使徒たちや他の誠実な人たちは神を喜ばせる生き方をしたいと願っています。しかし彼らにとって,それは簡単なことではありません。例えば,パリサイ派は全体的に,批判的で他の人を厳しく裁きます。イエスはその影響を受けないよう忠告し,「裁くのをやめなさい。裁かれないためです。人を裁いているのと同じ仕方で,自分も裁かれ」ます,と言います。(マタイ 7:1,2)
批判ばかりしているパリサイ派に従うのは危険です。イエスは例えを用いて,「目の見えない人が目の見えない人を案内できるでしょうか。2人とも穴に落ちてしまいませんか」と質問します。では,他の人のことをどう見るべきでしょうか。決して批判的になるべきではありません。重大な罪につながりかねないからです。イエスは説明を続けます。「自分自身の目の中の材木が見えていないのに,どうして,『兄弟,あなたの目の中にあるわらを取り除かせてください』と言えるのですか。偽善者たち! まず自分の目から材木を取り除きなさい。そうすれば,兄弟の目の中にあるわらを取り除く方法がはっきり分かるでしょう」。(ルカ 6:39-42)
これは,正しいか間違いかの判断をしてはならないという意味ではありません。イエスは,「聖なるものを犬に与えてはなりません。真珠を豚の前に投げてもなりません」と言いました。(マタイ 7:6)神の言葉 聖書に収められている真理は,貴重な真珠のようです。もしある人がその貴重な真理の価値を全く認めないなら,弟子たちは真理を喜んで聞く別の人を探すべきです。
イエスは祈りのことに話を戻し,祈り続ける大切さを教えてこう言います。「求め続けなさい。そうすれば与えられます」。神は祈りに答える用意ができています。イエスはその点を強調します。「あなたたちのうち誰が,自分の子からパンを求められて,石を渡すでしょうか。……それで,邪悪な人間でありながら,あなたたちが子供に良い贈り物を与えることを心得ているのであれば,まして天にいる父は,ご自分に求めている人に良いものを与えてくださるのです」。(マタイ 7:7-11)
イエスは次に,有名な行動規準を教えます。それはこのような言葉です。「ですから,自分にしてほしいと思うことは皆,人にもしなければなりません」。この助言をいつも覚えておき,人間関係に当てはめるのは本当に大切です。しかし,そうするのが難しいときもあります。イエスが教えた通りです。「狭い門を通って入りなさい。滅びに至る門は広くてその道は広々としており,それを通って入っていく人は多いからです。一方,命に至る門は狭くてその道は狭められており,それを見いだす人は少ないのです」。(マタイ 7:12-14)
イエスは,弟子たちを命に至る道からそらせようとする人がいることを知っています。それで,こう警告します。「羊の格好をしてやって来る偽預言者たちに警戒していなさい。その人たちは内側では,むさぼり食うオオカミです」。(マタイ 7:15)さらにイエスは,良い木か悪い木かはその実で分かる,と話します。人間も同じです。偽預言者かどうかはその教えと行動で分かるのです。ですから,イエスの弟子は,言葉だけでなく行動で見分けられます。では,イエスは自分の主である,と言っていても,神の意志を行っていない人はどうなりますか。イエスはこう言います。「私ははっきり言います。『あなたたちのことは全く知りません。不法なことをする人たち,離れ去れ』」。(マタイ 7:23)
イエスは山上の垂訓の締めくくりに,次のように話します。「私のこれらの言葉を聞いて行う人は皆,岩の上に家を建てた思慮深い人のようです。大雨が降って洪水が押し寄せ,風が吹いてたたきつけても,その家は崩れ落ちませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです」。(マタイ 7:24,25)家が崩れなかったのはなぜですか。建てた人が「地面を深く掘り下げて岩の上に土台を据え」たからです。(ルカ 6:48)ですから,イエスの言葉を聞くだけではなく,「行う」努力をしなければなりません。
では,イエスの「言葉を聞いても行わない人」については何と言えますか。その人は「砂の上に家を建てた愚かな人のようです」。(マタイ 7:26)雨が降り,洪水が来て,風が吹くと,その家は崩れ落ちてしまいます。
人々はこの垂訓を聞き,イエスの教え方に大変驚きます。権威を授かった人のように教え,宗教指導者たちとは全く違っていたからです。話を聞いた人の多くがイエスの弟子になったことでしょう。