ペルシャ,ペルシャ人
(ペルシャ,ペルシャじん)(Persia,Persians)
聖書中でも世俗の歴史の中でも,必ずメディア人と関連づけて言及される国および民族。メディア人とペルシャ人は古代アーリア語族(インド・イラン語派)に属する,互いに関連のある民族だったようです。そのことからすると,ペルシャ人はヤペテの子孫であり,恐らく,メディア人の共通の先祖であるマダイを通して出たものと考えられます。(創 10:2)ある碑文によると,ダリウス大王は自分のことを,「ペルシャ人,ペルシャ人の子,アーリア人の血をひくアーリア人」と呼んでいます。―「ペルシャ帝国の歴史」,A・オルムステッド著,1948年,123ページ。
シャルマネセル3世(イスラエルのエヒウと同時代の人と思われる)の時代について述べるアッシリアの碑文には,メディアに侵入したことと,「パルスア」の王たちから貢ぎ物を受け取ったことが記されています。「パルスア」とは,ウルミア湖の西,アッシリアとの境界に位置していたと思われる地域です。多くの学者たちは「パルスア」を,当時のペルシャ人の地に当てはめられた名前と考えていますが,この名をパルチア人と関連づけようとする人たちもいます。それはともかく,後代の碑文によると,ペルシャ人はそれよりもかなり南の位置に置かれており,現代で言えば今のイランにあるファールス州に相当する所,エラムの南東の「パールサ」に配置されています。エラムに隣接する地域もしくは都市で,かつてはエラムの領土内にあったアンシャンも,ペルシャ人によって占拠されました。
ですから,ペルシャ人はその初期の歴史において,広大なイラン高原の南西部だけを保有し,北西はエラムとメディア,北はパルチア,東はカルマニア,南と南西はペルシャ湾をその境界としていたようです。ペルシャ湾沿岸の暑くて湿気の多い地域を除くと,その国土はおもに,岩の多いザグロス山脈の南部から成っていましたが,ザグロス山脈は十分に植林された山腹を持つ,長くて非常に肥沃な幾つかの谷によって仕切られていました。谷の気候は穏やかですが,高原地帯の乾燥した風の強い土地は,冬の月々,厳しい寒さに見舞われます。ペルシャ人もメディア人と同様,必要な農耕に加えて,牧畜も多く行なったようです。そのためペルシャのダリウス大王は自分の故国を,「美しく,馬と人の豊かな」ところと,誇らしげに描写しました。―ブリタニカ百科事典,1959年,第17巻,603ページ。
最初は幾分質素で,しばしば放浪の生活を送ったペルシャ人も,帝国が存続していた間,ぜいたく品とぜいたくな環境に対する並々ならぬ愛着を示しました。(エス 1:3-7と比較。また,エス 8:15にある,モルデカイに与えられた衣服と比較。)ペルセポリスにある彫刻には,足首まで届くゆるやかな長い衣を身に着け,腰を帯で締め,結び目が低い位置にある靴をはいているペルシャ人の姿が描かれています。それとは対照的にメディア人のほうは,膝のあたりまで来る,ぴったりした長袖の上着を着ているのが分かります。(第2巻,328ページの写真)ペルシャ人もメディア人もズボンを使用したようです。鉄の小札鎧の上にズボンと袖付きのチュニック(上着の一種)を着たペルシャ人の兵士の姿が描かれています。彼らは熟練した騎手であり,彼らの戦略において騎兵隊は重要な役割を果たしました。
ペルシャ人の言語はインド・ヨーロッパ語族に属するものとして分類されており,それにはインドのサンスクリット語との関連を示す証拠が見られます。ペルシャ人はその歴史上のある時期に,楔形文字を用いて書くことを始めましたが,バビロニアやアッシリアで楔形文字を書くときに幾百もの記号が用いられたことに比べると,記号の数は大幅に減少しました。ペルシャ帝国の支配期間中のある碑文は,古いペルシャ語で記され,それに,アッカド語と,一般に“エラム語”もしくは“スシアナ語”と呼ばれる言語による翻訳が付されていますが,帝国内の領土を管理する際に用いられた公式の文書は,おもに,国際語のアラム語で記されました。―エズ 4:7。
