17章
大会 ― わたしたちの兄弟関係の証拠
大会はエホバの証人の現代の組織の正式な特色となっています。しかし,エホバの崇拝者たちの全国的な集まりや国際的な集まりは,20世紀よりずっと前にも開かれていました。
エホバは古代イスラエルの男子すべてに対して,毎年3回の季節的な祭りのためエルサレムに集まるようお命じになりました。男たちの中には,家族全員を連れて来る人もいました。事実,モーセの律法は家族の全成員が,男も,女も,幼い者も,特定の機会にその場にいることを求めていました。(出エジプト記 23:14-17。申命記 31:10-13。ルカ 2:41-43)当初,出席したのはイスラエルの境界内に住む人々でした。後にユダヤ人が広い範囲に散らされるようになると,たくさんの国から出席者たちがやって来ました。(使徒 2:1,5-11)彼らが集まり合おうとしたのは,単にイスラエルとアブラハムという先祖を持っていたからだけでなく,エホバを偉大な天の父と認めていたからでした。(イザヤ 63:16)こうした祭りは楽しい機会となっただけでなく,神の言葉を思いに留めるよう,また,より重要な霊的な物事をなおざりにするほど日常の事柄に没頭することがないよう,出席者すべてを助けるものとなりました。
同様に,現代のエホバの証人の大会も霊的な関心事を中心にしています。外部の誠実な人々にとって,そうした大会は証人たちがクリスチャンの兄弟関係という強いきずなで結ばれていることの紛れもない証拠となります。
聖書研究者の初期の大会
様々な都市や国から来た聖書研究者たちが集まるための取り決めは徐々に進展しました。伝統的な教会の諸宗派とは異なり,聖書研究者は大会のおかげで,他の場所の仲間の信者たちとすぐに知り合いになりました。初めのうち,そうした大会は,年ごとの主の死の記念式に関連して,ペンシルバニア州アレゲーニーで開かれました。1891年には,「聖書研究と主の記念の晩餐の祝いのための大会」が開かれるという特別な通知がなされました。翌年の「ものみの塔」誌には,「信者たちの大会,ペンシルバニア州アレゲーニーにて,……1892年4月7日から14日まで」という大見出しが載せられました。
そうした初期の大会には一般の人たちは招待されませんでした。しかし,1892年には,贖いに対する信仰と主の業に対する誠実な関心があることを証明した400人ほどの人たちが出席しました。プログラムのうち五日間は集中的な聖書研究が行なわれ,もう二日間は聖書文書頒布者<コルポーター>に役立つ助言が与えられました。
そうした集まりの一つに初めて出席したある人はこう言いました。「大会に出たことは何度もありますが,このような大会は初めてです。ここでは,家の中でも,通りでも,集会でも,昼食のときでも,どこに行っても,起きてから寝るまでずっと,神のご意志とご計画だけが話題になっています」。出席者が示す精神について,米国ウィスコンシン州から来たある人は,「常に示される愛や,兄弟としての親切の精神に深い感銘を受けました」と述べました。
1893年,年ごとの大会の取り決めに変更が加えられました。その夏のコロンビアン博覧会に伴う有利な鉄道運賃を利用するため,聖書研究者は8月20日から24日にかけてイリノイ州シカゴに集まりました。これはピッツバーグ地域以外では初めての大会でした。とはいえ,時間と資金を主の業のために最善の仕方で活用することを考慮し,それから数年間,全体大会は開かれませんでした。
その後,1898年から,様々な場所の聖書研究者がそれぞれの土地で率先して,限られた地域の人々が出席する大会を取り決めるようになりました。1900年には,協会が設けた三つの全体大会だけでなく,米国とカナダで13の地方的な大会も開かれました。それら地方的な大会のほとんどは1日だけの大会で,たいてい巡礼者の訪問に伴って開かれました。大会の数は増加し続けました。1909年までに,少なくとも45の地方的な大会が北米で開かれ,それに加えて,北米大陸の各地を回る特別旅行中のラッセル兄弟が話をした大会もありました。一日大会のプログラムの主要な部分は,特に一般の人々の関心を高めることを意図したものでした。出席者は約100人から数千人まで様々でした。
一方,おもに聖書研究者が出席する全体大会では,真理の道にかなりしっかりと立っている人々に対する教育が重視されました。そうした全体大会のために,出席者で満員の特別列車が主要都市からやって来ました。出席者は時には4,000人に達し,その中には少数ながらヨーロッパからの代表者もいました。そのような大会は真の霊的なさわやかさを与える機会となり,その結果,エホバの民の熱意と愛が強まりました。1903年のそうした大会の閉会の際に一人の兄弟は,「私は貧しい者ですが,1,000㌦出されても,この大会から得た益と引き換えるつもりはありません」と言いました。
地方的な大会では,その地域に巡礼者の兄弟たちがいれば,その兄弟たちが話を行ないました。ラッセル兄弟も米国で,そしてしばしばカナダで,大規模な大会だけでなく地方的な大会にも出席してプログラムを扱うよう努めました。そのためにはかなりの旅行をしなければならず,たいてい週末に旅行していました。しかし,1909年にシカゴのある兄弟が,ラッセル兄弟と共に大会から大会へ旅行して回る代表者たちを運ぶために鉄道車両を数両借りました。1911年と1913年には,米国西部とカナダ一帯を1か月以上にわたって回る大会ツアーの何百人もの代表者を運ぶため,その兄弟は列車を丸ごと借り切りました。
そうした大会列車での旅は忘れられない経験となりました。1913年,マリンダ・キーファーはイリノイ州シカゴでその列車に乗り込みました。何年も後に彼女は,「自分たちが一つの大きな家族であるということを実感するのに長い時間はかかりませんでした。……そして1か月の間,その列車が私たちの家になりました」と語りました。列車が駅を発車する際,見送りに来た人たちは「また会う日まで神共にあらんことを」という歌を歌い,その間ずっと,列車が見えなくなるまで帽子やハンカチを振っていました。キーファー姉妹はさらにこう述べています。「旅行中に立ち寄る所ではどこでも大会が開かれていました。大抵は三日間の大会で,私たちはそれぞれの大会に1日とどまりました。とどまっている間にラッセル兄弟は二つの話を行ないました。一つは午後に兄弟たちに対して,もう一つは晩に『墓のかなた』という主題で一般の人々に対して行なわれました」。
他の国々でも,大会の数は増加していました。そうした大会は大抵かなり小規模なもので,1905年にノルウェーで初めて開かれた大会の出席者は15人ほどでした。しかし,それが始まりとなりました。6年後,ラッセル兄弟がノルウェーを訪問した際,一般の人々を招待するために特別な努力が払われ,その時の出席者はおよそ1,200人でした。1909年,ラッセル兄弟はスコットランドの幾つかの大会に出席し,グラスゴーでは約2,000人,エディンバラでは約2,500人に,「パラダイスにいる盗人,地獄にいる富める人,アブラハムの懐にいるラザロ」という興味をそそる主題で話を行ないました。
初期の大会の閉会の際,兄弟たちは愛餐と呼ばれるものを行ない,クリスチャンの兄弟関係にあるという意識を表わしました。この“愛餐”ではどんなことが行なわれたのでしょうか。例えば,講演者たちがさいの目に切ったパンを載せた皿を持って一列に並び,聴衆は列を作ってその前を通り,パンにあずかり,握手をして,「我らの心をクリスチャン愛のうちに結ぶきずなに祝福あれ」という歌を歌いました。歌っている人のほほを喜びの涙が伝うこともよくありました。後に人数が増えると,握手やパンにあずかることは省かれましたが,歌と祈り,そしてたいてい感謝を表わす長い拍手をもって大会は閉じられました。
王国宣明の世界的な運動が始まる
