第10章
創造者が気づかっておられるなら,どうしてこれほど苦しみがあるのですか
あなたの時計が60秒を刻むごとに,30人余りの人が伝染性の病気で死に,11人がガンとの闘いに屈し,9人が心臓病で倒れます。ご承知のとおり,これらは人々を苦しめている数々の病気のうちの数例です。このほかの原因のために苦しみ,死んでゆく人たちも無数にいます。
1996年にニューヨーク市の国連ビルのロビーに置かれた時計は,貧困家族に一人の子供が生まれるごとに,そのことを表示する目盛りが一つ進みました ― 1分間に47人です。別の視点で述べると,地球が一回転するごとに,そこに住む人々の20%がおなかをすかせたまま床に就いています。加えて,それぞれの土地で起きる犯罪の数を挙げるとすれば,どういうことになるでしょうか。
直視すべき事実として,わたしたちを囲む今日の世界には,余りにも多くの苦しみがあります。
「だが,わたしたちの多くは,周囲のあらゆる不当な物事にいちいち心を動かされてはいない」。このように述べているのは,かつて警察官の職にあった人です。とはいえ,心を動かされないような気持ちでいられるのは,自分や自分の愛する人の命が関係していない間のことです。一例として,雅子の場合のことを考えてください。雅子は父親と母親の看病にあたりました。そのどちらもガンのために苦しんでいました。父母が共にやせ衰え,痛みにうめくのを見ながら,雅子はどうしようもない無力感に打ちひしがれました。あるいは,シャラダの抱いた絶望感を想像してください。父親によってわずか14(US)㌦で身売りされた時,このアジアの少女はまだ9歳でした。自分の村から見知らぬ都会に連れて来られ,一日に6人もの男たちの性の相手をさせられました。
どうしてこうした苦しみがあふれているのでしょうか。また,なぜ創造者はそれをとどめないのでしょうか。このような苦しみを見て神に背を向けてしまう人たちが多くいます。前述の元警察官は,自分の母親を精神病質者の暴虐のために失いました。この人は自分の感じたとおりを言い表わして,「宇宙を支配する,主権者なる愛の神といった概念が,この時ほど遠くへ行ってしまったことはなかった」と述べています。あなたも,『どうして』と疑問に思われることがあるでしょう。そうです,どうしてそのような苦しみが存在するのでしょうか。どこに原因があるのでしょうか。創造者はそのことに関心を払っておられるでしょうか。
苦しみの原因は前世にありますか
人の苦しみはその人の過去に起因していると信じている人たちが世界中に非常に多くいます。現在の苦しみは過去の人生で行なった事柄に対する処罰である,というのです。「人間の苦悩は我々が業(カルマ)に縛られていることによる。我々すべては生まれ出た時から過去の業のゆえに非常な重荷を負っている」。a これは鈴木大拙の述べたものです。この哲学者は禅を西欧社会に広めました。ヒンズー教の哲人たちも,人間の苦しみの理由を模索して,「カルマの法則」を考え出しました。しかし,苦しみについてのこうした説明は道理にかなっているでしょうか。真に満足のゆくものでしょうか。
仏教徒のある女性はこう語りました。「ただ宿命と見ていましたが,自分の何も知らないことで生まれながらに苦しみを受けるのは筋の通らないことに思えました」。この女性にとって,苦しみについてのこうした説明は納得のゆくものではありませんでした。あなたもそのように思われることでしょう。生まれ変わりの思想はあなたの土地ではそれほど普通ではないかもしれませんが,その根底にあるものは,キリスト教世界も含めあらゆる土地に広く見られる教え,つまり人間には肉体の死後に生き続ける不滅の魂があるという教えです。この「魂」が,現在の人生でも死後の生命においても,人の苦しみとかかわっているとされています。
こうした思想が広く見られますが,どんな根拠に基づいてそれを真実なものとすることができるでしょうか。このような重要な問題については,人間の創造者の述べる事柄を導きとするほうが賢明ではないでしょうか。人の思想や強い信念でも誤っている場合があります。しかし,すでに見たとおり,神の述べることは信頼できます。