メディア-ペルシャ帝国の進展 (第2巻,327ページの地図)ペルシャ人はメディア人と同じく,幾つかの貴族によって支配されていたようです。そうした貴族の一つからアケメネス王朝が出,その王朝の王統からペルシャ帝国の創建者,キュロス大王が登場しました。ヘロドトスとクセノフォンによると,キュロスはペルシャ人の父とメディア人の母から生まれ,指導力を発揮してペルシャ人を団結させました。(「ヘロドトス」,I,107,108; 「キュロスの教育」,I,ii,1)その時までメディア人はペルシャ人に対して優勢になっていましたが,キュロスはメディアの王アステュアゲスに対して速やかな勝利を収め,アステュアゲスが首都としていたエクバタナを攻略しました(西暦前550年)。(ダニ 8:3,20と比較。)このようにして,メディア人の帝国はペルシャ人の支配下に置かれるようになりました。
メディア人はアケメネス王朝の残りの期間中,引き続きペルシャ人に従属していましたが,この帝国に二重性があったことについては疑問の余地がありません。例えば,「ペルシャ帝国の歴史」と題する本(37ページ)はこう述べています。「ペルシャ人とメディア人の間の親しい関係は,決して忘れ去られなかった。強奪されたエクバタナは,その後も王の住まいとして愛されていた。メディア人はペルシャ人と同等の誉れを受けていた。彼らは高官として任用され,ペルシャ軍を指導するために選ばれた。外国人たちは常にメディア人とペルシャ人について語った。彼らが単一の語を使う時は,“メディア人”を用いた」。
メディア-ペルシャ帝国はキュロスのもとでさらに西方へ広がり,その版図は,ペルシャがリュディアの王クロイソスに勝利を収め,ギリシャの幾つかの沿岸都市を従えた結果,エーゲ海にまで及びました。しかしキュロスの主要な征服は西暦前539年に行なわれ,その時にキュロスは,メディア人,ペルシャ人,エラム人から成る連合勢力の指導者として強大なバビロンを攻め取り,聖書の預言を成就しました。(イザ 21:2,9; 44:26–45:7; ダニ 5:28)バビロンの陥落に伴って,セム族の至上性を示す長い期間が終わり,今や(ヤペテから出た)アーリア人の子孫による最初の支配的な世界強国がそれに取って代わりました。また,それによってユダの地(およびシリアとフェニキア)もメディア-ペルシャの領土に包含されることになりました。西暦前537年,流刑にされていたユダヤ人はキュロスの布告により,それまでちょうど70年間荒廃させられていた故国に帰ることを許されました。―代二 36:20-23。「キュロス」を参照。
ペルシャの首都 帝国の二重性と調和して,ダリウスという名のメディア人が,敗北させられたカルデア人の王国の支配者になりました。ただし,キュロスの宗主権から独立してはいなかったようです。(ダニ 5:31; 9:1。「ダリウス」1項を参照。)バビロンはその後もメディア-ペルシャ帝国の王都として,また宗教と商業の中心地として存続しました。とはいえ,バビロンの夏の炎熱は概してペルシャの皇帝たちにとって耐え難いものだったらしく,バビロンが彼らにとって避寒地以上の場所となることはほとんどありませんでした。バビロンの征服の後,ほどなくしてキュロスがエクバタナ(現代のハマダーン)に戻ったことを示す考古学的証拠があります。エクバタナはアルワンド山麓の海抜1,900㍍余りの高地にあり,冬の豪雪や厳寒が,気持ちのよい夏の季節によって埋め合わされる所です。エクバタナからは,エルサレムの神殿再建に関するキュロスの覚え書きが,公布の数年後に発見されました。(エズ 6:2-5)それ以前のペルシャの首都は,エクバタナと大体同じ高度に位置し,同市の南東約650㌔の所にあるパサルガダエでした。後に,ダリウス,クセルクセス,アルタクセルクセス・ロンギマヌスなどのペルシャ皇帝がパサルガダエの近くに王都ペルセポリスを建て,真水を供給するためのものと思われる,大規模な地下トンネル網を設けました。もう一つの首都は,古代エラムのコアスペス(カルケ)川のそばにあったスサ(シュシャン)で,バビロン,エクバタナ,ペルセポリスの間にあって,戦略上の中心的な位置を占めていました。ダリウス大王はここに壮麗な宮殿を建てましたが,バビロンと同様,スサの夏も焼けつくように暑かったので,その宮殿は一般に冬の居住地となりました。しかし,時の経過と共に,スサは徐々に帝国行政の真の中心地となってゆきました。―「エクバタナ」; 「シュシャン」を参照。
