あなたはかつてエホバの組織と交わっていましたか
その若者は恥ずかしく思い,すっかり意気消沈していました。ぼろぼろに破れたその服には,かつての流行の面影が見られます。しかし今の服からは,若者がつらい目にあっていたことが,ありありとうかがえます。若者は遠い故郷に思いをはせ,自分が放とうの生活をしてきたことや,無理を言って早いうちにもらった財産を乱費してしまったことを深く悔やむようになりました。空腹のために惨めさは募り,ホームシックにかかっています。家では父の僕たちでも自分よりずっと良い生活をしているのです。それら僕たちのようになれたらどんなによいことでしょう。
しかし,もし今帰ったなら,父親からどのように迎えられるでしょうか。父親の親切に付け込んで不面目なことをしたのですから,温かく迎えられることはおろか,家の中に入れてもらうことも期待できないでしょう。それでも,思いと心は,何としても家に帰りたいという気持ちに支配されています。
この若者は,息子を思う父親の気持ちを少しも理解していませんでした。懐かしの家に近づいた時,びっくりするようなことが若者を待ち受けていました。実際,「彼がまだ遠くにいる間に,父親は彼の姿を見て哀れに思い,走って行ってその首を抱き,優しく口づけしたのです」。―ルカ 15:20。
あなたは,放とう息子のように,自分の家を離れましたか。あなたの天の父エホバとその組織から漂い出てしまいましたか。今あなたも,『家に帰る』ことを願っていますか。
ほとんどの場合,エホバの組織から漂い出た人たちは,厳密にはこの放とう息子のようではありません。多くの人の場合,小舟が漂い,ゆっくりと岸から段々遠くへ離れてゆくように,漂い出る過程はほとんどそれと分からないように徐々に生じます。財政上の困難や家庭の問題,病気,あるいは世で“成功”することなどのために気がめいるようになり,霊的な事柄が締め出されてしまった人もいれば,クリスチャン会衆と交わっているだれかにつまずいてしまった人や,ある聖書的な点に関するエホバの組織の特定の理解に納得できなかったために離れてしまった人もいます。さらにまた,現在のこの事物の体制が自分たちの期待していた時に終わらなかったため,失望してやめてしまった人もいます。
あなたがもはやエホバの組織と活発に交わっていない方なら,ここに挙げた理由の一つかそれ以上があなたの場合にも当てはまるでしょう。しかし原因が何であれ,今は戻ることを考える時ではないでしょうか。―マタイ 18:12-14。
あなたはつまずきましたか
人間が完全さからどれほど外れてしまったかを考えれば,時折個性の衝突が起きることは予期できます。これがつまずきとなった人もいれば,深く尊敬していた人が突然,無謀な,あるいはクリスチャンにふさわしくない行動をしたり,悪行に関係したりした時につまずいた人もいました。
そのようなことがあなたの身に起きましたか。あなたをつまずかせたものが何であれ,それを生じさせたのがエホバでないことは確かです。(ガラテア 5:7,8と比較してください。)とすると,だれかほかの人がしたことのために神とわたしたちとの関係を絶つのは本当に良いことなのでしょうか。むしろ,エホバが生じている事柄を知っておられ,わたしたちを愛をもって扱ってくださるという確信のもとに,引き続き忠実に神に仕えるべきではないでしょうか。―コロサイ 3:23-25。
時の経過とともに,最初に自分をつまずかせたものが今ではそれほど重要とは思えない,あるいはもはや存在しないかもしれないことに気づいた人もいます。あるいは,問題を冷静に考慮して,実際は自分のほうが間違っていたという結論にさえ達しているかもしれません。自分の受けた何らかの助言や懲らしめに納得できずにつまずいた人の場合に,よくそういうことがあります。後になって考えてみて,そのような懲らしめが真の愛のうちに,また自分の益のために与えられたことを認めるかもしれません。(ヘブライ 12:5-11)ですから,使徒パウロの助言に従って行動するのは本当にふさわしいことです。パウロはこう書きました。「垂れ下がった腕と震えるひざを強化し,足取りが揺れ動かないようにしなさい。そうすれば,無力になった手足は脱臼したりせず,以前の力を取り戻すでしょう」― ヘブライ 12:12,13,新英訳聖書。
あなたは教えに納得できませんでしたか
あなたがエホバの組織から離れたのは,聖書の何らかの点に関して別の理解を持っていたからかもしれません。ちょうどエジプトから救い出されたイスラエル人が,自分たちのための「[神の]み業を[すぐに]忘れ」,『その助言を待たなかった』ように,あなたは,自分が正しいと考えていた見解を組織が採用しなかったのだから組織との結び付きを絶とう,と性急に結論したのかもしれません。(詩編 106:13)多分その点は,それ以来神の霊の導きのもとに一層の聖書研究が行なわれて変更あるいは確立され,明確にされてきたことでしょう。エホバを待ち,組織に留まっていたほうがよかったのではありませんか。
