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神の王国について徹底的に教える
徹 19章 148–155ページ

19章

「語かたり続つづけなさい。黙だまっていてはなりません」

パウロは仕し事ごとをして生せい計けいを立たてながら,宣せん教きょうに打うち込こんだ

使し徒と 18:1-22

1-3. パウロがコリントに来きたのはどうしてですか。どんな気き掛がかりなことがありましたか。

西せい暦れき50年ねんの秋あきのことです。使し徒とパウロはコリントにいます。交こう易えきの中ちゅう心しん地ちとして栄さかえ,ギリシャ人じん,ローマ人じん,ユダヤ人じんが大おお勢ぜい住すむ町まちです。a パウロはここに商しょう売ばいや職しょく探さがしのために来きたのではありません。もっと大たい切せつな目もく的てきがあって来きました。神かみの王おう国こくについて知しらせるためです。もちろん,寝ね泊とまりする場ば所しょが必ひつ要ようです。でも,誰だれかに経けい済ざい的てきな負ふ担たんは掛かけたくありません。人ひとのお金かねで生せい活かつしながら宣せん教きょうしている,とは思おもわれたくありません。どうするでしょうか。

2 パウロは手てに職しょくがあります。天てん幕まく作づくりです。楽らくな仕し事ごとではありませんが,自じ分ぶんで働はたらいて生せい計けいを立たてるつもりです。このせわしない町まちで働はたらき口ぐちはあるでしょうか。宿やどは見みつかるでしょうか。気き掛がかりなことはありますが,宣せん教きょうという一いち番ばん大たい切せつな仕し事ごとからパウロの気き持もちがそれてしまうことはありません。

3 結けっ局きょく,パウロはコリントにしばらくいることになり,宣せん教きょうを続つづけて多おおくの成せい果かを上あげます。コリントでパウロがしたことから,今いまの私わたしたちの宣せん教きょうに役やく立だつどんなことを学まなべるでしょうか。

コリント 2つの港みなとで栄さかえた町まち

古こ代だいコリントは,ギリシャ本ほん土どと南みなみのペロポネソス半はん島とうをつなぐ地ち峡きょう(幅はばが狭せまくなっている陸りく地ち)にありました。その地ち峡きょうの一いち番ばん狭せまい所ところは幅はばが6㌔足たらずで,コリントの両りょう側がわには2つの港みなとがありました。コリント湾わんに面めんするレカイオン港こうからは,海かい路ろで西せい方ほうのイタリア,シチリア,スペインに向むかうことができました。一いっ方ぽう,サロニカ湾わんに面めんするケンクレア港こうでは,エーゲ海かい地ち域いき,小しょうアジア,シリア,エジプトへの海かい上じょう交こう通つうを利り用ようできました。

ペロポネソス半はん島とうの南なん端たんの岬みさきは風かぜが吹ふき付つけ,航こう行こうするのが危き険けんだったので,船ふな乗のりはたいてい,コリントの2つの港みなとの一いっ方ぽうで積つみ荷にを陸りく揚あげし,陸りく路ろでもう一いっ方ぽうの港みなとまで運はこんで,再ふたたび船ふねに積つみ込こみました。軽かるい船ふねは,台だい車しゃに載のせてけん引いんし,地ち峡きょうを横おう断だんさせることもできました。台だい車しゃは,海うみと海うみとをつなぐ舗ほ道どうの溝みぞに沿そって動うごきました。コリントは地ち理り的てきな条じょう件けんに恵めぐまれていたため,東とう西ざいの海かい上じょう貿ぼう易えきと南なん北ぼくの陸りく上じょう交こう易えきの要よう衝しょうでした。活かっ発ぱつな交こう易えきによって富とみが流りゅう入にゅうしましたが,港みなとにありがちな犯はん罪ざいや非ひ行こうも見みられました。

