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「来て,私の弟子になりなさい」
追 第10章 98–107ページ

第10章

「こう書かいてあります」

イエスが会堂で巻物を読んでいる。

「この聖せい句くは,今日きょう実じつ現げんしています」

1-3. イエスはナザレの人ひとたちにどんな重じゅう要ような事じ実じつを知しってほしいと思おもいましたか。人ひと々びとが信しんじられるように何なにをしましたか。

宣せん教きょうを始はじめて間まもない頃ころ,イエスは故こ郷きょうのナザレに戻もどりました。同どう郷きょうの人ひとたちに,自じ分ぶんが昔むかしから予よ告こくされていたメシアであるという重じゅう要ような事じ実じつを知しってほしいと思おもったからです。人ひと々びとが信しんじられるよう,イエスは何なにをするでしょうか。

2 多おおくの人ひとは奇き跡せきを見みたいと思おもっていたことでしょう。イエスが行おこなった奇き跡せきについてうわさで聞きいていたからです。しかし,イエスは奇き跡せきを見みせることはせず,いつもの習しゅう慣かん通どおり会かい堂どうに行いきます。イエスが朗ろう読どくのために立たち上あがると,イザヤの巻まき物ものが手て渡わたされます。イエスはその長ながい巻まき物ものを一いっ方ぽうの手てで広ひろげ,もう一いっ方ぽうの手てで巻まき取とりながら,読よみたい箇か所しょを見みつけます。そして,現げん在ざいのイザヤ 61章しょう1-3節せつに当あたる部ぶ分ぶんを朗ろう読どくします。(ルカ 4:16-19)

3 そこはメシアについての預よ言げんが書かかれている所ところで,聴ちょう衆しゅうはその内ない容ようを知しっていたはずです。皆みながじっとイエスを見みつめ,会かい堂どうは静しずまり返かえります。イエスは,「皆みなさんがいま聞きいたこの聖せい句くは,今日きょう実じつ現げんしています」と言いいます。それから聖せい句くの意い味みを詳くわしく説せつ明めいしたと思おもわれます。聴ちょう衆しゅうはイエスが語かたった魅み力りょく的てきな言こと葉ばに驚おどろきますが,まだ多おおくの人ひとが奇き跡せきを見みたいと思おもっていたようです。そこで,イエスは聖せい書しょに書かかれている例れいを使つかい,その人ひとたちに信しん仰こうがないことをはっきり指し摘てきします。それを聞きいたナザレの人ひとたちは,イエスを殺ころそうとします。(ルカ 4:20-30)

4. イエスは宣せん教きょうで何なにを大たい切せつにしていましたか。この章しょうではどんなことを考かんがえますか。

4 この例れいから,イエスが宣せん教きょうで何なにを大たい切せつにしていたかが分わかります。イエスはいつも神かみの言こと葉ばを根こん拠きょとして伝でん道どうしました。もちろん奇き跡せきも,イエスが神かみの聖せいなる力ちからを受うけていることの強きょう力りょくな証しょう拠ことなりました。でもイエスは,聖せい書しょが何なによりも重じゅう要ようだと考かんがえていました。では,イエスが神かみの言こと葉ばを引いん用ようし,攻こう撃げきから守まもり,説せつ明めいする点てんでどんな手て本ほんを残のこしているか考かんがえてみましょう。

