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  • 塔研21 10月号 8–13ページ
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  • 私たちが仕える神は「憐れみ深い」方
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔(研究用)2021
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔(研究用)2021
塔研21 10月号 8–13ページ

研究記事41

私わたしたちが仕つかえる神かみは「憐あわれみ深ぶかい」方かた

「エホバは全すべてのものに対たいして善よいことを行おこなう。神かみの憐あわれみは全すべての行おこないにはっきりと表あらわれている」。詩し編へん 145:9

44番ばんの歌うた 謙けん遜そんな人ひとの祈いのり

何なにを学まなぶかa

1. 憐あわれみ深ぶかい人ひとといえば,どんな人ひとのことが思おもい浮うかびますか。

憐あわれみ深ぶかい人ひとといえば,親しん切せつで優やさしく,思おもいやりがあって,惜おしみなく与あたえる人ひとのことを思おもい浮うかべるかもしれません。イエスが語かたった,親しん切せつなサマリア人じんの話はなしも思おもい出だすかもしれません。この人ひとはサマリア人じんでしたが,強ごう盗とうに襲おそわれたユダヤ人じんに対たいして「憐あわれみ深ぶかく行こう動どうし」ました。けがをしていたこのユダヤ人じんを「かわいそうに思おもい」,世せ話わを受うけられるようにして愛あいを示しめしたのです。(ルカ 10:29-37)この例たとえ話ばなしは,エホバの素す晴ばらしい性せい質しつである憐あわれみを際きわ立だたせています。憐あわれみは神かみの愛あいの一いち面めんです。エホバは,この憐あわれみを毎まい日にちさまざまな仕し方かたで示しめしてくださっています。

2. 憐あわれみにはどんな面めんもありますか。

2 憐あわれみには別べつの面めんもあります。憐あわれみ深ぶかい人ひとは,ふさわしい理り由ゆうがある場ば合あいには罰ばつを与あたえないことにします。エホバはまさにこの面めんで私わたしたちに憐あわれみを示しめしてくださっています。「私わたしたちの罪つみに応おうじて私わたしたちを扱あつかうことはしなかった」と詩し編へん作さく者しゃは述のべています。(詩し 103:10)しかし,エホバは罪つみを犯おかした人ひとに強つよい矯きょう正せいを与あたえることもあります。

3. この記き事じではどんなことを考かんがえますか。

3 この記き事じでは,次つぎの3つの質しつ問もんについて考かんがえます。エホバが憐あわれみを示しめすのはなぜですか。強つよい矯きょう正せいを与あたえることと憐あわれみを示しめすことは両りょう立りつしますか。憐あわれみを示しめす上うえでどんなことが役やく立だちますか。聖せい書しょが何なんと述のべているかを調しらべてみましょう。

エホバが憐あわれみを示しめすのはなぜか

4. エホバが憐あわれみを示しめすのはなぜですか。

4 エホバは人ひと々びとを愛あいしている。使し徒とパウロは聖せいなる力ちからに導みちびかれて,神かみは「憐あわれみ深ぶかい」と書かきました。この文ぶん脈みゃくでは,神かみがご自じ分ぶんに仕つかえる不ふ完かん全ぜんな人ひとに天てんで生いきる希き望ぼうを与あたえることによって憐あわれみを示しめしている,ということが述のべられています。(エフェ 2:4-7)でも,エホバの憐あわれみは,それ以い外がいの人ひとたちにも示しめされています。詩し編へん作さく者しゃダビデはこう書かきました。「エホバは全すべてのものに対たいして善よいことを行おこなう。神かみの憐あわれみは全すべての行おこないにはっきりと表あらわれている」。(詩し 145:9)エホバは人ひと々びとを愛あいしているので,ふさわしい時ときにはいつでも憐あわれみを示しめします。

5. イエスは,エホバが憐あわれみ深ぶかい方かたであることをどのように知しりましたか。

5 イエスは,エホバがどれほど憐あわれみを示しめしたいと思おもっているかを,ほかの誰だれよりもよく知しっています。天てんでお父とうさんエホバと一いっ緒しょにいた時とき,人にん間げんの歴れき史しを何なん千ぜん年ねんにもわたって見みていました。(格かく 8:30,31)エホバが罪つみ深ぶかい人にん間げんに憐あわれみを示しめすのを幾いく度どとなく見みました。(詩し 78:37-42)それで,地ち上じょうで人ひと々びとを教おしえた際さい,エホバの憐あわれみについて何なん度ども語かたったのです。

