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  • イ道 35章 84ページ–91ページ 4節
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イエス 道,真理,命
イ道 35章 84ページ–91ページ 4節
イエスが使徒と弟子たちに山上の垂訓を語っているところ

35章

有ゆう名めいな山さん上じょうの垂すい訓くん

マタイ 5:1–7:29 ルカ 6:17-49

  • 山さん上じょうの垂すい訓くん

イエスは一ひと晩ばん中じゅう祈いのった後のち,弟で子しの12人にんを使し徒ととして選えらびました。すでに日ひは昇のぼっています。イエスは疲つかれているに違ちがいありません。でも,人ひと々びとを助たすけたいと願ねがっており,その力ちからも残のこっています。それで,ガリラヤの山やまの中ちゅう腹ふくで時じ間かんを取とります。そこは,カペルナウムにあるイエスの活かつ動どうの中ちゅう心しん地ちからそれほど遠とおくない場ば所しょと思おもわれます。

大おお勢ぜいの人ひとが遠とおくからイエスの所ところにやって来きています。エルサレムやユダヤなど南みなみの方ほうから来きた人ひともいれば,北ほく西せいの海うみ辺べの町まちティルスやシドンから来きた人ひともいます。何なんのためですか。「イエスの話はなしを聞きくため,また病びょう気きを癒いやしてもらうため」です。そして,イエスは「全すべての人ひとを癒いやし」ていきます。考かんがえてみてください。病びょう気きの人ひとたち全ぜん員いんが癒いやされたのです。さらにイエスは,サタンが率ひきいる「邪じゃ悪あくな天てん使しに苦くるしめられている人ひとたち」も助たすけます。(ルカ 6:17-19)

イエスは山やまの中ちゅう腹ふくで平たいらな場ば所しょを見みつけ,人ひと々びともそこに集あつまります。弟で子したち,特とくに12使し徒とはイエスのすぐそばにいたことでしょう。病びょう気きを癒いやしたり邪じゃ悪あくな天てん使しを追おい出だしたりする人ひとの話はなしをぜひ聞ききたいと皆みなが思おもっています。そこでイエスは教きょう訓くんとなる話はなしをします。この時とき以い来らい,非ひ常じょうに大おお勢ぜいの人ひとたちがこの話はなしから力ちからを得えてきました。イエスがシンプルに分わかりやすく述のべた深ふかい教きょう訓くんは,私わたしたちにも役やく立だちます。イエスは,人ひと々びとが普ふ段だん経けい験けんすることやよく知しっていることを題だい材ざいにして話はなします。そのおかげで,神かみが喜よろこぶ生いき方かたをしたいと願ねがう人ひとは,イエスの話はなしをすぐに理り解かいできます。では,イエスが語かたった大たい切せつな教きょう訓くんを順じゅん番ばんに取とり上あげましょう。

本ほん当とうに幸こう福ふくなのは誰だれか

誰だれもが幸こう福ふくになりたいと願ねがっています。それでイエスは,本ほん当とうに幸こう福ふくなのはどんな人ひとかについて話はなし始はじめます。人ひと々びとはイエスの話はなしを真しん剣けんに聞ききます。しかし,すぐには納なっ得とくできない部ぶ分ぶんもあったでしょう。

イエスはこう話はなします。「神かみの導みちびきが必ひつ要ようであることを自じ覚かくしている人ひとたちは幸こう福ふくです。天てんの王おう国こくはその人ひとたちのものだからです。嘆なげき悲かなしむ人ひとたちは幸こう福ふくです。慰なぐさめられるからです。……正ただしいことを切せつ望ぼうしている人ひとたちは幸こう福ふくです。満みたされるからです。……正ただしいことをして迫はく害がいされてきた人ひとたちは幸こう福ふくです。天てんの王おう国こくはその人ひとたちのものだからです。私わたしのために非ひ難なんされ,迫はく害がいされ……るとき,あなたたちは幸こう福ふくです。喜よろこび,また歓かん喜きしなさい」。(マタイ 5:3-12)

深く悲しんでいた男性が本当に幸福になったところ

イエスはどういう意い味みで「幸こう福ふく」と言いっていたのでしょうか。陽よう気きで愉ゆ快かいな気き分ぶんのことを言いっていたのではありません。幸こう福ふくとはもっと深ぶかいものです。人じん生せいにおける満まん足ぞく感かんや充じゅう実じつ感かんのことです。

