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「来て,私の弟子になりなさい」
追 第15章 150–160ページ

第15章

「かわいそうに思おもった」

目が見えない2人の男性をイエスが癒やしている。

「主しゅよ,目めが見みえるようにしてください」

1-3. (ア)目めが見みえない2人ふたりの人ひとから助たすけてほしいと懇こん願がんされた時とき,イエスはどうしましたか。(イ)「かわいそうに思おも[う]」という表ひょう現げんにはどんな意い味みがありますか。(脚きゃく注ちゅうを参さん照しょう。)

目めが見みえない2人ふたりの人ひとが,エリコに近ちかい道どう路ろの脇わきに座すわっています。毎まい日にちそこにやって来きて,人ひと通どおりの多おおそうな場ば所しょで物もの乞ごいをしているのです。しかしその日ひ,ある出で来き事ごとによって2人ふたりの人じん生せいが大おおきく変かわります。

2 突とつ然ぜん,ざわめきが聞きこえます。2人ふたりは何なにが起おきているのか見みえないので,そのうちの1人ひとりが何なんの騒さわぎなのかと尋たずねると,「ナザレ人じんイエスが通とおっていくのだ!」という答こたえが返かえってきます。イエスがエルサレムに向むかう最さい後ごの旅たびをしているところで,大おお勢ぜいの人ひとが付ついてきています。イエスが通とおると聞きいた2人ふたりは,「主しゅよ,憐あわれみをお掛かけください,ダビデの子こよ!」と叫さけび始はじめます。いら立だった周まわりの人ひとたちから静しずかにしているようにと言いわれますが,2人ふたりは黙だまろうとせず,必ひっ死しに叫さけび続つづけます。

3 騒さわがしい中なか,2人ふたりの叫さけび声ごえがイエスの耳みみに届とどきます。イエスはどうするでしょうか。ちょうど地ち上じょうでの最さい後ごの週しゅうを迎むかえようとしているところで,気き掛がかりなことがたくさんあります。エルサレムでひどい目めに遭あって殺ころされることも分わかっています。でも,2人ふたりの必ひっ死しの願ねがいを聞きき流ながしたりはしません。立たち止どまり,叫さけんでいる人ひとたちを連つれてくるように頼たのみます。2人ふたりが「主しゅよ,目めが見みえるようにしてください」と懇こん願がんすると,イエスは「かわいそうに思おもい」,2人ふたりの目めに触ふれます。a すると2人ふたりは目めが見みえるようになり,すぐにイエスの後あとに従したがいます。(ルカ 18:35-43。マタイ 20:29-34)

4. イエスは,「立たち場ばが低ひくい人ひと……を哀あわれに思おも」うという預よ言げんの通とおり,どのように行こう動どうしましたか。

4 イエスはこの時ときだけでなく,いろいろな時ときに深ふかい思おもいやりを示しめしました。聖せい書しょにはイエスが「立たち場ばが低ひくい人ひと……を哀あわれに思おも」うことが預よ言げんされていました。(詩し編へん 72:13)その言こと葉ば通どおり,イエスは人ひとの気き持もちに寄より添そい,進すすんで人ひとを助たすけました。伝でん道どうしたのも,思おもいやりがあったからこそです。では,イエスの言げん動どうにどのように思おもいやりが表あらわれていたか,福ふく音いん書しょを調しらべ,どのようにイエスの思おもいやりに倣ならえるかを考かんがえましょう。

人ひとの気き持もちに配はい慮りょした

5-6. イエスが心こころから人ひとに感かん情じょう移い入にゅうしたどんな例れいがありますか。

5 イエスは心こころから人ひとに感かん情じょう移い入にゅうしました。苦くるしんでいる人ひとたちを見みると,自じ分ぶんのことのように感かんじました。その人ひとたちと同おなじ経けい験けんをしたことがなくても,どれほどつらいかを感かんじ取とりました。(ヘブライ 4:15)12年ねん間かんも出しゅっ血けつが続つづいていた女じょ性せいを癒いやした時ときには,その女じょ性せいが「つらい病びょう気き」で大たい変へんな思おもいをしてきたことへの理り解かいを示しめしました。(マルコ 5:25-34)ラザロが亡なくなった時ときには,マリアや周まわりの人ひとたちが泣ないて悲かなしんでいるのを見みて,心こころを揺ゆさぶられました。自じ分ぶんがこれからラザロを生いき返かえらせることは分わかっていましたが,同どう情じょうして涙なみだを流ながさずにはいられませんでした。(ヨハネ 11:33,35)

