19. できることが限 かぎ られていても,パウロはどのようにベストを尽 つ くしましたか。
19 「使 し 徒 と の活 かつ 動 どう 」の記 き 録 ろく は,前 まえ 向 む きなトーンで締 し めくくられています。「パウロは,借 か り た家 いえ に丸 まる 2年 ねん とどまり,会 あ いに来 く る人 ひと を皆 みな 親 しん 切 せつ に迎 むか え,妨 さまた げられることなく,少 すこ しも気 き 後 おく れせずに,神 かみ の王 おう 国 こく について伝 つた えたり主 しゅ イエス・キリストについて教 おし えたりした」。(使 し 徒 と 28:30,31 )パウロはやって来 く る人 ひと を歓 かん 迎 げい し,信 しん 仰 こう を貫 つらぬ き,熱 あつ い心 こころ で伝 でん 道 どう を続 つづ けました。
20,21. 軟 なん 禁 きん 中 ちゅう のパウロから,どんな人 ひと たちが良 よ い感 かん 化 か を受 う けましたか。
20 パウロが温 あたた かく迎 むか えた人 ひと の中 なか に,オネシモがいます。オネシモは逃 とう 亡 ぼう 奴 ど 隷 れい で,コロサイから逃 に げてきていました。オネシモはパウロに教 おし えられてクリスチャンになり,「[パウロ]の愛 あい する忠 ちゅう 実 じつ な兄 きょう 弟 だい 」になりました。パウロは,オネシモは「自 じ 分 ぶん の子 こ のよう」で,自 じ 分 ぶん は「父 ちち 親 おや も同 どう 然 ぜん 」だ,と言 い っています。(コロ 4:9。 フィレ 10-12 )パウロは,オネシモがいてくれてとてもうれしかったはずです。
21 パウロのめげない姿 し 勢 せい は,オネシモ以 い 外 がい の人 ひと たちにも良 よ い感 かん 化 か を与 あた えました。パウロはフィリピのクリスチャンにこう書 か いています。「私 わたし の身 み に起 お きたことにより,良 よ い知 し らせはとどめられるどころか,かえって広 ひろ まっています。私 わたし がキリストのために拘 こう 禁 きん されていることが,親 しん 衛 えい 隊 たい の全 ぜん 員 いん とほかのあらゆる人 ひと たちに知 し られるようになっています。そして,私 わたし が拘 こう 禁 きん されていることで,主 しゅ に従 したが う兄 きょう 弟 だい たちの大 たい 半 はん が確 かく 信 しん を持 も ち,恐 おそ れることなく,ますます勇 ゆう 敢 かん に神 かみ の言 こと 葉 ば を語 かた っています」。(フィリ 1:12-14 )
22. パウロは軟 なん 禁 きん 中 ちゅう にどんなこともしましたか。
22 パウロは軟 なん 禁 きん 中 ちゅう に手 て 紙 がみ を何 なん 通 つう か書 か きました。現 げん 在 ざい ギリシャ語 ご 聖 せい 書 しょ の一 いち 部 ぶ になっている手 て 紙 がみ です。 当 とう 時 じ のクリスチャンたちは手 て 紙 がみ から多 おお くのことを学 まな びました。パウロが聖 せい なる力 ちから に導 みちび かれて書 か いた手 て 紙 がみ なので,今 いま も役 やく 立 だ ち,私 わたし たちも多 おお くのことを学 まな べます。(テモ二 に 3:16,17 )
ローマでの1 度 ど 目 め の 拘 こう 禁 きん の 間 あいだ にパウロが 書 か いた5 通 つう の 手 て 紙 がみ
使 し 徒 と パウロの手 て 紙 がみ のうち5通 つう は,ローマでの1度 ど 目 め の拘 こう 禁 きん の間 あいだ に書 か かれました。60年 ねん から61年 ねん ごろのことです。パウロは,クリスチャンだった「フィレモンへの 手 て 紙 がみ 」 の中 なか で,フィレモンの所 ところ から逃 に げ出 だ した奴 ど 隷 れい オネシモについて書 か きました。パウロはオネシモのことをわが子 こ のように思 おも っていました。オネシモは「以 い 前 ぜん は……役 やく に立 た 」たない奴 ど 隷 れい でしたが,今 いま はクリスチャンになっていて,主 しゅ 人 じん のフィレモンにとっても愛 あい すべき兄 きょう 弟 だい です。パウロは手 て 紙 がみ でそのことをフィレモンに伝 つた え,オネシモを送 おく り返 かえ しました。(フィレ 10-12, 16 )