イエスが言いう幸こう福ふくな人ひととは,神かみの導みちびきが必ひつ要ようであることを認みとめ,自じ分ぶんの罪つみ深ぶかさを悲かなしみ,神かみを知しって神かみに仕つかえるようになる人ひとのことです。その人ひとは,神かみに従したがうことで憎にくまれ迫はく害がいされても幸こう福ふくです。神かみに喜よろこばれ,永えい遠えんの命いのちという報むくいが与あたえられると知しっているからです。

とはいえ多おおくの人ひとは,経けい済ざい的てきに豊ゆたかで楽たのしければ幸しあわせになれる,と考かんがえています。しかし,イエスは違ちがう見み方かたを示しめします。人ひと々びとに考かんがえさせるため,こう言いいます。「裕ゆう福ふくなあなたたちは悲ひ惨さんです。慰なぐさめを全すべて得えているからです。いま満みたされているあなたたちは悲ひ惨さんです。飢うえるようになるからです。いま笑わらっているあなたたちは悲ひ惨さんです。嘆なげいて泣なき悲かなしむようになるからです。全すべての人ひとがあなたたちのことを良よく言いうとき,あなたたちは悲ひ惨さんです。彼かれらの父ふ祖そも偽にせ預よ言げん者しゃたちにそのようにしたのです」。(ルカ 6:24-26)

神殿の祭壇の横にある大きな塩の山

裕ゆう福ふくになったり,楽たのしく笑わらったり,人ひとから褒ほめられたりするのが悲ひ惨さんなのはなぜでしょうか。そうしたことを重じゅう要よう視しすると,神かみに仕つかえることが後あと回まわしになり,本ほん当とうの幸こう福ふくを得えられなくなる可か能のう性せいがあるからです。イエスは,貧まずしさや飢うえが人ひとを幸こう福ふくにすると言いっていたのではありません。しかし多おおくの場ば合あい,恵めぐまれない状じょう況きょうにある人ひとたちは,イエスの教おしえを受うけ入いれ,本ほん当とうの幸こう福ふくを味あじわいます。

次つぎに,イエスは弟で子したちに,「あなたたちは地ちの塩しおです」と言いいます。(マタイ 5:13)本ほん物ものの塩しおのことではありません。塩しおは保ほ存ぞん料りょうの働はたらきをします。神しん殿でんの祭さい壇だんの近ちかくには大たい量りょうの塩しおが置おかれ,捧ささげ物ものに振ふり掛かけられました。また,塩しおは腐ふ敗はいを防ふせぎます。(レビ記き 2:13。エゼキエル 43:23,24)イエスの弟で子したちも「地ちの塩しお」として,人ひと々びとの心こころを腐ふ敗はいから守まもります。弟で子したちの伝つたえるメッセージは,それを受うけ入いれる人ひとたちの命いのちを保ほ護ごすることができます。

台の上にある火のついたランプ

イエスはさらに,「あなたたちは世よの光ひかりです」と話はなします。ランプは籠かごの下したではなく,周まわりを照てらせるよう台だいの上うえに置おきます。それでイエスはこう勧すすめます。「あなたたちの光ひかりを人ひと々びとの前まえに輝かがやかせなさい。そうすれば,人ひと々びとはあなたたちの立りっ派ぱな行こう動どうを見みて,天てんにいる父ちちをたたえるでしょう」。(マタイ 5:14-16)

弟で子しのための高たかい規き準じゅん

宗しゅう教きょう指し導どう者しゃたちはイエスを律りっ法ぽうの違い反はん者しゃと見みなし,少すこし前まえにもイエスを殺ころそうとしました。それでイエスははっきりこう言いいます。「私わたしが律りっ法ぽうや預よ言げん者しゃの言こと葉ばを取とり消けすために来きた,と考かんがえてはなりません。取とり消けすためではなく,実じつ現げんするために来きました」。(マタイ 5:17)

イエスは神かみの律りっ法ぽうをとても大たい切せつにしており,皆みなにもそうするよう勧すすめます。イエスはこう言いいます。「ですから,小ちいさなおきての1つを破やぶり,そうするよう教おしえる人ひとは,天てんの王おう国こくにふさわしくない者ものと呼よばれます」。これは,王おう国こくに入はいることができないという意い味みです。そして,こう続つづけます。「しかし,そうしたおきてを行おこない,教おしえる人ひとは,天てんの王おう国こくにふさわしい者ものと呼よばれます」。(マタイ 5:19)