第一次世界大戦後の最初の大規模な大会は,1919年9月1日から8日にかけて,オハイオ州シーダーポイント(クリーブランド西方約96㌔のエリー湖畔にある)で開かれました。ラッセル兄弟が亡くなった後,組織と交わっていたある主立った人々が真理を捨てました。兄弟たちは厳しい試練を経験しました。同じ1919年,その大会の前に,不当にも投獄されていた協会の会長とその仲間たちは釈放されました。そのため,期待が高まっていました。初日の出席者は幾分少なめでしたが,その日のうちにもっと大勢の出席者が特別列車で到着し,代表者たちの宿泊先となっていた幾つかのホテルはてんてこ舞いになりました。R・J・マーティンとA・H・マクミラン(二人とも,他の人たちと共に刑務所から釈放されたばかりだった)が手伝いを買って出て,真夜中過ぎまで部屋の割り振りに当たりました。また,ラザフォード兄弟を初めとする多くの人たちはベルボーイ役になり,荷物を運んだり仲間の人たちを部屋まで案内したりして楽しく過ごしました。全員の間に熱意の霊があり,それは他の人に伝染しました。
2,500人ほどの出席が見込まれていましたが,その大会はあらゆる面で予想を上回りました。二日目には会場は既に超満員になり,別の幾つかの会館も使用されました。それでも間に合わなくなると,集まりは屋外の快適な木立のある場所に移されました。米国とカナダの約6,000人の聖書研究者が出席しました。
日曜日の主要な話には少なくとも1,000人の一般の人々もやって来て,聴衆は優に7,000人を超える人数に膨れ上がりました。講演者はその聴衆に向かって,戸外で,マイクやアンプなどの助けを全く借りずに話しました。その「苦悩する人類のための希望」という話の中で,J・F・ラザフォードはメシアによる神の王国が人類の諸問題の解決策であることを明らかにし,さらに国際連盟(当時は設立の途上にあり,既に僧職者の支持を得ていた)が決して神の王国の政治的表現などではないことを説明しました。サンダスキーの「レジスター」紙(地元の新聞)は,その公開講演に関する長い記事とともに,聖書研究者の活動の概要を掲載しました。その新聞は米国とカナダ中の新聞社に送られました。しかし,この大会を契機に,もっと重要な宣伝が始まりました。
大会全体のまさに最高潮となったのはラザフォード兄弟による「同労者への話」で,その話は後に「王国を告げ知らせる」という題で出版物に掲載されました。その話は聖書研究者たち自身に対するものでした。その話の中で,大会プログラムや大会会場の随所で見かけたGAという文字の意味が明らかにされました。人々の注意をメシアの王国に向けるために用いられる「黄金時代(The Golden Age)」という新しい雑誌が近く発行される,という発表が行なわれたのです。ラザフォード兄弟はなすべき業の概要を説明した後,聴衆に向かってこう言いました。「機会の戸は皆さんの前に開かれています。その戸口からすぐに入ってください。この業を行なうために出かける際,自分は単に雑誌の勧誘員として勧誘しているのではなく,王の王,主の主の大使であり,真のクリスチャンが何世紀にもわたって待ち望み祈り求めてきた来たるべき黄金時代を,つまり我々の主また主人の輝かしい王国を,こうした威厳のある方法で人々に告げ知らせているのだ,ということを忘れないでください」。(啓示 3:8をご覧ください。)この業に参加したいと思う人が何人いるかと講演者が尋ねた際の熱烈な反応は,見る者を奮い立たせました。6,000人の聴衆が一斉に起立したのです。翌年には,1万人以上の人が野外奉仕に参加していました。大会全体には出席者を一致させ鼓舞する効果がありました。
3年後の1922年にはシーダーポイントで,記憶に残るもう一つの大会が開かれました。今回は9月5日から13日までの九日間のプログラムでした。米国とカナダからの出席者に加えて,ヨーロッパからやって来た人たちもいました。集まりは10の言語で行なわれました。毎日の平均出席者数は約1万人でしたが,「現存する万民は決して死することなし」という話の時には非常に大勢の一般の人々も聴衆に加わったので,出席者が2倍近くになりました。
聖書研究者は,この地上でその先何十年も続く業の計画を立てるつもりでこの大会に集まったのではありませんでした。事実彼らは,この大会は「教会が救出され……神の王国の天的な段階へ,そしてまさに我らの主と我らの神が実際におられるその場所へ入る」前の最後の全体大会になるだろう,と述べました。しかし,時がどれほど短くても,神のご意志を行なうことが彼らの第一の関心事でした。そのことを考慮して,ラザフォード兄弟は9月8日金曜日に「王国」という忘れ難い話を行ないました。
その話に先立ち,敷地の様々な場所に,ADVという文字の書かれた大きな垂れ幕が掲げられていました。話の中で講演者が次のように勧めた時,その文字の意味が明らかになりました。「主の忠実な真の証人でありなさい。バビロンが跡形もなく荒廃するまで戦いで前進しなさい。音信を遠く広く告げ知らせなさい。世界は,エホバが神であり,イエス・キリストが王の王,主の主であることを知らねばなりません。今はあらゆる時代のうちで最も重大な時代です。ご覧なさい,王は統治しておられます! あなた方は王のことを広く伝える代理者です。それゆえに,王とその王国を宣伝し,宣伝し,宣伝しなさい」。それと同時に,長さ11㍍もある大きな垂れ幕が聴衆の前に広げられました。その垂れ幕には,「王と王国を宣伝しなさい[英語: “Advertise”,ADVで表わされる]」という心を奮い立たせるスローガンが書かれていました。それは劇的な瞬間でした。聴衆は熱烈に拍手喝采しました。大会オーケストラの一員だった年配のファナベッカー兄弟は頭の上でバイオリンを振りながら,かなりのドイツ語なまりで,「そう,そうね! わたしたち,そうするね」と大声で言いました。そして,聴衆は実際にそうしました。
四日後,大会はまだ続いていましたが,ラザフォード兄弟は個人的に大会出席者たちと共に,大会会場から72㌔以内の区域で家から家の王国宣明の業に携わりました。その業はそれで終わったわけではありませんでした。王国宣明の業には大きな弾みがついており,それが世界中に伝わりました。その年,58の国や地域の1万7,000人以上の熱心な働き人が証言活動に参加しました。その大会に出席しており,後に統治体の成員となったジョージ・ギャンギャスは,何十年も後にシーダーポイントでのプログラムに関して,「それは私の思いと心に焼き付けられました。終生忘れることはないでしょう」と述べました。
霊的な成長における里程標
これまでのどの大会も,神の言葉からさわやかさと教えを与えられる機会となりました。とはいえ,幾つかの大会は何十年かたった今でも霊的な里程標として人々の記憶に残っています。
そうした里程標となる大会のうち七つは,米国とカナダと英国で1922年から1928年にかけて毎年開かれました。それらの大会が意義深いものとなった理由の一つは,力強い決議が採択されたことです。それら七つの決議すべては次のページの囲み記事に列挙されています。証人たちは比較的少数でしたが,ある決議文を4,500万部,他の幾つかの決議文を5,000万部,いずれも多くの言語で世界中に配布しました。幾つかの決議は国際的なラジオ放送網を通じて放送されました。こうして,驚くべき証言がなされました。
歴史に残るさらに別の大会が1931年にオハイオ州コロンバスで開かれました。7月26日,日曜日,聖書研究者たちは聖書からの説明を聞いた後,エホバの証人という新しい名称を採択しました。それは何とふさわしい名称なのでしょう。おもに創造者ご自身に注意を向け,その方を崇拝する者たちの責任を明らかにする名称が与えられたのです。(イザヤ 43:10-12)この名称を採択したことにより,兄弟たちは神のみ名と王国をふれ告げる者として,かつてないほど強い熱意を吹き込まれました。その年にデンマークのある証人から寄せられた,「エホバの証人とは何とすばらしい名称なのでしょう。そうです,私たちがみな本当にそのような者でありますように」という手紙に示されているとおりです。