前の章で学んだ点ですが,最初の人間の二親の罪は,人間に究極の悲劇とも言うべき死をもたらしました。創造者はアダムに,「[不従順になる,あるいは罪をおかす]日にあなたは必ず死ぬ」と警告しておられました。(創世記 2:17; 3:19)神は,アダムに不滅の魂があるというようなことは何も言われませんでした。アダムは人間そのものでした。聖書の用語で言えば,アダムは魂であったという意味です。ですから,アダムが死んだ時,アダムと名づけられた魂そのものが死にました。そのあと彼は,意識も苦しみもなくなりました。
人間の創造者は,業(カルマ),生まれ変わり,また不滅の魂が来世で苦しむというような教えを広めてはおらず,それを認めてもおられません。わたしたちは,アダムの罪がどのような結果をもたらしたかを認識することによって,今日苦しみが存在している理由について理解を深めることができます。
苦しみの理由はどこにあるか
人間の経験する苦悩の全貌を知ろうとするのは容易ではありませんが,良い道具を用いればそれができます。双眼鏡を使えば遠くの物体がずっとはっきり見えるのと同じように,聖書に照らして見ると,苦しみの真の原因を見きわめることができます。
一つの点として,聖書は,「時と予見しえない出来事」がすべての人に臨み得ることに注意を促しています。(伝道の書 9:11)例えばイエスも,ある塔が倒れて18人が死んだという,その時代のニュースに言及したことがあります。イエスは,そこで犠牲になった人たちが他の人々以上の罪人であったわけではないことを明瞭にされました。(ルカ 13:1-5)その人々が苦しみに遭ったのは,たまたま悪い時間に悪い場所にいたためでした。しかし聖書は,このほかにも多くの事柄を述べており,苦しみの根本原因について満足のゆく情報を与えています。どんな情報でしょうか。
最初の人間が罪をおかした後,審判者たる神エホバは,その二人が生き続ける権利を全く喪失したと裁断されました。その後,実際に死ぬまでの間に,アダムとエバは少なからぬ苦しみに直面しました。それは,自ら招いた苦しみ,つまり老化と病気から来るもの,暮らしてゆくための苦闘,ねたみや暴力によって家族が打ち砕かれるのを見る悲哀などでした。(創世記 3:16-19; 4:1-12)このような苦しみすべての責めがまずどこにあったのかを銘記しておくことが大切です。それをもたらしたのはその両人自身でした。とはいえ,苦しみが今日この時代にまで続いている理由については,どのように理解できるでしょうか。
自分が罪人とみなされることには異議を唱える人が多いでしょう。しかし,聖書は正しい視点で事実を見て,こう述べています。「一人の人を通して罪が世に入り,罪を通して死が入り,こうして死が,すべての人が罪をおかしたがゆえにすべての人に広がった」。(ローマ 5:12)最初の人間夫婦は害となる自らの歩みの結末を刈り取りましたが,その影響は子孫にも及びました。(ガラテア 6:7)子孫は不完全さを受け継ぎ,それは人を死へ至らせるものとなりました。ある方たちにこの点を理解しやすくする科学的な例として,今日でも子供が親から病気や障害を受け継ぐ場合を考えることができます。血友病,サラセミア(地中海貧血),冠状動脈の疾患,ある種の糖尿病,そして時には乳ガンなどに関してそのようなことがあります。子供自身に非はなくても,受け継いだものの結果として苦しみを抱えます。
わたしたちの遺伝上の先祖であるアダムとエバは,人間を支配するエホバの方法を退けることを選びました。b 人間が地球を支配しようとしてあらゆる統治形態を試みてきたことを,あなたも歴史から知っておられるでしょう。こうした面で力を尽くした男女の中には,善良な意図で行動した人々もいます。ですが,人間の自己統治の結果をどのように評価されるでしょうか。人間の苦しみの多くは取り除かれてきましたか。とてもそうは言えません。むしろ逆に,さまざまな政策,また国家間の戦争は,苦しみを増大させてきました。3,000年ほど前,ひとりの賢い支配者は,「人が人を支配してこれに害を及ぼした」と述べました。―伝道の書 8:9。