とても怒っている男性

イエスは,神かみの律りっ法ぽうを破やぶることにつながる考かんがえ方かたも間ま違ちがっている,と教おしえます。律りっ法ぽうが「殺さつ人じんをしてはならない」と述のべていることに触ふれた後のち,「兄きょう弟だいに対たいして憤いきどおりを抱いだき続つづける人ひとは皆みな,法ほう廷ていに引ひき出だされます」と言いったのです。(マタイ 5:21,22)他たの人ひとに憤いきどおりを抱いだき続つづけるのはとても危き険けんです。殺さつ人じんにつながりかねないからです。それでイエスは,平へい和わを作つくり出だすためにどこまですべきかを次つぎのように説せつ明めいします。「それで,あなたが供そなえ物ものを祭さい壇だんに持もってきて,兄きょう弟だいが自じ分ぶんに対たいして何なにか反はん感かんを抱いだいていることをそこで思おもい出だしたなら,供そなえ物ものを祭さい壇だんの前まえに残のこして,出で掛かけていきなさい。まず兄きょう弟だいと仲なか直なおりし,それから戻もどってきて,供そなえ物ものをささげなさい」。(マタイ 5:23,24)

きれいな女性を見ている男性

律りっ法ぽうには,姦かん淫いんに関かんするおきてもあります。イエスは言いいます。「あなたたちは,こう言いわれているのを知しっています。『姦かん淫いんをしてはならない』。しかし私わたしは言いいます。女じょ性せいを見み続つづけて情じょう欲よくを抱いだく人ひとは皆みな,すでに心こころの中なかで姦かん淫いんをしたのです」。(マタイ 5:27,28)イエスは,頭あたまにふと浮うかぶ不ふ道どう徳とくな考かんがえについてではなく,「見み続つづけ」ることの重じゅう大だいさを教おしえていたのです。見み続つづけるなら欲よく望ぼうがどんどん強つよくなり,機き会かいがあると姦かん淫いんをしてしまうかもしれません。では,何なにができますか。断だん固ことした行こう動どうが必ひつ要ようです。イエスはこう言いいます。「そこで,もし右みぎ目めがあなたに罪つみを犯おかさせているなら,えぐり出だして捨すて去さりなさい。……もし右みぎ手てがあなたに罪つみを犯おかさせているなら,切きり離はなして捨すて去さりなさい」。(マタイ 5:29,30)

人ひとは生いき延のびるために,病びょう気きにひどく侵おかされた手て足あしを切せつ断だんする場ば合あいがあります。イエスが教おしえていたのは,不ふ道どう徳とくな考かんがえや行おこないを避さけるためなら何なんでも「捨すて去さ[る]」ように,ということでした。たとえそれが目めや手てと同おなじくらい大たい切せつなものであっても,そうすべきなのです。「体からだの一いち部ぶを失うしなう方ほうが,全ぜん身しんがゲヘナに落おちるよりは,よいのです」とイエスは説せつ明めいします。ゲヘナとは,エルサレムの城じょう壁へきの外そと側がわにあった燃もえるごみの山やまのことで,永えい遠えんの滅ほろびを表あらわしています。

1人の男性が別の男性に平手打ちをしているところ

イエスは,私わたしたちの心こころや体からだを傷きずつける人ひとにどう対たい処しょすればよいかを教おしえます。「邪じゃ悪あくな人ひとと争あらそってはなりません。右みぎの頬ほおを平ひら手て打うちする人ひとには,もう一いっ方ぽうの頬ほおも向むけなさい」。(マタイ 5:39)これは,襲おそわれた時ときに自じ分ぶんや家か族ぞくを守まもることができないという意い味みではありません。イエスは平ひら手て打うちという言こと葉ばを使つかっています。平ひら手て打うちは,ひどい傷きずを負おわせたり相あい手てを殺ころしたりするというより,侮ぶ辱じょくするための方ほう法ほうです。ですから,誰だれかから実じっ際さいの平ひら手て打うちや侮ぶ辱じょく的てきな言こと葉ばでけんかを吹ふっ掛かけられても,乗のってはならないのです。