宗教と法律 ペルシャの支配者たちは,アッシリアやバビロニアに君臨したセム族の王たちと同様,残忍になることもできましたが,少なくとも当初は征服民を扱うに際して,ある程度の公平さと順法の精神を表わすことに努めたようです。彼らの宗教には,ある種の倫理的概念が含まれていたようです。彼らの主神アフラ・マズダに次ぐ主要な神はミトラでした。この神は戦争の神としてだけでなく,契約の神としても知られるようになりました。その目と耳は,契約に違反するどんな人をも探り出すよう,常に警戒を怠りませんでした。(「神々(男神,女神)」を参照。)ギリシャの歴史家ヘロドトス(I,136,138ページ)はペルシャ人についてこう書きました。「彼らは5歳から20歳までの少年たちに教育を施し,ただ三つのことのみ,つまり乗馬と弓と,真実を語ることを教える。……彼らは,偽りを何よりも憎むべきことと考える」。ペルシャの支配者たちの歴史は,彼らが二枚舌や悪巧みを恥じてはいなかったことを示していますが,基本的に“約束を守る”という部族的な信条のようなものに従っていたことは,彼らが「メディア人とペルシャ人の法律」の不可侵性を強く主張したことに表わされています。(ダニ 6:8,15; エス 1:19; 8:8)ですから,キュロスの布告が発布後18年ほどして発見された時,ダリウス王は神殿の建設に関するユダヤ人の立場の合法性を認め,ユダヤ人に全面的な協力を差し伸べるようにとの命令を出しました。―エズ 6:1-12。
ペルシャ王室の組織には,相当な行政手腕の証拠が認められます。「ペルシャとメディアの七人の君たち」(エス 1:14; エズ 7:14)から成る王自身の諮問委員会,つまり顧問団のほかに,メディア,エラム,パルチア,バビロニア,アッシリア,アラビア,アルメニア,カパドキア,リュディア,イオニアなどに,また帝国の拡大に伴い,エジプト,エチオピア,リビアを含む主要な地域や地方にも太守が任命されました。これらの太守には,自分の領土内の司法と経済に関する問題の管理を含め,太守領の統治におけるある程度の自治が認められました。(「太守」を参照。)太守領内には管轄地域の従属的な知事たち(アハシュエロス王の時代には127人)がいたようです。また,管轄地域内には,地域の人々から成る特定の民を治める君たちがいました。(エズ 8:36; エス 3:12; 8:9)広範囲に及ぶ領土の幾らか隅のほうに同帝国の首都があったという不利な状況を克服するためだと思われますが,早馬に乗る急使を採用した王の郵便業務によって迅速な通信を行なうシステムが開発され,それによって国王とすべての管轄地域が結ばれました。(エス 8:10,14)王の管理する公道が維持され,そのうちの一つは,シュシャンから,はるか離れた小アジアのサルデスまで延びていました。
キュロスの死からダリウスの死まで キュロス大王の治世は,同王が軍事遠征の途上で死亡した西暦前530年に終わりました。その子カンビュセスが王座を継ぎ,首尾よくエジプトを征服しました。この王は聖書の中にカンビュセスという名では出て来ませんが,エズラ 4章6節に記されているとおり,神殿の工事に反対する者たちがユダヤ人を非難する偽りの告訴状を送り付けた「アハシュエロス」だったと考えられます。
カンビュセスの支配の終わりに関係した状況は混乱しています。ダリウス大王がベヒストゥン碑文の中で書き,それとは多少異なった部分があるものの,ヘロドトスや他の人たちが詳述したある記述によると,カンビュセスは自分の兄弟バルディヤ(ヘロドトスによればスメルディスと呼ばれる)を秘密裏に殺させました。その後,カンビュセスがエジプトに遠征した留守中に,ガウマータという名のマギ僧(ヘロドトスによれば,やはりスメルディスと呼ばれる)がバルディヤ(スメルディス)と偽って名乗り,王座を強奪して王として認められるようになりました。カンビュセスがエジプトから戻る途中で死亡したため,強奪者の王座は安泰となりました。(「ヘロドトス」,III,61-67ページ)一部の歴史家たちが推している他の説によると,バルディヤは殺されたわけではなく,カンビュセスの留守中に,詐称者ではなくバルディヤが王座を強奪したことになっています。