6 またある時とき,重おもい皮ひ膚ふ病びょうの人ひとがイエスの所ところに来きて,治なおしてほしいと嘆たん願がんし,「あなたは,お望のぞみになるだけで,私わたしを癒いやすことができます」と言いいました。イエスは完かん全ぜんな人ひとで病びょう気きになったことがありませんでしたが,その人ひとに心こころから同どう情じょうし,「かわいそうに思おもい」ました。(マルコ 1:40-42)それから,普ふ通つうでは考かんがえられないことをします。律りっ法ぽうによれば,重おもい皮ひ膚ふ病びょうの人ひとは汚けがれていて,ほかの人ひとから離はなれていなければなりませんでした。(レビ記き 13:45,46)イエスはその人ひとに触ふれずに癒いやすこともできたでしょう。(マタイ 8:5-13)しかし,あえて手てを伸のばしてその人ひとに触さわり,「そう望のぞみます。良よくなりなさい」と言いいました。すると,すぐに病びょう気きは跡あと形かたもなく治なおりました。イエスの優やさしい思おもいやりが伝つたわってきます。

姉妹が別の姉妹を慰めている。

人ひとをいたわりましょう

7. どうすれば感かん情じょう移い入にゅうできるようになりますか。思おもいやりはどのように表あらわれますか。

7 クリスチャンである私わたしたちは,イエスに見み習ならって人ひとに感かん情じょう移い入にゅうする必ひつ要ようがあります。聖せい書しょには,人ひとを「いたわる」ようにと書かかれています。b (ペテロ第だい一いち 3:8)慢まん性せい的てきな病びょう気きやうつ病びょうなどに苦くるしんでいる人ひとの気き持もちを理り解かいすることは,そういう経けい験けんがない人ひとにとって簡かん単たんではないかもしれません。でも,同おなじ経けい験けんをしていなければ感かん情じょう移い入にゅうできないということはありません。イエスは病びょう気きになったことがありませんでしたが,病びょう気きの人ひとに感かん情じょう移い入にゅうしました。では,どうすれば感かん情じょう移い入にゅうできるようになるでしょうか。大たい切せつなのは,苦くるしんでいる人ひとがつらい気き持もちを話はなしてくれる時ときに親しん身みになって耳みみを傾かたむけることです。「自じ分ぶんが相あい手ての立たち場ばだったらどう感かんじるだろう」と考かんがえてください。(コリント第だい一いち 12:26)人ひとの気き持もちを敏びん感かんに感かんじ取とれるようになればなるほど,「気き落おちしている人ひとに慰なぐさめの言こと葉ばを掛かけ」るのが上じょう手ずになります。(テサロニケ第だい一いち 5:14)思おもいやりが言こと葉ばだけでなく涙なみだに表あらわれることもあるでしょう。ローマ 12章しょう15節せつには,「泣なく人ひとと一いっ緒しょに泣なきましょう」とあります。

8-9. イエスが人ひとの気き持もちをよく考かんがえて行こう動どうしたどんな例れいがありますか。

8 イエスはいつも人ひとの気き持もちをよく考かんがえて行こう動どうしました。耳みみが聞きこえず言げん語ご障しょう害がいのある男だん性せいがイエスのもとに連つれてこられた時ときのことを考かんがえましょう。イエスはその人ひとの不ふ安あんそうな様よう子すに気き付づいたようで,人ひとを癒いやす時ときに普ふ段だんしないことをしました。「群ぐん衆しゅうの中なかからその男だん性せいだけを連つれて」いき,誰だれにも見みられない所ところで癒いやしたのです。(マルコ 7:31-35)