1935年,忘れ難い別の大会がワシントン特別区で開かれました。その大会の二日目である5月31日金曜日に,ラザフォード兄弟は,啓示 7章9節から17節で言及されている大いなる群衆つまり大群衆について論じました。それまで半世紀以上にわたって聖書研究者はそのグループの正確な実体をつかもうとしてきましたが,うまくゆきませんでした。しかしエホバのご予定の時であるその時,既に進展している出来事に照らして,それらの人たちはほかならぬこの地上で永遠に生きる見込みを持つ人々であるという点が指摘されました。この理解は福音宣明の業に新たな意義を加えるとともに,ちょうどその時エホバの証人の現代の組織の構造に生じ始めていた大きな変化を聖書から説明するものとなりました。
1941年のミズーリ州セントルイスでの大会に出席した人々の中には,初日の「忠誠」と題する話でこの大会のことを思い出す人が少なくありません。その話の中でラザフォード兄弟は,理知ある全創造物の直面している大論争に焦点を合わせました。1928年に「人々の支配者」という話が行なわれて以来,サタンの反逆によって提起された論争に何度も注意が向けられていました。しかし,この時,「サタンのごう慢な挑戦によって提起された最重要な論争は宇宙支配の論争であったが,それは今でも変わらない」と指摘されました。その論争についての認識と,宇宙主権者としてのエホバへの忠誠を保つことの重要性についての認識は,エホバの僕たちの生活において動機づけを与える強力な要素となってきました。
第二次世界大戦のさなかの1942年当時,もしかすると宣べ伝える業はほとんど終わったのではないかと考える人もいましたが,ものみの塔協会の会長に指名されたばかりのN・H・ノアが行なった大会の公開講演は,「平和 ― それは永続するか」というものでした。その話の中で行なわれた啓示 17章の象徴的な「緋色の野獣」に関する説明は,さらに多くの人々を神の王国に導く機会のある第二次世界大戦後の時期にエホバの証人を注目させました。それによって世界的な運動に弾みがつきました。その運動は幾十年にもわたり235余りの国や地域に及んできましたが,まだ終わってはいません。
別の里程標に到達したのは,1950年8月2日,ニューヨークのヤンキー・スタジアムでの大会においてでした。その時,「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」(英文)を初めて受け取った聴衆は,驚くとともに大喜びしました。「新世界訳」の残りの部分は,その後の10年間に分割して発行されました。聖書のこの現代語訳は神の固有のみ名をみ言葉の中のふさわしい箇所に復元しました。新世界訳聖書は聖書の原語の意味に対する忠実さのゆえに,聖書の研究においても,福音宣明の業においても,エホバの証人にとってすばらしい資産となっています。
その大会の最終日の前日に,当時ものみの塔協会の副会長だったF・W・フランズは聴衆に対して,「新しい事物の体制」という主題で話しました。エホバの証人はそれまで長年の間,キリスト教以前のエホバの僕たちの一部がハルマゲドンの前でさえ,詩編 45編16節の成就として新しい世の君となるために死者の中からよみがえらされるものと信じていました。ですから,講演者が「この国際的な集まりに出席している皆さんは,今晩ここに,わたしたちのただ中に,新しい地の君となる見込みを持つ人々がいることを知って喜ばれるのではないでしょうか」と尋ねた時,大勢の聴衆がどう感じたかは想像に難くありません。ひとしきり大きな拍手が続き,喜びの声が上がりました。そこで講演者は,「君」と訳されている語の聖書的な用法と,現代の「ほかの羊」に属する多くの人の忠実さの記録からすると,いま生きている人々の一部が君としての奉仕のためにイエス・キリストによって選ばれるかもしれないと考えてよい,と説明しました。しかし,同時に講演者は,そうした奉仕を託された人々に称号を与えることはないという点も指摘しました。そして話の結びに,「では,わたしたちはみな一緒に,新世社会として着実に前進してゆきましょう」と勧めました。
エホバの証人の大会では,非常に意義深い話がほかにもたくさん行なわれてきました。1953年,「新世社会は北のはてから攻撃される」という話は,エゼキエル 38章と39章で描写されているマゴグのゴグによる攻撃の意味を興味深く説明しました。同じ年,「家を栄光で満たす」という話を聞いた人々は,貴重なもの,望ましいものをあらゆる国民の中からエホバの家に携え入れる,というハガイ 2章7節にあるエホバの約束の成就を示す明白な証拠を眼前に見て,胸を躍らせました。
とはいえ,現代の最も際立った大会が1958年にニューヨークで開かれ,使用可能な最大の施設は,「神の御国は支配す ― 世の終りは近いか」という話を聞くために集まった25万人以上の人々で超満員になりました。123の国や地域から代表者が出席し,大会の聴衆に対する彼らの報告は国際的な兄弟関係のきずなを強めるのに役立ちました。出席者の霊的な成長に寄与するもの,また他の人を教える際に用いるものとして,その特別な大会中に幾つかの出版物が54の言語で発表されました。
1962年には,「上位の権威に対する服従」という主題の一連の話によって,ローマ 13章1節から7節の意味に関する証人たちの理解が正されました。1964年には,「死から生命に移る」および「墓から生命によみがえる」という話によって,復活の備えに示されているエホバの大いなる憐れみに対する感謝の念が強められました。ほかにもそうした大会の目立った点を挙げてゆけば切りがありません。
毎年,何万人,いや何十万人もの新しい人たちが大会に出席しています。提供される情報は組織全体にとって必ずしも新しいものとは限りませんが,新しい出席者たちがその情報によって神のご意志に関する理解を得られるようになり,深い感動を覚えることも少なくありません。彼らは自分の生き方全体を変える奉仕の機会に気づき,その機会をとらえるよう動かされるかもしれません。
多くの大会では,聖書の特定の書の意味に注意が向けられました。例えば,1958年には,そして1977年にも,キリストを王とする一つの世界政府を立てるという神の目的に関する,預言者ダニエルが記録した預言を専ら論じた書籍が発表されました。1971年に注意が向けられたのは,「諸国民はわたしがエホバであることを知らなければならなくなる」という神の宣言が強調されているエゼキエル書でした。(エゼキエル 36:23)1972年には,ゼカリヤとハガイの記した預言が詳細に考察されました。1963年,1969年,1988年には,大いなるバビロンの倒壊や神の輝かしい新しい天と新しい地の到来を生き生きと予告している,興奮を誘う啓示の書の預言が広範に論じられました。
大会では様々な主題が強調されました。少し挙げるだけでも,「拡大する神権政治」,「清い崇拝」,「一致した崇拝者」,「勇気ある奉仕者」,「御霊の実」,「人々を弟子とする」,「すべての国の民に対する福音」,「神のお名前」,「神の主権」,「神聖な奉仕」,「勝利の信仰」,「王国の忠節」,「忠誠を保つ人々」,「エホバへの信頼」,「敬虔な専心」,「光を掲げる人々」などがあります。こうした主題の大会はそれぞれ,組織と組織に交わる人々の霊的な成長に貢献してきました。
福音宣明の業を行なうよう鼓舞される
大規模な大会も小規模な大会も,良いたよりの伝道に関して大きな励ましの源となってきました。話や実演によって実際的な教訓が与えられました。野外宣教で得られた経験や,最近聖書の真理を学ぶよう援助を受けてきた人々の語る経験がプログラムで必ず取り上げられます。さらに,長年のあいだ大会期間中に予定されていた実際の野外奉仕は非常に有益でした。そうした野外奉仕は大会開催都市で良い証言になるとともに,証人たち自身にとって大きな励ましの源となりました。