このアドバイスは,隣りん人じんを愛あいするようにという神かみの律りっ法ぽうに沿そったものです。それで,イエスはさらにこう教おしえます。「敵てきを愛あいし続つづけ,迫はく害がいする人ひとのために祈いのり続つづけなさい。自じ分ぶんが天てんにいる父ちちの子こであることを示しめすためです。父ちちは悪あく人にんにも善ぜん人にんにも太たい陽ようを昇のぼらせ……てくださるのです」。(マタイ 5:44,45)

イエスは垂すい訓くんのこの部ぶ分ぶんをこう締しめくくります。「ですから,あなたたちは,天てんの父ちちが完かん全ぜんであるように完かん全ぜんでなければなりません」。(マタイ 5:48)これは私わたしたちが完かん璧ぺきになれるということではありません。神かみに倣ならって敵てきをも愛あいするほどの大おおきな愛あいを持もてる,という教おしえです。別べつの言いい方かたをすると,「天てんの父ちちが憐あわれみ深ぶかいように憐あわれみ深ぶかくありなさい」ということです。(ルカ 6:36)

祈いのりと神かみへの信しん頼らい

次つぎにイエスは,「注ちゅう目もくされようとして人ひと前まえで善ぜん行こうをすることがないように注ちゅう意いしなさい」と言いいます。イエスは見みせかけの敬けい虔けんな態たい度どを非ひ難なんし,「憐あわれみの施ほどこしをするとき,偽ぎ善ぜん者しゃたちが……するように,施ほどこす前まえにラッパを吹ふいてはなりません」と言いいます。(マタイ 6:1,2)そうした施ほどこしは,目め立だたないように行おこなう方ほうがよいのです。

自分の部屋に入って戸を閉じてからひざまずいて祈っている男性

さらにイエスは,「祈いのるとき,偽ぎ善ぜん者しゃたちのようであってはなりません。その人ひとたちは,人ひとに見みえるように会かい堂どうの中なかや大おお通どおりの角かどに立たって祈いのることを好このみます」と話はなします。そして,「祈いのるときには,自じ分ぶんの部へ屋やに入はいって戸とを閉とじてから,ひそかな所ところにいる父ちちに祈いのりなさい」と教おしえます。(マタイ 6:5,6)人ひと前まえで祈いのることが良よくないわけではありません。イエスもそうした祈いのりをささげました。祈いのるとき,人ひとを感かん心しんさせて褒ほめ言こと葉ばをもらおうとしてはならない,ということです。

イエスは,「祈いのるとき,異い国こくの人ひと々びとがするように同おなじことを何なん度ども言いってはなりません」と述のべます。(マタイ 6:7)ある事ことについて繰くり返かえし祈いのるのは間ま違ちがっていません。イエスは,覚おぼえたフレーズを「何なん度ども」使つかって機き械かい的てきに祈いのるのはよくない,と言いっていたのです。それからイエスは7つの請せい願がんが含ふくまれている模も範はん的てきな祈いのりを教おしえます。最さい初しょの3つは神かみの支し配はい権けんと神かみの目もく的てきに関かん係けいがあり,神かみの名な前まえが神しん聖せいなものとされること,神かみの王おう国こくが来くること,神かみの意い志しが行おこなわれることを願ねがうものです。それらについて祈いのってから,個こ人じん的てきなことを祈いのれるでしょう。毎まい日にちの食しょく物もつ,罪つみの許ゆるし,誘ゆう惑わくに耐たえる力ちから,邪じゃ悪あくな者ものからの救きゅう出しゅつを願ねがうことができます。

中身があふれかえる宝石箱,金貨,金銀の水差し

私わたしたちにとって所しょ有ゆう物ぶつはどれほど重じゅう要ようですか。イエスはこう話はなしました。「自じ分ぶんのために地ち上じょうに宝たからを蓄たくわえるのをやめなさい。そこでは蛾がやさびがむしばみ,泥どろ棒ぼうが入はいって盗ぬすみます」。イエスの言いう通とおりです。所しょ有ゆう物ぶつは高こう価かであっても失うしなわれやすく,たくさん所しょ有ゆうしているからといって神かみからの評ひょう価かが上あがるわけではありません。それでイエスは,「自じ分ぶんのために天てんに宝たからを蓄たくわえなさい」と教おしえます。神かみへの奉ほう仕しを生せい活かつの中なかで第だい一いちにすることによってそうできます。神かみの前まえでの私わたしたちの良よい立たち場ばや永えい遠えんの命いのちという報むくいを奪うばうことは誰だれにもできません。イエスの次つぎの言こと葉ばは事じ実じつです。「あなたの宝たからのある所ところ,そこにあなたの心こころもあるのです」。(マタイ 6:19-21)