父ちち親おやは,好すき放ほう題だいの生せい活かつをした息子むすこに冷つめたく接せっするのではなく,家いえに迎むかえ入いれた。(6節せつを参さん照しょう。)c

6. イエスは,お父とうさんエホバが憐あわれみ深ぶかい方かたであることをどのように教おしえましたか。

6 前まえの記き事じで考かんがえた通とおり,イエスはいなくなった息子むすこに関かんする心こころ温あたたまる例たとえ話ばなしによって,エホバがどれほど憐あわれみを示しめしたいと思おもっているかを教おしえました。この息子むすこは家いえを離はなれ,「好すき放ほう題だいの生せい活かつをして財ざい産さんを乱らん費ぴしました」。(ルカ 15:13)しかしその後ご,自じ分ぶんの不ふ道どう徳とくな生いき方かたを悔くい改あらため,謙けん遜そんになって家いえに戻もどりました。父ちち親おやはどんな反はん応のうを示しめしたでしょうか。それはすぐに明あきらかになりました。イエスはこう言いいました。「[息子むすこ]がまだ遠とおくにいる間あいだに,父ちち親おやは息子むすこを見みてかわいそうに思おもい,走はしっていって抱だき締しめ,優やさしく口くちづけしました」。父ちち親おやは息子むすこに冷つめたく接せっするのではなく,息子むすこを憐あわれみ深ぶかく許ゆるし,家か族ぞくの中なかに迎むかえ入いれました。この息子むすこは大おおきな罪つみを犯おかしましたが,父ちち親おやは息子むすこが悔くい改あらためているのを見みて許ゆるしました。この感かん動どう的てきな例たとえ話ばなしに出でてくる憐あわれみ深ぶかい父ちち親おやは,エホバを表あらわしています。こうしてイエスは,罪つみを犯おかしても心こころから悔くい改あらためる人ひとをお父とうさんエホバが許ゆるしたいと思おもっていることを示しめしました。(ルカ 15:17-24)

7. エホバの知ち恵えと憐あわれみにはどんな関かん係けいがありますか。

7 エホバは誰だれよりも豊ゆたかな知ち恵えを持もっている。エホバの知ち恵えは,温あたたかみのない知ち的てき能のう力りょくではありません。聖せい書しょでは,「天てんからの知ち恵え」と「憐あわれみと良よい実みに満みち」ることが結むすび付つけられています。(ヤコ 3:17)エホバは,愛あい情じょう深ぶかい親おやのように,憐あわれみを示しめすことが子こ供どもたちのためになるということを知しっています。(詩し 103:13。イザ 49:15)エホバの憐あわれみのおかげで,不ふ完かん全ぜんな人にん間げんも希き望ぼうを持もつことができます。エホバは無む限げんの知ち恵えを持もっているので,ふさわしい時ときにはいつでも憐あわれみを示しめしてくださるのです。同どう時じに,エホバは憐あわれみを示しめすべきでない時ときもご存ぞんじです。豊ゆたかな知ち恵えを持もっているエホバは,憐あわれみを示しめしても,罪つみを大おお目めに見みることは決けっしてありません。

8. 時ときにはどんな処しょ置ちが必ひつ要ようになりますか。なぜですか。

8 神かみに仕つかえる人ひとが,悪わるいと分わかっていながら重じゅう大だいな罪つみを犯おかした場ば合あいはどうでしょうか。パウロは聖せいなる力ちからに導みちびかれて,「そのような人ひととは接せっするのをやめなさい」と書かきました。(コリ一いち 5:11)罪つみを犯おかして悔くい改あらためない人ひとは,会かい衆しゅうから排はい斥せきされます。これは,忠ちゅう実じつな兄きょう弟だい姉し妹まいを守まもり,エホバの清きよさを反はん映えいするために必ひつ要ような処しょ置ちです。しかし,排はい斥せきを神かみの憐あわれみの表あらわれと見みるのを難むずかしく感かんじる人ひともいるかもしれません。では,実じっ際さいはどうなのでしょうか。考かんがえてみましょう。