今日では状況が大いに異なり,ずっと良くなっているとご覧になりますか。大半の方が,いいえ,と答えるでしょう。受け継いだ罪と不完全さだけでなく,自分や他の人の行なった事柄のためにも苦しみを抱える人々が,子供も含めて数多くいます。人間による地球管理の不手際についても考えてください。それはおおむね,貪欲さに起因しています。人間は,汚染を引き起こし,貧困を生み出し,飢餓や流行病を増大させた罪科も負っています。自然の災害を神の業と呼ぶ人が多くいますが,その中には,人間が作り出したものもあります。しかし今,苦しみの大きな原因となっているもので,多くの場合見落とされているものがもう一つあります。
苦しみの背後に存在する者
聖書の中の一つの書は,苦しみの主要な原因は何か,気づかいを示される創造者がそれを許してこられたのはなぜかという点に関してとりわけ啓発的です。その書,つまりヨブ記は,苦しみの問題についてぼやけた所をはっきり見させてくれるのです。見えない領域の物事に対する明察を与えてそれを行なっています。問題の核心となる事柄がそこで起きました。
およそ3,500年前,モーセが聖書の最初の数冊の書を記すより少し前のころ,ヨブという人が今日のアラビアの地域に住んでいました。記録によると,ヨブは廉直で,温情に富み,大いに尊敬される人物でした。家畜のかたちで非常に大きな資産を有し,「すべての東洋人のうちで最も大いなる者」とさえ言われていました。私的な面を見ても,ヨブは家族に恵まれていました。妻と,7人の息子と,3人の娘がいました。(ヨブ 1:1-3; 29:7-9,12-16)ところがある日,使者が走って来て,ヨブの持つ,値打ちの高い畜類の一部が,襲ってきた略奪隊に奪われたことを伝えました。そのすぐ後に別の者が来て,ヨブの羊の群れが失われてしまったことを伝えました。その後,カルデア人たちがヨブのらくだ3,000頭を奪い,わずか一人を除いて従者を皆殺しにして行きました。さらにその後に,最悪の知らせが来ました。とてつもない大風が吹いてヨブの長子の家をつぶし,そこに集まっていたヨブの子供たち全員が死にました。これほどの苦しみに直面したヨブは,神をとがめるでしょうか。あなたでしたら,どのように感じるでしょうか。―ヨブ 1:13-19。
しかし,災いはこれで終わりではありませんでした。ヨブは恐ろしい病気に苦しめられ,体じゅうに悪性の腫れ物ができました。c それがあまりに重く,あまりにいとわしく見えたので,妻は神を責め,「神をのろって死になさい!」とまで言いました。ヨブは,なぜ自分がそのような苦難に遭っているかを知りませんでしたが,それを神のせいにして,神をとがめたりはしませんでした。「このすべてのことにおいてヨブはその唇をもって罪をおかさなかった」と記されています。―ヨブ 2:6-10。
ヨブの苦悩を聞き及んで,3人の知人が訪ねて来ました。「どこに廉直な人でぬぐい去られた者があるか」とエリパズは言います。こうなったのはヨブがよこしまな行動をしたためであろう,と決め込んだのです。(ヨブ 4,5章)エリパズは,ヨブには隠れた罪があり,困窮している者にパンを与えず,やもめや孤児を虐げたとも言いました。(ヨブ 15,22章)他の二人のまやかしの慰め手たちも,その苦しみはヨブ自身のせいであると言わんばかりに責め立てました。その3人は正しかったでしょうか。決してそうではありません。
ヨブ記は,ヨブの遭遇した苦しみの根本原因が何か,なぜ神がそれを許されたのかを理解させてくれます。1章と2章は,この事の起きる少し前に目に見えない天の霊の領域で起きた事柄を明らかにしています。反逆した霊者サタンdは,他の霊たちと一緒に神の前に集まっていました。ヨブのとがめのない歩みのことが述べられると,サタンは反論してこう言いました。「ヨブはただいたずらに神を恐れたのでしょうか。……逆に,どうか,あなたの手を出して,彼の持っているすべてのものに触れて,果たして彼が,それもあなたの顔に向かってあなたをのろわないかどうかを見てください」― ヨブ 1:9-12。
言い換えると,サタンは,神がヨブを買収していると非難したのです。この挑発的な霊の生き物は,富や健康をはぎ取られればヨブはエホバをのろうだろうと唱えました。拡張して言うと,苦しみに遭えば人間はだれも神への愛や忠節を守らないと,サタンは主張していたのです。この挑戦には,広範にわたる,そして長期に及ぶ影響がありました。サタンが持ち出した論争点は解決される必要がありました。神は,ヨブに敵して行動する自由をサタンに与え,サタンは前述のとおりさまざまな苦しみをこの人にもたらしました。
