。もしわたしたちがいつもよく注意して神からの一そろいの武具全部をよく活用するなら,わたしたちはこの戦いの犠牲者とはならないでしょう。それどころか,わたしたちは神の仲間の僕たちを力づける助け手となれるでしょう。そして,進んで,また熱心に攻勢に出,サタンが激しく反対しているあの政府,つまり神のメシアによる王国の良いたよりを広めてゆきます。
復習のための討議
● エホバの崇拝者たちは,世の種々の分子の間の争いに関してなぜ完全な中立を保とうと努めますか。
● サタンがクリスチャンを霊的な破滅に陥らせるために用いる悪賢い策略の幾つかを挙げてください。
● 神によって備えられている武具は,この霊的な戦いにおける極めて重要な面でわたしたちをどのように守るものとなりますか。
-
-
復活の希望の力唯一まことの神の崇拝において結ばれる
-
-
9章
復活の希望の力
1 復活によってどんな驚くべき見込みが可能になりましたか。
復活がなければ,死んだ人間にとって将来の命の希望は何もありません。しかし,エホバは過分の親切を示して,これまでに死んだ何十億もの人々のためにとこしえの命を享受する貴重な機会を開かれました。その結果,わたしたちも死んで眠っている愛する人たちと再会する心温まる希望を抱いているのです。―マルコ 5:35,41,42; 使徒 9:36-41と比べてください。
2 (イ)エホバの目的を成し遂げる上で,復活はどんな面で重要な事柄となってきましたか。(ロ)復活の希望は特にどのような場合にわたしたちにとって重要な力の源となりますか。
2 復活があるからこそ,エホバは永続する害をその忠実な僕たちにもたらすことなく,「人は自分の魂のためなら,持っているすべてのものを与えます」と述べたサタンにその悪意ある主張を証明できるかどうか十分に試させることがおできになるのです。(ヨブ 2:4)イエスは死人の中からよみがえらされたゆえに,わたしたちにとって命を救う益を伴うご自分の人間としての犠牲の価値をみ父の天のみ座の前で差し出すことができました。キリストと共同の相続者となっている人たちは,復活によって天の王国でキリストと結ばれます。また,信仰を抱くわたしたちすべてにとって,復活は,わたしたちが死に直面するような試練に遭うとき,普通の状態を超えた力の源となります。
クリスチャンの信仰にとって基本的な事柄である理由
3 (イ)復活はどのような意味で「初歩の教理」と言えますか。(ロ)復活は一般の世の人々にとってどういう意味を持っていますか。
3 ヘブライ 6章1,2節に述べられているとおり,復活は「初歩の教理」,つまりそれなくしてはわたしたちが決して円熟したクリスチャンとなることのできない信仰の土台の一部です。しかし,これは世の一般の考え方にとっては異質的な事柄です。人々は霊性に欠けているため,ますます快楽を追い求めて生活します。そして,今の生活だけが現実の生活であると考えています。(コリント第一 15:32)キリスト教世界の内外を問わず,伝統的な宗教を信奉している人々は,人間には不滅の魂があると考えていますが,そう考えれば復活は必要ではなくなるでしょう。この二つの概念を調和させようとする人は,それは人を鼓舞する希望どころか人をいっそう混乱させるものとなることに気づくでしょう。わたしたちはどうすれば,喜んで耳を傾けようとする人たちを助けることができますか。―使徒 17:32。
4 (イ)人が復活について正しく認識できるようになるには,その人と何について論じ合う必要がありますか。(ロ)魂とは何かを説明するのにどんな聖句を用いたいと思いますか。死者の状態についてはどうですか。(ハ)しかし,もしある人がそれらの聖句の中にある真理をあいまいにしていると考えられる聖書翻訳を用いる場合はどうですか。
4 復活がどんなにすばらしい備えかを正しく認識できるようになるには,そのような人々は,魂とは何か,また死者の状態はどのようなものかを理解する必要があります。真理に飢えている人にこれらの事柄をはっきり説明するには大抵,ほんの二,三の聖句で十分です。(創世 2:7。エゼキエル 18:4。詩編 146:3,4)しかし,聖書の現代の翻訳や意訳版の中にはこれらの真理をあいまいにしているものがあります。それで,聖書の原語で用いられている表現を考慮する必要のある場合もあります。
5 あなたは魂とは何かを理解するようそれらの人をどのように助けたいと思いますか。
5 「新世界訳」はそうするのに特に有用な翻訳です。なぜなら,この翻訳ではヘブライ語の「ネフェシュ」とこれに対応するギリシャ語の「プシュケー」が一貫して「魂」と訳出されており,またその付録にはこれらの語の出ている聖句が多数列挙されているからです。現代の他の翻訳では,この同じ原語の言葉が「魂」だけでなく「生き物」,「存在」,「人格を有する者」,「命」などと訳出される場合もあります。「わたしのネフェシュ」は「わたし」,「あなたのネフェシュ」は「あなた」と訳される場合もあります。それらの聖書をもう少し古い翻訳や「新世界訳」などと比べてみると,「魂」と訳出されている原語の言葉は(1)人格を有する者,(2)動物,および(3)そのようなものが享受している命を指しているということを誠実な研究生は正しく認識するよう助けられるでしょう。しかしこれらの語は,魂とは死に際して体から脱出し,引き続き意識を保ってどこかに存在できる,目に見えない,触れることのできないものであるという考えを決して表わしていません。
6 (イ)現代の翻訳の中にはなぜ,シェオル,ハデス,ゲヘナの意味に関して読者を混乱させてしまうものがありますか。(ロ)あなたはシェオルもしくはハデスにいる人の状態を聖書からどのように説明しますか。ゲヘナにいる人についてはどうですか。
6 同様に,「新世界訳」はヘブライ語の「シェオール」を音訳したシェオル,ギリシャ語の「ハデース」に対するハデス,および「ゲエンナ」に対するゲヘナをそれぞれ一貫して用いています。しかし,聖書の他の現代の翻訳や意訳の中には,「ハデース」も「ゲエンナ」も共に「地獄」と訳出し,加えて「シェオール」と「ハデース」の他の訳し方として「墓」や「死者の世界」などを用いて読者を困惑させるものもあります。必要な場合には,種々の翻訳を比較することによって,シェオルとハデスは同義語であることを示せるでしょう。(詩編 16:10。使徒 2:27)聖書は,人類共通の墓であるシェオルあるいはハデスが命ではなく,死と結びつけられていることを明らかにしています。(詩編 89:48。啓示 20:13)同時に聖書は復活によってそこから戻って来る見込みのあることを指し示しています。(ヨブ 14:13。使徒 2:31)それとは対照的に,ゲヘナに行く者たちに対しては将来の命の希望は何も差し伸べられていませんし,もちろん,魂がそこで意識を保って存在しているものとして述べられてはいません。―マタイ 18:9; 10:28。
7 正しく理解されると,復活は人の態度や行動にどのように影響を及ぼすものとなり得ますか。
7 これらの事柄が明らかにされると,キリストの死と復活は現実的な意味を持つようになります。そこで,自分にとってその復活が何を意味するかを理解するよう助けることができますし,またその人はこのような驚嘆すべき取り決めを設けておられるエホバの愛を正しく認識することができるようになります。愛する人を亡くした人たちはその悲しみの代わりに,今や神の新秩序で再会できるという喜ばしい期待を抱くことができます。1世紀のクリスチャンは,イエス・キリストの復活がキリスト教信仰の一つの隅石であることを悟りました。それらのクリスチャンはその復活について,またそれによって保証されている希望について熱心に証ししました。ですから,今日それを正しく認識している人たちはこの貴重な真理を他の人たちと分かち合うことを切に願っています。―使徒 5:30-32; 10:40-43; 13:32-39; 17:31。
「ハデスのかぎ」を用いる
8 イエスが「死とハデスのかぎ」をお用いになるとき,それは霊によって油そそがれた追随者たちにとって何を意味しますか。
8 キリストと共にその天の王国で交わることになっている人は皆いつかは必ず死ななければなりません。しかし彼らは,キリストが使徒ヨハネに対して,「わたしは死んだが,見よ,限りなく永久に生きており,死とハデスのかぎを持っている」と言ってお与えになった確約をよく知っています。(啓示 1:18)どのような意味でそう言われたのでしょうか。ご自分の経験に注意を向けさせておられたのです。ご自身も死なれたのですが,神はこの方をハデスに放置したままにはされませんでした。三日目に,エホバは自らこの方を霊の命によみがえらせ,不滅性を授けられました。それだけでなく,神は人類共通の墓とアダムの罪の影響から他の人々を解放するのに用いる「死とハデスのかぎ」をもこの方にお与えになりました。イエスはそれらのかぎを所有しておられるので,ご自分の忠実な追随者たちを死からよみがえらせることがおできになります。イエスはそうなさるとき,み父にしていただいたとおり,ご自分の会衆の霊によって油そそがれた成員たちに不滅の天的な命という貴重な賜物をお授けになります。―ローマ 6:5。フィリピ 3:20,21。
9 忠実な油そそがれたクリスチャンの復活はいつ起きますか。
9 忠実な油そそがれたクリスチャンはいつその復活を経験するのでしょうか。それは既に始まっているのです。使徒パウロはそれらのクリスチャンが『キリストの臨在の間に』よみがえらされることを説明していますが,その臨在は西暦1914年に始まりました。(コリント第一 15:23)今や,それらの人たちは地上での歩みを終える時,死んだ状態で自分たちの主が戻られるのを待つ必要はありません。それらの人は死ぬやいなや『一瞬に,またたくまに変えられ』て,霊者としてよみがえらされるのです。これらの人は何と幸いなのでしょう。なぜなら,「彼らの行なったことはそのまま彼らに伴って行く」からです。―コリント第一 15:51,52。啓示 14:13。
10 ほかのどんな復活がありますか。それはいつ始まりますか。
10 しかし,これらの人たちの復活以外に復活はないというわけではありません。それが「第一の復活」と呼ばれている事実は,その後にほかの復活があるに違いないことを示しています。(啓示 20:6)この後者の復活の益にあずかる人たちには,楽園となる地上で永遠の命を受ける喜ばしい見込みがあります。それはいつ起きるのでしょうか。啓示の書は,それが現在の邪悪な事物の体制の「地と天」が除き去られた後であることを示しています。古い体制のその終わりは非常に近づいています。その後,神の定められた時にこの地的な復活が始まります。―啓示 20:11,12。
11 地上でよみがえらされて命を受ける忠実な人たちの中にはだれが含まれますか。それはなぜ胸の躍るような見込みですか。
11 それにはだれが含まれていますか。最も初期の時代からのエホバの忠実な僕たちが含まれています。その中には,復活に対する強い信仰のゆえに,「何かの贖いによる釈放を受け入れようとはしなかった」,つまり横死を免れるために神に対する忠誠の点で何らかの妥協をしたりしなかった人たちが含まれます。(ヘブライ 11:35)そのような人たちのことを個人的に知り,聖書の中でごく簡単に伝えられている出来事に関する詳細を直接それらの人たちから聞けるのは何という喜びでしょう。その中には,エホバの最初の忠実な証人であったアベルがいます。大洪水前に神からの警告の音信を恐れることなく宣明したエノクやノアもいます。み使いたちをもてなしたアブラハムもいることでしょう。モーセもいます。この人を通してシナイ山で律法が与えられました。西暦前607年にエルサレムの滅びを見たエレミヤのような勇気のある預言者たちもいます。また,神みずからイエスがご自分のみ子であることを明らかにされるのを聞いた,バプテスマを施す人ヨハネもいます。さらに,現在の体制の終わりの日の期間に死んだ忠節な人たちもいることでしょう。―ヘブライ 11:4-38。マタイ 11:11。
12 (イ)ハデスにいる死者はどれほど多くよみがえらされるでしょうか。(ロ)それで,その中にはだれが含まれますか。それはなぜですか。
12 やがて,ほかの人々もよみがえらされるでしょう。イエスが人類のために「ハデスのかぎ」をどの程度お用いになるかは使徒ヨハネに与えられた一つの幻の中で示されていますが,その中でヨハネはハデスが『火の湖に投げ込まれる』のを見ました。それはどういう意味ですか。ハデスが滅ぼされるという意味です。つまり,完全に空にされるので存在しなくなるのです。ですから,イエスはエホバの忠実な崇拝者たちをよみがえらせることに加えて,憐れみ深くも不義の人々をさえハデスもしくはシェオルから連れ戻してくださるのです。それらの人々はだれも,単に再び死に値する者として裁かれるためによみがえらされるのではありません。それらの人は神の王国の治める義にかなった環境の中で,自分たちの生活をエホバの道に合わせるよう助けられるでしょう。その幻は「命の巻き物」が開かれることを示しているので,それらの人はその巻き物に自分たちの名を書き込んでいただく機会に恵まれることになります。そして,復活させられた後に行なう「それぞれ自分の行ないにしたがって裁かれ」ます。(啓示 20:12-14。使徒 24:15)このようなわけで,最終結果という観点から見て,それらの人の復活は「命の復活」ともなり得るので,「[断罪の]裁きの復活」となるのを避けられないというわけではありません。―ヨハネ 5:28,29。
13 (イ)どのような人々は復活させられることがありませんか。(ロ)復活に関する真理の知識はわたしたちの生活にどのように影響を及ぼすはずですか。
13 もちろん,かつて生きていた人すべてが復活させられるわけではありません。中には,許すことのできない罪を犯した人々もいます。今や間近に迫った「大患難」で処刑される人々も,永遠の滅びに遭う者たちの中に含まれるでしょう。(マタイ 12:31,32; 23:33; 24:21,22; 25:41,46。テサロニケ第二 1:6-9)ですから,ハデスにいる人々すべてを解放するという点で驚くべき憐れみが示されますが,復活があるのだから自分の今の生き方に関して無関心であってよいなどと言えるものではありません。むしろ,わたしたちは神のこのほんとうに過分の親切をどれほど深く感謝しているかを示すよう動かされるはずです。
復活の希望によって強められる
14 自分の現在の命が終わりに近づいている人にとって,復活はどのように大きな力の源となり得ますか。
14 復活の希望を自分のものにした人たちは,その希望から大きな力を得ることができます。そのような人は自分の命が終わりに近づく場合,受ける医療処置のいかんを問わず,死をいつまでも延ばせるものではないことを知っています。(伝道 8:8)もし主の業に忙しく携わり,その組織と共に忠節に仕えてきたなら,全き確信を抱いて前途に期待を抱くことができます。復活によって神のご予定の時に再び命を享受するようになることを知っているのです。しかも,それは何という命でしょう。使徒パウロが呼んだとおり,それは「真の命」なのです。―テモテ第一 6:19。コリント第一 15:58。ヘブライ 6:10-12。
15 もし乱暴な迫害者たちによって脅しを受けても,エホバに対する忠誠を保つよう何がわたしたちを助けるものとなり得ますか。
15 単に復活があることを知っているだけでなく,その備えの源であられる方を知っているなら,わたしたちはそれによって自分を強くすることができます。これは,たとえ乱暴な迫害者たちの手にかかって死の脅しを受けても神に対して忠節であるようわたしたちを強固にするものとなります。サタンは長い間,人々を隷従させる手段として早死にに対する恐れを用いてきました。しかし,イエスはそのような恐れに屈することなく,死に至るまでエホバに対して忠実を示されました。イエスはご自分の死をもって成し遂げた事柄により,そのような恐れから他の人々を解放する手だてを備えられました。(ヘブライ 2:14,15)その備えに対する信仰を抱いた結果,イエスの真の追随者たちは忠誠を守る者として目ざましい記録を打ち立ててきました。それらの人々は圧力を受けたとき,エホバを愛する以上に「自分の魂を愛さなかった」ことを証明しました。(啓示 12:11)彼らは賢明にも,キリスト教の原則を見捨てて自分の現在の命を救おうとするあまり,とこしえの命の見込みを失うようなことはしません。(ルカ 9:24,25)あなたはそのような信仰を持っておられますか。もしあなたがほんとうにエホバを愛し,復活の希望が意味する事柄を心に留めるなら,そうすることができるでしょう。
復習のための討議
● 復活を正しく認識できるようになるためには,魂とは何かということや死者の状態についてなぜ理解する必要がありますか。
● だれが死人の中から戻って来ますか。このことに関する知識はわたしたちにどのように影響を及ぼすはずですか。
● 復活の希望はわたしたちをどのように強めますか。
-
-
「滅びに至ることのない」王国唯一まことの神の崇拝において結ばれる
-
-
10章
「滅びに至ることのない」王国
1,2 (イ)世界の出来事は日々どんな事実を強調するものとなっていますか。また,どのようにそうしていますか。(ロ)唯一のどんな解決法がありますか。
人間はエホバの主権を退け,代わりに自らを治めようとしてきましたが,それでも幸福を見いだしていないことを,世界の出来事は日々裏書きしています。人類に公平に益をもたらした人間の政治制度は一つもありません。人間は先例を見ないほど科学技術を発達させましたが,その臣民の一人に対してでさえ,罪を根絶したり,病気を征服したり,死を終わらせたりすることはできませんでした。それどころか,諸国家はさらに恐ろしい新兵器を開発し続けています。暴力犯罪は広がっています。工業技術は貪欲や無知と相まって土地や水や空気の汚染を招いています。天井知らずのインフレや失業のために,多くの人にとって生活必需品を入手することは困難を極めています。人々は必死に活路を求めています。―伝道 8:9。
2 どんな解決策がありますか。それは,イエスがご自分の追随者たちに祈り求めるよう教えられた神の王国です。(マタイ 6:9,10)その王国のもたらす救済が今や非常に近いのですから,わたしたちは何と感謝すべきなのでしょう。
3 (イ)この王国に関連して,西暦1914年に天では何が起きましたか。(ロ)それはわたしたちにとってなぜ重要な事柄ですか。
3 イエス・キリストの手中にある神の王国は西暦1914年以来既に機能しています。a その年に,ダニエルがかつて預言的な幻の中で見た出来事が実際に天で起きました。「日を経た方」,すなわちエホバ神は人の子イエス・キリストに,「支配権と尊厳と王国」とを授けられました。それは,「もろもろの民,国たみ,もろもろの言語の者が皆これに仕えるため」でした。この幻について伝えているダニエルは,「その支配権は,過ぎ行くことのない,定めなく続く支配権,その王国は滅びに至ることのないものである」と書きました。(ダニエル 7:13,14)神はわたしたちの最初の人間の二親を楽園に置いたとき意図なさった数えきれない良い事柄を義を愛する人々が享受できるようにしてくださいますが,それはこの王国によってなされるのです。
4 その王国に関するどんな詳しい点はわたしたちにとって深い関心のある事柄ですか。それはなぜですか。
4 この王国の忠節な臣民はこの政府の構成と働きに深い関心を抱いています。それらの人はこの政府が今行なっている事柄,それが将来成し遂げる事柄,およびそれが自分たちに要求している事柄を知りたいと願っています。それらの人はこの王国について綿密に調べ,そうするにつれてその王国に対する感謝の気持ちが高まり,それについて他の人々に語る用意を整えます。―詩編 48:12,13。
心を感動させる詳しい調査
5 (イ)メシアによる王国によってだれの主権が表明されていることを聖書はどのように示していますか。(ロ)それで,王国について学ぶ事柄によってわたしたちはどのように影響を受けますか。
5 そのような調査によってまず明らかにされる事柄の一つは,このメシアによる王国はエホバご自身の主権の表明であるということです。エホバこそ,「支配権と尊厳と王国」とをみ子にお与えになった方です。ですから,この王国が支配しはじめた時,天で声がして,「世の王国はわたしたちの主[エホバ神]とそのキリストの王国となった。彼[エホバ]は限りなく永久に王として支配するであろう」と,適切にも宣言しました。(啓示 11:15)それで,すべてわたしたちがこの王国に関して観察する事柄やそれが成し遂げる事柄は,わたしたちをエホバご自身にいっそう引き寄せるものとなります。それはわたしたちのうちにエホバの主権に永遠に服したいという願いを抱かせます。
6 イエス・キリストがエホバの代理支配者であるということはなぜわたしたちにとって特に興味深い事柄ですか。
6 エホバがイエス・キリストをご自分の代理支配者として王座におつけになったのは何と適切なことなのでしょう。神が地球や人間を造るためにお用いになった優れた働き手であられたイエスは,わたしたちの必要とするものをわたしたちのうちのだれよりもよく知っておられます。その上,イエスは人類史の初めから『人の子らに対する親愛の情』を明らかに示されました。(箴言 8:30,31。コロサイ 1:15-17)その愛はそれほど大きなものだったので,自らこの地に来て,ご自分の命を人類のために贖いとしてお与えになりました。こうしてイエスは,人を罪と死から解放する手だてととこしえの命を得る機会とをわたしたちが利用できるようにしてくださいました。―マタイ 20:28。
7 (イ)人間の行使する支配権とは対照的に,この政府はなぜ長続きしますか。(ロ)「忠実で思慮深い奴隷」は天の政府とどんな関係を持っていますか。
7 これは長続きする安定した政府です。その長続きする特質は,エホバご自身が死に陥る方でないという事実によって保証されています。(ハバクク 1:12。詩編 146:3-5,10)人間の王たちとは対照的に,神から王権をゆだねられた方であるイエス・キリストもまた不滅の方です。(ローマ 6:9。テモテ第一 6:15,16)天の王座でキリストと共に交わるようになるのは14万4,000人の他の人々,つまり「あらゆる部族と国語と民と国民」の中から取られる神の忠節な僕たちです。これらの人々にも不滅の命が与えられます。(啓示 5:9,10。コリント第一 15:42-44,53)その大多数の人々は既に天におり,なお地上にいるその残りの者が「忠実で思慮深い奴隷」級を構成しており,その王国の関心事をこの地上で忠節に推し進めています。―マタイ 24:45-47。
8,9 (イ)その王国は分裂や腐敗をもたらすどんな影響力を除き去りますか。(ロ)それで,もしわたしたちが神の王国の敵とならないようにするのであれば,どんな組織や活動に巻き込まれないようにしますか。
8 今や間もなく,エホバの定められた時に,刑を執行するその軍勢は地を清めるために行動を開始します。自ら好んで神を知ろうとせず,その主権を認めることを拒み,神がイエス・キリストを通して設けておられる愛ある備えをさげすむ人間を,その軍勢は永久に滅ぼしてしまいます。(テサロニケ第二 1:6-9)それはエホバの日,宇宙主権者であることが立証される待望の時となるでしょう。
9 すべての偽りの宗教や,この世の見えない邪悪な支配者によって操られてきたすべての人間の政府およびその軍隊もまた,永久に滅ぼし絶やされるでしょう。自己中心で,不正直で,不道徳な生き方を追い求めて,自分がこの世のものであることを明らかにする者はすべて切り断たれて死んでしまいます。サタンとその悪霊たちも地の住民と接触できないように除かれて,千年のあいだ厳重に監禁されることになります。これは義を愛するすべての人にとって何という救済をもたらすのでしょう。―啓示 18:21,24; 19:11-16,19-21; 20:1,2。
その目標 ― 達成する方法
10 (イ)メシアの王国は地球そのものに対するエホバの目的をどのように成し遂げますか。(ロ)これは,その時地上で生活する人々にとって何を意味しますか。
10 このメシアの王国は地球に対する神の最初の目的を完全に成し遂げます。(創世 2:8,9,15; 1:28)人間は今日に至るまで,その目的を果たし損なってきました。しかし,「来たるべき,人の住む地」は人の子イエス・キリストに服させられてきました。この古い体制に対するエホバの裁きの執行の際に生き残る人々は皆,王なるキリストのもとで一致して働き,何であれキリストが地球全体を楽園にするよう指図する事柄を喜んで行ないます。(ヘブライ 2:5-9)全人類は自分たちの手の業を楽しみ,地の豊かな産物の益を十分に受けることになります。―詩編 72:1,7,8,16-19。イザヤ 65:21,22と比べてください。
11 (イ)王国の臣民のために思いと体の完全さがどのようにしてもたらされますか。(ロ)このことにはどんな事柄が含まれますか。
11 アダムとエバが創造された時,二人は完全でした。そして,この地がその子孫で満たされ,その子孫すべてが思いと体の完全さを享受することが神の目的でした。王国の支配のもとで,その目的は輝かしい仕方で実現されるでしょう。それには罪の影響がすべて除去されなければならず,そのためにキリストは王としてのみならず,大祭司としても奉仕します。キリストは罪を贖うご自分の人間の命の犠牲の価値の恩恵を受けられるよう従順な臣民を辛抱強く助けてくださいます。盲人の目は開かれ,耳の聞こえない人たちの耳は聞けるようにされます。老齢や病気のために醜くなった肉は子供の肉よりもみずみずしくなるでしょう。慢性的な病弱さは生気あふれる健康に取って代わられるでしょう。だれ一人,『わたしは病気です』と言う必要のない時代が訪れます。というのは,神を恐れる人間が罪とその悲惨な結果という重荷から救済されることになるからです。―イザヤ 33:22,24; 35:5,6; ヨブ 33:25; ルカ 13:11-13と比べてください。
12 (イ)人間が完全であるためにはほかに何が必要ですか。(ロ)それはどのように成し遂げられますか。それはどんな結果をもたらしますか。
12 しかし,完全性を得ることには健全な体や健全な思いを持つ以上のことが関係しています。それにはエホバの性格に備わっている特質を正しく反映することが含まれています。なぜなら,人間は『神の像に,神と似た様に』造られたからです。(創世 1:26)そのために,相当の教育を施すことが求められるでしょう。それこそ『義の宿る』新秩序ですから,預言者イザヤが予告したとおり,「産出的な地に住む者たちは必ず義を学ぶ(の)です」。(ペテロ第二 3:13。イザヤ 26:9)この特質はすべての国の人々や親しい仲間の間,また自分の家族の中の,そしてとりわけ神ご自身との平和を生み出します。(イザヤ 32:17。詩編 85:10-13)それら義を学ぶ人たちは,自分たちに対する神のご意志に関する教育を漸進的に受けることになります。エホバの道に対する愛がそれらの人々の心に深く根ざすにつれて,人々は生活のあらゆる面でエホバの道に従うようになります。完全な人間であられたイエスは,『わたしは常に,わたしの父の喜ばれることを行ないます』と言うことができました。(ヨハネ 8:29)このことが全人類についても言えるようになる時,その生活はどんなにか楽しいことでしょう。
既に明らかにされている成果
13 上に挙げた質問を用いて,王国のもたらした顕著な成果を取り上げてください。それゆえ,わたしたちは何を行なっているべきでしょうか。
13 王国のもたらしている印象的な成果は既に,信仰の目を持つ人々には極めて明白です。下記の質問や参照聖句を考慮すれば,そのような成果の幾つかの点と共に,王国の臣民すべてが今行なえる,また行なっているべき事柄について思い起こせるでしょう。
王はまずだれに対して行動を起こし,その結果どうなりましたか。(啓示 12:7-10,12)
キリストが即位された後,どんなグループの最後の成員を集める業に速やかに注意が向けられましたか。(マタイ 24:31。啓示 7:1-4)
マタイ 25章31節から33節で,イエスは王座についた後,また邪悪な者たちを滅ぼす前に行なう,ほかのどんな業を予告されましたか。
この業はどのようにして成し遂げられますか。だれがその業に参加していますか。(マタイ 24:14。詩編 110:3。啓示 14:6,7)
政治および宗教上の反対者たちはなぜその業を止めることができませんでしたか。(使徒 5:38,39。ゼカリヤ 4:6)
これまで行なわれてきた教育の業の結果として,王国による支配に服する人々の生活には既にどんな変化が生じてきましたか。(イザヤ 2:4。コリント第一 6:9-11)
王国の永続的な特質
14 (イ)キリストはどれほどの期間支配なさいますか。(ロ)その期間に何が成し遂げられますか。
14 サタンとその悪霊たちが底知れぬ深みに入れられた後,イエス・キリストはその14万4,000人の共同相続者と共に千年間支配します。(啓示 20:6)その期間に人類は完全な状態にされます。エホバに反対する政府や権威や力はすべて除き去られてしまいます。それが成し遂げられると,イエスは,「だれに対してもすべてのもの」となられるみ父に王国を返されます。―コリント第一 15:24,28。
15 確かにこの王国は『決して滅びに至ることがない』と言えるのはどうしてですか。
15 ですから,地に対するイエスご自身の立場は変化することになります。それにもかかわらず,イエスの支配権は「定めなく続く」ものとなり,「その王国は滅びに至ることのないもの」となります。(ダニエル 7:14)どんな意味でそうなるのですか。その支配する権威は別の目的を持つ者たちの手に渡されることはないという意味においてそうなります。王国の成し遂げる成果は『決して滅びに至ることがない』のです。その王国がエホバのみ名とこの地に関するその目的の正しさとを立証するために行なう事柄は限りなくとこしえに持続します。
[脚注]
a 「あなたの王国が来ますように」と題する本の127-138ページをご覧ください。
復習のための討議
● 神の王国はどうして人類の諸問題に対する唯一の解決法ですか。それはいつ支配しはじめましたか。
● 神の王国にはあなたにとって特にどんな点で訴えるものがありますか。それは何を成し遂げますか。それはなぜですか。
● わたしたちは既に,王国のもたらしたどんな成果を見ることができますか。このことでわたしたちにはどんな役割がありますか。