神かみの言こと葉ばを引いん用ようした

5. イエスは皆みなにどんなことを知しってほしいと思おもっていましたか。自じ分ぶんの教おしえの出でどころを示しめすために何なにをしましたか。

5 イエスは,自じ分ぶんが伝つたえているメッセージの出でどころを皆みなに知しってほしいと思おもっていました。こう言いっています。「私わたしの教おしえは私わたしのものではなく,私わたしを遣つかわした神かみのものです」。(ヨハネ 7:16)別べつの時ときにはこう言いいました。「私わたし[は]何なに事ごとも自じ分ぶんの考かんがえで行おこなってい[るのではありません。] 父ちちが教おしえてくださった通とおりに,これらのことを話はなしています」。(ヨハネ 8:28)次つぎのように言いったこともあります。「あなたたちに言いうことは,独どく自じの考かんがえで言いっているのではありません。私わたしとずっと結むすび付ついている父ちちが私わたしを通とおして行こう動どうしているのです」。(ヨハネ 14:10)イエスは神かみの言こと葉ばである聖せい書しょを何なん度ども引いん用ようすることにより,自じ分ぶんが確たしかに神かみの教おしえを伝つたえていることを示しめしました。

6-7. (ア)イエスはヘブライ語ご聖せい書しょのどれほどの部ぶ分ぶんから引いん用ようしましたか。それがすごいことだと言いえるのはどうしてですか。(イ)イエスの教おしえ方かたは律りっ法ぽう学がく者しゃたちとどのように違ちがっていましたか。

6 記き録ろくに残のこっているイエスの言こと葉ばをよく調しらべると,イエスがヘブライ語ご聖せい書しょの半はん分ぶん以い上じょうの書しょから引いん用ようしたり,その内ない容ように触ふれたりしたことが分わかります。意い外がいと少すくないと感かんじますか。3年ねん半はんも伝でん道どうして人ひと々びとを教おしえたのに,当とう時じの聖せい書しょの全すべての書しょから引いん用ようしなかったのはどうしてだろう,と思おもうかもしれません。実じっ際さいには,イエスはきっとそうしたに違ちがいありません。記き録ろくに残のこっているのは,イエスが言いったりしたりしたことのごく一いち部ぶにすぎません。(ヨハネ 21:25)福ふく音いん書しょに書かかれているイエスの言こと葉ばを全ぜん部ぶ朗ろう読どくしても,数すう時じ間かんしかかからないでしょう。では,自じ分ぶんが神かみや王おう国こくについて数すう時じ間かんだけ話はなすとしたら,ヘブライ語ご聖せい書しょの半はん分ぶん以い上じょうの書しょから引いん用ようできるだろうか,と考かんがえてみてください。しかもイエスの場ば合あいには,巻まき物ものが手て元もとにないことがほとんどでした。それでも,例たとえば有ゆう名めいな山さん上じょうの垂すい訓くんを語かたった時ときには,ヘブライ語ご聖せい書しょの内ない容ように何なん度ども言げん及きゅうしています。全すべて記き憶おくしていたのです。

7 イエスが聖せい書しょをよく引いん用ようしたことから,神かみの言こと葉ばにどれほど深ふかい敬けい意いを持もっていたかが分わかります。イエスの話はなしを聞きいた人ひとたちは,「その教おしえ方かたに大たい変へん驚おどろ」きました。イエスが「律りっ法ぽう学がく者しゃたちのようにではなく,権けん威いを授さずかった人ひとのように教おしえていたから」です。(マルコ 1:22)律りっ法ぽう学がく者しゃたちは,教おしえる時ときにいわゆる口く伝でん律りっ法ぽうを好このんで引ひき合あいに出だしました。昔むかしの博はく学がくなラビたちの言こと葉ばを引いん用ようしたのです。対たい照しょう的てきにイエスは,自じ分ぶんの教おしえの裏うら付づけとして口く伝でん律りっ法ぽうやラビの言こと葉ばを使つかうことは一いち度どもありませんでした。弟で子したちを教おしえるときにも,間ま違ちがった考かんがえを正ただすときにも,常つねに神かみの言こと葉ばに基もとづいて語かたり,「……と書かいてあります」といった表ひょう現げんを何なん度ども使つかいました。

8-9. (ア)イエスは神しん殿でんを清きよめた時とき,神かみの言こと葉ばに基もとづいて行こう動どうしていることをどのように示しめしましたか。(イ)宗しゅう教きょう指し導どう者しゃたちは神しん殿でんでどのように聖せい書しょに対たいしてひどく不ふ敬けいな態たい度どを取とりましたか。