人間の目

イエスはこの点てんを強きょう調ちょうする例たとえを話はなします。「目めは体からだにとって光ひかりです。それで,もし目めの焦しょう点てんが合あっていれば,体からだ全ぜん体たいが明あかるいでしょう。しかし,目めが欲よくで満みちていれば,体からだ全ぜん体たいが暗くらいでしょう」。(マタイ 6:22,23)目めはきちんと働はたらけば,光ひかりを放はなつランプのようになります。しかし,そのためには,目めの焦しょう点てんが合あっていなければなりません。さもないと,誤あやまった判はん断だんをする可か能のう性せいがあります。目めの焦しょう点てんが神かみへの奉ほう仕しよりも所しょ有ゆう物ぶつに合あっていると,私わたしたちの「体からだ全ぜん体たいが暗くら」くなり,暗くらい闇やみの方ほう向こうに進すすんでしまうかもしれません。

イエスはインパクトのある例たとえを語かたります。「誰だれも2人ふたりの主しゅ人じんに奴ど隷れいとして仕つかえることはできません。一いっ方ぽうを憎にくんで他た方ほうを愛あいするか,一いっ方ぽうに尽つくして他た方ほうを軽かるく見みるかです。神かみと富とみとに奴ど隷れいとして仕つかえることはできません」。(マタイ 6:24)

話はなしを聞きいている人ひとたちは,生せい活かつ必ひつ需じゅ品ひんについてどんな見み方かたをすればよいのかと思おもったかもしれません。イエスは,神かみへの奉ほう仕しを第だい一いちにする限かぎり,不ふ安あんに思おもう必ひつ要ようはないと教おしえ,こう言いいます。「鳥とりをよく観かん察さつしなさい。種たねをまいたり,刈かり取とったり,倉くらに集あつめたりはしません。それでも天てんの父ちちは鳥とりを養やしなっています」。(マタイ 6:26)

その山やまに咲さいていた野ののユリはどうですか。イエスは,「栄えい華がを極きわめたソロモンでさえ,このような花はなの1つほどにも装よそおってはいませんでした」と言いいます。何なにを学まなべますか。「神かみが,今日きょうここにあって明日あすかまどに投なげ込こまれる野のの草くさ木きにこのように服ふくを与あたえているなら,ましてあなたたちには服ふくを与あたえてくださるのではないでしょうか。信しん仰こうの少すくない人ひとたち」。(マタイ 6:29,30)イエスはこう教おしえます。「思おもい煩わずらって,『何なにを食たべるのか』,『何なにを飲のむのか』,『何なにを着きるのか』などと言いってはなりません。……天てんの父ちちは,あなたたちがこうしたもの全すべてを必ひつ要ようとしていることを知しっています。ですから,王おう国こくと神かみから見みて正ただしい事こととをいつも第だい一いちにしなさい。そうすれば,こうしたほかのもの全すべても,あなたたちに与あたえられます」。(マタイ 6:31-33)

命いのちを得える方ほう法ほう

使し徒とたちや他たの誠せい実じつな人ひとたちは神かみを喜よろこばせる生いき方かたをしたいと願ねがっています。しかし彼かれらにとって,それは簡かん単たんなことではありません。例たとえば,パリサイ派はは全ぜん体たい的てきに,批ひ判はん的てきで他たの人ひとを厳きびしく裁さばきます。イエスはその影えい響きょうを受うけないよう忠ちゅう告こくし,「裁さばくのをやめなさい。裁さばかれないためです。人ひとを裁さばいているのと同おなじ仕し方かたで,自じ分ぶんも裁さばかれ」ます,と言いいます。(マタイ 7:1,2)