推察できることですが,ヨブは天で提出された全宇宙的な論争については知らず,また知ることができませんでした。しかもサタンは,ヨブに臨んだ災いはすべて神が起こしていると思わせるように仕組みました。例えば,稲妻がヨブの羊の群れを打った時,生き残った従者はそれを「神の火」と思い込みました。ヨブはどうしてそうした事柄が生じていたかを知りませんでしたが,それでもエホバ神をのろったり,否んだりはしませんでした。―ヨブ 1:16,19,21。
ヨブの経験した事柄の背後の事情を分析してみると,論争点が見えてくるでしょう。つまり,人間はたとえ苦難があろうとも愛の動機でエホバに仕えるだろうか,という点が問われています。ヨブはそれに答えた人の一人です。神に対する真の愛だけがエホバへの忠実を守るよう人を動かしたはずであり,ヨブの場合がそうでした。真実にもとるサタンの訴えに対する何という反証だったのでしょう。しかしこの件は,昔のヨブをもって始まり,また終わったのではありません。それはその後の世紀にも及び,わたしたちもかかわっているのです。
どんな原因によるにせよ,多くの人は苦しみを見て,あるいはそれに直面してどのように反応しているでしょうか。人々はヨブの時代に提起された論争点を知らず,サタンの存在さえ信じていないかもしれません。そのために,創造者がおられることを疑ったり,苦しみを創造者のせいにしたりします。あなたはそのことをどのように思われますか。創造者についてすでに知っておられる事柄に基づいて,聖書の筆者ヤコブの次の言葉に同意されるのではないでしょうか。苦しみがあっても,ヤコブはこの確信を抱いていました。「試練に遭うとき,だれも,『わたしは神から試練を受けている』と言ってはなりません。悪い事柄で神が試練に遭うということはありえませんし,そのようにしてご自身がだれかに試練を与えることもないからです」― ヤコブ 1:13。
わたしたちには,賢明な見方をするための貴重な助けがあります。それは,イエスの場合を思い見ることです。広く知られていることとして,イエスは洞察力,知識,教師としての能力の点で高く評価されています。イエスは,サタンに関して,また苦しみという点でどのような所に立っていましたか。イエスは,悪魔サタンが存在すること,しかも苦しみを引き起こす力を有していることをはっきり知っていました。ヨブの忠誠を砕こうとしたサタンは,イエスに対しても同じことを公然と企てました。この事は,サタンが現実の存在である証拠であり,またヨブの時代に提出された挑戦がずっと継続していたことを示しています。ヨブと同じく,イエスも創造者に対する忠実を実証しました。そのために,富と権能を進んで後にし,苦しみの杭の上での肉体の苦しみと死をいといませんでした。イエスの事例は,難境のもとで忠節を証明する機会を神がなおも人に与えておられたことを示しています。―ルカ 4:1-13; 8:27-34; 11:14-22。ヨハネ 19:1-30。
時の経過 ― もっともな理由がある
苦しみについて理解するには,事の偶然性,人間の持つ罪の傾向,人間による地球管理の不手際に加えて,悪魔サタンがその原因となっていることも認めなければなりません。しかし,苦しみの背後に何があるかを知っているだけでは足りません。苦悩を抱えていると,人はとかく,古代の預言者ハバククと同じような気持ちになりやすいものです。ハバククはこう述べました。「エホバよ,いつまでわたしは助けを叫び求めなければならないのですか。そしてあなたは聞いてくださらないのですか。いつまでわたしは暴虐からの救助を呼び求め,そしてあなたは救ってくださらないのですか。有害な事柄をわたしに見させ,あなたが難儀をただ見ておられるのはどうしてですか。またなぜ奪い取ることや暴虐がわたしの前にあり,なぜ言い争いが起こり,なぜ抗争が続いているのですか」。(ハバクク 1:2,3)そうです,なぜエホバは『難儀をただ見ていて』,行動してはおられないように見えるのですか。エホバは全能者として,苦しみを終わらせるに必要な力,また公正に対する愛を持っておられます。では,いつそのことを行なわれるのでしょうか。