事実はどうであれ,カンビュセスの治世は西暦前522年に終わり,その後の支配は7か月続いたものの,それも西暦前522年に強奪者(バルディヤか,スメルディスを詐称したガウマータ)の暗殺をもって終わりを告げます。しかし,この短い支配の間に,ユダヤ人に対する二度目の告発がペルシャの王に,つまり聖書の中で「アルタクセルクセス」(恐らく王座の名もしくは称号)とされている当時の王に対してなされ,この度はそれが成功して,神殿の建設を進めることを禁じる王からの命令が出されます。(エズ 4:7-23)それで,「ペルシャの王ダリウスの治世の第二年まで」神殿の工事は停止します。―エズ 4:24。
ダリウス1世(ダリウス・ヒュスタスピス,あるいはダリウス大王と呼ばれる)は,ペルシャの王座にあった者の殺害を画策もしくは扇動し,その王座を自分のものにしたようです。その支配の続いている間に,エルサレムにおける神殿の工事は王の承認を得て再開され,神殿は同大王の支配の第6年(西暦前515年の初め)に完成しました。(エズ 6:1-15)ダリウスの治世下で帝国は拡大を遂げました。王はペルシャの領土を東はインド,西はトラキアとマケドニアにまで広げました。
少なくともその時までに,ペルシャの支配者たちはダニエル 7章5節と8章4節の預言的な象徴表現を成就していました。それらの聖句では,熊と雄羊を象徴として用い,メディア-ペルシャ帝国が北と西と南という三つの主要な方向において領土を獲得することが示されています。しかし西暦前490年,ギリシャとの戦闘においてダリウスの軍勢はマラトンで敗北を被り,ダリウスは西暦前486年に死にました。―「ダリウス」2項を参照。
クセルクセスとアルタクセルクセスの治世 エステル記の中でアハシュエロスと呼ばれている王は,ダリウスの息子クセルクセスのようです。クセルクセスの行動も,ペルシャ第四の王,すなわち「すべてのものを奮い起こしてギリシャの王国を攻める」王に関する描写と合致します。(ダニ 11:2)クセルクセスはペルシャがマラトンで敗北したことの仕返しを試み,西暦前480年にギリシャ本土に大量の軍勢を送り込みます。テルモピレーで辛くも勝利を収め,アテネを滅ぼした後,クセルクセスの軍勢はサラミスで,その後はプラタイアイで敗北を喫し,クセルクセスはペルシャに戻ることを余儀なくされます。
クセルクセスの治世の特色となったのは,特定の行政改革と,父親がペルセポリスで始めていた建設工事の多くを完成させたことでした。(エス 10:1,2と比較。)クセルクセスの治世の終わりについてギリシャ人が記した物語は,結婚生活上の難しい問題,婦人部屋<ハレム>での無秩序,クセルクセスの廷臣のある者たちが王よりも権勢を振るったとされることなどを中心としています。これらの話は,王妃ワシテが退けられ,その代わりにエステルが王妃とされたこと,およびモルデカイが王国の非常な権威ある立場に高められたことなどを含む,エステル記の基本的な事実の幾つかを,かなり混乱し,ゆがめた形で反映しているのかもしれません。(エス 2:17; 10:3)一般の記述によると,クセルクセスは自分の廷臣の一人によって暗殺されました。
クセルクセスの後継者であったアルタクセルクセス・ロンギマヌスは,エズラがエルサレムの神殿を支えるための莫大な寄付を持ってエルサレムに帰還するのを許したことで有名です。このことはアルタクセルクセスの第7年(西暦前468年)に起こりました。(エズ 7:1-26; 8:24-36)アルタクセルクセスの第20年(西暦前455年)に,ネヘミヤはエルサレムを再建するために同市へ行く許可を与えられます。(ネヘ 1:3; 2:1,5-8)その後ネヘミヤはアルタクセルクセス王の第32年(西暦前443年)に,同王の宮廷に戻ってしばらくそこで過ごします。―ネヘ 13:6。