9 目めが見みえない男だん性せいを人ひと々びとが連つれてきて,治なおしてほしいと頼たのんだ時ときも,イエスは同おなじように思おもいやり深ぶかく行こう動どうしました。「目めが見みえない男だん性せいの手てを取とって村むらの外そとに連つれて」いき,段だん階かい的てきに癒いやしたのです。そのおかげで,男だん性せいは目めに映うつるまぶしい光こう景けいに少すこしずつ慣なれ,何なにを見みているかを徐じょ々じょに理り解かいできるようになったことでしょう。(マルコ 8:22-26)本ほん当とうに素す晴ばらしい配はい慮りょです。

10. 人ひとの気き持もちを考かんがえている人ひとはどのように行こう動どうしますか。

10 イエスの弟で子しである私わたしたちも,人ひとの気き持もちを考かんがえて行こう動どうしなければなりません。例たとえば,話はなし方かたに気きを付つけます。軽けい率そつに話はなすと人ひとを傷きずつけてしまうことがあるからです。(格かく言げん 12:18; 18:21)人ひとの気き持もちに寄より添そうクリスチャンは,きついことを言いったり,人ひとをけなしたり,皮ひ肉にくを言いったりはしません。(エフェソス 4:31)長ちょう老ろうは,人ひとの気き持もちに配はい慮りょしていることをどのように示しめせるでしょうか。助じょ言げんを与あたえるときには,相あい手ての尊そん厳げんを傷きずつけないように,親しん切せつな言いい方かたをしましょう。(ガラテア 6:1)親おやは,どのように子こ供どもの気き持もちに配はい慮りょできるでしょうか。子こ供どもを正ただす必ひつ要ようがあるときにも,不ふ必ひつ要ように恥はずかしい思おもいをさせないようにします。(コロサイ 3:21)

進すすんで人ひとを助たすけた

11-12. イエスが人ひとに頼たのまれなくても思おもいやりを示しめしたどんな例れいがありますか。

11 イエスは人ひとに頼たのまれなくても思おもいやりを示しめしました。本ほん当とうに思おもいやりがある人ひとは,いつも受うけ身みでいるのではなく,自じ分ぶんから進すすんで人ひとを助たすけます。イエスもそうでした。一いち例れいとして,大おお勢ぜいの人ひとが食たべ物ものも持もたずにイエスと3日か過すごした時とき,誰だれもイエスに,皆みながおなかをすかせているから何なんとかしてほしいと頼たのむ必ひつ要ようはありませんでした。聖せい書しょにこう書かかれています。「イエスは弟で子したちを呼よんで,言いった。『群ぐん衆しゅうがかわいそうです。私わたしと共ともに3日かいて,食たべる物ものがないのです。空くう腹ふくのまま去さらせたくありません。途と中ちゅうで倒たおれてしまうかもしれません』」。それからイエスは自じ分ぶんの意い思しで奇き跡せきを行おこなって群ぐん衆しゅうに食たべ物ものを与あたえました。(マタイ 15:32-38)

12 別べつの例れいも考かんがえましょう。西せい暦れき31年ねん,イエスはナインという町まちの近ちかくで悲かなしい光こう景けいを目めにします。葬そう式しきの行ぎょう列れつが町まちから出でてきて,近ちかくの丘おかの斜しゃ面めんにある墓ぼ地ちに向むかうようです。亡なくなったのは,ある「やもめ」の「一人ひとり息子むすこ」でした。この母はは親おやがどれほどつらい気き持もちだったか,容よう易いに想そう像ぞうできます。悲かなしみを分わかち合あえる夫おっともいません。たくさんの人ひとがいる中なかで,イエスはそのやもめに注ちゅう目もくし,「かわいそうに思おもい」ました。誰だれに頼たのまれたわけでもありませんでしたが,同どう情じょう心しんから行こう動どうせずにはいられませんでした。それで,「遺い体たいを載のせた台だいに近ちかづいて触さわ」り,若わか者ものを生いき返かえらせました。それからどうしたでしょうか。自じ分ぶんに同どう行こうしていた大おお勢ぜいの人ひとたちに加くわわるようその若わか者ものに求もとめたりはせず,「息子むすこを母はは親おやに渡わたし」ました。その2人ふたりがまた一いっ緒しょに暮くらして,やもめが世せ話わを受うけられるようにしたのです。(ルカ 7:11-15)