使し徒とパウロが伝でん道どうした当とう時じ,コリントはローマの属ぞく州しゅうアカイアの州しゅう都とで,重じゅう要ような行ぎょう政せい中ちゅう心しん地ちでした。さまざまな宗しゅう教きょうが奉ほうじられ,町まちには,皇こう帝てい崇すう拝はいの神しん殿でん,ギリシャやエジプトの神かみ々がみに献けんじられた礼れい拝はい堂どうや神しん殿でん,ユダヤ教きょうの会かい堂どうがありました。(使し徒と 18:4)

近ちかくのイストミアで2年ねんごとに開かい催さいされた運うん動どう競きょう技ぎ会かいは,オリンピア競きょう技ぎ会かいに次ついで大おおきなものでした。パウロは51年ねんの競きょう技ぎ会かいの時とき,コリントにいたと思おもわれます。それで,「コリントへの手て紙がみで運うん動どう競きょう技ぎの比ひ喩ゆを初はじめて使つかったのは,偶ぐう然ぜんとは思おもえない」と,ある聖せい書しょ辞じ典てんには書かかれています。(コリ一いち 9:24-27)

「天てん幕まく作づくりが職しょく業ぎょうだった」(使し徒と 18:1-4)

4,5. (ア)パウロはコリントでどこに滞たい在ざいしましたか。どんな仕し事ごとをしましたか。(イ)パウロが天てん幕まく作づくりの技ぎ術じゅつを持もっていたのはどうしてだと思おもわれますか。

4 パウロはコリントに着ついて間まもなく,親しん切せつな夫ふう婦ふに出で会あいます。ユダヤ人じんのアクラと妻つまのプリスキラ(プリスカ)です。2人ふたりは,クラウディウス帝ていが「ユダヤ人じん全ぜん員いんにローマ退たい去きょを命めいじたために」,コリントに移うつり住すんでいました。(使し徒と 18:1,2)アクラとプリスキラはパウロに宿やどを提てい供きょうするだけでなく,仕し事ごともあてがい,一いっ緒しょに働はたらけるようにしました。こう書かかれています。「[パウロは]職しょく業ぎょうが[2人ふたりと]同おなじだったのでその家いえに滞たい在ざいし,一いっ緒しょに働はたらいた。天てん幕まく作づくりが職しょく業ぎょうだった」。(使し徒と 18:3)コリントでの宣せん教きょう中ちゅう,パウロはずっと2人ふたりの家いえに住すみます。その間あいだに,後あとで聖せい書しょの一いち部ぶになった手て紙がみを何なん通つうか書かいたと思おもわれます。b

5 「ガマリエルから直ちょく接せつ教おしえられ」たパウロが,どうして天てん幕まく作づくりの技ぎ術じゅつも身みに付つけていたのでしょうか。(使し徒と 22:3)1世せい紀きのユダヤ人じんは,手て仕し事ごとを子こ供どもに教おしえるのを恥はじとは考かんがえなかったようです。子こ供どもに高たかい教きょう育いくを受うけさせる場ば合あいでも,そうでした。パウロはキリキア地ち方ほうのタルソス出しゅっ身しんで,キリキアは天てん幕まくの材ざい料りょうになるキリキウムという布ぬので有ゆう名めいだったので,パウロは子こ供どもの頃ころに天てん幕まく作づくりを覚おぼえたと思おもわれます。どんな作さ業ぎょうをする仕し事ごとだったのでしょうか。天てん幕まく用ようの布ぬのを織おることや,硬かたくて粗あらい布ぬのを切きったり縫ぬったりする作さ業ぎょうがありました。なかなかきつい仕し事ごとでした。

6,7. (ア)パウロは天てん幕まく作づくりの仕し事ごとをどう見みなしていましたか。アクラとプリスキラも同おなじ見み方かたをしていた,といえるのはどうしてですか。(イ)現げん代だいのクリスチャンは,パウロ,アクラ,プリスキラにどのように倣ならっていますか。