クセルクセスとアルタクセルクセスの治世に関しては,歴史的文献の間でも多少の不一致が見られます。幾つかの参考文献はアルタクセルクセスの即位年を西暦前465年としています。ある文書によると,その父クセルクセスの治世は21年目まで続いたとされています。クセルクセスの支配は父親のダリウスが死亡した西暦前486年から始まったというのが定説になっています。クセルクセス自身の最初の在位年は西暦前485年に始まったとみなされており,多くの場合,クセルクセスの第21年とアルタクセルクセスの即位年は西暦前465年であったと言われてきました。アルタクセルクセスに関しては,その支配の最後の年は西暦前424年に始まったというのが学者たちの通説です。ある文書は,それをアルタクセルクセスの治世の第41年としています。もしそれが正しいのであれば,同王の即位年は西暦前465年となり,その最初の在位年は西暦前464年に始まったことになります。
しかし,クセルクセスの最後の年とアルタクセルクセスの即位年を西暦前475年と算定することには,強力な証拠があります。この証拠は三つあります。すなわち,ギリシャの資料とペルシャの資料,そしてバビロニアの資料です。
ギリシャの資料から得られる証拠 ギリシャの歴史における一つの出来事は,アルタクセルクセスの支配の始まった時を確定するための助けとなります。ギリシャの政治家で軍功を挙げた英雄,テミストクレスは,同国人から嫌われ,安全を求めてペルシャに逃れました。正確さで名声を博したギリシャの歴史家ツキディデス(I,CXXXVII,3)によれば,その時テミストクレスは,「クセルクセスの子で,王位について間もない王アルタクセルクセスに手紙を送った」とされています。「プルターク英雄伝」(『テミストクレス』,XXVII,1)からは,「ツキディデスとラムサコスのカロンは,クセルクセスが死んだこと,またテミストクレスが会見したのは息子のアルタクセルクセスであったことを述べている」という情報が得られます。カロンとは,クセルクセスからアルタクセルクセスに支配が移行する時期を生きたペルシャの臣下です。ツキディデスとラムサコスのカロンの証言から,テミストクレスがペルシャに着いた時,アルタクセルクセスはその少し前に支配を開始していたことが分かります。
アルタクセルクセスが支配を開始した時は,テミストクレスが死んだ時から逆算することによって確定できます。テミストクレスの死については,すべての文献が同じ年を示しているわけではありません。しかし,歴史家のディオドロス・シクルスは(「シチリアのディオドロス」,XI,54,1; XI,58,3),「プラクシエルグスがアテネの執政官であった時」に生じた事柄に関する記述の中で,テミストクレスの死について述べています。プラクシエルグスがアテネの執政官だったのは,西暦前471/470年でした。(「ギリシャ・ローマ年代学」,アラン・E・サムエル著,ミュンヘン,1972年,206ページ)ツキディデスによると,テミストクレスがペルシャに到着した後,アルタクセルクセスに会見するための準備として,言語の学習が1年間行なわれました。その後に王は,多くの誉れと共に,彼にペルシャでの住居をあてがいました。もしテミストクレスが西暦前471/470年に死んだのであれば,彼がペルシャに住み着いたのは西暦前472年よりも後ではなく,到着したのはその前年,つまり西暦前473年よりも後ではありません。その時点において,アルタクセルクセスは『王位について間もなかった』のです。
クセルクセスが死に,アルタクセルクセスが王座に就いた時に関して,M・ド・クトルガはこのように書きました。「ツキディデスの年代計算によると,クセルクセスが死んだのは西暦前475年の終わりごろであり,同じ歴史家によると,テミストクレスが小アジアに着いたのは,アルタクセルクセス・ロンギマヌスが王座に就いた少し後であったことが分かっている」―「様々な学者がフランス帝国学士院の文芸および碑文アカデミーに提出した論文集」,シリーズ1,第6巻,第2部,パリ,1864年,147ページ。
この点をさらに裏付けるものとして,E・ルベスクは次のように述べています。「したがって,『アレクサンドリア年代記』によると,クセルクセスの死を,統治が始まってから11年後の西暦前475年とすることが必要になる。歴史家のユスティヌス,III,1は,この年代計算とツキディデスの主張を確証している。この歴史家によると,クセルクセスが殺害された時,その息子のアルタクセルクセスはまだ子供,つまりpuer[少年]であったが,もしクセルクセスが475年に死んだのであれば,これは正しいことになる。アルタクセルクセスはその時16歳であったが,465年には26歳になっている。そうなるとユスティヌスの言葉はもはや正しくないものとなる。この年代計算によると,アルタクセルクセスは統治を475年に始めたので,その治世の第20年は455年になり,ごく一般的に言われていることとは違い,445年にはならない」―「キリスト教弁証編評論」,パリ,第68巻,1939年,94ページ。