強つよい矯きょう正せいを与あたえることは憐あわれみ深ぶかいことか

1人の羊飼いが,群れから隔離されている病気の羊の所に来ている。

病びょう気きになった羊ひつじは隔かく離りされるかもしれないが,羊ひつじ飼かいはそうした羊ひつじのことも引ひき続つづき世せ話わする。(9-11節せつを参さん照しょう。)

9-10. ヘブライ 12章しょう5,6節せつからすると,罪つみを犯おかして悔くい改あらためない人ひとを排はい斥せきすることが憐あわれみ深ぶかいことだと言いえるのはなぜですか。どんな例たとえで説せつ明めいできますか。

9 集しゅう会かいで,自じ分ぶんの家か族ぞくや友とも達だちについて,「エホバの証しょう人にんではなくなりました」という発はっ表ぴょうがあったなら,とても悲かなしい気き持もちになります。本ほん当とうに排はい斥せきが必ひつ要ようだったんだろうか,と思おもうかもしれません。誰だれかを排はい斥せきすることは,憐あわれみ深ぶかいことなのでしょうか。その通とおりです。矯きょう正せいが必ひつ要ような人ひとに矯きょう正せいを与あたえないことは,賢かしこいことでも憐あわれみ深ぶかいことでも愛あいのあることでもありません。(格かく 13:24)排はい斥せきは,罪つみを犯おかして悔くい改あらためない人ひとが生いき方かたを改あらためる助たすけになるでしょうか。なります。重じゅう大だいな罪つみを犯おかした人ひとの多おおくは,長ちょう老ろうたちの毅き然ぜんとした処しょ置ちのおかげで,本ほん心しんに立たち返かえり,生いき方かたを改あらためてエホバのもとに帰かえってくることができた,と感かんじています。(ヘブライ 12:5,6を読よむ。)

10 例たとえで考かんがえてみましょう。羊ひつじ飼かいが,群むれの羊ひつじの1匹ぴきが病びょう気きになっていることに気き付づきます。そして,この病びょう気きになった羊ひつじを群むれから隔かく離りしておく必ひつ要ようがあることを知しっています。羊ひつじは群むれで行こう動どうする習しゅう性せいがあるので,群むれから引ひき離はなされると落おち着つきを失うしなうかもしれません。では,羊ひつじを隔かく離りする羊ひつじ飼かいは厳きびしくて残ざん酷こくだ,ということになりますか。もちろん,そうではありません。羊ひつじ飼かいは,病びょう気きの羊ひつじを群むれと一いっ緒しょにしておくなら病びょう気きが広ひろまってしまうことが分わかっています。それで,病びょう気きの羊ひつじを隔かく離りすることによって,群むれ全ぜん体たいを守まもっているのです。(レビ記き 13:3,4と比ひ較かく。)

11. (ア)排はい斥せきされた人ひとと病びょう気きの羊ひつじは,どんな点てんが似にていますか。(イ)排はい斥せきされた人ひとはどんな助たすけを得えることができますか。

11 排はい斥せきされたクリスチャンは,この病びょう気きの羊ひつじに似にていると言いえるかもしれません。エホバとの絆きずながとても弱よわくなっているという意い味みで病びょう気きなのです。(ヤコ 5:14)この弱よわい状じょう態たいは,ある種しゅの病びょう気きと同おなじように,ほかの人ひとに“感かん染せんする”恐おそれがあります。それで時ときには,罪つみを犯おかした人ひとを会かい衆しゅうから排はい斥せきする必ひつ要ようがあります。この矯きょう正せいは会かい衆しゅうの忠ちゅう実じつな人ひとたちに対たいするエホバの愛あいの表あらわれです。また,罪つみを犯おかした人ひとの心こころを動うごかし,悔くい改あらためるよう促うながすものとなるかもしれません。排はい斥せきされている人ひとも,集しゅう会かいに出しゅっ席せきし,聖せい書しょからの教おしえを学まなんで再ふたたび信しん仰こうを強つよめることができます。自じ分ぶん用ように出しゅっ版ぱん物ぶつを受うけ取とることができますし,JW Broadcastingを見みることもできます。また,進しん歩ぽが見みられるようなら,長ちょう老ろうたちは時とき折おり,助じょ言げんや指し示じを個こ人じん的てきに与あたえることができるかもしれません。その人ひとがエホバとの関かん係けいを取とり戻もどし,エホバの証しょう人にんとして復ふっ帰きできるよう助たすけるためです。b