6 パウロは,天てん幕まく作づくりが自じ分ぶんの本ほん業ぎょうだとは考かんがえていませんでした。その仕し事ごとをしたのは,自じ活かつしながら宣せん教きょうし,良よい知しらせを「無む償しょうで伝つたえ」るためです。(コリ二に 11:7)アクラとプリスキラはどうだったのでしょうか。パウロと同おなじように,天てん幕まく作づくりの仕し事ごとを本ほん業ぎょうだとは考かんがえていなかったはずです。52年ねんにパウロがコリントを去さる時とき,2人ふたりはコリントでの仕し事ごとをやめて家いえを引ひき払はらい,パウロと一いっ緒しょにエフェソスに行いきました。エフェソスでは,自じ宅たくを会かい衆しゅうの集しゅう会かい場じょうとして提てい供きょうしました。(コリ一いち 16:19)その後ご,ローマに戻もどり,それから再ふたたびエフェソスに行いきました。2人ふたりはいつも神かみの王おう国こくのために熱ねっ心しんに働はたらき,仲なか間まのためにできることを何なんでもしたので,「国くに々ぐにの全すべての会かい衆しゅう[から]感かん謝しゃ」されました。(ロマ 16:3-5。テモ二に 4:19)

7 現げん代だいのクリスチャンは,パウロ,アクラ,プリスキラの手て本ほんに倣ならっています。熱ねっ心しんに伝でん道どうしながらも,仲なか間まに「経けい済ざい的てきな負ふ担たんを掛かけないよう」にしています。(テサ一いち 2:9)全ぜん時じ間かん奉ほう仕し者しゃたちが,パートタイムの仕し事ごとをしたり短たん期きの仕し事ごとをしたりして生せい計けいを立たてながら,本ほん業ぎょうの宣せん教きょうに打うち込こんでいます。アクラとプリスキラのように親しん切せつな兄きょう弟だい姉し妹まいが,巡じゅん回かい監かん督とくを家いえに泊とめています。そういう人ひとたちは,「人ひとをもてなすことに努つとめ」ると,とても充じゅう実じつした時じ間かんを過すごせると感かんじています。(ロマ 12:13)

パウロが書かいた励はげましの手て紙がみ

使し徒とパウロは,コリントにいた50年ねんから52年ねんごろの1年ねん半はんの間あいだに,ギリシャ語ご聖せい書しょの一いち部ぶになった手て紙がみを少すくなくとも2通つう書かきました。テサロニケのクリスチャンへの第だい一いちと第だい二にの手て紙がみです。「ガラテアのクリスチャンへの手て紙がみ」もこの時じ期きに書かかれたかもしれませんが,そのすぐ後あとに書かかれた可か能のう性せいもあります。

「テサロニケのクリスチャンへの第だい一いちの手て紙がみ」は,聖せい書しょの一いち部ぶになったパウロの最さい初しょの手て紙がみです。パウロは50年ねんごろ,2度ど目めの宣せん教きょう旅りょ行こうの間あいだにテサロニケを訪おとずれました。テサロニケにできた会かい衆しゅうはすぐに反はん対たいに遭あい,パウロとシラスは町まちを出でていかなければならなくなりました。(使し徒と 17:1-10,13)パウロは発ほっ足そくしたばかりの会かい衆しゅうのことを気きに掛かけ,戻もどろうと2度ど試こころみましたが,「サタンに邪じゃ魔まされました」。それでパウロは,兄きょう弟だいたちを励はげまして元げん気きづけるためにテモテを遣つかわします。おそらく50年ねんの秋あきに,テモテはコリントでパウロに合ごう流りゅうし,テサロニケ会かい衆しゅうについて良よい報ほう告こくをします。その後ご,パウロはこの手て紙がみを書かきました。(テサ一いち 2:17–3:7)