すでに述べたとおり,最初の人間夫婦が全面的な独立の道を選んだ時,創造者は,その子孫の中にはそれとは異なる歩みをする者のいることを確信しておられました。エホバは賢明にも,時の経過を許されました。これはなぜでしたか。創造者から離れた支配というものがただ不幸に至ること,また逆に,創造者に調和して生きるのが正しいことで,幸福をもたらすことを実証させるためでした。
しかしその間にも神は,地球の環境をほどよく心地よいものに維持してこられました。使徒パウロは筋道を立ててこのように述べています。「過去の世代において,神は諸国民すべてが自分の道を進むのを許されました。とはいえ,ご自分は善いことを行なって,あなた方に天からの雨と実りの季節を与え,食物と楽しさとをもってあなた方の心を存分に満たされたのですから,決してご自身を証しのないままにしておかれたわけではありません」。(使徒 14:16,17)ここでも明瞭なとおり,創造者が苦しみをもたらされることはありません。最高度の重要性を持つ論争点の解決のために,ただそれを許容してこられたのです。
安らぎはいつ訪れるか
実際のところ,人間の苦悩がいま増大しつつある事実そのものは,それの終わる時が近いことを示しています。どうしてそう言えるのでしょうか。聖書は,ヨブの時代に見えない天で起きた事柄を明らかにしましたが,再度,わたしたちの時代に関しても,それを行なっています。その最後の書である「啓示」(黙示録)は,天で生じた闘いに焦点を当てています。それはどんな結果になりましたか。サタンは配下の悪霊の大集団と共に「地に投げ落とされ」ました。啓示の書はさらにこう続けています。「このゆえに,天と天に住む者よ,喜べ! 地と海にとっては災いである。悪魔が,自分の時の短いことを知り,大きな怒りを抱いてあなた方のところに下ったからである」。―啓示 12:7-12。
聖書預言の詳細な考察は,上述の出来事が起きたのは今世紀であったことを指し示しています。お気づきかもしれませんが,名の通った歴史家たちは,1914年が歴史の大きな転換点となったことを認めています。それは,第一次世界大戦の始まった年でした。e 以来,苦難と災いは増大してきました。親しい弟子たちから「[イエス]の臨在と事物の体制の終結のしるし」について質問を受けた時に,イエスが指摘したのもこの期間のことでした。イエスはこう語りました。「国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がるでしょう。そして,大きな地震があり,そこからここへと疫病や食糧不足があります。また,恐ろしい光景や天からの大いなるしるしがあるでしょう」。(マタイ 24:3-14。ルカ 21:5-19)大きな苦難を暗示したこれらの言葉は,いま歴史上初めて全面的な成就を見ています。
聖書はこうした事柄を,「世の初めから今に至るまで起きたことがなく,いいえ,二度と起きないような大患難」の序幕としています。(マタイ 24:21)それは,人間世界の物事に対する神の側からの決定的な介入となります。神は,幾時代にもわたって苦しみを生じさせてきた,この邪悪な事物の体制を終わらせるために行動されます。しかしそれは,核による大破壊で人類が滅びるような“世の終わり”ではありません。神の言葉は,生き残る人々のいることを保証しています。「すべての国民と部族と民と国語の中から来た……大群衆」が,生きてその患難から出て来ます。―啓示 7:9-15。
全体像をまとめるため,その後のことについて聖書がどのように述べているかを考えてください。人間の住まいとして当初意図された庭園のような環境が回復されます。(ルカ 23:43)そこにホームレスの人たちはいません。イザヤはこう書きました。「『彼らは必ず家を建てて住み,必ずぶどう園を設けてその実を食べる。……わたしの民の日数は木の日数のようになり,わたしの選ぶ者たちは自分の手の業を存分に用いるからである。彼らはいたずらに労することなく,騒乱のために産み出すこともない。彼らはエホバの祝福された者たちからなる子孫であり,彼らと共にいるその末孫もそうだからである。……おおかみと子羊が一つになって食べ,ライオンは雄牛のようにわらを食べる。……これらはわたしの聖なる山のどこにおいても,害することも損なうこともしない』と,エホバは言われた」― イザヤ 65:21-25。