もしダリウスが西暦前486年に死に,クセルクセスが西暦前475年に死んだのであれば,クセルクセスの治世が21年に及んだとする古文書があることを,どのように説明できるでしょうか。一人の王とその息子が二重の王権のもとで,つまり共同統治という形で一緒に支配を行なうことはよく知られています。ダリウスとクセルクセスの場合がそうであれば,歴史家たちはクセルクセスの治世の年を,父親との共同統治の始めから数えることも,父親の死から数え始めることもできました。クセルクセスが自分の父親と共に10年間支配し,さらに自分だけで11年間支配したのであれば,クセルクセスの支配の期間を21年とする資料もあり得る一方,それを11年とする資料もあるかもしれません。
クセルクセスが父親のダリウスと共同統治を行なったことを示す確実な証拠があります。ギリシャの歴史家ヘロドトス(VII,3)は,「ダリウスは[王権を求める]彼[クセルクセス]の嘆願を正しいと判断し,彼を王と宣した。しかし,私が思うに,クセルクセスはこの勧告がなかったとしても王とされたであろう」と述べています。このことは,クセルクセスがその父ダリウスの治世中に王とされたことを示唆しています。
ペルシャの資料から得られる証拠 クセルクセスとダリウスが共同統治を行なったことは,特に,発見されたペルシャの浅浮き彫りから知ることができます。ペルセポリスからは,クセルクセスが父親と同じ衣服を身にまとい,頭を父親と同じ高さに保ち,父親の王座の後ろに立っている姿を示した数個の浅浮き彫りが発見されています。このような姿は異例でした。王の頭は,他のすべての者たちより高くされるのが普通だからです。「ペルセポリス出土のクセルクセス新碑文」(エルンスト・E・ヘルツフェルト著,1932年)の中には,ペルセポリスで発見された碑文と建物は共に,クセルクセスがその父ダリウスと共同統治を行なったことを示唆している,と記されています。ヘルツフェルトは自著の8ページでこう書きました。「ペルセポリスにあるクセルクセスの碑文の異例な趣旨,つまりその大半が彼自身の活動と父親の活動の区別をしていないこと,また,それと同様に異例な彼らの建物の関係,つまりダリウスのものかクセルクセスのものか区別がつかないことは,常にクセルクセスの一種の共同統治を示唆してきた。さらに,ペルセポリスにある二つの彫刻も,そのような関係を例証している」。それらの彫刻の一つに関して,ヘルツフェルトは次の点を指摘しています。「ダリウスは,王としての持ち物をすべて身に着け,彼の帝国内の諸国民の代表者たちによって支えられる高い寝台に座す者として描かれている。浮き彫りではその背後に,つまり実際にはその右に,同じように王としての持ち物を身に着け,左手を王座の高い背に置いたクセルクセスが立っている。それは,単なる後継者以上の立場を明確に物語る姿勢である。それは共同統治を意味する」。
そのようにダリウスとクセルクセスの姿を描く浮き彫りの年代に関して,アン・ファルカシュは「アケメネス朝彫刻」(イスタンブール,1974年,53ページ)の中で,「その浮き彫りは,最初の増築部分が建設されていた期間のいつか,つまり西暦前494/493年–492/491年に宝物庫に取り付けられたものかもしれない。このような扱いにくい石材を動かすには,確かにこの期間が最も便利であったであろう。しかし,その浮き彫りを宝物庫に移動したのがいつであるとしても,彫刻は恐らく490年代に彫られたものである」。
バビロンの資料から得られる証拠 西暦前490年代にクセルクセスが父親と共同統治を始めたことを示す証拠は,バビロンで発見されています。バビロンでの発掘作業により,西暦前496年に完成したクセルクセスの宮殿が出土しました。この点に関して,A・T・オルムステッドは「ペルシャ帝国の歴史」(215ページ)の中で,こう書きました。「498年の10月23日までに,王の息子[つまり,ダリウスの息子クセルクセス]の家がバビロンで建設の途上にあったことが分かる。これが,すでに我々の指摘した中心部にあるダリウスの宮殿であることに疑問の余地はない。その2年後[西暦前496年],ボルシッパの近くから出土した商業文書には,『新しい宮殿』がすでに完成されたと述べられている」。