野外奉仕が大会の予定に含まれる活動となったのは,1922年1月,カナダのマニトバ州ウィニペグでのことでした。その後,同じ年にオハイオ州シーダーポイントで開かれた全体大会でも野外奉仕が特色となりました。それ以後,1日,あるいは1日か数日の一部を割いて,大会開催都市やその周辺で出席者が一緒に伝道活動に参加することが恒例となりました。この活動によって大都市圏では,証人たちと滅多に接触しないような人たちが,義を愛する人々にとこしえの命を与えるという神の目的に関する良いたよりを聞く機会を得ました。
デンマークでは,ネラボルで400人ないし500人の人々が集まった1925年に初めて,大会でのそうした奉仕の日が取り決められました。その大会で野外奉仕に参加した275人の中の多くの人にとっては,奉仕に参加するのは初めてでした。恐れを感じた人もいましたが,野外奉仕を一度味わった後は地元の区域においても熱心な福音宣明者になりました。その大会から第二次世界大戦終結までの間,デンマークでは沢山の一日奉仕大会が開かれ,周辺の町から兄弟たちが招待されました。彼らが一致して宣教に参加し,それから集まって話を聞くうちに,熱意の高まりがはっきり見られました。同様な奉仕大会 ― ただし二日間 ― は,英国と米国でも開かれました。
もっと大規模な大会では,出席者の野外での活動がしばしば大きな部分を占めました。1936年以降,証人たちはポスターを身に着け,ビラを配りながら秩序正しく行進して,大会の公開講演を宣伝しました。(そうしたポスターは体の前と後ろに一枚ずつ着けられたので,初めのうちは“サンドイッチ式プラカード”と呼ばれました。)一つの大会のそうした行進に1,000人以上の証人が参加することもありました。別の人たちは通常の戸別訪問を行ない,プログラムを聞きに来るようすべての人を招待しました。他の人たちと共に働き,何百人,時には何千人もの証人たちが自分と共に宣教に参加しているのを見ることは,証人たち各人にとって非常に大きな励ましとなりました。同時に,エホバの証人が町に来ていることをかなり広い範囲の人々が知るようになり,人々は証人たちが教えている事柄を直接聞いたり,証人たちの振る舞いをじかに観察したりする機会を得ました。
大会で行なわれた話を,会場にいた目に見える聴衆よりずっと多くの人が聞いたことも少なくありません。1927年,カナダのトロントでの大会でラザフォード兄弟が「人々のための自由」という講演を行なった際,その講演は53の放送局のネットワークを通じて,外国に住む膨大な数のラジオ聴取者に伝えられました。これは歴史に残る出来事でした。翌年には,「人々の支配者」という話が,ミシガン州(米国)デトロイトを起点として2倍の数の放送局によって放送され,はるか遠くのオーストラリアやニュージーランドや南アフリカの聴取者にも短波放送で伝えられました。
1931年,ラザフォード兄弟による大会の話を放送する計画は,大手ラジオ・ネットワークの協力を取りつけることができませんでした。そのため,ものみの塔協会はアメリカ電話電信会社と共同で,かつてない規模の有線放送網を含む,163の放送局を結ぶ独自の放送網を作り上げ,「神の国 ― 全地の希望」という音信を伝えました。それに加えて,世界各地のさらに300以上の放送局がそのプログラムを録音で放送しました。
1935年,ワシントン特別区での大会で,ラザフォード兄弟は「政府」という主題で話し,キリストの治めるエホバの王国が間もなく人間のすべての政府に取って代わるという事実に力強く注意を引きました。その話はワシントン講堂に集まった2万人以上の人が聞いただけでなく,ラジオや電話回線によって全世界に伝えられ,中南米,ヨーロッパ,南アフリカ,太平洋の島々,東洋の国々にも達しました。こうしてその話を数え切れないほど多くの人が聞いたものと思われます。ワシントンの二つの一流新聞社はその話を掲載する契約を破棄しました。しかし,兄弟たちは市内の3か所とワシントン周辺の他の40か所に配置したサウンドカーから話を再放送したので,さらに推定12万人の人々が話を聞きました。
そして1938年,「事実を見よ」という率直な話が英国ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールから全世界の50ほどの大会開催都市に伝えられ,出席者合計は約20万人になりました。さらに,膨大な数のラジオ聴取者もその話を聞きました。
このように,エホバの証人は比較的少数でしたが,彼らの大会は王国の音信を公にふれ告げる点で重要な役割を果たしました。
ヨーロッパでの戦後の大会
自分の出席した特定の大会は,その人にとって他のどんな大会よりも際立ったものとなります。第二次世界大戦直後のヨーロッパでの大会がそうでした。
そうした大会の一つは,証人たちがドイツの強制収容所から解放されて4か月もたっていない1945年8月5日にオランダのアムステルダムで開かれた大会です。2,500人ほどの出席者が予想され,そのうちの2,000人には宿舎が必要でした。必要な寝泊まりの場所を提供するため,地元の証人たちは自宅の床にわらを敷きました。出席者たちは四方八方から,船やトラックや自転車など,あらゆる手段を尽くしてやって来ました。中にはヒッチハイクをした人もいました。
大会では泣くことも笑うこともありました。歌を歌い,エホバの善良さについて感謝をささげました。ある出席者によると,「そこにあったのは,足かせから自由にされたばかりの神権組織の,言葉では言い表わせない喜びでした」。戦前,オランダの証人たちは500人足らずでした。合計426人が逮捕・投獄され,そのうち117人は迫害が直接の原因で亡くなりました。死んだものと思っていた家族をその大会で見つけた人たちの喜びはいかばかりだったでしょう。一方,捜しても見つからなかった人たちの目には涙があふれました。その晩4,000人の人たちは,エホバの証人がそうした厳しい迫害の的となった理由を説明する公開講演に一心に耳を傾けました。辛い経験をしたにもかかわらず,彼らは神から与えられた業を推し進めるために組織されつつありました。
翌1946年,ドイツの兄弟たちはニュルンベルクでの大会を取り決め,かつてヒトラーの閲兵場だったツェッペリンビーゼの使用許可を得ました。大会二日目には,ゲシュタポの残忍な行為を個人的に体験し,ナチの強制収容所で数年間過ごしたエーリヒ・フロストが,「試練のるつぼに入れられたクリスチャン」という公開講演を行ないました。その場には6,000人の証人たちだけでなく,ニュルンベルクの一般の人々も3,000人出席していました。
その大会の最終日は,そこニュルンベルクで戦争犯罪裁判の判決が言い渡される日に当たりました。軍当局は当日の夜間外出禁止令を出しました。しかし,長い交渉の末,軍当局は,ナチの反対に直面してエホバの証人が取った立場を考慮すると,証人たちの邪魔をし,大会が平和裏に終わらないようにするのはふさわしくないという考えに同意しました。こうして,その最終日に兄弟たちは集まって,「世の陰謀に面しても恐れない」という感動的な話を聞きました。
証人たちは生じている出来事の中にエホバのみ手の働きがあることを理解しました。証人たちを根絶しようとした体制の代表者たちが判決を受けているまさにその時,エホバの証人はかつてヒトラーがナチの力を特に華々しく誇示した場所でエホバを崇拝するために集まっていたのです。大会司会者はこう述べました。「ハルマゲドンの戦いの際に神の民が敵たちに対して収める大勝利の予告編にすぎない今日という日を経験できるだけでも,強制収容所で9年間過ごしたかいがありました」。
そのほかの忘れ難い大会
エホバの証人の活動が拡大するにつれ,世界中で大会が開かれてきました。出席者にとっては,それらの大会すべてに際立った特色がありました。