年配の姉妹が花を植えるのを若い姉妹が手伝っている。

困こまっている人ひとを進すすんで助たすけましょう

13. 困こまっている人ひとがいたら,イエスに見み習ならってどのように助たすけることができますか。

13 私わたしたちはどのようにイエスの手て本ほんに倣ならえるでしょうか。もちろん,奇き跡せきを行おこなって食たべ物ものを与あたえたり人ひとを生いき返かえらせたりすることはできませんが,イエスのように自じ分ぶんから進すすんで人ひとを助たすけることができます。例たとえば,兄きょう弟だい姉し妹まいがお金かねに困こまっていたり,失しつ業ぎょうしていたりするかもしれません。(ヨハネ第だい一いち 3:17)やもめの姉し妹まいが家いえの修しゅう理りを緊きん急きゅうに必ひつ要ようとしているかもしれません。(ヤコブ 1:27)家か族ぞくを亡なくした兄きょう弟だい姉し妹まいが,慰なぐさめや手て伝つだいを必ひつ要ようとしている場ば合あいもあるでしょう。(テサロニケ第だい一いち 5:11)本ほん当とうに助たすけを必ひつ要ようとしている人ひとがいるなら,頼たのまれなくても行こう動どうしましょう。(格かく言げん 3:27)思おもいやりがあれば,自じ分ぶんにできることをして助たすけたいと思おもうことでしょう。たとえそれがちょっとした親しん切せつや心こころのこもった一ひと言ことだとしても,思おもいやりは十じゅう分ぶんに伝つたわるものです。(コロサイ 3:12)

思おもいやりの気き持もちから伝でん道どうした

14. 良よい知しらせを伝つたえる活かつ動どうをイエスが何なによりも大たい切せつにしたのはどうしてですか。

14 この本ほんのセクション2で考かんがえたように,イエスは良よい知しらせを伝つたえる点てんで素す晴ばらしい手て本ほんを残のこしました。こう言いっています。「私わたしはほかの町まちにも神かみの王おう国こくの良よい知しらせを広ひろめなければなりません。そのために遣つかわされたからです」。(ルカ 4:43)イエスがこの活かつ動どうを何なによりも大たい切せつにしたのは,主おもに神かみを愛あいしていたからでした。でも,人ひとを心こころから思おもいやり,神かみとの絆きずなを強つよめられるように助たすけたいと思おもったからでもありました。イエスはいろいろな方ほう法ほうで思おもいやりを示しめしましたが,一いち番ばん大だい事じだったのは,神かみを正ただしく知しらず満みたされない気き持もちでいる人ひとたちを助たすけることでした。では,イエスがそういう人ひとたちのことをどう思おもっていたかが分わかる出で来き事ごとを2つ考かんがえましょう。私わたしたちもどういう気き持もちで伝でん道どうすべきかが分わかります。

15-16. どんな2つの出で来き事ごとから,一いっ般ぱんの人ひとに対たいするイエスの見み方かたが分わかりますか。

15 イエスは2年ねんほど精せい力りょく的てきに宣せん教きょうを行おこなった後あと,西せい暦れき31年ねんにガリラヤの「全すべての町まちや村むらを旅たびして回まわり」,より徹てっ底てい的てきに伝でん道どうすることにします。その時ときのことについて,マタイはこう書かいています。「イエスは……群ぐん衆しゅうを見みて,かわいそうに思おもった。羊ひつじ飼かいのいない羊ひつじのように痛いためつけられ,放ほうり出だされていたからである」。(マタイ 9:35,36)イエスは一いっ般ぱんの人ひとたちに同どう情じょうしました。その人ひとたちが神かみのことをよく知しらず,惨みじめな状じょう態たいにあったからです。導みちびいてくれるはずの宗しゅう教きょう指し導どう者しゃたちからひどい扱あつかいを受うけ,全まったく教おしえてもらっていませんでした。イエスは深ふかい同どう情じょう心しんから,人ひと々びとに希き望ぼうのメッセージを伝つたえるために奮ふん闘とうしました。彼かれらは神かみの王おう国こくの良よい知しらせを何なによりも必ひつ要ようとしていたのです。