「テサロニケのクリスチャンへの第だい二にの手て紙がみ」は,たぶん最さい初しょの手て紙がみのすぐ後あと,おそらく51年ねんに書かかれました。両りょう方ほうの手て紙がみで,パウロと一いっ緒しょにテモテとシルワノ(「使し徒との活かつ動どう」ではシラス)があいさつを送おくっていますが,パウロがコリントにいた時じ期きの後あとには,この3人にんが再ふたたび一いっ緒しょにいた記き録ろくはありません。(使し徒と 18:5,18。テサ一いち 1:1。テサ二に 1:1)パウロはどうして第だい二にの手て紙がみを書かいたのでしょうか。おそらくは最さい初しょの手て紙がみを届とどけた人ひとを通とおして,テサロニケ会かい衆しゅうのその後ごの様よう子すを聞きいたようです。それでパウロは,テサロニケの兄きょう弟だいたちの愛あいと忍にん耐たいを褒ほめるとともに,一いち部ぶの人ひとたちが持もっていた,主しゅの臨りん在ざいが目もく前ぜんであるという考かんがえを正ただすことにしました。(テサ二に 1:3-12; 2:1,2)

「ガラテアのクリスチャンへの手て紙がみ」によると,パウロはこの手て紙がみを書かく前まえに少すくなくとも2回かいガラテアを訪おとずれていたようです。47年ねんから48年ねんにかけて,バルナバと一いっ緒しょに,ローマの属ぞく州しゅうガラテアにある,ピシデアのアンティオキア,イコニオム,ルステラ,デルベを訪おとずれました。49年ねんには,シラスと一いっ緒しょに再ふたたびその地ち域いきに行いきました。(使し徒と 13:1–14:23; 16:1-6)パウロがこの手て紙がみを書かいたのは,パウロの後あとにユダヤ主しゅ義ぎ者しゃたちがガラテアにやって来きたからでした。彼かれらは,クリスチャンも割かつ礼れいを受うけてモーセの律りっ法ぽうを守まもらなければいけないと教おしえていました。そう聞きいたパウロは,その教おしえが間ま違ちがっていたので,すぐにガラテアのクリスチャンに手て紙がみを書かいたようです。コリントで書かいたと思おもわれますが,シリアのアンティオキアで,あるいはそこに帰かえる途と中ちゅうで立たち寄よったエフェソスで書かいたのかもしれません。(使し徒と 18:18-23)

「コリントの多おおくの人ひとが,信しんじ[た]」(使し徒と 18:5-8)

8,9. ユダヤ人じんたちからの反はん対たいに遭あったパウロは,どうしましたか。その後ご,どこで伝でん道どうすることにしましたか。

8 その後ご,シラスとテモテがマケドニアから必ひつ要ような物ものをたくさん持もってきてくれました。パウロはどうしたでしょうか。(コリ二に 11:9)「神かみの言こと葉ばを伝つたえることに専せん念ねん」する(「自じ分ぶんの全すべての時じ間かんを伝でん道どうに充あて」る)ようになりました。(使し徒と 18:5,エルサレム聖せい書しょ[英えい語ご])パウロにとって天てん幕まく作づくりの仕し事ごとは,あくまで宣せん教きょうを続つづけるための手しゅ段だんに過すぎなかったことが分わかります。パウロの熱ねっ心しんな伝でん道どうを受うけて,ユダヤ人じんたちは激はげしく反はん対たいし,キリストについての命いのちを救すくうメッセージをはねつけます。パウロは,自じ分ぶんにはもう責せき任にんがないことを示しめすために,服ふくに付ついた土つちを振ふり払はらって,こう言いいます。「あなた方がたがどうなるとしても,それはあなた方がた自じ身しんの責せき任にんです。私わたしは潔けっ白ぱくです。これからは異い国こくの人ひと々びとの所ところに行いきます」。(使し徒と 18:6。エゼ 3:18,19)