それに加え,2枚の珍しい粘土板も,クセルクセスとダリウスの共同統治を証ししていると言えるかもしれません。1枚はクセルクセスの即位年の,ある建物の賃借料に関する商業文書です。その書字板には年の最初の月,つまりニサンの日付があります。(「オックスフォード大学ボドレアン図書館の後期バビロニア書字板目録」,R・キャンベル・トンプソン著,ロンドン,1927年,13ページ,書字板名 A. 124)もう1枚の書字板には,「クセルクセスの即位年,アブ(?)の月」という日付があります。注目に値する点としてこの後者の書字板は,当時の通例とされていた「バビロンの王,諸国の王」という称号をクセルクセスに付していません。―「新バビロニアの法律・行政文書の翻訳と解説」,M・サン・ニコロおよびA・ウングナート共著,ライプチヒ,1934年,第1巻,第4部,544ページ,書字板 第634号,名称 VAT 4397。
これら2枚の書字板は謎めいています。普通の場合,王の即位年は前任者の死後に始まります。ところが,クセルクセスの即位年に記されたこの二つの記録には,第7の月よりも前の日付が付されている(一つは第1の月,もう一方は第5の月)のに対して,クセルクセスの前任者(ダリウス)は,その最後の年の第7の月まで生きたという証拠があるのです。ですからこれらの記録は,クセルクセスの父親の死に続く,クセルクセスの即位期間に言及しているのではなく,彼がダリウスと共同統治を行なっていた時の即位年を示しています。もしその即位年が,クセルクセスのためのバビロンの宮殿が完成した西暦前496年であるとすれば,共同統治の第1年はその次のニサン,つまり西暦前495年に始まり,その第21年つまり最後の年は西暦前475年に始まることになります。その場合,クセルクセスの治世にはダリウスと共に支配した10年間(西暦前496年から486年)と,自分一人が王位にあった11年間(西暦前486年から475年)が含まれています。
一方,歴史家たちは,ダリウス2世の最初の在位年が西暦前423年春に始まったという点で意見の一致を見ています。バビロニアのある書字板が示すところによると,ダリウス2世はその即位年の第11の月の第4日,つまり西暦前423年の2月13日までにすでに王座に就いていました。(「紀元前626年–紀元75年のバビロニア年代学」,R・パーカーおよびW・H・デュバーシュタイン共著,1971年,18ページ)ところが2枚の書字板は,アルタクセルクセスが第41年の第11の月の第4日が過ぎた後も支配を続けたことを示しています。一つの書字板には,第41年の第11の月の第17日という日付があり(18ページ),もう一方には第41年の第12の月という日付があります。(「旧約聖書とセム語研究」,ハーパー,ブラウン,およびムーア共編,1908年,第1巻,304ページ,書字板 第12号,名称 CBM,5505)ですから,アルタクセルクセスはその統治の第41年に王位を譲ったのではなく,その年の最後まで支配を行ないました。このことから,アルタクセルクセスは41年以上支配を行なったに違いないこと,したがって,その最初の在位年が西暦前464年に始まったとみなすべきではないことを示しています。
アルタクセルクセス・ロンギマヌスがその第41年以降も支配したことを示す証拠は,アルタクセルクセスの第50年という日付のある,ボルシッパから出土した商業文書に見られます。(「大英博物館バビロニア書字板目録」,第7巻:シッパール2の書字板,E・ライヒティーおよびA・K・グレイソン共著,1987年,153ページ; 書字板名 B. M. 65494)アルタクセルクセスの治世の終わりとダリウス2世の治世の始まりを結び付ける書字板の一つには,次のような日付が付されています。「第51年,即位年,第12の月,20日,ダリウス,諸国の王」。(「ペンシルバニア大学バビロニア探査隊シリーズA: 楔形文字テキスト」,第8巻,第1部,アルバート・T・クレイ著,1908年,34,83ページ,およびプレート57,書字板 第127号,名称 CBM 12803)ダリウス2世の最初の在位年は西暦前423年なので,アルタクセルクセスの第51年は西暦前424年であり,その最初の在位年は西暦前474年でした。