16 しばらくして,西せい暦れき32年ねんの過すぎ越こしが近ちかづいた頃ころ,同おなじようなことがありました。その時ときイエスと使し徒とたちは舟ふねに乗のり,ガリラヤ湖こを渡わたって静しずかな場ば所しょで休やすもうとしていました。ところが,群ぐん衆しゅうが岸きしに沿そって走はしり,舟ふねより先さきに向むこう岸ぎしに着ついてしまいます。イエスはどうしたでしょうか。こう書かかれています。「イエスは舟ふねを下おり,大おお勢ぜいの人ひとを見みて,かわいそうに思おもった。羊ひつじ飼かいのいない羊ひつじのようだったからである。そして,多おおくのことを教おしえ始はじめた」。(マルコ 6:31-34)この時ときも,イエスは神かみをよく知しらない人ひとたちの惨みじめな状じょう態たいを見みて「かわいそうに思おも」いました。彼かれらはいわば「羊ひつじ飼かいのいない羊ひつじ」のようにおなかをすかせ,さまよっていたのです。イエスがその人ひとたちに伝でん道どうしたのは,単たんなる義ぎ務む感かんからではなく,その人ひとたちのことを思おもいやったからです。

姉妹が伝道で会った女性に思いやり深く話している。

思おもいやりの気き持もちから伝でん道どうしましょう

17-18. (ア)私わたしたちが伝でん道どうを大たい切せつにするのはどうしてですか。(イ)どうすれば人ひとへの思おもいやりを深ふかめることができますか。

17 イエスの弟で子しである私わたしたちが伝でん道どうを大たい切せつにするのはどうしてでしょうか。この本ほんの第だい9章しょうで考かんがえたように,私わたしたちは伝でん道どうして人ひと々びとを弟で子しとする任にん務むを与あたえられています。(マタイ 28:19,20。コリント第だい一いち 9:16)とはいえ,単たんなる義ぎ務む感かんから伝でん道どうするのではありません。何なによりも,エホバを愛あいしているので,エホバの王おう国こくの良よい知しらせを伝つたえます。さらに,エホバを知しらない人ひとたちへの思おもいやりから伝でん道どうします。(マルコ 12:28-31)では,どうすれば人ひとへの思おもいやりを深ふかめることができるでしょうか。

18 エホバを知しらない人ひとたちに対たいして,イエスと同おなじ見み方かたをする必ひつ要ようがあります。「羊ひつじ飼かいのいない羊ひつじのように痛いためつけられ,放ほうり出だされて」いる人ひとたちと見みるのです。迷まい子ごの子こ羊ひつじを見みつけたところを想そう像ぞうしてみてください。牧ぼく草そう地ちや水みず場ばに連つれていってくれる羊ひつじ飼かいがいないので,その子こ羊ひつじはおなかをすかせていて,喉のども渇かわいています。かわいそうに思おもうのではないでしょうか。何なんとかして食たべ物ものや水みずを与あたえようとすることでしょう。まだ良よい知しらせを聞きいたことがない多おおくの人ひとは,この子こ羊ひつじのようです。頼たよりになる牧ぼく者しゃがいないので,心こころが飢うえ渇かわいていて,将しょう来らいに希き望ぼうを持もてないでいます。私わたしたちは,そういう人ひとたちが必ひつ要ようとしているものを持もっています。聖せい書しょから得えられる,心こころを養やしなう食しょく物もつと,心こころに染しみる真しん理りの水みずです。(イザヤ 55:1,2)真しん理りを知しらずにいわば迷まい子ごになっている人ひとたちのことを考かんがえると,私わたしたちはかわいそうに思おもいます。イエスのようにそういう人ひとたちへの深ふかい思おもいやりがあれば,王おう国こくの希き望ぼうを伝つたえるためにできる限かぎりのことをせずにはいられなくなります。