9 パウロはどこで伝でん道どうするのでしょうか。テテオ・ユストという人ひと(ユダヤ教きょうに改かい宗しゅうした人ひとだったと思おもわれる)が,会かい堂どうの隣となりにあった自じ宅たくを使つかわせてくれます。パウロは会かい堂どうからその家いえに移い動どうし,伝でん道どうを続つづけます。(使し徒と 18:7)コリントにいた間あいだ,パウロはその後ごもアクラとプリスキラの家いえに住すみましたが,伝でん道どうの拠きょ点てんはユストの家いえになりました。

10. パウロがもう異い国こく人じんにしか伝でん道どうしないと決きめたわけではない,といえるのはどうしてですか。

10 「これからは異い国こくの人ひと々びとの所ところに行いきます」と言いったパウロは,ユダヤ人じんやユダヤ教きょうに改かい宗しゅうした人ひとたちには,もう一いっ切さい伝でん道どうしないと決きめたのでしょうか。そうとは思おもえません。こう書かかれているからです。「会かい堂どうの役やく員いんクリスポが家いえの人ひと全ぜん員いんと一いっ緒しょに主しゅの信しん者じゃとなった」。クリスポに続つづいて,何なん人にんもの会かい堂どうの関かん係けい者しゃがクリスチャンになったようです。「良よい知しらせを聞きいたコリントの多おおくの人ひとが,信しんじてバプテスマを受うけるようになった」とあります。(使し徒と 18:8)こうして,テテオ・ユストの家いえは新あたらしくできたコリントの会かい衆しゅうの集しゅう会かい場じょうになりました。いつものルカの書かき方かた通どおり,時じ系けい列れつで記き録ろくされているとすれば,パウロが服ふくに付ついた土つちを振ふり払はらった後あとに,クリスポたちがバプテスマを受うけたことになります。パウロが柔じゅう軟なんで,融ゆう通ずうが利きく人ひとだったことがよく分わかります。

11. エホバの証しょう人にんはパウロに倣ならい,一いっ般ぱんのキリスト教きょうの信しん者じゃたちにどのように伝でん道どうしていますか。

11 現げん在ざい,多おおくの国くにでは,一いっ般ぱんのキリスト教きょうが大おおきな影えい響きょう力りょくを持もち,信しん者じゃがたくさんいます。教きょう会かいの宣せん教きょう師しが多おおくの人ひとを改かい宗しゅうさせてきた国くにや島しま々じまもあります。1世せい紀きのコリントのユダヤ人じんのように,信しん者じゃたちが教きょう会かいの伝でん統とうに縛しばられていることもよくあります。パウロに倣ならい,エホバの証しょう人にんはそういう人ひとたちにも伝でん道どうし,聖せい書しょを正ただしく理り解かいできるように助たすけます。相あい手てからはねつけられたり宗しゅう教きょう指し導どう者しゃから迫はく害がいされたりしても,諦あきらめません。「正せい確かくな知ち識しきによるものでは」ない「熱ねつ意いを持もっている」人ひとたちの中なかにも,神かみについて本ほん当とうのことを知しりたいと思おもっている人ひとがいるはずだからです。(ロマ 10:2)

「この町まちには私わたしの民たみが大おお勢ぜいいます」(使し徒と 18:9-17)

12. 幻まぼろしの中なかでパウロはどんなことをはっきり伝つたえられましたか。

12 パウロがまだコリントにいたある夜よる,主しゅイエスが幻まぼろしの中なかに現あらわれて,こう言いいます。「恐おそれないで,語かたり続つづけなさい。黙だまっていてはなりません。私わたしはあなたと共ともにおり,誰だれもあなたを襲おそって危き害がいを加くわえたりはしません。この町まちには私わたしの民たみが大おお勢ぜいいます」。(使し徒と 18:9,10)とても心こころ強づよい言こと葉ばです。パウロが仮かりに,コリントで宣せん教きょうを続つづけるべきだろうかと考かんがえていたとしても,この幻まぼろしを見みて,迷まよいは消きえたはずです。危き害がいを加くわえられることはない,見み込こみのある人ひとたちがまだたくさんいる,とイエスがはっきり言いってくれました。パウロはどうしたでしょうか。こう書かかれています。「パウロはそこに1年ねん6カ月げつ滞たい在ざいし,神かみの言こと葉ばを教おしえた」。(使し徒と 18:11)