[84,85ページの図版]
人々は義を学びます
-
-
『王国をいつも第一に求めなさい』唯一まことの神の崇拝において結ばれる
-
-
11章
『王国をいつも第一に求めなさい』
1 (イ)1,900年前にイエスはなぜ王国を第一に求めるようにと言われましたか。(ロ)わたしたちはどのように自問すべきでしょうか。
1,900年余の昔,イエスはガリラヤで行なったある講話の中で,その話を聞いていた人たちに,「ですから,王国と神の義をいつも第一に求めなさい」と激励しました。しかし,それはどうしてでしょうか。キリストが即位なさる時は何世紀も先のことだったのではありませんか。そのとおりです。しかしそのメシアの王国は,エホバの聖なるみ名を擁護し,地に対するその偉大な目的を成就する手段なのです。このことの重要性を本当に認識する人はだれでも,自分の生活の中で王国を第一にしようと考えます。このことは1世紀当時でも真実でしたし,今はその王国が支配しているのですから確かに真実です。あなたの生き方は,神の王国を第一に求めていることを示していますか。―マタイ 6:33。
2 一般の人々がしきりに追求するのはどんな事柄ですか。
2 一般の人々はむしろほかの事柄に関心を抱いています。人々は富や,衣食その他,金銭で求め得る物質上の所有物および快楽をしきりに追求します。(マタイ 6:31,32)そのような人々の生き方は自己の利害や快楽に夢中になっていることを反映しています。たとえ神を信じているとしても,それらの人の生活の中では神のことは第二にされています。
3 (イ)イエスはどんな宝を求めるよう弟子たちを励まされましたか。それはなぜですか。(ロ)なぜ物質上の必要物について過度に心配する必要はありませんでしたか。
3 しかし,イエスは弟子たちに対して,「あなた方は自分のために地上に宝を蓄えるのをやめなさい」という助言をお与えになりました。というのは,そのような所有物は何一つ永久に存続するものではないからです。エホバに仕えることによって,「むしろ,自分のために天に宝を蓄えなさい」とイエスは言われました。イエスはただ一つの事柄,すなわち神のご意志を行なうことに注意を集中して,目を「純一」に保つよう追随者たちを激励されました。そして,「あなた方は神と富とに奴隷として仕えることはできません」と,彼らに話されました。しかし,物質上の必要物,すなわち衣食住についてはどうですか。イエスは,「思い煩うのをやめなさい」と勧められました。そして,鳥に,すなわち神は鳥を養っておられるということに注意を促しました。また草花から,すなわち神は草花を美しく装わせておられるということから学ぶようご自分の弟子たちを励まされました。エホバの僕である理知のある人間はそのようなもののどれよりも価値があるのではありませんか。「ですから,王国と神の義をいつも第一に求めなさい。そうすれば,これらほかの[必要な]ものはみなあなた方に加えられるのです」と,イエスは言われました。(マタイ 6:19-34)あなたはこのことを信じておられますか。あなたの行動はそのことを示していますか。
王国の真理をふさがれないようにしなさい
4 もし人が物質上の物を重視し過ぎると,その結果はどうなる場合がありますか。例を挙げて説明してください。
4 人が物質上の物のことでひどく心配し過ぎると,悲惨な結果を招く恐れがあります。たとえ王国に関心があると言っても,もしその心の中でほかの事柄を第一にするなら,王国の真理はふさがれてしまうでしょう。(マタイ 13:18,19,22)一例として,ある時,一人の若い金持ちの支配者が,「永遠の命を受け継ぐためには何をしなければならないでしょうか」と,イエスに尋ねました。イエスの返答に応じたその人のことばは,彼が品行方正な生活をして,他の人々を正しく扱っていたことを示しました。しかし,その人は物質上の所有物に愛着を持ち過ぎていました。キリストの追随者となるためにそれらのものを手放す気持ちにはなれませんでした。それで,天の王国でキリストと共に治める支配者になれる機会を逃しました。その時イエスが言われたように,「お金を持つ人々が神の王国に入るのは何と難しいことなのでしょう」。―マルコ 10:17-23。
5 (イ)パウロはどんな物で満足するようテモテを励ましましたか。それはなぜですか。(ロ)サタンは「金銭に対する愛」をどのように破滅的なわなとして用いますか。
5 何年もの後,使徒パウロは当時,富裕な商業中心地であったエフェソスにいたテモテに手紙を書き送りました。そして,彼に次のように思い起こさせました。「わたしたちは世に何かを携えて来たわけではなく,また何かを運び出すこともできない(の)です。ですから,命を支える物と身を覆う物とがあれば,わたしたちはそれで満足するのです」。自分自身と自分の家族のために適当な「命を支える物と身を覆う物」を備えるために働くのは正しいことです。しかしパウロは,「富もうと思い定めている人たちは,誘惑とわな,また多くの無分別で害になる欲望に陥り,それは人を滅びと破滅に投げ込みます」と警告しました。サタンはこうかつです。ですから,最初は,ささいな仕方で人を唆すかもしれません。多くの場合,それに続いて一層大きな圧力が加えられます。つまり,もしかするとそれは,報酬は増えるものの以前霊的な事柄のために充てていた時間を要求する役職への昇進の機会かもしれません。わたしたちが用心していない限り,「金銭に対する愛」は最も重要な王国の関心事をふさいでしまう恐れがあります。パウロが述べるとおり,「ある人たちは[金銭に対する]この愛を追い求めて信仰から迷い出,多くの苦痛で自分の全身を刺し(ました)」。―テモテ第一 6:7-10。
6 (イ)わなに陥らないようにするため,わたしたちは何を行なわねばなりませんか。(ロ)今日の世界の経済事情から見てそれは現実的なことですか。
6 パウロはクリスチャンの兄弟に対する純粋の愛をもって,「こうした事から逃げ去りなさい」,また,『信仰の戦いをりっぱに戦いなさい』と述べて,テモテを激励しました。(テモテ第一 6:11,12)わたしたちの周りの世の物質主義的な生き方と共に押し流されないようにするには,真剣な努力が必要です。しかし,もしわたしたちが自分の信仰と調和して本当に努力するなら,エホバは決してわたしたちを見捨てたりはなさいません。諸物価の高騰や一般化する失業事情にもかかわらず,エホバは必ずわたしたちが本当に必要としているものを得させてくださいます。―ヘブライ 13:5,6。
初期の弟子たちは型を示す
7 イスラエルで宣べ伝える業を行なわせるため使徒たちを遣わした時,イエスは彼らにどんな指図をお与えになりましたか。それはなぜ適切でしたか。
7 イエスはご自分の弟子たちに適当な訓練を施された後,良いたよりを宣べ伝えさせるため彼らをイスラエルに遣わされました。「天の王国は近づいた」。それは何と感動的な音信だったのでしょう。メシアなる王,イエス・キリストが彼らの中におられたのです。使徒たちは神への奉仕に専念していたので,イエスは神が顧みてくださるという確信を抱くよう彼らを激励しました。それで,こう言われました。「旅のために何も,杖も食物袋も,パンも銀子も携えて行ってはなりません。また,二枚の下着を持ってもなりません。しかし,どこでも家の中に入ったなら,そこにとどまり,その後そこを去りなさい」。(マタイ 10:5-10。ルカ 9:1-6; 10:4-7)エホバはそれら使徒たちの必要を仲間のイスラエル人の手を通して満たすよう取り計らわれました。それらイスラエル人は見知らぬ人を親切にもてなすことを習慣にしていたのです。
8 (イ)イエスはなぜ死ぬ少し前に別の指図をお与えになりましたか。(ロ)それにしても,使徒たちは生活の中でやはり何を第一にしなければなりませんでしたか。
8 後日,イエスは死ぬ少し前に,使徒たちが変化した事情のもとで働くようになることに注意を喚起しました。公の反対が生ずる結果,イスラエルでは親切なもてなしはそれほどたやすく受けられなくなる可能性がありました。また,使徒たちはやがて王国の音信を異邦人の土地に伝えることになっていました。その時には,彼らは「財布」や「食物袋」を携えてゆくことになるのです。そうではあっても,使徒たちは自分たちに必要な命を支える物と身を覆う物を得る努力を神が祝福してくださることを確信して,エホバの王国とその義をいつも第一に求めてゆかなければなりませんでした。―ルカ 22:35-37。
9 (イ)パウロはどのように王国を第一にしましたか。(ロ)彼の身体面の必要物はどのようにまかなわれましたか。(ハ)彼はこれらの事柄に関して他の人々にどんな助言を与えましたか。
9 使徒パウロはイエスの助言を適用する仕方の優れた模範を示しました。パウロは奉仕の務めを中心にしてその生活を確立しました。(使徒 20:24,25)宣べ伝える業を行なうためある地方に入った時,彼はテント作りの仕事をして自分自身の物質上の必要な物をまかないました。彼は他の人々に世話をしてもらうことを期待しませんでした。(使徒 18:1-4。テサロニケ第一 2:9。コリント第一 9:18)しかし,彼はほかの人々が親切なもてなしや贈り物をして,愛や感謝を表わそうとした時にはそれを感謝して受けました。(使徒 16:15,34。フィリピ 4:15-17)彼は宣べ伝える業にあずかるよう出かけるために家族に対する責務をなおざりにするのではなく,むしろ様々な責任を平衡の取れた仕方で処理するようクリスチャンの男女を励ましました。そして,自らの手で仕事をし,家族の者を愛し,他の人々と惜しみなく物を分かち合うよう助言しました。(エフェソス 4:28。テサロニケ第二 3:7-12。テトス 2:3-5)パウロはまた物質上の所有物にではなく神に信頼し,生活の中でより重要な事柄を本当に理解していることを示すような仕方で自分の命を用いるよう激励しました。そうすることはイエスの教えと一致しており,神の王国とその義を第一に求めることを意味していました。―フィリピ 1:9-11。
王国をあなたの生活の中で第一にしなさい
10 (イ)『王国を第一に求める』とはどういう意味ですか。(ロ)しかし,何をおろそかにすべきではありませんか。
10 わたしたちは個人個人王国の良いたよりをどの程度他の人々と分かち合いますか。それはある程度わたしたちの事情によりますが,わたしたちの認識の深さに大いに依存しています。イエスは,『ほかにすることが何もない時に王国を求めなさい』とは言われなかったことを銘記してください。また,『王国についてたまに語りさえすれば,それだけで十分です』とも言われませんでした。さらに,『王国の関心事に熱心に取り掛かりなさい。しかしもし新秩序がなかなか来そうにもないなら,神への奉仕をいつも少しして,あとはもっとほかの人々と同じように生活しなさい』などとも言われませんでした。イエスは王国の重要性をよくご存じだったので,このことに関するみ父のご意志を言い表わして,「絶えず神の王国を求めてゆきなさい」,あるいは使徒マタイが記録したように,「ですから,王国と神の義をいつも第一に求めなさい」と言われました。(ルカ 12:31。マタイ 6:33)わたしたちは大抵,自分と自分の家族の物質面の必要物を顧みるために何らかの仕事をしなければなりませんが,もしわたしたちが本当に信仰を持っているなら,わたしたちの生活は神がその王国に関連してわたしたちに与えてくださった業を中心にして営まれてゆくでしょう。同時に,わたしたちは家族に対する責任をおろそかにするようなことはしません。―テモテ第一 5:8。箴言 29:15。
11 (イ)イエスは,王国の音信を広める点ですべての人が同じ量の働きを行なえるわけではないことをどのように例えで説明されましたか。(ロ)どんな要因がこのことに関係していますか。
11 中には,他の人々よりももっと多くの時間を野外宣教に充てることができる人々もいます。しかし,いろいろな種類の土に関するたとえ話の中でイエスは,りっぱな土のような心を持つ人たちがみな実を結ぶことを示されました。どれほどの実を結ぶのですか。個人の事情はそれぞれ異なります。年齢,健康および家族に対する責任などはみな要因です。しかし,純粋な感謝の念があれば,多くを成し遂げることができます。―マタイ 13:19,23。
12 若い人たちは特にどんな健全な霊的目標を考慮するよう励まされていますか。
12 王国宣教における自分の役割を拡大する助けとなる目標を持つのは良いことです。若い人々はあの熱心な若いクリスチャンであったテモテの優れた模範について真剣に考えるべきです。(フィリピ 2:19-22)若い人たちにとって普通の学校教育を修了する時,全時間の宣教を始める以上に優れたどんな業があるでしょうか。年長の人たちもやはり,健全な霊的目標を定めることによって益を受けられるでしょう。
13 (イ)人が個人個人王国奉仕で何を行なえるかを決めるのはだれですか。(ロ)もしわたしたちが本当に王国を第一に求めるなら,これは何を示す証拠となりますか。
13 もっと多くの事を行なえるのではないかと思える人たちのことを批判するよりもむしろ,わたしたちは自分の事情が許す限り十分に神に仕えるため,信仰に動かされて自分の改善を図るよう努力すべきです。(ローマ 14:10-12。ガラテア 6:4)ヨブの場合に示されたとおり,わたしたちは主に自分の物質上の所有物,自分の慰安や個人的な福利に関心を持っており,神に仕えるわたしたちの動機は利己的なものであるとサタンは主張しています。しかし,もしわたしたちが本当に王国を第一に求めるなら,わたしたちは悪魔が実際そうであるように紛れもない偽り者であることを証明することにあずかれるのです。自分の生活の中で第一にしているのは物質上の所有物でも個人的な慰安でもなく,神への奉仕であることを示す証拠を提出することになります。こうしてわたしたちはエホバを深く愛し,その主権を忠節に支持し,仲間の人間を愛していることを言葉と行ないで実証するのです。―箴言 27:11。ヨブ 1:9-11; 2:4,5。
14 (イ)野外奉仕のための予定はなぜ有益ですか。(ロ)多くの証人たちは野外宣教にどの程度あずかっていますか。それはなぜですか。
14 予定を立てると,そうしないで行なうよりも多くのことを成し遂げるのに役立ちます。エホバもご自分の目的を遂行するための「定めの時」をお持ちですから,わたしたちもそれに見倣うのは良いことです。(出エジプト 9:5。マルコ 1:15。ガラテア 4:4)もしできれば,毎週1回あるいはそれ以上の所定の時に野外宣教に加わるのは良いことです。世界中でこれまで何十万人ものエホバの証人が補助開拓者の一員となって,良いたよりを宣べ伝える業に1日平均2時間あるいはそれ以上の時間を喜んで費やしています。ある人々はこの業を定期的に行なっており,他の人々は年に数回そうしています。さらに何万人もの大勢の人々は王国の音信をふれ告げるために1日平均少なくとも3時間を費やして正規開拓者として奉仕しています。ほかには特別開拓者や宣教者として王国奉仕にさらに多くの時間を費やしています。また,実際に野外宣教に携わっていようがいまいが,わたしたちはあらゆる適当な時に,だれでも耳を傾ける人と王国の希望を共にする機会を求めることができます。(ヨハネ 4:7-15と比べてください。)わたしたちはみな,「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」と言われたイエスの預言に含まれている意味を真剣に考えるべきです。わたしたちの願いは自分の事情が許す限り十分にその業にあずかることであるべきです。―マタイ 24:14。エフェソス 5:15-17。
15 わたしたちの宣教に関連して,コリント第一 15章58節の助言はなぜ時宜を得たものであると思われますか。
15 エホバの証人は自分たちの住んでいる国に関係なく,地上のあらゆる場所で一致して,奉仕のこのすばらしい特権に活発にあずかっています。証人たちは,「あなた方の労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから,堅く立って,動かされることなく,主の業においてなすべき事を常にいっぱいに持ちなさい」という霊感による聖書の助言を自分自身に適用しています。―コリント第一 15:58。
復習のための討議
● イエスは王国を第一に求めるようにと言われた時,何を第二にすべきであることを示唆しておられましたか。
● わたしたちは自分自身と自分の家族の物質面の必要物を顧みることをどうみなすべきですか。神はどんな助けをわたしたちにお与えになりますか。
● 少しでもあずかりさえすれば,王国奉仕でどれほど多くを行なうかは大した問題ではありませんか。それはなぜですか。
-
-
あなたの受けるバプテスマの意味唯一まことの神の崇拝において結ばれる
-
-
12章
あなたの受けるバプテスマの意味
1,2 (イ)水のバプテスマはどうしてわたしたち各人にとって個人的な関心のある事柄ですか。(ロ)2節に挙げられている質問にあなたは簡単にどうお答えになりますか。
西暦29年にイエスはヨルダン川で浸礼をお受けになりました。エホバご自身もそれを見守り,是認を表明されました。(マタイ 3:16,17)3年半の後,復活させられた後で,イエスは弟子たちに指図を与えて,こう言われました。「わたしは天と地におけるすべての権威を与えられています。それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし……彼らにバプテスマを施し(なさい)」。(マタイ 28:18,19)あなたはイエスがそこで命令されたことと一致してバプテスマをお受けになりましたか。あるいは,そうする用意をしておられますか。
2 そのどちらの場合でもバプテスマについてはっきりと理解することは重要です。考慮するに値する次のような質問があります。今日のクリスチャンのバプテスマの意味は,イエスの受けられたバプテスマのそれと同じですか。聖書がバプテスマについて述べていることはみなあなたに当てはまりますか。キリスト教の水のバプテスマの意味する事柄と一致した生活をすることには何が関係していますか。
ヨハネによって施されたバプテスマ
3 ヨハネのバプテスマはだれに限られていましたか。
3 イエスがバプテスマをお受けになる約6か月前に,バプテストのヨハネはユダヤの荒野に出かけて行って,「悔い改めなさい。天の王国は近づいたからです」と宣べ伝えました。(マタイ 3:1,2)その地方全域から来た人々はヨハネの言うことを聞き,自分たちの罪を公に告白し,ヨルダン川でヨハネによりバプテスマを施されました。そのバプテスマはユダヤ人のためのものでした。―使徒 13:23,24。ルカ 1:13-16。
4 (イ)ユダヤ人はなぜ悔い改める必要に迫られていましたか。(ロ)もし彼らが『火でバプテスマを施される』のを回避するとしたら,何が求められましたか。
4 それらユダヤ人は悔い改める必要に迫られていました。彼らの父祖は西暦前1513年にシナイ山でエホバ神と国家的な契約を結んでいました。しかし彼らはその契約のもとで自分たちの責任を果たさなかったために,その契約によって罪人と宣告されました。彼らは重大な局面に立たされていました。マラキの予告した「大いなる,畏怖の念を抱かせる日」が近づいており,それは西暦70年に速やかな滅びとしてエルサレムに臨みました。真の崇拝に対するエリヤのような熱心さを抱いたバプテストのヨハネは,その滅びに先立って,「準備のできた民をエホバのみまえに整えるため」に遣わされました。彼らは律法契約に対する罪を悔い改め,エホバが彼らに遣わそうとしておられた,神のみ子を受け入れるよう心と思いを整える必要がありました。(マラキ 4:4-6。ルカ 1:17。使徒 19:4)ヨハネが説明したとおり,神のみ子は聖霊(そのバプテスマを弟子たちは西暦33年のペンテコステの際に初めて経験した)で,また火(それは西暦70年に悔い改めない者に滅びをもたらした)でバプテスマを施すことになっていました。(ルカ 3:16)その『火のバプテスマ』を個人的に経験しないようにするには,それら1世紀のユダヤ人は悔い改めの象徴として水でバプテスマを受ける必要がありましたし,機会が開かれたなら,イエス・キリストの弟子とならなければなりませんでした。
5 (イ)イエスがバプテスマを受けるためにやって来られた時,ヨハネはなぜそれに異議を唱えましたか。(ロ)イエスがお受けになった水のバプテスマは何を象徴するものでしたか。(ハ)イエスはご自分に対する神のご意志を成し遂げることをどれほど真剣にお考えになりましたか。
5 バプテスマを受けるためにヨハネのもとにやって来た人々の中にはイエスご自身もいました。しかしどうしてですか。イエスには告白すべき罪が少しもないことをヨハネは知っていました。それで彼は,「私こそあなたからバプテスマを受ける必要のある者ですのに,あなたが私のもとにおいでになるのですか」と言いました。しかし,イエスが受けようとしておられたバプテスマはある別の事柄を象徴するものでした。そこでイエスは,「この度はそうさせてもらいたい。このようにしてわたしたちが義にかなったことをすべて果たすのはふさわしいことなのです」とお答えになりました。(マタイ 3:13-15)イエスのお受けになったバプテスマは罪を悔い改めることを象徴するものではあり得ませんでした。また,イエスは神に献身する必要もありませんでした。というのは,イエスはエホバに既に献身した国民の一員だったからです。むしろ,30歳でユダヤ人として成年に達してお受けになったそのバプテスマは,天のみ父のそれ以上のご意志を行なうためにご自身を差し出すことを象徴するものでした。「人間キリスト・イエス」に対する神のご意志には,王国に関連する活動と共に,贖いとして,また新しい契約の基礎としてのイエスの完全な命の犠牲も関係していました。(ルカ 8:1; 17:20,21。ヘブライ 10:5-10。マタイ 20:28; 26:28。テモテ第一 2:5,6)イエスはご自分がお受けになった水のバプテスマの象徴した事柄を非常に真剣にお考えになりました。ですから,他の関心事に興味がそらされるのを許したりはなさいませんでした。イエスはその地上の生涯の終わりに至るまで神のご意志を行なうことを貫き通しました。―ヨハネ 4:34。
死へのバプテスマ
6 イエスはほかのどんなバプテスマを経験なさいましたか。それはどれほどの期間にわたるものでしたか。
6 イエスはご自分の受けた水のバプテスマの象徴する事柄と一致して,別のバプテスマをも経験されました。イエスは神によりご自分の前に定められた割り当てのために自分の人間としての命を犠牲として捨てる結果になりますが,三日目に霊においてよみがえらされることを知っておられました。そして,このことを一種のバプテスマと言われました。この「バプテスマ」は西暦29年に始まりましたが,イエスが実際に死んで復活させられるまでは完了しませんでした。ですから,水による浸礼をお受けになってから約3年後に適切にも次のように言うことがおできになりました。「わたしには受けるべきバプテスマがあります。それが終わるまで,わたしはどんなにか苦しむことでしょう」― ルカ 12:50。
7 (イ)ほかにだれが死へのバプテスマを受けますか。(ロ)だれがこのバプテスマを施しますか。
7 キリストと共にその天の王国で治める人たちも同様に死へのバプテスマを受けなければなりません。(マルコ 10:37-40。コロサイ 2:12)それらの人たちもイエスがなさったように,自分たちの死に際してその人間の命を永久に捨てます。そして,彼らは復活させられる時,イエスと天的な支配権を共にします。これはどんな人間でもなく,神によってその天的なみ子を通して施される一種のバプテスマです。
8 それらの人々はまた,「キリスト・イエスへのバプテスマを受け」ますが,これは何を意味していますか。
8 イエスの死へのバプテスマを受ける人たちはまた,『キリスト・イエスへのバプテスマを受ける』とも言われています。それらの人々はキリストの,霊によって油そそがれた会衆,つまりその「体」の成員として,キリストを通して送られる聖霊により,自分たちの頭であるキリストと結ばれるようになります。その霊の助けでそれらの人たちはキリストの優れた人格を反映することができるので,その人たちについて彼らは皆,「キリスト・イエスと結ばれて一人の人」となると言うことができます。―ローマ 6:3-5。コリント第一 12:13。ガラテア 3:27,28。使徒 2:32,33。
クリスチャンである弟子たちの水のバプテスマ
9 (イ)マタイ 28章19節で指示されている仕方で初めてバプテスマが施されたのはいつでしたか。(ロ)この節に用意されている質問と聖句を用いて,バプテスマ希望者が認めなければならない事柄に関してイエスが何を示唆しておられたのかを分析してください。
9 イエスの最初の弟子たちはヨハネによって水でバプテスマを受け,次いでイエスの未来の霊的な花嫁の成員としてそのもとに導かれました。(ヨハネ 3:25-30)彼らもまたイエスの指導のもとでバプテスマを施すことを幾らか行ないましたが,そのバプテスマはヨハネのバプテスマと同じ意味を持つものでした。(ヨハネ 4:1-3)しかし,西暦33年のペンテコステに始まって,彼らは「父と子と聖霊との名において」バプテスマを施す任務を遂行しだしました。(マタイ 28:19)それが何を意味したかを,以下の質問と共に,参照されている聖句に照らしてもう一度考慮するのは非常に有益であることに気づかれるでしょう。
『父の名において』バプテスマを受けるには,人はみ父に関して何を認めなければなりませんか。(列王第二 19:15。詩編 3:8; 73:28。イザヤ 6:3。ローマ 15:6。ヘブライ 12:9。ヤコブ 1:17)
『子の』名によるバプテスマを受けるには何を認める必要がありますか。(マタイ 16:16,24。フィリピ 2:9-11。ヘブライ 5:9,10)
『聖霊の』名においてバプテスマを受けるためには人は何を信じなければなりませんか。(ルカ 11:13。ヨハネ 14:16,17。使徒 1:8; 10:38。ガラテア 5:22,23。ペテロ第二 1:21)
10 (イ)今日,クリスチャンの水のバプテスマは何を象徴するものですか。(ロ)これはイエスのお受けになったバプテスマとはどのように異なっていますか。(ハ)聖書に基づく資格を備えた人々はバプテスマを受けると何になりますか。
10 イエスがお与えになったそれらの指図にしたがって最初にバプテスマを受けた人々はユダヤ人(とユダヤ教への改宗者たち)で,これらの人々は一国民として既に神に献身した人々であって,西暦36年に至るまで神から特別の配慮を受けました。しかし,クリスチャンとしての弟子となる特権がサマリア人や異邦人に差し伸べられた時,それらの人々はバプテスマを受ける前に,み子の弟子として神に仕えるためエホバに無条件の献身をしなければなりませんでした。これが今日に至るまでずっとユダヤ人を含め,すべての人にとってクリスチャンの水のバプテスマの意義となっています。この『一つのバプテスマ』が真のクリスチャンとなる人々すべてに適用されます。こうしてそれらの人々はエホバのクリスチャン証人,つまり神の任命された奉仕者となります。―エフェソス 4:5。コリント第二 6:3,4。
11 (イ)クリスチャンの水のバプテスマは何に対応するものですか。また,どのように対応しますか。(ロ)こうして,クリスチャンは何から救われますか。
11 このようなバプテスマは神の目に大いに価値のあるものです。使徒ペテロはノアが箱船を建造し,その中に入って自分自身と家族を大洪水から守ったことに言及した後,そのことに注意を引きました。彼はこう書きました。「これに相当するもの,すなわちバプテスマ(肉の汚れを除くことではなく,神に対して正しい良心を願い求めること)がまた,イエス・キリストの復活を通して今あなた方を救っているのです」。(ペテロ第一 3:21)その箱船は,ノアが神のご意志を行なうために献身し,また神から割り当てられた仕事を忠実に行なったことを示す現実の証拠でした。その結果,ノアは保護されました。これに対応するものとして,復活させられたキリストに対する信仰に基づいてエホバに献身し,その象徴としてバプテスマを受け,次いで今日の神の僕たちに対するそのご意志を行なう人たちは現在の邪悪な世から救われます。(ガラテア 1:3,4)それらの人はもはや世の残りの人々と共に滅びに向かうことはありません。そのような人々はその滅びから救われており,正しい良心を神から与えられているのです。
わたしたちの責任を果たす
12 ただ単にバプテスマを受けたからといって救いが保証されているわけでないのはなぜですか。
12 バプテスマを受けさえすればそれで救いが保証されると結論するのは間違いです。それは人がイエス・キリストを通して本当にエホバに献身し,その後,神のご意志を遂行し,終わりまで忠実を保って初めて価値があるのです。―マタイ 24:13。
13 (イ)バプテスマを受けたクリスチャンの命の用い方に関する,神のご意志は何ですか。(ロ)クリスチャンとしての弟子の身分はわたしたちの生活の中でどれほど重要なものであるべきですか。
13 イエスに対する神のご意志には,人間としてのその命をどのように用いるかということも含まれていました。それは死に際して犠牲として捨てられなければなりませんでした。わたしたちの場合,自己犠牲の生活を実践するために自分の体を神に差し出さなければなりません。わたしたちの体は専ら神のご意志を行なうために用いなければなりません。(ローマ 12:1,2)たとえ時々であっても,もしわたしたちが故意に自分の周りの世の人々のように振る舞ったり,あるいはほんのしるしばかりの奉仕を神に行ないながら,もし利己的な事柄の追求を中心にして生活を築くなら,確かにわたしたちはそうしてはいないことになります。(ペテロ第一 4:1-3。ヨハネ第一 2:15-17)あるユダヤ人が永遠の命を得るために何を行なわなければならないかについて尋ねた時,イエスはその人に道徳的な清い生活を送ることの重要さを思い起こさせ,次いでクリスチャンという弟子であること,つまりイエスの追随者であることを生活の中で主要な事柄とする必要があることを指摘されました。それは物質追求の次の位置に置けるような事柄ではありませんでした。―マタイ 19:16-21。
14 (イ)クリスチャンにはみな王国に関するどんな責任がありますか。(ロ)101ページのさし絵に示されているとおり,この業を行なう幾つかの効果的な方法は何ですか。(ハ)もしわたしたちが本当にそのような活動に心を込めてあずかっているなら,それは何を示す証拠となりますか。