8 イエスはエルサレムの神しん殿でんを清きよめた時とき,こう言いいました。「『私わたしの家いえは祈いのりの家いえと呼よばれる』と書かいてあるのに,あなた方がたはそれを強ごう盗とうのすみかとしています」。(マタイ 21:12,13。イザヤ 56:7。エレミヤ 7:11)その前ぜん日じつ,イエスは神しん殿でんで多おおくの奇き跡せきを行おこないました。感かん動どうした少しょう年ねんたちがイエスをたたえ始はじめます。しかし,宗しゅう教きょう指し導どう者しゃたちは憤いきどおり,子こ供どもたちが言いっていることが聞きこえるか,とイエスに言いいます。イエスはこう答こたえます。「はい。『あなたは,幼おさない子こ供どもたちの口くちから賛さん美びを生しょうじさせた』とあるのを読よんだことがないのですか」。(マタイ 21:16。詩し編へん 8:2)聖せい書しょに書かかれている預よ言げん通どおりのことが起おきているということを,宗しゅう教きょう指し導どう者しゃたちに知しってほしかったのです。

9 後のちに宗しゅう教きょう指し導どう者しゃたちは一いち団だんとなって,「どんな権けん威いでこうしたことをするのか」とイエスに詰つめ寄よります。(マタイ 21:23)イエスは自じ分ぶんの権けん威いがどこから来きているかをすでにはっきり示しめしていました。自じ分ぶんの考かんがえで新あたらしいことを教おしえていたのではなく,天てんの父ちちの言こと葉ばに基もとづいて教おしえ,行こう動どうしていたにすぎません。ですから,イエスに食くって掛かかった祭さい司しや律りっ法ぽう学がく者しゃたちは,実じっ際さいにはエホバと聖せい書しょに対たいしてひどく不ふ敬けいな態たい度どを取とっていたのです。イエスに魂こん胆たんを暴あばかれ,とがめられたのも当とう然ぜんです。(マタイ 21:23-46)

10. 神かみの言こと葉ばを使つかう点てんでどのようにイエスに見み習ならえますか。イエスの時じ代だいにはなかったどんなツールがありますか。

10 イエスと同おなじように,現げん代だいの本ほん物もののクリスチャンも聖せい書しょを根こん拠きょとして伝でん道どうします。エホバの証しょう人にんは,聖せい書しょからメッセージを伝つたえる人ひとたちとして世せ界かい中じゅうで知しられています。エホバの証しょう人にんの出しゅっ版ぱん物ぶつでは聖せい書しょがよく引いん用ようされます。私わたしたちは伝でん道どうで人ひとと話はなす時ときにも,できるだけ聖せい書しょを使つかいます。(テモテ第だい二に 3:16)聖せい句くを読よんで説せつ明めいしたり,神かみの言こと葉ばがどれほどためになるかについて話はなし合あったりできると,本ほん当とうにうれしいものです。私わたしたちはイエスのような完かん全ぜんな記き憶おく力りょくはありませんが,イエスの時じ代だいにはなかったさまざまなツールを使つかうことができます。ますます多おおくの言げん語ごで出しゅっ版ぱんされている聖せい書しょ全ぜん巻かんに加くわえて,聖せい書しょのメッセージを伝つたえるのに役やく立だつ雑ざっ誌しや本ほんやパンフレットなどがたくさんあります。なるべく聖せい書しょを引いん用ようし,人ひと々びとの注ちゅう意いを聖せい書しょに向むけるように努ど力りょくしましょう。