13. 裁さばきの座ざの前まえに連つれていかれる時とき,パウロはどんなことを思おもい出だしたかもしれませんか。自じ分ぶんはここで命いのちを落おとすことはない,とパウロが思おもえたのはどうしてですか。

13 コリントで1年ねんがたった頃ころ,パウロはさらにイエスのサポートを感かんじる経けい験けんをします。ある日ひ,「ユダヤ人じんは一いち団だんとなってパウロを襲おそい,裁さばきの座ざの前まえに引ひいて」いきます。(使し徒と 18:12)この裁さばきの座ざはベーマと呼よばれる高たかい演えん壇だんで,青あおと白しろの大だい理り石せきで造つくられ,彫ちょう刻こくがたくさん施ほどこされていたようです。コリントの広ひろ場ばの中ちゅう央おう部ぶに位い置ちしていたと思おもわれます。ベーマの前まえには大おお勢ぜいの人ひとが集あつまれるスペースがありました。考こう古こ学がく上じょうの発はっ見けんからすると,ベーマは会かい堂どうのすぐ近ちかく,つまりユストの家いえのすぐ近ちかくにあったようです。ベーマの前まえに連つれていかれる時とき,パウロはステファノのことを思おもい出だしたかもしれません。ステファノは石いし打うちにされ,クリスチャンの最さい初しょの殉じゅん教きょう者しゃになりました。その頃ころサウロと呼よばれていたパウロは,「ステファノの殺さつ害がいに賛さん成せいして」いました。(使し徒と 8:1)今こん度どはパウロが同おなじような目めに遭あうのでしょうか。いいえ,「誰だれもあなた[に]危き害がいを加くわえたりはしません」とイエスから言いわれていました。(使し徒と 18:10)

怒ってパウロを告発したユダヤ人たちの訴えを,ガリオが却下している。暴徒化した人たちをローマの兵士たちが抑え込もうとしている。

「そして彼かれらを裁さばきの座ざから追おい払はらった」。使し徒と 18:16

14,15. (ア)ユダヤ人じんたちはどんなことでパウロを告こく発はつしましたか。ガリオが訴うったえを却きゃっ下かしたのはどうしてですか。(イ)ソステネはどんな目めに遭あいましたか。ソステネにとってそれが良よいきっかけになったかもしれない,といえるのはどうしてですか。

14 裁さばきの座ざの前まえに来きたパウロはどうなるでしょうか。裁さばきの座ざに就ついていたのは,アカイアの執しっ政せい官かん代だい理りガリオでした。ローマの哲てつ学がく者しゃセネカの兄あにです。ユダヤ人じんたちはパウロを告こく発はつし,こう言いいます。「この男おとこは,法ほうに逆さからって神かみを崇すう拝はいするよう人ひと々びとを説せっ得とくしている」。(使し徒と 18:13)パウロがやっていることは違い法ほうだ,というのが彼かれらの言いい分ぶんです。でも,ガリオからすると,パウロは何なんの「不ふ正せい」もしておらず,「重じゅう大だいな犯はん罪ざい」を犯おかしてなどいません。(使し徒と 18:14)ガリオはユダヤ人じんたちのいざこざに巻まき込こまれたくないようです。パウロが一ひと言ことも弁べん明めいしないうちに,ガリオは訴うったえを却きゃっ下かします。ユダヤ人じんたちは激げき怒どし,ソステネに怒いかりの矛ほこ先さきを向むけます。ソステネはクリスポの後こう任にんとして会かい堂どうの役やく員いんになっていたようです。ソステネは捕つかまえられて,「裁さばきの座ざの前まえで打うちたた」かれました。(使し徒と 18:17)