パウロは「コロサイのクリスチャンへの 手 て 紙 がみ 」 の中 なか で,オネシモが「皆 みな さんの所 ところ から来 き た」と言 い っています。(コロ 4:9 )オネシモとテキコは,「フィレモンへの手 て 紙 がみ 」,「コロサイのクリスチャンへの手 て 紙 がみ 」,「エフェソスのクリスチャンへの 手 て 紙 がみ 」 を届 とど ける役 やく 目 め を果 は たしました。(エフェ 6:21 )
パウロは「フィリピのクリスチャンへの 手 て 紙 がみ 」 の中 なか で,自 じ 分 ぶん が「拘 こう 禁 きん されている」と言 い い,手 て 紙 がみ を届 とど ける人 ひと についても書 か いています。手 て 紙 がみ を届 とど けるのはエパフロデトです。エパフロデトは,フィリピのクリスチャンたちがパウロをサポートするために送 おく り出 だ した兄 きょう 弟 だい でした。でも,病 びょう 気 き になり,命 いのち にかかわるほど悪 わる くなりました。また「自 じ 分 ぶん が病 びょう 気 き になったのを……知 し られたことで」気 き 落 お ちしていました。それでパウロは,「彼 かれ のような人 ひと 」を大 たい 切 せつ にするようにと書 か いています。(フィリ 1:7; 2:25-30 )
「ヘブライ 人 じん のクリスチャンへの 手 て 紙 がみ 」 は,ユダヤにいるヘブライ人 じん のクリスチャンに宛 あ てて書 か かれました。誰 だれ が書 か いたかははっきり書 か かれていませんが,パウロだといえます。パウロらしい論 ろん じ方 かた の手 て 紙 がみ です。パウロはイタリアからあいさつを伝 つた え,一 いっ 緒 しょ にローマにいたテモテのことに触 ふ れています。(フィリ 1:1。 コロ 1:1。 フィレ 1。 ヘブ 13:23,24 )
23,24. 現 げん 代 だい のクリスチャンはパウロにどのように倣 なら っていますか。
23 パウロの釈 しゃく 放 ほう については「使 し 徒 と の活 かつ 動 どう 」に書 か かれていませんが,合 あ わせて4年 ねん ほど拘 こう 禁 きん されていたことになります。カエサレアで2年 ねん ,ローマで2年 ねん です。 (使 し 徒 と 23:35; 24:27 )それでも,パウロの心 こころ はいつも前 まえ 向 む きで,エホバのためにできる限 かぎ りのことをしました。現 げん 代 だい でも,信 しん 仰 こう を貫 つらぬ いて刑 けい 務 む 所 しょ に入 い れられたエホバの証 しょう 人 にん たちが,パウロと同 おな じようにしています。スペインのアドルフォは,兵 へい 役 えき を拒 きょ 否 ひ したために監 かん 房 ぼう に入 い れられました。ある士 し 官 かん はこう言 い いました。「君 きみ には全 まった く感 かん 心 しん するよ。われわれは君 きみ の生 せい 活 かつ を耐 た え難 がた いものにしてきた。それなのに,厳 きび しい仕 し 打 う ちをすればするほど,君 きみ はより笑 え 顔 がお になり,優 やさ しい話 はな し方 かた をした」。