個人的に経験する苦しみについてはどうでしょうか。戦争,暴力,犯罪はなくなります。(詩編 46:8,9。箴言 2:22。イザヤ 2:4)人間の造り主,また命の与え主である方は,従順な人々がみなぎる健康を得て,それを謳歌できるように助けます。(イザヤ 25:8; 33:24)もはや飢餓はありません。地球は生態系の均衡を回復して,満ちあふれるほどに産出するようになるからです。(詩編 72:16)事実,わたしたちにとって今日苦しみのもととなっているものはすべて過去のものとなります。―イザヤ 14:7。
これはまさしく最善のニュースと言うべきものです。しかし,言わば黒雲のような気がかりな点がまだ二つあると言われる方がおられるかもしれません。そうした祝福があるとしても,70年か80年そこそこで死を予期しなければならないとしたら,喜びはそがれてしまうことでしょう。そして,創造者が人間の苦しみを終わらせる以前に亡くなった自分の愛する者たちについて,人は悲しみをぬぐいきれないのではないでしょうか。どんな答えがありますか。
最悪の苦しみを解消して元のとおりにする
創造者はその解決策を持っておられます。宇宙と,この地上に住む人間の生命の造り主として,人間の能力以上の事,また人間がようやく可能性に気づき始めた所をはるかに超えた事柄を行なうことがおできになります。その点の例を二つだけ考えてください。
わたしたちには,限りなく生きつづける潜在力があります。
聖書は,神から永遠の命を与えられる見込みをはっきりと差し伸べています。(ヨハネ 3:16; 17:3)人体の細胞内の遺伝子を研究したマイケル・フォッセル博士は,男性の生殖細胞の質は年齢によって劣化しないとして,こう報告しています。「我々がすでに持っている遺伝子は,その情報が適正に発現されるならば,我々の細胞を維持して老化を来たさないようにすることができる」。これは,本書の4章で見た事柄とも一致しています。つまり,人間の脳には,現在の寿命ではほとんど手をつけることさえないほどの収容能力があることです。それは,どこまでも限りなく機能するよう設計されているかに見えます。もとよりこれらは付随的な点であり,聖書がはっきり述べている事柄,つまり,エホバはわたしたちが苦しみを持たずに永久に生きるのを可能にされる,ということを補足しているにすぎません。聖書の最後の書の中でどのような約束がなされているかに注目してください。「神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死はなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない」― 啓示 21:4。
創造者は苦しみを経験して死んだ人を助けることができる ― その人を生き返らせ,復活させる。
ラザロは復活を経験した人の一人です。(ヨハネ 11:17-45。本書の158-160ページをご覧ください。)ドナルド・マッケイ教授は,コンピューターのファイルを例にして説明しています。コンピューターを破壊しても,それによって数式やそれに基づくプロセスが永久に失われてしまうとは限りません。「数学者がそう望むなら」,同じ数式やプロセスを新しいコンピューターに入れ直して機能させることができます。マッケイ教授はこう続けています。「機械論的脳神経科学も,[聖書]に表明された,『復活』という特色に重きを置くとこしえの命の希望に対して,ほとんど異論を提起しないように思える」。人間が死ぬ場合,創造者は後にその人を生き返らせることができます。イエスをよみがえらせ,イエスがラザロをよみがえらせたのと同様です。人が死んでも,「創造者がそう願うなら」,その人が新たな体で生命を回復するのを妨げるものはない,というのがマッケイの結論です。
そうです,究極の解決は創造者にかかっています。この方だけが,苦しみをことごとく除き去り,罪の影響を逆転させ,死を解消して物事を元どおりにすることがおできになります。イエス・キリストは,こうしたきわめて目ざましい展開について弟子たちに告げました。それはなおわたしたちの前途にある事柄です。イエスはこう語りました。「記念の墓の中にいる者がみな,彼の声を聞いて出て来る時が来ようとしている」― ヨハネ 5:28,29。