14 同時に,イエスに対する神のご意志には王国に関連した重要な活動が含まれていたことも記憶しておかなければなりません。イエスご自身は王となるために油そそがれた方でした。しかし,地上におられた時,イエスはまた王国に関する熱心な証人でもあられました。わたしたちにはなすべき同様の証言の業があり,心を込めてそれに携わるべき十分の理由があります。そうすることによって,わたしたちはエホバの主権に対するわたしたちの正しい認識や仲間の人間に対するわたしたちの愛を表明します。また,わたしたちは世界中の仲間の崇拝者たちと結ばれていることを示します。それら崇拝者たちはみな王国の証人で,その王国の領域における永遠の命という目標に向かって邁進しているのです。
復習のための討議
● イエスの受けられたバプテスマと今日の水のバプテスマとにはどんな類似点や相違点がありますか。
● ヨハネの施したバプテスマはだれのためのものでしたか。だれが死へのバプテスマを受けますか。また,だれが「キリスト・イエスへのバプテスマ」を受けますか。
● クリスチャンの水のバプテスマに関する責任を果たすことには何が関係していますか。
[101ページの囲み記事/図版]
あなたはどんな方法で王国についてふれ告げますか
戸別訪問によって
関心のある人々を再び訪問して
家庭聖書研究で
街路で
学校の友だちに
職場の仲間に
-
-
エホバのみ座の前にいる大群衆唯一まことの神の崇拝において結ばれる
-
-
13章
エホバのみ座の前にいる大群衆
1 (イ)キリスト教以前の神の僕たちも14万4,000人の人々も報いを受ける前に何を経験しなければなりませんか。(ロ)しかし,「大患難」が襲う時に生きている大群衆にとっては何が可能となりますか。
アベルからバプテスマを施す人ヨハネに至るまでの神の忠実な僕たちは神のご意志を行なうことを生活の中で第一にしましたが,これらの人々はみな死んで復活を待たなければなりませんでした。天の王国でキリストと共になる14万4,000人の人々もまた,報いを受ける前に死ななければなりません。これとは対照的に,実際に「大患難」を生き残って,死なずに永久に生きる見込みのある大群衆が存在するようになることを使徒ヨハネは幻の中で示されました。―啓示 7:9-17。
「大群衆」の実体を明らかにする
2 啓示 7章9節の「大群衆」の実体はどのようにして徐々にはっきりと理解されるようになりましたか。
2 この「大群衆」の実体は何世紀ものあいだ理解できませんでした。しかし,関係する種々の預言が漸進的に理解されて道が整えられました。1923年に,マタイ 25章31節から46節にあるイエスのたとえ話の「羊」とヨハネ 10章16節でイエスが言及された「ほかの羊」とはこの地上で永久に住む機会を持つ,今生きている人々であることが識別されました。1931年には,エゼキエル 9章1節から11節で書記官のインク入れを帯びた人によって額に印を付けられる者たちとして描写されている人々が,マタイ 25章の「羊」と同一であることが明らかにされました。次いで,1935年に啓示 7章9節から17節の「大いなる群衆」,つまり「大群衆」は羊とやぎに関するイエスのたとえ話の「羊」と同じであることが分かりました。1923年当時,それら羊のような人たちが既に少し現われはじめていたことが理解されていましたが,その数が急速に増大しはじめたのは1935年になってからのことです。今日,神の恵みを受ける「ほかの羊」のあの「大群衆」の一部とみなしてもらえるよう努力している文字どおり何百万もの人々がいます。
3 『み座の前に立っている』からといって,なぜ彼らが天的な級の人々であることを示していませんか。
3 「大群衆」の人々は,啓示の書のその同じ章の初めのほうで言及されている霊的なイスラエルの14万4,000人の成員とは区別されています。ヨハネはその幻の中でこの「大群衆」が天にいるのを見たのではありません。彼らが神の『み座の前に立っている』(ギリシャ語: 「エノーピオン トゥー スロヌー」,つまり「み座の見るところに」)からといって天にいなければならないという意味ではありません。彼らの位置は事実上,天から人の子らを見ていると語っておられる神の「見るところに」あるのです。(啓示 7:9。詩編 11:4。詩編 100:1,2と,「王国行間逐語訳」のルカ 1:74,75および使徒 10:33とを比べてください。)同様に,マタイ 25章31,32節で描写されているように,「すべての国の民」がキリストの座の前(文字どおりには,「彼の前に」)にいるには必ずしも天にいる必要はありません。「だれも数えつくすことのできない大群衆」が天的な級の人々でないことは,啓示 7章4節から8節と14章1節から4節とを比べると分かります。そこでは,地から取られて天に行く人々の明確な人数が明らかにされています。
4 (イ)彼らの生き残る「大患難」とは何ですか。(ロ)啓示 7章11,12節に述べられているように,だれが「大群衆」を見守り,彼らと共に崇拝に加わりますか。
4 ヨハネは「大群衆」の実体を示して,『これは大患難から出て来る者たちである』と書いています。彼らは実際,地上でそれまでに経験する最大の大患難を生き残ることになります。(啓示 7:13,14。マタイ 24:21)その畏怖の念を起こさせるエホバの日を生き残る人々は,自分たちの救出に関して責任を持っておられる方がだれかについては一点の疑いも持っていません。彼らは感謝の念を抱いて自分たちの救いを神と子羊とに帰し,次いで,ヨハネが幻で見たように,天のすべての忠実な被造物は唯一まことの神を崇拝して彼らと共に声を和し,次のように言うでしょう。「アーメン! 祝福と栄光と知恵と感謝と誉れと力と強さが,わたしたちの神に限りなく永久にありますように。アーメン」― 啓示 7:11,12。
生き残るのにふさわしいかどうかを試される
5 (イ)わたしたちはどうすれば,保護される「大群衆」の一部となるために何が要求されているかを確認できますか。(ロ)この節の終わりにある質問に答えて,「大患難」を生き残るために何が要求されているかを説明してください。
5 「大群衆」は,エホバご自身の義にかなった規準にしたがって守られることになります。救出される人々がどんな人であるかを明らかにする特徴をはっきり示す事柄が,彼らに言及している聖書の預言の中に具体的に表現されています。ですから,義を愛する人々は生き残るために今行動することができます。次に挙げた聖句はこれまで既に言及したものです。しかし,ほかにも参照されている聖句を助けにして,今それを注意深く分析し,それらの預言的な説明に合うようにするために何を行なわなければならないかを考慮してください。
ヨハネ 10章16節で言及されている「ほかの羊」
人がイエスの声を本当に聴くとはどういうことを意味していますか。(ヨハネ 10:27。マタイ 9:9。エフェソス 4:17-24)
わたしたちはどうすれば,キリストをわたしたちの「一人の羊飼い」として認めていることを示せますか。(マタイ 23:10,11)
イエスの羊とやぎの例えの中の「羊」(マタイ 25:31-46)
それらの人々から善行をされるキリストの「兄弟」たちとはだれですか。(ヘブライ 2:10,11; 3:1)
それらの人々はどんな困難な事情のもとで,地上にいるキリストの兄弟たちの同志となるよう求められていますか。また,どんな業で忠節な援助を行ないますか。(啓示 12:12,17。マタイ 24:14; 28:19,20)
書記官のインク入れを帯びた人によって,生き残れるよう印を付けられる人々(エゼキエル 9:1-11)
彼らは対型的なエルサレム,つまりキリスト教世界で行なわれている忌むべき事柄と融和できないことをどのように示しますか。(啓示 18:4,5)
彼らと見せかけのクリスチャンとを区別し,彼らを保護される見込みのある人とするその「印」には何が含まれていますか。(ペテロ第一 3:21。マタイ 7:21-27。ヨハネ 13:35)
6 「大群衆」に関してヨハネが描写した事柄は,彼らが守られた理由を理解するのにどのように役立ちますか。
6 さらに,啓示 7章9節から15節に見られる「大群衆」に関する説明は重要な詳細な点を付け加えています。その聖句は「大群衆」の人々がどのように「大患難」の後に現われるかを述べる際,彼らが守られるに至ったその要因にも注意を引いています。
7 彼らは「大患難」の前に何を行ないましたか。このことはどのように示唆されていますか。
7 彼らはあらゆる国民と部族と民と国語の中から来ますが,一致結束して『み座の前に立って』,み座に座っておられる方であるエホバを宇宙の主権者として認めている様子が示されています。彼らは自分たちがエホバの支配権を忠節に擁護する者であることをその生き方によって証明しました。彼らが「自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした」ことは,罪を贖う,神の子羊としてのイエスの犠牲の価値の必要を認めていることを示します。(ヨハネ 1:29。ヨハネ第一 2:2)彼らは信仰を抱いてその犠牲に基づいて神に献身し,その献身を水の浸礼によって象徴したので,今やその白い長い衣によって表わされている,神のみ前における清い立場を享受しています。彼らは神のみ子に対する自分たちの信仰を公に知らせることを差し控えませんでした。(マタイ 10:32,33)このすべてと一致して,彼らは神に対し,『昼も夜も神聖な奉仕』を行なう崇拝者として神の神殿,つまり宇宙的な崇拝の家にいることが示されています。こうして,彼らは真の崇拝の忠節な擁護者ならびに神の王国の宣明者としての記録を作ってきました。―イザヤ 2:2,3。
8 この情報をわたしたちにとって真に有益なものとするには,わたしたちは何をしなければなりませんか。
8 これらの詳しい預言的な描写はあなたによく当てはまりますか。あなたの生活をここで述べられている事柄に一層十分に合わせる必要のある点がありますか。もしそうでしたら,今こそそうすべき時です!
霊的なパラダイスの中で生活する
9 ヨハネは「大群衆」が今や享受している霊的な祝福をどのように述べていますか。
9 あなたは「大群衆」に属する者として生き残ることを望んでいる人の一人ですか。もしあなたがエホバの義の道に従っておられるなら,あなたは確かに,いみじくも霊的パラダイスと呼ばれている,約束された状態を既に享受しはじめておられます。使徒ヨハネは次のように告げられました。「彼らはもはや飢えることも渇くこともなく,太陽が彼らの上に照りつけることも,どんな炎熱に冒されることもない。み座の真ん中におられる子羊が,彼らを牧し,命の水の泉に彼らを導かれるからである。そして神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去られるであろう」。(啓示 7:16,17)あなたの場合,これはどのように真実となりましたか。
10 (イ)「大群衆」が『もはや飢えることも渇くこともない』ということは,霊的な意味でどのように真実ですか。(ロ)あなたはこのことを経験してこられましたか。
10 立派な羊飼い,イエス・キリストの愛ある世話を受けられるようになる以前,あなたは義に飢え渇いておられましたか。(マタイ 5:6と比べてください。)もしそうでしたら,あなたが渇望していたのは,み子を通して,ただエホバによってのみ備えられ得るものだったのです。あなたがエホバの義の道について,つまり邪悪な者たちを滅ぼすその目的,さらにアダムの子孫の救いを可能にしているその過分のご親切について学んだ時,あなたはきっとご自分の人生で初めて真の満足を覚えられたに違いありません。神の組織を通して提供される,神のみ言葉からの霊的な食べ物や飲み物は,引き続きあなたに満足をもたらすものとなってきました。(イザヤ 65:13,14)それに,もしあなたがキリストを通して神に献身なさったのなら,今やあなたは人生に真の目的を持っておられます。(ヨハネ 4:32-34と比べてください。)あなたの前には楽園の地上でとこしえの命を享受する喜ばしい見込みがあります。なぜなら,子羊が「命の水の泉に[「大群衆」]を導かれる」からです。
11 (イ)『太陽も,どんな炎熱ももはや彼らを冒さない』ということは,どんな点で真実ですか。(ロ)それはあなたにとってどれほど重要なことですか。
11 「大群衆」の人々はまた,疑いを知らない「羊」のように,立派な羊飼いによって保護され,また安全に導かれます。そのようなわけで,比ゆ的に言って,『太陽も,どんな炎熱ももはや彼らを冒さない』のです。これは,「大群衆」の一人としてあなたがこの世からの迫害に遭わないという意味ではありません。むしろそれは,あなたが神の不興という炎熱から保護されていることを意味しています。ですから,神が邪悪な者たちに滅びをもたらす時,それはあなたを滅びに陥らせるものとはなりません。この恵まれた関係は永久に存続できます。―エゼキエル 38:22,23。詩編 11:6; 85:3,4と比べてください。
12 今でさえ,あなたの目からどのように涙がぬぐい去られていますか。
12 もしあなたが本当にその「大群衆」の一人でしたら,あなたには喜ぶべき何とすばらしい理由があるのでしょう。あなたには,邪悪な者たちが完全に除き去られるのを見,次いで自分の思いと体が実際に罪のすべての影響から解放されるという驚嘆すべき希望があるのです。しかし,今でさえ,あなたは人々が神を知らないために経験している深い悲しみで苦しめられることがないのです。あなたはエホバを自分たちの神とする民にのみ属する喜びを知るようになっておられます。(詩編 144:15後半)こうしてあなたは,「神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去られるであろう」という約束の成就を既に経験しはじめておられるのです。
13 キリストの千年統治が進展するにつれ,何が霊的なパラダイスの喜びを増し加えるものとなりますか。
13 「大群衆」がこの事物の体制の終わりを生き残るのと全く同様,霊的パラダイスも存続します。もしあなたがそれらの人の一人でしたら,あなたはキリストの千年統治が進展するにつれ,あなたは肥えたものの備えられる霊的な宴を引き続き享受できるでしょう。神の確かな目的が輝かしい仕方で実現されるのを見るとき,神に関するあなたの知識は深められるでしょう。真の崇拝においてあなたと結ばれるよう,増大する大勢の人々が死人の中から戻って来るのを歓迎することにあずかるとき,あなたの喜びは増し加えられるでしょう。そして,そのとき与えられる身体面の祝福は,とりわけ神の忠節な僕たちすべてにとって貴重なものでしょう。それはエホバご自身の愛の表現となるからです。―イザヤ 25:6-9。ヤコブ 1:17。
復習のための討議
● 聖書はどんな異例の出来事を「大群衆」と結びつけていますか。どのようにそうしていますか。
● もしわたしたちが神から祝福されるその「大群衆」に含められることを本当に願うなら,わたしたちは今何をしなければなりませんか。
● 霊的なパラダイスの祝福はあなたにとってどれほど重要ですか。
-
-
『わたしはあなた方と王国のための契約を結びます』唯一まことの神の崇拝において結ばれる
-
-
14章
『わたしはあなた方と王国のための契約を結びます』
1 イエスは死ぬ前の夜,使徒たちの前にどんな見込みを置かれましたか。
イエスがご自分の忠実な使徒たちに,『わたしの父の家には住むところがたくさんあります。わたしはあなた方のために場所を準備しに行こうとしています。わたしのいる所にあなた方もまたいるためです』と話されたのは,死刑に処される前夜のことでした。イエスはさらに,「わたしは,ちょうどわたしの父がわたしと契約を結ばれたように,あなた方と王国のための契約を結び(ます)」と,彼らに言われました。(ヨハネ 14:2,3。ルカ 22:29)何という驚くべき見込みを彼らの前に置かれたのでしょう。
2 どれほど多くの人がキリストとその天の王国を共にすることになりますか。
2 しかしイエスは,それらの使徒たちだけが天の王国でご自分と一緒に支配するようになることを意味しておられたのではありません。後日,地から請け戻される14万4,000人がそのすばらしい特権を得ることが知らされました。(啓示 5:9,10; 14:1,4)今日,それをとらえようと努力している人がいますか。
王国の相続者を集める
3 イエスは公の奉仕の務めに携わった時,どんな機会に注意を引かれましたか。
3 バプテスマを施す人ヨハネがヘロデ・アンテパスによって投獄された後,イエスは「天の王国」に注意を集中して公に宣べ伝える熱心な運動を開始されました。(マタイ 4:12,17)そして,その王国に入る機会があることを人々に気づかせ,弟子たちはその賞を得ようと真剣に努力しました。―マタイ 5:3,10,20; 7:21; 11:12。
4 (イ)イエスの最初の弟子たちはいつ聖霊で油そそがれましたか。(ロ)その時以降,王国相続者を集めることに注意が向けられてきたことを何が示していますか。
4 西暦33年のペンテコステに際して,それら弟子たちの最初の人々が聖霊で油そそがれました。(使徒 2:1-4。コリント第二 1:21,22)そして,不滅の天的な命を得させる救いのための神の備えが知らされました。ペテロはこの知識の秘密を,最初はユダヤ人に,次にサマリア人に,次いで異邦諸国民の人々に対して解くため「天の王国のかぎ」を用いました。(マタイ 16:19)千年間人類を支配するその政府を作ることに特別の注意が向けられていたので,クリスチャン・ギリシャ語聖書の中の霊感を受けて記された手紙はほとんどすべて,主に王国相続者のこのグループの人々,つまり「聖なる者たち」,「天の召しにあずかる人たち」にあてられています。a
5 それらの人々が天の命に召されたのは,彼らが以前生きていた人たちよりも優れた神の僕たちだったからですか。
5 それらの人々が天の命に召されたのは,西暦33年のペンテコステ以前に死んだ神の僕たちすべてよりも何らかの点で勝っていたためではありませんでした。(マタイ 11:11)むしろ,エホバが今や,イエス・キリストと共に治める仲間の支配者たちとなる人々を選びはじめられたのです。その後,およそ19世紀の間,唯一の召し,つまり天の召ししかありませんでした。それは神がご自分の賢明な愛ある目的の達成を促進する上で,限られた数の人々に付与された過分の親切でした。―エフェソス 2:8-10。
6 (イ)天の召しが閉ざされる時はなぜ必ず来ますか。(ロ)また,「大群衆」に関する預言も成就を見るようにするため,だれが物事を導かれますか。どんな事が実際に起きましたか。
6 やがて,14万4,000人という所定の限られた数は満たされるでしょう。これら霊的なイスラエル人を是認された者とし,最終的に証印を押す時は近づいています。(啓示 7:1-8)それでエホバは,ご自分の霊により,またその見える組織のためにみ言葉を理解できるようにさせることによって,啓示 7章9節から17節で述べられているご自分の目的のもう一つの面を成就させるよう物事を導かれます。あらゆる国の民の中から「大群衆」が集められることでしょう。それらの人々は大患難を生き残り,地的な楽園の中で完全な状態で永久に生きるという胸の躍るような見込みを持っているのです。これまで実際に起きてきた事柄を考えると,その一般的な天の召しは明らかに西暦1935年ごろまでに終わったと考えられます。その年に「大群衆」の地的な希望がはっきりと認識されました。それ以来,まさしくこの地上で永久に生きることを切に望んでいる,何百万ものエホバの崇拝者たちは,天的な級の比較的少数の何千人かの残っている人々と交わるようになってきました。
7 今日でもある人々が天の召しを受ける場合があり得ますか。なぜそのように答えますか。
7 これは,今はだれも神によって天の命に召されていないということを意味しますか。最終的に証印を押すことが行なわれるまで,その希望を持つある少数の人々が不忠実となり,その代わりにほかの人々が選ばれる場合も起こり得ます。しかし,それはまれなことと考えるのが妥当でしょう。
霊的な子たち ― 彼らはどうしてそれが分かりますか
8 パウロは,聖霊によって生み出された人たちがどのようにそのことに気づくかを示すため,どんな説明を行なっていますか。
8 神の霊はバプテスマを施されて天の召しを受けたクリスチャンに養子縁組によって霊的な子とされたことを示す明確な確信を与えます。使徒パウロはローマにいる「聖なる者」たちに手紙を書き送り,このことを示して,当時のすべての真のクリスチャンの立場がどのようなものかを述べました。彼はこう言いました。「神の霊に導かれる者はみな神の子……です。あなた方は,再び恐れを生じさせる奴隷身分の霊を受けたのではなく,養子縁組の霊を受けたのであり,わたしたちはその霊によって,『アバ,父よ!』と叫ぶのです。霊そのものが,わたしたちの霊と共に,わたしたちが神の子供であることを証ししています。さて,子供であるならば,相続人でもあります。実に,神の相続人であり,キリストと共同の相続人なのです。ただし,共に栄光を受けるため,共に苦しむならばです」― ローマ 1:7; 8:14-17。
9 「霊そのもの」はどのようにして,本当に神の子たちである人々の霊と共に『証しします』か。
9 ここで「霊」という言葉の二つの用法に注目できます。それは「霊そのもの」と「わたしたちの霊」という用い方です。この最初の霊は神の見えない活動する力です。それは神の自由な子供として養子にされたという確信をその霊的な子供たちのうちに起こさせます。その霊はまた,霊感によって記された神のみ言葉,つまり神の霊的な子供たちにあてられた個人的な手紙のようなものと言える聖書を通して証しをします。(ペテロ第一 1:10-12)聖霊によって生み出された人たちは,聖書が神の霊的な子たちである人々に対して述べる事柄を読むとき,『それはわたしに当てはまります』と正しく答え応じます。こうして,神ご自身の活動する力はさまざまな仕方で彼らの霊,つまり彼ら自身の思いや心に動機づけを行なう力と共に,彼らが神の子供たちであることを証しします。こうして,神の霊が示す事柄と一致して,彼らの思いや心はキリストと共同の相続人となるという見込みに向けられるようになり,彼らは神の霊的な子供たちの責任を受け入れます。―フィリピ 3:13,14。
10 (イ)どんな要素は,それだけでは人が油そそがれたクリスチャンであることを明らかにするものではありませんか。(ロ)「ほかの羊」は神の目的における自分たちの立場に関してどんな見方をしますか。
10 このことがあなたにも当てはまりますか。もしそうでしたら,あなたにはすばらしい特権があります。しかし,ある人がより深い霊的な事柄に対して鋭い関心を持っているとか,野外宣教に熱心であるとか,あるいは兄弟たちに対して熱烈な愛を持っているとかという理由でその人は霊によって油そそがれたクリスチャンであるに違いないと結論するとすれば,それは間違いです。実際,それらの事柄は「ほかの羊」の多くの人々を特徴づけているのです。彼らの心もやはり,キリストの共同の相続人に関して聖書の中で読む事柄によって動かされますが,彼らは自分たちのために神が取って置かれたのではないものを厚かましくも勝手に要求したりはしません。(民数記 16:1-40と比べてください。)彼らは地に対する神の最初の目的を認め,それにあずかることを目指して感謝の念を抱いて働きます。
ふさわしい仕方であずかる
11 例年の記念式にだれが出席しますか。それはなぜですか。
11 毎年,ニサン14日の日没後に,地上のあらゆる場所にいるイエス・キリストの油そそがれた追随者たちは,イエスが使徒たちにお与えになった指図に従って,その死を記念します。(ルカ 22:19,20)「ほかの羊」はパンとぶどう酒にあずかる者としてではありませんが,敬意を抱いて見守る者としてやはり出席します。
12 コリントにいた初期のクリスチャンの中には主の晩さんに対する正しい認識をどのように示し損なった人々がいましたか。
12 これは無意味な宗教儀式ではなく,強力な意味を持つ充実した行事なのです。ギリシャのコリントにいた1世紀のクリスチャンの中には,この行事に対して正しい認識を示さなかった人々もいましたが,使徒パウロはそれらクリスチャンに真剣な助言を書き送って,「だれでも,ふさわしくない仕方でパンを食べたり主の杯を飲んだりする人は,主の体と血に関して罪を負うことになります」と述べました。彼らはどうして「ふさわしくない仕方で」あずかる者となりましたか。彼らは心と思いの点で自分自身を正しく整えていませんでした。会衆には分裂がありました。また,ある人々はその集会前に飲食にふけっていました。彼らは無関心な態度で主の晩さんをあしらいました。彼らはパンとぶどう酒の重大な意義を悟れる状態ではありませんでした。―コリント第一 11:17-34。
13 記念式で回されるパンとぶどう酒にはどんな意義がありますか。
13 その意義とは何ですか。それはパンとぶどう酒が奇跡的に変質するという仮定などにあるのではありません。キリストはどの点から言っても記念式ごとに再び犠牲にされるということはありません。『キリストは多くの人の罪を負うため,ただ一度かぎりささげられました』と,聖書は述べています。(ヘブライ 9:28; 10:10。ローマ 6:9)パン種を入れないパンと赤いぶどう酒は犠牲にされたイエスの文字どおりの体とその流された文字どおりの血を表わす単なる表象物にすぎません。しかし,その実体は何と貴重なのでしょう。罪のないイエスの人間の体が与えられたのは,人類の世が永久に生きる機会を持つことができるようにするためでした。(ヨハネ 6:51)そして,その流された血は二重の目的にかないます。それは,その血に信仰を働かす人々を罪から清め,また神と,霊によって油そそがれたクリスチャンで構成される霊的なイスラエルの会衆との間の新しい契約を発効させるという目的です。(ヨハネ第一 1:7。コリント第一 11:25。ガラテア 6:14-16)「小さな群れ」の成員が神によって義と宣せられ,実際に人間としての完全さを有しているとみなされるようになっているのもこのような貴重な備えのおかげなのです。(ルカ 12:32)このことが行なわれているので,彼らは天の王国をキリストと共にすることを目指して,聖霊によって神の子たちとして生み出されることができるようになりました。彼らが毎年記念式の表象物にあずかり,そのようにして自分たちの天的な希望について証しするとき,キリストを仲介として立てられた「新しい契約」に入れられていることに対する認識が新たにされ,また深められるのです。―ヘブライ 8:6-12。
「わたしたちはあなた方と共に行きます」
14 (イ)「ほかの羊」はなぜ記念式の表象物にあずかりませんか。彼らは何を切に期待していますか。(ロ)彼らは王国相続者の残りの者との交わりをどう見ていますか。
14 「ほかの羊」はエホバがその油そそがれた者たちをどのように扱ってこられたかを悟り,彼らはそれら油そそがれた者たちに加わって,「わたしたちはあなた方と共に行きます。神があなた方と共におられることを聞いたからです」と言っています。(ゼカリヤ 8:20-23)彼らは互いに集まり合うだけでなく,王国の良いたよりを人の住む全地で知らせる業に共にあずかっています。しかし,「ほかの羊」は霊的なイスラエルと共に「新しい契約」に入れられてはいませんし,イエスと共に天的な命にあずかるようそれら選ばれた人たちとイエスが結ばれた「王国のための契約」にも含まれてはいないので,当然,記念式の表象物にはあずかりません。(ルカ 22:20,29)しかし,「新しい契約」はその目的を遂げて,天の王国のために「小さな群れ」の最後の成員を集めているので,これはその王国によって地上で「ほかの羊」の受ける祝福が近づいていることを示しており,「ほかの羊」はそのことを悟っています。そして,この「終わりの日」の間,王国相続者の忠節な残りの者と共に一致結束して奉仕することを特権とみなしています。
[脚注]
a ローマ人への手紙,コリント人への第一および第二の手紙,エフェソス人への手紙,フィリピ人への手紙,コロサイ人への手紙,テトスへの手紙,ペテロ第一および第二の手紙の冒頭の数節をご覧ください。また,ガラテア 3章26-29節,テサロニケ第一 2章12節,テサロニケ第二 2章14節,テモテ第二 4章8節,ヘブライ 3章1節,ヤコブ 1章18節,ヨハネ第一 3章1,2節,およびユダ 1節をもご覧ください。
復習のための討議
● クリスチャン・ギリシャ語聖書の大半の箇所で天的な希望に注意が向けられているのはなぜですか。
● 神の子たちとして生み出された人々は,どのようにしてそれを知りますか。彼らがあずかる記念式の表象物にはどんな意味がありますか。
● 「ほかの羊」は,自分たちが本当に「小さな群れ」と結ばれていることをどのように明らかに示しますか。
-
-
エホバはどのようにご自分の組織を導かれますか唯一まことの神の崇拝において結ばれる
-
-
15章
エホバはどのようにご自分の組織を導かれますか
1 聖書はエホバの組織に関するどんな情報を明らかにしていますか。それはわたしたちにとってなぜ重要ですか。
エホバは霊感を受けて記された聖書を通して,ご自分の驚嘆すべき天的な組織をわたしたちにかいま見させておられます。(イザヤ 6:2,3。エゼキエル 1:1,4-28。ダニエル 7:9,10,13,14)わたしたちは霊の被造物を見ることはできませんが,エホバは聖なるみ使いたちの活動が地上の真の崇拝者たちに影響を及ぼす仕方にわたしたちの注意を喚起させておられます。(創世 28:12,13。列王第二 6:15-17。詩編 34:7。マタイ 13:41,42; 25:31,32)聖書はまた,エホバの組織の見える部分について説明し,エホバがそれをどのように導いておられるかを理解するようわたしたちを助けています。もしわたしたちがこれらの事柄を理解する霊的な把握力を本当に持っているなら,それは「神にじゅうぶん喜ばれる者となることを目ざしてエホバにふさわしい仕方で歩む」ようわたしたちを助けるものとなります。―コロサイ 1:9,10。
その見える部分の実体を明らかにする
2 西暦33年のペンテコステ以来,何が神の会衆となりましたか。
