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神が望んでおられるとおりに人に接するエホバの日を思いに留めて生きる
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6 ゼカリヤ 7章10節とは違う角度から,ミカ 7章18節はどんなことを勧めていますか。
6 エホバは,わたしたちが『互いに対し心の中で悪をたくらまないように』と望んでおられ,そのことをゼカリヤを通してお示しになりました。(ゼカリヤ 7:9,10; 8:17)このアドバイスは,ある兄弟から傷つけられた,もしくは身内が不当な扱いを受けたと感じる場合に当てはまります。そう感じるとき,つい『心の中で悪をたくらみ』,それを行動に移してしまうかもしれません。しかし神は,ご自分の良い手本にわたしたちが見倣うことを願っておられます。エホバが「とがを赦し,違犯を見過ごしておられる」というミカの記述を思い出してください。a (ミカ 7:18)では,この言葉をどのように実生活に適用できるでしょうか。
7 わたしたちは過ちを水に流して忘れようとすることがありますが,それはなぜですか。
7 自分や親族に対してなされた事柄によって感情的に傷ついたとしても,実のところ,なされたのはどれほど重大な事だったでしょうか。聖書は,不和の解決方法だけでなく,兄弟間の罪の扱い方も略述しています。とはいえ多くの場合,とがや過ちをただ見逃す,つまり『違犯を見過ごす』のが最善です。こう自問してみてください。『これは,相手を許すべき77回のうちの1回ではないだろうか。水に流して忘れてしまえばよいのではないだろうか』。(マタイ 18:15-17,21,22)今は非常に大きな過ちに思えるとしても,1,000年後にはどうでしょうか。働き人が飲食を楽しむことに関する伝道の書 5章20節の言葉から,基本的な教訓を引き出せます。こうあります。『その人が自分の命の日を覚えることは度々あることではない。なぜなら,まことの神はその人をその心の歓びに専念させておられるからである』。この人は今この時の楽しみに焦点を合わせて幸せな気分になっているため,日常生活の厄介な問題をほとんど忘れています。この態度を見倣えるでしょうか。クリスチャンの兄弟関係における数々の喜びに焦点を合わせるなら,永久に重要というわけではない問題,新しい世で思い出すことのない問題を忘れられるかもしれません。こうした態度は,他の人の苦境を見て歓んだり,過ちをいつまでも覚えていたりすることとは大違いです。
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神が望んでおられるとおりに人に接するエホバの日を思いに留めて生きる
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a 「違犯を見過ごしておられる」という表現について,ある学者は次のように述べています。このヘブライ語の隠喩は,「注意を向けたくない物に注目することなく通り過ぎる旅人の行動から取られている。この隠喩が伝えている考えは,[神は罪に無頓着であるということではなく,]特定の場合に神は処罰を意図して罪に目を留めることをされない,つまり処罰せずに許される,ということである」。
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