銅鉱地帯の中心にある北ローデシア(現在のザンビア)のキトウェでは,1952年に行なわれるものみの塔協会会長の訪問の際に大会を予定していました。会場は,現在チャンボリと呼ばれる所にある鉱山町のはずれの広い場所でした。空になった蟻塚の上部を平らにして,その上に草ぶき小屋を建てて演壇としました。そのほか,2階建ての宿泊用の草ぶき小屋が幾つも,座席となる主要な場所を中心にして車輪のスポークのように180㍍も続いていました。大人であれ子供であれ,男性と女性は別々の小屋に泊まりました。出席者の中には,自転車を2週間こいで来た人たちや,何日も歩いたのち旧式なバスに乗ってやって来た人たちもいました。
プログラム中,聴衆は屋根のない場所で硬い竹のベンチに座っていましたが,非常に注意深く耳を傾けていました。話を聞くためにやって来たので,一言も聞き漏らしたくなかったのです。その2万人の聴衆の歌は,涙を誘う本当にすばらしいものでした。楽器による伴奏は全くないのに,歌声のハーモニーは絶妙でした。その証人たちの生まれ育った環境や出身部族は様々でしたが,歌だけでなくあらゆる面で彼らの間には一致が表われていました。
ポルトガルの証人たちは崇拝の自由を求める闘いを50年近く続けた末,ようやく1974年12月18日に法的認可を得ましたが,あなたは,その時彼らが味わった気持ちを想像できるでしょうか。当時,証人たちの数は1万4,000人ほどにすぎませんでした。それから幾日もたたないうちに,ポルトの競技場は7,586人の証人たちで一杯になりました。翌日には,リスボンのサッカー場が3万9,284人の人々で超満員になりました。ノア兄弟とフランズ兄弟もその喜ばしい時のためにその場にいました。多くの人はその時のことを決して忘れないでしょう。
国際的な集まりを組織する
エホバの証人は優に半世紀以上にわたって,複数の都市を結ぶ大規模な大会を多くの国で同時に開いてきました。中心都市から送られる主要な話を全員で聞くことのできるそうした機会には,国際的な兄弟関係にあるという証人たちの意識が高められてきました。
しかし,1946年に初めて,大規模な国際大会の際に世界各地の代表者たちが一つの都市に集まりました。それはオハイオ州クリーブランドでのことです。戦後の時期で旅行はまだ困難でしたが,出席者は8万人に達し,その中には米国以外の32の国や地域からの302人の代表者が含まれていました。20の言語で集まりが開かれ,福音宣明の業の拡大を見込んで,多くの実際的な教訓が与えられました。大会の目立った点の一つは,再建と拡大の問題に関するノア兄弟の話でした。協会の本部の印刷・事務施設やラジオ放送施設の拡張計画,世界のおもな国々における支部事務所の開設計画,また宣教者の業の拡大に関する計画などを聞き,聴衆は熱烈な拍手を送りました。その大会後直ちに,討議された事柄を実行に移すためにノア兄弟とヘンシェル兄弟が世界一周旅行を行なえるよう,詳細な計画が立てられました。
その後の年月の間に,まさに歴史に残る幾つかの大会がニューヨーク市のヤンキー・スタジアムで開かれました。まず,1950年7月30日から8月6日にかけて開かれた最初の大会には67の国や地域から代表者が出席しました。プログラムの中で支部の僕や宣教者などの代表者たちが短い報告を行ないました。大会出席者はそうした報告により,代表者たちの国や地域で例外なく徹底的な福音宣明の業が行なわれている様子を垣間見て,胸を躍らせました。最終日には,「あなたは地上で幸福のうちに永遠に生きられますか」という話の際に出席者数は12万3,707人に達しました。その大会の主題は「拡大する神権政治」であり,人数の大幅な増加に注意が向けられました。しかし,司会者のグラント・スーターが強調したとおり,数に注意が向けられたのは目に見える組織の中の優秀な頭脳の持ち主を称賛するためではありませんでした。むしろ,「人数が新たに増し加えられたことは,ひとえにエホバの誉れです。当然そうあるべきです。それ以外には考えられません」とスーターは述べました。
1953年,ニューヨークのヤンキー・スタジアムで別の大会が開かれ,今回は出席者最高数が16万5,829人に達しました。同じ場所で開かれた最初の大会と同様に,感動的な聖書預言の討議,良いたよりの伝道を成し遂げる方法に関する実際的な助言,多くの国や地域からの報告など,盛り沢山のプログラムが提供されました。プログラムは午前9時半ごろに始まりましたが,たいてい午後9時か9時半まで続きました。大会は丸八日間の喜ばしい霊的な宴となりました。
1958年にニューヨークで開かれた最も大きな大会では,大勢の大会出席者を収容するために,ヤンキー・スタジアムだけでなく,近くのポロ・グランドと,両競技場の外の予備席も使用しなければなりませんでした。最終日に座席が一杯になると,ヤンキー・スタジアムのグラウンドも使用できる特別な許可が与えられました。何千人もの人たちが流れのように入ってきて靴を脱いで芝生に座るのは,本当に感動的な光景でした。公開講演を聞いた出席者は25万3,922人になりました。神の僕たちの宣教に対するエホバの祝福が一層明らかになったのは,この大会で7,136人が献身の象徴として水の浸礼を受けた時のことでした。その人数は,聖書に記されている,歴史的な西暦33年のペンテコステの時にバプテスマを受けた人の数と比べると,2倍を優に上回っています。―使徒 2:41。
こうした大会の運営全体は,効率良く組織されていたということよりもずっと重要な事柄を証明するものでした。そこには,神の霊が神の民の間に働いていることが表われていたのです。神に対する愛を基盤とする兄弟愛が至る所に見られました。高給を得る組織者は一人もおらず,どの部門でも働いているのは無給の自発奉仕者でした。クリスチャンの兄弟姉妹が喫茶スタンドで奉仕しており,家族一緒にそうしている人たちも少なくありませんでした。兄弟姉妹は温かい食事も準備し,スタジアムの外の巨大なテントの中で1分間に1,000食もの割合で出席者に提供しました。何万人もの人がみな喜んで仕事に参加し,案内係として奉仕したり,建設や炊事や給仕や清掃のほか,多くの分野の必要なあらゆる仕事を受け持ったりしました。
さらに多くの自発奉仕者たちは,出席者の宿泊の必要を満たすために何十万時間も費やしました。年によっては,大会出席者の少なくとも一部を収容するため,トレーラーとテントの町が設けられました。1953年には,トレーラーの町のために土地を貸してくれたニュージャージー州の農場主のために,証人たちは16㌶分の穀物を無償で収穫しました。4万5,000人を超える人々を世話するため,衛生設備,照明,シャワー,洗濯室,食堂,食料品店などがすべて設置されました。人々がやって来ると,一夜にして一つの町が出現しました。そのほかの大勢の人たちはニューヨークとその周辺のホテルや個人の家に宿泊しました。こうした膨大な仕事がありましたが,エホバの祝福によって首尾よく成し遂げられました。
移動する大会
この国際的な兄弟関係に属する人々は他の国の仲間の証人たちに深い関心を抱いており,そのため,これまで機会をとらえては他の国の大会に出席してきました。
1951年,英国ロンドンのウェンブリー・スタジアムで一連の「清い崇拝大会」の最初の大会が開かれた際,40か国の証人たちが出席しました。プログラムでは,真の崇拝の実際的な面と,宣教を自分の生涯の仕事とすることが強調されました。続く2か月間にヨーロッパ大陸ではさらに九つの大会が開かれることになっており,英国から大勢の証人たちが大陸に渡りました。それらの大会の中で最も大規模だったのはドイツのフランクフルト・アム・マインでの大会で,そこには24の国や地域から4万7,432人が出席しました。その閉会の際に兄弟たちの温かい気持ちが表われました。オーケストラが演奏を始めると,突然ドイツの兄弟たちが,外国から参加した仲間の証人たちを神に委ねる別れの歌を,だれからともなく歌い始めました。ハンカチが振られ,何百人もの人がこの大きな神権的な祭りに対する個人的な感謝を表わすため,群れをなしてフィールドを横切りました。