2 イスラエル国民は1,545年間,神の会衆として存在していました。しかし,彼らは律法契約を守り損ない,神のみ子を退けました。そこで,エホバは一つの新しい会衆を成立させ,その新しい会衆との間に新しい契約を結ばれました。この会衆は,天でみ子と結ばれるために神によって選ばれた14万4,000人で構成される,キリストの「花嫁」として聖書の中でその実体が明らかにされています。(エフェソス 5:22-32。啓示 14:1; 21:9,10)その成員の最初の人々は西暦33年のペンテコステの時に聖霊で油そそがれました。エホバは,これこそ今やご自分の目的を成し遂げるためにお用いになる会衆であるということを示す明白な証拠を聖霊によってお与えになりました。―ヘブライ 2:2-4。
3 今日,だれがエホバの見える組織を構成していますか。
3 今日,その14万4,000人の残りの者だけが地上にいます。しかし,聖書預言の成就として,「ほかの羊」の大群衆がその残りの者と活発に交わるようになってきました。立派な羊飼いであるイエス・キリストは,これらの「ほかの羊」を霊によって生み出されたご自分の追随者たちの残りの者である人々と合体させて来られたので,彼らは自分たちの「一人の羊飼い」であられるイエスのもとにただ「一つの群れ」を形成しています。(ヨハネ 10:11,16。啓示 7:9,10)これらの人々すべてが今日,一つの一致した組織,つまりエホバの見える組織を構成しています。
神権的な構造
4 だれがその組織を導きますか。また,どのように導きますか。
4 「生ける神の会衆」という聖書的な表現は,だれがそれを導いているかということを明らかにしています。その組織は神権的,つまり神の支配する組織です。エホバは会衆の見える頭となるようご自分が任命した方,すなわち主イエス・キリストを通して,また霊感を受けて記されたご自分のみ言葉,聖書によって,ご自分の民のための指示を備えておられます。―テモテ第一 3:14,15。エフェソス 1:22,23。テモテ第二 3:16,17。
5 (イ)1世紀当時,会衆が天の指図を受けていたことはどのように明らかになりましたか。(ロ)イエスが依然会衆の頭であられることを何が示していますか。
5 会衆の最初の成員たちが西暦33年のペンテコステの際に聖霊によって奮起させられて行動を起こした時,こうした神権的な導きはひときわ目立った仕方で施されました。(使徒 2:1-4,32,33)それは,エホバのみ使いが種々の出来事を導いて,良いたよりがアフリカに広められるようにした時にも明らかに示されました。(使徒 8:26-39)タルソスのサウロの改宗の際にイエスの声が指示を述べた時,また異邦人の中で宣教者の業が開始された時にも同様のことが言えました。(使徒 9:3-7,10-17; 10:9-16,19-23; 11:12)しかし,必要な指図がいつもそのような目覚ましい仕方で与えられたのではありません。やがて,もはや天から声が聞こえることはなく,もはやみ使いが人々に現われることもなく,もはや霊の奇跡的な賜物もなくなりました。けれども,イエスはかつてその忠実な追随者たちに,「見よ,わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなた方と共にいるのです」と約束しておられました。諸事実はイエスがそうしておられることを示しています。(マタイ 28:20。コリント第一 13:8)単にエホバの証人がイエスの頭の権を認めているというだけでなく,イエスの助けがなかったなら,激しい敵意にもめげず証人たちが王国の音信を宣明し続けることも不可能だったことは明らかです。
6 (イ)だれが「忠実で思慮深い奴隷」を構成しますか。それはなぜですか。(ロ)イエスはその「奴隷」にどんな割り当てをお与えになりましたか。
6 イエスは死ぬ少し前に,ご自分が主人として特別の特権をゆだねることになる「忠実な思慮深い奴隷」について弟子たちに話されました。イエスの説明によれば,その「奴隷」は主が天に向かって去った時にも居合わせており,キリストが戻られる時にも依然生きていることになります。そのような説明は一個人にはどうしても当てはめることができません。しかし,それはキリストの忠実な油そそがれた会衆を全体として考えると確かに当てはまります。イエスはご自分の血で彼らを買い取ろうとしておられたことを知っていましたから,適切にも彼らのことを集合体としてご自分の「奴隷」と呼ばれました。イエスは彼らすべてに人々を弟子とし,『時に応じて[霊的な]食物』を与えて漸進的な仕方で霊的に養うよう命じて,なすべき業を彼らにお与えになりました。彼らが任命されたことは,西暦33年のペンテコステの際に聖霊によって確証されました。―マタイ 24:45-47; 28:19,20。コリント第一 6:19,20。イザヤ 43:10と比べてください。
7 (イ)その「奴隷」は今,増し加えられたどんな責任を持っていますか。(ロ)この経路を通して与えられる指図にわたしたちが答え応じるのはなぜ重要なことですか。
7 主人が戻ってくる時,もしその「奴隷」が自分の仕事を忠実に行なっているなら,その奴隷には増し加わる責任がゆだねられることになります。その後の何年もの期間は王国について世界的に証しする時となり,エホバの賛美者の「大群衆」が「大患難」の際に保護されてこれを切り抜けるという目的で集められるようになります。(マタイ 24:14。啓示 7:9,10)これらの人々もまた,霊的な食物を必要とするので,それはキリストの霊によって油そそがれた僕たちである複合の「奴隷」によって彼らに供給されることになります。わたしたちはエホバを喜ばせるためには,エホバがその経路を通して備えてくださる指図を受け入れ,全面的にそれに従って行動する必要があります。
8,9 (イ)1世紀当時,教理に関する問題を解決したり,良いたよりを宣べ伝えることに関連して必要な指示を与えたりするためのどんな取り決めがありましたか。(ロ)今日,同様のどんな取り決めがありますか。
8 もとより,教理や手続きに関する疑問が生ずる場合もあるかもしれません。その時にはどうしますか。使徒 15章は,異邦人の改宗者に対する要求に関するある論争がどのように解決されたかを述べています。それは,中央統治体として奉仕していたエルサレムの使徒や長老たちのところに持ち出されました。それら年長者たちは不謬ではありませんでした。つまり決して間違いをしない人たちではありませんでした。(ガラテア 2:11-14と比べてください。)しかし,神が彼らをお用いになりました。彼らは霊感による聖書が当面の問題について述べる事柄と共に,異邦人に働きかける分野を切り開く際の神の霊の働きを示す証拠を考慮し,それから決定を下しました。神はその取り決めを祝福されました。(使徒 15:1-29; 16:4,5)また,その中央機関からは,主ご自身が権限をお与えになった事柄と一致して良いたよりを宣べ伝える業を促進するために,個々の人々も派遣されました。―使徒 8:14。ガラテア 2:9。
9 今日,統治体はさまざまな土地の出身の霊によって油そそがれた兄弟たちで構成されており,それはエホバの証人の世界本部に置かれています。統治体はイエス・キリストの頭の権のもとで清い崇拝の関心事を忠節に促進させています。それらの兄弟たちは使徒パウロと同じ見解を抱いています。同使徒は仲間のクリスチャンに霊的な助言を書き送った時,「わたしたちがあなた方の信仰に対する主人であるというのではありません。わたしたちはあなた方の喜びのための同労者です。あなた方が立っているのは自分の信仰によるのです」と述べました。―コリント第二 1:24。
10 (イ)だれが長老あるいは奉仕の僕になるかはどのようにして決められるのですか。(ロ)わたしたちはなぜそのような立場に任命された者たちとよく協力すべきですか。
10 この神権的な取り決めは世界中のエホバの証人によって認められています。証人たちの地元の会衆はすべてこの取り決めとよく協調して働きます。証人たちは会衆が円滑に機能するよう世話する長老や奉仕の僕たちの任命を統治体に仰ぎます。こうして任命される人々はどんな根拠に基づいて選ばれますか。そのための要求は聖書の中に明らかに述べられています。推薦を行なう長老たちも任命を行なう権限を受けている人たちもそのような要求に従う重大な責任を神の前で負っています。(テモテ第一 3:1-10,12,13; 5:22。テトス 1:5-9)会衆の成員の間で選挙運動を行なったり,会衆が投票を行なったりすることはありません。かえって,1世紀当時,種々の任命が行なわれた時,使徒たちが行なった事柄と調和して,推薦を行なう責任のある監督たちや,その後に任命を行なう人たちは神の霊の助けを求めて祈りをささげ,霊感によるそのみ言葉からの導きを求めます。(使徒 6:2-4,6; 14:23。詩編 75:6,7と比べてください。)わたしたちは長老たちが与える指示に答え応じることにより,わたしたちすべてが『信仰の一致』を得るのを助けるため,キリストが愛をもってそれら「人々の賜物」を備えてくださったことに対して感謝を示すことができます。―エフェソス 4:8,11-16。
11 (イ)神権的な取り決めの中で,婦人はどんな貴重な奉仕を行なっていますか。(ロ)どのような時に婦人は頭を覆うものを着用する必要がありますか。それはなぜですか。
11 聖書は会衆内の監督の立場が男性によって占められるように指示しています。これは決して婦人を見くびった扱い方ではありません。というのは,多くの婦人が天の王国の相続者に含まれているからです。慎み深い貞潔な振る舞いを示し,勤勉に家族を世話することによって,クリスチャンの婦人たちもまた,会衆の立派な評判に貢献するのです。(テトス 2:3-5)大抵,婦人たちは新たに関心を抱いた人々を見つけ,組織と接触を持つようそれらの人を導く点で多くの業を行なっています。(詩編 68:11)しかし,会衆内で教える業は,任命された男子によって扱われます。(テモテ第一 2:12,13)そして,もし会衆の取り決める集会で資格のある男子がいないなら,その時には婦人は集会を主宰したり祈ったりする際に頭を覆うものを着用するでしょう。a こうして,イエスがみ父に服従してすべての人のための模範を残されたとおり,婦人はエホバの取り決めに対する敬意を表わします。―コリント第一 11:3-16。ヨハネ 8:28,29。
12 (イ)聖書は長老たちが自分の立場に対してどんな見方をするよう勧めていますか。(ロ)わたしたちはすべてどんなすばらしい特権にあずかれますか。
12 この世では目立った地位を占めている個人が重要な人と考えられていますが,神の組織の中では「あなた方すべての間でより小さい者として行動する人こそ偉い」人であるという規則が当てはまります。(ルカ 9:46-48; 22:24-26)ですから聖書は,長老たちが神の相続財産である人々に対して威張ることのないように注意し,むしろ群れの模範になるよう助言しています。(ペテロ第一 5:2,3)単に選ばれた少数の人たちではなく,エホバの証人は男性も女性もすべて,宇宙の主権者を代表し,そのみ名によって謙遜に語り,あらゆる場所でその王国について人々に告げるすばらしい特権を持っています。
13 参照されている聖句を用いて,この節の終わりに挙げられている質問について論じてください。
13 次のように自問してみるのは良いことです。「わたしはエホバがその見える組織をどのように導いておられるかを本当に認識しているだろうか。わたしの態度や言葉や行動はそれを反映しているだろうか」。以下の諸点について推論すると,わたしたちは各々そうした自己分析を行なう助けが得られます。
もしわたしたちが会衆の頭であられるキリストに本当に服しているなら,次の聖句の中で示されているように,わたしたちは何を行なうことになりますか。(マタイ 24:14; 28:19,20。ルカ 21:34-36。ヨハネ 13:34,35)
産出的なクリスチャンとなるよう努力する際,神の組織の一部となっている人々は皆,神とキリストとにどの程度依存していると感じるべきですか。(ヨハネ 15:5。コリント第一 3:5-7)
組織の他の人たちと一致した仕方で物事を見られるよう長老たちが人々の考え方を調整しようとする場合,わたしたちはこのことの中にだれの思いやりのある関心を認めるべきですか。(エフェソス 4:7,8,11-13。コリント第二 13:11)
「奴隷」級とその統治体を通して設けられる霊的な備えを感謝して受け入れるなら,わたしたちはだれに対する敬意を表わしていることになりますか。しかし,もしそのような備えについて非難がましいことを言うとしたらどうですか。(ルカ 10:16。ヨハネ第三 9,10と比べてください。)
任命された長老たちのことをなぜ厳しく批判すべきではありませんか。(使徒 20:28。ローマ 12:10)
14 (イ)わたしたちは神権組織に対する自分の態度によって何を明らかに示せますか。(ロ)このことに関連して,悪魔が偽り者であることを証明して,エホバの心を喜ばせるどんな機会がありますか。
14 エホバは今日,任命された頭であるキリストのもとにあるご自分の見える組織によってわたしたちを扱っておられます。ですから,この組織に対するわたしたちの態度は事実上,主権の論争に関して自分の取っている立場を明らかに示すものとなります。(ヘブライ 13:17)わたしたちはみな個人的な利得に対する欲望から行動している,つまりわたしたちの主要な関心は自分のことであるとサタンは主張しています。しかし,もしわたしたちが奉仕の必要などんな面であっても喜んで自分を役立てて奉仕し,それと共に自分に不当な注意を引くような事柄を言ったり行なったりするのを避けるなら,わたしたちは悪魔が偽り者であることを証明するのです。わたしたちの間で『指導の任に当たる』人たちを愛し,尊敬して,その信仰に見倣う一方,『自らの利益のために人物を称賛する』ような人にならないようにするなら,わたしたちはエホバの心を喜ばせることになります。(ヘブライ 13:7。ユダ 16)エホバの組織に対する健全な敬意を培い,エホバがお導きになる業を心を込めて行なうことにより,わたしたちはエホバが本当にわたしたちの神であって,わたしたちはその崇拝において結ばれている証拠を示せます。―コリント第一 15:58。
[脚注]
a しかし婦人は,家から家に宣べ伝える業を行なう際,頭を覆うものを着用する必要はありません。良いたよりを宣べ伝える責任はすべてのクリスチャンにあるからです。しかし,事情によっては夫(たとえクリスチャンではなくても,頭)の面前で家庭聖書研究を司会しなければならない場合,婦人は頭を覆うものを用いるべきです。また,例外的な事情として,事前に取り決められた家庭聖書研究を婦人が司会する際,会衆の献身した男性の成員が同席しているならば,婦人は頭を覆うべきですが,祈りは男子がささげます。
復習のための討議
● 今日のエホバの見える組織とはどんな組織ですか。その目的は何ですか。
● 会衆の任命された頭とはだれのことですか。その方は見えるどんな取り決めを通してわたしたちのために愛ある指示を備えておられますか。
● わたしたちは組織内の責任や人々に対するどんな健全な態度を培うべきですか。
-
-
助言に聴き従い,懲らしめを受け入れなさい唯一まことの神の崇拝において結ばれる
-
-
16章
助言に聴き従い,懲らしめを受け入れなさい
1 (イ)わたしたちのうちに助言や懲らしめを必要としない人がだれかいますか。(ロ)しかし,どんな質問を考慮するのは良いことですか。
わたしたちは大抵,『わたしたちはみな何度もつまずきます』と述べる聖句に容易に同意するものです。(ヤコブ 3:2)神のみ言葉がわたしたちにそうなるよう勧め,またわたしたちもそうなりたいと思うような人になり損なった例について考えるのは難しいことではありません。ですから,わたしたちは,「助言に聴き従い,懲らしめを受け入れよ。それは,将来,あなたが賢くなるためである」と語る聖書が正しいことを認めます。(箴言 19:20)わたしたちはそのような助けが必要であることを知っています。確かにわたしたちは,自分が聖書から学んだ事柄に生活を合わせるため生活の中で調整を行なってきました。しかし,もし自分があさはかな仕方で行なった特定の事柄について仲間のクリスチャンから個人的に助言されるなら,わたしたちはどう反応しますか。あるいは,ある活動の面でどのように改善できるかに関しただ提案されただけならばどうですか。
2 (イ)わたしたちはなぜ個人的な助言に対して感謝を表わすべきですか。(ロ)わたしたちはどのように反応すべきではありませんか。
2 不完全な人間の性質のために直ちに内部で生ずる自分の反応にかかわりなく,わたしたちは誠実に助言に対する感謝を表わし,それを当てはめるよう努力すべきです。そうすれば,有益な結果が得られることでしょう。(ヘブライ 12:11)しかし,助言された時,多分わたしたちは事態の深刻さを過小評価したり,あるいはほかのだれかに責任を転嫁したりして,自分を正当化しようとしたことでしょう。あなたもかつてそのように反応したことがありますか。そのような場合のことを振り返って考えてみると,助言を与えた人に対して憤りを感じますか。わたしたちに助言をした人の欠点や,助言の仕方を,それがあたかもある程度自分自身の弱点の言い訳にでもなるかのように非難する傾向がありますか。聖書はそのような傾向を克服するよう人を助けることができますか。
わたしたちの訓戒のために記録されている実例
3 (イ)助言や懲らしめに対する正しい見方を養うのに助けとなるどんな事柄が聖書に収められていますか。(ロ)ここに用意されている質問を用いて,助言に対するサウルとウジヤの反応を分析してください。
3 神のみ言葉はこの論題に関する直接的な訓戒を豊富に提供していますが,それに加えて助言を受けた個々の人々に関する実際にあった経験がみ言葉の中に収められています。多くの場合,助言を受ける人はその態度や行ないを改める必要があったので,その助言は同時に懲らしめともなりました。下記の質問を用いてそれらの実例の幾つかを調べてみると,そこにはわたしたちすべてがくみ取ることのできる多くの益があることに気づきます。
キシュの子,サウル: 彼はアマレクと戦った時,その王と彼らの動物の最も良いものを生かしておいたため,エホバに完全に従うことができませんでした。(サムエル第一 15:1-11)
サムエルから与えられた戒めの助言に対する応答の中で,サウルがその悪行を過小評価しようとしていたことを何が示していますか。(20節)彼はその責任をだれに転嫁しようとしましたか。(21節)最後に悪行を認めた時,どんな言い訳をしましたか。(24節)この時点においてさえ彼はどんなことを一番気にかけていたと考えられますか。(25,30節)
ウジヤ: 祭司たちだけがそうする権限を与えられていたにもかかわらず,彼は香をたこうとしてエホバの神殿に入りました。(歴代第二 26:16-20)
ウジヤ王がそうするのを大祭司がやめさせようとした時,王はなぜ怒りの反応を示しましたか。(16節と比べてください。)その結果どうなりましたか。(19-21節)
4 (イ)サウルもウジヤも助言を受け入れることがどうして困難でしたか。(ロ)それはなぜ今日でもやはり重大な問題ですか。
4 これら各々の場合,その当人は助言の必要を認めることがなぜそれほど難しかったのですか。根本的な問題は,自分のことを高く評価し過ぎる誇りの気持ちでした。今日でもこのような特徴のゆえに自ら多くの悲しみを招いている人は少なくありません。年齢または地位のいずれかのために,相当な身分とみなされるものを得ると,人々は個人的な助言を受け入れにくくなります。それは自分のうちに何らかの欠陥があることを示す,あるいは自分の評判を傷つけるものであると考えるようです。しかし,本当に弱さを示すものとなるのは誇りです。これは単にこの欠点が当たり前のものだからといって内心で言い訳をすべき事柄ではありません。これはサタンが人の考えを曇らせて,エホバがみ言葉とその見える組織を通して与えておられる愛ある助けに逆らわせるために用いる一つのわなです。エホバは,「誇りは崩壊に先立ち,ごう慢な霊はつまずきに先立つ」と警告しておられます。―箴言 16:18。ローマ 12:3; 箴言 16:5もご覧ください。
5 この節の中にある質問を用いて,モーセとダビデに関する記述からどんな教訓を学べるかを確かめてください。
5 一方,聖書には助言を受け入れた人々の優れた実例が収められています。それらの実例からもまた,貴重な教訓を学ぶことができます。次の点を考慮してください。
モーセ: そのしゅうとはモーセに,健康を損なわずに責任の重い仕事を扱う方法に関してある実際的な忠告を与えました。モーセはその忠告に聴き従い,直ちにそれを適用しました。(出エジプト 18:13-24)
モーセは大きな権威を持っていたにもかかわらず,なぜ健全な助言を容易に受け入れる人でしたか。(民数記 12:3と比べてください。)その特質はわたしたちにとってどれほど重要ですか。(ゼパニヤ 2:3)
ダビデ: 彼は姦淫の罪を犯し,次いでその女の夫を殺させるようにたくらみ,そのようにしてダビデは彼女と結婚し,その姦淫の罪を覆い隠そうとしました。何か月もたってから,エホバはナタンを遣わしてダビデを戒めました。(サムエル第二 11:2-12:12)
ダビデはその戒めを受けた時,悪行を過小評価したり,責めを他に転嫁しようとしたりしましたか。(サムエル第二 12:13。詩編 51編の表題と1-3節)神がダビデの悔い改めを受け入れられたということは,ダビデとその家の者たちが彼の不正な行ないのもたらす悪い影響を免れたことを意味しましたか。(サムエル第二 12:10,11,14。出エジプト 34:6,7)
6 (イ)ダビデは自分に健全な助言を与えてくれた人々のことをどう感じましたか。(ロ)もしそのような助言を進んで受け入れるなら,わたしたちはどのように益を受けることができますか。(ハ)もしわたしたちが厳しい懲らしめを受けたなら,何を忘れるべきではありませんか。
6 ダビデ王は健全な助言に聴き従うことの益をよく知っていたので,ある時そのような助言をもたらした人のことで神に感謝しました。(サムエル第一 25:32-35。また,箴言 9章8節をもご覧ください。)わたしたちはそのような人でしょうか。もしそうであれば,わたしたちは後悔するような多くの事を言ったり行なったりしないよう守られるでしょう。しかし,ダビデがバテ・シバとの罪に関連して懲らしめられたように,もしわたしたちが厳しい懲らしめを受けるような状況に陥っても,懲らしめはわたしたちの永遠の福祉を考慮に入れたエホバの愛の証拠であるという事実を見失うことがありませんように。―箴言 3:11,12; 4:13。
培うべき貴重な特質
7 王国に入るために人はどんな特質を持たなければならないことをイエスは示されましたか。
7 エホバとわたしたちのクリスチャンの兄弟たちと良い関係を持つには,ある人格的特質を伸ばす必要があります。イエスは一人の幼子を弟子たちの中に立たせて,そのような特質の一つを強調し,次のように言われました。「身を転じて幼子のようにならなければ,あなた方は決して天の王国に入れません。それゆえ,だれでもこの幼子のように謙遜になる者が,天の王国において最も偉大な者なのです」。(マタイ 18:3,4)それら弟子たちは変化する必要がありました。誇りの気持ちを捨てて,謙遜さを培わなければなりませんでした。
8 (イ)わたしたちはだれの前で謙遜になる必要がありますか。それはなぜですか。(ロ)もしわたしたちが謙遜であれば,助言にどのように答え応じますか。
8 後日,使徒ペテロは仲間のクリスチャンにこう書き送りました。「あなた方はみな,互いに対してへりくだった思いを身に着けなさい。神はごう慢な者に敵対し,謙遜な者に過分のご親切を施されるからです」。(ペテロ第一 5:5)わたしたちは神の前で謙遜になる必要があることを知っていますが,この聖句はわたしたちが仲間の信者との関係においても謙遜になる,つまりへりくだった思いを抱く必要があることを述べています。もしわたしたちが謙遜なら,人から提案を受ける場合,愚かにも憤慨するようなことはありません。わたしたちは喜んでお互いに学び合うようにします。(箴言 12:15)そして,仲間の兄弟たちがわたしたちに矯正のための助言を与える必要があることに気づく場合,わたしたちはエホバが愛をもってこのような方法でわたしたちを形造ってくださることを認め,その助言を拒むようなことはしません。―詩編 141:5。
9 (イ)どんな重要な特質が謙遜さと密接な関係を持っていますか。(ロ)わたしたちはなぜ自分たちの行ないがほかの人々に及ぼす影響に気遣いを示すべきですか。
9 謙遜さと密接な関係のあるもう一つの特質は,ほかの人々の福祉に対する純粋の気遣いです。自分の行なうことがほかの人々に影響を及ぼすという事実は否定できません。使徒パウロはほかの人々の良心に対して気遣いを示すようコリントやローマにいた初期のクリスチャンに助言を与えました。パウロはそれらクリスチャンに個人的な好みをすべて無視しなければならないと言っていたのではなく,ほかの人を大胆にならせ,当人の良心が悪いことだと告げる事柄を行なわせるようなことをして,その人の霊的破滅を招かないようにすることを勧めたのです。パウロは総合的な原則をはっきりと述べて,次のように書き記しました。「おのおの自分の益ではなく,他の人の益を求めてゆきなさい。……ですから,あなた方は,食べるにしても,飲むにしても,あるいはほかのどんなことをするにしても,すべての事を神の栄光のためにしなさい。ユダヤ人にも,またギリシャ人にも,そして神の会衆に対しても,つまずきのもととならないようにしなさい」― コリント第一 10:24-33; 8:4-13。ローマ 14:13-23。
10 わたしたちがこの聖書的な助言を常に適用しているかどうかを示すものとなるどんな事柄がありますか。
10 あなたは常に自分の好みよりもほかの人々の福祉を優先させる人ですか。そうすることのできる方法は数多くありますが,一例を考えてみてください。一般的に言って,服装や身繕いは慎み深くて,きちんとしており,清潔である限り,これは実際,個人的な趣味の問題です。しかしもしも,地域社会の人々の背景のゆえに,他の人々があなたの服装や身だしなみに妨げられて王国の音信に耳を傾けないことが分かったなら,あなたは調整を行なうでしょうか。あなたにとって自分を喜ばせることよりもほかの人の命のほうが重要ですか。
11 もしわたしたちが本当にクリスチャンでありたいと願うのであれば,これらの特質を培うのが重要であることを何が示していますか。
11 ここで論じられている特質がわたしたちの人格の一部となるなら,それはわたしたちがキリストの思いを持つようになっていることを示す証拠になります。謙遜になる点でイエスは完全な手本を示されました。(ヨハネ 13:12-15。フィリピ 2:5-8)単に自分自身を喜ばせる代わりに,ほかの人々に対して気遣いを示す点で,イエスはわたしたちの従うべき模範を示されました。―ローマ 15:2,3。
エホバの懲らしめを退けてはならない
12 (イ)わたしたちはすべて,神に喜ばれる人格を身に着けるためには,何を改める必要がありますか。(ロ)何が助けになりますか。
12 わたしたちはすべて罪人ですから,わたしたちの神の性格を反映するためには,わたしたちの態度,わたしたちの話し方およびわたしたちの行ないを改めることが求められます。わたしたちは「新しい人格」を身に着けなければなりません。(コロサイ 3:5-14。テトス 2:11-14)助言や懲らしめは,どんな分野で調整をする必要があるのかを明らかにし,次いでどのように調整するかを理解するのに助けとなります。
13 (イ)エホバはどんな方法を用いて,わたしたちすべてのために助言や懲らしめを施してこられましたか。(ロ)わたしたちはこのことで個人的に何をすべきですか。
13 そのような訓戒の得られる基本的な源は聖書そのものです。(テモテ第二 3:16,17)次いでエホバは,その見える組織によって備えられている聖書文書や集会を通して,それをどのように当てはめるかを理解するようわたしたちを助けてくださいます。わたしたちは ― たとえそれを以前に聞いたことがあっても ― それを個人的に必要としていることを謙遜に認め,絶えず改善するように努めますか。
14 エホバはさらに,わたしたち個人個人のためにどんな助けを備えておられますか。
14 エホバはわたしたちが自分にとって特別の問題となる恐れのある事柄に関して独りで苦闘するままにしたりはなさいません。エホバは愛ある気遣いをもって,個人的な助けの得られる備えを設けておられます。何百万もの人々は家庭聖書研究という方法によってそのような助けの益を受けてきました。親には,子供が後の人生において多大の心痛を招く恐れのある行ないに陥らないよう守るために子供を懲らしめる特別の責任があります。(箴言 6:20-35; 15:5)また,会衆内でも,霊的に資格のある人たちは,必要があることを認めると,聖書を用いて他の人々に再調整を施す責任を担いますが,温和な霊をもってそのようにします。(ガラテア 6:1,2)このような仕方でエホバはわたしたちに助言を与え,またわたしたちを懲らしめてくださいますが,それはわたしたちが一致した民としてエホバを崇拝するようになるためです。
復習のための討議
● エホバはわたしたちが個人的にどんな点で調整をする必要があるかを理解するよう,どのように愛をもってわたしたちを助けてくださいますか。
● 多くの人々にとって助言を受け入れるのはなぜ難しいことですか。これはどれほど重大なことですか。
● わたしたちが助言を聞き入れやすい者となるには,どんな貴重な特質が助けとなりますか。このような点でイエスはどのように手本を示されましたか。
-
-
「互いに対して熱烈な愛を抱きなさい」唯一まことの神の崇拝において結ばれる
-
-
17章
「互いに対して熱烈な愛を抱きなさい」
1,2 (イ)エホバの証人の集会に新たに来る人たちは大抵,何に感銘を受けますか。(ロ)そのような人々はわたしたちの大会でこの特質を示す他のどんな証拠に気づきますか。
エホバの証人の会衆の集会に初めてやって来る人々は,大抵そこで示される愛に深い感銘を受けます。そしてその温かい交わりや,個人的に述べられる歓迎のあいさつのうちにそのような愛があることに気づきます。