19. 聖せい書しょを学まなんでいる人ひとが伝でん道どうに参さん加かする資し格かくを満みたしているなら,伝でん道どう者しゃになるようどのように励はげませますか。

19 他たの人ひとがイエスの手て本ほんに倣ならえるよう,どのように助たすけられるでしょうか。伝でん道どうに参さん加かするよう,聖せい書しょを学まなんでいる人ひとやしばらく伝でん道どうをしていない仲なか間まを励はげましたい場ば合あいのことを考かんがえてみましょう。ポイントは,行こう動どうしたいという気き持もちを起おこさせることです。イエスは人ひと々びとのことを「かわいそうに思おもった」ので,進すすんで教おしえました。(マルコ 6:34)それで,イエスのように良よい知しらせを伝つたえたいと思おもってもらうには,人ひとへの思おもいやりを深ふかめられるように助たすけることが大たい切せつです。こんなふうに尋たずねてみることもできます。「神かみの王おう国こくについて知しることができて,どんなことが良よかったと思おもいますか。まだ王おう国こくについて知しらない人ひとたちにとって,良よい知しらせを聞きくことはどれほど大たい切せつだと思おもいますか。どうしたらそういう人ひとたちの助たすけになれると思おもいますか」。もちろん,私わたしたちが宣せん教きょうを行おこなう主おもな理り由ゆうは,神かみを愛あいしていて,神かみに仕つかえたいと思おもっているからです。

20. (ア)イエスの弟で子しになるにはどんなことが必ひつ要ようですか。(イ)次つぎの章しょうではどんなことを考かんがえますか。

20 イエスの弟で子しになるには,単たんにイエスの言げん動どうをまねればよいというわけではありません。イエスと同おなじ「考かんがえ方かた」ができるようになる必ひつ要ようがあります。(フィリピ 2:5)イエスがどんな思おもいで行こう動どうしたかが聖せい書しょに書かかれているおかげで,私わたしたちは「キリストの考かんがえ」を知しることができます。それによって,イエスのように人ひとの気き持もちに寄より添そい,心こころからの思おもいやりを示しめせるようになります。(コリント第だい一いち 2:16)次つぎの章しょうでは,イエスが特とくに弟で子したちにどのように愛あいを表あらわしたかを考かんがえます。

a 「かわいそうに思おも[う]」と訳やくされている言こと葉ばは,ギリシャ語ごで特とくに深ふかい思おもいやりを意い味みする言こと葉ばだといわれています。ある資し料りょうによると,この言こと葉ばは「人ひとの苦くるしみを見みて感かんじるつらい気き持もちだけでなく,その苦くるしみを和やわらげ,取とり除のぞいてあげたいという強つよい願ねがいも」伝つたえています。

b 「いたわる」と訳やくされているギリシャ語ごの言こと葉ばには,「共ともに苦くるしんでいる」という意い味みがあります。

イエスの弟で子しとして考かんがえたいこと

  • イエスは自じ分ぶんに従したがう人ひとたちにどのように思おもいやりを示しめしましたか。監かん督とくしたり教おしえたりする人ひとはどのようにイエスに見み習ならえますか。(マタイ 11:28-30)

  • イエスの手て本ほんに倣ならって人ひとに憐あわれみや思おもいやりを示しめすのが大たい切せつなのはどうしてですか。(マタイ 9:9-13; 23:23)

  • イエスのどんな行こう動どうから,人ひとの気き持もちをよく理り解かいしていたことが分わかりますか。どのようにイエスの手て本ほんに倣ならえますか。(ルカ 7:36-50)

  • 思おもいやりは行こう動どうに表あらわれるということが,親しん切せつなサマリア人じんの例たとえ話ばなしからどのように分わかりますか。このサマリア人じんに見み習ならってどんなことができますか。(ルカ 10:29-37)

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