12. 罪つみを犯おかして悔くい改あらためない人ひとに対たいして,長ちょう老ろうたちは愛あいと憐あわれみに動うごかされてどんなことを行おこないますか。

12 罪つみを犯おかして悔くい改あらためない人ひとだけが排はい斥せきされる,ということを覚おぼえておくのは大たい切せつです。長ちょう老ろうたちは,排はい斥せきという決けっ定ていを下くだす前まえに,その件けんを慎しん重ちょうに考こう慮りょするべきであることをよく理り解かいしています。そして,エホバが「適てき度どに」矯きょう正せいする方かたであることも知しっています。(エレ 30:11)長ちょう老ろうたちは仲なか間まの兄きょう弟だいたち全ぜん員いんを愛あいしているので,兄きょう弟だいたちとエホバとの関かん係けいを壊こわすようなことは決けっしてしたくないと思おもっています。しかし時ときには,愛あいと憐あわれみを動どう機きとして,罪つみを犯おかした人ひとをある期き間かん,会かい衆しゅうから除のぞくことがあります。

13. コリントのあるクリスチャンが排はい斥せきされる必ひつ要ようがあったのはなぜですか。

13 1世せい紀きにおいて,罪つみを犯おかして悔くい改あらためない人ひとの件けんを使し徒とパウロがどのように扱あつかったかを考かんがえてみましょう。コリントのあるクリスチャンは,自じ分ぶんの父ちち親おやの妻つまと不ふ道どう徳とくな関かん係けいを持もっていました。本ほん当とうにひどい話はなしです。こうしたことに関かんして,エホバは古こ代だいのイスラエル人じんにこう述のべていました。「父ちちの妻つまと寝ねた男だん性せいは,父ちちに恥はじをかかせた。2人ふたりとも必かならず死し刑けいにされるべきである」。(レビ 20:11)もちろん,パウロはその男だん性せいを死し刑けいにするよう命めいじることはできませんでした。しかし,コリントのクリスチャンたちに対たいして,その人ひとを排はい斥せきするよう指し示じしました。この男だん性せいの不ふ道どう徳とくな行おこないは,会かい衆しゅうのほかの人ひとたちにも悪わるい影えい響きょうを与あたえていました。中なかには,この人ひとの重じゅう大だいな罪つみを大たいしたことではないと考かんがえる人ひとたちさえいたのです。(コリ一いち 5:1,2,13)

14. パウロはコリントの排はい斥せきされた人ひとに対たいして,どのように憐あわれみを示しめしましたか。なぜですか。(コリント第だい二に 2:5-8,11)

14 やがてパウロは,この男だん性せいが大おおきな変へん化かを遂とげたことを知しりました。心こころから悔くい改あらためたのです。この人ひとは会かい衆しゅうの評ひょう判ばんをひどく傷きずつけましたが,パウロは「和やわらげた言いい方かた」をし,厳きびしくなり過すぎないようにしたいと思おもっていることを長ちょう老ろうたちに示しめしました。それで,「優やさしく許ゆるして慰なぐさめる」よう指し示じしました。なぜでしょうか。「その人ひとがあまりの悲かなしみに打うちのめされてしまわないためです」。パウロは,この悔くい改あらためた男だん性せいのことをかわいそうに思おもいました。この男だん性せいが自じ分ぶんの行おこないのために悲かなしみに打うちのめされて,許ゆるしを求もとめるのを諦あきらめてしまうようなことを,決けっして望のぞんでいなかったのです。(コリント第だい二に 2:5-8,11を読よむ。)

15. 長ちょう老ろうたちは,毅き然ぜんとした行こう動どうを取とることと憐あわれみ深ぶかくあることをどのように両りょう立りつできますか。

15 長ちょう老ろうたちも,エホバのように憐あわれみを示しめしたいと思おもっています。必ひつ要ような時ときには毅き然ぜんとした行こう動どうを取とりますが,可か能のうな時ときにはいつでも憐あわれみを示しめします。罪つみを犯おかした人ひとを全まったく矯きょう正せいしないなら,憐あわれみを示しめすのではなく,罪つみを大おお目めに見みることになってしまいます。では,憐あわれみを示しめす必ひつ要ようがあるのは長ちょう老ろうたちだけでしょうか。