2 わたしたちの大会でも訪問者たちはやはり,出席者の大半の振る舞いが実に立派であることに気づきます。ある新聞記者はそのような大会について次のように書きました。『麻薬やアルコールなどで酔っている者はだれもいない。わめいたり,金切り声を上げたりすることもなければ,押したり突いたりすることもない。毒づいたり,ののしったりする者もいない。みだらな冗談や下品な言葉も聞かれない。たばこの煙が立ちこめることもなければ,盗みもない。芝生に空きかんを捨てる者もいない。それは実に異例なことであった』。このすべては愛,つまり『みだりな振る舞いをせず,自分の利を求めない』愛の証拠です。―コリント第一 13:4-8。
3 (イ)やがて,わたしたちが愛を表わす点で何が明らかであるべきですか。(ロ)わたしたちはキリストに見倣ってどんな愛を培う必要がありますか。
3 愛はすべての真のクリスチャンを見分けるのに役立つ特質です。(ヨハネ 13:35)わたしたちは霊的に成長するにつれ,一層十分に愛を表わすべきです。使徒パウロは,その兄弟たちの愛が「いよいよ満ちあふれるように」と祈りました。(フィリピ 1:9。テサロニケ第一 3:12)また,ペテロは仲間のクリスチャンに対し,その愛を「仲間の兄弟全体」を受け入れられるものにするよう勧めました。(ペテロ第一 2:17)わたしたちは愛に動かされるなら,人々を親しく知ろうとする努力をほとんど払わずに単に集会に出席するだけでなく,それ以上のことをすべきです。それには,時々やさしく「こんにちは」と言う以上のことが含まれているはずです。使徒ヨハネはそれが自己犠牲の行ないであるべきことを示しています。彼はこう書きました。「[神のみ子]が自分の魂をわたしたちのためになげうってくださったので,それによってわたしたちは愛を知るようになりました。それで,わたしたちは兄弟たちのために自分の魂をなげうつ務めがあります」。(ヨハネ第一 3:16。ヨハネ 15:12,13)わたしたちはまだそのようにしたことはありません。しかし,わたしたちは実際に自分の兄弟たちのために命を与えられるでしょうか。では,わたしたちは今,たとえ都合が悪くても,兄弟たちを助けるためにどの程度までわざわざ出向いて行きますか。
4 (イ)わたしたちはほかのどんな方法で愛を一層十分に表わせる場合がありますか。(ロ)互いに熱烈な愛を抱き合うのはなぜ肝要なことですか。
4 自己犠牲の精神を反映する行為と共に,仲間の兄弟たちに対して本当に温かい気持ちを抱くことも大切です。神のみ言葉は,「兄弟愛のうちに互いに対する優しい愛情を抱きなさい」と,わたしたちに勧めています。(ローマ 12:10)わたしたちは皆ある人々に対してはそのように感じています。わたしたちは自分がそのように好ましく思っている人々のグループの中にもっと多くの人を含めることができるでしょうか。古い体制の終わりが近づくにつれて,わたしたちが仲間のクリスチャンの兄弟たちになお一層密接に近づくのは肝要なことです。聖書はこのことにわたしたちの注意を喚起して,こう言っています。「すべての事物の終わりが近づきました。……何よりも,互いに対して熱烈な愛を抱きなさい。愛は多くの罪を覆うからです」― ペテロ第一 4:7,8。
5 会衆の成員の間で問題は何も起こらないと期待するのはなぜ間違っていますか。
5 もちろん,わたしたちは不完全である限り,ほかの人の感情を害するようなことをする場合があるでしょう。ほかの人々もまた,様々な仕方でわたしたちに対して罪をおかすことでしょう。(ヨハネ第一 1:8)もしあなたがそのような状況にあることに気がついたなら,どうすべきでしょうか。
問題が起きたらどうすべきか
6 (イ)聖書の助言が必ずしもわたしたちの性向と合わない場合があるのはなぜですか。(ロ)しかし,もし聖書の助言を適用するなら,その結果はどうなりますか。
6 聖書は必要な指示を与えています。しかし,聖書の述べる助言は,不完全な人間であるわたしたちがともすればしたいと考える事柄とは合致しない場合があります。(ローマ 7:21-23)それにもかかわらず,真剣に努力するなら,わたしたちはエホバを喜ばせたいと誠実に願っているという証拠を示すことになり,ほかの人たちに対する愛という特質を向上させることにもなります。
7 (イ)もしだれかがわたしたちを傷つけても,わたしたちはなぜ仕返しをすべきではありませんか。(ロ)わたしたちの感情を害する兄弟をわたしたちはなぜ単に避けるようなことをすべきではありませんか。
7 時には,人々は傷つけられると,感情を害した人に仕返しをする方法を求めることがありますが,それは事態を悪化させるにすぎません。返報が必要なら,それを神にゆだねるべきです。(箴言 24:29。ローマ 12:17-21)中には,そのような違犯者を自分の生活から締め出し,その人とは交際をしないようにする人がいるかもしれません。しかし,仲間の崇拝者たちに対してそのようにすることはできません。わたしたちの崇拝が受け入れられるかどうかは,一つには仲間の兄弟たちを愛するかどうかにかかっています。(ヨハネ第一 4:20)ある人に話しかけようとしないなら,あるいはその人がいるだけで気持ちが乱されるなら,その人を愛していると正直に言えるでしょうか。問題と取り組んで,それを解決する必要があります。どのようにしてそうしますか。
8,9 (イ)もしある兄弟に対して不満を抱く理由があるなら,どうするのは正しいことですか。(ロ)しかし,もしその人がわたしたちに対して繰り返し罪をおかしたならどうですか。(ハ)わたしたちはなぜその問題をこのように取り扱うべきですか。そうするのに何が助けとなりますか。
8 このような問題に関して使徒パウロは次のように書きました。「だれかに対して不満の理由がある場合でも,引き続き互いに忍び,互いに惜しみなく許し合いなさい。エホバが惜しみなく許してくださったように,あなた方もそのようにしなさい」。(コロサイ 3:13)あなたはそうすることができますか。もし人が様々な仕方であなたに対して繰り返し罪をおかすとしたらどうですか。
9 使徒ペテロもこの同じ疑問を持っていたので,多分七回まで兄弟を許すようにすべきだと提案しました。イエスは,「あなたに言いますが,七回までではなく,七十七回までです」とお答えになりました。しかし,それはなぜですか。イエスは,だれかがわたしたちに対して負っているかもしれないものに比べて神に対するわたしたちの負い目がどんなに大きなものかを際立たせたある例えを用いて説明されました。(マタイ 18:21-35)わたしたちは毎日,数多くの仕方で神に対して罪をおかします。時には利己的な行為で,多くの場合,言ったり考えたりすることによって,またすべきことをしなかったりして罪をおかすのです。無知のために自分がした事柄のある点が悪かったことに気がついてさえいないかもしれませんし,生活の慌ただしさのために問題について十分真剣に考えないかもしれません。神はわたしたちの罪の報いとして命を要求しようと思えばそうすることもおできになります。(ローマ 6:23)しかし,神はわたしたちに対して引き続き憐れみを示してくださいました。(詩編 103:10-14)ですから,わたしたちが同様にお互いのことを扱うよう神が求めておられるのは少しも不当なことではありません。(マタイ 6:14,15。エフェソス 4:1-3)恨みを抱いたりせずにそうするなら,それは『傷つけられてもそれを根に持たない』ような愛を表わせるようになったことの証拠です。―コリント第一 13:4,5。ペテロ第一 3:8,9。
10 もしある兄弟がわたしたちに対して何か恨みを抱いているなら,わたしたちは何をすべきですか。
10 時には,自分は仲間の兄弟のことを何とも思っていないのに,先方がわたしたちに何か恨みを抱く場合があるかもしれません。わたしたちはどうすべきでしょうか。ぐずぐずせずにその人に話しかけ,平和な関係を取り戻すよう努力すべきです。聖書は自分のほうが率先するよう勧めています。(マタイ 5:23,24)そうすることは容易ではないかもしれません。それには愛と共に謙遜さが求められます。これらの特質があなたのうちにあって十分強力に働くゆえに,あなたは聖書が勧めることを行なえますか。これは到達するよう努力すべき重要な目標です。
11 もしある兄弟がわたしたちの気持ちを乱させるようなことをしたなら,どうすべきですか。
11 一方,だれかがあなたの ― また恐らくほかの人々の ― 気持ちを乱させるような事柄を行なっている場合もあり得ます。だれかがその人に話すのは良いことではないでしょうか。そうかもしれません。もしあなたが個人的に親切な仕方で問題をその人に説明してあげるなら,良い結果がもたらされるかもしれません。しかし,まず次のように自問してみるべきでしょう。『あの人がしている事柄は本当に聖書に反する事だろうか。それとも,問題はおもにわたしの背景やわたしの受けたしつけがあの人のとは違っているためなのだろうか』。もしそうであれば,自分の規準を持ち出して,それにしたがって裁くことのないように注意してください。(ヤコブ 4:11,12)エホバは偏ることなくあらゆる背景の人々を受け入れ,霊的に成長してゆく人々に対して辛抱強さを示しておられます。
12 (イ)もし会衆に重大な悪行の関係する事件があれば,だれがそれを処理しますか。(ロ)しかし,どんな事情の場合,最初に行動するのは罪をおかされた側の人の責任ですか。どんな目的でそうしますか。
12 しかし,会衆のだれかが重大な悪行に関係しているなら,速やかに注意を払う必要がありますが,だれがそうしますか。普通,長老たちがそうします。しかし,それが兄弟間の商売上の問題に関係するものであったり,もしかすると舌の誤用のためにある人の感情がひどく傷つけられるような問題だったなら,罪をおかされた側の人がまず個人的に違反者を助ける努力をすべきです。これはある人にとって難しく思えるかもしれませんが,それこそイエスがマタイ 18章15節から17節で助言された事柄なのです。兄弟に対する愛と,その人に兄弟としてとどまっていて欲しいと誠実に願う気持ちがあれば,できるならば,間違いをした人の心を動かすような仕方でそうするよう助けられます。―箴言 16:23。
13 もしわたしたちと他の兄弟の間で問題が生じたなら,どうすればその問題を正しく見るよう助けられますか。
13 問題が起きた時には,問題の大小を問わず,エホバがそれをどうご覧になるかを理解しようと努めるなら,助けが得られます。エホバはどんな性格の罪も是認なさいませんが,わたしたちすべてのうちにある罪を見ておられます。そのご予定の時に,悔い改めようとしない罪の常習者はその組織から取り除かれます。しかし,そのほかのわたしたちについてはどうですか。わたしたちはすべてエホバの辛抱強さと憐れみの対象となっています。エホバはわたしたちの見倣うべき型を示しておられます。わたしたちはその型に見倣う時,その愛を反映することになります。―エフェソス 5:1,2。
『自分を広くする』道を求めなさい
14 (イ)パウロはなぜコリント人に『自分を広くする』よう励ましましたか。(ロ)ここに参照されている聖句は,わたしたちすべてがこの事柄について考えるのが良いことをどのように示していますか。
14 使徒パウロはかつて何か月をも費やしてギリシャのコリントで会衆を築きました。パウロはその地の兄弟たちを助けるために一生懸命働きましたし,彼らを愛していました。ところが,その一部の人々にはパウロに対する温かい気持ちが欠けており,非常に批判的でした。パウロはそれらの人々に愛情を表わす点で『自分を広くする』よう勧めました。(コリント第二 6:11-13; 12:15)わたしたちも皆,ほかの人々に対してどれほど愛を表わしているかを考え,『自分を広くする』道を求めるのは良いことです。―ヨハネ第一 3:14。コリント第一 13:3。
15 どうすればわたしたちは,個人的に引きつけられるものを感じない人に対する愛の点でも成長するよう助けられますか。
15 会衆にはなかなか親しく近づけない人がだれかいますか。わたしたちが自分に対してしてもらいたいと思うように,わたしたちのほうからそれらの人の何らかの小さな違犯をあえて覆ってあげるなら,わたしたちのお互いの関係を温めるよう助けられます。(箴言 17:9; 19:11)もしわたしたちがそのような人たちの良い特質を探し,そのような特質に注意を集中するなら,それらの人に対するわたしたちの気持ちも改善できるものです。わたしたちはエホバがそれら兄弟たちを用いておられる仕方に本当に注目していますか。そうすれば,それらの兄弟たちに対するわたしたちの愛は確かに増大するでしょう。―ルカ 6:32,33,36。
16 現実的に考えて,わたしたちはどうすればわたしたちの会衆の人々に愛を示す点で『自分を広くする』ことができますか。
16 ほかの人々のために行なえる事柄には明らかに限界があります。集会の度にすべての人にあいさつをすることができる訳ではありません。友人を食事に招く際,すべての人を含める訳にはゆかないかもしれません。わたしたちは皆,ほかの人々と過ごすよりももっと多くの時間を共に過ごす親しい仲間を持っています。しかし,『自分を広くする』ことができるでしょうか。会衆の中でわたしたちの親しい友となっていないだれかをもっとよく知るために毎週ほんの数分でも費やすことができるでしょうか。時々野外宣教で一緒に働くようそれらの人の一人を招くことができますか。もしわたしたちが本当に互いに対する熱烈な愛を抱いているなら,確かにそれを示す道を見いだせるでしょう。
17 かつて一度も会ったことのない兄弟たちの中にいる時,それらの人たちに対しても熱烈な愛を抱いているかどうかはどうすれば分かりますか。
17 クリスチャンの大会は愛の点で『自分を広くする』優れた機会となります。何千人もの人々が出席しているかもしれません。それらの人々すべてに会うことはできません。しかし,たとえかつて一度も会ったことがなくても,自分の都合よりもそれらの人の福祉を優先させていることを示す仕方で振る舞うことができます。そして,プログラムの合間に,率先して周りにいる人たちのだれかと知り合いになることによって個人的な関心を示せます。いつの日か,地上に住む人々は皆,すべてのものの父なる神の崇拝において結ばれた兄弟姉妹となるでしょう。多種多様な特質を持つ人々すべてを知るようになるのは何という喜びでしょう。わたしたちはそれらの人々に対する熱烈な愛に動かされてそうしたいと願うようになるでしょう。今それをし始めてはいかがですか。
復習のための討議
● 兄弟,あるいは姉妹たちの間で問題が生ずる場合,それをどのように解決すべきですか。それはなぜですか。
● わたしたちは霊的に成長するにつれ,わたしたちの愛もまたどんな点で成長すべきですか。
● どうすれば,親しい友達の範囲を越えて熱烈な愛を示すことができるでしょうか。
-
-
家庭で敬虔な専心を実践することが必要です唯一まことの神の崇拝において結ばれる
-
-
18章
家庭で敬虔な専心を実践することが必要です
1 (イ)結婚に対するエホバの規準を学んだ後,多くの人々はどのような変化を遂げましたか。(ロ)しかし,クリスチャンの家族生活にはさらにどんな事柄が関係していますか。
わたしたちが初めのころ,聖書研究の際に学んだ心温まる数々の事柄の中には,結婚や家族生活に関するものがありました。わたしたちはエホバが結婚の創始者であることを認めるようになり,またエホバが家族のためのまさに最善の手引きを聖書の中に備えておられることを理解しました。その手引きに従った結果,ほめるべきことに,性的不道徳の生活をやめて,婚姻関係を正式に正しく届け出た人たちは少なくありません。しかし,クリスチャンの家族生活にはそれ以上の多くの事柄があります。それにはまた,結婚関係を永続させることや,家族内のわたしたちの責任を果たすこと,および家族の他の成員の扱い方に対するわたしたちの態度も関係しています。―エフェソス 5:33-6:4。
2 (イ)人は皆,聖書を読んで知っていることを家庭で当てはめますか。(ロ)イエスやパウロはそうすることの重要性をどのように強調していますか。
2 多数の人々はこれらの事柄について聖書が何と述べているかを知っています。しかし,それらの人々は自分の家庭で問題に直面しても,それを当てはめません。わたしたち自身についてはどうですか。確かにわたしたちはだれも,イエスにとがめられた人々のようになりたいとは思いません。彼らがとがめられたのは,宗教上見せかけの専心の生活をしていれば十分だと考えて,子供たちに親を敬うことを求める神のおきてを回避したためでした。(マタイ 15:4-9)わたしたちは,敬虔な専心という形を取りながら,「自分の家族の中で」それを実践し損なう人々のようになりたくはありません。かえって,わたしたちは「大きな利得の手段」である真の敬虔な専心を表わしたいと願うべきです。―テモテ第一 5:4; 6:6。テモテ第二 3:5。
結婚関係はいつまで続くものですか
3 (イ)多くの場合,結婚関係には何が生じていますか。しかし,わたしたちの決意はどのようなものであるべきですか。(ロ)結婚関係を永続させることに関して,ご自分の聖書を用いて上記の質問に答えてください。
3 結婚のきずなが非常にもろくなる例は次第に増えています。中には,20年,30年あるいは40年連れ添ってきた夫婦が今になってだれかほかの人と“新しい生活”を始めるような場合があります。また,結婚してわずか数か月足らずで別れる若い夫婦の話を聞くのももはや珍しいことではありません。ほかの人々が何をするかにはかかわりなく,わたしたちはエホバの崇拝者として神を喜ばせたいとの願いを抱いているべきです。神のみ言葉はこのことに関して何と述べていますか。
男と女が結婚したなら,二人はいつまで一緒にとどまってゆくことを期待すべきですか。(ローマ 7:2,3。マルコ 10:6-9)
神のみ前で有効な離婚の唯一の根拠とは何ですか。(マタイ 19:3-9; 5:31,32)
エホバはそのみ言葉によって認められていない離婚についてどのようにはっきりした考えを持っておられますか。(マラキ 2:13-16)
聖書は結婚生活の諸問題を解決する方法として別居を勧めていますか。(コリント第一 7:10-13)
4 現代の傾向にかかわりなく,ある人々の結婚生活が長続きするのはなぜですか。
4 結婚した夫婦が ― クリスチャンと称する人たちの間でさえ ― 別れてゆく一方で,ある人々の結婚生活が長続きするのはなぜですか。多くの場合,かぎとなる要素は当事者双方が円熟するまで結婚を待つことです。また,自分と関心事を共にしてくれる人,そして物事を率直に話し合える人を配偶者として見つけるのも重要なことです。しかし,一層重要なのは,真の敬虔な専心を実践する人であるということです。本当にエホバを愛し,その道が正しいことを確信しているなら,生ずる問題を取り扱うための健全な基礎があることになります。(詩編 119:97,104。箴言 22:19)そのような人の結婚生活は,もしうまくゆかなければ,いつでも別居,あるいは離婚することができるという態度のために損なわれることはありません。そのような人は配偶者の欠点を捕らえて自分の責任を回避する言い訳にしません。かえって,生活上の問題に敢然と立ち向かって,実行できる解決法を見いだそうとします。
5 (イ)どのようにエホバに対する忠節が関係していますか。(ロ)たとえ激しい迫害に遭う場合でも,エホバの規準をあくまでも固守することによってどんな益が生じ得ますか。
5 人間は個人的に苦しみを経験すると,エホバの道を無視し,何が善で何が悪かを自分で決めるほうが勝っていると結論するようになると悪魔が主張していることをわたしたちはよく知っています。しかし,エホバに忠節を示す人たちはそのようではありません。(ヨブ 2:4,5。箴言 27:11)エホバの証人で未信者の配偶者からの迫害を経験してきた人々の大多数は,自分たちの結婚の誓いを破棄しませんでした。(マタイ 5:37)中には,何年かの期間がたった後に配偶者が共にエホバに仕えるようになるという喜びをさえ得た人たちがいます。(コリント第一 7:16。ペテロ第一 3:1,2)配偶者が変化のしるしを示してくれない人たち,あるいは自分の信仰をあくまでも固守したために配偶者から見捨てられた他の人たちについて言えば,それらの人々もまた,エホバの規準を固守することによって豊かに祝福されています。どんな点で祝福されていますか。そのような人たちは自分たちの境遇のゆえにエホバに一層近づくことを教えられてきました。また,逆境にあってさえ敬虔な特質を反映することを学んでいます。それらの人の生活は,敬虔な専心の力を示す証拠となっています。―詩編 55:22。ヤコブ 1:2-4。ペテロ第二 1:5,6。
各人が自分の分を果たす
6 結婚生活を成功させるには,どんな取り決めを尊重しなければなりませんか。
6 もちろん,結婚生活を本当に成功させるためには,単に一緒にとどまる以上のことが求められます。基本的に必要なのは,家族の成員の各々が頭の権というエホバの取り決めを尊重することです。そうすれば,家庭に正しい秩序と安心感をもたらすのに寄与します。―コリント第一 11:3。テトス 2:4,5。箴言 1:8,9; 31:10,28。
7 家族の中での頭の権はどのように行使されるべきですか。
7 その頭の権はどのように行使されなければなりませんか。イエス・キリストの特質を反映する仕方で行使されなければなりません。イエスはエホバの道を擁護する点で確固とした態度を取られます。つまり,義を愛し,不法を憎まれます。(ヘブライ 1:8,9)イエスはまた,ご自分の会衆を深く愛し,そのために必要な指示を与え,会衆を世話しておられます。イエスは高慢で無思慮な方ではなく,むしろ「気質が温和で,心のへりくだった」方ですから,その頭の権のもとに来る人たちは『自分の魂にとってさわやかなものを見いだします』。(マタイ 11:28,29。エフェソス 5:25-33)父親である夫が家の者をそのような仕方で扱うなら,敬虔な専心の点で完全な模範を示されたキリストに自ら服していることは明らかです。もちろん,クリスチャンである母親も子供たちを扱う際に同様のこれらの特質を反映すべきです。
8 (イ)ある家庭では,キリスト教の方法に従っても,望ましい成果が得られないように思えるのはなぜですか。(ロ)もしそのような状況に直面したなら,どうすべきですか。
8 しかし,人間の不完全さのために問題が起きる場合もあります。家族の中には,だれかが聖書の原則を適用するようになる以前から,人に指図されると,ある程度腹を立てる性質がすでに根づいている人たちがいるかもしれません。やさしくお願いしたり,愛ある態度を取ったりしても,成果が得られないように思える場合があるかもしれません。わたしたちは,聖書が「怒り,憤り,わめき,ののしりのことば」を捨てるようにと命じていることを知っています。(エフェソス 4:31)しかし,もしある人々がほかのことは一切理解できないように思えるなら,どうすべきでしょうか。では,イエスは厳しい圧力のもとでどのように反応されましたか。イエスは,脅したりののしったりする者たちに見倣われませんでした。かえって,ご自分をみ父にゆだね,み父に頼ることをなさいました。(ペテロ第一 2:22,23)同様に,もし家庭でつらい状況が生じたなら,世の道を取る代わりに,神の助けを祈り求めてエホバに依り頼むならば,わたしたちは敬虔な専心の証拠を示せます。―箴言 3:5-7。
9 多くのクリスチャンの夫は小言を言う代わりにどんな方法を用いることを学んできましたか。
9 変化は必ずしもすぐに生ずるわけではありませんが,聖書の助言は実際に効果を発揮します。妻の落ち度のことでひどくこぼしていた夫が,会衆に対するキリストの扱い方を一層深く認識するにつれて,事態が改善されるようになったことを知った例は少なくありません。その会衆は完全な人間で構成されているのではありません。ところが,イエスは会衆を愛し,そのために正しい模範を示し,会衆のためにご自分の命をさえお与えになりました。また,会衆が改善を図るのを助ける手段として聖書を用いておられます。それは,全体としてイエスを喜ばせるものとなるためです。(エフェソス 5:25-27。ペテロ第一 2:21)イエスの模範は,多くのクリスチャンの夫が立派な模範を示し,改善を目指して愛ある個人的な助けを与えるために努力するよう励ますものとなってきました。このような方法は,苦々しい態度で小言を言ったり,全然口をきかないようにしたりするよりもずっと優れた結果をもたらします。
10 (イ)父親である夫は ― クリスチャンであると唱える人でさえ ― 家庭内の他の人たちにとってどんな点で生活をしにくいものにしているかもしれませんか。(ロ)そのような事態を改善するために何を行なえますか。
10 もちろん,父親である夫の欠点のために家庭で問題が生じる場合もあります。もし夫が家族の感情的な必要に敏感でなかったり,あるいは本当に率先して家族の聖書の討議その他の活動を取り決めなかったりするならどうですか。中には,問題を敬意を込めて率直に話し合って良い結果を見届けてきた家族もあります。(箴言 15:22; 16:23; 31:26)しかし,たとえ結果がすべて希望どおりではなくても各人が個人的に霊の実を培い,家族の他の成員に対して愛ある気遣いと配慮を示すことによって家庭の雰囲気を改善するのに貴重な貢献をすることができます。ほかの人が何かをするのを待つのではなく,自分自身の分をよく行なうことによって進歩はもたらされるのです。こうして,わたしたちは個人的に家庭で敬虔な専心を実践していることを示すのです。―コロサイ 3:18-20,23,24。
答えを得るべきところ
11,12 (イ)家族生活における問題に関してわたしたちを助けるため,エホバはどんな備えを設けてくださいましたか。(ロ)その十分の益を得るために,わたしたちは何を行なうよう勧められていますか。
11 人々が家族の事柄に関する助言を求めて頼るところは数多くあります。しかしわたしたちは,神のみ言葉の中にまさに最善の助言が収められていることを知っていますし,それを当てはめるよう神がその組織を通して助けてくださることを感謝しています。あなたはその助けから十分に益を得ておられますか。―詩編 119:129,130。ミカ 4:2。
12 会衆の集会に出席することに加えて,あなたは家族の聖書研究のために決まった時間を別にしておられますか。毎週定期的にそのようにしている家族は,その崇拝において結ばれるようになります。そのような家族は神のみ言葉を自分たちの境遇に当てはめる仕方を話し合うにつれ,家族生活は豊かなものになります。―申命記 11:18-21と比べてください。
13 (イ)結婚生活や家族生活の特定の事柄に関する疑問があるならば,必要な助けは大抵どこに見いだせますか。(ロ)わたしたちの下す決定はすべて何を反映するものであるべきですか。
13 もしかすると,あなたに関係のある結婚生活や家族生活の特定の問題に関して疑問があるかもしれません。例えば,産児制限についてはどうですか。避妊あるいは断種法はクリスチャンにとってふさわしいことですか。もし不具の赤ちゃんが生まれるかもしれないと思える場合なら,妊娠中絶を行なってもかまいませんか。夫婦間の正当な性関係にも場合によって何らかの制限がありますか。もし十代の若者が霊的な事柄にほとんど関心を示さないなら,どの程度家族と崇拝を共にするようその子供に要求すべきですか。確かにあなたはこれら各々に関して意見を持っておられることでしょう。しかし,聖書の原則に基づいて答えることができますか。これらの質問の各々については「ものみの塔」誌の中で論じられてきました。そのような資料を見いだすために,利用できる索引の用い方を学んでください。もし索引の中で言及されている古い出版物がなければ,王国会館の書庫を調べてみてください。すべての質問に対して「はい」,あるいは「いいえ」という答えを期待しないでください。時にはあなたが個人的に,あるいは夫婦として決定しなければならない場合があります。しかし,エホバと自分の家族の成員に対するあなたの愛を反映する決定を下せるようにしてください。神に十分喜ばれる者になりたいとのあなたの真剣な願いを明らかに示すような決定をしてください。もしそうするならば,あなたは本当に人前だけでなく,自分の家庭でも敬虔な専心を実践していることが,エホバにとっても,またあなたのことをよく知っているほかの人々にとっても明らかになるでしょう。―エフェソス 5:10。ローマ 14:19。
復習のための討議
● 自分の結婚の誓いに忠実であることにはエホバに対する忠節がどのように関係していますか。
● 家族生活の問題から圧力を受ける場合には,神に喜ばれる事柄を行なうために何が助けになりますか。
● たとえ家族の中のほかの人たちに至らない点があっても,事態を改善するために何を行なえますか。
-
-
あなたにとってモーセの律法が意味する事柄唯一まことの神の崇拝において結ばれる
-
-
19章
あなたにとってモーセの律法が意味する事柄
1 (イ)西暦36年以降,割礼を受けていない異邦人がクリスチャンとしてエホバに受け入れられるようになったことを何が示しましたか。(ロ)しかし,一部の初期クリスチャンはどんな問題に関して強硬な意見を持っていましたか。
使徒パウロの時代に激しい論争を引き起こした問題は,モーセの要求に従う義務が異邦人のクリスチャンにあるかどうかという事柄でした。確かに西暦36年には割礼を受けていない異邦人に聖霊が下りました。しかし,ユダヤ教の背景を持つ一部のクリスチャンは,異邦人の弟子たちも割礼を受けるべきであり,モーセの律法を守るように教えられるべきであるという強硬な意見を持っていました。実際に,それら異邦人はその律法を,あるいは事によったらその一部分を守る必要がありましたか。西暦49年ごろ,その問題はエルサレムにあった統治体に持ち出されました。―使徒 10:44-48; 15:1,2,5。
2 この問題はなぜわたしたちの興味を引きますか。
2 その結果はわたしたちにとって極めて興味深いものがあります。なぜですか。クリスチャンは安息日の祝いのような律法のある要求に従わなければならないと論ずる人々にわたしたちが時々出会うだけでなく,聖書そのものが,『律法は聖なるものであって,おきては聖にして義にかない,良いものです』と言っているからです。(ローマ 7:12)モーセが律法契約の仲介者だったのでモーセの律法と呼ばれてはいますが,その律法の法典は実際にはエホバ神に由来するものでした。―出エジプト 24:3,8。
律法が与えられたのはなぜか
3 律法がイスラエルに与えられたのはなぜでしたか。