1955年,さらに多くの証人たちが大会の際に外国のクリスチャンの兄弟たちを訪問する計画を立てました。米国とカナダの代表者たちは2隻の船(各々700人乗り)と42機の飛行機を借り切ってヨーロッパへ向かいました。ドイツで発行されたヨーロッパ版「スターズ・アンド・ストライプス」紙は,証人たちが続々とやって来る様子を,「アメリカ人の集団がヨーロッパを通過した事例としては,恐らく第二次世界大戦中の連合軍の侵攻以来最大のもの」と描写しました。中南米,アジア,アフリカ,オーストラリアからも代表者たちがやって来ました。ローマとニュルンベルクではキリスト教世界の僧職者が証人たちの大会開催を阻止しようとしましたが,その夏,それら二つの大会と他の六つの大会がヨーロッパで開かれました。出席者はローマの4,351人から,ニュルンベルクの10万7,423人まで様々でした。当時西ベルリンと呼ばれた地域のバルトビューネでは1万7,729人の人々が集まりました。そこは,当時の東側地区の兄弟たちがあまり危険を冒さずに来ることのできた場所でした。それらの兄弟たちの中には,信仰のゆえに投獄されていた人や,家族が投獄中の人も少なくありませんでした。しかし,兄弟たちは確固とした信仰を抱き続けていました。「勝利の王国」という大会の主題はまさに適切でした。
それまでにも多くの国際大会がありましたが,1963年に開かれた大会は新しいタイプの大会の先駆けとなりました。その大会は世界一周大会で,米国のウィスコンシン州ミルウォーキーで始まってニューヨークへ移動し,次にヨーロッパの四つの大都市と中東を経て,インド,ビルマ(現在のミャンマー),タイ,香港,シンガポール,フィリピン,インドネシア,オーストラリア,台湾,日本,ニュージーランド,フィジー,韓国,ハワイを回ってから,北米本土に戻りました。合わせて161の国や地域の代表者たちが出席し,出席者合計は58万人を超えました。20ほどの国や地域の583人の人たちが大会と共に移動し,国から国を巡って大会に出席し,世界を一周しました。彼らは宗教的に興味深い場所を特別ツアーで見学することができ,また地元の兄弟姉妹と共に家から家の宣教に参加しました。旅費は自分持ちでした。
ほとんどの国際大会に中南米から大勢の代表者が出席していましたが,1966年から1967年にかけて,今度は彼らが大会の主人役を務めることになりました。エレミヤに関する聖書の記述を生き生きと再現し,その記述の現代的な意味を理解するよう一人一人を助けた劇を,出席者たちは決して忘れないでしょう。a 中南米において膨大な聖書教育活動がどんな状況下で行なわれているのかを訪問者たちがじかに見ることにより,クリスチャン愛のきずなが強められました。訪問者たちは仲間の信者の強い信仰に深く心を動かされました。家族の反対や洪水や財産の損失など,克服し難く思える障害を乗り越えて出席した人も少なくなかったからです。訪問者たちは幾つかの経験を聞き,大いに励まされました。例えば,インタビューを受けたウルグアイの体の弱い特別開拓者の姉妹は,それまでにクリスチャンのバプテスマの段階まで進歩するのを援助した80人のうちの多くの人たちと共に演壇に上りました。(1992年の時点で,この姉妹は105人の人をバプテスマの段階まで援助していました。姉妹は相変わらず虚弱でしたが,特別開拓奉仕を続けていました。)また,ギレアデのごく初期のクラスを卒業し,なお任命地で働き続けている宣教者たちに会うのも実に心温まる経験でした。そうした大会は世界のその地域で行なわれている業に対する良い刺激となりました。それらの国々のうち,今ではエホバの賛美者の数が当時の10倍,15倍,さらには20倍に増えている国は少なくありません。
数年後の1970年から1971年にかけて,外国の証人たちはアフリカの国際大会で兄弟たちと交わることができました。そうした大会の中で最大のものはナイジェリアのラゴスでの大会でした。そこではすべての施設を全く新たに造らなければなりませんでした。強い日差しから出席者を保護するため,座席の区画,宿舎,食堂,他の部門などを含む,竹造りの町が建設されました。そのために必要な10万本の竹ざおと3万6,000枚の大きな葦のむしろは,すべて兄弟姉妹たちが準備しました。プログラムは17の言語で同時に行なわれました。出席者数は12万1,128人に達し,3,775人の新しい証人たちがバプテスマを受けました。多くの部族の人たちが出席し,その中にはかつて戦い合っていた人々も少なくありませんでした。しかし,そうした人々が今では真のクリスチャンの兄弟関係のきずなで結ばれているのですから,その様子を目にするのは本当に大きな喜びでした。
その大会後,外国からの代表者たちの中には,最近の内戦で特に深刻な影響を受けた地域を見るため,バスでイボランドへ向かった人たちがいました。訪問先のどの町でも,訪問者たちは地元の証人たちに歓迎されて抱き締められ,大評判になり,その様子を見ようとして人々が通りに殺到しました。そのようにして黒人と白人の間で愛と一致が表わされるのを,人々は一度も見たことがなかったのです。
国によっては,エホバの証人の人数の関係で,全員が1か所に集まることは不可能です。しかし時折,幾つかの大規模な大会を同時に開催した後,さらに幾つかの大会を次々と毎週開いてゆくことがあります。1969年には,主立った話し手の幾人かが飛行機で大会から大会へ飛び回ってすべての大会で話を行なうことにより,そのようにして取り決められた大会で感じられる一致はさらに強められました。1983年と1988年にも,同様の一体感がありました。統治体の成員が行なう主要な話を電話回線で送ることにより,国の内外を問わず,同じ言語を用いる幾つかの大規模な大会が一つに結ばれたのです。しかし,エホバの証人の間の一致の本当の基盤となっているのは,彼らすべてが唯一まことの神としてエホバを崇拝し,導きとして聖書に固く従い,同一の霊的な養育計画から益を得ているという事実,また彼らすべてが自分たちの指導者としてイエス・キリストに頼り,生活の中で神の霊の実を表わすことに努め,神の王国に信頼を置き,その王国の良いたよりを他の人に伝える業に参加しているという事実です。
国際的にエホバを賛美するために組織される
エホバの証人は数の点で幾十もの国の人口を上回るまでに増加しました。大会が最大の益をもたらすようにするためには,非常に注意深い計画が必要です。しかし通常,すべての人のために十分なスペースを確保するには,様々な地域の証人たちの出席すべき場所に関して簡潔な要請を発表するだけで十分です。国際大会が計画されると,たいてい統治体は,出席を希望するだけでなく出席できる立場にある他の国の証人たちの人数のほか,使用可能な大会施設の大きさ,出席する地元の証人たちの人数,代表者が利用できる宿泊先の総数などを考慮しなければなりません。その後,各国に人数の上限を割り当てることができます。1989年にポーランドで開かれた三つの「敬虔な専心」大会の場合がそうでした。
その三つの大会には,ポーランドの9万人ほどの証人たちに加えて,新たに関心を持った多くの人の出席が予想されました。英国やカナダや米国の大勢の人も招かれ,イタリアやフランスや日本からの大代表団が歓迎を受けました。スカンディナビアやギリシャから来た人もいて,少なくとも37の国や地域から代表者が出席しました。プログラムの特定の部分に関しては,ポーランド語や英語の話を他の16もの言語に通訳する必要がありました。出席者合計は16万6,518人でした。
これらの大会には当時のソ連とチェコスロバキアから証人たちの大きなグループがやって来ましたし,他の東欧諸国からのかなりの人数のグループも出席しました。ホテルや学校の寄宿舎だけでは全員を泊めることができませんでした。ポーランドの証人たちはもてなしの精神を示し,心を開いて自宅を開放し,持っている物を喜んで分かちました。成員146人のある会衆は1,200人以上の出席者のために宿舎を準備しました。これらの大会の出席者の中には,15人ないし20人以上のエホバの民の大きな集まりに出るのは初めてという人たちもいました。そうした人たちがスタジアムの何万人もの人々を目にし,それらの人々と共に祈りをささげ,声をそろえてエホバに賛美の歌を歌った時,彼らの心には感謝の気持ちがこみ上げてきました。プログラムの合間の交わりの際には,言語の相違のために心にあることを言い表わせないことが多くても,温かい抱擁を交わしました。