神かみの言こと葉ばを攻こう撃げきから守まもった

11. イエスが神かみの言こと葉ばを攻こう撃げきから守まもらなければならなかったのはどうしてですか。

11 神かみの言こと葉ばは頻ひん繁ぱんに攻こう撃げきされていましたが,イエスはそのことで動どうじたりしませんでした。天てんの父ちちへの祈いのりの中なかで,「あなたの言こと葉ばは真しん理りです」と言いいました。(ヨハネ 17:17)「世よの支し配はい者しゃ」であるサタンが「うそつきで,うその根こん源げん」だということもよく知しっていました。(ヨハネ 8:44; 14:30)サタンからの誘ゆう惑わくを退しりぞけた時とき,イエスは聖せい書しょを3回かい引いん用ようしました。サタンが詩し編へんの言こと葉ばを自じ分ぶんの都つ合ごうのいいように引いん用ようすると,イエスはサタンが間ま違ちがっていることを示しめして神かみの言こと葉ばを守まもりました。(マタイ 4:6,7)

12-14. (ア)宗しゅう教きょう指し導どう者しゃたちはモーセの律りっ法ぽうをどのように不ふ敬けいに扱あつかっていましたか。(イ)イエスはどのように神かみの律りっ法ぽうを間ま違ちがった教おしえから守まもりましたか。

12 聖せい書しょを間ま違ちがって解かい釈しゃくしたり,神かみの言こと葉ばをねじ曲まげて教おしえたりする人ひとが多おおかったので,イエスはそういう人ひとたちから聖せい書しょを守まもるために奮ふん闘とうしました。当とう時じの宗しゅう教きょう指し導どう者しゃたちは,神かみの言こと葉ばの教おしえ方かたが非ひ常じょうに偏かたよっていました。モーセの律りっ法ぽうを厳げん格かくに守まもるようにと口くちうるさく言いう一いっ方ぽうで,律りっ法ぽうの基もとになっている原げん則そくについてはほとんど教おしえませんでした。そのようにして,体てい裁さいばかりを気きにするうわべだけの崇すう拝はいを人ひと々びとに押おし付つけ,公こう正せいや憐あわれみや忠ちゅう実じつさなどのもっと重じゅう大だいな事こと柄がらを無む視ししていました。(マタイ 23:23)イエスはどのように神かみの律りっ法ぽうを間ま違ちがった教おしえから守まもったでしょうか。

13 山さん上じょうの垂すい訓くんの中なかで,イエスは何なん度ども「あなたたちは,こう命めいじられたのを知しっています」と言いって,モーセの律りっ法ぽうの法ほう令れいを取とり上あげました。そのたびに,「しかし私わたしは言いいます」と続つづけ,法ほう令れいの根こん底ていにある原げん則そくについて説せつ明めいしました。律りっ法ぽうを否ひ定ていしていたのではなく,表ひょう面めん的てきな解かい釈しゃくから守まもっていたのです。例たとえば,「殺さつ人じんをしてはならない」というおきてはよく知しられていましたが,人ひとを憎にくむこともこのおきての基もとになっている考かんがえに反はんしているとイエスは教おしえました。同おなじように,自じ分ぶんの配はい偶ぐう者しゃではない人ひとに情じょう欲よくを抱いだくことは,姦かん淫いんを禁きんじる神かみの律りっ法ぽうの根こん底ていにある原げん則そくに反はんしていると指し摘てきしました。(マタイ 5:17,18,21,22,27-39)

14 イエスはこうも言いいました。「あなたたちは,こう命めいじられたのを知しっています。『隣りん人じんを愛あいし,敵てきを憎にくまなければならない』。しかし私わたしは言いいます。敵てきを愛あいし続つづけ,迫はく害がいする人ひとのために祈いのり続つづけなさい」。(マタイ 5:43,44)「敵てきを憎にくまなければならない」という命めい令れいは,神かみの言こと葉ばに含ふくまれていたでしょうか。そうではなく,これは宗しゅう教きょう指し導どう者しゃたちが勝かっ手てに教おしえていたことでした。神かみの完かん全ぜんな律りっ法ぽうに人にん間げんの考かんがえを混まぜ込こみ,質しつを落おとしていたのです。イエスはそうした人にん間げんの伝でん統とうの有ゆう害がいな影えい響きょうから,神かみの言こと葉ばを勇ゆう敢かんに守まもりました。(マルコ 7:9-13)