3 今日,わたしたちが律法をどう見るかということは,エホバがイスラエルに律法の法典をお与えになった理由を理解しているかどうかによって左右されます。聖書はこう説明しています。「それは違犯を明らかにするために[アブラハム契約に]付け加えられたのであり,約束のなされた胤が到来する時にまで及ぶのです。……したがって,律法は,わたしたちをキリストに導く養育係となったのであり,それは,わたしたちが信仰によって義と宣せられるためでした」。(ガラテア 3:19,24)律法はこのことをどのように行ないましたか。
4 (イ)その律法はどのように「違犯を明らかに」しましたか。(ロ)それはまた忠実な人たちをどのようにキリストのもとに導きましたか。
4 律法は生活の様々な面を包含する完全な型を呈示することによって,ユダヤ人が罪人であることを証明しました。何らかの良い意図があっても,また勤勉な努力をしても,ユダヤ人はその要求に達し得ないことが明らかになりました。律法はユダヤ人を不完全な人間家族の見本として用いて,わたしたち各人を含め,全世界の人々が神の前で処罰を受けなければならない罪人であることを明らかにしました。(ローマ 3:19,20)こうして,律法は人類のための救い主が必要であることを強調し,忠実な人たちをその救い主であるイエス・キリストに導きました。どのようにしてそうしましたか。律法はイエス・キリストが律法を完全に守った唯一の方,したがって罪のないただ一人の人間であられることを明らかにしたのです。律法のもとでささげられた動物の犠牲には限られた価値しかありませんでしたが,完全な人間であられたイエスは,罪を本当に除き去り,信仰を働かせる人々すべてのために,とこしえの命への道を開くものとなる犠牲としてご自分の命をささげることができました。―ヨハネ 1:29; 3:16。ペテロ第一 1:18,19。
5 用意されている聖句を用いて,この節に挙げられている質問に答えてください。
5 以上の背景を考えて,あなたは次のような質問にどうお答えになりますか。
モーセの律法は果たして全人類を拘束するよう意図されたものですか。(詩編 147:19,20。出エジプト 31:12,13)
エホバは律法契約がいつの日か終わることを示す事柄を何かイスラエルにお与えになりましたか。(エレミヤ 31:31-33。ヘブライ 8:13)
週ごとの安息日を祝う要求を含め,十戒は,律法の残りの部分が無効にされた後も効力を保ちましたか。(コロサイ 2:13,14,16。コリント第二 3:7-11。[出エジプト記 34:28-30で明らかにされています。]ローマ 7:6,7)
エホバはどんな方法によって律法契約を終わらせましたか。(コロサイ 2:13-17。マタイ 5:17,18。ローマ 10:4)
6 モーセの律法が依然として効力を持っていると唱える論議は何を意味するものですか。
6 以上のことを考えると,モーセの律法が依然効力を持っているという主張は何を意味することになりますか。それは事実上,イエス・キリストに対する信仰を否認することになります。それはどうしてですか。なぜなら,そのような見方は,イエスが律法を成就して,神が律法を終了させることができるよう道を開いたという事実を退けるものだからです。クリスチャンであると唱えながら,律法を,あるいはその一部を守ることを支持する論議によって動揺させられていた人たちに対して,使徒パウロは力を込めてこう書き記しました。「律法によって義と宣せられることを求めるあなた方は,だれであろうとキリストから引き離されています。あなた方はその過分のご親切から外れ落ちているのです」― ガラテア 5:4。また,ローマ 10:2-4もご覧ください。
7 (イ)律法のある特色が効力を保持していると論ずる人たちは何を十分に認識していませんか。(ロ)クリスチャンの業はどれほど重要ですか。その業とわたしたちがとこしえの命の賜物を受けることとにはどんな関係がありますか。
7 律法のある特色は効力を保持していると論ずる人たちは,神に受け入れられる義にかなった立場が律法の業にではなく,イエスの犠牲の価値に対する信仰に依存しているということを十分に認識していません。(ガラテア 3:11,12)そのような人たちは,そのような業によって自分が義にかなっていることを証明しなければならないと考えていますが,それは罪深い人間にとって不可能な事柄なのです。クリスチャンに適用される神とキリストの命令に従順に従って業を行なうのが本当に重要なことなのです。(ヤコブ 2:15-17。マタイ 28:19,20)それらの業はわたしたちの愛と信仰を証明する手だてですから,それが欠けているなら,わたしたちの信仰は死んだものであることを意味するでしょう。しかし,わたしたちはどんなに一生懸命働いても,救いをかち取ることはできません。罪と死からの救いはイエス・キリストの犠牲がなければ不可能だったでしょう。ですから,とこしえの命はイエス・キリストを通して与えられる神からの贈り物,つまり異例の過分の親切の表現であって,わたしたちの業に対する報酬ではありません。―エフェソス 2:8,9。ローマ 3:23,24; 6:23。
8 1世紀の統治体はモーセの律法を異邦人のクリスチャンに適用することにかかわる問題に関してどんな決定を下しましたか。
8 モーセの律法を異邦人のクリスチャンに適用することにかかわるその問題が1世紀のエルサレムの統治体に提出された時,統治体の下した決定はこれらの諸事実と調和するものでした。統治体は,異邦人の信者に聖霊が下る以前から,それら信者にモーセの律法に従って業を行なうようエホバが要求しておられなかったことを認めました。その統治体の決定事項の中には,確かにモーセの律法と調和したある禁止事項が「必要な事柄」として挙げられましたが,それらの事項は律法以前に起きた出来事に関する聖書の記録に基づいていました。ですから,モーセの律法,もしくはそのある部分に従う責任が異邦人のクリスチャンに課せられたのではなく,むしろモーセ以前に認められていた規準が確認されることになったのです。―使徒 15:28,29。創世記 9:3,4; 34:2-7; 35:2-5と比べてください。
9 (イ)ユダヤ人は依然としてモーセの律法に従うよう神により求められていますか。(ロ)キリストの死に方によって彼らのためにどんな特別の備えが設けられましたか。
9 西暦33年のペンテコステの後,ユダヤ人自身ももはやモーセの律法の法典に従うことを神から要求されませんでした。そして,信仰を働かせた当時のユダヤ人はこのことのうちに歓ぶべき特別の理由を見いだしました。それはなぜですか。異邦人もやはり罪人で,それゆえに死ぬべき人間でしたが,ただユダヤ人だけが律法契約の違反者であったために神ののろいを受けていたのです。しかし,キリストはその死に方によって,つまりあたかものろわれた犯罪者のように杭にくぎ付けにされて,キリストに信仰を置くユダヤ人の身代わりになり,律法に対する不従順の結果として招いた処罰から彼らを解放されました。(ガラテア 3:10-13)こうして,キリストは彼らのためにモーセの律法のもとでは決して得られなかった許しをもたらされました。―使徒 13:38,39。
10 律法が取り除かれたことは,どんな点で一致した崇拝をもたらす要因となりましたか。
10 実際,律法はユダヤ人を異邦人から隔絶させていました。ユダヤ人には異邦人に適用しない要求が課せられており,割礼を受けていない異邦人はユダヤ人とその崇拝を十分に共にすることは妨げられていました。(出エジプト記 12:48; 使徒 10:28と比べてください。)しかし,ひとたび律法がその目的を成し遂げ,取り除かれると,ユダヤ人と割礼を受けていない異邦人は唯一まことの神の崇拝においてキリストを通して結ばれることができるようになりました。―エフェソス 2:11-18。
律法に関する知識はわたしたちに益をもたらす
11 律法に関する知識はキリストの教えを理解する上でどのように役立ちますか。
11 今日,わたしたちは律法のもとにはありませんが,その知識はわたしたち各々にとって大変有益です。どんな点で有益ですか。ご記憶と思いますが,イエスはユダヤ人の母から生まれ,モーセの律法のもとで生活しました。イエスの行なわれたある事柄は,その律法の要求に関する知識に基づいて考慮して初めて十分に理解することができるのです。(ガラテア 4:4。ルカ 22:7,8もご覧ください。)また,その律法のもとにあった民の中でイエスは宣教を続行されました。ですから,その教えは大抵,律法に関係した状況に基づいて組み立てられました。―マタイ 5:23,24と比べてください。
12 (イ)イエスはご自分の生活とモーセの律法との間にあるどんな関係を指摘されましたか。(ロ)使徒パウロは律法に関する知識を持つことの価値をどのように示しましたか。(ハ)その種々の要求の霊的な意義を把握すれば,どんな結果がもたらされますか。
12 イエスは復活させられた後に,人間としてのご自分の生活が,律法と預言者たちと詩編の中でご自分に関して書かれている事柄を成し遂げたことをその弟子たちに思い起こさせました。(ルカ 24:44)また,使徒パウロは律法契約に関する特色を「天にあるものの模型的な表現また影」と呼び,『律法は来たるべき良い事柄の影を備えている』と言いました。(ヘブライ 8:4,5; 10:1)イエス・キリストの祭司職やその人間としての命の犠牲のうちに成就を見ている驚くべき詳細な事柄がモーセの律法の中に含まれています。それらの事柄を把握すれば,わたしたちに対するそうした備えの意味合いを豊かなものにすることができます。その預言的な型の中には,今日エホバをその偉大な霊的な神殿で受け入れられる仕方で崇拝するための取り決めを指し示す詳細な事柄があります。それらの事柄に関するわたしたちの理解が深まれば,わたしたちの行なう崇拝に関連してイエス・キリストのもとにある霊によって油そそがれた会衆とその役割に対するわたしたちの認識もまた高められます。
13 律法の中に反映されている立派な原則について熟考することはなぜ有益ですか。
13 モーセの律法は,神の霊感によって記された聖書の一部であって,聖書全体は「教え,戒め,物事を正し,義にそって訓育するのに有益」です。(テモテ第二 3:16)律法の基礎をなしている永続する原則について調べ,それについて熟考することは,神を喜ばせる事柄を行ないたいという心からの願いを自分自身のうちに強める助けとなります。律法が強調している精神を理解し,その精神を自分の生活の中で反映させるなら,それはどんなにか有益なこととなり得るでしょう。
14 (イ)イエスは律法の種々の要求が示している精神を把握することの価値をどのように例証されましたか。(ロ)152ページに示されていますが,律法の中で具体的に表現されているほかの立派な原則の幾つかに注目してください。(ハ)こうした事柄を認識すれば,わたしたちは一層神に喜ばれる者となるようどのように助けられますか。
14 イエスは山上の垂訓の中でこのことを効果的に例証されました。イエスは当時,律法のもとにあった人々に話しかけて,単に殺人をしないように気をつけるだけでなく,憤ったままでいがちな傾向を根絶し,舌を用いて仲間の兄弟のことをけなすような話し方をしないようにする必要があることを示されました。一度も姦淫を犯したことがないからといって満足するのではなく,欲情を抱いて女を見つめることさえすべきではありませんでした。ですから,当時の人々について言えたように,わたしたちもまた,自分の体のすべての器官をエホバの義の道に調和した仕方で用いるよう努力すべきです。(マタイ 5:21,22,27-30。また,ローマ 13:8-10もご覧ください。)もしこのことを行なうなら,わたしたちもまた,律法の中にある,「あなたは,心をこめ,魂をこめ,思いをこめてあなたの神エホバを愛さねばならない」という最大のおきての意味を理解していることを示せます。(マタイ 22:36,37)そうするなら,確かにわたしたちはエホバ神に一層近く引き寄せられます。わたしたちはモーセの律法の法典のもとにはありませんが,律法の基礎となっている原則やその中に収められている預言的な型に関する正確な知識は確かにわたしたちに益をもたらすものとなります。
復習のための討議
● モーセの律法に従うことを主張する人々はなぜ実際にはキリストを退けていることになりますか。
● 律法に関する知識はエホバの目的の中でイエスの占めておられる役割を理解するのにどのように助けとなりますか。
● わたしたちは律法のもとにはいませんが,律法を研究すれば,どんな貴重な事柄を認識できますか。
[152ページの囲み記事]
モーセの律法の幾つかの基本的な原則
神に対する責任
ただエホバだけを崇拝する 出エジプト 20:3; 22:20
そのみ名を敬意をもって扱う 出エジプト 20:7。レビ 24:16
心と魂と活力を込めて神を愛し,神に仕える 申命 6:5; 10:12; 30:16
ただ神の是認される方法に レビ 1:1-5。民数 16:1-50。
したがって神に近づく 申命 12:5-14
自分の最善のものを神に差し出す。 出エジプト 23:19; 34:26
それは神から来たもの
崇拝者は身体的にも清くなければならない 出エジプト 19:10,11; 30:20
世俗の事柄を追い求めて神聖な関心事を押し 出エジプト 20:8-10; 34:21。
やってはならない 民数 15:32-36
宗教上の禁じられた慣行
偶像崇拝 出エジプト 20:4-6。申命 7:25
心霊術,呪術,運勢判断,占い,魔術, 出エジプト 22:18。レビ 20:27。
まじないを掛けること 申命 18:10-12
結婚と家族生活
姦淫は禁じられている 出エジプト 20:14。レビ 20:10
エホバに仕えない人と結婚しない 申命 7:1-4
近親相姦は禁じられている レビ 18:6-16; 20:11
胎内にある子供の命を尊重する 出エジプト 21:22,23
親を敬う 出エジプト 20:12; 21:15,17。
子供にエホバの道を教える 申命 6:4-9; 11:18-21
他の人々に関係する義務
人間の命を神聖なものとみなす 出エジプト 20:13。民数 35:9-34
仲間の人間を愛し, レビ 19:17,18
恨みを持たないようにする
年長の人たちのことを思いやる レビ 19:32
経済的逆境にある人や孤児ややもめに愛ある レビ 25:35-37。
気遣いを示す 申命 15:7-11; 24:19-21
耳の聞こえない人や目の見えない人を虐待 レビ 19:14。申命 27:18
してはならない
商取り引きの慣行で正直に振る舞う レビ 19:35,36; 25:14
所有権を尊重する 出エジプト 20:15; 22:1,6; 23:4。
ほかの人のものを欲しがってはならない 出エジプト 20:17
ゆゆしい悪行者のことを知らせる レビ 5:1。申命 13:6-11
本当のことを言い,偽りの証しをしない 出エジプト 20:16; 23:1,2
立場のゆえに不公平なことをしない 出エジプト 23:3,6。レビ 19:15
-
-
命と血 ― それを神聖なものとして扱っていますか唯一まことの神の崇拝において結ばれる
-
-
20章
命と血 ― それを神聖なものとして扱っていますか
1 (イ)神は命をどのように見ておられますか。(ロ)わたしたちは神からの命の賜物を正しく評価していることをどのように実証できますか。
命に対する神の見方が世の人々の見方と非常に異なっているからと言って驚くには当たりません。神にとって人間の命は神聖なものです。あなたも命をそのように見ておられますか。わたしたちは,「すべての人に命と息とすべての物を与えておられる」神に全く依存しています。(使徒 17:25-28。詩編 36:9)もしわたしたちが神と見方を共にしているなら,自分の命を守ることになります。しかし,自分の現在の命を守ろうとして神の律法を破りたいとは思いません。わたしたちは,神のみ子にほんとうに信仰を働かせる人たちのための永遠の命に関する神の約束を大切にします。―マタイ 16:25,26。ヨハネ 6:40。ユダ 21。
2 世の人々は命に対するだれの態度を反映していますか。そのために,時にはどんな論議が行なわれるようになりますか。
2 それとは対照的に,イエスは,この世の支配者である悪魔サタンが『その始めからの人殺しであった』と言われました。(ヨハネ 8:44; 12:31)サタンは実際,その反逆の歩みの最初の時から人類に死をもたらしました。この世の狂暴な歴史はサタンの精神を反映しています。しかしサタンはまた,一見それとは異なった外見を示すことができます。ですから,その考え方の影響を受けている人々は,信心深いのは結構なことだが,命にかかわる問題の場合には聖書を引き合いに出すのではなく,“専門家”の助言に留意することによって益が得られると論じます。(コリント第二 11:14,15と比べてください。)一見生死にかかわるように思える事態に直面したなら,あなたの心はどちらの道に傾くでしょうか。もちろん,わたしたちの願いはエホバを喜ばせることであるべきです。
3 (イ)わたしたちは聖書が血について述べる事柄になぜ特に関心を持つべきですか。(ロ)創世記 9章3-6節と使徒 15章28,29節を読み,次いでこれらの聖句を用いて上記の質問に答えてください。
3 神のみ言葉は命と血の間に密接な関係があることを明らかにして,「肉の魂[つまり命]は血にある」と述べています。ですから,命が神聖なものであるとおり,神はまた血を神聖にされました。それはただ神の是認なさる仕方によってのみ用いられるべき,神に属する大切なものです。(レビ 17:3,4,11。申命 12:23)ですから,血に関して神がわたしたちに求めておられる事柄を注意深く考慮するのは良いことです。
創世記 9章3節から6節を読んでください
あなたの地方には,動物の血を消費しないよう用心する必要のあるどんな慣行がありますか。
動物の血に関し4節で述べられている事柄から考えて,(ローマの剣闘士の戦いの際に行なわれた)人間の血を飲むことに対してあなたはどう反応されるでしょうか。
5節と6節に示されているとおり,人間の血を流す人は,第一にだれに対して責任を負わなければなりませんか。
使徒 15章28,29節を読んでください
この句はその要求が単に限られた期間だけ適用するものであることを述べていますか。それはわたしたちにも当てはまりますか。
ここで用いられている言葉遣いによれば人間の血は除外されていますか。
この聖句は,緊急の場合には例外があり得ることを示唆していますか。
4 ここで論じられているとおり,血の罪にあずからないようにするため,どんな行動を取る必要があり得ることを聖書は示していますか。
4 人間の血に関しては,単に殺人をしないように気をつけさえすれば罪を負わずにすむなどとは考えられません。もしわたしたちが神の前で血の罪を負っている何らかの組織の一部であるならば,そしてもしその罪にあずかることを望まないなら,その組織との関係を断たなければならないことを聖書は示しています。(啓示 18:4,24。ミカ 4:3)そのような行動は至急考慮するに値します。
5 野外宣教に勤勉に携わることと血の罪を免れることとはどのように関連づけられますか。
5 大患難における来たるべき滅びについて警告するよう神から任命されたその僕たちの場合,血の罪を免れている状態を保つには,その音信を忠実にふれ告げなければなりません。(エゼキエル 3:17-21と比べてください。)使徒パウロは自分に割り当てられた奉仕の務めのゆえに自分自身のことをあらゆる人々に負い目のある者と見ました。パウロは救いのための神の備えについて人々に徹底的な証しをして初めて,人々の血に対する責任を免れていると考えました。(ローマ 1:14,15。使徒 18:5,6; 20:26,27)あなたは野外宣教に勤勉に携わって,すべてのエホバの証人の負っている責任に関する同様の意識を反映していますか。
6 事故防止と命の神聖さに対する敬意との間にはどんな関係がありますか。
6 命にかかわる事故もまた,わたしたちにとっては重大な事柄であるはずです。モーセの律法のもとでは,誤って仲間の人間を死なせた人は罪のない者とはみなされませんでした。刑罰が課せられました。(出エジプト 21:29,30。申命 22:8。民数 35:22-25)もし関係する原則を心に留めるなら,わたしたちは車の運転の仕方によって,あるいは愚かにも危険を冒して何かをしたり,自分の家や仕事をする場所の危険な状態を放置したりして,命にかかわる何らかの事故の元にならないよう注意します。このような事柄に対するあなたの態度は,命の神聖さを十分に認識していることを反映していますか。
医学上の血の使用についてはどうですか
7 (イ)ある人の血をほかの人に輸血することは血の神聖不可侵性と両立し得ますか。(ロ)『血を避けるように』という命令を1世紀当時普通に見られた慣行に限定するのはなぜ不合理ですか。
7 この慣行は新しいものではありませんが,特に20世紀になって,命を支える目的で血が輸血のために広く用いられてきました。全血も血の主要な成分も両方ともこのような仕方で用いられています。もちろん,このような医学処置は患者が死なないことを保証するものではありません。時には,実際,このように血を用いる直接の結果として死を招く場合もあります。しかし,それよりもさらに重大な事柄として,『血を避けるように』という聖書の要求は,この医学上の慣行にも適用されますか。適用されます! 人間であろうと動物であろうと,他のどんな被造物の血でも,体内に取り入れるなら,神の律法を破ることになります。それは血の神聖さを無視していることを示します。(使徒 15:19,20)『血を避けるように』という命令を1世紀当時,普通に見られた慣行に限定し,そのようにして現代の医学技術を除外する根拠はありません。この問題に関してこう推論してください。わたしたちの知っているような銃はずっと後代になるまで発明されなかったので,殺人を戒める聖書の命令には,銃を用いて人間の命を不法に奪うことは含まれていないと主張できる人がいるでしょうか。また,酩酊を戒める禁令は1世紀当時知られていた飲み物に関してのみ当てはまるのであって,現代の蒸留酒には当てはまらないと論じるのは道理にかなったことでしょうか。神を喜ばせたいとほんとうに願う人々にとって,『血を避けるように』という命令の表わす主旨は明らかです。
8 (イ)どうすれば,ある医療処置がクリスチャンにとってふさわしいかどうかを決めることができますか。(ロ)あなたの血の幾らかを取り出し,それを蓄えて置き,それから手術の際にあなたの体内に送り返す方法を取りたいと医師が考える場合,正しい決定を下すのにどんな原則が助けとなるでしょうか。(ハ)体外の装置を通して血液を循環させる必要のある治療について,人はどのように考えるかもしれませんか。
8 それにもかかわらず,中には医療処置が複雑なために問題の起きる場合があります。どうすればそのような問題を解決することができますか。まず,主治医にお願いして,提案されている処置についてはっきり説明してもらってください。それから,聖書の原則に照らして祈りのうちにそれを検討してください。自分の血の幾らかを取り出して,後の手術の際にもし必要なら使えるよう蓄えておくことを主治医は提案するかもしれません。あなたはそれに同意なさいますか。モーセを通して与えられた神の律法によれば,ある生き物から取り除かれた血は地面に注ぎ出さなければならなかったことを思い起こしてください。(申命 12:24)わたしたちは今日,その律法の法典のもとにはありませんが,その根底にある主旨は,血は神聖であって,生き物の体から取り除かれたなら,それを神の足台である地に注ぎ出して神に返さなければならないということです。(マタイ 5:34,35と比べてください。)ですから,自分の血を(たとえ短期間とはいえ)蓄えて,それからそれを自分の体に再び入れるのは,どうして正しいことと言えるでしょうか。しかし,手術の最中に,あるいはほかの治療を進める際に,あなたの血を体の外にある装置の中を通らせて,それから再び体内に入れることにすると主治医に言われたならどうですか。あなたはそれに同意されますか。中には,血液とは無関係の溶液を注入してその装置を始動させる限り,清い良心を抱いてその治療法を認めることができると考えた人たちもいます。それらの人はその外部の装置を自分の循環系統の一種の延長とみなしています。もとより,事情はさまざまですから,あなたが決定を下さなければなりません。しかし,その決定は神のみ前で清い良心を保つことのできるものであるべきです。―ペテロ第一 3:16。テモテ第一 1:19。
9 (イ)『血を避ける』という自分の決定を確実に尊重してもらうためには念のために事前にどんな処置を取って置くべきですか。(ロ)緊急事態の場合でさえ,時にはどうすれば不快な対立を避けることができますか。(ハ)もしも医師あるいは裁判所が輸血を強制しようとするなら,あなたはどうなさいますか。
9 『血を避ける』という自分の決定を確実に主治医に尊重してもらうためには,何らかの医療上の緊急事態が生じないうちに主治医と話し合ってください。もし治療を受けるために入院の手続きをする必要があるなら,輸血は行なえないことを事前に書面で要請し,それと共に治療を担当する医師にそのことについて個人的に話してください。しかし突然緊急事態が生じた場合はどうですか。敬意を込めて,道理をわきまえた仕方で医師と話し合い,医師としての技術を駆使して助けていただくと共に,クリスチャンとしてのあなたの良心を尊重してもらうようお願いするなら,多くの場合,不快な対立を避けることができます。(箴言 15:1; 16:21,23)しかし,もしかして善意のある医療担当者が,輸血を拒むなら命が危ういから同意するようわたしたちに強制しようとするならどうですか。エホバの道の正しさを信ずる信仰によってわたしたちはき然とした態度を取るべきです。エホバに対する忠節ゆえに断固として抵抗すべきです。なぜならわたしたちは人間よりもむしろ神に従うことを選ぶからです。―使徒 5:29。ヨブ 2:4; 箴言 27:11と比べてください。
問題はどれほど重大ですか
10 命を救うために輸血が必要だという主張があっても,この問題に関するわたしたちの見方が変わらないのはなぜでしょうか。
10 エホバのことをまだ知らない人にとって,輸血を支持する論議は,時には命の神聖さを大いに尊重した考え方のように思えるかもしれません。しかしわたしたちは,そのように論ずる多くの人々がそれと同時に,妊娠中絶によって命が断たれるのを大目に見ていることを忘れるわけにはゆきません。エホバはどんな医療“専門家”よりも命や血について多くをご存じです。そのおきてはすべて,わたしたちの今の命を守り,また将来の見込みを確かなものにして,わたしたちに益するものとなってきました。(イザヤ 48:17。テモテ第一 4:8)『血を避けるように』という命令は多少違ったところがあるのでしょうか。
11 (イ)エホバがイスラエル人に許された血の唯一の用い方とはどのようなものでしたか。(ロ)これはクリスチャンであるわたしたちにとってなぜ非常に重要な事柄ですか。
11 血の神聖さを尊重することがどんなに重大であるかは,血を用い得る唯一の使用法に関してエホバが次のように言われた事柄によって強調されています。「肉の魂は血にあるから……わたしは,あなた方が自分の魂のために贖罪を行なうようにとそれを祭壇の上に置いたのである。血が,その内にある魂によって贖罪を行なうからである。それゆえにわたしはイスラエルの子らにこう言った。『あなた方のうちのいずれの魂も血を食べてはならない』」。(レビ 17:11,12)その要求にしたがってエホバの祭壇の傍らで注ぎ出された動物の血はすべてイエス・キリストの貴重な血を予表していました。(ヘブライ 9:11,12。ペテロ第一 1:18,19)ですから,イエスの血の神聖さ自体は,血にかかわるほかのいかなる使用をも禁じている神の律法によって強調されています。このことから,血の誤用はすべて,み子を通して設けられた救いのためのエホバの備えに対する重大な不敬を示すものであることが分かります。
12 たとえ死に直面しても,真のクリスチャンは何らかの血の誤用に訴えてまで生き続けようとしないのはなぜでしょうか。
12 生死にかかわる事態に直面する場合,神に背を向けるのは何と近視眼的な行為でしょう。わたしたちは良心的な医師の働きを高く評価していますが,まるで今の命がすべてでもあるかのように神の律法を破ってまで自分自身や自分の愛する人たちをさらに数日あるいは数年生き続けさせようと必死に試みようとはしません。わたしたちはイエスの流された血の価値とそれによって可能にされたとこしえの命に対する信仰を持っています。わたしたちは,神の忠実な僕たちが ― たとえ死んでも ― とこしえの命をもって報われることを心を込めて信じています。―ヨハネ 11:25。テモテ第一 4:10。
復習のための討議
● 命と血は何によって神聖なものとされていますか。世の人々はなぜ違った見方に賛成の議論をしますか。
● 動物については,わたしたちはその血の神聖さを尊重していることをどのように示しますか。
● わたしたちは皆,人間の命を神聖なものとして扱っていることをどんな様々な仕方で示すべきですか。そうするのはどれほど重要なことですか。
-
-
『彼らは世のものではありません』唯一まことの神の崇拝において結ばれる
-
-
21章
『彼らは世のものではありません』
1 (イ)イエスは死ぬ前の夜,弟子たちのためにどんな事を祈られましたか。(ロ)「世のものではない」ということはなぜそれほど重要でしたか。
イエスは杭に付けられる前の夜,ご自分の弟子たちのために真剣に祈られました。イエスは弟子たちがサタンから恐るべき圧力を受けることを知っていたので,「わたしは,彼らを世から取り去ることではなく,邪悪な者のゆえに彼らを見守ってくださるようにお願いいたします。わたしが世のものではないのと同じように,彼らも世のものではありません」と,み父に言われました。(ヨハネ 17:15,16)世から離れているのはなぜそれほど重要なことですか。なぜなら,サタンがその支配者だからです。世のものとなっている人々はサタンの支配のもとにあります。(ヨハネ 14:30。ヨハネ第一 5:19)このことを考えると,「世のものではない」とはどういうことかを理解するのは,どのクリスチャンにとっても極めて重要なことです。このことはイエスについてもどのように真実でしたか。