閉会の際,彼らの心はすべての物事を可能にしてくださったエホバに対する感謝で一杯でした。ワルシャワでは,司会者が別れの言葉を述べると,聴衆から拍手がわき起こり,少なくとも10分間は鳴りやみませんでした。最後の歌と祈りの後,再び拍手が起こり,聴衆はなかなかスタンドを去りませんでした。彼らは長年この時を待ち望んできたので,終わってほしくなかったのです。
翌1990年,当時の東ドイツのエホバの証人に対する40年にわたる禁令が解かれてから5か月もたたないころ,もう一つの感動的な国際大会が今度はベルリンで開かれました。4万4,532人の出席者の中には65の国や地域の代表者が含まれていました。ある国や地域からは数人だけ,ポーランドからは約4,500人がやって来ました。そうした大会に出席する自由をそれまで一度も得たことのなかった人たちの深い感情は,言葉で言い表わすことができませんでした。そして,聴衆全員がエホバへの賛美の歌に和した時,それらの人たちは喜びの涙を抑えることができませんでした。
その後,同じ年に同様の大会がブラジルのサンパウロで開かれた際,世界各地から来た13万4,406人の聴衆を収容するには二つの大きな競技場が必要でした。サンパウロ大会に続いてアルゼンチンでも大会が開催され,そこでも世界各地から来た聴衆を収容するため二つの競技場を同時に使用しました。1991年になると,国際大会がさらにフィリピンと台湾とタイで開かれてゆきました。その年,東ヨーロッパ ― ハンガリー,チェコスロバキア,現在のクロアチア ― で開かれた大会にも多くの国から大勢の人が出席しました。そして1992年にはサンクトペテルブルクで,28か国からの代表者は,ロシアのエホバの証人による最初のまさに国際的な大会に集まった4万6,214人の一人に数えられたことを大きな特権とみなしました。
定期的に霊的なさわやかさを得る機会
エホバの証人の開く大会すべてが国際的な集まりというわけではありませんが,年に1度大規模な大会が統治体によって取り決められ,世界的に同一のプログラムが多くの言語で提供されます。中にはかなり大きな大会もあり,多くの場所の他の証人たちとの交友の機会となります。また,比較的小さな大会が多くの都市で開かれるため,新しい人たちが一層出席しやすくなるとともに,幾百もの小都市の一般の人々がエホバの証人の典型的な姿を間近によく観察することができます。
それに加えて,各巡回区(20ほどの会衆で構成される)は年に1度集まって,霊的な諭しと励ましを与える二日間のプログラムを楽しみます。b さらに,1987年9月からは,各巡回区で年に1度,築き上げる一日のプログラムとなる特別一日大会が取り決められています。可能であれば,協会の本部または地元の支部事務所の奉仕者の一人が派遣されて,プログラムの一部を扱います。エホバの証人はこうしたプログラムを深く感謝しています。多くの場所では,大会会場が遠いとか,そこまで行くのが大変だということはありません。しかし,そうでない場合もあります。ある旅行する監督は,ジンバブエの巡回大会に出席するためにスーツケースと毛布を持って76㌔歩いた年配の夫婦のことを覚えています。
こうした大会では,大会期間中の野外奉仕はもはや全く行なわれていません。しかし,それは証人たちが以前より野外奉仕を重視しなくなったからでは決してありません。今では,たいてい地元の証人たちが大会会場の近くに住んでいる人々を定期的に訪問しており,場合によっては数週間ごとにそうしています。大会出席者たちは非公式の証言の機会に常に目ざとくあり,クリスチャンにふさわしい彼らの振る舞いも別の面で強力な証言となっています。
真の兄弟関係の証拠
大会で証人たちの間に明らかに見られる兄弟関係は,すぐ人々の目に留まります。人々は証人たちの間に不公平がないことや,互いに初対面であったとしても,お互いの間に純粋の温かさがはっきり見られることに気づきます。1958年にニューヨークで開かれた『神の御心』国際大会の際に,ニューヨークのアムステルダム・ニューズ紙(8月2日付)はこう報じました。「どこを見ても,黒人,白人,東洋人,世界の各地から来た,あらゆる階層の人々が自由に交歓していた。……世界の120の国から来た敬虔な証人たちが平和に過ごして崇拝を共にし,それがいかに容易になし得るかを米国民の前に示した。……その大会は,人々がいかに一致して生活し,共に働き得るかを示すすばらしい例となった」。
もっと最近では,1985年にエホバの証人が南アフリカのダーバンとヨハネスブルクで同時に大会を開いた際,出席者の中には南アフリカのすべての主要な種族と言語グループの人たち,および他の23の国や地域の代表者たちが含まれていました。出席した7万7,830人の人々の間の温かい交友はすぐに明らかになりました。あるインド人の若い女性は,「本当に麗しい光景です。カラード,インド人,白人,黒人が一緒になっているのを見て,私の人生観はすっかり変わってしまいました」と言いました。
兄弟関係にあるというこうした意識は,単に笑顔や握手,また互いに「兄弟」や「姉妹」と呼び合うことに表われるだけではありません。一例として,1963年に全世界で「永遠の福音」大会の準備が行なわれていたとき,エホバの証人は次のような知らせを受け取りました。それは,大会に出席できるよう他の人々を金銭面で援助したいと思う人がいるなら,協会は喜んでその資金が世界各地の兄弟たちを益するものとなるよう取り計らう,という内容でした。寄付を懇願することはなく,寄付が管理上の出費のために用いられることもありませんでした。資金はすべて所定の目的のために用いられました。こうして,8,179人が大会に出席するための援助を受けました。中南米のすべての国の代表者たち,それにアフリカの幾千人もの人たち,中東と極東の多くの人たちが援助を受けました。それら援助を受けた代表者たちの大部分は,全時間宣教に長年携わってきた兄弟姉妹でした。
1978年の末ごろ,ニュージーランドのオークランドで大会が開かれることになりました。そのことを知ったクック諸島の証人たちは是非出席したいと思いましたが,島の経済状態からすると一人分の旅費でも一財産でした。ところが,ニュージーランドの愛ある霊的な兄弟姉妹たちが約60人の島民のために往復の旅費を寄付してくれたのです。彼らは大会に出席して,マオリ族やサモア人やニウエ人や白人の兄弟たちと一緒に霊的な宴にあずかることができ,大喜びしました。
1988年,カナダのモントリオールで開かれた「神の公正」地域大会の閉会の際に生じた事柄は,エホバの証人の間に見られる精神を示す典型的な例でした。アラビア語,英語,フランス語,ギリシャ語,イタリア語,ポルトガル語,スペイン語を話す出席者たちは,それまでの四日間にわたって同一のプログラムを自分たちの言語で楽しみました。しかし,プログラムの最後の部分で4万5,000人の出席者全員がオリンピック・スタジアムに集合し,兄弟関係と目的における一致を感動的な仕方で示しました。各グループがそれぞれの言語で,「来たりて共に歌え『エホバは支配す 天地も歓べ』」と一緒に歌ったのです。
[脚注]
a その後の25年間に,さらに70のそのような劇が大会で上演されました。
b 1947年から1987年までの間,この集まりは毎年2回開かれました。1972年までは三日間の大会でしたが,その年から二日間のプログラムになりました。
[255ページの拡大文]
「愛や,兄弟としての親切の精神に深い感銘を受けました」
[256ページの拡大文]
大会列車 ― 皆さんご乗車ください!