私わたしたち全すべてが憐あわれみを示しめす上うえで何なにが助たすけになるか

16. 格かく言げん 21章しょう13節せつによると,エホバは憐あわれみを示しめさない人ひとに対たいしてどんな態たい度どを取とりますか。

16 クリスチャンは皆みな,エホバの憐あわれみに倣ならいたいと思おもっています。なぜでしょうか。1つには,エホバはほかの人ひとに憐あわれみを示しめさない人ひとの声こえに耳みみを傾かたむけないからです。(格かく言げん 21:13を読よむ。)私わたしたちは誰だれも,エホバに祈いのりを聞きいてもらえなくなるようなことなど望のぞんでいません。ですから,憐あわれみが欠かけた態たい度どを注ちゅう意い深ぶかく避さけます。苦くるしんでいる仲なか間まのクリスチャンの声こえを無む視しするのではなく,「立たち場ばが低ひくい人ひとの叫さけび」にいつでも耳みみを傾かたむけるようにするべきです。また,次つぎの聖せい書しょのアドバイスを心こころに留とめます。「憐あわれみを示しめさない人ひとは,憐あわれみを示しめされることなく裁さばかれます」。(ヤコ 2:13)謙けん遜そんになって,自じ分ぶんにどれほど憐あわれみが必ひつ要ようかを覚おぼえておくなら,憐あわれみを示しめしたいという気き持もちが強つよくなるでしょう。罪つみを悔くい改あらためた人ひとが会かい衆しゅうに戻もどってきた時ときには特とくに,憐あわれみを示しめしたいと思おもいます。

17. ダビデ王おうは心こころからの憐あわれみをどのように示しめしましたか。

17 憐あわれみを示しめし,厳きびしい態たい度どを避さける上うえで,聖せい書しょ中ちゅうの例れいは助たすけになります。ダビデ王おうについて考かんがえてみましょう。ダビデは,さまざまな機き会かいに心こころからの憐あわれみを示しめしました。神かみに選えらばれたサウル王おうから命いのちを狙ねらわれましたが,憐あわれみを示しめし,決けっして仕し返かえししようとはしませんでした。(サム一いち 24:9-12,18,19)

18-19. ダビデが憐あわれみの欠かけた態たい度どを示しめしたどんな2つの例れいがありますか。

18 とはいえ,ダビデはいつでも憐あわれみを示しめせたわけではありません。例たとえば,思おもいやりのない人ひとであるナバルが敬けい意いの欠かけた話はなし方かたをし,ダビデと部ぶ下かたちに食たべ物ものを与あたえることを拒こばんだ時とき,ダビデは激げき怒どし,ナバルとナバルの家いえの男おとこたちを殺ころすことにしました。しかし,ナバルの辛しん抱ぼう強づよい妻つまアビガイルが素す早ばやく行こう動どうしたおかげで,ダビデは流りゅう血けつの罪つみを犯おかさずに済すみました。(サム一いち 25:9-22,32-35)

19 別べつの時とき,ダビデは,貧まずしい人ひとが大たい切せつにしていた羊ひつじを奪うばった裕ゆう福ふくな人ひとのことを預よ言げん者しゃナタンから聞きき,激げき怒どしてこう言いいました。「生いきている神かみエホバに懸かけて言いいます。そんな男おとこは死しに値あたいします!」(サム二に 12:1-6)ダビデはモーセの律りっ法ぽうを知しっていました。その律りっ法ぽうによれば,羊ひつじを盗ぬすんだ人ひとは4倍ばいにして償つぐなうことになっていました。(出しゅつ 22:1)ですから,その人ひとを死し刑けいにするというのは厳きびし過すぎることでした。ナタンはこの架か空くうの話はなしを使つかって,ダビデが犯おかした罪つみがはるかに重おもいものであることを示しめしました。ダビデは,ナタンの例たとえの中なかの羊ひつじを盗ぬすんだ人ひとに対たいして憐あわれみの欠かけた態たい度どを示しめしましたが,エホバはダビデに対たいしてはるかに憐あわれみ深ぶかい態たい度どを示しめしました。(サム二に 12:7-13)