2 イエスはどんな点で『世のものではありませんでした』か。
2 イエスは確かにほかの人々から孤立なさいませんでした。イエスが『世のものではなかった』ということは,他の人々に対する愛がなかったという意味ではありませんでした。それどころか,イエスは都市から都市へ行って,神の王国に関する良いたよりを人々にお告げになりました。そして,病人をいやし,目の見えない人々に視力を回復させ,死人をよみがえらせ,人類のためにご自分の命をさえお与えになりました。しかしイエスは,この世の精神で満たされていた人々の不敬虔な態度や邪悪な行為を愛したりはされませんでした。イエスは不道徳な欲望,物質主義的な生き方および個人的に目立った立場を利己的にとらえようとすることを戒められました。(マタイ 5:27,28; 6:19-21。ルカ 12:15-21; 20:46,47)イエスは神から遠ざけられていた人々の生き方を見倣わずにエホバの道を歩まれました。(ヨハネ 8:28,29)ローマとユダヤ人の関係した政治的な論争に関して,イエスはユダヤ人でしたが,いずれの側にもくみされませんでした。
「わたしの王国はこの世のものではありません」
3 (イ)ユダヤ人の宗教指導者たちはイエスに関してピラトにどんな訴えを起こしましたか。それはなぜでしたか。(ロ)イエスが人間の王になることに少しも関心を持っておられなかったことは,何から分かりますか。
3 ところが,ユダヤ人の宗教指導者たちは,イエスが国家の権益を損なわせていると非難しました。そしてイエスを捕縛させ,ローマ総督ポンテオ・ピラトのもとに連れて行かせました。それら宗教指導者を実際に当惑させたのは,彼らの偽善がイエスによって暴露されたことだったのです。しかし彼らは総督に処置を取らせるため,「わたしたちは,この男がわたしたちの国民をかく乱し,カエサルに税を払うことを禁じ,自分は王キリストだと言っているのを見ました」と言って訴えました。(ルカ 23:2)実際には,1年ほど前,人々がイエスを王にしようと望んだ時,イエスはそれを拒否されたのです。(ヨハネ 6:15)イエスはご自分が天的な王になること,しかしそのような王になる時はまだ来ていなかったこと,またご自分は民主的な,あるいは俗受けのする方法によってではなく,エホバ神によって即位させられることをご存じでした。
4 「カエサルに税を払うこと」に関するイエスの態度について事実は何を明らかにしていますか。
4 イエスが捕縛される三日ばかり前のこと,パリサイ人たちは税金の支払いに関してイエスを罪に陥れるようなことを何か言わせようとしました。しかし,イエスは彼らの悪賢い質問に対して次のように返答されました。「デナリ[ローマの硬貨]をわたしに見せなさい。それにはだれの像と銘刻がありますか」。彼らが,「カエサルのです」と言うと,イエスは,「では,ぜひとも,カエサルのものはカエサルに,しかし神のものは神に返しなさい」とお答えになりました。―ルカ 20:20-25。
5 (イ)イエスは捕縛された時,弟子たちにどんな教訓を教えられましたか。(ロ)イエスはご自分が行なわれた事柄の理由をピラトにどのように説明されましたか。
5 実際,イエスが捕縛された時に起きた事柄も,イエスがローマに対する反抗を扇動していたのではないこと,またご自分の弟子たちにそうさせようと望んでおられたのでもないことを証明するものとなりました。ローマの兵士たちはイエスを捕らえようとして,剣やこん棒を持ったユダヤ人たちと一緒にやって来ました。(ヨハネ 18:3,12。マルコ 14:43)これを見ると,使徒ペテロは剣を抜いて,それらの人の一人を討ち,その右の耳を切り落としました。ところがイエスはペテロを戒めて,「あなたの剣を元の所に納めなさい。すべて剣を取る者は剣によって滅びるのです」と言われました。(マタイ 26:51,52)翌朝,イエスはピラトの前でご自分の取った行動の理由を説明し,次のように言われました。「わたしの王国はこの世のものではありません。わたしの王国がこの世のものであったなら,わたしに付き添う者たちは,わたしをユダヤ人たちに渡さないようにと戦ったことでしょう。しかし実際のところ,わたしの王国はそのようなところからのものではありません」― ヨハネ 18:36。
6 その審理の結果はどうなりましたか。
6 ピラトは証拠を考慮した後,イエスに対して指摘された『罪状の根拠となるようなものは何もない』と言明しました。それにもかかわらず,彼は群衆の要求に屈して,イエスを杭に付けさせました。―ルカ 23:13-15。ヨハネ 19:12-16。
弟子たちは主人の指導に従う
7 初期のクリスチャンは世の精神を避けましたが,人々を愛していたことをどのように示しましたか。
7 聖書と他の歴史的な著作のいずれの場合でも,初期のキリスト教の記録は,イエスの弟子たちが,「世のもの」とならないようにするには何が要求されているかを理解していたことを示しています。弟子たちは世の精神を避けるよう努めました。彼らはローマの円形競技場や劇場の暴力的で不道徳な催し物を忌避したために,人類を憎む者として嘲笑されました。しかし,彼らは仲間の人間を憎むどころか,救いのための神の愛ある備えの益を受けられるよう他の人々を助けるために自らを費やしたのです。
8 (イ)それら初期の弟子たちは『世のものではなかった』ゆえに,何を経験しましたか。(ロ)しかし,彼らは政治支配者や税の支払いをどう見ましたか。それはなぜですか。
8 それらのクリスチャンはまたその主人がそうであったように,間違った情報を伝えられた政府の役人たちの手に掛かってしばしば激しい迫害を受けました。(ヨハネ 15:18-20)しかし,西暦56年ごろ,使徒パウロはローマにいた仲間のクリスチャンに手紙を書き送って,イエスがお与えになった助言をいっそう説得力のあるものにしました。パウロは彼らに政治支配者である『上位の権威に服する』よう勧めたのです。「神によらない権威はないからです」。エホバが世俗の政府を設けられたというのではなく,政府はエホバの許しを得て支配しているのです。政府は「神によってその相対的な地位に据えられている」とパウロは説明しました。なぜなら,神は諸政府が権力を執る順序を予見し,予告しておられたからです。ですから,「上位の権威」はイエス・キリストの手中にある神ご自身の王国が地を支配する唯一の政府となる時まで存続する現代のための「神の取り決め」を成しているのです。それでパウロは,世俗の役人を正しく敬い,自分たちに課せられる税を支払うようクリスチャンに忠告しました。―ローマ 13:1-7。テトス 3:1,2。
9 (イ)「上位の権威」に服する際,何を度外視してはなりませんか。(ロ)歴史は初期クリスチャンがイエスの模範に注意深く従ったことをどのように示していますか。
9 けれども,パウロは彼らに,神や神のみ言葉やクリスチャンとしての自分の良心を顧みずに絶対服従をするようにとは告げませんでした。彼らはイエスがただエホバだけを崇拝なさったこと,またイエスは人々からご自分が王にされるのを拒まれたこと,さらに剣を納めるようペテロに命じられたことを知っていました。彼らは自分たちの主人の指導に良心的に従いました。「文明への道 ― 世界史」(ヘッケルとシグマン共著[英文],237,238ページ)と題する本は次のように伝えています。「クリスチャンはローマ市民のある種の義務にあずかることを拒んだ。クリスチャンは……兵役につくことを自分たちの信仰に背く行為であると感じた。彼らは政治上の官職に就こうとしなかった。また,皇帝を崇拝しようともしなかった」。
10 (イ)エルサレムにいたクリスチャンは西暦66年になぜそのように行動しましたか。(ロ)それはどんな点で貴重な模範を残すものとなりましたか。
10 イエスの弟子たちは当時の政治および軍事上の論争に関して厳正中立を保ちました。西暦66年にローマの属州ユダヤのユダヤ人たちはカエサルに対して反乱を起こしました。ローマ軍は直ちにエルサレムを包囲しました。同市にいたクリスチャンはどうしましたか。中立を保って,敵対し合う軍隊のもとを去るようにというイエスの助言を思い起こしました。ローマ軍が一時的に引き上げると,クリスチャンはその機会をとらえ,ヨルダン川を渡ってペラの山地に逃げました。(ルカ 21:20-24)彼らはその中立の点で後代のクリスチャンに対する忠実な模範となりました。
終わりの時代に中立を保つクリスチャン
11 (イ)エホバの証人はどんな業を忙しく行なっていますか。それはなぜですか。(ロ)彼らは何に関して中立の立場を取っていますか。
11 西暦1914年以来のこの「終わりの時」にどのグループがそれら初期のクリスチャンに見倣ってキリスト教の中立の道を進んで来たことを歴史の記録は示していますか。そうです,エホバの証人はそうしてきました。彼らは神の王国が全地の義を愛する人々のために平和と繁栄と永続する幸福とを可能にする唯一の手段であることを全地で忙しく宣べ伝えてきました。(マタイ 24:14)しかし,諸国民の間の種々の論争については彼らは厳正中立を保ってきました。
12 (イ)証人たちの中立の立場と僧職者の行なっている事柄とはどんな著しい対照を示していますか。(ロ)エホバの証人にとって政治に関する中立の立場には何が含まれますか。
12 これとは極めて対照的に,キリスト教世界の僧職者は世の政治問題に大いに関係しています。中には,僧職者が立候補者を支持したり,あるいはそれに反対したりする運動を活発に行なっている土地もあります。中には僧職者自身が政治上の官職に就いている場合もあります。一方,自分たちの賛同する計画を支持するよう政治家に大きな圧力を加える僧職者たちもいます。ほかには,“保守的な”僧職者は政権を握っている人々の親しい支持者であったり,“革新的な”司祭や牧師が政権打倒を図ろうとするゲリラ活動を支持したりしている場合もあります。しかし,エホバの証人は自分がどんな国に住んでいるかにはかかわりなく,政治に手を出しません。証人たちはほかの人々が政党に加わったり,立候補したり,あるいは選挙で投票したりする点で行なう事柄に干渉しません。しかし,イエスはその弟子たちが「世のものではない」と言われたので,エホバの証人はどんな政治活動にも加わりません。
13 戦争に参加することに関して,諸事実はエホバの証人がどんな立場を取ってきたことを示していますか。
13 イエスが予告なさったとおり,この「終わりの時」の期間に諸国民は再三戦争を行ない,国民の内部でさえ種々の党派が武器を取って互いに戦い合ってきました。(マタイ 24:3,6,7)しかし,これらすべての状態にもかかわらず,エホバの証人はどんな立場を取ってきましたか。証人たちがそうした紛争に関して中立の立場を取ってきたことは世界のあらゆる場所でよく知られています。イエス・キリストの取られた立場,また後にその初期の弟子たちによって明示された立場と一致して,「ものみの塔」誌は1939年11月1日号(英文)の中でこう述べました。「主の側にある人々はすべて,敵対し合う諸国家に関して中立を保ち,偉大な神権統治者[エホバ]とその王[イエス・キリスト]をひたすら,また全面的に支持します」。諸事実は,すべての国の中で,あらゆる境遇のもとにあるエホバの証人が引き続きこの立場を固守していることを示しています。証人たちは分裂を招く世の政治や戦争のためにエホバの崇拝者としての自分たちの国際的な兄弟関係を引き裂かれるようなことを許しませんでした。―イザヤ 2:3,4。コリント第二 10:3,4と比べてください。
14 (イ)証人たちはその中立の立場のゆえに,ほかに何を行なうことを拒んできましたか。(ロ)証人たちはその理由をどのように説明しますか。
14 歴史上の諸事実を調べると,次のことが分かります。つまり,エホバの証人は過去半世紀余にわたって,軍服を着用したり武器を取ったりすることを拒んだだけでなく,非戦闘員の任務に就いたり,あるいは軍務に代わるものとして他の仕事の割り当てを受けたりすることをも断わってきました。それはなぜですか。なぜなら,神のご要求を学んで,個人的な良心的決定を下したからです。何をしなければならないかをだれも証人たちに告げてはいません。また,証人たちはほかの人が行なおうとする事柄に干渉しません。しかし,エホバの証人は自分の立場を説明するよう求められるとき,献身して自分自身を神に差し出した者として,神への奉仕に自分の体を用いる義務があり,今や,神の目的に反する行動をしている地的な主人に自分の体を引き渡すわけにはゆかないということを知らせてきました。―ローマ 6:12-14; 12:1,2。ミカ 4:3。
15 (イ)エホバの証人は世から離れた立場を保っているゆえに,何を経験してきましたか。(ロ)投獄された時でさえ,証人たちはキリスト教の原則によってどのように導かれましたか。
15 その結果,イエスが,『あなた方は世のものではないので……世はあなた方を憎むのです』と言われたとおりになりました。(ヨハネ 15:19)エホバの証人の多くはクリスチャンとしての中立の立場を侵そうとしなかったために投獄されました。中には残忍な仕打ちを受けて,死んだ人たちさえいました。ほかには,何年も監禁されながら自分たちの中立の立場を明らかに示し続けてきた人たちがいます。「アウシュビッツの価値基準と暴力」(アンナ・パベルチンスカ著,89ページ)と題する本はこう伝えています。「[強制収容所内の]エホバの証人はだれも自分の宗教上の信念や確信に反する命令には従わない,あるいは相手が殺人犯であれ,親衛隊員であれ,他の人に対する敵対行為はしないということを,だれもが知っていた。一方,もし倫理的に中立を保てるなら,ほかの仕事は何でも,それが極めて不快な仕事であっても自己の最善を尽くして行なうのであった」。
16 (イ)諸国民はすべて何に向かって行進していますか。ですから,エホバの証人は何を注意深く避けますか。(ロ)では,世から離れているということはなぜそれほど重大な事柄ですか。
16 エホバの証人は諸国民がすべてハルマゲドンにおける「全能者なる神の大いなる日の戦争」に向かって進んでいることを認識しています。エホバの僕たちは一致した民としてそのメシアの王国を支持する立場を取ってきました。ですから,その王国に反対する立場に誘い込まれるようなことを避けるために注意しているのです。(啓示 16:14,16; 19:11-21)証人たちはイエスの真の追随者が「世のものではない」というその陳述の重大性を正しく認識しています。エホバの証人はこの古い世が間もなく過ぎ去り,神のご意志を誠実に行なう人たちだけが永遠にとどまることを知っています。―ヨハネ第一 2:15-17。
復習のための討議
● イエスは「世のものではない」ということに関係している事柄をどのように示されましたか。
● (1)世の精神,(2)世俗の支配者ならびに税の支払い,および(3)軍務に対する初期クリスチャンの態度を示唆するどんな事柄がありますか。
● 現代のエホバの証人はクリスチャンの中立の立場を保っている証拠をどのように示してきましたか。
-
-
神の言葉を大胆に語り続けなさい唯一まことの神の崇拝において結ばれる
-
-
22章
神の言葉を大胆に語り続けなさい
1 (イ)イエスの弟子たちは西暦33年のペンテコステの時からどんな良いたよりをふれ告げるようになりましたか。しかしユダヤ人の支配者や年長者たちはどんな反応を示しましたか。(ロ)このことに関してわたしたちはどのように自問できるでしょうか。
かつて,4,000年余にわたる人類の歴史の中でも極めて重要な出来事が起きました。神ご自身のみ子,イエス・キリストが全地を治める将来の王として油そそがれたのです。イエスは宗教上の敵の扇動のために処刑されましたが,それにもかかわらずエホバはそのみ子を死人の中からよみがえらされました。そして,永遠の命の見込みを伴う救いがこのみ子を通して可能になりました。しかし,イエスの忠実な弟子たちがこの良いたよりを公にふれ告げたところ,突如激しい迫害が起こりました。最初,使徒たちのうち二人が,次いでその全員が投獄されました。使徒たちはむち打たれ,イエスの名によって語るのをやめるよう命じられました。(使徒 4:1-3,17; 5:17,18,40)使徒たちはどうすべきでしたか。あなたならどうしたでしょうか。引き続き大胆に証しをしたでしょうか。
2 (イ)今日,なお一層驚嘆すべきどんな知らせがふれ告げられる必要がありますか。(ロ)そうする責任はだれにありますか。
2 西暦1914年には,宇宙的な重要性を帯びた,さらに一層驚嘆すべき出来事が起きました。イエス・キリストの手中にある神の王国が実際に天で設立されたのです。次いで,サタンとその悪霊たちが地に投げ落とされました。(啓示 12:1-5,7-12)現在の邪悪な体制の終わりの日は既に始まりました。1914年の出来事を目撃した世代の人々が死に絶えないうちに,神はサタンの事物の全体制を打ち砕かれます。(マタイ 24:34)生き残る人たちの前途にはとこしえの命を受ける見込みがあります。神の最初の目的は成就して,全地は楽園となるでしょう。もしあなたがこの良いたよりを既に喜んで受け入れられたのでしたら,あなたにはこれを他の人と共にする責任があります。(マタイ 24:14)しかし,どんな反応を期待することができますか。
3 (イ)人々は王国の音信にどのように反応しますか。(ロ)それで,わたしたちはどんな質問に直面しなければなりませんか。
3 中には,王国をふれ告げる人としてのあなたを温かく迎え入れる人々がいるかもしれませんが,大多数の人は実際,無関心でしょう。(マタイ 24:37-39)ほかには,あなたを嘲笑したり,あるいは激しく反対したりする人もいることでしょう。イエスはあなたご自身の親族の中から何らかの反対が生じるかもしれないことを警告されました。(ルカ 21:16-19)また,職場や学校で反対に遭うかもしれません。エホバの証人は地上の多くの場所で政府から不当な禁令を課せられてさえいます。このような状況のどれかに,あるいはそのすべてに直面しても,あなたは神の言葉を大胆に語り続けますか。
4 個人的な決意は,自分が神に忠実に奉仕し続けることができるという保証を与えるものとなりますか。
4 確かにあなたは神の勇敢な僕でありたいと願っておられることでしょう。しかし中には,何ものにも退却させられるようなことはないと思っていたのに,王国をふれ告げる人々の隊伍から脱落した人たちがいます。それとは対照的に,どちらかといえば生まれつき内気な人たちを含め,他の人々はたゆむことなく引き続き熱心な神の僕としてとどまっています。どうすれば,「信仰のうちにしっかり」立つ人であることを示せるでしょうか。―コリント第一 16:13。
自分自身の力に頼らない
5 (イ)自分自身が忠実な神の僕であることを証明するための基本的な要求とは何ですか。(ロ)集会はなぜそれほど重要ですか。
5 もちろん,忠実な神の僕であることに関係している要素は数多くあります。しかし,それらの要素すべての基本をなすものは,エホバとその備えに頼ることです。そのように頼っていることをどのように示せますか。一つには会衆の集会に出席することによって示せます。聖書はそれらの集会をなおざりにしないようわたしたちに勧めています。(ヘブライ 10:23-25)一般の人々の無関心さであれ迫害であれ,そのいずれをもものともせずにエホバの忠実な証人であり続けてきた人たちは,仲間の崇拝者たちと共に集会に定期的に出席するよう努力してきました。その集会に出席すると,聖書に関するわたしたちの知識は増し加わりますが,わたしたちが引き付けられるのは単に新しい事柄に魅惑されるからではありません。(使徒 17:21と比べてください。)よく知っている真理に関するわたしたちの認識は高まり,その真理の用い方に関するわたしたちの意識は鋭敏なものにされます。イエスがわたしたちのために示された模範は,わたしたちの思いと心に深く印象づけられるようになります。(エフェソス 4:20-24)わたしたちは一致した崇拝において仲間のクリスチャンの兄弟たちに引き寄せられ,神のご意志を行ない続けるよう個人的に強められます。エホバの霊は会衆を通して導きを与え,その霊により,イエスはその名によって集まるわたしたちの中にいてくださるのです。―啓示 3:6。マタイ 18:20。
6 エホバの証人の業が禁止される場合,集会に関してはどんなことが行なわれますか。
6 あなたはすべての集会に定期的に出席し,討議される事柄を聞いて学んだことをご自分に適用しておられますか。時には,禁令を課されたため,少人数のグループで個人の家で集会を開かなければならないこともありました。場所や時間はそれぞれ変わり,必ずしも便利な取り決めを設けることができず,ある集会は夜遅く行なわれる場合もあります。しかし,個人的な不便さや危険が伴うにもかかわらず,忠実な兄弟や姉妹たちは各々の集会に出席するよう真剣な努力を払います。
7 (イ)ほかに,わたしたちはどのようにしてエホバに頼っていることをはっきりと示せますか。(ロ)そうすれば,わたしたちは大胆に語り続けられるようどのように助けられますか。
7 また,祈りをささげ,それも単に決まりきった形式的なものではなく,神の助けを必要としていることを心から認めて祈り,定期的にエホバに助けを求めることによって,エホバに頼っていることを示せます。あなたはそうしておられますか。イエスは地上で奉仕の務めに携わっておられた間繰り返し祈られました。(ルカ 3:21; 6:12,13; 9:18,28; 11:1; 22:39-44)そして,杭に付けられる前夜,イエスは弟子たちに,「あなた方は,ずっと見張っていていつも祈り,誘惑に陥らないようにしなさい」と勧められました。(マルコ 14:38)もし王国の音信に無関心な人々にばかり会うと,奉仕の務めを行なう努力を緩める誘惑に遭う恐れがあります。人々から嘲笑されたり,あるいはそれよりももっと厳しい迫害に遭ったりすると,そのような事態を回避するために語るのをやめようと思う場合があるかもしれません。しかし,大胆に語り続けられるよう神の霊の助けを真剣に祈り求めるなら,わたしたちはそのような誘惑に屈しないよう守っていただくことができます。―ルカ 11:13。エフェソス 6:18-20。
大胆な証言の記録
8 (イ)使徒たちの活動の書の記録はなぜわたしたちにとって特に興味深いものがありますか。(ロ)その情報がわたしたちにどのように益をもたらすかを強調しながら,この節の終わりに用意されている質問に答えてください。
8 使徒たちの活動の書に収められている記録はわたしたちすべてにとって特に興味深いものがあります。その記録は,わたしたちと同様の感情を持つ人々であった使徒たちや他の初期の弟子たちがどのように障害を克服し,エホバの大胆で忠実な証人であることを証明したかを示しています。下記の質問や参照聖句を助けにして,その記録の一部を調べてみましょう。そうする際,自分の読む事柄から個人的にどのように益が得られるかを考慮してください。
使徒たちは高等教育を受けた人々でしたか。何が起きようとも生まれつき恐れを知らない人たちでしたか。(使徒 4:13。ヨハネ 18:17,25-27; 20:19)
ほんの数週間前に神のみ子に有罪の判決を下したユダヤ人の法廷の前でペテロはどうして大胆に語ることができましたか。(使徒 4:8。マタイ 10:19,20)
使徒たちはサンヘドリンの前へ引き出されるまでの何週間かのあいだ何を行なっていましたか。(使徒 1:14; 2:1,42)
ペテロとヨハネはイエスの名によって宣べ伝えることをやめるよう支配者たちから命じられた時,何と返答しましたか。(使徒 4:19,20)
彼らは釈放された後,再びだれに助けを求めましたか。迫害を終わらせていただきたいとお願いしましたか。それとも何を願い求めましたか。(使徒 4:24-31)
反対者たちが宣べ伝える業をやめさせようとした時,エホバは何によって援助をお与えになりましたか。(使徒 5:17-20,33-40)
使徒たちは身柄を引き渡された理由を理解していたことをどのように示しましたか。(使徒 5:21,41,42)
迫害が激しくなったために,弟子たちの多くが散らされた時でさえ,彼らは何を行ない続けましたか。(使徒 8:3,4; 11:19-21)
9 (イ)それら初期の弟子たちは奉仕の務めに携わって,感動的などんな成果を得ましたか。(ロ)わたしたちもその務めにどのように関係してきましたか。
9 良いたよりに関連してなされた彼らの業はむなしいものではありませんでした。西暦33年のペンテコステには約3,000人の弟子たちがバプテスマを受けました。「主を信じる者が,男も女も大ぜい加えられていった」と記されています。(使徒 2:41; 4:4; 5:14)やがて,最も激しく迫害をした者の一人でさえあったタルソスのサウロがクリスチャンになり,自ら真理について大胆に証しをするようになったことが伝えられました。彼は使徒パウロとして知られるようになりました。(ガラテア 1:22-24)1世紀に始まったその業は終わってはいません。それはこの「終わりの日」に勢いを増して,地のあらゆる場所に及んできました。わたしたちにはその業にあずかる特権があります。また,その特権にあずかる時,わたしたちはわたしたちよりも前に奉仕した忠節な証人たちの示した模範から学ぶことができます。
10 (イ)パウロはどんな機会を活用して証しを行ないましたか。(ロ)あなたはどのようにして王国の音信を他の人々に広めておられますか。
10 パウロはイエス・キリストに関する真理を学んだ時,ぐずぐずしてはいませんでした。「すぐに……イエスのことを,すなわちこの方こそ神の子であると宣べ伝えはじめた」のです。(使徒 9:20)パウロは自分に示された神の過分のご親切を高く評価し,自分の受けた良いたよりをすべての人が必要としていることを認識しました。彼はユダヤ人だったので,証言を行なうため,当時の習慣にしたがって,ユダヤ人の公に集まる場所であった会堂に行きました。パウロはまた,家から家に行って宣べ伝え,市の立つ広場でも人々と論じ合いました。また,良いたよりを広めるために,喜んで新しい区域に移って行きました。―使徒 17:17; 20:20。ローマ 15:23,24。
11 (イ)パウロは大胆であると共に,証しをする方法の点で洞察力をも働かせたことをどのように示しましたか。(ロ)わたしたちは親族や職場の同僚や学校の友達に証言をする際,その特質をどのように反映できるでしょうか。
11 わたしたちも同様であるべきですが,パウロは大胆であると共にまた,洞察力を働かせました。ユダヤ人に対しては,その父祖に対して神がなさった約束に基づいて訴えました。ギリシャ人に対しては,彼らの知っている事柄に基づいて語りました。時には,真理を学んだ時の自分自身の経験を,証言をするための手段として用いました。「わたしは良いたよりのためにすべての事をするのです。それを他の人々と分かち合う者となるためです」と説明しているとおりです。―コリント第一 9:20-23。使徒 22:3-21。
12 (イ)パウロは大胆でしたが,無理に反対者と絶えず対決することを避けるため何をしましたか。(ロ)わたしたちもどんな場合に思慮深くその模範に見倣えますか。どのように見倣えますか。(ハ)大胆に語り続けるための力はどこから来ますか。
12 良いたよりに対する反対のために,どこかほかの場所で宣べ伝えたり,あるいは一時別の区域に移ったりするのが最善と思われた時,パウロは無理に真理の敵と対決せずにそうしました。(使徒 14:5-7; 18:5-7。ローマ 12:18)しかし,彼は決して良いたよりを恥とはしませんでした。(ローマ 1:16)パウロは無礼で狂暴でさえあった反対者たちからの仕打ちを不快に感じましたが,引き続き宣べ伝えるため「わたしたちの神によって大胆さを奮い起こし」ました。種々の困難に遭遇したにもかかわらず,「主はわたしの近くに立って,わたしに力を注ぎ込んでくださいました。それは,わたしを通して,宣べ伝える業が十分に遂行され(る)……ためでした」と述べました。(テサロニケ第一 2:2。テモテ第二 4:17)クリスチャン会衆の頭であられる主イエスは,現代のために予告なさった業を行なうのに必要な力を引き続き備えてくださいます。―マルコ 13:10。
13 何がクリスチャンとしての大胆さを示す証拠となりますか。何がそのような大胆さの基礎となりますか。
13 わたしたちには,イエス・キリストや1世紀の神の他の忠実な僕たちが行なったとおりに神の言葉を大胆に語り告げるべき十分の理由があります。これはわたしたちが厳しい,あるいはけんか腰の態度を取ってもよいという意味ではありません。無分別であったり,望まない人々に音信を強制したりする必要はありません。しかし,人々が無関心だからといってわたしたちはあきらめませんし,また反対のために恐れて沈黙するようなこともしません。わたしたちはイエスのように,全地を治める正当な政府としての神の王国を指し示します。わたしたちは宇宙の主権者であられるエホバを代表しているゆえに確信を抱いて語ります。わたしたちのふれ告げる音信はわたしたちからではなく,エホバからのものなのです。―フィリピ 1:27,28。テサロニケ第一 2:13。
復習のための討議
● 王国の音信をできる限りあらゆる人と分かち合うのはなぜ重要なことですか。しかし,どんな反応を期待すべきですか。
● わたしたちはどうすれば自分自身の力に頼ってエホバに仕えようとしているのではないことを示せますか。
● 使徒たちの活動の書からどんな貴重な教訓を学べますか。
-
-
エホバの日をしっかりと思いに留めなさい唯一まことの神の崇拝において結ばれる
-
-
23章
エホバの日をしっかりと思いに留めなさい
1 (イ)この古い体制の心痛からの救出が近いことを初めて学んだ時,あなたはどのように反応しましたか。(ロ)わたしたちはこのことに関するどんな質問を真剣に考慮すべきですか。
あなたが聖書を勉強して最初に学んだ事柄の一つは,現在の事物の体制下の生活に見られる心痛からの救出が近いということだったに違いありません。(ルカ 21:28)あなたは全地を楽園にするのが神の目的であることを認識するようになられたことでしょう。犯罪や戦争,病気や死はもはやなくなり,亡くなった愛する人々でさえ再び生きるのです。何と心温まる見込みなのでしょう。そのすべてが近いことは,支配する王としてのキリストの見えない臨在が西暦1914年に始まり,その年以来わたしたちはこの邪悪な世の終わりの日に生きていることを示す証拠によって強調されました。その知識はあなたの生活に変化をもたらしましたか。あなたの生き方は,「エホバの日」が近いという確信を本当に明らかに示すものとなっていますか。