考えてください! 宇宙の主権支配者は,ご自身の記憶にある人々を生命によみがえらせようとし,しかもそのことがおできになるのです。その人々には,「真の命」を受けるにふさわしいことを実証する機会が与えられるでしょう。―テモテ第一 6:19。使徒 24:15。
ではわたしたちは,人間の抱える苦しみからの全面的な解放を待つ間の今,何かを行なうように求められているでしょうか。もしそうであれば,それはわたしたちの今日の生活の意義をさらに深めるものでしょうか。その点を考えましょう。
[脚注]
a 業とは,「個人の過去の行為の影響がその人の未来の人生もしくは輪廻(りんね)に及ぶこと」とされています。
b 創世記 2章17節は,善悪の知識の木から食べてはならないという,アダムに対する神の命令の言葉です。「新エルサレム聖書」(The New Jerusalem Bible, 1985年)はこの箇所の脚注で,ここでの知識が何を指すかを次のように注釈しています。「それは,何が善で何が悪であるかを自分で決定して,それに応じて行動する権限,倫理面での全面的な独立を唱えて,創造された者という自分の立場を否認することである。イザ[ヤ] 5:20を参照。最初の罪は,神の主権に対する反抗であった」。
c 他の章句は,ヨブの苦しみがどのようなものであったかをさらに伝えています。ヨブの肉体はうじに覆われ,皮膚にはかさぶたができ,息さえ忌み嫌われるまでになりました。ヨブは痛みにさいなまれ,黒ずんだ皮膚ははがれ落ちました。―ヨブ 7:5; 19:17; 30:17,30。
d 本書のこれ以前の章,「創造者について一つの書物からどんなことを学べますか」の中で,アダムとエバの罪に関連して悪魔サタンがどんな役を果たしたかを取り上げました。
e この預言の詳細については,エホバの証人の発行した「聖書は実際に何を教えていますか」という本の第9章をご覧ください。
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不滅の魂はない
聖書は,人ひとりひとりが人間の魂であると教えています。人が死ぬ時,その魂が死ぬのです。エゼキエル 18章4節は,「罪を犯している魂 ― それが死ぬ」と述べています。死んだ人は意識がなく,どこかで生きているということはありません。ソロモンはこう書きました。「死んだ者には何の意識もな(い)」。(伝道の書 9:5,10)ユダヤ教徒も最初期のクリスチャンも,元々は,魂が不滅であるとは教えていませんでした。
「旧約[聖書]の中で,魂とは人間のどこかの部分ではなく,その人間全体,生きた存在者としての人そのものである。同様に新約[聖書]でも,それは人間の命を表わしている。……聖書は,非物質の魂が生き続けるとは述べていない」― 新カトリック百科事典(New Catholic Encyclopedia)。
「魂の不滅の思想と,死者の復活に対する信仰とは……二つの全く別々の平面上にある概念である」―「死後のこと: 不滅か,復活か」(Dopo la morte: immortalità o resurrezione?),神学者フィリップ・H・ムヌー。
「人間は全体として罪人であり,それゆえに人が死ぬ時には体も魂も完全に死ぬ(全面的な死)。……死と復活との間には隔たりがある」― ルーテル教義問答,「成人のための福音伝道教理問答書」(Evangelischer Erwachsenenkatechismus)。
[175ページの囲み記事]
それほど長い時間でしたか
ヨブの時代からイエスの時代までのおよそ1,600年間は,苦しみが続くには長大な時間であったように思えるかもしれません。人間にとって,苦しみが終わるのを100年待つのはとても長く見えることでしょう。しかし,サタンが持ち出した由々しい論争は創造者を誹謗するものであったことを認めなければなりません。その後に悪と苦しみを容認してこられたことは,神の見方からすると短い期間でした。「とこしえの王」である神にとっては,「千年もまるで過ぎ去った昨日のよう」です。(テモテ第一 1:17。詩編 90:4)そして,永続する命を授けられる人にとっても,苦しみの存在した歴史のこの期間は,ごく短いものと思えることでしょう。