15. イエスは,神かみの律りっ法ぽうが非ひ常じょうに厳きびしいものであるかのように思おもわせる人ひとたちから,どのように律りっ法ぽうを守まもりましたか。

15 宗しゅう教きょう指し導どう者しゃたちは,神かみの律りっ法ぽうが非ひ常じょうに厳きびしいものであるかのように思おもわせることによっても,律りっ法ぽうを攻こう撃げきしました。イエスの弟で子したちが畑はたけの中なかを通とおりながら穀こく物もつの穂ほをむしって食たべた時とき,それを見みたパリサイ派はの人ひとたちは安あん息そく日びを守まもっていないと言いって非ひ難なんしました。イエスは聖せい書しょに書かかれている例れいを引ひき合あいに出だして,この極きょく端たんな解かい釈しゃくから神かみの言こと葉ばを守まもりました。空くう腹ふくだったダビデと仲なか間またちが,神かみの家いえの供そなえ物もののパンを食たべたことに触ふれたのです。それは聖せい書しょに記き録ろくされている,祭さい司しではない人ひとが聖せいなるパンを食たべた唯ゆい一いつの例れいです。こうしてイエスは,パリサイ派はの人ひとたちがエホバの憐あわれみや思おもいやりを正ただしく理り解かいしていないことを示しめしました。(マルコ 2:23-27)

16. 宗しゅう教きょう指し導どう者しゃたちはモーセの律りっ法ぽうの離り婚こんに関かんする規き定ていをどう解かい釈しゃくしていましたか。イエスはどうしましたか。

16 宗しゅう教きょう指し導どう者しゃたちは,律りっ法ぽうの抜ぬけ道みちを考かんがえ出だして,神かみの律りっ法ぽうの効こう力りょくを弱よわめることもしていました。一いち例れいとして,律りっ法ぽうによれば,夫おっとは妻つまに「恥はずべき点てん」があるのが分わかった場ば合あいには離り婚こんすることができました。「恥はずべき点てん」とは,家か族ぞくの恥はじとなる重じゅう大だいな問もん題だいのことだと思おもわれます。(申しん命めい記き 24:1)ところがイエスの時じ代だいには,宗しゅう教きょう指し導どう者しゃたちはそれを都つ合ごうよく解かい釈しゃくし,夫おっとはあらゆる理り由ゆうで妻つまと離り婚こんできるとしていました。夕ゆう食しょくを焦こがしたことさえ離り婚こんの根こん拠きょになりました。a イエスは,モーセが聖せいなる力ちからに導みちびかれて語かたった言こと葉ばを彼かれらがひどく曲きょっ解かいしていることを指し摘てきし,結けっ婚こんに関かんするエホバの当とう初しょの基き準じゅんを示しめしました。結けっ婚こんは1人ひとりの男だん性せいと1人ひとりの女じょ性せいの結むすび付つきであり,離り婚こんの正せい当とうな根こん拠きょとなるのは性せい的てき不ふ道どう徳とくだけです。(マタイ 19:3-12)

17. 現げん代だいのクリスチャンは,イエスに見み習ならってどのように神かみの言こと葉ばを攻こう撃げきから守まもれますか。

17 キリストの現げん代だいの弟で子したちも,聖せい書しょを攻こう撃げきから守まもりたいと思おもっています。宗しゅう教きょう指し導どう者しゃたちは,正ただしい生いき方かたに関かんする聖せい書しょの教おしえは時じ代だい遅おくれだとほのめかすことにより,聖せい書しょを攻こう撃げきしています。聖せい書しょの教きょう理りだと言いって間ま違ちがったことを教おしえることもあります。私わたしたちは,神かみが三さん位み一いっ体たいの一いち部ぶではないことを示しめすなどして,神かみの清きよい真しん理りの言こと葉ばを攻こう撃げきから守まもれることを誇ほこらしく思おもっています。(申しん命めい記き 4:39)もちろん,批ひ判はん的てきな言いい方かたはせず,いつでも温おん和わに敬けい意いを込こめて話はなすようにします。(ペテロ第だい一いち 3:15)