ですから,ギリシャ,ペルシャ,バビロニアの資料から得られる証拠は,アルタクセルクセスの即位年が西暦前475年であり,その最初の在位年が西暦前474年であったという点で一致しています。そうすると,ダニエル 9章24節の70週を数え始める時,つまりアルタクセルクセスの第20年は,西暦前455年になります。ダニエル 9章25節を土台に,西暦前455年から69週年(483年)を数え始めるなら,指導者なるメシアの到来する重要な年に到達することになります。
西暦前455年から西暦1年までを数えると満455年になります。(483年とするために)残る28年を加えると西暦29年,すなわちナザレのイエスが水のバプテスマを受け,聖霊で油そそがれ,メシアつまりキリストとしてご自分の公の宣教をお始めになったちょうどその年になります。―ルカ 3:1,2,21,22。
同帝国の陥落と分裂まで ペルシャの王座に就いたアルタクセルクセス・ロンギマヌスの後継者たちに関して,ディオドロス・シクルスは次のような資料を提供しています。「アジアでは王クセルクセスが1年間の,もしくはある記録によると,2か月間の統治の後に死んだ。そしてその兄弟ソグディアノスが王位を継いで7か月支配した。彼はダリウスに殺され,ダリウスは19年間統治した」。(「シチリアのディオドロス」,XII,71,1)このダリウス(ダリウス2世として知られる)は元の名をオクスと言いましたが,王となってダリウスと名乗りました。ネヘミヤ 12章22節に出て来る「ダリウス」はこの王のようです。
ダリウス2世の後,アルタクセルクセス2世(ムネーモンと呼ばれた)が登場し,その治世中にエジプトが反逆し,ギリシャとの関係が悪化します。その治世(西暦前404年から359年とされている)に次いで,その息子アルタクセルクセス3世(オクスとも呼ばれた)の治世となりますが,この王は21年(西暦前358-338年)ほど支配を行なったとされ,ペルシャのすべての支配者の中で最も血に飢えていたと言われています。その主要な手柄はエジプトの再征服でした。一般の歴史によると,その後はアルセスが2年間支配し,ダリウス3世(コドンマヌス)が5年間支配します。マケドニアのフィリッポスが殺害され(西暦前336年),その息子のアレクサンドロスが後を継いだのはその治世中のことでした。西暦前334年にアレクサンドロスはペルシャ帝国の攻撃に着手し,最初は小アジアの北西部にあるグラニコスで,次に小アジアのその反対側にあるイッソスでペルシャ軍を破りました(西暦前333年)。最終的にはギリシャ人がフェニキアとエジプトを征服した後,西暦前331年にペルシャの最後の抵抗がガウガメラで粉砕され,ペルシャ帝国は終わりを告げました。
アレクサンドロスが死に,その後に帝国が分裂してからは,セレウコス・ニカトールがアジアの領土の主要な部分に対する支配権を獲得し,ペルシャはその領土の中心的な部分となりました。そのようにして始まったセレウコス王朝は西暦前64年まで続きました。ダニエルの預言に出て来る「北の王」という預言的な人物は,最初にセレウコス・ニカトールをもって現われ始めたようです。その王は,象徴的な「南の王」の役割を最初に果たしたと思われるエジプトのプトレマイオス王朝に敵対しました。―ダニ 11:4-6。
セレウコス朝の王たちは,西暦前3世紀と2世紀にペルシャそのものの領土を征服したパルチア人に襲撃されたため,自分たちの領土の西側の範囲内に抑えられました。彼らは西暦3世紀にササン王朝に破れ,ササン朝の支配は7世紀におけるアラブの征服まで続きました。
エゼキエル書の預言(27:10)には,裕福なティルスの軍勢で仕え,ティルスの栄華に貢献した軍人の中にペルシャ人が含められています。ペルシャはまた,エホバの契約の民に敵対する象徴的な「マゴグの地のゴグ」に導かれる大群を成す諸国民の中に数えられています。―エゼ 38:2,4,5,8,9。