ダビデ王おうはナタンの話はなしを聞きいた時とき,憐あわれみの欠かけた態たい度どを示しめした。(19-20節せつを参さん照しょう。)d

20. ダビデの例れいから何なにを学まなべますか。

20 ダビデは激はげしい怒いかりの気き持もちに負まけて,ナバルとナバルの家いえの男おとこたちを殺ころすことにしました。そして,ナタンの例たとえに出でてきた人ひとを死しに値あたいすると考かんがえました。この2つ目めの例れいに関かんして,普ふ段だんは優やさしい人ひとだったダビデがこのような厳きびしい態たい度どを取とったのはなぜだろう,と思おもうかもしれません。その時ときのダビデの心こころの状じょう態たいを考かんがえてみましょう。ダビデは良りょう心しんに痛いたみを感かんじていました。厳きびしく人ひとを裁さばく態たい度どはエホバとの関かん係けいが損そこなわれていることの証しょう拠こです。イエスは弟で子したちに次つぎのような強つよい警けい告こくを与あたえました。「裁さばくのをやめなさい。裁さばかれないためです。人ひとを裁さばいているのと同おなじ仕し方かたで,自じ分ぶんも裁さばかれ……ます」。(マタ 7:1,2)それで,厳きびしい態たい度どを避さけ,エホバに倣ならって「憐あわれみ深ぶかい」人ひとになるよう努ど力りょくしていきましょう。

21-22. どんな方ほう法ほうで憐あわれみを示しめすことができますか。

21 憐あわれみは単たんなる感かん情じょうではありません。憐あわれみ深ぶかい人ひとは,人ひとを助たすけるために行こう動どうします。それで,私わたしたちは皆みな,家か族ぞくや会かい衆しゅうの仲なか間まや周まわりの人ひとが何なにを必ひつ要ようとしているかに注ちゅう意い深ぶかくあるようにしましょう。憐あわれみを示しめす機き会かいはたくさんあります。慰なぐさめを必ひつ要ようとしている人ひとがいますか。食たべ物ものを届とどけてあげたり,助たすけになることをしてあげたりできそうな人ひとがいるでしょうか。復ふっ帰きしたクリスチャンが,励はげましてくれる良よい友とも達だちを必ひつ要ようとしているかもしれません。また,慰なぐさめとなる良よい知しらせを人ひと々びとに伝つたえることもできます。これは会あう人ひと全すべてに憐あわれみを示しめす,とても良よい方ほう法ほうです。(ヨブ 29:12,13。ロマ 10:14,15。ヤコ 1:27)

22 人ひと々びとのこうした必ひつ要ように目めざとくあるなら,憐あわれみを示しめす機き会かいが本ほん当とうにたくさんあることに気き付づくでしょう。私わたしたちが憐あわれみを示しめすなら,「憐あわれみ深ぶかい」神かみである天てんのお父とうさんエホバは,私わたしたちのことを大おおいに喜よろこんでくださるのです。

どのように答こたえますか

  • エホバが憐あわれみを示しめすのはなぜですか。

  • 強つよい矯きょう正せいを与あたえることが憐あわれみ深ぶかいことと言いえるのはなぜですか。

  • 憐あわれみを示しめす上うえで,何なにが助たすけになりますか。

43番ばんの歌うた 感かん謝しゃの祈いのり

a 憐あわれみは,エホバのとても魅み力りょく的てきな性せい質しつの1つです。そして,私わたしたち皆みなが身みに付つけるべきものです。この記き事じでは,エホバが憐あわれみを示しめすのはなぜか,エホバからの矯きょう正せいが憐あわれみ深ぶかいものと言いえるのはなぜか,また,どうすれば憐あわれみを示しめせるかを考かんがえます。

b 復ふっ帰きした人ひとが神かみとの関かん係けいを強つよめるために何なにができるか,また長ちょう老ろうたちはそうした人ひとを助たすけるために何なにができるかについては,この号ごうの「エホバとの友ゆう情じょうを再ふたたび築きずく」という記き事じを参さん照しょう。

c 写しゃ真しんや挿さし絵え: 屋おく上じょうにいた父ちち親おやが,いなくなっていた息子むすこが帰かえってきたことに気き付づき,走はしっていって抱だき締しめようとしている。

d 写しゃ真しんや挿さし絵え: 良りょう心しんに痛いたみを感かんじていたダビデ王おうはナタンの例たとえに過か剰じょうに反はん応のうし,怒おこって,羊ひつじを盗ぬすんだ裕ゆう福ふくな人ひとは死しに値あたいする,と言いった。

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