[178ページの囲み記事]
歴史の転換点
「現在の有利な見地から振り返ると,今日我々は,第一次世界大戦のぼっ発が,英国の歴史家アーノルド・トインビーによって意味深長に表現された20世紀の“苦悩の時代”を招来するものとなったことがはっきり分かる。我々の文明はそのような時代からまだ抜け出してはいない」―「諸王朝の没落」(The Fall of the Dynasties),エドモンド・テーラー。
「真に我々の時代の転換点となったのは,広島ではなく,むしろ1914年であった。今になってよく分かるが,……混乱と変化の時代を招来したものは第一次世界大戦であり,我々は依然その中でもがいている」― ルネ・アルブレヒト-カリエー博士,バーナード・カレッジ。
「1914年に世界は結合力を失い,以来それを取り戻せていない。……これは,国の境界を越えた所でもその内側でも,異常なほどの無秩序と暴力の時代となってきた」― エコノミスト誌(The Economist)。
[181ページの囲み記事]
個人の復活は可能か
神経学者リチャード・M・レスタクは,人間の脳とニューロンについてこう述べました。「我々の持つ500億の神経細胞内に形成されてきた連接網や回路を見て,それを解読できる人がいれば,我々がどのような人間で,何を行なってきたかはすべて読み取れるはずである」。そうであれば,わたしたちの愛ある創造者は,手持ちの情報を用いて個人個人を再構築できるのではないでしょうか。
[182ページの囲み記事]
あなたの神経接合の数は数えられている
イエスは,「あなた方の頭の毛までがすべて数えられている」と述べました。(マタイ 10:29-31)あなたの頭の中にある灰白質のものについてはどうでしょうか。脳細胞(ニューロンとも呼ばれる)はきわめて小さく,強力な顕微鏡でしか見ることができません。ニューロンだけでなく,それよりさらに小さな相互接合部(シナプス)の数を数えることを想像してみてください。ある種のニューロンの場合,その数は25万にも及びます。
ピーター・ハッテンロヘル博士は,強力な電子顕微鏡を用いて,解剖死体のニューロン接合数の計算を手がけました。胎児,死亡した幼児,老人についてこれを行ないました。それぞれ針の先ほどの大きさでしたが,驚くことに,どの検体にもほぼ同数,約7万個のニューロンがありました。
次いでハッテンロヘル博士は,そのように微小な検体内のニューロンつまり脳細胞の接合部を数えてみました。胎児のニューロンには1億2,400万の接合があり,新生児の場合は2億5,300万,生後8か月の幼児については5億7,200万でした。ハッテンロヘル博士は,これ以後,子供の成長につれてこの数が漸減することを知りました。
こうした発見には,聖書が復活について述べている事柄から見て興味深いものがあります。(ヨハネ 5:28,29)成人の場合,脳の全体には10億を100万倍した数のニューロン接合があります。これは1のあとにゼロを15個つけた数です。創造者は,こうした接合の数を数えるだけでなく,それを再構成する能力も持っておられるでしょうか。
ワールドブック百科事典(The World Book Encyclopedia)は,宇宙にある星の数を10億の2,000億倍,つまり2の後にゼロを20個つけた数としています。創造者はこうした星のすべてをそれぞれの名前で知っておられます。(イザヤ 40:26)ですから,ご自分が復活させようとする人たちの記憶や感情を織り成すニューロンの接合具合を思い起こして,それを再構成することはまさにその方の能力のうちにあります。
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誕生から死に至るカルマの循環を信じている人は多い
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ロシア皇帝ニコライ2世とアレクサンドラの子アレクシスは血友病を受け継いでいた。わたしたちも父祖アダムから不完全さを受け継いでいる
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苦しみを許容している間も,創造者は人間のために多くの喜びを備えてくださった