24 アドルフォはとても信 しん 頼 らい されるようになり,監 かん 房 ぼう の扉 とびら が開 あ けっ放 ぱな しにされました。兵 へい 士 し たちが聖 せい 書 しょ について尋 たず ねによくやって来 き ました。見 み 張 は りの兵 へい 士 し の1人 ひとり は,監 かん 房 ぼう の中 なか に入 はい って聖 せい 書 しょ を読 よ むようになりました。その間 かん ,アドルフォが見 み 張 は りをしました。囚 しゅう 人 じん が監 かん 房 ぼう で見 み 張 は りをしたのです。こういう例 れい を知 し ると,「恐 おそ れることなく,ますます勇 ゆう 敢 かん に神 かみ の言 こと 葉 ば を語 かた 」ろうという気 き 持 も ちになります。
25,26. イエスが弟 で 子 し たちに与 あた えた任 にん 務 む は,30年 ねん 足 た らずのうちにどんな進 しん 展 てん を見 み ましたか。現 げん 代 だい はどうですか。
25 軟 なん 禁 きん されていても,パウロはやって来 く る人 ひと たちに「神 かみ の王 おう 国 こく について伝 つた え」ました。「使 し 徒 と の活 かつ 動 どう 」の締 し めくくりに何 なん ともふさわしいエピソードです。宣 せん 教 きょう に打 う ち込 こ んだ使 し 徒 と たちの物 もの 語 がたり は,最 さい 後 ご も伝 でん 道 どう についての記 き 録 ろく で終 お わっています。この本 ほん の1章 しょう で,使 し 徒 と 1章 しょう 8節 せつ を読 よ みました。そこにはイエスが弟 で 子 し たちに与 あた えた任 にん 務 む が書 か かれています。「聖 せい なる力 ちから があなたたちに働 はたら く時 とき ,あなたたちは力 ちから を受 う け,エルサレムで,ユダヤとサマリアの全 ぜん 土 ど で,また地 ち 上 じょう の最 もっと も遠 とお い所 ところ にまで,私 わたし の証 しょう 人 にん となります」と,イエスは言 い いました。(使 し 徒 と 1:8 )それから30年 ねん 足 た らずで,神 かみ の王 おう 国 こく の良 よ い知 し らせは「天 てん の下 した の至 いた る所 ところ で伝 つた えられ」ました。 (コロ 1:23 )神 かみ の聖 せい なる力 ちから がいかに強 きょう 力 りょく であるかが分 わ かります。(ゼカ 4:6 )
26 今 いま も聖 せい なる力 ちから が働 はたら いています。天 てん に行 い くことになっているキリストの兄 きょう 弟 だい たちと「ほかの羊 ひつじ 」が,聖 せい なる力 ちから に助 たす けられながら,世 せ 界 かい 中 じゅう で「神 かみ の王 おう 国 こく について徹 てっ 底 てい 的 てき に教 おし えて」います。240の国 くに や地 ち 域 いき で,良 よ い知 し らせが伝 つた えられています。(ヨハ 10:16。 使 し 徒 と 28:23 )あなたも伝 でん 道 どう を楽 たの しんでいますか。
61 年 ねん 以 い 降 こう のパウロ
61年 ねん ごろ,パウロは皇 こう 帝 てい ネロの前 まえ に出 で て,無 む 罪 ざい を宣 せん 告 こく されたようです。その後 ご のパウロについて,あまり多 おお くのことは分 わ かっていません。スペインに行 い く計 けい 画 かく を実 じっ 行 こう したとすれば,この時 じ 期 き のことと思 おも われます。(ロマ 15:28 )パウロは「西 にし の最 さい 果 は てに」行 い った,とローマのクレメンスは95年 ねん ごろに書 か いています。
釈 しゃく 放 ほう 後 ご に書 か かれた3通 つう の手 て 紙 がみ (テモテ第 だい 一 いち ,テモテ第 だい 二 に ,テトス)から,パウロがクレタ島 とう ,マケドニア地 ち 方 ほう ,ニコポリス,トロアスを訪 おとず れたことが分 わ かります。(テモ一 いち 1:3。 テモ二 に 4:13。 テト 1:5; 3:12 )パウロが再 ふたた び逮 たい 捕 ほ されたのは,おそらくギリシャのニコポリスです。いずれにしても,パウロは65年 ねん ごろ,ローマで再 ふたた び拘 こう 禁 きん されていました。ネロは,今 こん 度 ど は死 し 刑 けい を宣 せん 告 こく したようです。ローマの歴 れき 史 し 家 か タキトゥスによれば,64年 ねん のローマ大 たい 火 か の時 とき ,ネロは大 たい 火 か をクリスチャンのせいにし,残 ざん 忍 にん な迫 はく 害 がい を始 はじ めました。