批ひ判はんばかりしているパリサイ派はに従したがうのは危き険けんです。イエスは例たとえを用もちいて,「目めの見みえない人ひとが目めの見みえない人ひとを案あん内ないできるでしょうか。2人ふたりとも穴あなに落おちてしまいませんか」と質しつ問もんします。では,他たの人ひとのことをどう見みるべきでしょうか。決けっして批ひ判はん的てきになるべきではありません。重じゅう大だいな罪つみにつながりかねないからです。イエスは説せつ明めいを続つづけます。「自じ分ぶん自じ身しんの目めの中なかの材ざい木もくが見みえていないのに,どうして,『兄きょう弟だい,あなたの目めの中なかにあるわらを取とり除のぞかせてください』と言いえるのですか。偽ぎ善ぜん者しゃたち! まず自じ分ぶんの目めから材ざい木もくを取とり除のぞきなさい。そうすれば,兄きょう弟だいの目めの中なかにあるわらを取とり除のぞく方ほう法ほうがはっきり分わかるでしょう」。(ルカ 6:39-42)

手のひらいっぱいの真珠。その絵の後方: 数頭のブタ

これは,正ただしいか間ま違ちがいかの判はん断だんをしてはならないという意い味みではありません。イエスは,「聖せいなるものを犬いぬに与あたえてはなりません。真しん珠じゅを豚ぶたの前まえに投なげてもなりません」と言いいました。(マタイ 7:6)神かみの言こと葉ば 聖せい書しょに収おさめられている真しん理りは,貴き重ちょうな真しん珠じゅのようです。もしある人ひとがその貴き重ちょうな真しん理りの価か値ちを全まったく認みとめないなら,弟で子したちは真しん理りを喜よろこんで聞きく別べつの人ひとを探さがすべきです。

1切れのパンを息子に渡している父親

イエスは祈いのりのことに話はなしを戻もどし,祈いのり続つづける大たい切せつさを教おしえてこう言いいます。「求もとめ続つづけなさい。そうすれば与あたえられます」。神かみは祈いのりに答こたえる用よう意いができています。イエスはその点てんを強きょう調ちょうします。「あなたたちのうち誰だれが,自じ分ぶんの子こからパンを求もとめられて,石いしを渡わたすでしょうか。……それで,邪じゃ悪あくな人にん間げんでありながら,あなたたちが子こ供どもに良よい贈おくり物ものを与あたえることを心こころ得えているのであれば,まして天てんにいる父ちちは,ご自じ分ぶんに求もとめている人ひとに良よいものを与あたえてくださるのです」。(マタイ 7:7-11)

イエスは次つぎに,有ゆう名めいな行こう動どう規き準じゅんを教おしえます。それはこのような言こと葉ばです。「ですから,自じ分ぶんにしてほしいと思おもうことは皆みな,人ひとにもしなければなりません」。この助じょ言げんをいつも覚おぼえておき,人にん間げん関かん係けいに当あてはめるのは本ほん当とうに大たい切せつです。しかし,そうするのが難むずかしいときもあります。イエスが教おしえた通とおりです。「狭せまい門もんを通とおって入はいりなさい。滅ほろびに至いたる門もんは広ひろくてその道みちは広ひろ々びろとしており,それを通とおって入はいっていく人ひとは多おおいからです。一いっ方ぽう,命いのちに至いたる門もんは狭せまくてその道みちは狭せばめられており,それを見みいだす人ひとは少すくないのです」。(マタイ 7:12-14)

羊の皮を被っているオオカミ

イエスは,弟で子したちを命いのちに至いたる道みちからそらせようとする人ひとがいることを知しっています。それで,こう警けい告こくします。「羊ひつじの格かっ好こうをしてやって来くる偽にせ預よ言げん者しゃたちに警けい戒かいしていなさい。その人ひとたちは内うち側がわでは,むさぼり食くうオオカミです」。(マタイ 7:15)さらにイエスは,良よい木きか悪わるい木きかはその実みで分わかる,と話はなします。人にん間げんも同おなじです。偽にせ預よ言げん者しゃかどうかはその教おしえと行こう動どうで分わかるのです。ですから,イエスの弟で子しは,言こと葉ばだけでなく行こう動どうで見み分わけられます。では,イエスは自じ分ぶんの主しゅである,と言いっていても,神かみの意い志しを行おこなっていない人ひとはどうなりますか。イエスはこう言いいます。「私わたしははっきり言いいます。『あなたたちのことは全まったく知しりません。不ふ法ほうなことをする人ひとたち,離はなれ去され』」。(マタイ 7:23)