15 群ぐん衆しゅうがソステネを打うちたたくのを,ガリオが止とめなかったのはどうしてでしょうか。ソステネがパウロを襲おそった一いち団だんのリーダーだと思おもい,苦くるしい目めに遭あっても仕し方かたないと考かんがえたのかもしれません。いずれにしても,これが良よいことにつながった可か能のう性せいがあります。パウロは,数すう年ねん後ごに書かいたコリント会かい衆しゅうへの最さい初しょの手て紙がみの中なかで,ソステネという兄きょう弟だいに触ふれています。(コリ一いち 1:1,2)これは,コリントで打うちたたかれたソステネでしょうか。もしそうなら,大たい変へんな思おもいをしたことがきっかけでクリスチャンになろうと思おもったのかもしれません。

16. 「語かたり続つづけなさい。黙だまっていてはなりません。私わたしはあなたと共ともに」います,というイエスの言こと葉ばを,私わたしたちも覚おぼえておきたいのはどうしてですか。

16 パウロがイエスから,「恐おそれないで,語かたり続つづけなさい。黙だまっていてはなりません。私わたしはあなたと共ともに」います,と言いわれたのは,ユダヤ人じんたちから反はん対たいに遭あった後あとでした。(使し徒と 18:9,10)私わたしたちも伝でん道どうで冷つめたくあしらわれることがあるので,この言こと葉ばを覚おぼえておきたいと思おもいます。エホバは心こころの中なかを見みて,心こころに良よいものがある人ひとたちを引ひき寄よせます。(サム一いち 16:7。ヨハ 6:44)そう考かんがえると,これからも一いっ生しょう懸けん命めいに伝でん道どうしようという気き持もちになります。毎まい年とし,十じゅう数すう万まんから数すう十じゅう万まんもの人ひとがバプテスマを受うけています。1日にちに数すう百ひゃく人にんのペースです。イエスは「全すべての国くにの人ひと々びとを弟で子しとしなさい」と命めいじた後あとに,こうも言いってくれています。「私わたしは体たい制せいの終しゅう結けつまでいつの日ひもあなたたちと共ともにいるのです」。(マタ 28:19,20)

「エホバが望のぞまれるなら」(使し徒と 18:18-22)

17,18. エフェソスに向むかう船ふねの中なかで,パウロはどんなことを考かんがえたかもしれませんか。

17 はっきりしたことは分わかりませんが,ガリオが訴うったえを却きゃっ下かしたおかげで,コリント会かい衆しゅうはしばらく安あん心しんして活かつ動どうできるようになったかもしれません。いずれにしても,パウロは「さらにかなりの日にっ数すう滞たい在ざいし」,それからコリントの兄きょう弟だいたちに別わかれを告つげます。52年ねんの春はる,コリントの東ひがし11㌔ほどのケンクレア港こうから船ふねでシリアに向むかうことにしました。ケンクレアを出でる前まえに,「髪かみの毛けを短みじかく刈か」ります。「誓せい約やくをしていた」からです。c (使し徒と 18:18)その後ご,アクラとプリスキラと一いっ緒しょに出しゅっ発ぱつし,エーゲ海かいを渡わたって,小しょうアジアのエフェソスに行いきました。

18 ケンクレアから乗のった船ふねの中なかで,パウロはコリントで過すごした日ひ々びを思おもい返かえしたことでしょう。良よい思おもい出でがいっぱいで,大おおきな達たっ成せい感かんがあります。成せい果かがたくさんあった1年ねん半はんでした。コリントで最さい初しょの会かい衆しゅうができて,ユストの家いえで集しゅう会かいを開ひらくようになりました。ユスト,クリスポと家いえの人ひとたちなど,多おおくの人ひとがクリスチャンになりました。パウロにとって,とてもいとおしい人ひとたちです。親しん身みになって助たすけたからです。パウロは後あとで書かいた手て紙がみの中なかで,その人ひとたちのことを自じ分ぶんの心こころに書かき込こまれた「推すい薦せんの手て紙がみ」だと言いっています。私わたしたちも,クリスチャンになるよう助たすけた人ひとたちに親したしみを感かんじます。いわば自じ分ぶんの推すい薦せん状じょうのような,大たい切せつな存そん在ざいです。(コリ二に 3:1-3)