神かみの言こと葉ばを説せつ明めいした

18-19. イエスは神かみの言こと葉ばを説せつ明めいするのがとても上じょう手ずでした。どんな例れいからそのことが分わかりますか。

18 ヘブライ語ご聖せい書しょが書かかれた時とき,イエスは天てんにいました。地ち上じょうに来きて神かみの言こと葉ばを説せつ明めいでき,とてもうれしく思おもったことでしょう。一いち例れいとして,復ふっ活かつした後あとにエマオへ向むかう道みちで2人ふたりの弟で子しに会あった時ときのことを考かんがえましょう。最さい初しょイエスだと気き付づかなかった2人ふたりは,愛あいする主しゅ人じんを亡なくして自じ分ぶんたちがどれほど悲かなしみ,動どう揺ようしているかを話はなします。イエスはどうしたでしょうか。「モーセと全すべての預よ言げん者しゃの書しょから始はじめて,聖せい書しょ全ぜん巻かんにある自じ分ぶんに関かん連れんした事こと柄がらを2人ふたりに解とき明あかし」ました。2人ふたりはそれを聞きいてどう思おもったでしょうか。後のちに互たがいにこう言いっています。「あの方かたが道どう中ちゅう,話はなしてくれた時とき,聖せい書しょをはっきり説せつ明めいしてくれた時とき,私わたしたちの心こころは燃もえていたではないか」。(ルカ 24:15-32)

19 その日ひの後ご刻こく,イエスは使し徒とたちや他たの人ひとと会あいました。その時ときにも,「聖せい書しょの意い味みを把は握あくできるよう弟で子したちの思し考こうを十じゅう分ぶんに刺し激げきし」ました。(ルカ 24:45)弟で子したちは,それまでもイエスが何なん度ども同おなじようにしてくれたことを思おもい出だしたに違ちがいありません。イエスはしばしば,よく知しられている聖せい句くを取とり上あげて十じゅう分ぶんに説せつ明めいし,聞きいている人ひとたちが神かみの言こと葉ばをより深ふかく理り解かいして新あたらしいことを学まなべるように助たすけました。

20-21. イエスは,燃もえる木きの所ところでエホバがモーセに語かたった言こと葉ばをどのように説せつ明めいしましたか。

20 ある時とき,イエスはサドカイ派はの人ひとたちにも神かみの言こと葉ばを説せつ明めいしました。サドカイ派はは祭さい司したちとの結むすび付つきが強つよいユダヤ教きょうの教きょう派はで,復ふっ活かつを信しんじていませんでした。イエスは彼かれらにこう言いいました。「死し者しゃの復ふっ活かつに関かんして,神かみが語かたった事こと柄がらを読よまなかったのですか。こう言いっています。『私わたしはアブラハムの神かみ,イサクの神かみ,ヤコブの神かみである』。この方かたは死しんだ人ひとの神かみではなく,生いきている人ひとの神かみです」。(マタイ 22:31,32)この時ときイエスが使つかった聖せい句くは,サドカイ派はの人ひとたちもよく知しっていて,彼かれらが尊そん敬けいするモーセが書かいたものでした。イエスの説せつ明めいにとても説せっ得とく力りょくがあると言いえるのはどうしてでしょうか。