[275ページの拡大文]
高給を得る大会組織者ではなく,無給の自発奉仕者
[278ページの拡大文]
黒人と白人の間の一致
[261ページの囲み記事/図版]
七つの重要な大会決議
1922年,「世界の指導者たちに対する挑戦」と題する決議は世界の指導者たちに対して,この地球を支配する知恵が人間にあることを証明するか,さもなければ,平和と命と自由,また終わりのない幸福はイエス・キリストを通してエホバからしかもたらされないことを認めるよう求めました。
1923年,神とキリストの代表者であると詐称している組織から急いで逃れなければならないという「すべてのクリスチャンに対する警告」が出されました。
1924年,「聖職者に対する告発」という決議はキリスト教世界の僧職者の非聖書的な教理や慣行を暴露しました。
1925年,「希望の音信」という決議は,世界の指導的な光であると自称している者たちが人間の最大の必要を満たせなかった理由と,神の王国だけがどのようにその必要を満たせるかという点を示しました。
1926年,「世界の支配者たちに対する証言」は,エホバが唯一まことの神であられ,イエス・キリストが今や地の正当な王として支配しておられることを支配者たちに知らせました。また,支配者たちに対して,人々に災いが臨まないよう影響力を行使して人々の考えをまことの神に向けるよう促しました。
1927年,「キリスト教世界の人々への決議」は,財界-政界-宗教界の結合が人類を抑圧していることを暴露しました。また,キリスト教世界を捨て,エホバと,キリストの手中にある神の王国に信頼を置くよう人々を促しました。
1928年,「サタンに反対し,エホバを支持する宣言」は,エホバによって油そそがれた王イエス・キリストが間もなくサタンを拘束し,サタンの邪悪な組織を滅ぼすことを明らかにするとともに,義を愛するすべての人に対して,エホバの側に立つよう勧めました。
[272,273ページの囲み記事/図版]
幾つかの大規模な大会の特色
熱意にあふれた多くの出席者たちが船で到着し,さらに大勢が飛行機で,また,それをはるかに上回る人たちが自動車やバスで到着した
十分な数の宿泊先を探したり割り当てたりするためには,良い組織と多くの自発奉仕者が必要だった
こうした八日間の大会中,何万食もの温かい食事が欠かすことなく出席者に提供された
1953年,トレーラーとテントの町に4万5,000人以上の出席者が宿泊した
1958年,ニューヨークでは7,136人がバプテスマを受けた。これは,一度にバプテスマを受けた人数としては,西暦33年のペンテコステ以来空前の記録である
1953年,ニューヨークでは多くの国や地域からのあいさつが掲げられ,プログラムは21の言語で行なわれた
[256ページの図版]
1917年,カナダのマニトバ州ウィニペグで開かれた国際聖書研究者協会の大会の出席者
[258ページの図版]
1919年,オハイオ州シーダーポイントで話をするJ・F・ラザフォード。彼は,「黄金時代」誌を用いて神の王国を告げ知らせる業に熱心に参加するようすべての人に勧めた
[259ページの図版]
1922年のシーダーポイントでの大会。「王と王国を宣伝しなさい」という呼びかけがなされた
[260ページの図版]
1922年,ジョージ・ギャンギャスはシーダーポイント大会に出席した。彼はそれ以来,約70年にわたって神の王国を熱心にふれ告げてきた
[262,263ページの図版]
オハイオ州コロンバスで開かれた1931年の大会の出席者。彼らはエホバの証人という名称を熱意を込めて採択した
[264ページの図版]
1950年にN・H・ノアが発表した「クリスチャン・ギリシャ語聖書新世界訳」
[264ページの図版]
聖書預言の成就に関するF・W・フランズの話は大会のハイライトだった(ニューヨーク,1958年)
[265ページの図版]
長年の間,野外奉仕はすべての大会の主要な部分だった。
米国のロサンゼルス,1939年(下)。スウェーデンのストックホルム,1963年(はめ込み部分)
[266ページの図版]
1935年にJ・F・ラザフォードがワシントン特別区で行なった話は,ラジオと電話回線で六つの大陸に伝えられた
[268ページの図版]
1946年,ドイツのニュルンベルクで,エーリヒ・フロストは「試練のるつぼに入れられたクリスチャン」という熱烈な話を行なった
[269ページの図版]
1952年,N・H・ノアの訪問中に開かれた,北ローデシアのキトウェでの屋外の大会
[270,271ページの図版]
1958年,ニューヨークの二つの大きな競技場を超満員にした25万3,922人の聴衆が,「神の御国は支配す ― 世の終りは近いか」という話を聞いた
ポロ・グランド
ヤンキー・スタジアム
[274ページの図版]
1950年のヤンキー・スタジアムでの大会司会者,グラント・スーター
[274ページの図版]
1958年,ジョージ・カウチと共に大会組織を検討するジョン・グロー(座っている)
[277ページの図版]
1963年に世界一周大会が開かれ,20ほどの国や地域の代表者たちが大会とともにまさに世界一周の旅行をした
日本の京都(左下)は27の大会開催都市の一つだった。代表者たちは韓国で知り合いになった(中央)。ニュージーランドでのマオリ式あいさつ(右下)
[279ページの図版]
この時のために建設された竹造りの町で,17の言語グループのための大会プログラムが同時に提供された(ナイジェリアのラゴス,1970年)
[280ページの図版]
1989年,ポーランドで三つの大規模な大会が開かれ,37の国や地域の代表者が出席した
ポズナニで出席者に向かって話すT・ジャラズ(右側)
ホジュフでは何千人もの人がバプテスマを受けた
ワルシャワでは聴衆の拍手がなかなか鳴りやまなかった
当時のソ連からの代表者たち(下)
ホジュフでのプログラムの一部は15の言語に翻訳された