エホバが常にただ一つの組織を通して働いてこられた,ということを思い出すのは良いことです。今日,「時に応じて」霊的な食物を分配しているのは「忠実で思慮深い奴隷」です。注目すべきなのは,この奴隷は『主人が到着した時,そうしているところを見られる』ことになっていた,という点です。(マタイ 24:45-47)では実際,主人が既に到着しておられることを今日認識しているのはだれでしょうか。そして,指示されたその業に忙しく携わっているのはだれでしょうか。それは,クリスチャン証人たちから成るエホバの組織と交わる人々だけです。
使徒ペテロは,ほかの人たちがイエスを見捨てた時,「主よ,わたしたちはだれのところに行けばよいというのでしょう。あなたこそ永遠の命のことばを持っておられます」と言いました。ペテロは,イエスがメシアであることに一点の疑いも抱いていませんでしたから,弟子たちの多くがイエスの言葉にショックを受けた時も,「永遠の命のことば」の源を離れるのは賢明ではないことを理解していました。やがて,疑いや誤解はすべて晴らされました。(ヨハネ 6:51-68。ルカ 24:27,32と比較してください。)このことは今日でもやはり同じです。エホバは漸進的にご自分の僕たちを真理の道に導いておられるのです。―箴言 4:18。
さあ,帰って来てください
「ぜひわたしたちの道を探り出し,探究し,ぜひエホバのもとに帰ろう」と,預言者エレミヤは嘆願しました。(哀歌 3:40)それでもやはり,会衆の人たちから快く迎えてもらえないのではないかと考えて,しりごみする人があるかもしれません。しかし,放とう息子が家に帰った時にはどのような反応が見られたでしょうか。「わたしたちはとにかく……歓ばないわけにはいかなかったのだ。このあなたの兄弟は,死んでいたのに生き返り,失われていたのに見つかったからだ」と,父親は説明しました。(ルカ 15:32)同様に,神のご意志を行ないたいという誠実な願いをもって『エホバのもとに帰る』人は,温かく迎えられます。―ルカ 15:7と比較してください。
しかし,クリスチャン会衆は,そのような人が『家に帰る』決心をするなら,その時には迎え入れようと,ただ手をこまねいて待ってきたわけではありません。イエスの話された例えの中の父親は,『息子がまだ遠くにいた』時に走って出てその息子を迎えました。同様にエホバの証人は,かつて交わっていた人たちを捜し出し,エホバの組織に戻るよう助けることを個人的な義務とみなしています。
しかし,ある人がエホバの組織から離れている間に,重大な不行跡の罪を犯したならどうでしょうか。あるいは,重大な悪行のゆえに神の民との交わりから除かれねばならなかったものの,それ以来クリスチャンにふさわしくない行ないをやめている人の場合はどうでしょうか。そのような人をエホバとの間で事を正すよう親切に愛をもって援助する方法は,長老たちが知っています。ですから,戻って神のご意志と調和した生活をしたいと願うようになった人は皆,その願いを長老たちに知らせるのがよいでしょう。こう記されています。「『さあ,来るがよい。わたしたちの間で事を正そう』と,エホバは言われる。『たとえあなた方の罪が緋のようであっても,それはまさに雪のように白くされ,たとえ紅の布のように赤くても,まさに羊毛のようになる』」― イザヤ 1:18。
わたしたちの天の父は何と親切で温かく,愛のある方なのでしょう。実に忍耐強く,わたしたち一人一人に個人的な関心を抱いてくださっています。そうです,天の父はわたしたちがこの邪悪な事物の体制と共に滅びることを望んでおられません。(ペテロ第二 3:9)エホバはご自分の古代の民に,「わたしのもとに帰れ。そうすれば,わたしもあなた方のもとに帰ろう」と勧められました。その同じ招きが今でも差し伸べられています。―マラキ 3:7。
時は尽きようとしていますから,遅らせてはなりません。エホバの民と共に『神の律法を愛する者たちのものである豊かな平和』をもう一度楽しんでください。「彼らにつまずきのもとはありません」と,詩編作者は言いました。(詩編 119:165)あなたは心底からエホバの律法を愛していますか。もしあなたが神の献身した僕であるなら,あなたが神に献身したのはそれが理由なのです。あなたとエホバとの関係を回復すること以上に重要なことはあり得ません。そうです,絶対にあり得ないのです。神に背を向けてはなりません。問題について注意深く祈りをこめて考えてください。もしあなたがエホバの民との一致や親密さを失っておられる方でしたら,エホバの組織に戻るための時間はまだ残されています。そうするのを遅らせてはなりません。