19,20. エフェソスに着ついたパウロはどうしましたか。奉ほう仕しの目もく標ひょうを立たてて取とり組くむとき,パウロにどのように倣ならえますか。

19 パウロはエフェソスに着つくと,すぐに伝でん道どうし始はじめます。「会かい堂どうに入はいってユダヤ人じんたちと論ろんじた」とあります。(使し徒と 18:19)この時ときはエフェソスに長ながくは滞たい在ざいしません。もっといてほしいと言いわれますが,「それには応おうじず」,別わかれを告つげ,「エホバが望のぞまれるなら,また戻もどってきます」と言いいます。(使し徒と 18:20,21)パウロは,エフェソスには良よい知しらせを聞きく人ひとがまだまだたくさんいると思おもっていました。戻もどってくるつもりでしたが,今こん後ごのことは全ぜん部ぶエホバにお任まかせすることにしました。私わたしたちも見み習ならいたいものです。奉ほう仕しの目もく標ひょうを立たてて一いっ生しょう懸けん命めいに取とり組くみますが,いつでもエホバに導みちびいてもらい,エホバの考かんがえに合あわせたいと思おもいます。(ヤコ 4:15)

20 エフェソスにアクラとプリスキラを残のこし,パウロは船ふねでカエサレアに向むかいます。そこからエルサレムに「上のぼっていって」,会かい衆しゅうの人ひとたちに会あったようです。(スタディー版ばんの使し徒と 18:22の注ちゅう釈しゃくを参さん照しょう。)その後ご,出しゅっ発ぱつ地ちのシリアのアンティオキアに戻もどります。2度ど目めの宣せん教きょう旅りょ行こうは大だい成せい功こうでした。次つぎの宣せん教きょう旅りょ行こうはどうなるでしょうか。

パウロの誓せい約やく

使し徒と 18章しょう18節せつによれば,パウロはケンクレアにいた時ときに「髪かみの毛けを短みじかく刈か」りました。「誓せい約やくをしていた」からです。どんな誓せい約やくだったのでしょうか。

誓せい約やくとは一いっ般ぱんに,自じ発はつ的てきにする,神かみへの厳げん粛しゅくな約やく束そくのことです。何なにかの行こう為いをする,何なにかの捧ささげ物ものをする,何なにかの特とく別べつな奉ほう仕しをするといったことを神かみに約やく束そくします。パウロはナジルの誓せい約やくを果はたしたので髪かみの毛けを切きった,と考かんがえる人ひともいます。しかし,聖せい書しょによれば,ナジルはエホバへの特とく別べつな奉ほう仕しの期き間かんを終おえる時ときに,「会かい見けんの天てん幕まくの入いり口ぐちで」頭あたまをそることになっていました。それができるのはエルサレムだけで,ケンクレアではできなかったと思おもわれます。(民みん 6:5,18)

「使し徒との活かつ動どう」には,パウロがいつ誓せい約やくをしたかは書かかれていません。クリスチャンになる前まえだったとも考かんがえられます。パウロがエホバに特とく定ていの願ねがい事ごとをしたのかどうかも書かかれておらず,分わかりません。ある文ぶん献けんによれば,パウロが髪かみの毛けを短みじかく刈かったのは,「神かみの保ほ護ごのおかげでコリントでの宣せん教きょうを完かん遂すいできたことへの感かん謝しゃの表ひょう明めい」だったのかもしれません。

a 「コリント 2つの港みなとで栄さかえた町まち」という囲かこみを参さん照しょう。

b 「パウロが書かいた励はげましの手て紙がみ」という囲かこみを参さん照しょう。

c 「パウロの誓せい約やく」という囲かこみを参さん照しょう。

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