21 モーセが燃もえる木きの所ところでエホバと話はなしたのは,紀き元げん前ぜん1514年ねんごろのことでした。(出しゅつエジプト記き 3:2,6)アブラハムが亡なくなってから329年ねん,イサクが亡なくなってから224年ねん,ヤコブが亡なくなってから197年ねんがたっていました。それでもエホバは,「私わたしは[彼かれらの]神かみである」と言いいました。サドカイ派はの人ひとたちもよく知しっていたように,エホバは死し後ごの世せ界かいを治おさめているとされる異い教きょうの神かみ々がみとは全まったく違ちがいます。イエスが言いった通とおり「生いきている人ひとの」神かみです。では,どんな結けつ論ろんになるでしょうか。イエスの力ちから強づよい説せつ明めいによると,「彼かれらは皆みな,神かみにとっては生いきているのです」。(ルカ 20:38)薄うすれることのない無む限げんの記き憶おくを持もつエホバは,自じ分ぶんに仕つかえた愛あいする人ひとたちが亡なくなってもその人ひとたちのことをずっと覚おぼえていて,確かく実じつに生いき返かえらせます。ですから,その人ひとたちは生いきているも同どう然ぜんなのです。(ローマ 4:16,17)実じつに見み事ごとな説せつ明めいではないでしょうか。それを聞きいた群ぐん衆しゅうが「大たい変へん驚おどろいた」のもうなずけます。(マタイ 22:33)

22-23. (ア)イエスに見み習ならってどのように神かみの言こと葉ばを説せつ明めいできますか。(イ)次つぎの章しょうではどんなことを考かんがえますか。

22 現げん代だいのクリスチャンにも,イエスに見み習ならって神かみの言こと葉ばを説せつ明めいするという素す晴ばらしい役やく割わりが与あたえられています。イエスのように完かん璧ぺきにはできないまでも,会あう人ひとたちと聖せい句くについて話はなし合あえます。相あい手てはその聖せい句くを知しっているとしても,その意い味みを深ふかく考かんがえたことはないかもしれません。例たとえば,「御み名なが崇あがめられますように」とか「御み国くにが来きますように」といった言こと葉ばを知しってはいても,「御み名な」や「御み国くに」が実じっ際さいのところ何なんなのかは聞きいたことがない人ひとがいます。(マタイ 6:9,10,「新しん共きょう同どう訳やく」,日に本ほん聖せい書しょ協きょう会かい)そうしたことを聖せい書しょから分わかりやすく説せつ明めいし,真しん理りを知しってもらえると,本ほん当とうにうれしく感かんじます。

23 ぜひ神かみの言こと葉ばを引いん用ようし,攻こう撃げきから守まもり,説せつ明めいして,イエスのように真しん理りを伝つたえていきましょう。次つぎの章しょうでは,イエスがどのように聖せい書しょの真しん理りを上じょう手ずに教おしえ,聞きく人ひとたちの心こころを動うごかしたか,さらに考かんがえます。

a パリサイ派はの人ひとで離り婚こん歴れきがあった1世せい紀きの歴れき史し家かヨセフスは後のちに,男だん性せいたちがさまざまな理り由ゆうで離り婚こんしていることに触ふれ,「どんな理り由ゆうであれ」離り婚こんは許ゆるされるという考かんがえを示しめしました。

イエスの弟で子しとして考かんがえたいこと

  • 神かみの言こと葉ばより人にん間げんの考かんがえや伝でん統とうを重じゅう視ししてしまうことがないように気きを付つけるべきなのはどうしてですか。(マタイ 15:2-11)

  • 伝でん道どうしていて質しつ問もんされたとき,聖せい書しょから答こたえた方ほうがよいのはどうしてですか。(ルカ 10:25-28)

  • どんな時ときも神かみの預よ言げんに沿そった生いき方かたをしたイエスに,私わたしたちはどのように見み習ならえますか。(ルカ 18:31-34; 22:37)

  • 私わたしたちの信しん条じょうが非ひ難なんされるとき,神かみの言こと葉ばに基もとづいて答こたえるべきなのはどうしてですか。(ヨハネ 10:31-39)

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