2 (イ)「エホバの日」はいつ到来しますか。(ロ)エホバがその「日または時刻」を明らかにされなかったという事実が有益であることはどのように示されてきましたか。
2 キリストの臨在の始まりを見た「世代」はまた,エホバが不義を行なう者たちすべてに対して裁きを執行なさる「エホバの大いなる日」をも見るということを聖書ははっきりと示しています。(マタイ 24:34。ゼパニヤ 1:14-2:3)その「世代」は今や相当の年数を経ています。しかし聖書は,イエス・キリストがサタンの支配する地的な事物の体制に対するエホバの刑執行官として到来する正確な日付を明確に指し示してはいません。「その日または時刻についてはだれも知りません。天にいるみ使いたちも子も知らず,父だけが知っておられます」と,イエスは言われました。(マルコ 13:32)これは大変有益であることが分かります。どうしてそう言えますか。それは人々の心の内にある事柄を明らかにするのに役立ってきました。もしエホバを本当に愛してはいない人がいるなら,そのような人たちはともすると自分の思いの中でエホバの「日」を延ばし,自分の心が傾く世俗的な事柄を追求するようになります。エホバは,ご自分を本当に愛し,邪悪な体制の終わりがいつ来るかには関係なく,魂を込めてご自分に仕えることによってその愛を示す人たちだけをご自分の僕として是認なさいます。神とそのみ子は,生ぬるい,あるいは思いに表裏のある人々を是認されることはありません。―啓示 3:16。詩編 37:4。ヨハネ第一 5:3。
3 イエスはこのことに関してわたしたちに対する注意として何と言われましたか。
3 イエスはエホバを愛する人たちに対する注意の言葉の中で,「ずっと見ていて,目を覚ましていなさい。あなた方は,定められた時がいつかを知らないからです」と言われました。(マルコ 13:33-37)イエスはわたしたちが飲み食い,つまり「生活上の思い煩い」のために注意を奪われて,時の重大性を見失わないようにすることを勧めておられます。―ルカ 21:34-36。マタイ 24:37-42。
4 ペテロが説明したように,「エホバの日」は何をもたらしますか。
4 後日,使徒ペテロは真の信仰を抱く人々すべてに,「エホバの日の臨在を待ち,それをしっかりと思いに留める」ようにと助言し,「その日に天は燃えて溶解し,諸要素は極度に熱して溶けるのです」と述べました。「エホバの日」が近いということは,わたしたちのだれもが決して過小評価してはならない事柄です。目に見える政府という天と邪悪な人間社会は,神のお造りになる「新しい天と新しい地」によって間もなく取って代わられ,現在の世の体制と共に進む「諸要素」― 世の独立を好む態度,不道徳で物質主義に堕した生き方 ― はすべて,「エホバの日」の破壊的な熱のために終わりを告げるでしょう。(ペテロ第二 3:10-13)わたしたちはいつも油断なく気を配り,世界を揺るがすその衝撃的な出来事はいつ何時でも始まり得ることを知っている必要があります。―マタイ 24:44。
しるしの成就となる出来事にいつも油断なく気を配っていなさい
5 (イ)マタイ 24章3節に記されている質問に対するイエスの答えは,ユダヤ人の事物の体制の終わりにどの程度あてはまりましたか。(ロ)イエスの答えられた事柄のどの部分は西暦1914年以降の出来事に注意を向けさせていますか。
5 とりわけわたしたちの生きている時代という点から考えて,わたしたちは「終わりの日」,もしくは「事物の体制の終結」を見分ける複合のしるしの詳しい事柄に精通しているべきです。そのしるしを正しく読み取るには,マタイ 24章3節に記録されているとおり,イエスが弟子たちの質問に答えた時,イエスの言われた事柄のあるものは1世紀のユダヤ人の体制の終わりに適用されましたが,その主な適用はそれよりもはるか後代に及ぶものであったことを銘記しておかなければなりません。その4節から22節にわたってイエスが述べた事柄は確かに西暦33年から同70年までの間に小規模な成就を見ました。しかし,その預言は今日,主要な成就を見ており,西暦1914年以降の期間がキリストの「臨在と事物の体制の終結」の時であることを見分けるのに役立っています。(マルコ 13:5-20; ルカ 21:8-24もご覧ください。)マタイ 24章23節から28節は,西暦70年から後代のキリストの臨在の時に至るまで起きる事柄を述べています。(マルコ 13:21-23もご覧ください。)マタイ 24章29節から同25章46節の終わりまでに説明されている出来事は,西暦1914年以降の期間を指し示しています。―マルコ 13:24-37; ルカ 21:25-36もご覧ください。
6 (イ)わたしたちは現在の種々の出来事がどのように「しるし」を成就するものとなっているかに関して,なぜ個人的に油断なく気を配っているべきですか。(ロ)1914年以来,「しるし」がどのように成就されてきたかを示すため,この節の終わりにある質問に答えてください。
6 わたしたちは個人的にも,その「しるし」を成就するものとなる現代の出来事に注意深くあるべきです。それらの出来事を聖書預言と結びつけるなら,エホバの日を「しっかりと思いに」留めるのに助けとなります。そうすれば,わたしたちはまた,「わたしたちの神の側の復しゅうの日」の近いことを他の人々に警告する際,説得力を持つことができるようになります。(イザヤ 61:1,2)これらの目標を念頭において,「しるし」の次のような面を再検討してください。
「国民は国民に,王国は王国に敵対して」立ち上がるという予告された出来事は,西暦1914年以来どんな驚くべき仕方で成就しはじめましたか。最近の何か月かの期間でさえ,その一層の成就を示すどんな出来事が起きましたか。
20世紀の科学知識にもかかわらず,食糧不足はこの地にどれほどの影響を及ぼしてきましたか。
西暦1914年以来いたる所で頻発してきた地震には本当に何らかの相違が見られますか。
1918年にはどんな疫病のために世界大戦による以上の人命が奪われましたか。医学上の知識にもかかわらず,どんな病気が依然として疫病のようにまんえんしていますか。
ルカ 21章26節で予告されているとおり,人々が本当に恐れて気を失っていることを示すどんな証拠をあなたは見ておられますか。
テモテ第二 3章1節から5節に述べられている状態が,これまでのいつもの生活の有り様にすぎないどころか,終わりの日の最後が近づくにつれて恐ろしいほどに深刻化していることを確信させるどんな事柄がありますか。
人々を分ける
7 (イ)イエスはマタイ 13章36-43節で述べられているほかのどんな出来事を事物の体制の終結と結びつけられましたか。(ロ)その例えは何を意味していましたか。
7 イエスが顕著な仕方で事物の体制の終結と結びつけた重大な出来事はほかにもあります。その一つは「邪悪な者の子たち」から「王国の子たち」を分けることです。イエスは敵が雑草をまいた小麦畑に関するたとえ話の中でこのことについて話されました。その例えの中の「小麦」は油そそがれた真のクリスチャンを表わしています。「雑草」は偽のクリスチャンです。事物の体制の終結に際して「雑草」― クリスチャンであると唱えながら,悪魔がその支配者であるこの世に執着しているゆえに「邪悪な者の子たち」であることを示している者たち ― は「[神の]王国の子たち」から分けられ,滅びを受ける者として印づけられます。(マタイ 13:36-43)このことは実際に起こりましたか。
8 (イ)第一次世界大戦後,クリスチャンであると唱える人はすべてどのように大きく分けられましたか。(ロ)油そそがれた真のクリスチャンは,自分たちが確かに「王国の子たち」であることを示す証拠をどのように示しましたか。
8 第一次世界大戦後,クリスチャンであると唱えた人々はすべて,確かに次のような二つの級に大きく分けられました。それは,(1)依然として国家主義を固守する一方,国際連盟(今日の国際連合)を強力に支持するようになったキリスト教世界の僧職者とその追随者たち,(2)大戦後の時期に神のメシアによる王国を全面的に支持した比較的少数の油そそがれた真のクリスチャンです。この第一の級の人々は世の諸政府を平和と安全を図る手段として公然と支持することにより,自分たちは真のクリスチャンではないことを明らかにしました。(ヨハネ 17:16)それとは対照的に,エホバの僕たちは国際連盟がマタイ 24章15節で言及されている現代の「荒廃をもたらす嫌悪すべきもの」であることを正確に明らかにしました。それらの僕たちは自分たちが真の「[神の]王国の子たち」であることを示し,「王国のこの良いたより」を「人の住む全地で」宣べ伝える業に着手しました。(マタイ 24:14)その結果どうなりましたか。
9 王国を宣べ伝えるこの活動はまずどんな結果をもたらしましたか。
9 まず,「選ばれた者たち」,つまり霊によって油そそがれたクリスチャンの残りの者が集められました。それら残りの者はあたかも「四方の風」に向かうように諸国民の中に広く散らされていましたが,み使いの導きのもとで一致した組織に導き入れられました。―マタイ 24:31。
10 (イ)さらに分ける業はどのように行なわれてきましたか。それはどんな預言と一致していますか。(ロ)それらの預言の成就は何を意味していますか。
10 次いで,イエスはご自分が予告したとおり,「羊飼いが羊をやぎから分けるように」,すべての国々の人々を分け始められました。キリストがその天の王座から導いておられるこの業は,現在に至るまで続けられており,あなたも個人的にその影響を受けています。人類の大多数は神の王国と,霊によって油そそがれた「子たち」をはねつけているので,死に際して「永遠の切断」に遭遇するでしょう。しかし,主はその王国の地的領域を受け継ぐよう,永遠の命の見込みを伴う招待を他の人たちに差し伸べておられます。それら羊のような人々は,油そそがれた「王国の子たち」が残忍な迫害の的とされているにもかかわらず,彼らに加わってきました。(マタイ 25:31-46)そして,彼らがその王国の大切な音信を公に告げるのを忠節に助けています。何百万人にも上る大群衆がこの業にあずかっています。王国の音信は地の果ての人々にも伝えられています。これらの出来事は何を意味していますか。「終わりの日」の最後が非常に近いこと,また「エホバの日」が間近に迫っていることを示しています。
前途に何を控えているか
11 「エホバの日」が到来する前に,宣べ伝える業はさらに行なわれなければなりませんか。
11 エホバの大いなる,畏怖の念を起こさせる日が始まる前に,成就しなければならない預言がまだありますか。あります! 王国の論争をめぐって人々を分ける業はまだ終わっていません。何年にもわたって激しい反対を経験した地方でも,今や新しい弟子たちが非常にたくさん刈り入れられているところがあります。そして,人々が良いたよりを退けているところでさえわたしたちが証言を行なうことによってエホバの公正と憐れみが擁護されています。ですから,業を続行してください! イエスは,その業がすむと,「終わりが来る」ことをわたしたちに保証しておられます。―マタイ 24:14。
12 (イ)テサロニケ第一 5章2,3節に示されているとおり,どんな注目すべき出来事がこれから起こるはずですか。(ロ)それはわたしたちにとって何を意味しますか。
12 もう一つの非常に重要な聖書預言は次のように予告しています。「人々が,『平和だ,安全だ』と言っているその時,突然の滅びが,ちょうど妊娠している女に苦しみの劇痛が臨むように,彼らに突如として臨みます。彼らは決して逃れられません」。(テサロニケ第一 5:2,3)「平和だ,安全だ」という宣言がどんな形を取るかは,まだ後になってみなければ分かりません。しかし,それは確かに,世界の指導者たちが人類の諸問題を本当に解決したということを意味するものではありません。エホバの日を「しっかりと思いに留める」人々は,そのような宣言によって誤導されることはありません。それらの人々は,その宣言が出された後,直ちに「突然の滅び」が臨むことを知っています。
13 「平和だ,安全だ」という宣言に続いて,直ちにどんな出来事が生じますか。どんな順序で生じますか。
13 聖書が示すとおり,まず,政治支配者たちが全世界的な規模で,偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンに敵対し,これを全滅させます。(啓示 17:15,16)特にキリスト教世界の宗教に対する敵意ある態度が今でさえ表われているということはほんとうに注目に値します。国際連合の中では強力な反宗教政策を取っている諸政府が既に強力な影響力を行使しており,伝統的に宗教が奉じられてきた土地でも一般の人々が大勢自分たちの先祖の宗教を捨てています。このすべては何を意味していますか。すべての偽りの宗教の荒廃が近いことを意味しています。その後,諸国民が高慢にも総力を挙げて,エホバの主権を擁護する人々に敵対する時,神の憤怒が諸政府とその支持者たちに対して発せられ,その結果,彼らはすべて完全に滅ぼされてしまいます。最後に,サタンもその悪霊たちと共に底知れぬ深みに投げ込まれ,人類に影響を及ぼすことを完全に抑制されてしまいます。それは確かに「エホバの日」,そのみ名が高く上げられる日となるでしょう。―エゼキエル 38:18,22,23。啓示 19:11-20:3。
14 エホバの日はまだずっと先のことだと考えるのはなぜ賢いことではありませんか。
14 その日は神の予定にしたがって正確に時間どおりに到来します。遅れることはありません。(ハバクク 2:3)西暦70年におけるエルサレムの滅びは,ユダヤ人が予期しなかった時,つまり危険は去ったと考えたとき速やかに臨んだことを思い起こしてください。また,古代のバビロンについてはどうですか。それは頑丈な城壁で防備を施した,強力で大胆不敵な都でした。しかし,それは一夜にして倒壊しました。ですから,現在の邪悪な体制にも「突然の滅び」が臨むのです。その滅びが臨む時,わたしたちはエホバの日を「しっかりと思いに」留めて,真の崇拝において結ばれた様で見いだされますように。
復習のための討議
● エホバの日を「しっかりと思いに」留めるのはなぜ大変重要なことですか。どうすれば,そうすることができますか。
● わたしたちは,今行なわれている人々を分ける業によって,どのように個人的に影響を受けていますか。
● エホバの日が始まる前に,なお前途に何を控えていますか。ですから,わたしたちは個人的に何をしているべきでしょうか。
-
-
エホバの目的は輝かしい成功を収める唯一まことの神の崇拝において結ばれる
-
-
24章
エホバの目的は輝かしい成功を収める
1,2 (イ)理知ある被造物に関するエホバの目的とは何ですか。(ロ)神の崇拝者たちの一致した家族にはだれが含まれていましたか。(ハ)このことに関して,どんな個人的な質問が考慮するに値しますか。
理知あるすべての創造物が真の崇拝において結ばれ,そのすべてが神の子供の栄光ある自由を享受すること ― これこそエホバの愛ある賢明な目的です。それはまた,義を愛する人々すべてが切望している事柄です。
2 エホバは創造の業を開始した時,この偉大な目的を成就しはじめられました。その最初の創造物は,「神の栄光の反映,またその存在そのものの厳密な描出」となられた方であるみ子でした。(ヘブライ 1:1-3)この方は神おひとりによって創造されたので,特異な方でした。この方を通してほかの子たち ― 最初に,天のみ使いたち,次いで地上の人間 ― が生み出されました。(ヨブ 38:7。ルカ 3:38)これらの子たちすべてはただ一つの宇宙的な家族を構成しました。そのすべてにとってエホバは,崇拝されるべき唯一の方である神でした。神は宇宙の主権者でした。神はまた彼らの愛ある父でした。その神は同様にあなたの父で,あなたはその子供たちの一人ですか。それは何と貴重な関係となり得るのでしょう。
3 (イ)わたしたちはだれ一人として生まれた時から神の子でなかったのはなぜですか。(ロ)しかし,エホバはアダムの子孫のためにどんな愛ある備えを設けてくださいましたか。
3 それにもかかわらず,わたしたちはわたしたちの人間の最初の二親が故意の罪人として死に定められた時,エデンから追い立てられ,神から勘当されたという事実に直面しなければなりません。その二人はエホバの宇宙的な家族のものではなくなりました。(創世 3:22-24。申命記 32:4,5と比べてください。)わたしたちは皆,罪人アダムの子孫ですから,罪深い傾向を持って生まれてきました。わたしたちは神の家族から追放された二親の子孫ですから,単に人間として生まれたという理由で神の子たちであると唱えることはできません。しかしエホバは,アダムの子孫の中のある者たちが義を愛するようになることをご存じだったので,それらの人々が神の子供の栄光ある自由を得られるようにするための備えを愛の気持ちから設けてくださいました。―ローマ 8:20,21。
イスラエルの恵まれた地位
4 (イ)イスラエル人はどんな根拠に基づいて神の「子ら」となっていましたか。(ロ)これは何を意味してはいませんでしたか。
4 アダムが創造されてからおよそ2,500年の後,エホバは再びその子たちとしてご自分と関係を持つ特権をある人々に差し伸べられました。エホバはアブラハムとのご自分の契約にしたがって,イスラエルをご自分の民となるよう選ばれました。ですから,エジプトのファラオに対してイスラエルのことを「わたしの子」と話されました。(出エジプト 4:22,23。創世 12:1,2)後にエホバはシナイ山でイスラエルにご自分の律法をお与えになり,その民を一国民として組織し,ご自分の目的に関連して彼らをお用いになりました。彼らはエホバの「特別な所有物」でしたから,国家的な見地から彼らのことが神の「子ら」として語られました。(申命 14:1,2。イザヤ 43:1)また,エホバはその国民の中のある個人と特別の交渉を持たれたため,それらの人々を子と呼ばれました。(歴代第一 22:9,10)この立場は神との契約関係に基づいていました。しかしそれは,彼らが神の子としてのアダムの持っていた栄光ある自由を享受していたという意味ではありません。彼らはやはり罪と死につながれていたのです。
5 イスラエルは神との間のその特別の立場をどのように失いましたか。
5 それにもかかわらず,彼らは子らとして神との間で恵まれた立場を持っていました。彼らにはまた,み父を敬い,その目的にしたがって働く責任がありました。イエスは,彼らが ― 単に神は自分たちの父であると唱えるだけでなく,『自分たちが』その子たちであることを『示して』― その責務を果たす大切さを強調されました。(マタイ 5:43-48。マラキ 1:6)しかし,ユダヤ人は一国民としてこのことで失敗しました。ですから,イエスが地上で奉仕の務めに携わった最後の年のこと,イエスを殺そうとしていたユダヤ人が,「わたしたちには一人の父,神がいるのです」と断言したとき,彼らの行動や彼らの示した精神はそのような主張が誤りであることを物語っていると,イエスは毅然たる態度で指摘なさいました。(ヨハネ 8:41,44,47)律法契約は西暦33年に神によって終結させられ,イスラエルが享受していた特別な関係のための基盤は終わりを迎えました。しかしエホバは,ご自分が子たちとして受け入れる人々を人類の中に持つことをおやめにはなりませんでした。
エホバはその民を一致させてくださる
6 パウロはエフェソス 1章9,10節でどんな「管理」について述べましたか。その目的は何ですか。
6 使徒パウロはエフェソスのクリスチャンにあてて,エホバがご自分の民を一致させる計画,すなわち信仰を働かせる人々がそれによって神の家の者として愛された成員となることのできる神の取り決めについて書き送り,こう述べました。「[神は]そのご意志の神聖な奥義をわたしたちに知らせてくださ(いました)。それは,定められた時の満了したときにおける管理[家事の処理]のためにご自身のうちに意図された意向によるものであり,すなわちそれは,すべてのもの,天にあるものと地にあるものを,キリストにおいて再び集めることです」。(エフェソス 1:9,10)この「管理」の中心を成しているのはイエス・キリストです。人間はこの方を通して神のみ前における是認された状態に導き入れられ,ある人々には天に行く見込みが,ほかの人々には地上にとどまる見込みが示されます。それは,エホバに忠節を示してきたみ使いで成る神の子たちと一致して奉仕するためです。
7 「天にあるもの」とは何ですか。集められるということは,それらの人々にとって何を意味していますか。
7 まず,西暦33年のペンテコステから始まって,「天にあるもの」,すなわち天の王国でキリストと共同の相続人となる人々に注意が向けられました。それらの人々はイエスの犠牲の価値に対する信仰に基づいて神により義と宣せられました。(ローマ 5:1,2)次いで,それらの人々は「再び生まれ」ました。つまり,天的な命の見込みを持つ神の子たちとして生み出されました。(ヨハネ 3:3; 1:12,13)神は霊的な国民であるそれらの人々と新しい契約を結ばれました。やがて,ユダヤ人と異邦人の両方が含まれることになり,それらの人々は合計14万4,000人になるはずでした。―ガラテア 3:26-29。啓示 14:1。
8 王国相続者たちとみ父との関係は,モーセの律法下のユダヤ人のそれとどのように比べられますか。
8 天の王国のそのような相続人の残りの者は肉体を持つ依然として不完全な者ですが,み父との親密で貴重な関係を享受します。パウロはこのことに関してこう書き記しました。「では,あなた方は子なのですから,神はご自分のみ子の霊をわたしたちの心の中に送ってくださり,それが,『アバ,父よ!』と叫ぶのです。ですから,もはや奴隷ではなく子です。そして,子であれば,神による相続人でもあります」。(ガラテア 4:6,7)「アバ」というそのアラム語の表現は「父」を意味していますが,それは幼子が父に対して用いるような,親愛の情のこもった呼称です。イエスの犠牲が勝っていることと神の過分のご親切ゆえに,霊によって油そそがれたそれらのクリスチャンは,不完全な人間が律法のもとで持つことができたどんな関係よりもさらに親密な神との関係を享受します。しかし,それらクリスチャンの前途に控えているのはなお一層すばらしいものなのです。
9 それらの人々が完全な意味で現実に子としての関係に入るということは何を意味していますか。
9 それらのクリスチャンは死に至るまで忠実を示すなら,復活させられ,天で不滅の命を与えられることによって,完全な意味で現実に子としての関係に入ります。彼らは天で,実際にエホバ神のみ前で一致して仕える特権にあずかります。それら神の子たちのうち,比較的少数の人たちだけが依然として地上に残っています。―ローマ 8:14,23。ヨハネ第一 3:1,2。
「地にあるもの」を集める
10 (イ)「地にあるもの」とは何ですか。それらの人々はいつ以来集められて,一致した崇拝を行なってきましたか。(ロ)彼らはエホバとどんな関係を持っていますか。
10 また,天的な命の見込みを持つ人間を集めて,神の家の者の中に加えることを可能にしている,この同じ「管理」によって「地にあるもの」にも注意が向けられています。特に西暦1935年以来,キリストの犠牲に対する信仰を持ち,地上でとこしえの命を受ける見込みを持つ人々が集められてきました。それらの人々は,油そそがれた人々の級のうちの残っている者たちと肩を並べてエホバのみ名を大いなるものとし,その崇拝を高めています。(ゼパニヤ 3:9。イザヤ 2:2,3)これらの人々もまた,深い敬意を抱いてエホバを「父」と呼び,エホバを命の源と認め,み父がその子たちに期待しておられるように,エホバの特質を反映するよう誠実に努力しています。彼らはイエスの流された血に対する信仰に基づいてエホバのみ前における是認された立場を享受しています。(マタイ 6:9。啓示 7:9,14)しかし彼らは,自分たちが完全な意味で神の子供として神によって認められる時の喜びは,なお将来味わうものであることを知っています。
11 (イ)ローマ 8章19-21節は人類のためのどんな約束を差し伸べていますか。(ロ)彼らが切に待ち望んでいる「神の子たちの表わし示されること」とは何ですか。
11 ローマ 8章19節から21節に示されているとおり,それらの人々は「神の子たちの表わし示されること」を切に待ち望んでいます。なぜなら,その時,人間という創造物であるそれらの人々が「腐朽への奴隷状態から自由にされ(る)」時が訪れるからです。その「神の子たちの表わし示される」ことが起きるのは,天的な報いを得た,霊によって油そそがれた神の子たちが栄光を受けた主イエス・キリストの仲間として活動を開始したことを示す証拠をこの地上の人間が見る時なのです。このことは邪悪な事物の体制全体が滅ぼされる時に明らかになり,その後,キリストの千年統治の祝福が続き,それら「神の子たち」は王および祭司としてキリストと共にその統治にあずかります。―啓示 2:26,27; 20:6。
12 大患難に続いて,勝利を得た,霊によって油そそがれた神の子たちは,どんな賛美の歌に加わりますか。それは何を意味しますか。
12 大患難が過ぎ去り,キリストと結ばれたそれら神の子たちが声を合わせて神をたたえ,「全能者なるエホバ神,あなたのみ業は偉大で,驚くべきものです。とこしえの王よ,あなたの道は義にかない,真実です。エホバよ,本当にだれがあなたを恐れないでしょうか,あなたのみ名の栄光をたたえないでしょうか。ただあなただけが忠節な方だからです。あらゆる国民はみ前に来て崇拝するのです。あなたの義なる定めは明らかにされたからです」と,喜びを抱いてふれ告げる時,それはどんなに晴れ晴れとした時となるのでしょう。(啓示 15:3,4)そうです,以前のすべての国々の民の中から出て来た人々で構成される全人類は,まことの神の崇拝において結束するのです。記念の墓にいる人々さえ復活させられて,声を合わせてエホバをたたえる機会を与えられます。
13 大患難を生き残る人々はどんな驚嘆すべき自由を直ちに享受するようになりますか。
13 悪魔サタンはもはや「この事物の体制の神」ではなくなります。エホバの崇拝者たちはこの地上でもはやサタンの劣悪な影響と闘う必要はなくなります。(コリント第二 4:4。啓示 20:1-3)もはや偽りの宗教はわたしたちの愛ある神を誤り伝えたり,人類社会に分裂をもたらす影響力を及ぼしたりするものとはなりません。まことの神の僕たちはもはや政府の公職にある人々の手で不公正に扱われたり搾取されたりする経験をしなくなります。それは大患難を生き残る人々にとって何と驚嘆すべき自由を意味するのでしょう。
14 彼らはどんな方法で罪とそのすべての結果から自由にされますか。
14 「世の罪を取り去る,神の子羊」イエス・キリストは,人類の過去のすべての罪を相殺するためにご自分の犠牲の価値を適用してくださるでしょう。(ヨハネ 1:29)地上におられた時,イエスはある人の罪が許されたことを断言した際,その証拠として,罪を許されたその人をいやすことをもなさいました。(マタイ 9:1-7)同様に,イエスは天から,目の見えない人,耳の聞こえない人,口のきけない人,体の不具の人,精神的に苦しんでいる人,その他どんな病気の人たちをも奇跡的にいやしてくださるでしょう。進んで物事を行なう従順な人々は皆,神の義の道に従って忠実に自らを形作ることにより,やがて自分自身の内で「罪の律法」を完全に無効にさせるので,その行動や考えや心の欲求は自分自身にとっても神にとっても喜ばしいものとなるでしょう。(ローマ 7:21-23。イザヤ 25:7,8; 啓示 21:3,4と比べてください。)彼らは千年統治が終わる前に人間としての完全な状態に十分に到達するよう助けられるでしょう。彼らは罪とそのすべての悲惨な結果から完全に自由にされます。そして,地球全体を包含する地的な楽園の中で『神の像と様』を正しく反映することになるでしょう。―創世 1:26。
15 千年統治の終わりに際して,キリストはどんな行動を取られますか。どんな目的でそうされますか。
15 キリストは人類を完全な状態に導き入れると,その業を行なうためにご自分に授けられた権威をみ父にお返しになります。コリント第一 15章28節で予告されているとおりです。「すべてのものが彼[み子]に服させられたその時には,み子自身も,すべてのものを自分に服させた方に自ら服し,こうして,神がだれに対してもすべてのものとなるようにするのです」。
16 完全にされた人間はすべて今や何を受けることになりますか。それはなぜですか。
16 今や,完全にされた人類には,生ける唯一まことの神に仕えることを選ぶ自分たちの不変の決意のほどを実証する機会が与えられることになります。したがって,それら完全にされる人間はすべて,イエス・キリストを通して神の子たちとして養子にされる前に,エホバはそれらの人々を最後の徹底的な試験に遭わせることをなさいます。サタンとその悪霊たちは底知れぬ深みから解放されることになります。これは本当にエホバを愛する人たちに永続する害をもたらすものとはなりません。しかし,だれであれ,誘われるままに不忠節にもエホバに対して不従順になる人は,最初の反逆者とその悪霊と共に永久に滅ぼされてしまうでしょう。―啓示 20:7-10。
17 エホバの目的が成就するとき,理知ある創造物すべての間にはどんな状態がもう一度存在するようになりますか。
17 エホバは今や,その最後の決定的な試練に耐える完全にされた人間を皆,キリストを通しご自分の子たちとして愛をもって養子にしてくださいます。その時,それらの人々は「神の子供の栄光ある自由」に十分にあずかることになります。(ローマ 8:21)彼らはついに神の一致した宇宙的な家族の一部となり,それらの人々すべてに対してエホバは永遠にわたって唯一の神,宇宙の主権者,並びに愛ある父となられるでしょう。その時,天と地にあるエホバの理知ある創造物はすべて,唯一まことの神の崇拝においてもう一度結ばれるようになるでしょう。
復習のための討議
● エデンで反逆が起きる以前,エホバの崇拝者たちはすべてエホバとどんな関係を持っていましたか。
● 神の子たちである人々にはどんな責任がありますか。
● 今日,神の子たちとなっているのはどんな人々ですか。さらにだれが神の子供たちとなりますか。このことは一致した崇拝に関する神の目的とどのように関係していますか。
-