イエスは山さん上じょうの垂すい訓くんの締しめくくりに,次つぎのように話はなします。「私わたしのこれらの言こと葉ばを聞きいて行おこなう人ひとは皆みな,岩いわの上うえに家いえを建たてた思し慮りょ深ぶかい人ひとのようです。大おお雨あめが降ふって洪こう水ずいが押おし寄よせ,風かぜが吹ふいてたたきつけても,その家いえは崩くずれ落おちませんでした。岩いわの上うえに土ど台だいが据すえられていたからです」。(マタイ 7:24,25)家いえが崩くずれなかったのはなぜですか。建たてた人ひとが「地じ面めんを深ふかく掘ほり下さげて岩いわの上うえに土ど台だいを据すえ」たからです。(ルカ 6:48)ですから,イエスの言こと葉ばを聞きくだけではなく,「行おこなう」努ど力りょくをしなければなりません。

では,イエスの「言こと葉ばを聞きいても行おこなわない人ひと」については何なんと言いえますか。その人ひとは「砂すなの上うえに家いえを建たてた愚おろかな人ひとのようです」。(マタイ 7:26)雨あめが降ふり,洪こう水ずいが来きて,風かぜが吹ふくと,その家いえは崩くずれ落おちてしまいます。

人ひと々びとはこの垂すい訓くんを聞きき,イエスの教おしえ方かたに大たい変へん驚おどろきます。権けん威いを授さずかった人ひとのように教おしえ,宗しゅう教きょう指し導どう者しゃたちとは全まったく違ちがっていたからです。話はなしを聞きいた人ひとの多おおくがイエスの弟で子しになったことでしょう。

繰くり返かえし教おしえる

両腕を広げているイエス

イエスは大たい切せつな教きょう訓くんを繰くり返かえし教おしえました。例たとえば,山さん上じょうの垂すい訓くんでは,祈いのり方かたと,物ものに対たいするバランスの取とれた見み方かたを教おしえました。(マタイ 6:9-13,25-34)

それから約やく1年ねん半はん後ご,イエスは同おなじことをもう一いち度ど教おしえました。(ルカ 11:1-4; 12:22-31)これにより,最さい初しょの時ときにその場ばにいなかった人ひとが教きょう訓くんを得えただけでなく,弟で子したちもそれを心こころに刻きざむことができました。

  • イエスは,有ゆう名めいな山さん上じょうの垂すい訓くんをどこで話はなしましたか。そこには誰だれがいましたか。

  • その垂すい訓くんにはどんな大たい切せつな教きょう訓くんが含ふくまれていますか。

  • 本ほん当とうに幸こう福ふくなのは誰だれですか。なぜそう言いえますか。

  • 本ほん当とうに幸こう福ふくな人ひととは対たい照しょう的てきに,どんな人ひとは悲ひ惨さんだと言いえますか。なぜですか。

  • イエスの弟で子したちは「地ちの塩しお」,「世よの光ひかり」です。なぜそう言いえますか。

  • イエスは神かみの律りっ法ぽうを大たい切せつにしていることをどのように示しめしましたか。

  • イエスは殺さつ人じんや姦かん淫いんにつながりかねないことをきっぱり避さけるために何なにをすべきだと教おしえましたか。

  • もう一いっ方ぽうの頬ほおを向むけるとは,どんな意い味みですか。

  • 私わたしたちはどのような意い味みで神かみのように完かん全ぜんであることができますか。

  • イエスは祈いのりについてどんなことを教おしえましたか。

  • 天てんに宝たからを蓄たくわえる方ほうが良よいと言いえるのはなぜですか。どうすればそうできますか。

  • イエスの弟で子しは不ふ安あんに思おもう必ひつ要ようがありません。そう言いえるのはなぜですか。

  • イエスは他たの人ひとを裁さばくことについてどんなことを教おしえましたか。何なにが正ただしいか間ま違ちがいかの判はん断だんをすべき,どんな場ば合あいがありますか。

  • イエスは祈いのりについてさらにどんなことを教おしえましたか。どんな行こう動どう規き準じゅんを教おしえましたか。

  • イエスは自じ分ぶんの弟で子しであるのが簡かん単たんではないことと,命いのちの道みちからそらされる危き険けんについて,どんな説せつ明めいをしましたか。

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