パウロは自 じ 分 ぶん の死 し が近 ちか いと感 かん じ,テモテへの2通 つう 目 め の手 て 紙 がみ の中 なか で,マルコと一 いっ 緒 しょ にすぐに来 き てほしいとテモテに言 い っています。パウロを力 ちから づけるために命 いのち を懸 か けたルカとオネシフォロの勇 ゆう 気 き は注 ちゅう 目 もく に値 あたい します。クリスチャンであることを明 あき らかにすれば,逮 たい 捕 ほ されて残 ざん 酷 こく な方 ほう 法 ほう で処 しょ 刑 けい されるかもしれなかったからです。(テモ二 に 1:16,17; 4:6-9, 11 )パウロは,「テモテへの第 だい 二 に の手 て 紙 がみ 」を書 か いて間 ま もなく殉 じゅん 教 きょう したようです。65年 ねん ごろのことです。伝 つた えられるところによれば,ネロはパウロの殉 じゅん 教 きょう から3年 ねん ほど後 のち に自 じ 殺 さつ しました。
良 よ い 知 し らせが「 天 てん の 下 した の 至 いた る 所 ところ で 伝 つた えられ[た]」
61年 ねん ごろ,パウロはローマで拘 こう 禁 きん されていた時 とき に,良 よ い知 し らせが「天 てん の下 した の至 いた る所 ところ で伝 つた えられ[た]」と書 か きました。(コロ 1:23 )これはどういう意 い 味 み だったのでしょうか。
パウロは,良 よ い知 し らせが非 ひ 常 じょう に広 ひろ い範 はん 囲 い に伝 つた わったということを言 い いたかったようです。もちろん,当 とう 時 じ 知 し られていた世 せ 界 かい は広 ひろ く,良 よ い知 し らせが伝 つた わっていない地 ち 域 いき もありました。紀 き 元 げん 前 ぜん 4世 せい 紀 き ,アレクサンドロス大 だい 王 おう がアジアに侵 しん 略 りゃく し,インドとの境 きょう 界 かい にまで勢 せい 力 りょく を広 ひろ げました。紀 き 元 げん 前 ぜん 55年 ねん にユリウス・カエサルがブリテン島 とう に侵 しん 攻 こう し,その後 ご ,クラウディウスがその島 しま の南 なん 部 ぶ を征 せい 服 ふく して,西 せい 暦 れき 43年 ねん にローマ帝 てい 国 こく の属 ぞく 州 しゅう にしました。上 じょう 質 しつ の絹 きぬ の産 さん 地 ち だった極 きょく 東 とう のことも,当 とう 時 じ 知 し られていました。
良 よ い知 し らせは,そういったブリテン島 とう や極 きょく 東 とう でも伝 つた えられていたのでしょうか。そうではなさそうです。パウロは56年 ねん ごろ,「手 て 付 つ かずの場 ば 所 しょ 」であるスペインで伝 でん 道 どう したいと思 おも っていると言 い いましたが,「コロサイのクリスチャンへの手 て 紙 がみ 」を書 か いた61年 ねん ごろには,それがまだ実 じつ 現 げん していませんでした。(ロマ 15:20, 23,24 )それでも,その頃 ころ には,神 かみ の王 おう 国 こく のことはすでに広 ひろ く知 し られるようになっていました。少 すく なくとも,イエスの使 し 徒 と たちが訪 おとず れた地 ち 方 ほう や,33年 ねん のペンテコステの日 ひ にバプテスマを受 う けたユダヤ人 じん とユダヤ教 きょう に改 かい 宗 しゅう した人 ひと たちの故 こ 国 こく には伝 つた わっていました。(使 し 徒 と 2:1,8-11, 41,42 )