イエスと弟子たちは北のガリラヤに向かっています。春なので畑には穀物が実っています。おなかがすいた弟子たちは穂をむしって実を食べます。その日は安息日で,パリサイ派の人たちがイエスと弟子たちを見張っています。
少し前,エルサレムのユダヤ人たちは,イエスが安息日を破ったと非難し,イエスを殺そうとしました。この日も,パリサイ派の人たちは弟子たちの行動を見て,こう言います。「見なさい,あなたの弟子たちは安息日にしてはいけないことをしています」。(マタイ 12:2)
穀物をむしり,手でこすって食べるのは収穫と脱穀に当たるというのが,パリサイ派の人たちの主張です。(出エジプト記 34:21)もともと安息日は信仰を強める爽やかな日であるべきでした。でも,彼らは何が仕事に含まれるかについて厳し過ぎる見方をしていたので,安息日は大変うっとうしいものになっていました。エホバが取り決めた安息日の律法はそのように厳しいものではありません。イエスはそのことを示すため,幾つかの例を使って彼らの見方が間違っていることを指摘します。
まずイエスは,ダビデとその部下の例を挙げます。彼らは空腹だった時,幕屋に立ち寄って供え物のパンを食べました。そのパンはすでに新しいものと取り換えられ,エホバの前から取り下げられたもので,普通は祭司たちが食べました。しかし,その時は特別に,ダビデと部下は食べることを許されました。(レビ記 24:5-9。サムエル第一 21:1-6)
次にイエスは別の例を挙げ,「安息日に神殿にいる祭司たちが安息日を守らなくても罪にならないことを,律法の中で読んだことがないのですか」と言います。祭司は安息日でも神殿で犠牲のための動物を殺したりします。イエスはこう続けます。「しかしあなた方に言いますが,神殿より偉大な者がここにいます」。(マタイ 12:5,6。民数記 28:9)つまり,イエスは神の大祭司なので,安息日を破ることなど心配せずに自分の仕事を行うことができるのです。
イエスは大切なポイントを強調するため,もう1つの聖句を引用し,こう言います。「あなた方は,『私が望むのは憐れみであって,犠牲ではない』ということの意味を理解していたなら,罪のない人を断罪したりはしなかったでしょう」。そして最後に,「人の子は安息日の主なのです」と言います。イエスはここで,自分が行う1000年間の平和な王国支配について述べていました。(マタイ 12:7,8。ホセア 6:6)
人類は長い間,サタンの支配する世で戦争や暴力に苦しめられながら生活してきました。しかし,安息日の主キリストは,私たちがずっと待ち焦がれてきた安心できる時代を実現するのです。